列車が停まる
①とある青年作家を告発する
②事実は後で決まるもの
③再度名を知る
④幻惑を捉える
→⑤列車が停まる
ただ別に読んでなくても良いつもり。
1/4
ジェイが置いていった食器を代わりに拭き終え、その食器を食器棚に戻した後、壁の時計を見やりました。朝10時少し過ぎ。普段よりいくらかゆったりしているのは、今日が日曜日だからです。とは言え旦那様はお仕事で早朝に出かけており、お嬢様はご学友と女子会だそうで、お屋敷にいるのは僕とジェイとイヴァンだけです。僕とジェイは厨房で食器や調理器具の片付け、イヴァンは今は広間の掃除をしているはずでした。
来客用ベルが鳴ったのは10分ほど前でしょうか。僕たちは事前に話を聞いていないことを確認し、僕が聞いていないということはイヴァンも知らないだろうということで、ジェイが拭きかけの食器を置いて対応に向かうことになりました。おそらくは日曜で旦那様が在宅していることを見込んだ誰かの訪問、珍しいことではありません。お引き取りと、可能であれば前もって連絡が欲しいことを失礼なく伝える役は、子供の僕やイヴァンより大人のジェイが担ったほうがスムーズでした。
しかし10分とは相手も粘るものです。余程の急用で、旦那様のいるところに連絡を取れだとか、中で待たせろだとか言っているのでしょうか。この冬の季節に外で待っておけとは酷ですが、押し問答している間も寒いだろうに。今日も窓には霜が下りていました。いくら陽が射していても冬の寒さは身に堪えるものです。
玄関口に出てみると、大した風もないのに冷え込んだ空気が上着を抜けて貼りついてきました。つい鼻を啜ってから顔を上げてすぐ、門扉の向こうで立っている人影に足が止まりました。ジェイとおそらくは僕と同じで様子を見に来たのであろうイヴァンの後ろ姿の向かいに対峙していたのは、僕たちのかつてのお館様、ロビン・ローエンに成り済ましているオリバーさんだったのです。
話の途中で僕に気付いたらしく、オリバーさんは呑気に片手を上げました。
「おはよう、トニー。久しぶりだね。ちょっと背が伸びた?」
「おはようございます。それしかネタがないんですね」
ジェイは不遜な態度に顔を強張らせましたが、構わず間に割り込みました。イヴァンはオリバーさんの手の紙袋を指差しました。
「お礼を持ってきたんだって」
「なんの」
「そんなの決まってるだろう。いろいろとお世話になったからね。改めて感謝の気持ちを伝えに参上した」
イヴァンと話しているのに横から顔を覗かせ、これ見よがしに有名菓子店のロゴが入った紙袋をアピールしてきます。参上ではなく推参の間違いだと言いかけた僕を押しのけ、今度はジェイが割って入ってきました。
「先程から申し上げている通り、主人の命令で受け取れないのです。
今日は日曜ですが仕事で出ており、確認も取れませんので。大変心苦しいのですが、出直していただくか、事前にご連絡を取っていただきませんと」
「連絡したって通してくれるはずがないから、無礼を承知で直接来たのですよ。学校よりはいいと思って。グレイ先生には嫌われているもので」
オリバーさんは穏やかで含みのない表情でしたが、常人にはない超然としたオーラを漂わせています。ジェイは気圧されたように口を噤みました。無論その異様な圧倒感は、僕からすれば少しも不思議ではありませんでしたが。
もしあの男が来ても屋敷に入れてはならないし、何かを受け取るのもいけない。何を言ってでも絶対に追い返すこと。
オリバーさんに関する僕たちへの申し付けはそれだけでした。いつもの旦那様らしくない冷たい指令にジェイは驚いていましたし、一緒に聞いていたお嬢様も不満げに言い募りました。いくら問われても旦那様はそれ以上語りませんでした。
旦那様と僕とイヴァンだけが知っていることは、今でも変わらず旦那様と僕とイヴァンだけが知っていることのままです。大人のジェイはともかくお嬢様も何も聞いてこないので、空気を読んでいるのか、それとも旦那様が予め釘を刺しているのかはわかりませんが、僕たちがオリバーさん、いえ、ややこしいですがジェイとお嬢様にとっては作家ロビン・ローエンです。いろいろと一段落ついてからというもの、彼の話をすることはありませんでした。
今になって急に疑惑の当人が現れ、しぶとく粘られるものだから困っていたら、場を訝しんだイヴァンと僕が出てきたということでしょう。オリバーさんからすれば、嫌われていると言っているくらいなので、気持ちの良い反応は期待していなかったように思います。
じゃあ何をしに来たのか。グレイ先生なんて、嫌われているくせに妙に親しげだし。目が合うとオリバーさんは意味ありげににこっと笑いました。
とにかく帰ってもらわないと。普段のお客様なら僕よりジェイですが、オリバーさんは僕のほうが話を聞いてくれそうです。前に出てきたジェイより更に踏み出し、率直に伝えようとしたときでした。
びっくりして言葉が飛びました。僕の不審な様子につられてオリバーさんも背後を振り返りました。
「だ、旦那様! どうしたんですか、そんな徒歩で!」
並んで立っているジェイやイヴァンも同じタイミングで気付きます。絵に描いたような驚きの反応そのままに、ジェイはオリバーさんの横を駆け抜けました。
雇いの運転手の車で出かけたはずの旦那様が、舗装された道を歩いているのです。
散歩や散策がお好きな方ではありますが、まさか出先から歩いて帰ってくるとは思いません。それもこんな早い時間に。僕もジェイもおそらくイヴァンも、かなり近くに来るまでそれが旦那様だとわからなかったのです。
視界にオリバーさんを留めたのでしょう。ジェイを伴って姿勢よく歩いてくる旦那様の目が鈍く尖りました。
「おはようございます。ちょっとお邪魔しています」
「見ればわかりますよ。お引き取りください」
「お歩きでしたか。朝のお散歩もいいものですけど、何かと物騒な時世です。お気をつけくださいね、グレイ先生」
わざとらしくオリバーさんが呼びかけると、敷居を跨ごうとする旦那様が一瞬硬直しました。
「ちょっと予定が変わった。あの運転手は専属じゃないからね。こういうこともある」
「お電話くださればよかったのに。私、どうしましょう。こんな寒い日に旦那様おひとり歩かせてしまったなんて」
声を震わせるジェイを「今日は近場だったから」とどうにか収め、細い金髪を手袋越しにかき上げなから、旦那様はさりげなく僕の前に立ちました。
「で、貴方はいつまでここにいらっしゃるのです。何かご用でしょうか」
構図で言うとこれで3対1、そして旦那様の声は氷のように冷たいのですが、オリバーさんが動じるはずもありません。にこにこして再び紙袋を掲げました。
「いつぞやのお礼を改めてと思いまして。これ、つまらないものですが」
「ええ、つまらないです。だから持ち帰っていただけますか」
「結構並んだんですよ。今、都会の駅ではこれが一番人気だそうで。つい自分用も買ってしまいました」
まったく話が噛み合っていません。ただでさえ寒いというのに、オリバーさんが鞄から手のひらサイズの小さな箱を取り出して見せたことで、空気まで凍てつきました。
最早痛いと言っても過言ではなく沈黙にようやく気付いたのかはわかりませんが、オリバーさんは何事もなかったかのように箱を鞄に片付けました。
「こうなると思っていました。これは近くの知人に差し入れます」
「そうしてください。ご用事はお済みですね。わざわざ住所を調べてくるなんて薄気味悪い」
「別に他意はありませんよ。この辺りはよく来るんです。通りがかりにお世話になった人たちの住まいがあると知ったものだから、ちょっと挨拶でもと思うのがそんなに変でしょうか」
「では、今は何かのついでで」
「だから挨拶ですよ。これも含めて」
実に含みのない軽い挙動で、オリバーさんは紙袋を持ち上げました。意外と律儀で礼節を大事にするタイプです。旦那様が憎々しげに顔を顰めた最中には、呆れの感情も見えるようでした。
旦那様は常に一言多く、オリバーさんは何故か楽しそうです。そんなふたりを、ジェイは無言のイヴァンの横でそわそわと見比べていました。そのうち耐え兼ねて「立ち話もなんですから」と入りかけた頃、オリバーさんが白々しく指を立てました。
「ということで、今日1日トニーを貸していただけませんか」
ぼんやりして会話の内容までは聞いていなかった僕ですが、それでも突如登場した自分の名前には気付きました。
旦那様の片頬は完全に引き攣っていました。口を開きかけましたが、ジェイとイヴァンを振り返って表情を崩しました。
「寒いから中に入って。大丈夫だから」
「でも、旦那様」
旦那様は再度お屋敷に戻ることを命じました。ジェイは不安げにこの場を見守りながらも、イヴァンを伴って玄関口の向こうに消えました。
「トニーはもう少しだけいいかな。ごめんね」
「あ……はい」
どうにも事態についていけず、旦那様の優しい気遣いにそんな曖昧な返事しかできません。ですが、ジェイとイヴァンが払われ、僕ひとりが残されたことが穏やかではないことだけはわかります。能天気なオリバーさんは「寝不足かい、トニー」などと言ってきましたが、僕が喋る前に旦那様が跳ねのけました。
「何が目的ですか。まさかご自分のお立場がわからない方とは思いませんが」
「そうすぐに臨戦態勢に入らずとも良いでしょう。挨拶もダメ、友人の語らいもダメときてはね。さすがに私も拗ねますよ」
「へえ、貴方にご友人が。勘違いでなければいいですけど」
「今日はいいタイミングでよかった。ご在宅でなければ、そのうちにトニーに会わせて欲しいことをお伝え願おうと思っていたんです。
やっぱり勝手に連れ出すわけにはいきませんし。急ですが今日はどうでしょう」
「いいわけないでしょう。用事があるなら今ここで、私の前で話してください。トニーもそれでいいね」
……トニー?
間を置いて降ってきた声で、ようやく呼びかけられていると自覚しました。
きっと日曜だから気が抜けています。だからきっと、ついさっき敏感に察知したばかりの自分の名前を聞き逃しました。これでも普段は使用人としてお屋敷中を駆け回っているし、忙しい旦那様のおつかいに出たり、お嬢様の学校についていくこともあるのです。平日と休日で気持ちに違いがあるのは、特におかしなことではないでしょう。
というのは心の中の弁論で、現実の僕は口を閉ざして佇んでいるだけでした。何故そうしているのか自分でもわからないくらいでした。
「私が言うのもなんですけど」
注がれていた視線がずれました。旦那様は訝しげに歪めた顔を一切取り繕おうともせず、オリバーさんを見ました。睨んだのではないだけましだと思いました。
「ちょっと気分転換してもいいんじゃありませんか。たまには外の空気を吸うのも悪くないでしょう」
「休みを与えていないかのような言い方はやめていただけませんか。
うちはきちんと法に則っていますので」
「そんなことは疑っていません。大人が付き添って、ちょっと足を伸ばすことがあってもいいのではと提案しているだけです。予定が変わったと仰っていましたが、どうせご在宅でお仕事をなさるんでしょう。日曜ですよ」
「たまたまです。ご自分の間が悪いだけのことを、まるで私が子を放置するクズ親のように言わないでいただきたい」
「どうしてそう意地悪く捉えるんでしょうね、グレイ先生は。友人としても父親としても、私は貴方を等価に尊敬しているというのに。もちろん教師としても」
ジェイの気持ちがわかりました。確かにこれは、まともな人間なら取りなしたくもなるでしょう。あの旦那様が痛烈な皮肉を連発するということ自体、ジェイにとっては衝撃的です。わざとなのか鈍感なのか、オリバーさんも負けていないというのがまた厄介です。
しかしここまで冷たくあしらわれて、本当に旦那様を友人だなどと思っているのでしょうか。話題の中心が自分であることを忘れ、別にそうすることで理解が深まるわけでもないのに、僕はオリバーさんの全身をしげしげと眺めてしまいました。
紙袋と鞄を肘まで詰め、オリバーさんは外套の襟を引いてポケットに手を入れました。そして出てきた白い折りたたまれた紙を、オリバーさんに差し出しました。
「私の信頼が一方的なものであることはわかっています。だから預かっていただけませんか。私にとっては大切なものです」
「この紙切れが?」
「弟が手紙をくれたんですよ。ファンレターを装って」
冷淡だった旦那様の瞳が僅かに揺れました。それでも受け取ろうとはしない旦那様に、オリバーさんは続けます。
「実は会う機会がありましてね。ちょっと危なっかしかったですが。そのときに届いた手紙を少し見せてくれました。だからここの住所は本当に調べたわけではありません」
それから僕を見て、少し申し訳なさそうにしました。
「ごめんね。封筒を見ただけで、中身は見てないから」
別に見られて困ることは何もありません。
オリバーさんのことです。年の離れた弟にだけは妙なことを仕掛けないはず。僕を友達と思ってくれる数少ないその存在の、手紙を見せるなどという無防備な一面を想像するとなんと微笑ましいものか。もちろんそんなところを顔に出すわけにはいかないので、無表情を貫いておきます。
オリバーさんは、実は旦那様より僕に用事があるということが少しわかった気がしました。
裏向きに折られた便箋には、ぎこちない線がいくつも浮き出ていました。時間をかけて頑張って、兄を想って不慣れな左手で書き綴ったのです。
唇を噛んで紙を睨んでいた旦那様は、長く息を吐き出しました。
「捨ててしまいますからね」
不機嫌そうに歪めたままの顔ではありますが、それでも旦那様は、手袋を嵌めたままの両手の中に手紙を収めていました。オリバーさんは、まるでそうなることがわかっていたかのような裏表のない笑顔を湛えています。
「ありがとうございます」
そしてそのしっちゃかめっちゃかな文脈の返答が、はたと僕の意識を突いたのです。これでは僕がオリバーさんと出かけることを了承し、無二の担保を取った上ではありますが、それを旦那様が承諾したかのような構図ではありませんか。僕にそんなつもりは一切ないのに。あの、と言いかけたところで、旦那様がじっと僕を見ていたことに気が付きました。
出かかっていた言葉が引っ込みました。心配そうに燻っていた瞳が、切り替わったように慈しみを帯びました。しかしそれは一瞬のことです。旦那様は再度オリバーさんに眼光を奔らせます。
「トニーにも準備があります。冷えますから中でお待ちください」
「お気遣い痛み入ります。できれば睨みつけずに言って欲しかったですが」
「ああ、すみません。物騒な時世ですから」
目線はほぼ同じですが、並んで立つと、少しだけ旦那様のほうが上背があります。一瞬路肩に背けられた鋭い視線が僅かに角度をつけながら、オリバーさんに戻りました。
「呑気に駅から歩いてきたらしい貴方がお忘れではないかと、つい心配になりまして」
どうしてこうなったんだろう。
使用人服を着替えながら、少しばかりの荷物を整えながら、ブーツの紐を結び直しながら、僕は考えていました。
自分が出かけるわけではないのに何故か大袈裟に喜ぶジェイと、特に何も言わないイヴァン。門を出る直前、温かいお茶を飲んで既に満足そうなオリバーさんの眼下で旦那様に「気を付けてね」と耳打ちされました。絶対に聞こえているだろうと思うし、絶対に聞こえるように言ったと思いますが、オリバーさんは振り向くことすらなくジェイと紅茶トークに花を咲かせていました。無邪気な横顔に嘘っぽさは欠片もありませんでした。
どうしてこうなったんだっけ。三度頭を擡げたそれの回答は、考えるまでもありません。
成り行き。それ以上でも以下でもない。ただただ僕は成り行きで、今日のお勤めをふいにして、オリバーさんと歩いていました。
宣告通り、最初に持っていた菓子折は通り道でオリバーさんの手を離れました。駅に到着する頃には、もともとご機嫌だったオリバーさんはもっとご機嫌になっていました。
食事時ならあのお店がいい、あそこのお店のチョコが美味しい、あのスペースでは時々イベントをしているね。駅中をテーマに出てくる話題は尽きません。伊達にこのあたりはよく来ると言っていたわけではないようです。
「どうして遠くにお住まいなんです」
口ぶりから仕事の繋がり以上にプライベートが強いことが滲み出ており、だからそんな聞き方をしてしまいました。作家の世界はわかりませんが、少なくともオリバーさんの場合は、複数の企業や団体と関わりを持って活動しています。都会暮らしのほうが仕事上の連絡も便利なのではないでしょうか。その上この場所を好ましく思っていて、引っ越し費用だって簡単に工面できるなら、もう住所を移さない理由はないように思います。
「中心になるほど領地みたいなものだからね。どこも所詮似たり寄ったりだが、わざわざ住んでやらなくてもいいだろう」
僕とごく少数の人たちだけが知っている、オリバーさんの素性でした。
呼び方には気を付けないといけません。不安の芽は出さないに限ります。
「それに移動は苦じゃない。なんだかわくわくするじゃないか。乗り合わせた人たちのストーリーを勝手に考えたり、そうすると、この列車を降りた先はどういうところなんだろうって思えてきたり」
「……ストーリーはともかく、自分で切符を買って乗ってるわけですよね」
「ああ、いい頃合だったね。私たちが乗るのはあれだ」
オリバーさんが見やったのは、送り出したり迎え入れたりを忙しく繰り返しているほうではなく、別の路線で静かに構えている赤調のコントラスト柄の列車でした。傍には駅の係員らしき制服姿の男性が立っています。乗り込んでいる人たちの切符を確認しているようです。
オリバーさんは鞄から緑色の切符を2枚取り出して係員に見せましたが、僕は足を止めていました。自分ひとりだけ乗り込もうとしていることに気付き、僕を見て口を開きかけたオリバーさんは、さらに視線を動かして小さくお辞儀をしました。はっとしました。切符を見てもらったほかのお客さんが、後ろでつかえているのです。ひとまず進むしかありません。僕はオリバーさんの隣へ急ぎました。
「大丈夫だよ。途中で降りる」
切符に明記された番号の個室の扉には、丁寧にも名前を彫ったプレートが掲げられていました。代表者1名、オリバー・テイラー。ではなく、ロビン・ローエン。この人は、長く付き合った自分の名前を捨てることに抵抗はなかったのでしょうか。
「寝台列車なんて初めて乗りました」
「それはよかった。良い経験になれば幸いだ」
かなり高価な座席であることは一目瞭然でした。向かい合ったシートは旅行鞄を置いたとしてもまだ広々していますし、端に洒落た刺繍を施したシーツを下ろしたベッドが並んでいる様は、まるでお金持ちのお屋敷の客室です。扉を開けた瞬間に舞った甘くさりげなく上品な香りには、思わずくらりときたほどでした。
「せいぜい2時間くらいのものだけどね。せっかくなら泊まってみてもよかったかな」
「結構です」
旦那様がオリバーさんとの外出を許可すること自体、天変地異に等しい衝撃でした。前もって行き先や帰宅時間の目途を告げているから許可されただけで、泊まりがけなどとんでもありません。僕も別にオリバーさんと旅行したいとは思いませんでした。
つれないねえ、とオリバーさんは口を尖らせました。
「よく乗られるんですか」
「いや別に。今日はもしかしたら君がいるかもしれないと思って」
「ご予約はご自分で?」
「他に誰がいるんだい。まったく、君も旦那様もいやに私を疑うね。まさか君まで私の勘違いだなんて言わないだろうね」
本気で言っているのか単にぼけているのか、判断できないほどに軽やかな言い様でした。
オリバーさんが一時的にでも大切なものを手放したことは事実です。余程信頼している相手か、信頼して欲しい相手にしかしないことを、僕が最も信頼している大人である旦那様にオリバーさんはしました。
目的がわかりませんでした。弟の相手をしてくれている子にお礼、という名目があるのはともかくとして、それだけのために駅を行ったりきたり、不確定なのに列車の高い席を予約したりと度を越している気がします。お金持ちが捨てるようにお金を使ったと解釈するのは簡単ですが、そんな普通の解釈がオリバーさんに当て嵌まらないことは知っているつもりです。やはりどこかネジが飛んでいるような。
「疑いすぎはよくないよ、トニー」
じっと見られていたことに気付きました。
「君のそういうところは武器にも鍵にもなるだろうが、ずっとそれでは疲れないかい。せめて私といるときくらいはもっとシンプルにいこうじゃないか」
「貴方だからこうなっているんですよ」
「例えば仲の良い友達にゲームに誘われたとき」
僕の明確な解答を無視し、オリバーさんの言葉は続きます。
「何か駆け引きめいたものがある? 言葉の端々や仕種のひとつひとつを睨んで、怪しげな真意を探ったりするかい?」
それはつまり、貴方は僕と仲が良いと思っているということでよろしいでしょうか。と言いたくなったのを堪え、僕は黙考しました。お嬢様のことは、旦那様がいないところでは、気安くジーナと呼んでいます。イヴァンを含めて3人で遊んでいるのをジェイも密やかに容認してくれており、ときどきお手製のおやつを持ってきてくれたりします。
旦那様をプラスで4人の誰かに声をかけられたとして、疑う余地は微塵もありません。
それとこれとはまったく話が違うのですが、どうやらオリバーさんにはわからないようです。
だからね、とオリバーさんは勝手に話のまとめにかかりました。
「要するに、君とちょっと出かけてみたかったというだけ。それに、あの店のケーキは本当に絶品なんだよ。ラジオや新聞でもたまに紹介されてるし。甘いものは好きだろう? 君も気に入ると思うけど」
列車の振動に被せ、軽快な音が鳴ったのはそのときでした。来客。聞こえた音の出どころからすると、背はそう高くないようです。豪勢な寝台列車のたった2時間の旅に知り合いでも乗っていたのか、訪ねようと顔を向けたときには既にオリバーさんは立ち上がっていました。
「あ、ちょっと」
「こんにちは! オイラ、クリアってもんです!」
豪奢な列車と優雅に流れる景色とはまるでそぐわない、特に上等品でもないごく庶民的なコートの人物が敬礼していました。せいぜい僕と3,4歳差、まだ少年と言える年齢です。発声がよく、なんとなくこちらの背筋も伸びるような、溌剌とした元気人という印象でした。
「こんにちは、クリア君。私は」
「ロビン・ローエンさん。名前は貼られてるから知ってるよ」
クリアさんは肩にかけている鞄を探り、瓶に入ったジュースをふたつ取り出しました。見る限り、駅で普通に売っているものでした。
「旅が趣味なんだ。そんなに多くはできないけど。一期一会を大事にしてて、その挨拶回り」
「そう。丁寧にありがとう。いただくよ」
「ちょっと。オリ……」
出かかった声は、掴んだ裾をもう一度掴み直すことで誤魔化しました。
商品名が載ったラベルの上には、手書きで「よい旅を」書き足されていました。その隣には、緩急をつけた線でデフォルメ化された列車の絵が小さく添えられています。最早すべてがイメージなのか、天辺から蒸気が流れていました。
もうひとつの瓶のラベルにも、線の太さや図形の大きさには若干の違いがありましたが、同じ文字とイラストが描かれていました。上手いじゃん、と感心しかけてはっとしました。
「何やってるんですか。知らない人にものをもらっちゃダメですよ」
「なんだい、ちょうどいいじゃないか。飲みものを注文する手間が省けた」
「そういうことじゃなくて」
「これ、可愛いね。君が自分で?」
裾ではなく肩を掴んだ僕の手を、オリバーさんは優しく解きました。完全にオリバーさんのペースです。
もう口を挟む余地はなく、僕は仕方なく一歩下がりました。それによく考えてみれば、怪しいと思うなら、僕がそのジュースを飲まなければいいだけでした。
「絵を描くのは嫌いじゃないんだ。ただ買うより、旅のちょっとした特別感が出てない?」
「そう思う。他の客室にもやってるのかい」
「毎回そうする。こういう列車だからだいたいお金持ちしかいないんだけど、意外と受け取ってくれるんだ。やっぱり貴族も庶民も同じ人間だな、そう変わったもんじゃないなって思うよ」
クリアさんは無邪気に歯を見せて笑うと、じゃあ他の部屋に行くからと方向転換をしました。その直後、一度振り返り、「なんか聞いたことある気がするけど、ローエンさんって有名な人?」と首を傾げました。オリバーさんは、大したものじゃないからと名乗り直しはしませんでした。
「残念でしたね」
「何が」
「あまり本を読む人ではなさそうでした」
「私だって読まない本はあるし、趣味じゃないことだってたくさんある。それよりこれ、可愛いじゃないか。彼は本を読むより絵を描いたほうがいい」
瓶に描かれた列車を指差し、オリバーさんは無害に顔を綻ばせました。どうやら絵が好きな弟に重ね、ひとりで浮かれている様子です。窓の向こうの粉雪交じりの冷たい空気ではなく、この人と自分との温度差に風邪を引きそうでした。
「貴方に警戒心というものはないのですか」
皮肉ではなく、本心から訪ねました。だってこの人は、もともと売れっ子作家だった自分の名前を、結果的にさらに飛ばすことになった出来事を忘却しているようなのです。そうでなければ、どこの誰とも知らない、同じ列車に乗り合わせただけの人間が持ってきたジュースなど受け取らないでしょう。
オリバーさんは備え付けの簡易テーブルに2本の瓶を並べると、大仰に肩を竦めながら座席に置きました。
「一体何をそんなに警戒する必要があるんだい。そういうのを私といるときくらいはやめようと言ってるんだけど」
「それは貴方に対しての話でしょう。さっきのは知らない人です」
「だからそれでいいじゃないか。私がいいと言うんだからいいんだよ。旅先で一期一会を大事にするなんて素敵じゃないか」
「そんな能天気だから散々な目に遭ったんでしょう。僕がいなかったら死んでたくせに」
笑いのひとつでも返ってくるかと思いましたが、意外にも静かでした。
