スリータイムスリップステップ
1
俺の名前はサティ。ほんとうはとても日本人らしい名前が別にあるけど、ここではそう名乗っておく。
サティ。とても良い響きだと思うんだよな。昔、いや、今もどこかにあるのかもしれないけど、サティというショッピングモールがあった。そのショッピングモールは海の近くにあって、俺の住んでいたところからは遠くていつも父さんの大きい車で俺たち家族はサティに出かけた。
父さんは日曜日にも家で仕事をしていた。そんなに大きくはない一軒家に父さんだけの部屋はなくて、二階にある俺と兄ちゃんが二人で使ってる部屋と、母さんと父さんの寝室の間にある廊下が父さんに与えられた空間だった。父さんはそこで日曜日の仕事をした。廊下がまだ誰のものでもなかった頃、ある日父さんがたくさんの木と、一人の中国人を連れて帰ってきた。ろくに説明もせずに父さんと中国人の男は二階に上がり、作業をはじめた。俺と兄ちゃんは階段の途中に座ってその様子をじっと見ていた。父さんは中国人の男に指示を出し、男は「はい」「そですね」「はい」と、同じ日本語を繰り返した。もしかしたら知っている日本語がそれしかなかったのかもしれない。それでも父さんはまず自分でやって見せるタイプの分かりやすく親切なリーダーだったらしく、作業は滞りなく進んでいった。あっという間に父さんのデスクは完成した。木のデスクは廊下の幅を半分に狭め、父さんの会社で使っていたらしい回転椅子が人を乗せれば、もう誰もその先の部屋には行けなくなった。母さんはその姿を見て「ずいぶん責めましたねえ」と、感心しているようにも呆れているようにも聞こえる声で言った。俺はどう思ったかって言うと、窓の感じが良いなって思った。廊下には窓があって、父さんのデスクはその前に出来上がっていて、その机と窓の距離とか、位置関係みたいなものがとても良かったんだ。それは廊下に何もなかったときよりもひどく良くなっているような感じがした。俺はそれまで廊下の窓のことなんて考えたこともなかったし、自分で開けたこともなかったんじゃないかな。今まで何とも思ってなかった女の子が髪を切った途端にとても可愛く見えて気になってしかたなくなるときの気持ちに似ていたかもしれない。それくらいその窓の感じが良くなったなというのが、父さんのデスクの出現への俺の感想だった。
父さんの日曜日の仕事は、はんだ付けと部品の検品だった。当然日曜日じゃなくてもはんだ付けや検品はしていただろうけど、俺の目にすることのできる父さんの仕事は日曜日の仕事だけだったから、俺は父さんが日曜日にはんだを付けと部品の点検をして、月曜日から土曜日には何かの機械の、まだぽっかりと空いたままの空洞をその部品たちで埋めていっているんだと思っていた。俺は時々想像した。何のための機械なのか分からないけれど、それは丸くて白い。大きな工場にはその白い球体がたくさんぶら下がっている。地面にははんだ付けを終え、不良ではないことを認められた部品たちが大量に並べられている。会社名とそのロゴが入った作業服を着た父さんはボールの重さを確かめるように球体をそっと手に包み込む。球体のてっぺんには部品を収めるための穴が空いていて、父さんは難しい顔をして穴を覗く。もしかしたらその中には部品をきっちりはめ込むための凹凸があるのかもしれない。それかただの、個人的な儀式のようなものなのかもしれない。血管の浮き出た男らしい父さんの手が地面に並べられた部品を取る。球体と反し、集合住宅の地図のように複雑に込み入った部品。球体が動くためには大量の部品が必要なんだ。いくつもの部品が正しい位置につき、その役割を全うしなければならない。俺は少し、かなしい気持ちになる。複雑な世界に生まれた、複雑な機械。俺が理解することのできる段階は、どこまでだろうか。兄ちゃんが父さんに習ってはんだ付けをやっている。似合っていない回転椅子に座った兄ちゃんは何だかとても楽しそうだ。焦げるようなにおいが、鼻をつんとつく。俺は目を逸らし窓の外を見つめる。青い空に、白い雲が流れている。サティに行くのは何時になるだろうか。車に乗って、そして窓を開けて、強風を受けて、そうして早く、サティに行きたいな。俺はそう思いながら父さんの日曜日の仕事が終わるのを待った。
サティに行くときには必ず父さんの大きい車に乗って行った。その車は父さんの仕事に行くとき用の車で、サティに行くときか、夏のキャンプのとき、正月にばあちゃん家に行くとき。つまり少し特別な日にしか乗ることができなかった。俺はその車に乗って行ける場所だったサティがやっぱりとても好きだった。
車は三列シートになっていて、助手席に母さん、二列目のシートに俺と兄ちゃんが座った。三列目には誰も乗っていなかったけど、時々そこに寝っ転がってみたりしたこともある。三列目のうしろにも荷物を入れる場所があって、父さんが仕事で使う何かが積まれていた。何度かその荷物置き場に体を収めてみたことがある。長細い窓から後ろの車を見たりした。じっと運転手を見ると、運転手もじっとこっちを見た。何となく父さんの方を見ると、ルームミラーに映った父さんはサングラスをかけていた。俺はその日、秘密の荷物になったみたいでどきどきした。母さんと兄ちゃんは眠っていた。
