連載短編小説『人生は変数 』

連載短編小説

人間の成長には、誰にも頼れず、完全に自分ひとりで通らなければならない「孤独の隧道」のような場所がある

人間の成長には、誰にも頼れず、完全に自分ひとりで通らなければならない「孤独の隧道」のような場所がある

誰かがトンネルの入口まで一緒に来てくれることはある。懐中電灯を渡してくれる人もいる。でも、実際に暗闇の中を歩くのは自分自身である。

 四十九歳になった秋、南尾想(みなみお そう)の人生からは、一切の色彩が消え失せていた。13年という歳月を積み上げたはずの結婚生活は、あまりにも呆気なく、一枚の離婚届によって霧散した 。
「あなたを、許すことはできない」妻・沙織の冷徹な声が今も耳底に澱(おり)のように溜まっている。たった一度の不実(浮気)。それは彼女にとって、何万回、何十万回と想を責め立てるための正義の剣となった。想が抱いた身を切るような罪悪感を、彼女は『完璧な被害者』という仮面を被り続けるためのガソリンにしていたのだ。想はその残り火で焼かれるように、離婚の条件をすべて呑み、娘と引き離される運命さえも「罰」として受け入れた。
 離婚届を出してから、季節が二度巡った。その間、私は一度も自分を許したことはなかった。狭いアパートで独り、娘の写真を眺めては、自分の軽率な過ちが奪ったものの大きさを噛みしめていた。送金し続ける養育費は、自分にとっての免罪符であり、彼女への、せめてもの償いのつもりだった。
彼女が「許さない」と言ったあの言葉を、私は聖書のように守り、孤独という罰に甘んじてきたのだ。しかし、元妻と共通の友人から投げつけられた言葉は、その贖罪の日々を根底からあざ笑うものだった。
「沙織、再婚したらしいよ」
離婚届のインクが乾き、ひとりきりの生活にようやく慣れ始めた頃だった。友人から投げつけられた言葉は、平穏を取り戻しかけていた私の背後から容赦なく心臓を貫いた。「相手はなんと、俺たちのゼミ先輩だった北山先輩らしいよ」
心臓が嫌な音を立てて脈打つ。喉の奥が熱くなり、吐き気がせり上げた。再婚相手の名を聞いた瞬間、パズルのピースが次々と嵌(は)まっていった。その男の名は、結婚生活の端々で『相談相手』として元妻から名前が出ていた。
聞き出した事実は、残酷なまでに明快だった。ふたりの関係は、私と沙織が誓いを立てる前から、そして13年の歳月の裏側で途切れることなく続いていたのだ。そして「罰」だと思っていた2年間は、彼女にとっては「乗り換え」のための、単なる調整期間に過ぎなかったのだ。

その瞬間、想の世界は音を立てて崩れ落ちた。かつて見上げた高く澄んだ青空は、一瞬にしてどす黒い渦を巻く闇へと反転した。娘を囲んで笑い合った誕生日も、苦楽を共にした日々も、すべては精巧に塗り固められた「まやかし」に過ぎなかった。

自分が守ろうとしていた幸せは、砂上の楼閣ですらなかった。底なしの沼の上に描かれた、虚像の絵画だったのだ。信じていたすべてが深い失望と絶望に塗りつぶされ、出口のない闇の底へと沈んでいった。
今の自分は、まさにその暗がりの中にいる。
前を見ても後ろを振り返っても、光は見えない。
鏡に映る自分はよき父だった頃の面影など微塵もなかった。
ただ、長年手入れを怠り、離婚前より10キロ太った情けない男がそこに立っていた。

つづく

連載短編小説『人生は変数 』

連載短編小説『人生は変数 』

ミステリー、を書いていきます。と思っています。

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • 成人向け
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2026-04-22

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