言い過ぎたかと一瞬後悔しました。あのときのことは、僕が勝手に首を突っ込んでいったようなものです。でもさっき、旦那様に言っていました。弟と会う機会があったこと。こんなことはさすがに図々しすぎて言えないけど、あのままでいるより良い現実です。僕がいなかったらどうなっていたか、と毒吐きたくなってしまうのは道理ではないですか。
すっと腹の底が冷えました。今の僕は、なんだかとても嫌な人間です。
外の雪は、少し強くなっていました。このまま強くなり続けなければ良いのですが。
「まあ、もう済んだことじゃないか。寝台列車は初めてなんだろう? せっかくだから寝っ転がってごらんよ」
「遠慮しておきます」
「君も旦那様も本当につれないねえ。じゃあ私が寝てみようかな」
「貴方、なんのためにこんな……」
こんこん。
襟元を緩めながら腰を浮かせかけたオリバーさんに声が大きくなりかけたとき、そんな間の抜けた音が、再び列車の振動に混ざって聞こえてきたのでした。
緩めた襟を正しながら、オリバーさんは僕に視線を流しました。目が合ったまま、不思議な空気が降りてきます。
「開けたいなら開ければいいでしょ」
耐え兼ねました。
オリバーさんは軽い足取りで扉に向かいます。寝台列車というのはこうまで来客が多いものなんでしょうか。
なんにしろ僕には関係ないことです。せっかくなので景色にでも意識を傾けて、その間に扉が閉まって安心できるのを待つだけです。
実はさっきから振動が案外心地良かったりもします。横にはなれませんが、目を閉じてみるくらいはいいかもしれません。
「ごめんなさいね、急に」
目がかっ開きました。瞳孔が開くのがわかりました。その声に聞き覚えがありました。
ただの声の空似だと思い込みたい一方で、本当にそうなのかと確かめたくもありました。でもそれは確かめるまでもないことでもありました。どうしてこんなところに。いや、それは僕もです。じゃあどうしてよりによって同じ日取りに。考えても仕方のない疑問が怒涛のように溢れ出します。
「あら、貴方は……」
女性のように高く作られた、明らかに男性の声。語尾が消え入ったのは、さっきのジュースの人とは違い、出てきた顔に覚えがあったからでしょうか。金持ちご用達の高級列車とは言え、列車内の個室の広さなど知れています。忙しく部屋の名前プレートとオリバーさんとを見比べる気配と、紳士的に名乗る声が漏れ聞こえました。
最早僕の中では確定事項でした。あの野太い声で紡がれる女性っぽい口調。たったひとつのその特徴が、自分があの人を知っていて、あの人も自分を知っていることを決定付けていました。張り裂けそうなほど波打つ心臓を、窓に顔を向けたまま、ぎゅっと抑えつけました。
「驚いたわ。貴方みたいな方が乗っていらしたなんて」
「運が良かったんです。正直乗れるかわからなかったんですが、ドタキャンでご迷惑をおかけすることにならなくて良かった」
「ご迷惑って、鉄道会社に? ニュースを見て逞しいとは思ってたけど、とてもお優しい方でもあるのね」
「だって、急に予定をふいにされたら困るじゃないですか」
会話が途切れました。別に不味い話題のようにも思いません。不自然な空白のあと、苦笑気味に「それもそうね」と落ちました。
「それで、どうされたのです」
オリバーさんが水を向けると、そうだったとばかりにトーンが上がりました。
「ここに男の子が来なかった? 話の途中でいなくなっちゃって、こっちに来たように思ったものだから」
「ジュースを配っていた元気な子のことでしょうか。ついさっき出て行きました。お連れの方ですか」
「いえ、そうじゃないんだけど。私のところにも来てくれたの。工場勤めの17歳だそうよ。うちは接客なんだけど、あんな感じのいい子がいてくれたらどれほどいいかと思って」
背中がすっと冷たくなりました。足先から何かが這い上がってきます。細かい無数の虫が駆け抜けるのではなく、拳ほどのサイズの虫が、粗く産毛を生やした細い足の先端を突き刺しながら、ゆっくりと上がってくるのです。息が上がってくるのを何度も飲み込みました。
オリバーさんの背中に上手いこと隠れているらしく、その人は僕の存在に気付いていませんでした。どうかそのまま気付きませんように。祈りながらまた息を飲み込むと、少し酸っぱい味がしました。
「それで追いかけようとしたんだけど、自分の荷物につまずいちゃって。通路まで飛び出したのを片付けてる間に見失っちゃったの」
「大変でしたね。すみませんが、どちらに向かっていったかは見ていなくて」
「ああ、いいのよ。たまに途中で降りちゃう人がいるけど、寝台列車は原則泊まりだもの。また機会はあるわ。貴方たちは」
一匹目がお腹辺りで消え、二匹目がふくらはぎを斜めに這ってくるのに耐えている間、突然三匹目が顔の横にいるのを感じました。思わず振り払ったその手は、そこにいたはずの虫をすり抜け、鈍く乾いた音をたてて窓ガラスを叩きました。
その音がしたのと、声が途切れたのは同時でした。自らミス・ガーネットと名乗った記憶通りのその人は、この個室に自分たち以外の人間がいたことに初めて気付いたようでした。
幸い窓ガラスは分厚く、傷ひとつついていませんでした。窓の外では静かに雪が下りています。流れる景色の中で、粉雪が少しずつ体積を増して固形の粒になっていました。
「すみません、あの子ちょっと寝こけてるんです。休ませますから、このあたりでそろそろ」
どこまでも能天気なオリバーさんは、この程度では列車のガラスは割れないと知っているからなのか、そんなことを言いながらようやく身を翻しました。しかしその翻し終わるまでの間に、ガーネットさんが駆け出していました。
「貴方もしかして、トニー?」
疑問符をつけながらも、自信なさげではありましたが、確信している声でした。シートの傍で膝を折り、ガーネットさんは不安げに僕の横顔を覗き込んでいます。その途中、思い出したように窓ガラスを見上げて胸を撫で下ろしていました。
僕は答えず、顔を向けませんでしたが、この距離で逃れられるはずがありません。僕のその態度が確信をより決定付けさせたのか、ガーネットさんは気色ばみます。
「やっぱりそうだわ。あれからどうしてたかと思ってたの。こんなところで会えるなんて。私、貴方にずっと話したいことがあって」
そこでつっかえました。シートの前側に来たガーネットさんは目を見開き、出かかった声を封じました。
「不運な事故です。私は見知ったときからですが、以前から知っておられる方だと驚かれるかもしれませんね」
「貴方はこの子の何?」
答えたオリバーさんに、ガーネットさんは更に問いました。
テーブルの上に置かれたジュースが、未開封の瓶の中でさざめいていました。
「元雇用主。縁あって今はただの友達です。今日はその子の現在のご主人様に我儘を言ってお借りしています」
「それはこの子が承諾してることなの?」
「その子が承諾しないことなんてしませんよ。それに友達というのは気付いたらなっているものでしょう」
旦那様に言われたことを気にしているらしいことはさておき、ついさっき、すぐにはドアを開けませんでした。オリバーさんが僕の意思を優先していることは事実です。そこだけは主張しておくべくガーネットさんと目を合わせましたが、一瞬以上は見つめられず、僕はすぐに俯きました。
「事故って本当?」
「本当です」
「なら……無事でよかったわ。大変だったでしょう」
今更会うなんて思っていませんでした。じくじくと脳が膿みだすようです。ちらついては弾け、断片的に蘇る記憶で視界が点滅しています。まだ虫が這っています。
「会いたかったのよ。話したいことがあるの。私、貴方にどうしても」
「僕は」
腕や腿の上で足を引きずっていた虫たちは、絞り出したその声と同時に搔き消えました。
今になって過去を思い出したくないし、過去を知る人の声なんて聞きたくない。僕は前を向こうとしてるんだ。滲み出る拒絶は明らかにガーネットさんを圧倒していて、その圧迫感にまるで動けないようでした。
「僕は、話すことなんてありません」
押し潰したような息苦しい声に、自分で驚きました。
オリバーさんの表情は見えませんでしたが、雰囲気の変化は感じられませんでした。
2/4
元雇用主であることを明かしたミス・ガーネットが去ると、思いの外早くトニーは落ち着いていた。視線を外に投げている。厚くなる雪を目で追っている。天気が良いと思ったが、見誤ったかもしれない。冬の空はわからないものだ。
落ち着いた声でトニーは教えてくれた。両目とも揃っていた頃、つまり本物のロビン・ローエンに拾われる以前、ミス・ガーネットが経営する店にいた。客の指名を受けてシャワーを浴びたり、膝に座ったりするのが仕事だった。住み込みではなく家として暮らしており、やがて店に出るようになった。店の雑務はずっと手伝っていたが、客を取るようになってからもそれは続いた。中には買い出しもあったが、決まった店にメモとお金を持っていけば品物とお釣りに交換してもらえたので、文字も数字もわからなくてもこなせた。よく覚えていないがたまにお菓子をもらったりもしたらしい。
僅かな睡眠時間で日々休みなく働いていたらしいことも、年下ではあったが他のキャストとそこまで変わった年齢ではなかったことも、雇用主と言っていたミス・ガーネットからも、ミス・ガーネットが店を譲り受けたその人物からも、とても給与と呼べるものはもらっていなかったことにも驚かなかった。酷い出自は予測していた。出かけたきり戻らなかったなんて、考えていた中では可愛いくらいだ。耐え兼ねて逃げ出したのに、結局同じことをして生き永らえてきたというのはさすがに不憫だと思うが。
あれからどうしたのかとミス・ガーネットは言っていた。怒りや恨みの原因になった人間にかける言葉ではない。買い出し一度分の金額なんて知れているが、だからと言って金を持ち逃げした犯人を心配するだろうか。まして話したいこととは。まさか泥棒はいけないことだと諭すつもりではないだろう。
待遇が不味かったのだと反省するくらいなら、最初からそんな環境にいられない。ミス・ガーネットは理解してそういう世界にいた上で、金を持ち去ったトニーをずっと気にしていた。女性か男性かはともかくとして、まあ、なかなかに自分勝手で、私好みの人間だとは思う。
それより気になるのは、ミス・ガーネットがトニーの正面に回ったときのことだった。
事故で片目を潰れたことを代わりに伝えると、ミス・ガーネットの眉間が寄った。本当なのかとトニーに確認した。そんなことを確認する意味がわからなかった。片目を失くすほどの大ごとが事故でなくてなんなのか。事故でないなら誰かに抉られたか自分で抉ったことになる。トニーならそうなってもおかしくないという心当たりが、ミス・ガーネットにはあったということなのか。引っかかるが、今それを気にしていても仕方ない。
一通り喋ったきり、トニーは黙っていた。俯いて顔を顰め、時折眼帯を触っていたが、すぐに手を膝に戻した。テーブルの上の可愛いジュースの瓶には触れようとしなかった。
「水でも貰う?」
先決は、この重たい空気を払拭することだった。楽しい旅が勿体ない。せっかく運よくグレイ氏と鉢合わせして、トニーを連れ出せたというのに。
突然の提案にトニーは虚を突かれたようだった。すぐに仏頂面に戻った。気持ちは察する。思い出したくない過去が突如として現れたら、私だって面白くない。
「長距離を走るからね。そこのベルで車掌さんを呼んで、飲みものや軽い食事くらいなら買える」
「こんな列車に乗る人が車掌から食事を買うんですか。一部食堂車になってるのを見ましたけど」
トニーは何故か私に対しては、どこか常に疑ったような態度を取る。いつもの調子に戻ってきた。
「食堂車としての機能は今回はないみたいだよ。予約枠がなかったからね。それにこの列車は十分豪華で贅沢だが、金を使うこと自体が目的になるような人は乗らないんじゃないかな」
クリア少年のような庶民的な乗客がいたことからも判断できる。ただ金を消費したいだけの客はこの列車には乗らない。例えるなら、手の届く贅沢にちょうどいい。これはそういう寝台列車だった。
トニーは恨めしそうな顔をやめなかった。切り替えは難しいものだ。何か機嫌の直りそうなものはないかと視線を回してみても、酷くなる一方の雪が目に入るばかりだ。
「これは偶然なんですか」
ジュースを飲んで、クリア少年に害意がないことを証明してみようかと手を伸ばしかけたときだった。思いもよらなかった。
今度は何を軸にそんな疑いを持っているのかと一瞬期待したが、すぐに答えが浮かんできた。落胆などなかった。
「あの人と僕を偶然っぽく会わせて、僕の反応を面白がってるとか。貴方とご家族ならできるでしょうね」
「それは言えてるね。だがご存じの通り私は積極的に家と関わりたくはないし、そんな目論見があったとして、こうして見抜かれるのが関の山だ」
見抜かれることそのものを目的にすることはあるかもしれないけど、と思ったのは黙っておいた。ふたりでいるときはシンプルでいようなどとのたまった手前、そんなことを言えば早速に支離滅裂だと突かれるに違いない。それはそれで興味深くはあるのだが。
トニーは尚も真意を探るような目をしていたが、やがて折れた。
「これ、大丈夫なんですかね」
「さすがに天気まで変えられないよ」
「わかってますよ、そんなこと。疑ってすみませんでした」
急に素直になった。まだいつものトニーではないかもしれない。
部屋を出て通路を歩いていると、奥が食堂車になっているのが見えた。今日は使用の予定がないためか薄暗く、閉め切られて空調もないであろう車両は見るからに寒々しい。あれほど周囲に溶け込んでいるのに、よく見ているものだと思う。
せっかくなら食堂車利用の便で都合をつけたかったが、さすがに一泊は踏み込みすぎだと思ってこの列車にした。それに評判のお店を覗きに移動するのに、到着前に腹を満たしてしまっては仕方ない。次の機会までにはもっと信頼を築いて、美味しい食事を堪能しつつ、是非列車で一泊してみたいものだ。
「貴方」
そんなことを考えていたから、背後の気配に鈍くなっていた。
聞いた声だった。振り向くと、不機嫌というより、呆れたと例えたほうが正しい具合で顔を顰めたミス・ガーネットが立っていた。
「まるで警戒心というものがないのね。私、ほとんどずっとついて歩いたわ」
「偶然ですね」
「それはどういう意味の偶然なの」
隣に立つと体格差が顕著になるが、ミス・ガーネットには微塵も気にした様子なく背筋を伸ばしている。話し方が女性的なだけで、風貌は厳ついとすら言える男そのもの。男性なのか女性なのか更に戸惑うが、迷いなく並んで立つということは、少なくとも外見は気にしていないということだ。そのほうがこちらも楽でいい。
「あの子は?」
「寝ちゃいました。なので、起きる前に車掌さんから水を買おうと思いまして」
やっぱり少し休むとトニーから言い出した。上着とブーツを脱いでベッドに横になり、と思ったらすぐに起き上がり「ちゃんと起こしてくださいよ」と私を睨むと音を立ててカーテンを閉めた。赤の他人でも一緒に暮らすと似てくるらしい。感心しながら可愛いラベルの瓶を開けた。
どうせ横になっているだけだろうと思いながら静かにノートを広げていると、意外にも小さな寝息が聞こえ始めたので、その間に水を調達しておこうと思い立った。連れが寝ているなら呼ぶより私が出向いたほうがいい。
ミス・ガーネットは横目ながらも注意深く私を見ていた。目は口程に物を言う。私はそこまで嘘吐きそうな外面なのだろうか。
ミス・ガーネットはさも女性的な所作で腕を組んだ。
「随分信用されてるのね」
「そうでしょうか」
「信用してない人の前で寝ないでしょ」
「だとしたらありがたいことですが」
本題でないことはわかりきっていた。どうせ列車を降りる前にもう一度会えないかと思っていたところだ。通路をゆっくり歩いていたのも、彼女――便宜的にそう呼ぶだけだが――彼女の個室を探すためだった。彼女のほうも私に用があるなら都合が良い。
「随分あの子が気掛かりのようですね。本人の話とはまるで違う印象を受けます」
「聞いたのね」
「ええ。せめて働いた分くらいはお給料をお支払いすべきでした。お金の計算はできなかったとしても」
別に優位に立とうとしたわけではなかった。率直な感想はまずそれだったし、どうやらミス・ガーネットもトニーに関しては後ろ暗い感情を抱えているらしい。話せるものなら話してしまいたい、でも話せる理由がない、だからそのきっかけを探しているような。
ミス・ガーネットは険しい顔をしていた。両腕を摩りながら伏せがちに答える。
「悪かったと思ってるわ。どうかしてたの。あの子は最初からお店に住んでたから、一部屋と食事を与えていればいいって前のオーナーから聞いてて」
「一部屋ですか。場合によってはそこも使ったと聞きました。食事も何かにつけて減らされたり抜かれたりしたとか」
「……」
成長を遅れさせるためですか。そういうお店だとキャストの成長は死活問題ですものね。特にトニーのような数カ国混ざった子は珍しいですから。思いつくことはいくらでもあったが、敢えて言わなかった。ミス・ガーネットを攻撃したいわけではない。それに、実際のところは違うが、名目上私も元雇用主である。偉そうに振る舞うのは不自然だった。
再会は偶然だったとしても、一緒にいた私が雇用主ではなく元雇用主だということにミス・ガーネットは思うことがあるようだ。何か言いたげなことがある。だが言っていいものか悩んでいる。
「私が悪かったのよ」
ミス・ガーネットの指が太い腕に食い込んだ。
「それであんなことになったんだわ。私のせいで」
「そういえば、あの元気な少年をお店に誘いたいと仰っていましたね。同じお店ですか」
「全部私のせいなの」
聞いていない。一体何を思い出しているのだろう。初対面の私の前でこうなるくらいだから、少なくとも本人にとっては些細な事情ではなく、しかもトニーと関係するということなのか。考えている間にも、ミス・ガーネットは「全部私のせい」と繰り返した。
気を落ち着けるように私の横をすり抜けた。振り返ったミス・ガーネットは暫し唇を噛んでいたが、やがて顔を上げた。眉間に皺がより、目が光っていた。私を睨むその形相を意外に感じた。
「だから貴方に話がある。お付き合いいただけるわね」
だからと言われる心当たりもない。その誤解を解こうとは思わなかった。
肩に熱を感じたのと同時に起きました。知らない部屋。あと一晩耐えればよかった。持ち上げた指に紐が引っ掛かりました。自分が今どこにいるのかを思い出しました。
少し身体を屈めているオリバーさんの手が、中途半端に浮いていました。ちょっと驚いた顔をしています。想像がつきました。呼んでも起きないから揺すろうとしたら、触れる直前に起きたのです。
自分の異様な神経質より息が詰まったのは、オリバーさんの隣にガーネットさんがいたことでした。
無数の白い塊が窓にぶつかっては砕け、その振動が車体を細かく揺らしていました。ごうごうと風が鳴っているのが聞こえます。僕とオリバーさんは確か2時間程度で降りることになっていたはずなのに、外は真っ暗でした。
どういうことなのか、唐突に頭の中で閃きました。どっと不安が押し寄せてきました。
トンネルの中だって少しくらいは灯りがあります。この暗さは分厚い雲で陽が隠れたというレベルではありません。月も星も掻き消されてしまってまるで視認できませんが、今は夜なのです。極めつけは、線路の上を渡っている感触が皆無ということでした。
この悪天候の下、運行の最中に多少の不具合を発見したとしても、こんな周りに何もないところで調整するとは思えません。間違いなく立往生しています。お屋敷を出てしばらくは寒いけど晴れて気持ちよかったのに、まさかここまで天気が変わるなんて。
「あの」
「おはよう、トニー。今は夜8時を少し過ぎたところだ」
問題はその立往生がいつ起きたか。それを考えようとしたところで、オリバーさんの一声に制されました。
オリバーさんの声は妙に醒めていました。この人の本質にはいったん触れないとして、目が合えば笑いかけてくれる人ですが、今に至ってはそんな雰囲気のひとつもありませんでした。
どうしよう。とりあえず寝すぎたことを謝ったほうがいいのかな。
口を開きかけてまた違和感が頭を擡げました。僕が熟睡していたからと言って予定がなくなるはずがないのです。僕を伴ったオリバーさんのこの外出は、弟からの手紙を担保にようやく成り立っているものなのですから。
「わざと起こさなかったんだ。よく寝てたから」
「寝てる間に解決すればラッキーだと思った……とか?」
立往生を示して言ったのですが、表情が動いたのはオリバーさんではなくガーネットさんでした。何か居心地の悪そうな挙動で、合いかけた視線の軌道が爆ぜたように逸れます。明らかに意図的に僕を避けていました。
そうだ。立往生しただけなら、この人がオリバーさんと一緒に立っているのはおかしいんだった。目覚めた直後に抱いた違和感を思い出し、身震いしました。僕がお店からお金を盗んで逃げたことは間違いありません。酷い待遇だったこととそれは別の話であり、謝るのは道理です。僕の承諾しないことはしないなどとのたまっていたオリバーさんですが、変に教養めいた性格な上、僕自身引きずっているなら清算にちょうど良いとでも思っているのかもしれません。そこでまた気が付きました。
今思えば持ち逃げした金額なんて知れています。僕が言うべきことではないのはわかりますが、わざわざ改まらなくても、ガーネットさんにとっては即座に暴露してよかったことではないでしょうか。オリバーさんに僕の本性を伝える機会にもなるし、酷い待遇を強いたと引け目があったとしても、むしろ引け目があるなら尚更、それも一緒に言えばいい。第三者の同席は強力です。勇気を出して告白したのだと自分を許すこともできるでしょう。
ガーネットさんはそうしませんでした。
そして今、ガーネットさんのほうが僕を避けながらも、何か話したそうに唇を引き結んでいるのです。
半分正解、とオリバーさんは言いました。
「ここまで天気が急変するなら、良いほうに向くこともあるかもしれないと思ってね。残念ながら望みは薄い」
「あとの半分は?」
ガーネットさんがここにいることを含め、いろいろな答えがそこにある気がしました。
答えは返ってきませんでした。空調が切れなかったこと、食堂車付きの寝台列車だったことに救われているとオリバーさんは無機質に告げ、不覚にも僕の頭から抜けていたことを教えてくれました。
「何もない田舎の線路の上で立往生。吹雪が酷くて交通網や移動手段は軒並み麻痺、救助は無理。間違いなくニュースになってる。君の行方がわからず旦那様が半狂乱、ということはないから安心してくれ」
安心できる内容ではありませんが、ひとまずほっとしました。オリバーさんはきちんと旦那様に行き先と手段を伝えていたようです。
尤もそこまでしないと許可されないでしょうし、嘘の申告をするメリットはありません。
寝台車、食堂車といった列車の構造自体に救われた。このくらいの自然災害に耐える程度の備えは十分ということなのでしょう。
それならこの異様に醒めた空気はなんなのでしょう。話を聞く限り、悲観することなんて何もないはずなのに。その答えもあとの半分にあるということでしょうか。
「あの……何があったんですか。もうひとつのほうは」
連続した乱暴な鈍い音に、声を掻き消されました。苛立ちを力任せに叩きつけるステリックなノック、そこに被さる数人の宥めるような声、更に響く猛々しい声。これは女性の声でした。
後の半分を教えてください、と言いそびれたことなど消し飛んでいました。激しいノックと女性の声を中心に飛び交う応酬が続いています。ドアの向こうを僕は呆然と見つめていました。
「ワタシだけ戻るのは、やっぱり無理そうだわ」
「そうみたいですね。私も気乗りしませんけど」
ガーネットさんの呟くような声と、オリバーさんの素っ気ない同意を克明に聞き取りました。
まあでも、とオリバーさんは少し上向きがちに人差し指を立てました。
「有効な対策とも言えそうです。全員が同じところに集まるということは、全員が全員の監視下にあり、誰もおかしな動きはできないということですから」
「まるでミステリー小説の世界だわ。唯一の安全策を取りに来たということね」
ガーネットさんは乱暴に鍵が軋むドアに横目を投げました。
「問題は、あの人たちにそういう目的があるようには思えないってことなんだけど」
「鍵をかけたんですか」
「当然の心理よ」
ガーネットさんは鼻を鳴らしました。
「貴方にならわかっていただけると思って」
厚みのある手が半月状の鍵を回すや否や、内開きのドアが勢いよく飛び出しました。あわや顔面を破壊する大惨事でしたが、当のガーネットさんは先程より二歩退いたところで不満げに頬を歪めていました。
そこにいたのは3人でした。上品な薄紫のドレスとはまるで不釣合いに背後から羽交い絞めにされた若い女性と、かなり頑張って羽交い絞めを保っている華奢な体躯の男性。制服に車掌の帽子を被っており、白い手袋をしていました。その後ろに、如何にも値の張りそうな黒いスーツと外套を着込んだ実業家然とした男性が一人。オリバーさんより10歳近く年上そうなガーネットさんより、さらに年上に見えます。濃い髯をたずさえ、不機嫌に太い腕を組んでいました。
「随分と遅いじゃないか。まさか逃亡の相談でもしてたんじゃないだろうね」
気品溢れるドレスの女性の声は低く、風体との均衡があべこべです。乗り出そうとしてくるその様を、後ろでまた車掌帽の男性が引っ張り留めていました。
「あたしはガキを起こして連れて来いって言ったんだよ。そういう話で落ち着いただろ? まずは全員一部屋に集まって、話はそれからだって」
「別に落ち着いてはないでしょ。貴方がそれどころじゃないのに大きな声で騒いで収拾がつかないから、いったん従ってあげただけ。こちらの方の証言通り、よく寝てたわよ。もし信じられないなら、ワタシには、そうやって貴方が主導権を握ることで、なんとなく候補から外れるのを狙ってるように見えると言っておくわ」
「なんだって?」
「ちょ、ちょっと落ち着いてくださいってば!」