サティにはマークみたいなものがなかった。その代わりに色があった。ピンクと赤の間くらいの色で、その色は服の色なんかで似たようなのは見たことがあるけれど、少し違う。どこかでその色に似た色を見ても、やはりどれもサティの色とは違っていた。それはまさにサティの色というしか名づけのようのない色だった。車に乗った俺は遠くに見えはじめたサティの看板を見つける。サティの色で塗り潰された巨大な看板はとてもよく目立つ。看板の中央に大文字の英語で掲げられたサティの文字。丸みのある、エレガントって感じの字体だ。字の色は白だった。買い物袋になるとその配色は反対になるみたいで、真っ白な袋の真ん中でサティの字がサティの色で染まっていた。母さんが婦人服売り場で買った洋服が入っている袋はとてもつるつるとした袋で、サティの文字がよく似合っていたのを覚えている。
サティに行ってやることは決まっていた。メダルゲームだ。母さんと別れ、俺と父さんと兄ちゃんは一階の奥にあるゲームセンターに向かう。受付に行って預けていたメダルを受け取り、それを父さんがカップに分ける。毎週のように通い、父さんはかなりの腕前だったから、預けていたメダルの量はすごい数だったと思う。まずは円卓みたいな台に三人並んで座って、ガラスの向こうに積みあがった大量のメダルを崩しにかかる。ぴかぴかに光るメダルを乗せたお立ち台が寄せては返す波のように俺たちに近づき、そして遠ざかっていく。俺は手元にあるピストルみたいな投入機を左右に動かしながら適当なタイミングでコインを流し入れる。上手くいったとき、大量のコインが足元の受け皿に落ちてくる。鉄と鉄がぶつかり合う音と振動。「うお。やるねえ」兄ちゃんの声はゲームセンターの騒音に負けないくらい大きい。兄ちゃんの向こうに座る父さんが目で褒めてくる。俺はもう楽しくてしかたない。しばらくして飽きてくると、それぞれ違うゲームに向かった。スロットだったり、リズムゲーム、もぐら叩き、誰かと鉢合わせるとホッケーをやったりもした。最後にやるのはUFOキャッチャーで、それがもうそろそろ帰ろうという合図のようなものになっていた。決まってUFOキャッチャーをしているときに母さんがやって来た。両手に買い物袋を提げて三人の腕前を見つめた。父さんはUFOキャッチャーも上手だった。母さんがリクエストしたぬいぐるみを簡単にゲットした。サティは誰の機嫌も損ねることはなかった。
サティについて覚えていることはまだ少しある。ゲームセンターの近くに小さなフードコートがあった。なぜかフードコートの中央には円形の大きな水槽があって、カラフルな魚が泳いでいた。いつ撮ったのか覚えていないけど、その水槽の前で兄ちゃんと並んでピースサインをしている写真まである。あんなにたくさん魚が泳いでいたはずなのに俺たちの背景には一匹の魚も泳いではいなかった。フードコートの床はプールサイドみたいに水色で、机と椅子は海の家にあるような白のプラスチック製のものだった。偽物のヤシの木もあったような気がする。何度かそこでフランクフルトやクレープを食べた。
あとは、映画館のことだ。ゲームセンターで遊んでいてトイレに行きたくなると、決まって映画館のトイレを使った。映画館はショッピングモールの別館みたいなところにあって、一度屋外に出ないといけなかった。それでも本館の端にあったゲームセンターは映画館のすぐそばにあり、そこにあるトイレが一番近かった。映画館のチケット売場につながる扉を開けると、そこは薄暗くて、ポップコーンの香りがした。床は絨毯を敷き詰めたみたいにふかふかとしていて、映画館のロゴと、あひるみたいなキャラクターが描かれていた。天井のスポットライトはくるくると回り、暗い館内をコミカルに照らしつづけていた。ガラスケースにみっちりと入ったポップコーンを横目に俺はトイレに向かう。トイレに向かうまでには三段だけの階段があった。その階段を下り、右に行けばSCREEN1、左に行けばTOILET。壁にペイントされた文字が示していた。あれは別の世界への境界線みたいなものだったんじゃないかな。映画の世界へのスリーステップ……タン、タン、タン。あの映画会社の洒落た演出だったのかもしれない。まあ、ただの建物を建てるときにどうしてもできてしまった段差だったのかもしれないけど。それでも俺はどうしてか、あの階段のことをよく覚えている。
サティについて語れることはこれくらいだと思う。俺の名前はサティ。覚えていてくれたらとても嬉しい。
2
巨大なビル群に包囲された公園で、俺は一人の女性を待っていた。
都会の待ち合わせというのは想像していたよりもまぬけな感じなんだなと思った。信じられないことに、俺の視界の中には三匹の亀がいた。石の上で甲羅を乾かしている亀と、水の中ですいすいと泳ぐ亀と、水の中でじっとして頭だけをときより覗かせてくる亀。亀を眺めているのはつまらなくはないけど、湧いてくる感情は何もなかった。片隅に貼られた「亀がなぜここに?」という文章を読みはじめたとき、カオルがやって来た。カオルはデートの途中にトイレにでも行ってきたみたいに俺のとなりにしゃがんで、亀を見つめながら「久しぶりだね」と言った。俺は中腰で都市の亀についての込み入った事情に目を細めていて、足元に現れたカオルに一瞬気づかなかった。カオルと会うのは3年ぶりくらいだった。最後に会ったときよりもかなり痩せていた。しゃがみ込むカオルがとても小さく見える。