更に肩をいからせた女性の方に、車掌さんが手袋越しの指を食い込ませました。華奢なシルエットに似合う棘のない声です。その印象に残る澄んだ声で、彼は「貴方も!」とガーネットさんに怒りと困惑の混ざった眼を向けました。これは相当若い人です。
「貴方も挑発するようなこと言わないでくださいよ! 確かに話を聞く限り、そちらの方が嘘を吐く理由はなさそうでした。でも、それとは別でお連れ様の状態を確認する必要はありましたし、やっぱり全員で固まっておくほうが安全だと思うんです。だから僕たちも全員で様子を見に来たんですから」
そうですよね、と実業家男性を振り返りました。言葉を選んでいますが女性の暴走を庇っています。しかし水を向けられた男性は舌打ちを飛ばし、再び場は凍りつきました。
「面倒なことに巻き込みやがって。やっぱりこんな程度の列車じゃ客も知れるな」
憤然と腕を振り被った女性を「だからダメですって!」と泣きそうな声で車掌さんが抑えます。その踏ん張りが強いのか女性が我を取り戻したのか、腕から力が抜けました。爪は綺麗な薄紫色に塗られていました。
「とにかく」
息を整えながら女性が言いました。鬱陶しそうに車掌さんを振り払い、振り払われた車掌さんは安心したような不安そうな微妙な顔をしていました。
「これで揃ったんだ。戻ろうじゃないか。全員でさっきの場所に、安全のためにね」
通路の先頭を歩く女性はミセス・パープルと名乗りました。夫婦ふたりで旅行する予定でしたが、急遽都合が合わなくなり一人で列車に乗っていたそうです。その後ろを体格に恵まれた実業家男性、ブラック卿が続きます。見た目通りの資産家で仕事先に向かうところとのこと。更に若い車掌さんであるリッキーさんが続き、ガーネットさん、僕の半歩後ろをオリバーさんが歩いていました。誰も喋らず、なんとなく息苦しい感じがしました。
大人たちが足を止めた地点がどこなのか、僕の立つ位置からは個室に掲げられた名前が見えませんでした。だけど嫌な想像はもうできていました。パープルさんの凄みある低い声が頭の中で回転していました。
これで揃った。運転手は除外してもいいとして、少なくとも乗客もう一人いるはずです。なのに揃ったなんて、広くもない列車内の個室ブースを並んで歩く異様さも相俟って、尋常ではない「残り半分」の理由を感じ取らざるを得ません。
「あの、でも……どうなんですかね、これって」
そんな中で気弱ながらもはっきり響いたリッキーさんの声に、どうやらリッキーさんが一番驚いていたようでした。一斉に集まった注目に喉をすぼめ、所在なく視線を彷徨わせた後に車掌帽の庇を抑えました。
「ローエンさんは関係ないってわかってるわけですよね。トニー君も。だったら、やっぱりふたりだけ戻ってもらってもいいんじゃないでしょうか」
「はあ? 全員で固まっておくべきだってあんたが言ったんじゃないか。だからそこの優男とガキもみんなで見に行った」
「確かに言いましたけど……だってこういう状況って」
ごにょごにょしてよく聞き取れませんでしたが、断片的に聞こえた部分を統合すると、オリバーさんとガーネットさんが話していたようなことでした。
「みんなで食堂車にいればいいと思うんです。必要以上立ち入るのはきっと得策じゃない。当然の配慮というか、倫理観じゃないですか」
僅かに目がこちらを向いたのを感じましたが、一応気付かないふりをしました。
「倫理?」
「ワタシは賛成」
個室の取っ手を掴んだ状態で片眉を吊り上げたミセス・パープルに、槍でも投げつけるように鋭くガーネットさんが被せました。
「食堂車で状況を整理しましょう。車掌さんの言う通り、現場に必要以上に立ち入るべきじゃない。大事な手掛かりや証拠を間違って消してしまうかもしれないし、何より見せたくないわ」
「ちょっとお待ちよ。倫理だとか見せたくないだとか、あんたら本気かい?」
ミセス・パープルの吊り上がった眉が下がりました。急に子を宥めるような声になったかと思うと、また眼光が光ります。
「この列車は予約制だった。そうだろ」
内開きのドアが力任せに押されました。
飛び込んで来た光景は予想通りのものでした。だけど僕は息を呑みました。オリバーさん以外の全員が目を伏せたり瞑ったりしていました。オリバーさんだけが僅かに首を擡げ、じっと部屋の奥を見据えていました。
壁に面した机に付属した椅子に腰掛けた状態で、クリアと名乗ったあの人が血塗れで息絶えていました。
3/4
乗客が一人欠けた状態で、全員が全員を監視し合わなければならず、尚且つ行き先で揉めている。ここまで材料が揃えば出てくる答えはひとつしかありません。唯一ここにいない乗客であるクリアさんが、恐らく明らかに他殺体の状態で、ドアの向こうにいると思っていました。
予想の上であれほどの衝撃だったのですから、最初に見つけた人はどれほどショックだったでしょうか。
愕然とする僕の目の前に、唐突に手が翳されました。薄暗くなった視界の指の隙間から細い光が差します。それさえ隠すように指が曲がり、僕の片側しかない視界は完全に覆われてしまいました。
肩を押され、されるがままに回れ右をさせられ、ようやく視界に明るさが戻ってきました。
「もういいでしょう。食堂車に向かいましょう」
感情の読めない静かな声が却ってよかったのかもしれません。オリバーさんの一言を皮切りに、皆さん次々と方向転換をしていきます。
「大丈夫かい」
全員の背中を見送りながら、打って変わってオリバーさんはいつもの穏やかな様子でした。意識して作った口ぶり。僕はようやく自分の状況が理解できました。
食堂車の床は、真紅と言うべきかワイン色と言うべきか、上品な濃い色味の絨毯が敷かれていました。お金を使うことそのものを目的にするほどの富豪はこの列車を選ばない。オリバーさんの言葉がふと思い浮かびました。それでも僕は、お勤めのあるお屋敷以外の場所で、こんな高級そうな床材を踏む機会があろうとは思っていませんでした。
他人同士の乗客たちが点々と座る中、僕とオリバーさんだけが隣り合って座りました。シートの背を挟んだだけの位置に、ガーネットさんもまた腰を下ろしています。一瞬のことでしたが、ガーネットさんが安心したように小さく息をついたのを見ました。
リッキーさんは車両入り口の手前に立っていました。こんな状況でも、車掌という立場上乗客の前に座るわけにはいかないのでしょう。忙しなくあらゆる方向に、まるで小動物のように視線を巡らせていました。
「それで?」
もちろん声の主はミセス・パープルです。緊張は既に限界を超え、息苦しいとすら感じます。意図的にオリバーさんを見ることはしませんでした。「大丈夫だよ」などど優しく言われてしまっては目も当てられません。
「それでこれからどうする気? この最悪な空気の中、お互い見張り合って一睡もせず一晩過ごせってのかい」
「呆れた。ただでさえ最悪な空気を、貴方が更に最悪にしてるってわからないのかしら」
「は?」
立ち上がりかけたミセス・パープルを、すぐさまリッキーさんが諌めに走りました。まるで猛獣を手懐けようと必死の新米トレーナーです。どうにか荒立つ前に場を鎮めはしましたが、リッキーさんは恨めしげにガーネットさんを睨んでいました。
「とにかく状況の整理が先だわ。どうするかはその後に決めるのはどうかしら。それぞれ思うことがあるでしょうし」
「なんであんたが仕切ってんのさ」
「じゃあ貴方が仕切ってくれる? 喜んで交代するけど」
舌打ちが聞こえました。ミセス・パープル。ここからはパープルさんと呼びましょう。装いにこそ気品がありますが、状況が状況とは言え、気の短さと血の気の多さがせっかくの若さと美貌をぶち壊しにしています。奥様がこうだと旦那様は大変でしょう。もしかして、だからおひとり旅なのでしょうか。
リッキーさんが、おどおどとガーネットさんとパープルさんを見比べていました。キレ始めるパープルさんを落ち着かせたり、挑発するガーネットさんにちゃんと意見するところを見ると、一見気弱ですがそればかりではなさそうです。僕たちの前で座らないところからも、車掌という立場を忘れない責任感の強さを感じます。
そして。
気付かれないように微かに視線を巡らせ、もうひとりの乗客に注意を向けました。
仏頂面で何も言わない、だけど恐らく内心は不満だらけの罵詈雑言で溢れている、ここにいる乗客の中では最年長のブラック卿。如何にも高級そうな外套や杖や手袋が露骨に金持ちっぽく、この程よく贅沢な寝台列車にはあまりそぐわない身分の持ち主のように思います。
目がこちらに動きました。即座に顔を背けました。辛うじて視線がぶつかることはなかったと、僕は思います。
あとは運転室に運転手がひとり。列車はもう動きませんが、通信手段が遮断されているわけでありません。一応繋がってはいるので、何かあったときに応答できるよう運転室に待機命令になっているとのことでした。
「結論から話させてもらうわ。ワタシたちと同じ駅、同じ時間から乗っていた乗客のひとり、クリア・カラーズ君が――殺された」
一瞬躊躇ったのか間を置いて、しかしはっきりと、ガーネットさんは宣言しました。一挙に空気がひりつきました。屋根や壁が消し飛んで風雪の暴れる最中に放り出されたような衝撃とともに、ついさっき見たその姿が漠然とした既視感を伴って眼前に迫ります。
目をきつく瞑りました。残像が消えません。薄らぐのを待てば待つだけ瞼に焼き付いてくるようで、僕は諦めて目を開けました。
「第一発見者は」
「あたし」
忌々しそうに下唇を噛んで、パープルさんが片手を挙げました。
「あたしとそこの気弱そうな車掌。同時に見つけた」
「見つけたというか……僕はその、無理矢理引っ張られて」
20分ほど前に突然車掌室から引きずり出され、首根っこを掴まれたままクリアさんの個室の前に着くや否や、パープルさんは激しくドアをノックしたと言います。
なにがなんだかわからないけどいくらなんでも無礼すぎることだけはわかるので、当然リッキーさんは割って入りました。応酬が続き、いよいよ力ずくかとリッキーさんが覚悟を固めた頃、反応がないことに苛立ったパープルさんもまた実力行使に移ろうとしていました。
敢えて優しくしておく必要もありません。痩身のリッキーさんを容易に押しのけ、取っ手を滅茶苦茶にがたつかせようと指を引っかけたところで、パープルさんは察知しました。ドアを一枚挟んだ先には、まるで人のいる気配がないことを。
悪寒がしたと言いました。それは豪雪に伴う寒気や既に巡っていた立往生の情報に起因するものではなく、もっと直感的な感覚に紐づく警告だと気付きましたが、今更逃げる選択肢などありませんでした。
摩擦も抵抗もなくドアが開きました。そしてその先に、椅子に座って静かに息絶えている、明らかな他殺体となったクリアさんを発見したとのことでした。
――僕が自分でも驚くほどの時間を眠り込んでいて、いろいろなことを理解するのが遅れているだけなのでしょうか。
「あの」
気付けばそう声が出ていました。思いがけず注意を引き寄せたのを感じました。先にオリバーさんの袖でも突けばよかったと後悔しましたが、もう後の祭りです。風の鳴る音と暖房の低い唸り声だけが下りる中、その儚い静寂に、今更なんでもないふりなどできません。それにどうせ行き当たる疑問です。
「パープルさんは、クリアさんとお知り合いだったと言うことですか」
誰も答えませんでした。
僕を避けて視線が行き交っていました。オリバーさんはわざとらしく頭を傾げていました。
なんだろう、この異様な感じ。嫌な感じ。どうして名前の挙がった当人であるパープルさんまで何も言わないのでしょうか。今の席では本人の様子は窺えないし、と言って見に行くのも不自然です。
やっぱり何かおかしい。もしかして、最初からどこかおかしかったのでしょうか? 一度疑うと更に怪しく思えて来て、つい畳みかけてしまいます。
「だって変じゃないですか? 赤の他人が乗り合わせただけなら、わざわざ個室を訪ねる用事なんてないでしょう」
「クリア君は信条で挨拶周りをしてたじゃないか。案外受け入れられるとか言ってただろう」
「ジュースに絵を描いて配っていましたよね」
僕が気付くことなんてこの人はとっくに気付いているだろうに、と歯痒く思いながらも、自分で整理するために思考を続けます。
ラベルにペンで列車が描かれていました。僕とオリバーさんの分で合計2本。思い返すとあれも妙です。クリアさんが自分で本数に目途をつけていたなら話は違ってきますが、ガーネットさんが初めて僕たちの部屋を訪ねてきたときに言っていたのです。「ここに男の子が来なかったか。こっちに来たように思ったから来た」。
どうして彼が部屋を出たのを追いかけて、別の個室を訪ねるのでしょう。個室と個室が直接繋がっているわけでもないのに。
「あれって、最初から用意するのは何本で、誰に渡すかまで考えてないとできないんじゃないですか。変なことはまだあります。ガーネットさん」
自ら話を向けることに驚きながらも、今はそんな場合ではないことくらいわかります。ガーネットさんは少し肩を強張らせましたが、僕を見ることはしませんでした。
「自分の荷物をぶちまけたから片付けていたと言いましたよね。クリアさんを目で追って、例えばすぐ隣の僕たちの部屋に入ったのを見たとして、そんなに急いだ話なら荷物なんて後回しにして追いかけることもできたのではないですか」
と言って、実際に僕たちの部屋がガーネットさんの部屋の隣だったのかはわかりません。ここに来るまでに個室エリアを抜けてきました。必要なら後で確認できます。
「知っていたんじゃないですか? 次にクリアさんが訪ねるのは僕たちの部屋だって。パープルさんもそうです。車掌さんを連れてクリアさんの部屋に行ったなんて、何か異様なことが起きると知っていたと思われても不思議ではないです」
もっと言うなら、異様なことが起きると知っていたとすれば、それは当然クリアさんが殺されることなどではありません。何か他の、クリアさんが絡んだ異常事態。無理矢理連れ立って行くのですから相当大ごとのはずです。
鳥肌が立ちました。パープルさんがドアを開け放した瞬間、なんと言ったでしょうか。この列車は予約制だったはずだと、あの状況にしてはおかしなことを言っていました。
「……」
思いついたことがあまりにバカバカしく、だけど恐ろしく、口を閉ざしてしまいました。この列車はもしかして、もともと殺人が起きる予定だったのでは? だとすると、本当は誰が?
不自然です。僕は知りませんでした。オリバーさんだってそうでしょう。旦那様に自分の大切なものを預けてまですることではないし、そんなことが知れたら、友達に酷い経験をさせたと弟に嫌われます。いいことが何もありません。
どうして? 何かの手違い? 手違いだとしたら、リッキーさんが言っていた僕とオリバーさんは関係なさそうだというのは辻褄の合う発言です。
立往生、殺人、無関係。ピースが多すぎて混乱する。オリバーさんはどこまで理解しているのでしょう。密かに見やると、指を曲げて口に置き、珍しく何か考え込んでいました。
「とりあえず続けていいかしら」
様子を見るようにガーネットさんの声が差し込まれました。
そうだ、今はとりあえず聞かないと。不注意で横槍を入れてしまいました。
とは言っても、あとのことは想像通りでした。クリアさんの死体を見つけたパープルさんとリッキーさんは、運転手と乗客に知らせに走りました。
それぞれ個室で過ごしていたオリバーさん、ガーネットさん、ブラック卿を現場であるクリアさんの部屋に呼び、何が起こったかを説明していたところ、パープルさんがこれで全部なのかとリッキーさんに確認。乗客名簿で人数と名前を把握していたリッキーさん、圧をかけられ上手く誤魔化せず。オリバーさんの部屋に走ったのがリッキーさんだったことも悪かった。僕の存在がバレてしまい、多少の押し問答の末、オリバーさんとガーネットさんが僕を起こすために通路を引き返すことになる。ずっと寝ているし関係ない、このまま寝かせておけないかと相談していたところ、痺れを切らしたパープルさんたちが突入してきた。
そして現在に至る。
立往生に至ったのは結局いつだったのでしょうか。僕たちが降りるはずだった駅が乗車から2時間後の地点、というのが間違いだったのでしょうか。変に呑気なオリバーさんならあり得ないとも言えなさそうですが、長距離の移動に慣れていそうです。果たしてそんな凡ミスをしでかすかどうか。
「警察には?」
「あ、それは、えっと」
リッキーさんが発言権の申請でもするかのように片手をあげました。
「外への連絡は運転室からじゃないとできないんですけど、今はどうやっても繋がらないみたいで……雪が酷くなってから、切れたり繋がったりしてたみたいで」
「そう。そうよね。この天気じゃ仕方ないことだわ」
「すみません」
「いやね。貴方のせいじゃないでしょう」
「だけど、お客様を安全にご案内できなかったこと自体に関しては、僕たちに責任の一端があります」
「……本当にそんなことないのよ」
少しの沈黙の後、労わるようにガーネットさんは言いました。しかしリッキーさんを見てはいません、微かに首を上向きに擡げ、気を落ち着けるように息を吐き出します。
不意にがさりと音がしました。紙が擦れる音です。ずっと黙っていたブラック卿が新聞を広げていました。クリアさんの死体発見時に部屋から呼ばれたはずです。ただごとではない招集を受けたと思いますが、慎重にも自分の鞄を持って来ているようです。全員で食堂車に移動する際はそこまで見ていませんでした。
「……なんだ」
視線が集まっていることに気付いてか、ブラック卿は低く呟きました。
「そこのガキが言ってたじゃないか。あんたたち知り合いだったんだろう。じゃあ全部あんたらの問題だ。俺には関係ない」
「夕刊かい。何か真新しいニュースでもあったかねえ」
「まだ全部読めてないんだ」
パープルさんの皮肉は受け流されました。
まずいと思ったときにはもう遅すぎました。シートを蹴り上げ、パープルさんはブラック卿に腕を振り上げました。リッキーさんの抑止は一瞬間に合わず、虚しく空を掴みました。
ブラック卿の手から引き剥がされた新聞は、滅茶苦茶に引き裂かれました。引き裂いて引き裂いて引き裂いて、不必要なほどに激しく踏みつけ、ヒールが折れるのではと僕はまったく違うところが気掛かりでした。細切れになった紙面の、ちょうど真っ二つに避けている誰かが写真とは言え不憫でなりません。
「何するんだ!」
あまりのことに暫し呆然としていたブラック卿が声を張り上げました。勝手に肩が竦み上がってしまい、それを見たオリバーさんが「大丈夫だからね」とばかりに目配せしてきます。この人に目撃されたというのがどうにも悔しく、僕はなにげないふりを装いました。
誰も動けない中、数秒間の間、パ―プルさんとブラック卿が睨み合っていました。
「車掌さん」
思いがけず指名を受けたリッキーさんは、名前を呼ばれたことが何かの間違いである証拠を探すように、右を見て左を見ました。が、そんなものはありませんでした。
パープルさんは明らかに様子が変でした。妙な空気が漂う中、リッキーさんは不安げに「なんでしょうか」と蚊の鳴くような声で応じました。
「警察に連絡できてないっていうのは確かかい」
「そのはずですけど」
「今も?」
リッキーさんは一瞬目を逸らしました。当然と言い切るのには無理がありそうですが、納得もできます。今この瞬間を問われては断言できません。外との通信が途切れているらしいという報告があった以降、そう時間は経っていませんが、リッキーさんはずっとこの場に同席していました。
しかしここで食い下がる意図は。気になりましたが問い質せる空気ではありません。
「確認してきます」
程なくして再び食堂車の入口が開きました。数刻前と同様、やはり通信手段は使えませんでした。
或いは遠く、或いは近くで鳴っていた風が、分厚いとまでは言えないであろう列車の壁を叩きました。強風と豪雪の轟きに紛れ、低く暖房が唸る様は、まるでお誂えのような雰囲気です。
パープルさんが動きました。重い頭をゆっくりと揺らし、目を閉じます。やがて開くとスカートの裾を引きずらないように少し持ち上げながら、膝を折って散らばった新聞紙の紙片に触れました。
「今ここで殺人が起きてることは、あたしたち以外誰も知らない。そういうことでいいんだね」
「今更何? そういうことだから全員集まってるんでしょう。現場を触らずに置いてるのも」
「違う。そうじゃない」
低いその声に、困惑が深くなりました。
パープルさんはゆっくりと立ち上がりました。
「警察がまだこれを知らないなら、あたしらで、できるところまででもなんとかしたい。いや、すべきだ。これは予約制の列車だったんだから」
「さっきもそう仰っていましたけど」
突然オリバーさんが口を開きました。腰を浮かせかけたガーネットさんが、中途半端なその姿勢のまま視線を向けてきます。全員がオリバーさんを見ていました。
車内を一瞥して注目が集まっていることを確認すると、オリバーさんは背凭れから少し離れました。こんな状況にそぐわない、つい気が抜けるような穏やかな表情でパープルさんに顔を向けます。
「その予約制というのはどういうことなのか、ご説明いただけないものですか。確かにこれは予約制の列車でしたが、そんな普通のことを言っている雰囲気ではないですよね」
「ちょっと」
「いいじゃないですか。こんなことになって、もう誤魔化し通すのは無理でしょうし。どうせバレるなら明かすほうが気が楽です」
「……やっぱりそこの優男も知ってるじゃないか」
ガーネットさんがちょっと恨めしそうにオリバーさんを睨みました。
「できれば、貴方にご説明いただきたいのですけど」
「わかってるよ。どっちにしろあたししか説明する人間はいない。しかしあんた随分変わってるじゃないか」
ヒールの音が僕たちの前を通り過ぎ、
「作家ってやつを他に何人か見たことあるけど、みんなどっかぶっ飛んでた。でもあんた突き抜けてる」
やがて戻ってきました。
「さすがにこの状況で面白そうな顔してる奴、異常だろ」
残酷に人を殺したくせに無罪になった奴がいる。
許せるわけがない。なんとしてもそいつに罰を与えたい。
「今ここに残ってるのは、被害者の関係者。寝台列車として予約した面子だね。運転手や車掌も噛んでるけど、あくまで私情。会社は関係ない」
事件が起きたのは6年前。殺されたのは14歳の女の子。名前はシャーリー。
パープルさんはピアノの講師だった。
クリアさんは同じ学校の生徒だった。
運転手さんは父親で、ガーネットさんはその弟だった。健全な社会で働く兄と、まともな職では働けなかったガーネットさんは疎遠となっていたが、シャーリーさんの事件によって再び接点を持った。
車掌さんはなんの関係もない他人だが、殺人犯が正式に無罪となり世に放たれたことに憤っており、不意のきっかけで計画を知った際に協力を申し出た。実際この判決と終幕は大いに世論を逆撫でし、裁判のやり直しを求める署名が万を越えて集まった。
その当時僕は7歳で、店の簡単な雑用ばかりで例の買い出しデビューも果たしていません。外との繋がりはありませんでした。遠くで起きた惨い事件を知るきっかけなどなく、お客さんが話していたのを聞いたかもしれませんが、その頃はまだ正式にお店に出ていなかったので記憶にはありません。
二度に亘って提出された署名は無視され、物的証拠や状況証拠の不自然な解釈は正されることなく、あろうことか突然自首してくる青年まで現れ、事態は一時混沌としましたが――やむを得ず再度開廷した裁判は青年に徹底的な自白をさせただけで、世論が望んでいたルート・ブラック卿を審議し直すものではありませんでした。関係者にも世間にも納得のいく人間はいないまま、ブラック卿は二度目の無罪を勝ち取り、犯人の投獄の確定で事件は終わりを迎えたのです。
「許せるわけないだろ? 偽物の犯人まで用意して、卑劣極まりないよ。だからあたしらで罰を与えようとした。そいつが寝てるであろう深夜に部屋に忍び込んで、全員で1回ずつ突き刺してやろうってね」
パープルさんは一度部屋に戻り、自分の荷物を持ってきていました。取り出された布地の小さな袋から出てきたのは、刃をぐるぐるに巻かれて持ち手だけが露わになっている包丁でした。
ひっ、と誰かが息を詰めました。まあ、ブラック卿でしょう。
「だけど、それは自分ひとりでやりたいってクリア君が言ったんだよ。どうしてもやらせて欲しいって」
理由はわかりませんでした。でも自分が直接やらなくていいなら、と思ったのは事実でした。それにクリアさんにも譲るつもりがないらしく、いくら言っても自分ひとりでやると言い張ります。その代わりにちゃんと口裏を合わせて、存在しない犯人像を作り上げてくれと。
「だから、じゃあ凶器だけは準備するからって言ったんだ。さすがに全部を押しつけるなんて嫌だったから。それはあの子もわかってくれて、列車内で受け取ることになってた」
「いかれてますね」
「そりゃそうさ。世間がいかれてんだから。あたしらもいかれるだろ」
だけど、どうにも流れがおかしいことに気が付いた。
一つ目はもちろん、予定にないオリバーさんと僕が乗り込んで来たこと。乗る時間は短いが、寝台列車の個室を使うらしい。打ち合わせた乗客以外は普通車両のみ使用のはずだった。もともと計画に乗った乗客同士、裁判の傍聴で少し見かけたことがある程度。全員関係者ではあるが、個人間での交流はほぼありませんでした。
だからクリアさんが個室に来たのだと納得しました。ジュースを配っていたのは点呼だったのです。列車に乗る前段階で、参加者だけを集めておくわけにはいきません。列車に乗ってしまってから、居合わせた同乗者たちにジュースを配るというカムフラージュに包んだ上で、予定通り人数が揃っているかを確認するのがクリアさんの役目だったのでしょう。絵を描いていたのは本人の趣味以上の理由はないのでしょうけど。
個室に掲げられた名前に知らないものが紛れ込んでいても、ごく数名分なら余分にジュースを用意するくらいは簡単です。普通車両を抜けて運転手さんや車掌さんに確認に行くよりも、自分で様子を見たほうが少ないリスクで済みます。ガーネットさんも気になってクリアさんの後を追い、素性の知れない僕たちに探りを入れに来たといったところです。