「久しぶり。って、俺に言ったんだよね?」
俺は亀へのささやきだった可能性を咄嗟に思い、聞き返した。
「そうだよ。亀に言わないよ。まあでも亀も、久しぶりか」
カオルはそう言って笑い、立ち上がった。ベージュのパンツに青いチェックのシャツを羽織っていた。袖を何度も折って手首が見えるところまでまくっている。背中や腕に有り余った生地からも、それは男物だとすぐに分かった。そしてそのシャツには見覚えがあった。
「それ、もしかして兄ちゃんから貰ったやつ?」
「よく分かったね。下もだよ」
カオルはシャツをまくってズボンを見せつける。たしかに見たことがあった。
「いつ貰ったの」
「引っ越したときくらいだから、5年前くらいかな。引っ越し祝いしてやるって言って一度家に来たの。そのとき服ちょうだいって言ったら、両手いっぱいに紙袋提げて来て、好きなのあげるって。それで」
俺はへえと相槌を打って、それ以上何も言わなかった。カオルは父さんの弟の娘で、俺のいとこにあたる。昔から仲が良くて、盆や正月に親族が集まると兄ちゃんとカオルの三人でよく遊んだ。カオルは兄ちゃんと俺の真ん中の歳で、一人っ子だったからか兄ちゃんにはよく懐いていた。大人になっても不思議と距離感は変わらなかった。女性らしいけれど、心の半分くらいに少年を住まわせているようなところがあった。それでもすっかり大人になったカオルと兄ちゃんが二人きりで部屋にいることは異常なことのように思えた。俺は頭に浮かべそうになった変な妄想を急いで振り払わないといけなかった。
しばらく公園内を歩いて、広場のベンチに座った。平日の午後。ベビーカーを押す母親、スマホを見つめているスーツ姿の男、小さい犬を連れたお爺さん。五月の風は草のにおいを漂わせ、誰の心も乱しはしない。やさしい季節だ。
「いくつになった?」カオルが俺に聞く。
「二十七」
「二十七か。まだ背中には羽根がある歳だ」
カオルは体を反らせ、俺の背中を覗き見るようにして言った。
「何それ。なんかの歌の歌詞だろ。えー、何だっけな」
「僕の背中には羽根がある。キンキですね」
「そうだ。キンキキンキ。懐かしい」
「いいねえ同世代は。でも私はもう三十だから、背中に羽根はないな」
「そういう歌だったっけ」
俺ははるか昔に聞いたその歌の歌詞を思い出そうとした。テレビに映る二人のアイドル。関西弁を話す陽気な青年だった二人はステージに上がった途端に別人のようになる。笑顔は消え、近くも遠くもない距離を保ち、青年たちは互いに背を向け歌いはじめる。まるで同じ敵と戦っているみたいだ。内に隠していた繊細さを剥き出しにするように、切ない歌詞に声を乗せる。あれは失恋の歌じゃなかったっけ。サビのところから小さな声で歌ってみていると、カオルが話しはじめた。
「あるときね、何のきっかけもなく自由になった感じがしたんだ。それまで抱えていたどうしようもない不安みたいなものが、状況は何も変わっていないのになくなってる。一人中古で買ったちいさな車を広い駐車場に停めてその中で泣かないといけないくらいの不安。時代にこびりついているみたいに何も施す手立てはない。最近ね、ふと思ったんだ。私たちには大きな動物に追いかけられる時期というものがあるんじゃないかって。そういった背中の頃、十代か、二十代くらいの私たちの背中には美しい羽根があって、飛ぶことのできない動物が追いかけてくる。羽根を奪いに追いかけてくる。私たちはその気配に怯え、繊細な子や弱い子は奪われてしまったりする。それでも羽根はどんどん朽ちていって、動物たちは私の背中に興味を示さなくなる。羽根は到頭なくなって、背中を飾るものはもう何もない。追いかけてくる者はいなくなって、自由になれる。羽根のない、くすんだ体に至った私は、だからもう不安に泣くことはない。ちいさな車も、大きな駐車場もいらない」
背もたれにぴったりとくっつけられたカオルの横幅が、ひどく薄っぺらく見える。
「カオルはじゃあ、逃げ切ったんだ。その動物から」
「そう。今は透を、追いかけてる」
そう言って笑ったカオルの顔は俺が知っているものとは違っていた。それは何ていうか、大人の顔みたいだ。せき止められていた水が流れ出ていったみたいに、さっぱりとした新しい笑みだった。
「やめてよ。あと俺、名前を変えたんだ」
大人になったカオルに俺は子どもじみた告白をする。
「どういうこと?」
「サティ。今の俺の名前。覚えておいて」
「何それ。変なの。どうしてそんなことしてるの」
「さあ。何となく変えたくなったんだ。楽しい感じがしないか、サティって」
「海の近くの、白い壁の家に住んでそう」
「さすがいとこだ。俺もそう思ってた。俺もさ、大きい駐車場で一人、泣いたことあるよ。中古じゃないし、ちいさくはなかったけど、そういう日があった。俺は男だからかっこわるくて嫌になったよ。俺をかっこわるくしたすべてのできごとを恨んだね。だから復讐してやろうと思うんだ。真面目さや我慢や努力を引きだしてきたものたちへ、長い怠惰で復讐するんだ。俺はもう誰のためにもなってやらない。自分を大切にする選択を長い時間をかけて考えるんだ。じゃないと俺はこの体から、今度はひどい復讐を受ける気がする。そうやって死んだ人を何人も見た」
言うつもりのなかったことを口にしていた。これだから嫌だ。誰かといると、二人でいると、俺は弱い。
「そう。じゃあ、長い怠惰の途中で私に会いに来たんだ」
「カオルしか思いつかなかったんだよ。みんな、忙しそうで」
「私はどうせ暇だと?」
「まあ、正直な。それにカオルはさ、いつでも目を合わせてくれるから。何も私を夢中にはさせないわって感じで、何をしてても半分は空いてる。わざと埋めないで空けたままにしてるって言うのかな。付き合わせても後ろめたくないなって思ったんだ。そういう人、なかなかいないよ」
カオルは俺の褒め言葉を聞きながら、目の前に現れたスケボー青年を見つめていた。青年は自分の番が回ってきたみたいに広場の中央に滑り出てくると、何かの技に挑戦し、あっけなく失敗した。地面にあぐらをかいて見守っていた仲間たちがパンパンと短く手を叩く。広場の静けさは順調に破られつつあった。
「そういうのって、かっこいい?」
カオルは若者たちの挑戦を見届けながら聞いた。
「どうだろう。まあ、それなりに?」俺は歯切れ悪く答える。
「かっこよくなりたいな」
カオルはそうつぶやいて、まくっていたシャツの袖を戻した。兄ちゃんのシャツの袖はカオルの指先を隠し、その先の何もないところまで覆ってしまった。カオルは全然、かっこよくない。かっこよくしてあげられる方法なんて分からないし、きっともう誰もそんなふうにはなれないんだ。若者の挑戦がまた失敗に終わる。流行りのスニーカーから離れていったボードが、ひとりでに地面を滑っていく。俺たちはきっと、何かを奪われている。古い映像が、最新の色で再生される。荒い歌声が、澄んだ音声で響き渡る。虫が食べはじめた文字が、新しい紙に写される。それだけで、終わりのある長い時間が去っていく。かっこよさはもう尽きているのかもしれない。死んだロックスターたちが根こそぎ天国へ持って行ってしまったんだ。
俺とカオルは公園を後にして街を歩き出した。行きたいところはあるかと聞かれたけれど何も思いつかなかった。カオルはそんな俺に、川沿いのすてきな道を知ってるから行こうと得意げに言って前を歩いた。だけどその道にはなかなか辿り着かなかった。どこを歩いてもカオルは頼りなく辺りを見回した。川の名前を聞くと、そんなの分からないと言って道路脇の地図を睨んだ。
「そんなの覚えてなくても、こんなビルだらけの街の川だから簡単に見つけられると思ったのに。どうしてかな。探さなくても見つかるくらい目立っているものだと思ったけど、そんなことなかったね」
カオルはさみしそうにそう言って笑った。
「俺たちがゾウだったらよかったな。あの長い鼻を空にかかげて、川の場所を探し当てることができた」
「うん。ゾウならよかった」
おしまいの合図のようにカオルは俺の冗談を受け流し、俺たちは駅に戻る道を歩きはじめた。駅へと導く矢印は街にあふれ、簡単に辿り着くことができた。
夕方の駅前は人であふれていた。車道脇の手すりや植え込みの段差、もたれかかれそうな場所のすべてに人がいた。携帯を見つめ、ときより顔を上げて改札の方を伺う。みんな誰かを待っていた。
「仕事、間に合う?」
ざわつきの中で俺は少し大きめの声でカオルに聞いた。
「うん。間に合うと思う」
カオルは携帯で時間を確認すると、いつも通りの声で答えた。じゃあ、と言えばカオルは行ってしまうだろう。それよりも前にカオルがじゃあねと言って去るかもしれない。でもカオルは何も言わなかった。俺の正面に立って、ゆるい腕組みみたいな体勢できょろきょろと辺りを見回している。
「仕事、きつい?」
曲がるはずのなかった道を曲がるように、俺はカオルに問いかける。
「きつくないよ。運動・食事・睡眠、そして清潔」
カオルは靴のつま先をぴったりとくっつけながら呪文のような言葉を唱えた。
「何それ」
「制服に書かれたキャッチフレーズ。背中にそう書いてあるんだ。運動・食事・睡眠、そして清潔。その制服を着て掃除してる。なかなか良い仕事だよ」
「そう。良かった」
「サティ」
カオルは俺の新しい名前を初めて口にした。サティを呼んだ一人目はカオルになった。
「何」
俺は名前をすんなりと受け入れ、聞き返す。
「これから、いや、明日は何するの」
「明日は、手紙を書くよ。どこまでも主観的で、空想的で、幼稚な手紙を書くよ」
「それは、誰かに送るのかな」
「手紙なんて待ってない奴に送ることにするよ。そうやって怠惰な一日をやる。何の貢献もない一日。何も大切にしない一日だ。カオル、俺はカオルが大切だけど、大切にするやり方が分からないんだ。何をしようとしても言葉が体を引きとめて動かない。誰の気持ちも分からない。自分の気持ちだけに耳を澄ませて澄ませて、やっとそれだけが少し分かる。俺、こんなので大丈夫かな」
俺はまた、弱弱しいことを口にしてしまう。俺は、一人を越えてはいけない。
カオルは黙ったまま、しばらく自分の靴を見つめていた。改札を抜けた男が笑顔で手を振っていた。視線の先にいた女が応答し、控えめに手を振り返した。めぐり合った二人は寄り添い合い、街に消えていった。
「問題ないよ」
カオルは地面に向かってそう言って、言葉をつづけた。
「私は誰にも大切にされたくない。透が何をしても、しなくても、私は透が好きだよ」
カオルはさっと顔を上げ、俺の返事を待つことなく改札に向かって歩き出した。改札を抜けたところで振り返って、大きく手を振った。