そして二つ目の打ち合わせ外の出来事が起こります。途中停車した駅での車掌さんの交代、リッキーさんの登場です。
それは僕が寝てしまってから2時間以上経った後に停まった駅で行われました。車掌さんの交代は特にアナウンスされないので、これはリッキーさんの証言です。
「本部で事務仕事をしてたら連絡があったんです。急で悪いけど、S駅にもうすぐ到着の列車の車掌と交代してくれって。体調不良とか急な都合でそうなること自体は普通にあることなので、特に何も考えず上の指示に従いました」
つまり、リッキーさんが乗って来た段階で、既に僕とオリバーさんが降りるはずだった駅を通過していたことになります。
「で?」
「ん?」
食堂車の会合は解散となっていました。順番に全員を個室に送り、僕とオリバーさんが最後に残りました。送ったと言ってもブラック卿は提案を退けてひとりで戻ってしまったのですが、ここにいるほぼ全員が自分に明確な殺意を向けていたどころか殺す気だったと知ったのです。逃亡したのは健全な反応でしょう。
僕たちが立っているのは、クリアさんの個室の前でした。時刻は8時半を過ぎたところ。僕が起きるまでの時間を考慮しても事件発覚から1時間と経過しておらず、外の豪雪も少し収まって、嘘のような静けさが降りていました。
「ん、じゃなくて。どうして起こしてくれなかったんですか。ちゃんと起こしてくださいって言いましたよね」
詰めてもオリバーさんはけろりとしています。
「よく寝てたからねえ。もう少し先の駅にも、お勧めのお店はあったし。切符代は追加で払える」
「それじゃ帰る時間がずれるでしょう。旦那様に報告してるんじゃないんですか」
「正確に何時何分に帰りますとは言ってない」
「そんな適当でいいんですか? 結構大事なものと僕を連れ出す権利を引き換えていたように思いますけど」
「わかった。白状しよう。君が寝てる間に一度降りて、旦那様に電話をかけた」
やっぱり。担保をかけているのだからそんな理由で約束を破るなんてあり得ないと思っていましたが、事態が掴めてきたことで冷静になりました。この人はそういう選択肢が出てくる人です。連絡するのだから誠実だとでも思っているのかもしれません。
「目的が変わったことを話した。快くとは言わないが、了承してくれた」
「それが立往生した挙句に殺人事件が起きたと。起こしてくれてたらこんなことに巻き込まれずに済んだのに」
「君が寝入ってしまってから随分吹雪いてね。昼過ぎに怪しくなってきて、夕方にストップしたよ」
「最早今日帰るつもりはなかったってことですね」
旦那様が良いと仰ったなら仕方ありません。僕自身、旦那様がそういう判断をする理由がまったく思い当たらないでもなく、オリバーさんを責めることはできませんでした。
だけどこれで情報は出揃いました。
立往生したのは夕方、事件が起きたのは夜8時よりも前。第一発見者はパープルさんとリッキーさん。乗客が現場であるクリアさんの部屋に集められ、寝ていた僕だけが遅れて合流。その後は食堂車に集まり、ひと悶着あって一時全員個室に引き上げ、今ここに達する。運転手さんがずっと運転室にいるのは、唯一外部との連絡が取れる設備があり、待機名命令が出ているため。が、天候のせいで通信は途切れがち。現在はまったく通じておらず警察に通報できていない状況。
もともとこの列車は、6年前の事件の明らかな犯人でありながら、裁判で無罪となり逃げ遂せたルート・ブラック興を断罪するためのものだった。寝台列車の利用客は被害者シャーリーさんの関係者たちであり、その全員で彼を殺害しようという大それた計画が組まれていのだが――
ガーネットさんが様子を見に来たり、パープルさんが暴走したりとよくできたプランとはとても言えません。実際パ―プルさんがリッキーさんの首根っこを掴んでクリアさんの部屋に向かったのは、打ち合わせにないことが重なり、後から乗って来たこいつまでもが部外者なはずがないという暴論のもとだったというのです。これには呆れ果てました。
当然リッキーさんは計画の全容など知りませんでした。
それがなくても全員がほぼ初対面のようなものです。こういう計画だからこそ、深く知らない者同士がいいのかもしれません。が、それにしても粗が目立ちます。
例えばこの計画は、早いうちにガーネットさんがオリバーさんに打ち明けていました。どことなく距離が縮まったように見えていたのは、僕が寝ている間にそういうやり取りがあったからです。
ガーネットさんは考えた末に計画に乗り、今でもあの男が財力と権力を鼻にかけながら生きていることを思うと気が狂いそうになるが、やはりこんなことは間違っていると反対の結論を出していました。深夜の決行直前で立ちはだかり、計画を台無しにするつもりでした。そこに僕とオリバーさん、更にはリッキーさんという異分子が紛れ込んで来たことで、今回の件はひとまずお流れになるだろうと内心安堵していたそうです。
現実には、予定よりかなり早い時間帯で、計画の実行役だったクリアさんが何者かに殺されました。
「例えばもっと遅い時間で、ここがブラック卿の部屋だったとしたら」
華奢な指先がぴんと天井に向きました。
「とてもシンプルだね。返り討ちにされた。ブラック卿の正当防衛で決まりだ」
「だけど、ここは確かにクリアさんに割り当てられた個室です。それに予定の凶器はパープルさんが持ってるし」
パープルさんがリッキーさんを引きずってクリアさんの部屋に行ったのは、凶器の受け渡しのためでもあったそうです。値の張る設備の整った寝台列車とは言え、所詮は列車です。誰かが通路に出ているかもしれないのに、別の殺害現場から遺体を移動させるというのは無理があるように思います。
「そうだね。これは件の計画とはまったく別件の殺人事件ということになる。ここまでのお膳立てに乗っておいて、まさか偶然起こったということはないだろう。何かしらの動機があったのは間違いない」
「動機……でも、みなさんほとんど面識なかったじゃないですか」
「だからそこに嘘がある」
今度は指を自分のこめかみに突きつけ、
「か、本当に誰も認識していない7人目が潜んでいるかだ」
芝居がかった動作が癪に触れ、視界から弾き出しました。
通報する前に犯人を見つけたい。
はっきりとそう告げたパープルさんに反論する人はいませんでした。ガーネットさんだけが最初何か言いかけて黙ったのは、そうしたほうが却って全員の気が紛れるとでも思ったのでしょうか。確かにドン詰まりの状況でお互い睨み合い、緊急時用の保存食や安全かわからないコーヒーで誤魔化すよりは、いくらか建設的かもしれません。
計画外から乗車してきて偏見がないことと、現役の作家で想像力や推察力がありそうということで、探偵役に抜擢されたのがオリバーさんでした。
全員自室に引き上げることになりました。この現状で子供の僕がひとりで部屋に残るのはどうなのかということになり、僕自らオリバーさんと一緒に行動することを宣言しました。ひとりで動き回るのは危険だからと言い添えましたが当たり前ながら方便で、実際には何をするかわからないオリバーさんを放置しておけなかったからです。
乗車して早々、長い時間ぐっすりだった僕が言えたことではないのは承知の上ですが。
「ま、そんな7人目は存在しない。時間で見ても立往生になったのは完全に普通客がいなくなった後だ。こんな何もない線路の上で誰かが侵入するのは現実的ではないね」
探偵役とは言っても語弊のあることで、せいぜい乗客たちの怪しい挙動を指摘したり、現場の不審な点を探す程度のことです。つまりは気休め。誰かを犯人に決めれば落ち着くという心理下の行動。暗黙の了承がわからないのか無視しているのか、恐らく後者ですが、オリバーさんの声のトーンが高くなっています。ちゃんと見張っていないと、と認識を強めます。
「殺された時間がわかってるんですか」
「これは食堂車付きの寝台列車だが、今回は利用がないらしいという話をしたのを覚えてるかい」
ガーネットさんが部屋に来た後、僕の過去が一体どういうものだったのかをオリバーさんに話したときのことです。どうして食堂車の利用がなかったのか今はよくわかります。殺人の実行を控えたディナーなんて悪趣味にも程があります。
「完全に立往生する少し前、駅に停まったんだ。そこで各自食事をしたり、欲しいものを買ったりする。ああ、君が起きたら一緒に食べようと思ってたパンがあるんだけど」
「後でいいです。続けてください」
朝以降何も食べていませんが、食欲はありませんでした。それよりクリアさんが何時頃まで生きていたかのほうが重要です。
「クリア君が降りているのを見た。私と同様、軽食を買ってた。食べたかどうかは知らないけど。これが5時過ぎくらい」
ということは、殺されてからそう時間は経っていません。
「あの時点で、もう寝台列車としての予約客しか列車に乗れなくなってたんだ。車掌さんが入口で待機して、切符と名前を確認して乗車を許可する。リッキーさんだったね。私も乗るとき見てもらった」
「リッキーさん……」
僕たちと同じ枠外の存在だからか、目立っている気がします。
例えばリッキーさんなら予約外の第三者を誘い込むことは可能ですが、あの人こそ僕たち以上に巻き込まれただけの気の毒な人です。当然クリアさんとの面識はありません。
「列車が動き始めたのは6時頃。少しして雪で完全に止まることになる。少なくともこの6時頃から君を起こす8時頃までの間で事件が起きたということだ」
「普通に乗ってきて降りずに隠れてたということは」
言いかけてやめました。あり得ません。僕たち以外に誰もいないことが確定しているから、僕たちのうちの誰かが犯人だという流れになったのです。運転手さんは確かに運転室にこもりきりですが、そこにも部外者がいないことは確認できています。
「確かに僕たち以外に誰もいなさそうですね」
「だからこの時間にどこで誰が何をしていたのか、というのが事件解決の鍵だね。むしろすべてと言ってもいい」
「現場を詳しく見た後に、全員に話を聞きに行くってことですね」
唐突に声が消えました。今度は何か考え込んでいるらしく、曲げた指を唇に載せていました。
「気が進まない」
「は」
横目をこちらに流してきます。
「私は別にいい。あらゆる意味で今更だからね。だけど君は違う」
「僕だって今更ですよ」
「わかってない。君はどうも自分のこととなると異様に疎い。それ以外に関しては目ざといものだが」
「……それってどういう意味ですか」
すぐには返せず、間が開いてしまいました。
オリバーさんは軽く頭を振り、ドアノブに手をかけました。
「まあ、今はこっちだ。君がいいと言うならいい。心の準備は」
「いつでも」
「よし。こんな役回りをさせてはまた旦那様に怒られてしまうだろうが」
ドアを押し開くと同時に、冷えた空気と鉄のにおいが細くはみ出してきました。遺体が傷まないように暖房を止めているのです。
「君の目が必要だ。頼りにしてるよ」
こんなところで傷だらけで冷えきった空気の中で、寒いに決まっています。あとで毛布の一枚でもかけてあげられないのか、相談してみることにします。
僕は冷静でした。ざっと部屋全体を見渡してみます。ツインかシングルかを除けば、僕たちにあてがわれた部屋と違いはなさそうです。ベッドの傍に旅行鞄が置かれていますが、ベッド自体は使った形跡がありません。早い時間だから不自然ではないでしょう。窓には折り目がきっちり入ったカーテンが引かれていて、壁にも備え付けの棚にもどこにも、争ったような跡は見つかりませんでした。
床には髪の毛がいくつか落ちているのが見えましたが、事件を聞きつけて全員が訪れました。第一発見者であるパープルさんやリッキーさんは、動かないクリアさんに呼びかけたり揺すったりしたでしょう。誰のものが落ちていても怪しいとは言えません。
血に塗れた遺体が静かに佇んでいるということ以外、この部屋はまったくもっての平穏でした。その肝心の遺体さえも、生気こそ抜け落ちてしまっていますが、ほとんど眠っているように穏やかです。机に向かって転寝しているところを襲われ、そのまま絶命したのでしょうか。とするとクリアさんは自分が死んだことに気付いていないのかもしれません。
顔を近づけてよく見てみました。凶器はなんでしょうか。それらしいものは近くにはありません。一応後でそれも探してみなくてはと頭に留めおきます。この人数で調べられることを想定するなら、犯人が所持していることはない気がします。
それに刃の長さや大きさが分別できなくても、血の広がり方である程度は具合がわかります。上から下に道筋ができているのではなく、胸全体の広範囲に図形を描くように赤黒くなっていました。一度や二度を刺したわけではありません。わざと何度も刺して傷を作っています。
それなのに。僕は改めてクリアさんの表情に目をやりました。
心臓の辺りも刺されているから、最初にそこを刺したなら即死している? 眠ったまま即死してそれから傷をつけられたなら、この穏やかさもありなのか? でもそんな都合の良い解決があるものなのでしょうか。犯人はずっとここに潜んでいて、クリアさんを殺害できるタイミングを狙い、第一発見者を装って脱出したとか。だけど証言によるとパープルさんとリッキーさんが同時にこの部屋に乗り込み、同時に遺体を発見し、同時に知らせに走っています。
何かおかしい。おかしいのはわかりきっているとして、その中でも特別に絶対的におかしい何かがあります。明らかに異常なその一点の存在は嗅ぎ取れるけど、正体が掴めないのです。
間抜けな短い声とともに、がたりと音がしました。はっとして振り向くと、オリバーさんが壁に手をついてちょうどバランスを立て直したところでした。
「足元を見てなかった。棚を蹴ってしまったよ。君も気を付けて」
特例で立ち入っているのに浮かれて不要なことをして、はにかむ始末。不謹慎な態度にいい加減カチンときて、一言言ってやろうと近寄りました。
「あの」
「終わった? なら、私もいいかな」
僕の横をすり抜けてクリアさんの前に立つと、オリバーさんは、水面に水滴を垂らすとある法則により円状に波が行き渡るのは当たり前、と言うくらい自然に指を組みました。
細かい所作の違いはあれど、死者を前にした人間の普通の行動。僕は度肝を抜かれていました。オリバーさんが目を閉じて微動だにしない数秒間、膨れ上がっていた感情が弾け去ったとまでは言いません。が、ある種の疑心が引っ込んだのは認めるしかありませんでした。
「さて」
指を解き、オリバーさんはクリアさんの遺体を調べ始めました。相当冷静です。臆することなく傷口を凝視したり、口の中を見たりしています。
一緒に見るより後で考え方を共有したほうがフラットです。改めて周囲を観察してみることにしました。床に髪の毛が落ちているのは見ましたが、事件現場にしてはおとなしすぎることもあり、他に目立った発見はありません。
派手に棚を蹴り飛ばしていました。同時に落ちていた何かを蹴り飛ばしていないとも限りません。下を見ながら部屋中を歩き回り、ベッド付近まで来てみると、毛足の長い絨毯上に明らかに小さく浮き出した点を見つけました。
上品な黒い丸ボタンでした。シャツの前や袖を閉じるような小ぶりなものではなく、外套の留め具として使われる周囲を縁取られた大振りのボタン。一見するとただの黒ですが、よく見ると大理石のような模様が入っています。真ん中の穴に巻きついた黒い糸の先は雑に解れていました。
「これ……」
「何か見つけた?」
火がつく勢いで振り返りました。何故かボタンを強く握り込んでおり、自分でも何をしているのか一瞬わからなくなります。
いや本当に何をしているんだ、自分は。ここに来て条件反射で隠したなんて冗談にもなりません。
「ボタンが落ちてました。さっき蹴ったんじゃないですか」
「おやおや。気付かなかったか」
オリバーさんは僕からボタンを受け取ると、目の高さでいろいろな角度に傾けました。
一緒にベッドの傍のクローゼットのハンガーに吊るされた外套を確認しました。最初に僕たちの部屋に訪れたときに着ていたものです。濃い茶色で変わったところのない、木製のシンプルなボタンが並んでいます。
「明らかに違うね。これはボタンだけで値が張りそうだし、外套自体も高いだろう。物的証拠というやつかな」
「え」
オリバーさんは触れていた外套から手を離したところでした。僕の変な声に目を瞬かせています。
「おかしくないですか。だって争った形跡なんて少しもないのに、ボタンが落ちてるなんて。それ千切れてますよ」
「ここに一致するものがない以上、これと同じボタンの外套を着ている誰かが怪しいというのは自然だと思うけど」
「それはそうですけど」
証拠を見つけたというよりは、場にそぐわない変なものを見つけたという感覚でした。それがそのまま決定的とされるなんて納得いきません。オリバーさんらしくないのです。
こうなるとムキになります。ボタンに確と指を突きつけました。
「千切れて落ちたというより、誰かが置いたみたいじゃないですか。まるでそのボタンの外套を着ている誰かに罪を押しつけるみたいに」
「トニー」
オリバーさんは腰を屈め、僕と目線を合わせました。
「昨日も言ったけど、疑いすぎはよくない。一瞬でいろんなことを考えられる人というのは周りも心強く感じるものだが、一定を超ええると自ら溺れに行くようなものだ。至ってシンプルな答えのときだってある」
「今は疑うのが前提のはずです。殺人現場なんだから」
「だけど実際これはここにあった。君が見つけたんじゃないか」
僕が突きつけた指に沿うように、オリバーさんもボタンを示します。
ふと違和感のひとつに思い当たりました。クリアさんの死体を見つけるまでのパープルさんとリッキーさんの話です。
「鍵、開いてたんですよね。クリアさんが見つかったとき」
いくらドアを叩いても反応がなかった。摩擦も抵抗もなくドアが開いた。ふたりとも確かにそう証言しました。
「おかしくはない。ほとんど全員共犯者だし、初対面の私たちにまであれだけ人懐っこかった」
「そうでしょうか。さすがに不用心じゃないですか。だってみんな、ここには卑劣な人殺しがいるって認識だったんでしょう。その全員が一緒にいたならともかく、僕ならそのひとりが変な気を起こさないか不安です」
「ねえ、トニー」
ついにオリバーさんは膝を折り、僕を見上げる形になります。
「言い分はわかる。君の言う通りだ。私も例えば10人中9人が間違いなく味方だとしても、1人が人殺しと確定しているなら警戒すると思う。その頃はもう字を書くのに夢中でほとんどニュースを見なかったが、そんな私にも聞こえるくらい後味の悪い事件だったよ」
「なら」
「でもね」
声に少し力が込められます。
「何度も言うけど、これはシンプルな話なんだ。疑ったり突き詰めたりするのが必ず解決に繋がるわけじゃない。この部屋は誰でも侵入できる状態だった。事件が起こり、本人のものではないボタンが落ちていた。じゃあそのボタンの持ち主が怪しいのでは、という結論に至るのは当然だ。警察ならもっと顕著に追及する」
「そう……ですけど」
言っていることはおかしくありません。確かに僕には考えすぎてしまう節があるようです。でもそれとは別で、どうしてもオリバーさんが結論を急いでいるように見えます。動機はわからないままだし、部屋に誰でも入れた以上、私物が落ちていたからと言ってその人が犯人とは限らないはずです。むしろこれはあからさまな罠のような。そしてそんな使い古しの罠に、僕の知るオリバーさんが引っかかるはずがないのです。
これではまるでオリバーさんが誰かに罪を着せようと目論んでいるみたいです。
僕が黙ったのを納得したと受け取ったのか、オリバーさんは立ち上がってボタンをポケットにしまいました。他に何かないかな、などといつもの調子で言いながら部屋を動き回ります。その様さえもポーズに見えてきました。
事件発生は列車が再び線路を滑り始めた夜、雪で止まらざるを得なくなった夜6時から僕が起きるまでの8時の間。その時間、他の乗客たちと同様に、オリバーさんが何をしていたのか僕は知りません。
もしガーネットさんと一緒にいたなら申告があったはずです。共犯説を考えないならガーネットさんも容疑者から外れ、犯人候補が減ります。いいことしかありません。でもそんな申告はありませんでした。
動機の一切が判明していないなら、オリバーさんも容疑者のひとりとカウントしても不自然ではないでしょうか。そう思われても仕方ない行動をしています。数秒見せた死者を悼むあの態度も嘘を補強するためと仮定することだってできます。僕はこの人の倫理を信じていません。
頭を振りました。長く寝たためか今更頭がじんじん疼いてきます。
考え方を変えてみます。わからないものを考えるから混乱するのです。わかっていることを考え直してみれば、何か見えてくるかもしれません。
ええと、まずやっぱり、一番重要なのは。
「ここにはもう目ぼしいものはなさそうだね。一応凶器を探してみて、みんなに話を聞きに行こうか」
背中を追う前に、一言断ってクリアさんに毛布をかけました。警察の方には注意されるしれませんが、少しは汲んでくれるでしょう。
4/4
決定的だったのは、ブラック卿の鞄から血の付いたナイフが出てきたことでした。刃はしっかり拭き取られていましたが、柄の部分が雑で溝に血が残っています。これには驚きました。凶器はとっくに外に投げ捨てられているものと思っていました。
明らかな証拠が出て来ても、ブラック卿は認めませんでした。
「全員アリバイがないんだろう!? 嵌められたんだよ、私は!」
列車が動いていて運転室から動くことはなく、立往生後も外との連絡手段のためにその場を離れなかった運転手さんを含め、それぞれの部屋を訪ねて話を聞きました。ブラック卿だけは「関係ない」「勝手にやっていろ」などと口汚くドアの奥から罵倒し続けていたところを、パープルさんがリッキーさんから奪い取ったスペアキーで乗り込み、無理矢理通路まで引きずり出したのです。
ブラック卿の目は血走っていました。ここにいるほぼ全員が自分を殺そうとしていたのだと知っているのだから、こうした表情になるのもわかります。
「知るわけないだろ! どうして私にそんな汚いガキを殺す必要があるんだ!」
「計画を知ったんだろ? それはこっちの非でもあったさ。簡単にバレるんだから、どうせ上手くいかなかったんだろうよ」
立ち上がれてすらいないブラック卿の襟を捩り上げながら、パープルさんはオリバーさん、僕、ガーネットさんと視線を流しました。オリバーさんは知らんぷりで天井を見上げましたが、ガーネットさんは険しい顔をしたまま動きませんでした。そっちは自分じゃない、とでも言っているようでした。
パープルさんは鼻を鳴らし、再びブラック卿に向き直りました。
「殺される前に殺したってだけの話じゃないか。今どんな気分だい。これだけ証人がいりゃあ、今度は逃げられないだろうねえ」
ブラック卿は喉を窄めました。このまま威圧されて黙るのかと思いきや、口元が歪に吊り上がりました。
「知ってたら襲撃を返り討つに決まってるだろ! そのほうが
殺したとしても正当防衛だ。誰になんの気兼ねも根回しもなく堂々としていられる」
言葉の端々に嘲笑めいたものが滲んでいました。捩り上げていた襟を、パープルさんは更に引き上げました。仕方ありません。今のは過去を白状したのと同義です。確かにこれは許せないと感じました。
ブラック卿が息をくぐもらせます。棒立ちだったリッキーさんがはっと身を震わせ、強引にパープルさんの手を解きました。
「ふん」
ブラック卿は不快そうに乱れた襟元を直しました。外套の袖にも黒いボタンが縫い付けられています。
「バカバカしい。そんなどこにでもあるボタンひとつがなんだって言うんだ」
しっかりと着込まれた外套の前ボタンは、見たところすべて揃っていました。
「この通り全部揃ってる」
「揃っているかはわかりませんよ。予備のボタンが縫い付けられていることがあります。内側の目立たないところに」
「この際そんなのどうだっていい。あんたの鞄から凶器が出てきた。それで十分だよ」
「だからそれを嵌められたんだって言ってる! こんなに限定的な条件下で、犯行に使った凶器を持ち歩くバカがあるか!」
オリバーさんが冷静に指摘し、パープルさんが粗暴に凄み、ブラック卿が拳を振り上げ反論します。オリバーさんはどうにも退屈そうで、好きにしろとでも言わんばかりです。
しかしそれでも、ブラック卿の主張は尤もでした。最初にどう計画されていたかはともかく、この荒天です。外に投げ捨てておけば雪が勝手に覆い隠して隠滅してくれます。人数もここまで絞られている現状、不利な証拠にしかならない凶器を所持しておくメリットはありません。
そこまで考えていたとしても、一応凶器を探す提案自体はありです。オリバーさんの発言は理に適っていました。
だけど実際に凶器が出てくるのはやりすぎでした。
理論や理屈より感情や印象が先に来てしまいかねません。パープルさんがそうなったように。ブラック卿がやってのけた卑劣な手段の逆の結果とも言えるでしょうか。
理論と理屈が先か、感情と印象が先か。ブラック卿は暫く知らない、嵌められたと喚いていましたが、自分が犯人と断定されたことが案外悪いことばかりでもないことに気付きました。これでいいんだろう、よかったなと吐き捨て、再び自室の奥に引っ込んでしまいました。
ブラック卿からすれば、すべて警察が明らかにすることです。意地になって潔白を証明する必要はありません。犯人を隔離の名目の下おとなしく引き籠っていれば、真犯人と鉢合わせする危険性もありません。誤認で万々歳ということです。
――ベッドに寝転がってもやもやしているうちに、明るくなっていました。
僕はどこでもいくらでも寝られる特技でも持っているのかもしれません。被った覚えのない毛布が2枚肩までかかっていました。
眼帯はしたままでした。隣のベッドは使われた様子がなく、枕カバーもシーツもぴんと張っていました。
「起きた?」
薄いカーテンが端に寄りました。徹夜明けにしては元気そうなオリバーさんが立っています。
「おはよう。早い時間だけど、もうすぐ駅に着くよ。明け方から動き出した」