「また散歩しようね」
🕒
「長生きについてどう思いますか。したいと思いますか」
医師はカルテを置き、窓の外を眺めながらそう聞いた。カルテに印刷された裸の人間はまっさらのままだった。壊れている箇所にはバツを描いてそのしるしを付けないといけない。つまり私の体に壊れている箇所はないということだ。だから、医師の質問の意図が分からなかった。
「そんなに長くなくても良いと思っています。でも、両親よりは長く生きないといけないです。兄弟がみんな死んでいるんで、もう誰も死ねないんです」
私はアンケートに答えるように正直な思いを述べた。
「誰もって、あなただけなんですよね?」
医師は相変わらず窓の外を見ていた。感じが悪いというわけでは決してない。私のためにたっぷり時間はとってあるんだ、という具合に医師の声は誠実だった。
「まあ、はい」
「分かりました。方法はあります」
「方法? 私はどこか悪いんですか?」
「今は何の異常もありません。しかしそれは、あなたを追いかけてきています。そうだな、それは今、昨日くらいの場所にあります。昨日の昼の十二時くらいだ。そしてそこからじりじりと動きつづけている。今はゆっくりだけど、スピードは次第にはやくなる。私たちの流れる時間と、それの流れる時間は違うんです。明日になれば、今日の午後一時になるかもしれない。明後日になれば、明日の午後三時になるかもしれない。前にしか進むことができない点では私たちと同じ。止まることもありません。分かりますか」
医師はひと息つくように、机に置いた手の人差し指だけを浮かせてすぐに戻した。
「まあ、はい。何となく。何かの病気が私を選んでしまったということですよね」
「そういう捉え方もできます。しかし誰もがそれに選ばれているのです。その距離が近いか遠いかの違いです。あなたのは、まだ遠い。今のところ病名さえない」
医師の芝居がかった口調のせいで忘れていたが、私はここに健康診断に来ただけだった。職場で強制的に受けさせられるとても簡易的なものだ。血液さえ採られていない。
「何かその、目印みたいなものがあったんでしょうか。たとえばその、しこりとか、雑音とか」
医師が今現在持っている私に関しての情報は、私の心臓の音と、瞳の奥の何かと、首の辺りの何か。それだけだった。
「ない。今の距離ではまだ何も前には出てこないでしょう」
「じゃあどうして分かるんですか」
「さあ。ただ分かるんです。分かる理由は分からない。だからこの場所にいる。私はね、何も任されていないんですよ。手術も、注射すらしたことがない。この病院のお荷物なんです。健康診断の項目の一つを埋めるためだけの存在です。体重計や血圧計なんかと同じように思ってもらっても問題ありません。私は何かを測るのではなく、気づく。そんなところでしょうか。信じてもらえなくても仕方がないとは思っています。これまでに一人だけあなたのような人と出会ったことがあります。今と同じことを告げました。その人は怒って、もう二度と私に会ってはくれませんでした。心配だったのでどうなったか随分調べたのですが、分かったことは何もありません。どこかで治療をして元気に生きているのかもしれない。私を信じなくても死ぬとは限りません。それがあなたに辿り着いてから、優秀な医師による治療を受ければいいだけのことです。どうされますか」
治療。嫌な響きだ。いつだってそこに色はなく、風が遠まわりをする。
「その、方法というものを実行すれば病気にはならないんですね。病気にならず、治療をしなくてもいい。入院したり、点滴したり、しなくていいということ」
「はい。逃げ切るんです。相手がその背中を見失うくらいに遠くまで。歳を取って、速度が落ちようともまだそれは遠い。あなたは長い距離を稼ぐために今を使う。回復の地に行くんです」
私はこの感覚を、何度か味わったことがある。
絶望的な状況はいつも私の目前を通り過ぎ、どんなに優秀な審判員も私のミスに気づかない。敵さえもまぬけな顔をして空を見つめているではないか。珍しい色の鳥でも飛んでいたのだろう。そんな具合で私はこの世界から変に好かれているようだった。嫌われ者の王様から一人だけ気に入られているような気分だ。おそらくこの医師はそんな王様が手配した家来のようなものなのだろう。私はまた運よく絶望を逃すのだろう。そして別の人に、衝突するのだ。まあいい。そういう運命なのだ。私は生きる。それも、健康に生きなければならない。生き残った親類たちを見送るときまで、日焼けした健康な肌を保つ。これは死んでいった者たちから手渡された、一つの義務だ。
「先生、そろそろ」
カーテン越しに看護師が声を掛けてきた。
「あなたを信じます。その、回復の地へ行きます」
私は返事をした。まるで洗脳された信者みたいなセリフだ。
「そうですか。分かりました。今日の夜、六時以降ならいつでもかまいません。ここに電話をください」
医師は机の上に積み重なった名刺の束から一番上の一枚を取り、私に渡した。埃まみれだった。
「あ、ごめんなさい。久しぶりに人に渡すので」
医師はそう言って私の手から名刺を奪い、束の中間辺りから引き抜いたきれいな一枚に取り換えた。
名刺には、『南(みなみ) 珊瑚(さんご)』と書かれてある。
「珊瑚」私はその不思議な名を思わず口にした。
「変な名前でしょう。でもそれなりに気に入っています。私のこと、珊瑚礁のようなものだと思ってください。あなたは海の小魚で、私は大きな珊瑚礁。安全な区域までの道が、そこには開通されています」
予定表のようなものがびっしりと張られた壁を見つめながら南医師は言った。太いフレームの眼鏡が顔の上部を覆い、もっさりとした髪の毛が追い打ちをかけるように顎のラインから首筋までを縁取っていた。剥き出しの部位は手だけだった。三十代後半くらいだろうか。もっと若いのかもしれない。珊瑚。その名前はひどく彼に似合っているように思えた。
夜、南医師に電話を掛けると、はあはあと息を荒くしながら電話に出た。
「もしもしもしもし」焦ったように応答する声の主は昼に会った人と同一人物には思えなかった。
「林です。すいません。お忙しかったら掛け直しますけど」
「いえいえ大丈夫です。今ちょうど犬の散歩をしていて、ちょうど犬が加速する地点に到達してしまったんです。私の犬とても大きくて。何の種類かよく分からない犬で、そんなに大きくはならないでしょうって拾ったときに言われたんですけど、とても大きくなったんですよ。こうなってくると犬かどうかも怪しいところです」
南医師は慌ただしくそう言って、やはり印象は変わったがその独特の言葉選びは昼に会った人物のものでしかなかった。
「林さんは、犬を飼っていますか」
犬がスピードを緩めたのか、南医師は落ち着いた声を取り戻して尋ねた。
「飼っていません。数年前に死んで、それきりです」
「そうですか。ワカメはね、あ、私の犬ワカメっていう名前なんですけど、海で拾ったんです。見つけたとき、ワカメには傷跡がたくさんありました。何かの動物に噛まれた跡だろうって獣医師は言っていました。捨てられたか何かで森の中を抜けてきたのかもしれないって。ワカメは海がとても好きなんです。それはもしかしたら森での恐怖を忘れられるからなのかもしれない。ワカメは海に来るとしばらく海岸に打ちあげられたワカメを咥えて一か所に集めます。それがワカメの名前の由来であり、ワカメの日常です。ワカメはこの海のある地に辿り着いた。ここはワカメの回復の地なのです。ワカメはもう森には近づきません。森はワカメを健康にはしません。どれだけ美しくても、どれだけ食物が豊富であろうと、森はワカメを弱らせるのです。ワカメにはそれがよく分かっている。体に残った傷跡が森の気配に涙を流すのです。場所というのはとても大切です。誰からも指示を受けることなく、自分自身で流れ着かなければいけない。ワカメを例に説明してしまいましたが、これは私があなたに言いたいことの大半を占めています。今あなたがいる場所は、回復の地にふさわしい場所だと思いますか」
「きっと、違うんでしょうね。先生もそう思っている」
「はい。私があなたに言わせているようなものです。けれどそれは真実です。私が知らせなくても、体の変化によってあなたはじきに気づくことになったでしょう」
「たしかに予感はありました。私の親類には若くして死んだ人が多いんです。兄弟だけではないんです。血で繋がった逃れられない影を感じていました。私であった可能性を身近な人の死で感じるんです。でも同時に、私だけは免れるような根拠のない自信もあった。いつも何かに守られているような、贔屓されているような、そんな感覚があります。だから先生の言っていることも嘘だとは思わなかった。十分にあり得る話だと思えたんです」
「それでも、そんなには望んでいなかった。私と出会うことも、不幸を免れることも。そんなふうに聞こえるのは気のせいですかね」
「気のせいではないです。何かずっと、後ろに立たされているような気持ちなんです。みんな私に背中を向けて、私は一番後ろで催されているできごとを眺めている。代わろうかって言っても、誰も彼もが大丈夫そこで見ていてって言うんです。ふかふかの椅子はまだ余っているのに誰も座りに来ない。何の役にも立たない私だけが残ってもしょうがないのに、最後に残ってしまいそうな雰囲気がある。それがとても腹立たしくなるときがあるんです」
「はい」
南医師は短く返事をし、言葉はつづかなかった。
「それでも私には大切な人がいます。私を大切に思っている人がいます。数少ない人たちだけど、その人たちをかなしい場所には立たせたくない。かなしい建物に入らせたくもない。だから、幸運を受け入れます。神様が間違えて私の心臓に何か大切なものを落としたのかもしれない。健康に生きて死ぬことだけが私の役目。そんなふうに思おうと思うんです」
「良い、イメージですね」
「はい。想像することは得意です。物語だと思い込めば、そしたら心がごまかせるんです」
「それで、あなたは今、思い浮かべることができますか。自分自身の回復の地。その候補地の記憶はありますか」
「なるほど。先生が決めた場所に行くわけではないんですね。どこかにその、回復の地と呼ばれる場所があるわけではない?」
「違います。先ほども言いましたが、回復の地には自分自身で流れ着かなければいけないんです。流れ着くということが大切です。向かうでも、探すでもない。水の流れのように、風が雲に運ばれるように、流れ着く。その道のりを進むには、あなたの得意技は生きないかもしれない。物語など必要ないし、心をごまかしている場合ではない。想像ではなく、思い出すのです。記憶を鮮明に思い出す。あなたはまず、タイムスリップするように場所の記憶を取り戻すのです。そうですね、物語は捨てたほうが良いかもしれない。あなたが考え出したあなたのための物語も、この世の中に放たれている誰かの物語も」