言っている通り、車体の振動を感じました。風の音も雪の音もしません。天候はすっかり回復したようです。
食べるかい、と例のパンを差し出してきたので断りました。代わりに容器に入った水を受け取り、直接口をつけます。
「現地の警察が駅で待機中らしい。こういう事態だから、一応私たち全員個別に話を聞かれるみたいだ」
「警察」
「怖い?」
意味に気付いて首を振りました。本当に油断できない人です。それでもオリバーさんは僕を安心させるように笑ってみせます。
「リッキーさんが教えに来てくれたよ。同じ内容なんだから案内放送でもすればよかったのに、律儀に部屋を回ってた。ブラック卿には、まあ、ドア越しにでも喋ったんだろう」
「クリアさんに毛布をかけたこと、怒るでしょうか」
「優しい配慮じゃないか。そうしてあげたいと思う人がほとんどだ」
答えになっていません。が、少し気が解れました。ご家族の方を思うと胸が痛みますが、クリアさんだってきっと家に帰りたいはずです。
「駅に着いたらお屋敷に電話してみようか。時間的にはちょっと気が引けるが、今回ばかりは仕方ない」
「聴取があるんでしょう。お屋敷にかけると長引きますよ」
「大丈夫。そんなに時間はかからない」
聴取かお屋敷への電話か、どちらのことを言ったのか掴みあぐねました。
その直後、わかりました。
「何せ凶器を持ったままの犯人がいるからね。巻き込まれただけの私たちが長く拘束されることはない」
両方です。どくんと心臓が跳ねました。
オリバーさんは勝手に喋り続けます。
「心配性な旦那様が迎えに来ると言うかもしれないね。今日は遠慮しないほうがいいと思う。時間がかかりそうだったらどこかで待とうか」
「あの」
「ああ、次の駅は小さいけどそれなりに賑やかでね。近くにホテルもあるから、シャワーでも浴びてゆっくり寝直す?」
「オリバーさん。聞いてください」
すっぱりと声が途切れました。面白いほど言うことを聞いてくれます。だけど笑いが込み上げてくることはありません。それほど僕は切迫していました。
微かに擦れる音を残してカーテンが揺れました。オリバーさんは座っている僕を見下ろしていました。
「誰に便乗してるんですか? わざとですよね。ボタンには予備があるかもなんて、確認しようがないことを言って」
ほんの少しの長い瞬きの後、オリバーさんの瞳が満足そうに灯りました。
舌打ちしそうになるのをなんとか飲み込みました。
「あのボタン、一度はオリバーさんが見つけたんでしょう。うっかり棚ごと蹴飛ばしたふりをして、僕にまた見つけさせたんです。貴方らしくないとは思ったけど、随分面白がってたから」
思い出してみると、あの音もあの声も白々しいものでした。直前のテンションのせいで見逃していましたが、ボタン程度の小物があの勢いで蹴り飛ばされて、壁際まで吹っ飛んでいないのは変です。棚を蹴る音をわざと大仰にして、ボタンに対しては力加減をしていたと考えるほうがまだあり得ます。僕の隙を見て先にボタンを蹴って、直後に棚を蹴ったとか。
問題はその理由です。あのボタンには犯人を示すという役に隠した本当の意味があります。更に謎を作ったということは、オリバーさんはそれを理解しているということです。
鞄から凶器が出てきたなら、普通はその人物を疑います。それが本当に誰かの偽装工作だとするなら、そんな大胆なことができるならボタンがどうこうなんて小細工を仕掛ける必要はありません。だからあのボタンはやりすぎなのです。手間もリスクも増えているし、しかもそのボタンは、該当者の私物と完全に一致していなければ使えません。
ブラック卿に罪を着せて今度こそ社会から消し去る目的を果たすのは、凶器を押しつけるだけで十分だったのです。
だけど実際にそれ以上の工程を踏んでいます。意味がわかりませんでした。
「情報が少なすぎるんです。全部が中途半端で。この列車は過去の事件の関係者の人たちがブラック卿を殺すためだったもので、その中にガーネットさんがいて、そこに僕たちが乗ってしまったのが奇跡的な偶然だったと無理矢理仮定してもまだわかりません」
共犯でブラック卿を殺すはずが、実行役だったはずのクリアさんが殺されて、その罪がブラック卿に着せられて。状況的におかしいのはブラック卿自身も主張していたのに、誰も異を唱えませんでした。計画中止を望み、影で動いていたガーネットさんさえも。
最後の手段に出ようとしていたが、別のきっかけで社会から消えてもらえるのなら願ってもないことだ。さすがの公的機関も世間の目を二度は無視できないだろう。張り詰めた空気の中で無言の結託が密かに生まれていても不思議ではありません。
となると道理はこうです。クリアさんを殺した真犯人は、計画外に乗り込んできた僕たち以外の全員の味方側。
きっと誰もその本人を言及しません。過去の結末に納得していない一庶民は公的機関の中にもたくさんいます。大勢の印象というのは、そう何度も捻じ伏せられるものではありません。そうやって考えていくうちに、犠牲になったクリアさんへの思いも正当化されていきます。
なんて汚いのでしょう。あの穏やかな顔が頭をよぎりました。気持ちよく寝ているところを殺されたなんて都合の良いことがあってはたまりません。そうなるとあの顔はなんのでしょう。
何もわからないのです。ブラック卿の鞄に凶器を仕込めたのは誰か。事件が起きてとにかく集まれと全員が叩き出されたあのときでさえ、きっちりと鞄を持っていたような人なのに。せめてこれが違和感のない一貫した事件であったなら、まだ考えられました。ある箇所を組み立ててればある箇所が浮き、そんな点が多すぎて何も成り立ちません。クリアさんの個室の鍵が開いていたのも謎のままです。
車掌さんはどうして交代したのでしょうか。共犯の1人です。簡単には席を立ちません。だけど唯一直接の関係者ではなかった人でもあります。事件に怖気付き、誰かに話してしまったとしたら、立往生する前に停車命令が出そうなものです。そして従わなければ現在進行形の事件となり、報道が始まります。
少なくとも、全部読めていないからとブラック卿が場違いに持ち出した夕刊には、異常な列車が走行中というニュースはありませんでした。
僕は長い時間寝ていました。あの人も僕とオリバーさんと同じ、規格の外のイレギュラー。そう思っていましたが、もしその前提が間違いだとしたら? 何かと目立っていたのが偶然ではなかったとしたら。
「ブラック卿の件はわかった?」
あと少し何かがわかればどこかが解れそうなのに、指の間をすり抜けていきます。足りない部分があるのです。もっと思い出せ、自分。わからないなら最初から。聞いた話をその通りに、頭の中で映像にして。
「わかったんだろう。それでいいじゃないか。君だって許せないと思ったんだから」
「黙ってください。今考えてるんです」
「何度も言ってるよ。君のそれは頼りになるし心強いが、裏目に出るときもある。今は後者だ。これはシンプルな話なんだよ」
「嫌です、こんな中途半端なの。確かに僕も許せないと感じました。社会から消えるならそれがいいって。でもそのために殺された人がいるのは別の話です。全部納得いきません。ちゃんと答えを知りたいです」
「トニー。たくさん寝て少しはすっきりできた?」
脈絡のないことを突然言われ、戸惑いました。
「旦那様も心配してたよ。最近あまり眠れていないようだって。いつもと違うところに行けば気分が変わるかもしれない、移動時間が長いならその間に休めるかもってね」
お屋敷で僕が出かける準備をしている途中、客間に通されたオリバーさんは旦那様とふたりでした。
僕も気付いていました。最近あまり寝ていないと旦那様も知っていること。なるべく態度に出さないつもりでいましたが、しょうもないミスをしたり、話を聞き直すことが増えていました。近頃の僕の様子をお屋敷にいる誰かから聞いたかもしれません。それがなかったとしても、寝不足の人なんて見ていればわかります。
心配してもらえています。ありがたいことです。でも。
僕は寝てしまいました。二度に分けて一晩分以上の時間です。つまり旦那様は間違っていなかったのです。旦那様の「少なくとも今この瞬間、ここはあの子が安らげる場所ではない」という判断は。
どれほど酷くてバカげていて、凄まじい裏切りであることがわからないほど、自分を理解していないわけではありません。
「ブラック卿の話は終わりだ。ついでにミス・ガーネットのことも。ずっと何か言いたそうだったね。お金のことじゃなかったよ」
「終わってません。知ってるなら教えてください」
ガーネットさんは僕の眼帯を見て驚きました。というより狼狽えていました。この下に本当は何があったのか、オリバーさんはそれも聞いたかもしれません。関係ないことです。
僕の中では何も終わっていません。だから別の終わっていないことが必要なのです。
「終わりだよ。大丈夫。話はまだある」
「なんですか、まだって」
「そのまま」
オリバーさんは僕の横に座り、何か確認するように僕の目を覗き込みました。明け方で薄暗かったのがもう明るく、絵のような綺麗な顔立ちがよく見えました。
そっと腕を掴まれました。見やって視線が逸れた瞬間、背中と頭を引き寄せられました。
如何にも大人の男性というような、品のある香りがしました。旦那様にもこうして抱き寄せられたことがあります。ちょっと似ているような気がします。仄かに爽やかな優しい匂い。両手と胸の温度と相俟って、悪い気はしませんでした。
「やっぱり平気だね。最初に起こそうとしたときは、触れる直前に気付いたのに」
薄く閉じかけていた瞼を開きました。
ガーネットさんと連れ立って僕を起こしに来たとき、声をかけてもダメだったのでしょう、揺すろうとしたオリバーさんの手が触れる前に僕は目を覚ましました。
「トニー。君は事故に遭って拾われるまで、ひとりで生きてきたんだったね。その前、お店にいたときも、酷い毎日で気を許せる人なんていなかったみたいだ。そもそも普通のお店じゃないから和気藹々とはいかないとしても、君は更にそこの子だし」
クリアさんの自室のドアをパープルさんが開けたとき、オリバーさんは僕の目の前に掌を下ろしました。その後、肩を掴んで方向転換させました。
探偵役となったとき。再びクリアさんの自室へ入ろうというときに、オリバーさんは言いました。「君の目が必要だ」。先に手を翳して視界を閉ざしたのは、目隠しの意味ではなかったと明かしたと同じです。
この人は確認するためにやっているのだとわかっていました。だけど知らないふりをしてクリアさんを殺した犯人を探し、そのうちにブラック卿に罪を擦り付けようとする意図に気付きました。
良いのか悪いのか、僕はそれを考え始めたのです。僕の本心の更に奥が望んでいる通り、自分の中の終わっていない過去に蓋をする材料として。
「私はずっと興味があったんだ。君は誰にも助けを求めなかったし、助けられなかった。悪いことでも嘆くことでもない。そういう生き方になってしまっただけだ。だからあの子に執着しているのが不思議でね。孤独だったことの反動かとも思ったんだが」
「イヴァンはもう、僕が守る必要ないんです」
「そうだね。彼は夢心地から現実に戻った。ちゃんと地に足がついた。とりあえず今のところは、だけど」
身体が勝手に震え始めました。離れようか、と言われましたが何も言えません。オリバーさんは僕の背中を緩く摩りました。
「イヴァンが正気で、穏やかに暮らせたらいいってずっと思ってたんです。ずっと最初から。今はまさに理想が叶った形です。優しい、しかも若くてかっこいいご主人様と、そのお嬢様と、僕まで一緒にいていいなんて」
「うん」
「誰かが投げ込んだゴミをよけたり、寒い中眠いのを必死に耐えて陽が差すのを待つ必要もない。屋根と温かい食事とベッドがある。最高なんです」
「そうだね。最高だね」
「でも変なんです」
飽くまでオリバーさんは肯定してくれます。ダメだと内心叫んでいるのに自制が利きません。
安心する度に、心の奥で厄介な声が漏れ出すようになりました。それが今の生活が崩れる不安だったり、無意識のうちにイヴァンを好いているお嬢様が自分の気持ちに気付いて関係が変わり始めることへの不安なら健全でした。
僕の心に溢れる不安は未来のものではなく、今更どうしようもない過去へ宿るものでした。
過去のことだから済んでいるとは限らない。この列車の乗客たちがブラック卿に抱く感情がまさにそうでした。
「考えることがなくなったら、ずっと思い出すんです。何年も前、毎日毎日、何人も相手してたこと。女の人のお客さんもいたけど、僕にはつきませんでした。お店に来る男の人も女の人もみんな気持ち悪かった。僕に仕込みをした人たちもみんな」
「辛い記憶だね。あの人もそう?」
「ガーネットさんは違います。あの人がオーナーになったとき、僕はもうお店に出てました。聞いたかもしれないけど、あの人、嵌められてお店をやるしかない状況だったんです。知ってたからお金を持ったまま逃げたのを気にしてたんです。でも、それと僕がずっと辛かったのは全然別の話じゃないですか。僕をずっと雑用もこなす商売品としか見てなかったのは事実だし」
背中でまた温度が滑りました。またほだされた気がしました。
「まだ違うんです。これももちろん思い出したくない記憶です。あの気持ち悪いお客さんたちの一部が僕の中に刻まれてること、全身引っくり返して掻き出したいくらい嫌です。でも」
「でも?」
「お店を逃げた後のことです。僕、お金をちょっと持ってたのはいいけど、使い方が全然わからなくて。駅に辿り着いたから駅員さんに訊きました。これでできるだけ遠くに行きたいから乗り方を教えて欲しいって。いろいろ訊かれたけど教えてくれました。持ってたパンもくれました」
「優しい人がいてよかった」
本当にいちいち同意してくれます。
まだ駅には着かないでしょうか。もう少し着かないでいて欲しい。優しい匂いがずっと鼻をくすぐっています。
「いろんなことをしながら、なんとか生きていました。たまに簡単な仕事をもらえることがあって、お金はわからなかったからパンと水で報酬をもらってました。だけどそれだけじゃどうしても苦しくなってきて、悪いことをするようになりました」
するとたまにありついていた仕事がなくなりました。だから仕事をくれていたところからも盗むようになり、どうやら僕はちょっとだけ速く走れたようで、ハイペースで悪循環となっていきます。
寒い季節になりました。まともな食べ物も水もなく暖を取れるはずもなく、せめて風を凌げる狭い路地裏で僕は震えていました。何時かわからないけど真っ暗で、視界の端に映る人影もほとんどなくなっていました。
頭が重くて身体がだるくて、詰まった鼻が息苦しくて何度もすすっていました。
「このまま寝ちゃって死んだとしたら、それでもいいと思い始めてました。すごく疲れてたんです。汚い身体を出られるなら、別に悪いことじゃないと思って」
誰かが声をかけてきました。そこまで若くはないけれど、そこまで年を重ねていない男の人でした。その人は医師だと名乗りましたが、調子の悪そうな僕を気遣ったわけではないことは明白でした。僕がよく知っている目をしていました。
「その人についていきました。今日はひとりだと言っていました。食事をもらって薬を飲んでシャワーを浴びて、まだ熱はあったけどかなり楽になってました。それで、すごく久しぶりに」
眠りこけている小さな子供にするみたいに、背中で指が跳ねています。
ここまで来て言うのを躊躇っている自分を殺したいと思いました。これこそが僕が突きつけられているどうしようもない過去だというのに。夢に見るほどの最悪な感情。蓋を失くして噴き出してくる記憶。オリバーさんは黙っています。
「あまりに久しぶりだったから、ちょっとびっくりしてしまったんです。そしたら謝られました。謝るのは僕のほうなのに」
「どうして?」
「驚かせたと勘違いしたみたいです。ちゃんと優しくするからって言って、本当にそうしてくれました。僕はそれが嫌じゃなかったんです」
また躊躇いそうだったから、一息で言いました。オリバーさんはまた黙りました。
「二度とやるもんかって思ってたのに。同じことをしてるのに、嬉しかったんです。誰かに優しくしてもらえてるっていうのが」
熱に浮かされてはいたけど、もしかして、こうしているうちは誰かの優しさに触れていられるんじゃないかと思いました。当時の自分でも異常とさえ感じるほど、僕は歪みきっていました。
何回分かの薬とパンと水をもらってその人の家を出た翌朝以降、すっかり熱が引いた僕は、悪評が回ってしまったその近辺を離れました。別の場所で以前のようにできることをしながら暮らしていました。だけどやっぱりまた苦しくなってきて、また優しさが欲しくなりました。
「そういう人を探して、安心してたってこと?」
どうしてもお腹が空いたり、酷い雨だったり、どこかの制服を着た誰かが歩いているのを見かけたり。ダメだと思うほどに糸が切れました。それでもただ優しくして欲しいなんてあまりにも惨めで、報酬代わりに食べものと水を要求しました。生きるためなどではありませんでした。進めば進むほどその後悔は深く取り返しがつかなくなっていくのに、目先の後悔から逃げるために、僕はずっとそうしていました。
お店を逃げてようやく人間として生きられると思ったのに、僕はもっと人間未満になっていきました。
「いいじゃないか、別に。そのときはそうしないと生きられなかった。今は仕事を持って生活してる。立派だよ」
「立派じゃない。僕は今を生きてないんです。僕が今を生きるために、危うくて頼りなくてほっとけない、嘘も本当も区別がつかないバカなイヴァンが必要だったんです。自分がしたこともされたことも覚えてないような、常に混乱してるような状態のイヴァンが」
ひとりでも歩けるようになったイヴァンにとって、僕はもう用済みなのだと危惧しているわけではありません。そこまで卑屈ではありません。現にイヴァンは、ずっと一緒でよかったと僕に言ってくれました。
嬉しいのに。イヴァンと普通に話せるようになったこと、イヴァンが普通に話していること、よく見たらちょっと表情が変わるようになって、それに気付くのが楽しいとさえ思うのに。
ずっと張り詰めていた心が緩んだその隙間に、過去が流れ込んできます。最初は振り切れました。だけど何度も蘇ってきます。何をしていても溢れ出ます。起きては眠り、眠っては起き、元気を装い更に消耗する日々を繰り返すようになって気付きました。僕は何ひとつ変われていないこと。最初はイヴァンの手を引いて前を歩き、今は一緒に並んで歩いていると思っていたけど、いつからかイヴァンが前にいること。その隣でお嬢様やジェイが楽しそうにして、旦那様が微笑みを湛えて見守っていること。
その優しい視線が後ろの僕へとずれるとき、何か同情するような憐憫めいた色を帯びて、すぐに包み込むほどの優しい笑顔に戻ること。決して急かさず、伸ばした手を取ってくれるのを待ってくれていること。
過去にも現在にも、僕が安らげる場所はありません。もちろん悪いのはすべて僕です。それも耐え難いのです。何も見たくない。何も見ないために、頭の中を満たしておける過去でも現在でもない何かが必要です。殺すための列車で起きた計画外の殺人なんて、ここまで役に沿うことはありませんでした。
これが答え。最低な僕が隠しておきたい最悪な正体。認めると力が抜けました。もっと最悪なのは、何が起きたか知りたいのは本当なのに、
「教えようか、全部。本当の犯人。穏やかな顔だったこと。ボタンのことも鍵のことも」
見透かしたようなオリバーさんの優しい提案に頷けないことです。この人はきっと事実を本当に教えてくれます。僕はまた過去と現在から逃げる術を失います。
どこにも行けない。今あるどれもを選べない。一瞬辛いのを我慢して終わりにできればとも思いますが、その一瞬を耐える勇気がありません。
伝わってくる振動が緩くなってきました。もうすぐ駅に着きます。オリバーさんはちょっと頭を擡げ、着いたら一番に降りようと言ってきました。僕を誰にも会わせないようにしています。今の僕にはそれが一番いいと知っています。
「少し一緒に暮らさないかい、トニー」
オリバーさんはまだ僕の背中を摩っていました。
「変な話じゃない。過去はどうしようもないが、もし現在が辛いなら、違う現在に身を置いてみるのも案というだけだ。別に連れ去ろうとしてるんじゃない。無理を言って預けてるものがあるんだ。私だってこのままというわけにはいかないよ」
仄かに香るのが心地良くて、あれだけ寝たのに、僕はまたまどろんでいました。そう言えば、いつかのイヴァンは寝てばかりでした。
「旦那様はわかってくれるよ。どうしても考えてしまうなら、ゆっくりとことん考えてみればいい。その上で、私と旦那様と、どちらの近くがより落ち着くかを選べばいい。君が思うほど違いはないよ。ただひとつ言えることがあるとすれば、私は旦那様とは違う優しさを渡せるかもしれない」
ぼんやり見つめていた先で、ぼんやり光ったような気がしました。何かの代わりにもらえる優しさとは違う、旦那様が普段向けてくれるそれとも違う優しさ。ここまで醜悪になれるものかといっそ感嘆しました。
最低です。本当にどこまで最低なのでしょう。正しいのがどちらなのかは明白なのに。僕には最初から現在も未来もなかったのかもしれません。
瞼を下ろしました。列車が大きく揺れ、速度を落としていくのがわかります。駅に到着したのです。
温かい手が離れていく。名残惜しいと感じました。
5/4
指定の店に着いた頃、夜10時を過ぎていた。ホテルのフロントで道順を聞く際、簡単な地図でもと言うのでお願いしたら、判読させる気があるのかもわからない妙な図形と線を敷き詰めた紙を渡された。
駅の中心からは少し逸れた立地だった。隠れ家的なニュアンスなのかもしれない。傍に看板もなくひっそり開いている地下への階段を、雑な地図をポケットに突っ込みながら降りる。まだまだ冬の真っ只中。冷たい風の奥に人々の喧騒が遠のいていく。
小さなドアを押すと鈴が鳴った。白いシャツとネクタイのマスターらしき男性がカウンターの奥でグラスを拭いている。小さく「いらっしゃい」と聞こえたが顔も上げなかった。その隣で若いウェイトレスが在庫の確認でもしているのか、ところ狭しと棚に並んだ酒を数えていた。
10時は過ぎると思うのでその頃に、とグレイ氏から指定されていた。見える位置には見当たらない。適当な場所に座ろうと一歩進むと、またもや低く「お待ちですよ」と聞こえた。ウェイトレスがカウンターから出てきて、無言で手を示した。案内してくれるらしい。ついて歩き出すと同時に、ドアの鍵が閉まる音を聞いた。
意外と広い店内の一番奥のテーブル席に、グレイ氏はいた。いつもの如く冷たく眼光を飛ばしてくるが、ウェイトレスは物怖じした様子ひとつなかった。席に着いた私とグレイ氏に頭を下げ、すたすたと去っていく。
グレイ氏は仕事終わりで移動してきたはずだ。ホテルの都合をつけてくれたのもグレイ氏なのだから、早く着いたなら連絡すればよかったのにと率直に思う。
広げていた資料らしいものをさっさと片付け、半分ほど空いていたグラスを中心に持ってきた。酒と仕事。+グレイ氏。ここがバーであることを差し引いたとしても斬新に思えた。
「遅い時間にすみません。ご足労感謝しております」
「とんでもない。お仕事お疲れさまです。こちらこそ申しわけないです」
今回は旅費も交通費もすべて負担してもらっている。意図は伝わったらしくグレイ氏は首を振った。
「呼びつけたのはこちらですから」
腰を下ろしながら持ってきた紙袋を差し出した。駅を降りたときに買ったものだ。シンプルなロゴの菓子折。無難な選択だと思う。
「つまらないものですが、今回は受け取っていただけませんか。私の気が納まらなくて」
グレイ氏は僅かに目線を彷徨わせた後、両手で紙袋を受け取ってくれた。
適度に絞られた照明に照らされた指や手の甲を、気付かれないように注視してみる。14歳の娘がいるというのに、20代とも思える瑞々しさだった。
「ありがとうございます。子供たちも喜びます」
狙いがあって手土産を用意したのではない。謎が多いグレイ氏を探るひとつの指標に遭遇したというだけのことだ。
「ここはよく来られるんですか」
「ときどき。今日は貸切です。看板が出てなかったでしょう」
「融通の利くお店なんですね」
「普段は誰でも入れますが、会員制度がありましてね。便利ですよ。今日は私の招待ということで入店を許可してもらっています」
という言い方をするということは、その会員とやらには小難しい条件があるのだろう。今日は思ったよりグレイ氏の多くが垣間見えるのかもしれない。仄かに興味が募った。
立てかけてあったメニュー表を取り、こちらに向けてくる。
「すみません、私は先にいただいていましたけど。何かお上がりでになりますか。意外とメニューが豊富なんですよ」
「先生は?」
「先に付き合いがありましたので」
「私もそうです。こちらに来たついでに」
適当だった。おそらくグレイ氏も適当なので気にならなかった。
ゆっくり食事を楽しみたい相手なら睨まない。食事を終えた体ならこの時間にもなる。とにかくお互い腹は空いていないらしい。
グレイ氏が手元のグラスを傾けた。引き締まるような柑橘と自然の中を漂うような爽やかな匂いが混ざり、緩く舞い上がった。
「何を飲まれているんですか」
ほぼ透明な液体が波打った。グレイ氏の表情は変わらなかったが、意外に感じているらしいことは伝わってきた。
「恥ずかしながらお酒に疎くて。飲めるほうではないんです。それがカクテルということだけはわかるんですが」
瞳が恍惚に潤んだ。もう酔っているのか。もしかして本当に付き合いがあって一杯目ではないのかもしれない。それでも以前はこんな隙は見せなかった。
グラスを置き、グレイ氏はメニュー表に並んだ文字列のひとつを指差した。
「ギムレット。お気に入りです」
「強くなくても飲めそうでしょうか」
先程の一瞬が嘘のように、教職さながらの明確な口調でグレイ氏は言う。
「やめておきましょう。これが良い。度数も控えめにできます」
空気を察したウェイトレスが来た。名前だけは聞いたことがあるジントニックというそれをグレイ氏が丁寧に注文してくれる。ウェイトレスは頷くことすらなく引き返していった。