これは、思っていたよりも困難な日々になるかもしれない。
忘れたいことは山ほどあった。その記憶のどれもが当たり前に場所を持ち、気持ちを引き戻す。やり過ごす方法は知っていた。本なり映画なりを見て違う映像でかき消せばいい。お話の中に浸る力はとっくの昔に身に付けた。かなしみも絶望も美しい装飾品になる世界が私の不安を紛らわせてくれる。幸運なことに、私はそんな物語が無限にある時代に生まれている。けれど、この方法を手放さなければならない。イメージするのが難しかった。物語を奪われた私の日常には大きな空白ができるだろう。私はその空白の時間を何で埋めればいいのだろう。過去の記憶に、それを埋められるような場面はあるだろうか。自信はなかった。私は到頭、世界に見限られようとしているのかもしれない。
3
カオルに宣言した通り、手紙を書こうと思って紙をちぎった。怠惰な手紙のやりとりにふさわしい相手の名前は決まっている。透。俺が捨てた名だ。透が今いる場所は、俺が生まれたあの家だろう。サティまで車で一時間の、あの静かな土地。そんなところにいる透に俺は手紙を書いた。
透
元気でやってるか、勤勉な君。
怠惰な僕はとても元気だ。きっと太陽の光をたくさん浴びているからだろう。散歩が僕の日常なんだ。
おばあさんと犬のセットを一日で二度も見たよ。一組目のおばあさんと犬は、おばあさんとコーギーのセットで、「引っ張るな、こけるやろうが」とおばあさんは太ったコーギーに怒鳴っていたよ。二組目はおばあさんとゴールデンレトリバーのセット。おばあさんは道ばたに見つけた花の咲いた木の前にゴールデンレトリバーを座らせて、携帯で写真を撮った。動いちゃだめよと言って、ゴールデンレトリバーはぴくりとも動かず舌まで出して笑ったんだ。都市には色んなおばあさんと、色んな犬がいるみたい。
君のいるところから遠く離れた場所に来た僕だけど、案外そんな気はしない。ここにはたくさんの人が住んでいて、街を歩けばすぐに人とすれ違う。それなのに僕は今、小さな星にたった一人で住んでいるような気持ちがするんだ。物語は壁になり、人々は動くラジオみたいだ。何もかもが物体で、僕に向かってはこない。それも、僕がそんな場所にやって来たんじゃなくて、僕がいた星がそう変わってしまったみたいな感じがするんだ。ここはとても立体的だよ。壁と地下と塔の国みたいだ。嫌いじゃないよ。
気が向いたらまた手紙を書くよ。
サティ
文字は、記録だろうか。手紙は、思い出だろうか。思い出は、記録しないと忘れてしまうだろうか。忘れてしまった記録のない時間はどこに行ってしまうのだろう。さっぱりと、とても小さくなって散らばっていくのかもしれない。紙が燃えるよりも跡形もなく消えていくんだ。俺はそんなふうに、もう消えていきたいのかもしれない。透だったとき、周囲には様々な人間がいた。今よりも大勢の人の目に俺は映っていただろう。俺のことなんて覚えてない奴が多いだろうけど、それでも数人の奴の記憶の中に俺はまだはっきりと残っているはずだ。たとえば俺が犯罪者で警官に追われているとしよう。警官たちは俺の足取りを追うだろう。俺の家族や友人から話を聞いたりするのかもしれない。そいつらの語る俺についてのイメージ、できごと、あいつはああいう人間だったよ。みたいな話をする。それはきっと俺の皮膚の外側の、腕をまっすぐに伸ばして届くくらいの距離までの俺のことだ。人はそんな具合で、体と、その周囲の膨らみみたいなものでできているような気がする。俺は今、その膨らみの部分からじわじわと消しにかかっているような気分だった。時間の経過とともに薄れていく誰かの中にある俺の記憶。会うことがない限り、言葉を交わすことがない限り、それは濃さを取り戻すことなく薄れつづけていくだろう。そんなふうに俺は次第に膨らみを失っていくんだ。これ以上の怠惰があるだろうか。人間であること、動物であることさえも怠っている。最高の気分だ。いつだって高くジャンプができる。人は一人では生きていけない。間違っているとかいないとかは知ったことじゃない。ただ俺はこのフレーズが大嫌いなんだ。
手紙を封筒に入れ、セロテープで封をした。住所はどこにするべきだろうか。迷った末、この部屋の住所を書いた。裏面にはサティとだけ記しておく。もう日が暮れていた。外に出る気はなかったけど、ポケットに手紙を突っ込んで部屋を出た。