「彼女は誰に対してもああなんです。お気を悪くされましたか」
「全然。お酒の入った男性を相手にするならちょうど良いのではと思います。腹を立てないのも会員の条件ですか」
グレイ氏は薄く笑った。不快そうではなかった。綺麗な手が再びグラスに伸びる。
程なくウェイトレスがグラスを運んできた。こちらもほぼ透明だが、スライスしたレモンが沈んでいるせいか色がかって見える。
今更乾杯もないので、すぐに口をつけた。これも柑橘系だ。甘さと苦さがあって、苦さが少し後に残る。心地良く焼けつきながら喉を下りていった。
「どうですか」
「美味しいです。いろいろ試してみたくなりますね」
「よかった。でも無理なさらないでください。きつければもう少し抑えることもできますし、アルコール以外もあります」
今この場では明らかに自分が優位であることに耽っているのではなく、本心から下戸の私を気遣っていた。
なるほど確かに善人ではある。純粋なトニーが却って雁字搦めになるのもわかる気がした。ある程度の割り切りというかドライというか、そういうものがなければ単に強すぎる光か薬だ。その点イヴァンはすっきりしたものなのかもしれない。
黙って飲み進めるグレイ氏について、中身を減らしていく。強くはないがまったく飲めないわけではなかった。
「本物のロビン・ローエンもお酒はやらなかったとか。ラッキーな方ですね」
それでもグレイ氏が明らかにペースを落としているのは、私に合わせているわけではないらしいことは察していた。
グラスの中身は半分と少し。量が減って反映されるレモンの色の濃度が増している。
お互い少しの間無言だった。手持無沙汰にグレイ氏はグラスを玩んでいたが、やがてことりとテーブルに置いた。
「さすがにここで表情を変えるほど迂闊ではありませんか。大丈夫ですよ。そのための会員制度です。しかも今日は貸切です」
「ときどき来られると言っていましたね」
「情報交換の場は必要ですから。と言って、家や学校の敷地内でよからぬ話はなるべくしたくないでしょう? そこのマスターがなかなか承認してくれなくて苦労しました」
グレイ氏につられて顔を向けると、カウンターには文字通り透けるほどのグラスがいくつも並べられていた。マスターはこちらを一瞥すると次のグラスにクロスを当てた。今日の客はふたりだけと確定しているとなれば、入念にグラスを磨きあげたくもなるだろう。
「ということは、その会員というのは」
「ええ、そうです。表社会で公になると、即刻御用の犯罪者どもということになります」
認めた。こんなに唐突にあっさりと、密かに疑っていたそれを。
店を貸し切るとは聞いていた。誰彼聞かれていい話ではないことはわかっていた。だからどうするのかと出方を窺っていたところではあるが、突然吹っ掛けてきた上に、自らも皮の下を覗かせた。
秘密とはこの男にとっては共有するものなのだ。その共有こそが力を増す鍵であり、実際に大きくしてきた。そうでなければ、ここまで目の前の相手の従属を確信した立ち振る舞いにはならない。
秘密は秘めるものと思っていた。大前提の段階で真っ向対立し、しかも一挙に食ってくるとは思わなかった。
笑いが込み上げてきた。少々自分を過信した。好んで餌に食いついたのは私のほうだ。そこは反省せざるを得ない。
面白い。もっと飲みながら話したいのをぐっと堪えた。顔や声は変えられても体質は変えられない。酒に関してはグレイ氏の言う通りラッキーだった。ロビン・ローエンが酒を飲んでいる姿を見なかったことは、私の意思の後押しにはなった。
「こういうお店、ご存じではなかったですか。ロビン・ローエンはこういう場に出ることはあまりなかったかもしれませんが、貴方ご自身は馴染み深いくらいなのでは」
「どうでしょうね。昔から父や兄とそりが悪くて。部屋でひとりで遊んでいることが多かったものですから」
「本当でしょうか。まあなんでもいいです。貴方の子供時代のことなんて」
弟が産まれるまでは。と言い添えなかったことを悔やんだ。グレイ氏の皮肉はどうとも思わないが、言っておけば少し違った表情を見られたかもしれない。世話係はいくらでもいたが、弟がいることで私の過ごし方が変わったのは嘘ではなかった。
「トニーは元気ですよ。まずはそれをお伝えしたくて」
グレイ氏は堂々と足を組んだ。グラスを引き寄せた拍子に残り少ない中身が縁に跳ねる。投げやりな口調だった。砕けた態度は気を許しているのではなく、忌々しく思っているだけと透けている。隠そうとしないのだから透けるという例えは違うか。
「顔色が良くなりました。立ったまま眠りこけているというようなことも、最近はないようです。少しは眠れるようになったんですね」
「よかった。寝ないと背が伸びませんものね。大人になってくると少々徹夜することもあるかもしれませんが、トニーには早すぎます」
手の中で揺れていたグラスが動きを止めた。顔が逸らされ、暫し沈黙が続き、やがてまたグラスが傾いた。
あの日の早朝、列車が停まる直前。大人しく収まっていたのが嘘のように、トニーは私を両手で突き飛ばした。
「行かない」。そう呟いた。片方しかない青い瞳を大きく見開き、酷く息を切らし、細い黒髪に指を滑り込ませて何度も繰り返した。そうして列車が完全に停車する頃、顔面蒼白のまま言い切った。「僕はもう動物じゃない」。
頭を引っ掴んで指で瞼を押し上げて、心の奥に封じ込めているものを無理矢理引きずり出した。今回は確かに強引なことをした。すべてに怯え絶望したような表情は、見知ったトニーからはかけ離れていた。その状況にあっても感情や本能ではなく理性を保った。
映画で観るような主人公然とした姿ではなかった。現実なのだから当たり前だ。ああまで追い込まれれば大人だって踏み止まれない人間はいくらでもいるというのに、凄まじい胆力だった。自らこだわる人間としての尊厳を守り抜いたことに、純粋に敬意と尊敬の念を抱いた。
だから、私もそう思う、と答えた。動物から脱却したことに同意したのではなく、逆の立場でもやっと手に入れたものを失いたくないと思ったからだ。私がトニーでも自分が自分を連れて行こうとする悪い大人と判定することに今更気付き、我ながら滑稽だった。正しい決断ができるかは別問題ではあるが。
ブラック卿は一貫して無実を主張し続けているようだが、覆ることはないだろう。2週間経って話題性は下がってきたとは言え、まだ一定の報道枠を見かける。容疑者が過去に不自然な無罪を勝ち取った資産家というだけでショッキングというもの。そうなるとは思っていたが、以前の審理をやり直せという声も大きい。
ブラック卿は実質檻の中、トニーは元気、ついでに私の弱味を第三者のいるこの場で暴露。認識の上では暴露したことにならないのだろうが、私の反応を楽しんだはずだ。それがどうしてこうも不機嫌なのか。2杯目を注文するグレイ氏は明らかに苛立っていた。
「そう言えば、よくご存じでしたね。駅のこと」
待ってみたがなんの話も始まらないので、自分から振ってみた。グレイ氏の本題は知らないが、せっかくの機会なので私の話もしておきたかった。
届いたのは同じカクテルだった。またギムレット。余程好きなのだろうか。
「予定より遅くなりそうだから連絡しようと思っただけなんです。それが驚きましたよ。電話をつないでもらってすぐに、S駅ですか、なんて」
「急いでいたので、いろいろと省略させていただきました。貴方も新聞くらいはお読みでしょうから、通り魔の話はご存じかと思います」
「突飛ですねえ。もしかして、朝に予定が変わったと歩いてお帰りだったこととも関係するんでしょうか」
「しますよ。入れ替わりで乗った若い車掌はうちの運転手です。専属ではありませんがあの日は使っていました」
驚かなかった。それよりも、だからと言って歩いて帰ることのほうが驚きだった。身分としてはどうにかして車の都合をつけそうなものだが、こんな店に入り浸るくらいだ。ひとりで行動する口実としては、庶民派の笠は確かにちょうどいい。
あの日グレイ氏が出かけていたのは、学校関係者だけの会合ではなかった。各学校が警察と情報を共有していること自体は珍しくないらしい。それとは別に、グレイ氏はもっと深い部分とも関わっていた。
自分の正義を果たすために、自ら進んで闇に飛び込む。本物のバートン・グレイからその名を奪ったと思しきこの男と似たような連中は、たくさんいるということか。
「通り魔のことは憂えていました。無差別でしたからね。今のところうちの生徒は遭遇していませんが、学区内で起きています。近隣校や警察や保護者会と合わせて緊急集会を何度もしてきましたが、ついに容疑者が浮上したんですよ」
「クリア少年?」
「話が早くて助かります」
本当に話が早く進むことに満足しているようだった。飲み進めそうになるのを意図的に抑えていることを察し、気にせず飲んでもらって構わないことを伝えると、苦笑がちになった。
「急いで動向を追ってもらいました。外堀の補強も同時に。本来私はそんなところに首を突っ込める立場ではありませんが、このお店の会員であるということから察していただければ」
「警察にもグレーな方がいらっしゃるのですね」
「医者はよくご存じですね。検視官、弁護士、果ては裁判官。真面目なだけでは通じません。ブラック卿の一件で証明されたはずです」
「自分に返ってきたことも」
「ええ。不運な男です」
例えば「貴方も同じことです」などと言われていたら興醒めだった。そうならなかったことにほっとしつつ、少し飲んで話を促した。ちょっと喉が開いた気がする。
「クリア・カラーズが間違いなくY駅行きの寝台列車に乗っていることがわかりました。目を疑いましたよ。鉄道会社に出してもらった乗客リストに貴方の名前が載っていたんですから。列車がわかれば各駅の通過時間と滞在時間もわかります。そこに貴方から電話だと言われたものですから」
「S駅からとわかった、ということですね」
言ってから少し笑ってしまった。グレイ氏が怪訝な視線を刺してくる。が、一度込み上げてしまったものはなかなか抑えられなかった。
「すみません。酔ったわけではないです。安心したのと、自分の妄想がおかしくて」
「安心?」
「貴方がトニーをあまりにも心配して、密かに監視をつけていたのではないかと思っていました。別車両には一般のお客さんがたくさんいましたし。全然違うちゃんとした理由があったので」
「そんなことしません。それにトニーはきっと気付きますよ。何を言い出すかと思えばくだらない」
「気付かれなければしたということですか」
「後は話した通りです。貴方がいれば事件が起きる可能性は低いから、こちらで対処するまではトニーのこともお願いします、と」
「ブラック卿の話ですね」
グレイ氏が強引に軌道を修正したので、私も合わせた。
目的が変わったことを電話で話したのは事実だが、目的地が変わったのは結果論だった。その列車はこのままでは死人が出る、だから降りずに乗っていてほしい。支離滅裂な話だったが追及はしなかった。詳しく聞く時間もなかったし、個室に寝ているトニーを残していた。
狙われているのはブラック卿だった。その電話の時点で、グレイ氏は運転手、車掌、乗客たちの関係性を把握していた。
「容疑者のクリア・カラーズが件の事件と関わりがあったことは後からわかりましたが、それ以前に異様でしたから。予約制の寝台列車が運行するには、あまりに少人数すぎます。しかもかつて世間を騒がせたブラック卿の名前がある。調べると案の定でした。全員がブラック卿を……というよりもブラック卿が起こした事件を軸に接点があり、目玉設備のはずの食堂車の利用予定はない。最初の車掌にだけこっそり連絡を取りました。彼だけが直接関わりのない協力者でしたから」
「それは運転手さんにも聞こえていたのでは?」
「車掌の交代なんて珍しくないでしょう。そういうわけで、うちの運転手に急遽車掌役をしてもらいました。出発した駅とはそこそこ離れていましたし、同じ鉄道会社とは言え拠点が違えば誰がどれなんてわからないでしょう。リックが間に合うかは運でしたけどね。スピード違反はしていないと言っていましたが、どうだか」
聞けば聞くほどに杜撰な計画だと思った。成功させる気がなかった、というよりも失敗なら失敗でよかったのだと思う。だいたい私があの予約席に滑り込んだのは、適当に嘯いて食い下がったからなのだ。日曜の寝台列車の旅にあの少人数。面倒な客と疎まれただろうが、何もないなら何もないで構わない。種のありそうなところを選んだ。ブラック卿の名前にはぴんと来ていなかった。
ふたり増えた乗客リストを、遺族である運転手もおそらく見ていた。見ていて尚計画実行に舵を切り、車掌の交代を受け入れたなら、失敗することに安堵さえしていたのでは。こういうところが善人は生きづらい。ややこしいのは、予定とは違う人物が殺されたことだった。
もとの車掌にはバレているぞと吐かせた上で、偽車掌であるリッキーにはグレイ氏側の情報は逐一流されていた。立往生は本当だったが、雪で連絡がつかないのは嘘だった。運転手とリッキーは何度も二人きりになっているから、正体を明かして計画破綻を揺さぶっていたのだろう。
本人はそんなことまでは話していなかったが。
とうに日付が変わった深夜、リッキーが部屋を訪ねてきた。寝ているトニーを気にして小声になる私に、リッキーもまた小声になった。場所を変えられればよかったが、変えられる場所はなかった。
帽子を取ったリッキーが別人のようにやんちゃに語ったのは、ボタンに気付いてもらえたことのお礼と、制約と監視だらけのつまらない生活で、ロビン・ローエンの児童書は貴重な娯楽なのだということだった。
ボタンには長い黒髪が巻きついていた。絡まったり引っかかったりしているのではなく、明らかに作為的なものを感じた。髪の毛自体誰のものが落ちていてもおかしくはなかったが、黒髪はトニーとリッキーだけだった。真っ直ぐに伸ばしたそれは、トニーの髪より長かった。リッキーは背中ほどある黒髪を後ろで細く束ねていた。
さすがにその髪一本をポケットに入れておくのには慎重になった。
表向き事件が解決し、部屋でトニーが寝てしまった後に確認したとき、ちゃんと残っていたことに安心した。
持ち歩いているノートを破って作った封筒の中に、間違いなくその髪を入れて鞄の内ポケットにしまい込んだ。もちろん記念品などではない。こんなことをするくらいだから、おそらく本人が確認しに来る。念のために証拠を保管しておこうと思っただけだ。
どうしてクリア・カラーズを殺したのか、またどうやって殺したのか、身振り手振りを沿えて笑いながら話すリッキーは、日常で遭遇した面白いエピソードでも披露しているようだった。
グレイ氏の不満が読めた。ことの次第は本人からも、穏やかではない繋がりの誰かとやらにも聞いただろう。自分がリッキーを投入したからクリア・カラーズが死んだと思っているのだ。子供に異常にこだわるグレイ氏のことだ。クリア・カラーズは学生ではなかったが、17歳の少年は十分に庇護すべき対象だったのだろう。世間を騒がせている通り魔とほぼ断定されたとしても。
「別に気に病むことはないのでは」
グレイ氏はあからさまに眉を顰めた。
私は意識的に笑顔を作った。
「クリア・カラーズは死にたがっていたんでしょう。タイミングが重なってしまっただけ。方法の違いはあれど、遅かれ早かれ同じことになったと思います」
「クズが」
励ましたつもりだったのに。
私が知っている程度、グレイ氏に言うまでもないことはわかっている。同じことを別の誰かにも言われたのだろうな、とも思った。
なんの野望があるのか知りませんが、いちいち大真面目に受け止めていては果たす前に果ててしまいますよ。と言いたかったがさすがにやめた。
事実、クリア・カラーズは死にたがっていた。了承の上で殺したのだとリッキーが言っていた。彼の言うことを100%信じる道理はないが、鍵が開いていたことも穏やかな表情だったことも納得できる。
どうしてそう思っていたのかは教えてもらえなかった。それは個人の秘密であって他人の自分が明かすことではないからという言い分だった。人殺しのくせに妙に正しいっぽいことを言っていた。
この男がグレイ氏の差し金であることはわかった。今回の件は完全にこの男の勝手な暴走であることも理解した。私と同意した目的と完全に矛盾するし、ロビン・ローエンと話ができるなんて夢みたいだとはっきりと言った。
若いなりに責任感のある新米車掌にしか見えなかったが、素で話してみればただの子供だった。21だと言うから驚いた。10代の頃から仕事以外は外に出られない今のような生活で、誕生日すら忘れかけているが、一番好きなチョコレートケーキが差し入れられる日に思い出すのだと言っていた。
「後悔していますよ。やっぱり使うべきではなかった。異様な雰囲気に急を要するものと判断しましたが、少しやり過ぎる節があります。それがなければ優秀なんです。良くも悪くも純粋で、意外と機転が利くものですから」
「それがブラック卿を社会から消したことだと?」
「貴方は本当に話が早い。みんながそうだと良いんですが」
「だけど彼とはずっと繋がっていたわけでしょう。クリア・カラーズを殺すのを止められたのではないですか」
「そうですね。止められたかもしれません。でもずっと繋がっていたということは、私にも彼の声が聞こえていたということです。彼の事情はかなり入り組んでいるのですよ。リックも弁えていたということですし、私も黙ります。通り魔は許せませんが誰も殺してはいませんから」
「もうひとつ聞かせてください。今回のことは、言うなれば社会の裏側の人間が出てくるほどの事件だったんですか」
「単純な理由です。大ごとにしないため。世間に公表するのはブラック卿の逮捕だけで良いですし、通り魔もいなくなりました」
絞り上げた交代前の車掌や運転手には、もう話をつけていた。ミス・ガーネットやミセス・パープルにも同様に根回し済みだと言う。ミス・ガーネットはもともと健全な世界に生きてはいないようだったし、ミセス・パープルも凶器を持ち込む役を買って出たくらいだ。犯行の露呈をまったく想定しないなんてことはなかっただろう。口を閉じる程度で日常生活に戻れるならそうすると思う。やはり事実は後から決まるのだなと納得した。
「いろいろ教えていただいてありがとうございました。リッキー君にもよろしくお伝えください」
「謹慎が明けてからになりますが」
聞く限り普段から謹慎しているようなものだったが。
「いつか大舞台に立つ姿を見てみたいものです。彼なら大勢の人々を楽しませることができるだろうに。予定はありませんか」
「あるわけないでしょう。あのクソガキに正しく才能を使う真似事のひとつでもできたとしたら、私に飼われていませんよ」
趣味でも好きでもないが特技ではあるかもしれない。報われない日々を送る人間が聞いたら一気に頭に血が上りそうなことを、リッキーは言っていた。
彼は私が広げていたノートを指差し、3ページ分くれないかと言ってきた。3枚千切って渡すと、今度は面倒だがそれを8分割して1から順番に数字を書いて、裏に向けてよこせと言う。それらを適当にテーブル上でかき回して重ねた後、書いた数字をなんでもいいから言えと言った。3回試したが、私が示した数字は3回とも一番上にあった。せっかくだったのに、トニーの反応を見られないのが残念だった。
「本当に厄介です。ああやって出し抜いてくるんですよ。役回り上多少物騒なものを持っていることはありますが、考えられない使い方をする」
「力ずくで種を吐かせればいいのに」
「やろうとしたこともありますが無駄でした。それになんというか、とても間抜けな構図ですよね」
グレイ氏が纏っている全身針まみれのような空気が一瞬和らいだ。手品の種を言えと叫びながら痛めつける。シュールだ。ちょっと笑ってしまった。
「あれで自分が好きな人間には悪意を向けないんです。私のことは年に一度チョコレートケーキをくれるからという理由で慕っているようです」
「本当に飼っていますね」
「私が嫌いな人間のことは嫌いだと思っていたんですけどね。何か本の話をしていることはありましたが、よく聞いておけばよかった。作家の名前は言わなかったものですから」
「彼が言っていたのは私が書いたものではなかったですけど」
「言わないでおきましょう。もしかすると悪意と殺意に塗れた手品の餌食です」
それはぞっとする。痛いのも辛いのもできれば避けたい。
グレイ氏が大きく息を吐き出した。酔ってはいなさそうだが、かなり饒舌になってきた。
「今更ですけど、お屋敷は大丈夫ですか」
一応気になっていたことを言ってみた。グレイ氏は雑にギムレットを煽った。
「学校からは離れていますし、今日はどこかに宿泊されるのかもしれませんけど。お屋敷に子供しかいないのでは」
「貴方に心配されずとも大丈夫です」
「護衛でも?」
「そんなところです。……ちょっと小腹が空きましたね」
すぐにウェイトレスがナッツとチーズを運んできた。淡い照明の下でそれらを無造作に口に放り込むグレイ氏は、それはそれで新鮮だったが、どこか粗暴で自棄っぽく見える。やはり普段とは違う印象なのか、今度はお皿を磨きあげているマスターもちらちらと様子を窺っていた。
「今日貴方をお呼びしたのは、もう二度と関わらないでくれと言うためです」
灯りを照らし返すお皿に盛られたナッツとチーズは、単に包装を剥いただけに思えた。私が何もしようがないのは明らかだとしても、こうも無防備になるものか。酒が入っていることは差し置くとしても、やはり今日のグレイ氏は油断だらけの気がする。
この話題は、そこまで無防備にならないと出せないものだったのか。あまり強くないことを伝えた直後、一瞬はっきりと私を見下げた目を思い出した。
「貴方も満足したでしょう。トニーがイヴァンに執着していた理由がわかったのですから。もう追い回す理由はないはずです」
「追い回すとは語弊がありますが、確かに満足はしました」
グレイ氏のペースがまた早くなった。次に来たのはワイングラスだった。甘い匂いが漂ってくる。
ウェイトレスは横目で私を見ると、無言で水を持ってきた。こんな店のスタッフだけあって侮れないらしい。笑顔でお礼を言ってみたが、振り返りもされなかった。
「わかりました。今後はできれば親戚のおじさんのようなポジションで成長を見守りたいと思っていましたが、これっきりにします」
「随分あっさりしていますね」
「私のような人間は子供に悪影響です。それくらいの分別はあるつもりなので」
自分から言い出したくせに、グレイ氏は呆気に取られていた。
こちらこそ呆気に取られる思いだった。グレイ氏からすれば私の心証は初っ端から最悪のはずだし、いろいろと残念ではないと言えば嘘になるが、終わりを告げられてしがみつくほどみっともなくはない。
このお店もそうだった。グレイ氏ともう話せないなら、私がここのメニューを堪能できるのは今日が最初で最後ということではないか。普段は一般人も入れるなんて言っていたが、一度特別枠で受け入れた客を一般人扱いするかどうか。会員になるのも難しそうだ。ここは可能な限りフードどドリンクを試しておくのが最適解。とするとさっき持ってきてもらった水はファインプレーだった。
急に積極的にメニューを吟味し始めたので、グレイ氏の戸惑いに気付かなかった。
「わからなくなってきたんです」
顔を上げた。グレイ氏は神妙な面持ちでグラスを玩んでいた。
「やっぱり私が間違っていた、もう絶対に関わらせないと思いました。ずっと私の裾を掴んで、やっとついてくるような有様だったんです。貴方にも口答えするあのトニーが」
誰とも会わないように一番に列車を下りた。現地の警察での対処はトニーと私で別室だったが、トニーがしばらく話せなかったのは、突然殺人事件に巻き込まれたことのショックが遅れてきたものとでも思われたのだろう。しっかりケアしてやってくれと一声かけられた後は近くのホテルに入り、人が行き来するロビーのソファーでグレイ氏を待った。二人を見送った後のことは知らなかった。徹夜明けだったし、空部屋があればシャワーを浴びて休もうかと呑気に考えていたくらいだ。
「それは」
可哀想なことをしました、と言いかけたが間に合った。
「悪いことをしました」
嘘ではなかった。あちらの解釈は知らないが、私にとっては尊敬する友人である。
「手を差し出したんです。お互い歩きやすくなるし、今なら取ってくれると思って。トニーは驚いていましたが、私の手を取るような素振りをしました」
「素振り?」
「そう。素振り」
トニーがグレイ氏の手を取ろうとして顔を上げた途端、あ、と小さく呟いた。視線を追ってみると、頭の上にパン屋の看板が見えた。小さな出店程度の規模だったが、柔らかそうなメロンパンやチョコを塗したクロワッサン、廃棄部分の切れ端を寄せ集めて焼き直したお菓子の袋詰めなど、ずらりとたくさん並べられていた。
繋がれるはずだった手が、指が、そのお店に向いた。
「お腹が空いたんですね。確かに私といたときは何も食べていません。勧めてはみたんですけど」
また笑ってしまった。やっと苦悩の一端が晴れるかと思ったら、道すがらのパン屋に負けた。空腹には勝てない。自分でもおかしいらしく、グレイ氏も声を殺して笑っていた。
「でも安心しました。久しぶりにちゃんと食べている姿を見られたので。私も一緒にいただきましたが、個人のお店も良いものですね」
「お店の方、驚かれていませんでしたか」
「驚くことなんてありませんよ。売っているから買いに来たというだけなんですから」
グレイ氏はひらりと片手を振った。それとなくもう片方の手も見た。どの指にも指輪はなかった。
「そういうわけで、結局手を取ってくれてはいないのですが」
店の傍らの簡素なベンチでパンを食べ終わる頃には、もうかなりトニーは落ち着いていた。お土産に買って帰りたいと言い出し、綺麗な焼き色がついたものをあれやこれやと選び始めた。
「貴方と出かけていなければ、今もまだ不眠で食事もまともにできないような状態だったかもしれません」
何度も同じ結末を見るような疲労が声に滲んでいた。
足を組み直し、その上で手を組み、グレイ氏は先程とは違う乾いた笑いを零した。
「だからわからなくなったんです。私の感情としては貴方など二度と御免です。異常な興味や気持ち悪い執着心を隠そうともしない化け物。自分だけがなんとかできる立場にいながら、欲と好奇心を優先させて子供が壊れていくのを観察していた畜生。ゴミと変態の極み」
「否定はできませんが、よく本人の前でそこまで言えますね」
「善人ではない自覚はありますが、貴方よりはましなつもりでいるんですよ」
その口の悪さで善人面できるなら、それはそれで大したものだ。
「一緒に暮らし始めてもう1年以上経ちます。名目上は住み込みの使用人なので給与が発生しますが、認識では自分の子供と思っています。トニーの性格についても少しはわかったつもりだったんですが」
「ついさっきまでの威勢はどこにやったんですか。そんな弱気な発言、らしくないじゃないですか」
「私は貴方と違って人間です。弱気になることだってあります」
だからと言って化け物に弱気になったと打ち明けるか。目を離した隙にグラスがまた入れ替わっていた。
トニーが私を選んだら拒む気はなかった。急に引っ越すのはプレッシャーになるだろう。普段自分がそうしているように、ホテルを転々とするつもりだった。
どちらでもいいと思っていたはずだが、確定してみると安心していた。こんな店に通されて確信した。やはり私とグレイ氏にはトニーが思うような違いはない。それでも私よりはグレイ氏のほうが遥かに強固な芯を持つ。名前や年齢はともかく、多くの子供と大人の信頼を得て成り立つ職に就いているというのも堅い。
「それで……関わらせないと思っていたのが、今はどうなったと仰るのです」
「トニーは貴方といたほうが楽なのかもしれないと思い始めています」
それがこれだ。こちらは芯を認めているというのに調子が狂う。
「正直ですね」
「そのためのお酒です」
どうしたものかと頭を捻った。だが関心でもあった。私からすればグレイ氏こそ正義を糧に暴れる化け物だが、弱点を曝け出してくるというならむしろ守ってやりたくなる。
「どうして私といるほうが楽なのですか。あそこまで剥き出しになったのですから、本当にそうなら貴方のところには戻らないと思いますが」
「結果的に私を選んだのだからなんの問題もないと?」
「そうです」
「バカにしないでもらえますか。それだって貴方がトニーの心の奥を踏み荒らして、自分自身を認めさせて受け入れさせたからです。私にはできなかった。これで二度目です。二度目ともなればバカでも多少は考えますよ」
「バカになんてしていません。その口の悪さは深刻ですね。家や学校でボロが出ていなければ良いですが」
「だからバカにするなと」
言葉は飲み込んだが、手は間に合わなかった。底がテーブルに打ちつけられて中身が飛び散る。マスターがこちらを見たが、動かなかった。
ウェイトレスが濡れたテーブルを表情なく拭き上げ、ナッツとチーズの皿を引き上げて替えを持ってきた。あとは好きにやれとばかりにどさっと紙ナプキンを落とし、無言のまま立ち去る。そのうちのひとつを取ると、グレイ氏は袖に散っていた飛沫を拭き取った。対面の私にはなんの被害もなかった。
「もしかして、こういうことをしてしまうかもしれないと最初から言ってあったんですか」
グレイ氏は何も言わずにまだ拭いていた。
「用意周到ですね」
「……貸切のオプションみたいなものです」
嘘か本当かわからないことを言う。が、心配の一声すらないのは不自然なので、予告はしてあったのだろう。そんなに私のことが嫌いなのに、よくふたりで話したいなどと言ったものだ。私だったら嫌いな人間など視界に入れたくもない。
それにしても、トニーにしてもグレイ氏にしても、随分と物事を難しく考える。トニーも酒を飲まないと本音を語れない大人になるのだろうか。
「トニーは最終的に貴方を選んだ、というだけで私には十分な解答だと思えますけど」
そういえば何か頼もうとしていたところだった。気の利いたスイーツでもないものか。フルーツ盛り合わせ。ふむ。
「要するにひとりでトニーを救い出したかったということですか。でもそれは無理だとわかっていたんじゃないですか。だから私との外出を許可したんでしょう。担保は取りましたが」
「貴方が勝手に準備していただけでしょう」
否定しなかった。酒の力は偉大だなと思う。そんなことを言うと今度こそグラスを投げつけられるかもしれないので、にこやかに頷いておく。
「グレイ先生を信頼していますから。とは言え、君が信頼している相手を私も信頼しているぞ、という姿を見せる目的もありました。いくら許可をいただいてもトニーが嫌がったら強制できないので」
「あの日もトニーは自分で行くなんて言ってないですよ」
「少しの勢いはご愛嬌です」
磨かれたばかりらしく光る皿には、キウイやオレンジやブドウがカラフルに盛りつけられていた。妙に高いので下にケーキでもあるのかと覗いてみたが、ただ豪勢に積み重ねられているだけだった。
「貴方がいないと私が選ばれない。どうにも癪に触りますね」
「私は嬉しいです。その理論なら理想の親戚のおじさんポジションも守られるし、弟の友達とはできれば良い関係を保ちたいです。これからもっと難しい年齢になっていきます。2人でトニーを支えていきましょう」
「これでハッピーエンドみたいなまとめ方はやめてください。貴方が私の相棒? 冗談じゃない。腕を切り落としたほうがましです」
「もし本当に腕を切り落としたら教えてくださいね。私が片腕になります」
舌打ちが聞こえた。こうでないと面白くない。
会話が途切れた。心なしかグレイ氏のペースが落ち着いた。私もようやく一杯目が終わり、二杯目に進んだ。
グレイ氏は私を鼻で笑った。
「無理しなくて良いですよ。お酒を飲めない悪い人間もたくさんいますから」
「別に無理はしていません。度数を抑えてもらっていたので、まだいけそうだと思っただけです。まあでも説得力はないですね。気の利くお店のようなので」
ウェイトレス声なく聞いてきた。「どうする?」。度数の確認に他ならない。しかもグレイ氏があらぬ方を向いた瞬間、的確なタイミングだった。
カシスオレンジが置かれた。なんだかフルーツばかりだ。
その気になってメニューを眺めてみると、女性受けしそうなものが多かった。夜この時間はないが、一般客向けとして開けているときは、ランチ限定の紅茶とケーキのセットもあるようだ。どうせなら食べてみたかったなと思いつつ、店内を見渡してみる。びっしり並んだお酒が見えるカウンター席は当然、木目調の壁もテーブルも、今座っているこの据え付けのソファーもお洒落なお店だった。
「どうされたのです」
急にきょろきょろし始めた私をグレイ氏は当然不審がった。
「このお店、女性も1人で入りやすそうですね」
「そういう気安さで設計されているみたいですね。それがなんです」
「せっかくの機会です。友人っぽいことを話しませんか」
「友人?」
微塵も隠さず余すことなく開けっ広げで嫌な顔をされた。
グレイ氏はナッツを2、3個掴んで口に放り込んだ。
「誰のことですか。貴方に友人がいたなんて初耳です」
「もうそういうのはいいので。例えばこんな話はどうですか。今、いい人います?」
「幻滅しました。貴方もそういう下世話な話が好きなタイプだったとは」
「で、いるんですか」
「いませんよ。いたとしても貴方には関係ないでしょう」
「関係はないですけど、グレイ先生、お若いじゃないですか」
忌々しそうに歪んだグレイ氏の頬が更にひくついた。
「顔も広そうですし、お店のセンスも良いし、そういえばどうなんだろうと思いまして。そのルックスなら女性のほうが放っておかないでしょう。なんなら一夜だけの関係でも」
「くだらない」
グレイ氏はゴミでも払うように吐き捨てた。
「子供のことで忙しいんです。女性にかまける暇などありませんし、私は十分幸せです。娘のことはジェイに相談できるので困ったこともありません」
ミセス・ジェイには件の日以外にも世話になった。グレイ氏の屋敷に勤めて長いという彼女は、休日までも趣味でキッチンを使いに行くため、20年連れ添う夫にも呆れられているらしい。
なんだ、面白くない。まったく無関係な恋愛話を聞いて時間を無駄にするのが楽しいのに。
「そういう貴方は?」
易しいカシスオレンジのストローをいじっていると、切り返してきた。意外だった。流れとしては自然だが、私に対してやたら攻撃的で毒々しく棘だらけのグレイ氏のこと。話自体をぶった切ると思ったのに。
「確か独身でいらっしゃいますね。時間もある程度は自由とお見受けします。最近は人付き合いも堅実でお仕事も順調のご様子。前から容姿だけは褒められていたみたいですからね。貴方のほうこそ女性が放っておかないのでは」
ホテルのフロントで、地図っぽい雰囲気の紙を俯き気味に上目遣いで渡してきた女性を思い出した。
「興味あります?」
「ないです。貴方に大事な女性のひとりでもいるなら、膿んだ脳味噌を煮詰めて更に絞り出したような気持ち悪い異常な悪癖も、少しはなりを潜めるかもしれないと思っただけです」
「次々と独特の暴言が出てきますね。うっかり殺されないと良いのですが」
「そうですね。貴方と付き合う女性が可哀想です」
そうですね、とは。
名残惜しいが普通の話はまたの機会にと決める。ここまでの流れで言うと、今後も絶縁状態にはならないはずである。
「グレイ先生。ひとつお聞きして良いですか」
「良くないと言ったらやめるのですか」
「ちょっと込み入ったことなので」
「聞いてから考えます」
「おいくつですか」
は? という顔になった。
「は?」
本当に言った。
止まっていたワインを少し飲み、ナッツとチーズをつまんだ。
「32です。どこが込み入っているのですか。改まって何を言い出すのかと思えば、どうでもいいことを仰々しい。言葉尻を捉えて得意げにされるのもうんざりですが、ここまで堂々とバカにされるとさすがに気分が悪いです」
「初めてお会いしてから今現在今日この瞬間一瞬一秒に至るまで、私はグレイ先生をバカにしたことなど一度としてありません。それに言葉尻を捉えたと仰っていますが、前回特に否定されなかったではないですか。否定しないということは肯定だと私は思っています」
「二極端ですね。貴方はそういうのは好まないと思っていましたが」
「では答えてください。前回の話について。年齢はその延長です。否定ですか? 肯定ですか? ほら込み入っているでしょう?」
グレイ氏は片手でグラスを揺らしながらメニュー表に目を落とした。まだ飲むつもりらしい。
黙秘権を行使か。答えてもらえるとは思っていなかったし、聞いてから考えると言ったのを了承していた。カットフルーツのひとつを口に放り込んだ。
それでも年齢は答えやすいと思っていた。32歳。14歳の娘はギリギリだ。嘘でも嘘ではないと言っておけばいいのに。
ウェイトレスが再度下がった。何杯目かわからなくなってきたが、その濃い紫は初めて見る。
「28です」
グラスに口をつけたままグレイ氏が静止した。聞こえたのはグレイ氏の声ではなかった。
「確かそうです。28。今年なられたんでしたっけね。お若くて血気盛んだ。見ているとこちらまで張りが出ます」
グレイ氏はただ驚いていた。何を言っているんだこいつはと凝視していた。皿もグラスも終わって手持無沙汰なのか、マスターが拭き上げているのは中身の入ったボトルだった。
マスターは一瞬手を止め、尚も目を見開いているグレイ氏を見たが、再び手を動かし始めた。
「独り言です。貸切のオプションみたいなものです」
呆然としていたグレイ氏がやっとグラスを置くと、大仰に座り直した。
「話に入ってくるなんて珍しいですね。何を見ても聞いても知らぬ存ぜぬが貴方の信条とばかり思っていましたが」
「普段はそうです。でも最初、私にわざと聞こえるようにその方の秘密をばらしたでしょう。もちろんここではばらしたことにはなりませんけど」
次のボトルを手に取ると、続けて磨き始める。
「ちょっと狡いですよね。こういう店だと紹介する目的があったとしても。だからこれであいこです。じゃあ話を続けてください」
気まずい空気が流れる中、あ、とマスターがぼやいた。
「大丈夫ですよ。貸切ですから」
5秒経った。そろそろいいだろうか。グラスを持ったまま不貞腐れたように顔を背けているグレイ氏に問いかけた。
「本当ですか」
ナイフのような目線が飛んできた。揺るがない姿勢に感服するばかりだ。
「本当ですか、28というのは。やっぱり相当お若いですね」
「32です」
「お客さん」
その呼びかけはグレイ氏に向けられたものと思ったが、マスターが見ていたのは私だった。
「すみませんね、お客さん。もう一度口を挟ませてもらって良いですか」
「大歓迎です」
「どうしてそっちの得体の知れないクレイジー野郎にだけ許可を求めるんですか。今日のホストは私のはずです」
「お客さん」
今度はグレイ氏のことだった。マスターが会員であるグレイ氏をそう呼ぶのは変だと思わないでもないが、こういう店なら名前は言わないほうが安全なのかもしれない。
「私が本当にあいこにするためだけに、お客さんの年齢をばらしたと思ってるんですか。もうばれてるんですよ。そちらの方が重ねて訊いたとき、あんた黙ったでしょう。嘘でも嘘じゃないと言えば済んだのに」
おや。
「校長先生なんでしょう。実際の経歴は知りませんが、年齢に関して嘘を吐いていることを前提としましょう。低く申告するのは悪手ですよね。一学園の最高責任者に若さを求める人はいませんから。これが50だ60だというならまだわかる。でも主張は32ときた」
カクテルではなく水を飲んだ。マスターの口調には大部分呆れが混ざっていた。静聴するに限る。
「貴方の見た目や娘さんの年齢、周囲のお仲間さんたちのことまで考えたら、そのへんが限界でしょうね。闇医者に顔や骨格を変えてもらうまではしてないようですし。としたら、実際の年齢はもっと低いという結論にしかならない。20代前半ではさすがに無理が出てくる。娘さんにしたって妹さんとしたほうがスムーズだ。だが親子は譲れない。嘘か本当かは知りませんが。素のまま歳を偽るのは無理をしてせいぜい4、5歳。32。28。ドンピシャじゃないですか」
演説が終わった。ほとんど私が考えていたようなことだった。グレイ氏がすぐに答えられなかったのは、無理矢理以前のことに話を結び付けられたからかもしれない。実際紐づいているかどうかは直感だった。誰かの名前を使っているなら年齢のひとつやふたつずれているのではと思っただけで、何かしようとしたわけではない。友人っぽい話をしてみたいと感じたのは本当なのだ。
それがここまで鮮やかに暴かれてしまうとは。思いがけず探偵さながらの洞察力を見せつけてきたマスターは、次の拭き上げに移りながら大袈裟に溜息をついた。
「こんなの普段の貴方なら気付いたことでしょう。ちょっと飲みすぎじゃないですか。しかも苛々してるものだから余計に頭が鈍ってる」
痛烈だ。しかしグレイ氏も負けていない。
「これくらい平気です。お酒のひとつやふたつくらい飲めないと話もできませんから。バーボンでももらいましょうか」
「それはあんたでしょうが」
負けか。
「まったく恥ずかしい。若造がちょっと飲めるからって粋がるんじゃないよ。ミア、生意気なほうに水を」
ミアというのか。ここで働いているということは、この娘もまともに生きてはいないのか。まあそれはいい。
「あの、そういえば。会員にしてくれなくて苦労したと仰っていましたが」
バーボンではなく水に文句を言うのはわかりきっていたので、その前に割って入った。案の定グレイ氏は不満げに腕を組み、子供さながらにそっぽを向いた。
「グレイ先生が会員になったのはいつ頃なんですか」
「4年前ですね。最初にご来店なさったのはもっと前です。お客さんの招待でいらっしゃったんですが、そのときは一応学生さんでした。だからその連れてきたお客さんに怒りましたよ。こんな若い子だなんて聞いてないってね」
「若いとダメなんですか」
「ダメに決まってるでしょう。こんな店に来るってことは、普通に生きてれば関わらなくていいことにわざわざ首を突っ込んでいくってことなんですから。しかもそのときもう子供がいるなんて言うから、初対面の方をあんなに怒鳴りつけたのは後にも先にもあのときだけです」
「余計な昔話はやめてもらえませんか」
「私は今この方と話してるんです。余計な口を挟まないでください」
グレイ氏はあからさまに舌打ちした。その割りには素直に水を飲んでいる。嘘は吐くが素直ではあるようだ。
「それがどうして会員の許可を?」
「あまりにもしつこくて。なんやかやと理想だか野望だかを語るんですよ。さすがに一般客に紛れては来ませんでしたが。それで今度は先生になったとか言うから、私また怒っちゃいましたよ」
「怒られてばかりですね」
「怒りますよ。そりゃここにはいろんな職業の方が来られます。表向き立派な肩書きの方もたくさんおられます。だけど学校の先生だなんて、少し間違えば無闇矢鱈に必要ない犠牲を増やすかもしれない。そんな人に関わりたくないよ、やっぱりね。けど」
マスターはごとりとボトルを置くと、私ではなくグレイ氏を見た。納得いってなさげだが、諦めたような、それでいて少し認めたような複雑味が瞳に混ざっていた。
「自分の子供の話はしませんでしたね。その理想だか野望だかに関しては。私に子供はいませんが、親なら自分の子供に何かしら結び付けそうじゃないですか。そこが引っかかって」
「もう気が済んだでしょう。そうだ。前払いは全額ではなかったですね。払い渋っちゃうかも」
「別に構いませんよ。致命的なマイナスにはならないので。あんたの名前は名簿から消させてもらいますけどね」
露骨に顔が歪められ、得意げに立てられた指が引っ込んだ。常に勇ましく正しく背筋を伸ばしているようなイメージのグレイ氏だが、こんなふうにあしらう人間がいたのか。不満そうながら言うことを聞くので、付き合いが長いマスターには気を許していると見た。
止められたこともあり、マスター自身このあたりが潮目と判断したようだ。呆れたように大きく息をついた。
「しかし気が知れませんよ。歳を多く言うなんてね。若い人は嫌いじゃないが、若すぎる奴の考えることはわかりません」
「何も私だけがそうしているわけではないです。そこの腐れ外道もいくつか多く言っているはずですよ」
「あんたはまず言葉の使い方を見直してください。そこのあんちゃんがどこの誰で何をしたのか私は知りませんが、相手によってはもう取り返しがつきませんよ。死に様の見本市でも開催するんですか。くだらない自滅で自殺する気なら他所でお願いします」
「口が減らないのはお互い様みたいですね。全員にこんな感じのわけないでしょう。冗談の通じない人間には言いません」
「さっき言ってませんでしたか。冗談じゃないとか腕を切り落としたほうがいいとか」
噴きそうになったのを堪えた。思ったことを惜しみなく言ってくれる。マスターとは良い関係になれそうな気がするが、またここに来れる機会はあるだろうか。
「水を差して失礼しました」
マスターの口調が最初の抑揚のないものに戻った。並べていた酒のボトルを棚に戻し、手を洗っている。
「まだおられますか? 私は一度奥に下がります。お客さん方を信用していますから」
「よく言う」
グレイ氏の小声をマスターは無視した。
「あんたは? まだ飲む? めちゃくちゃ多めに割るなら出さないでもないですが。ミア」
ウェイトレスが頷き、何かあったら呼べとばかりにカウンター手前に立った。マスターはカウンターの奥に引っ込んだ。
「28ですか。年上ですね」
残っているナッツをひとつ取る。グレイ氏はふたつ取った。
「皮肉ですか」
「だからどうしてそうなるんです。年上だから年上ですねと言っただけでしょう。なにげない世間話です」
「大人げないとでも言われるのかと思いまして」
「自覚があるんですか?」
答えはなかった。
「お互い実年齢だと4歳差、公表年齢だと3歳差。ともかく結論としては似たことをしているわけです」
「だから?」
「友人と言って差し支えないですね」
「貴方と友人になった覚えなどありません」
「崩さないんですね、そのスタンスは。もしかして本当に私が本気だと思っているんでしょうか。だったら尚更ちょっとくらい付き合ってくれてもいいのに」
チーズとナッツと水を交互に口に入れていたグレイ氏が、急に動きを止めた。もの言いたそうにこちらを一瞬睨み、かと思うと、メニューを滑らせた。
「気になるのは?」
唐突だった。
固まっていると、更に押し出してきた。
「気になる名前はありませんか。ここのお酒で。あれば飲みやすいように調整してもらいます。リクエストもできます」
「リクエスト」
「かなりざっくりした感じで大丈夫です。甘いのがいいとかすっきり系がいいとか、ちょっと苦味が欲しいとか。彼女、得意なんですよ」
「……ああ、なるほど」
と言うのと理解が追いつくのは同時だった。酒に強くないとは言えアルコールの強弱はさすがにわかる。普段飲まないからか、頭の中が少し霧がかっているようだった。
「すごいですね。見たところ20ちょっとですけど」
「年齢なんて当てになりません」
グレイ氏がここにきて意表を突いてきたからかもしれない。今目の前にいる男の名前すら知らないというのに、まるで友人そのものなのだ。乗ってこないからとからかっているのに、乗ってこられると宙ぶらりんになる。
「やめておきますか。なんだかぼんやりしているようですし」
見下しているのが半分、気遣っているのが半分のような声だった。 引き上げられかけたメニューを押さえた。グレイ氏が目を丸くしている。酒のことはわからない。いくらか名前を聞いたことがある程度だ。その中から選ぶか、適当に見繕ってもらうか。水ではなくカクテルが入ったグラスを取った。氷が鳴る音がやけに大きく頭を叩いた。
気付けば声を聞いていた。先生、先生と呼ぶ声だ。聞いたことがあるが誰かわからない。揺らされている。頭が痛い。寝返りを打とうとして反転で止まった。壁際まで来たのか。寝相はそんなに悪くないつもりだったのに。
「先生ってば」
目が醒めた。目の前には壁ではなく、濃い茶色のソファーの背が迫っていた。見覚えのない毛布が2枚肩までかかっていた。
「おー、起きた。おはようございます、先生。この前ぶりだな」
よくわからない。毛布をはぐって身体を起こす。また頭がずきりと疼いた。記憶がない。立とうとして膝を打ちつけた。テーブルの上には何もなく、メニューを立てかけてあったと思われるスタンドだけが虚しく佇んでいた。
そうか。メニューか。
「俺がわかる?」
長い黒髪を緩くまとめ、顔の横で鍵を回しながら手を振る青年。やんちゃで悪戯っぽい表情。格好が違うから印象が違うが子供っぽいのは変わらない。知っている顔だった。
「リッキー」
「正解! そんなに酷い二日酔いじゃなさそうだな」
「リッキー。どうしてここにいるんだい。例の一件で謹慎中だとか」
「そうだけど良い子にしてると仕事をくれる。そしたら外に出れる。今日はひとりだけど、ボスが一緒だとたまに寄り道してアイスとか買ってくれるんだ」
呼ばせているのか呼んでいるのか知らないが、やっていることと呼称が合わない。グレイ氏に言いつけられて迎えに来たようだ。
しかし店で寝てしまうなんて迷惑をかけてしまった。マスターと、ミアがいるならミアにも謝らなければ。だが時間はかなりの早朝だった。もし寝ているなら起こすのは忍びなかった。
「いいホテル取ってたんだろ? もったいない。でもすごいや。こんなことよっぽど信用されてないとできないから」
「こんなこと?」
「酔って寝始めたら叩き起こしてでもつまみ出すだろ。それをしないってことは、ある程度信頼されてるんだよ。ボスがマスターに頼み込んだんじゃないの」
リッキーの視線が動いた。
彼が聞いていることは私にも聞こえるとグレイ氏が言っていた。当然言っていることも聞こえる。何か言われたのだろう。この監視下なら単独行動させるのも納得だった。
「どうする? ホテルでも家でも送るよ。家なら軽くどのあたりかは聞くけど」
今度は膝をぶつけないように立ち上がった。頭の奥が鈍く唸っていた。グレイ氏と話したことは覚えていた。だが昨日の自分は一体何を思ったのだろうか。あれこれと指定して飲んだのは確かだが、どうしてあそこまで羽目を外したのかがあやふやだった。
グレイ氏の謎がひとつ解け、柄にもなく浮かれた。その時点で大して飲めもしない酒が入っていた。答えはそれに尽きる。
「起きましたか」
カウンターから声がした。早朝だというのに昨日と同じくきっちり身支度したマスターが出てきた。片手に水の入ったグラスを持って近づいてくる。
挨拶の後に頭を下げた。目を見るのも恥ずかしいくらいだが、見ないともっと失礼だ。
「ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「これもオプションみたいなものですから。実は貸切自体使える人は多くないんですよ。ああ、もちろんお金じゃなくてね」
グラスを受け取り、少し悩んだが座り直した。常温の水が身体に行き届く。酔いは醒めないがちょっとすっきりした。
「いろいろありがとうございました。もしかして私がいるから帰れなかったとか」
「とんでもない。奥が住まいになっています」
今は寝ているがミアもいると言う。子供がいないとは言ったがほとんど娘みたいなもので、人件費が浮いて助かると調子の良いことを言いながらもマスターの表情は父親のそれにしか見えなかった。
続いてリッキーに顔が向いた。
「君は? 何か飲む?」
「いいの?」
「こんな早朝にご苦労だからね。いつものところから来たんでしょ? お酒以外なら出せるけど」
「お知り合いですか」
意外にも親しげなので驚いた。酒を飲みに来るなら運転手がいてもおかしくはないが、通常は外で主人を待つ。ここが普通の店ではないとしても運転手と店主と気さくになる展開は稀に思えた。
オレンジジュースとスコーンを持ってきたマスターは苦笑した。
「さっき言った通りです。貸切を予約できるお客さんは多くないので」
文句を言いながらもマスターとグレイ氏の繋がりは深いことがよくわかった。思い出してみればふたりとも言いたいことを言っていた気がする。
ゆっくり水を飲んでいるうちに落ち着いてきた。車の揺れにも耐えられそうだと思ったところで気付いた。わざと酔いを和らげさせる時間を取っていたのだ。留め置くことを頼んでくれたなら、おそらくこれもグレイ氏の配慮。完璧すぎる。
「リッキー」
「うん」
リッキーはただの休憩ではなくちゃっかり食事モードだ。グレイ氏はこの青年を飼っていると言った。確かに小動物のような無邪気さを感じた。本人が希望したからだとしても、つい先日に人を殺したなんて信じられないくらいだった。
「ボスには本当に女の人はいないのかい」
「女の人?」
反応を想像すると面白い。ここまで完璧にされると、同じ男としてはさすがに悔しい。礼代わりというのは伝わるだろう。
「本人はいないし興味もないって言うんだけどね。どうも信じられなくて」
「んー。見たことはないけどな」
こちらにはグレイ氏の声が聞こえないのが惜しかった。
聞くと基本的には会話できる状態だが、あちら側で一方的にオンとオフを切り替えられる仕組みらしい。オフにされてもこちらではわからない。更に2つでシステムが違うので、こちらにはあちらの声しか聞こえないが、あちらにはより広範囲で拾えるだけの声と音が届く。常に第三者の声を聞いている状態になるので、表情と視線を動かさないように訓練されている。許可されたときだけその規定が緩和される。
気が狂いそうな毎日だが、一応人間の尊重として、特定の合図を送れば2分単位でスイッチを切ってもらえるそうだ。果たしてそれが人間としての尊重になるのか、私にはまったく理解できない話だった。
もう一度お礼と謝罪をして店を出た。後部座席に乗り込み、自宅ではなくホテルを指定する。リッキーは意外そうに振り返ってきた。
「荷物を取ってくるだけじゃなくて? 本当に?」
「往復で交通費をいただいてるから」
「いちいち気にすんな鬱陶しい。ってボスが言ってるけど」
「一言多いのが君のボスの美学なんだろうね。シャワーでも浴びてゆっくりしてから帰るよ」
「ふーん……」
何故かつまらなそうだった。白い絹地に覆われた手をハンドルにかけたまま、エンジンをかけようとしもしない。なんだ。役割ではなく本当に人を乗せての運転が好きで、ホテルまでだとすぐに着くから面白くない? そういう単純な感情で行動しそうではあるが。
「リッキー?」
「いや、すぐ着いちゃうなーと思って」
やっぱり。
「うーん……」
ここまで悩むのはおかしい。今生の別れではない。そうならずに済んだ。トニーとまだ関わることを許されたということはグレイ氏との交友もあるし、素性を知っているリッキーも含まれる。意図が掴めなかった。
「家ならちょっと遠いみたいだから、運転しながら話そうと思ったんだけど。別にそんな深刻なことじゃないんだけどさ、あの日のことでひとつ言ってないことがあって。……違うよ。別に隠してたんじゃない。事件そのものには全然関係ないんだ」
弁明するような、というよりも拗ねて反論しているような口調に変わった。少しの間を置いて再び口を開いた。
「女の人みたいに喋る男の人がいただろ?」
「ミス・ガーネット?」
「そう。トニーを気にしてた」
「トニーを気にしてたのは、過去にお金を持ったままいなくなったことを咎めてたんじゃなく、その前日に部屋で客が死んでたからだって話だったけど」
トニーが寝入り、水でも買おうとひとりで個室を出ていたときにミス・ガーネットに呼び止められた。どうしてトニーをこんなところに連れて来たのかと怒っていて、話してくれた。
トニーの上客が部屋で首を吊っていた。
素人目に見ても不自然な首吊りだった。違法な店だが振り切って警察を呼んだ。経営自体にも疲れていた。最低だがこれで店は終わり、解放されると思ったくらいで、トニーがいないことに気付いたのは検分が始まってからだった。
自殺ではなく殺人ではと疑う声もあったが、結局自殺として片付けられ、思惑通り店は終わった。ニュースにはならなかった。あの店には公にできない権力が関わっていて、それなりに名の知れた公人が来ることもあったから、その影響ではないかと言っていた。スタッフ全員に然るべき対処の後、ひとりで最後の店仕舞いをしていると、突然見知らぬ男にまとまった金を渡された。以降は追われることなどもなく、町の片隅で小さな飲食店を構えるに至った。クリア少年をその飲食店に誘った。今のまま計画に乗ったら仕事仲間に迷惑をかけるからと、工場務めは先日辞めたと聞いていた。
ミス・ガーネットもトニーも大変な思い違いをしていたが、言うまでもなくどちらも訂正できなかった。
トニーが人を殺せるはずがない。ミス・ガーネットの推測が当たっているなら、本物のロビン・ローエンに仕え始めたときには既に人を殺めていたことになる。とすれば直接手を下していないあの件に関してはもっと飄々としてもいい。まして罪を告白する独白文など書く必要がないが、書くとするならそれも含めそうなものだ。
ミス・ガーネットがもうかつての店をやっていないことは、単純に意味がないから言わなかった。トニーが断じていた通り、ミス・ガーネットがトニーを雑用もこなす商売品と認識していたのは事実なのだ。難癖をつけて食事もまともに取らせなかったくせに、平然と更生し生きているなんて聞いて楽しいものか。過去のことだなんて簡単には言えない。許容なのか乗り超えるなのか他の何かなのかわからないが、そんな受容が誰にでもあるなら、ブラック卿が社会から追放される事態にもならなかった。いや、ブラック卿は反省も更生もしていなかったから論外か。
当時はどうかしていたのだとミス・ガーネットは言っていた。嘘はないように見えた。死んでいた客は特にトニーを好んではいたが、空いていなければ素直に他を指名していた。反社の絡むそんな店に通っていることを除けば、おかしなところはない普通の客だった。他と違っていたのは、生まれてからずっと店の子供で、9歳にもなるのに名前も書けず時計も読めないトニーのほうだった。余計なことを言わないトニーを好む客は少なくなかった。
そのトニーに他殺トラップを、まして大人の男を相手に仕掛けることができたとは到底思えなかった。でも否定しきれなかった。普通に生活していれば自然に学んでいくようなことも意図して弾いていた。だからなのか直感が鋭く記憶力に長け、ものをよく見る子供だった。自分にどんな目が向いていたか、それがどういうことなのかも知っていたはずだ。良いか悪いかなんて判断できなくなってくるのは自分がよく知っていたし、その基準を明確にトニーが持っていたかもわからなかった。
どうかどこかで優しい誰かに出会い、穏やかに暮らしていて欲しいと祈った。絶対に殺されたであろう男にしたって、申し訳ないとは思うがどうせまともではなかったのだ。トニーを責めることなんてできない。自分が加担したと言っても過言ではない。
『もし本当にあの子がやったことだとして』
ミス・ガーネットは下唇を噛んでいた。
『事件にはならなかったってちゃんと気付いてると思うわ。賢い子だものね。今普通に暮らしてるなら何よりよ』
だからどうしてこんな場所に連れて来たのか、と帰結する。彼の感情を無為に揺さぶることになるではないかと。
黙って聞く身としてはその怒りは妥当と感じた。私が気になったのは別のところだった。
気付けば客が死んでいて、こちらのキャストが行方不明。2人で密室に籠ってなどいないとしても疑いたくなるのは当然だ。だがそうなると話がおかしい。その事件は結局自殺として処理された。明らかに変だったと素人が気付く程度に雑だったとは言え、部分的に解釈すれば確かに自殺に見えたということになる。自殺に見せかけることに成功しているなら、犯人が逃げる必要はない。偽装したはいいがやはり恐ろしくなったとしても、その心境で小さな子供が公式的に外に出られる時間を待てたかは疑問だった。
そこはミス・ガーネットも引っかかっているようだった。それでも結果としてトニーはいなくなっているし、自分で捜査はできないし依頼もかけられない。トニーにとっては直接見たことと聞いたことだけが知識だから、筋の通らないことをしてしまってもおかしくはないかもしれないという苦し紛れの結論を捻り出すのが精一杯だった。
ここでその話を思い返すことになるとは。勘違いを正せないのも杞憂と知りながら取り除けないのも少々心苦しかった。話に続きがあるなら是非聞きたいが、この口ぶりだとまるでリッキーがミス・ガーネットを以前から知っていたとも思える。グレイ氏も知らない話のようだった。
「俺なんだよね。その自殺っぽく見せかけて殺したの。あの人の店で」
そう来るか。なるほど。
告白を聞いた上ならわかる。気にしていたなんて言うのが既に妙だった。リッキーだってそうだったからだ。
あの状況の中、トニーは唯一の子供だった。目立った声かけのようなことはなくとも、またブラック卿のような例外はあるとしても、大抵の大人はその場にいる子供を気にする。そこを敢えて「気にしていた」と言うのは含みがある。となればもう、かつてミス・ガーネットが経営していた店繋がりしかないわけだ。
ミス・ガーネットはリッキーを知らなかった。つまりリッキーは店の運営には携わっていなかった。たかが4年前の出来事、衝撃的な事件が起きたと言って従業員の顔が消し飛ぶほどに昔ではない。顔や声を変えていれば終わりだが、そんな想定に意味はないので捨て置く。
トニーにもリッキーを知っている素振りはなかった。一応今のリッキーはグレイ氏の運転手としてトニーと接点があるにはあるが、専属の雇いではないという設定がここで効く。専属でないなら同僚ではなく他業種の他人同士だ。たまに見送りがあったとしても、髪をしまい込むほど深く帽子を被っていれば顔が見えることもない。
リッキーはハンドルに置いた手に顎を載せて憮然と口を尖らせていた。今グレイ氏に何をどんな剣幕で言われているのか、だいたい想像はつくが、聞こえないのはやはり悔しいところだ。
「うちは雑貨屋だったんだ。細々した消耗品とかを置いてて、たまにトニーがメモとカゴを持って来てたんだよ。トニーなんて名前は前のときまで知らなかったけど」
ここから随分離れた町で、実家の小さな雑貨店を家族で切り盛りしていたという。リッキーは遅い一人っ子だった。
近くにやばい店があるのは知っており、少ない買い物客の中にはその店の関係者がいることも知っていた。両親は別段そういった客を特別視することはなく、普通に商売を続けていた。だから両親が出られないときは代わりに対応していた。法に触れる類の品など売っていなければ置いてもいない、普通の雑貨店だった。
ある日、例の店の関係者らしき男が男の子を連れてきた。男の子は珍しい黒髪だった。自分と同じ近しい場には見かけない黒髪に親しみを覚えた。が、その子からは子供らしい無根拠な明るさも無邪気さも感じられなかった。
わざとらしい愛想を浮かべた男と一言二言挨拶をした。男は持っていたカゴとメモを男の子に渡して耳打ちすると、男の子は僅かに視線を持ち上げたが、すぐに俯いた。受け取ったカゴとメモを小さな声で「これください」と差し出してきた。
「それからときどきその子が来るようになった。昼前か少し後くらいが多かった。雑貨屋だからそう頻繁には来なかったけど。同じ年頃の子には見たことないくらい疲れた顔してた」
決まってメモとカゴとお金を同時に渡してくる。一度メモにない小さなお菓子をカゴの一番上に置いたが、まったく気付いていなかった。
お菓子をつまんで腰を折り、これはそのメモにないものだからと言ってみると、話しかけられたこと自体に驚いたように硬直していた。ややあって、書いてないのはいらないと背を向けられた。なのでこっそりポケットに忍ばせておいた。
「親が対応することもあった。すごく普通にね。俺にとっては優しくていい両親だったんだけど、なんかそれが更に無性に腹立たしくて。その子が見えたら俺を引っ込ませて自分たちが出ていく、みたいことすらあった。それは俺の思い込みかもしれないけど。でもそう思える程度にはって感じだったんだ」
「それで」
「殺した」
適当に次ぐための相槌だった。食い気味に飛び出した過去形の単語に意図せず頭の中が飛んだ。繋がりそうな文脈など少しもなかった。
「なんか許せなくて。殺しちゃったんだ。どうして戻らなくていいよって言えないんだろうと思って。なんでちょっと字を書いてみようかって言えないんだよ。別に引き取れなんて思ってたんじゃない。そんなお金ないのはわかってたし。あの瞬間に助けが必要だったんだ」
リッキーが気に入った物語は私が書いたものではないことは伏せておこうとグレイ氏は言った。正解だと思う。気紛れで親でも殺すなんて、理性や感情がある分猛獣以上に危険じゃないか。四六時中監視か監視に近いことができるなら、そうしておくに超したことはない。だが。
ルームミラーに映るリッキーの瞳を見る限り、嘘や作り話の気配はなかった。少なくともその当時のリッキーは、酷い境遇の子供を助けたいという意思を持っていたことになる。
趣味でも好きでもないけど得意かもしれない例のそれを使った。ただ勘違いしないで欲しいのは、そのときが初めてではなかったこと。特に触れるほどのことでもないとばかりにリッキーは言い、さらに続けた。
雑貨店を営む夫婦が何者かに殺されたこと、その一人息子が行方知れずであることは、あまりニュースにならなかった。分け隔てなくと言えば聞こえはいいが、明るくないところにも商売していたので、その関係で伏せられたのかもしれない。それもリッキーには好都合だった。
長い黒髪は目立つから切った。色も変えた。適当に調達した服に着替えて帽子を被った。トニーが戻る先の店の場所は知っていた。その近辺にはホテルも複数あった。
ホテルの一室に潜伏しながら外をぶらついてみたが、なかなかトニーは現れなかった。方角が悪いのかと何度か潜伏先を変えてみると、裏口らしいところから出入りする大人は見えた。トニーを連れていたあの男だった。
店には行けなかった。関係者に顔を見られるのは避けたい。はてどうしたかと困っていると気付いた。こっちは当然トニーを認識できるがあっちはどうなのか。二、三度接客した程度でほとんど目を合わせたこともないし、髪の長さも色も以前と変わっている。気付いてもらえる保障はない。それに万が一気付いてもらえたとして、その後どうするのか、またはどうしたいのか、自分でもよくわからなかった。お使いに出たお店でおまけのお菓子ひとつも受け取らないトニーが、ほとんど知らない人間を信用するとも思えなかった。
「それで考えたのが店自体を潰すことだったんだ」
そこに帰るしかないからそこに帰って、そこにいる大人の言うことを聞くしかなくなる。店がなくなればいい。店自体が真っ黒なんだから、トニーはおそらく町の警察なり行政なりに保護されることになる。他のスタッフに関しては自分でなんとかできるならすればいいし、できないなら外を頼ればいい。トニーにはその発想自体がない。当然大人は自業自得で気の毒にも思わなかった。
方針を改めて固めたところで、じゃあどうするかとリッキーはベッドに寝転び考えた。
「最初は火をつけようと思ったんだ。でも肝心のトニーが出ていくところを見つけられないし、どっちにしろやめたほうがいいって気付いた。火事のときにちょうどいなかったなんて、変な疑いを持たれるかもしれない。店の関係者はトニーの扱いがどんなものだったかを知ってたはずだし」
「その火事が」
当たり前すぎてグレイ氏でも言うだろうなと思いながら、わざと一呼吸置いた。
「関係ない人や他の建物を巻き込むかもとは考えなかったかい」
「今の俺なら考える。当たり前すぎるね」
ちょっと冷えてきた。ミラー越しに見えたか何か言われたか、助手席に載せていたブランケットを片手で差し出してきた。素直に受け取って膝と手を埋めた。
「とにかく火事はダメだ。店を潰せたとしても、間違いが重なって犯人にされたらなんにもならない。そこで不運な誰かを店の内側で殺すことにした。店で顔を見られることにはなるけど、堂々と客なら関係ない。ただ、こういう後ろ暗い店が、ひとり死んだくらいで消えるのかは疑問だった。だからわざと下手な手品を仕掛けて、一見すると自殺っぽいけど他殺に思える事件現場を作ったってわけ。闇深そうな感じになるだろ?」
随分簡単に言ってくれるが、素人が初見でできることとは思えなかった。
狭い町で、しかも地理的に近いところで暮らしていた。店がどういう傾向なのかは聞こえていた。オーナーはキャストを把握していただろうが、キャスト同士はお互いほぼ知らないらしい。共同で働く場ではなく、メイン事業以外の細かい雑用のほとんどはそこで置き去られたかどうかした子供が担っていたからだ。ここまで具体的だと近所の顔見知りの誰かが店に通っているということになり気持ち悪かったが、実は前から人殺しの自分も似たようなものと思うことにした。気を取り直して店を下見し、歳を偽って客として入り、店に偽って運営側の顔をして、今度は客に偽った。
すべて順調だった。こちらはシャツのボタンひとつ外さず、素知らぬ顔で支払を済ませて店を出た。
「めでたく殺人現場になったから、発覚した時点で騒ぎになると思った。とにかくいったんは人が締め出されるはず。その間は家を兼ねてる人もどこか別の場所にいないとならない。わざと見逃されてるような店だけど、野次馬の集まるところでトニーみたいな子供を放ってはおけないはずだ。それを狙ったのもあったんだけど」
朝になって店が閉まってしばらく待っても、何故か慌しくも物々しくもならなかった。
「読み間違ったかと思った。そういう店ならそもそも通報したりもせず、内密にどうにかする可能性もあるよな。当然の話だ。頭がよくなくて苦労するよ。だから次の方法を考えてて」
「そうしてるうちにトニーが出てきた」
「そう。それまでずっと出てこなかったのに、急に出てきたんだ。例のカゴを持って」
単純に疲れていたのかもしれないとは思う。リッキーが数えた数回、トニーは子供では考えられないくらい疲れた顔をしていたと言った。ミス・ガーネットが言うにはトニーは人気どころだったようだから、本業前の雑務が響いて苦情でも出たとしたら。例え話にしてもちょっと気が進まないが、スリルと背徳感で良い気分のところに相手が最初から疲労困憊は面白くない。文句を言いたくなることもあるだろう。
買い出しはしばらく免除されていたのに、突然また出ることになった。ひとりでは準備も判断もできないのだから、ここでもずれてくる。ミス・ガーネットは警察が来てからトニーがいないことに気付いた。ということは、先に死体を発見したのは買い出し係だったその男だ。話にまったく出なかったことを考えるとミス・ガーネットとの折り合いは良くなく、通報するかしないかで揉めたのもこの男だろう。
派閥の違う頭でも、惨い死体が出てきたのはさすがにまずいと感じたわけだ。従順なトニーもパニックを起こすかもしれない。とりあえず子供は遠ざけた。大人と子供という観点のみに絞れば間違った判断ではない。
声をかけるタイミングを見計らうため、リッキーはトニーを追っていた。トニーは俯きがちにゆっくり歩いていた。別に外に変わった様子はなかったはずなのに、周囲を気にしていた。
路地の一角にゴミが固められていた。トニーは足を止めた。リッキーも止まった。トニーが顔を向けた先に、疎らに現れ始めた人通りと建造物との隙間に駅が見えた。
停止していたのはごく短い時間だった。カゴの中を覗き、中に入っているそれを薄いコートのポケットに移し、カゴをゴミ山に置いた。トニーは場所を確認するようにしながら、時折緩く指を持ち上げながら駅に近づいていった。覚束ない足取りだったが、人々のの注目を多少集める程度に留まった。
「駅から遠くに行けることは知ってたんだ。客の誰かからそういう日常の一部みたいなことも聞くんだろうな。列車の乗り方を聞くと思って」
急いで駅に先回りして、駅員室に控えていた駅員を殺した。服と帽子と手袋を借り、何事もなくずっといるように振る舞った。見えている駅の一部を追って歩くトニーはまだ着かなかった。
車掌役が妙にはまっていた理由がわかった。トニーと最初から初対面ではなかっただけではなく、そこで会っていたのが今ここにいるリッキーだったとは。
だけど、とリッキーは続けた。
「だってもう逃げなくてよかったんだ。誰かに助けられるはずだったから。店がなくなればそりゃ狙い通りで万々歳だけど、別に最悪そうならなくてもいい。この子の環境は変わるのは間違いない。でも」
顔を知っているかもしれない人間が残酷な姿で横たわっている場所に戻れなんて言えなかった。代わりに行ける場所がないことも知っていた。と言って事態が進展するまでここにいろとも言えなかった。時間はなかった。
「ここで最初の疑問に戻る。俺はその可哀想な男の子に会って、一体どうするつもりだったんだ? どこに行きたいのかとか遠くに行くのになんで荷物がないのかとか、くだらないことを聞いて引き止めてさ。俺自身勢いでそこまでいって、もうどうすることもできないのに。こうして引き延ばしてる間に近くで殺人事件があったらしいなんて声が聞こえてこないかって、淡い期待はしてたけどさ。誰もそんなこと言わなかった」
大人しく落ち着いた態度と顔を上げないことは一貫していた。頑なだった。できるだけ遠くに行きたい、ここにいたくない、離れたい。理由は言わなかった。リッキー自身これ以上ここにいるのは危ないと感じていた。ついに根負けした。
お金をすべて受け取り、片道分として目指せる駅行きの切符を渡した。少しお釣りがあったので返した。トニーは一瞬悩んだようだったが、その僅かな小銭をポケットに戻した。
乗り方と降り方、駅の抜け方を教えた。小さな切符をじっと見つめた後、トニーはようやくこちらを見た。左右で目の色が違うことは知っていたが、ちゃんと見えたのは初めてだった。
「なんかもう、なんていうんだろうな。いたたまれなくなってきて。なんかよくわかんないけど、決定的に間違ったような気がした」
ひとりで誰も知らないところで、字も読めず数字もほとんどわからないのにどうするんだとは言えなかった。殺した駅員のものらしい鞄から見つけたロールパンを渡すのがせいぜいだった。
悪い想像を振り払えないまま引き上げた。途中、ふと気付いた。仮にどこにも行かなかったとして、事件が発覚して、警察なり役場なりに保護されたとして。その中に知った顔がなかったとは言い切れない。もしそうだったとしたら、自分がしたことは。
暗く沈んだ表情がここでぱっと明るくなった。
「でも全部過去の話だ。よかったよ。俺は決定的に間違っちゃったたし、いろいろあったんだろうけど。今はちゃんと字が読めて、ちゃんと喋って、あの感じだと計算なんかも必要なときはちゃんとしてるんだろうなって。仕事して立派に生活してるんだ。ご主人様がどんな胡散臭いオッサンなのかと心配する必要もないし」
前髪の片側が長かった。黒いほうの目を隠していたと思う。その黒いほうの目が眼帯で完全に覆われていたことに最初は驚いたが、助手席に乗ったグレイ氏がさりげなく事情を教えてくれた。
配慮が裏目に出たとまでは言わないが、グレイ氏のことだ、リッキーが以前からトニーを知っていた可能性に気付かなかったのは失態だと感じているだろう。
こんなことで誰が何を閃くものか。これで何か嗅ぎつけるというなら、正義に狂うなどという一丁前なコピーなどつかない。芽吹いてすらいない、芽吹くかもわからない悪を土壌ごと抉り取るただの化け物だ。
さて。ミス・ガーネット視点の歯抜けだった物語が新たな登場人物とともに補填され、トニーとリッキーの隠れた関係性が浮き出てきたわけだが。
これが一体なんだというのか。話していたのトニーのことだが、リッキーが気にしていたのは、トニーを気にしていたミス・ガーネットのことだったはずだ。
なかなか出ない車を不審に思ったらしい。マスターと寝ぼけ眼のミアが階段の奥から頭を出していた。
バックミラーごしに視線がぶつかる。リッキーはばつが悪そうに頬を掻いた。
「だから、その……俺はトニーが疑われることがないように小細工したつもりだったのに、結局トニーが疑われてるからもやもやしてるってこと。弁明できないから」
「実際は違う。それじゃダメなのかい」
「みんながみんな、そういうふうに割り切れないよ。だから意味なくぐずっちゃうんだ。先生いくつ? ボスより上っぽい」
ここにグレイ氏の実体がなくて心底よかった。こんな展開、笑うなというほうが無理だ。
まあいいや、と言う声とともにようやく鍵が回った。低いエンジン音が唸る。そうこうしているうちに、ブランケットの下で手はだいぶ温もっていた。
「満足したよ。言いたかったこと言えたし、外に出られて美味しい食事もできたし。またしばらくは謹慎だろうけど」
「良い話が聞けたよ」
トニーへの統括を訂正する。助けたいと動いた人間はいた。やったことは滅茶苦茶だし結局届きもしなかったし、本人が知る必要はないが第三者として知れたのは収穫だった。
とは言ってもリッキーの両親や殺された駅員からすればたまったものではない。殺人を含む犯罪が小路の溝を跨ぐ程度の感覚でしかないし、グレイ氏だってまさかチョコレートケーキひとつぶら下げたわけではあるまい。どうせ何回かは殺されかかっているだろうから、常時通話状態の他にも仕込みがありそうだがそれはまたの機会でいい。
グレイ氏のことで現状わかっているのは口が悪く一言多いこと、態度がでかいこと。教職でありながら何某かの野望を持った社会の裏側の人間で、公表している歳と名前は嘘八百、実年齢は28で私の実年齢より4つ上。おそらく娘との血の繋がりはなく、それを娘が知っているかは不明。
ふむ。興味の対象としては十分だ。
「グレイ先生」
「なんですか、だって」
「今後ともよろしくお願いしますね」
「御免被ります、だって」
「寂しいですねえ。自分だってちょっと楽しんでたくせに」
「いいなー。俺も次誘って」
何か言われたらしいリッキーが眉根を寄せた。
ようやく車が動き出した。心配そうに眉を下げていたマスターが、ほっと息をついて引っ込むのが見えた。
列車が停まる