都会には道が多い。カオルが川を見つけられなかったのもよく分かる。まるで一回限りで閉め切られてしまう街みたいだ。見覚えのない通りだった。店は並んでいるけどコンビニ以外のシャッターは閉まっている。昼に賑わう通りなのだろう。やけにひっそりとしていた。前触れもなく、兄ちゃんに会いたいと思った。昨日カオルに会ってしまったからかもしれない。そういえばカオルといつか、兄ちゃんの特徴を言い合うゲームをしたな。たしか兄ちゃんが怪我をして長いこと入院していたときだ。カオルが急に兄ちゃんの顔を忘れたと泣き出して、そういうゲームをしてみればって母さんか父さんかが言ったんだ。俺とカオルは順番に一つずつ言い合ったんだよな。めがねの目、八重歯、爆発した朝の髪の毛、何でも吹ける口笛、ペン回しの天才、コーヒー牛乳を飲んだあとのくさい息、明石家さんまみたいな笑い方、変な自転車の乗り方、キレたときの怖い声、水中めがねをかけたときの変な顔、かっこいい鞄、オダギリジョーみたいなマフラー、親指より長い足の中指、グッドポーズ、ピースサイン……。早く腹が減らないかな。俺は思った。そしたら何を食べようかななんて考えて、それを食べて、さみしさはどこかに遠ざかる。また戻ってくるまで風のようにどこかを飛んでいてくれるのに。五月の草の匂いはあのまちと同じで、結局どこに来たところで何も変わりはしていなかった。時間だけがおそらく経ちつづけていた。ここはどこだろう。赤いポストが目に入った。ポケットに突っ込んでいた手紙を取り出して、投函した。おそらく俺はもう二度とここには来られないだろう。都市の夜道はきっと一回限りなんだ。怠惰な手紙を出すには、うってつけの街だ。
🕘
車の運転免許を取ったのは大学を卒業する直前だった。地元は平凡な田舎町で、当たり前に車社会だった。同級生の多くは高校を卒業してすぐ教習所に通いはじめた。私は関西の大学に進学することが決まり、免許の必要性を感じず取らなかった。周囲は口を揃えて早く車に乗りたいと話していたが、その気持ちは分からなかった。車は人を簡単に殺すことができる。犯罪者になる可能性が格段に上がるということだ。それが分かっているのだろうか。口にはしなかったけれど、そんなことを思っていた。人を殺して罪を抱えて生きる可能性があるならば、どこへでも歩いて向かう方がましだと思った。
それでも内定を貰った会社の入社条件には運転免許が記載されていた。内定を貰えたのはその一社だけだった。入社までの数カ月で私は免許を取得した。軽の自動車も手に入れた。ああこれで私は人を殺してしまう可能性が上がってしまったんだな。眠れない夜が増え、恐ろしい夢を何度か見た。車を運転できるようになったことへの喜びはなかった。地面に映った自分の影が少し汚れてしまったような気がした。
就職したのはドラッグストアを運営する会社だった。数年は店舗スタッフとして働く必要があり、私は地元よりも何もない田舎町のドラッグストアに配属された。車通勤が義務付けられ、私の理想は打ち砕かれた。店まで車で約十五分。リビングと四畳半の部屋が二つも付いた部屋に住んでいた。ワンルームの部屋で一人暮らすような人間はこの町にいないとでも言うように、不動産屋が紹介するのはどれも格安の広々とした部屋だった。店と自宅を往復するだけの日々を送っていた。田んぼ道をしばらく走ると国道に出る。ガソリンスタンドがあり、ホームセンターがあり、紳士服店があり、大型スーパーがあり、職場であるドラッグストアがある。町の偉い人が数分で考えた並びのようにありふれた国道の風景。潰れた店は看板を掲げたまま放置され、いずれ店舗拡大を図る回転寿司屋やフィットネスジムができる。人々が押し寄せ、引いていく。どの町にもある光景だ。初めて訪れた人間であっても何だか懐かしい感じがするよなんてセリフを吐いたりするだろう。
もしかしたら、車を置いて歩いてみたりしていれば記憶は違っていたのかもしれない。車で通過していただけの町。私は一年住んでいたはずなのに、そのにおいや温度、咲いていた花の記憶さえ持っていない。思い出せる風景と言えば、何度も繰り返された国道沿いの道。運転席から見えるだけの限りのある空。それくらいだった。
覚えていることのほとんどはドラッグストアでのことだった。高い天井には白すぎないかと不安になるくらい白い蛍光灯が整列している。商品棚がずらっと並んだ店内、薄暗いバックヤード、店長の丸い背中が見える事務所、棒金が整列した金庫、休憩室。休憩室の一角にはロッカーが並んでいて、よく昼食を食べている横でパートさん達が着替えをしながらお喋りしていた。弁当を作って行くと中身を見られ、話のネタにされることが多かった。それが嫌でパンを買って食べるようになった。それでも結局それがお昼ご飯なのかと心配された。そうだと答えるとそれ以上話が広がることはなく、おばさん達は私を一人にしてくれた。密度の高い、色んなにおいの混ざったあの休憩室のことを思い出すのに時間はかからなかった。
一人、印象に残っている女の子がいた。高卒で入社した子で、準社員として同じ時期に配属された子だった。人懐っこくよく喋る子で、パートの人たちにも好かれていた。地元の子で、訛りのある喋り方をしていた。休憩が重なると必ず隣に来て何かくだらないことを喋っていた。その子はでも、時より体調を崩し休むことがあった。吐き気が止まらなくなり早退することも多かった。そんな日が連続していたある日、店内で立ち上がれなくなった彼女に私は肩をかして休憩室に連れて行った。長椅子に寝かせ、しばらく傍で様子を見ていると、彼女は口元に笑みを浮かべながら静かに語り出した。酔った父に殺されかけたことがあるんですというフレーズからはじまった話を、私はその子の手を眺めながら聞いていた。ついこのあいだまで制服を着て教室の机に座り、ノートを広げていたんだよな。ぐったりとお腹にあてられた手は、黒板をノートに写していた頃の形をまだしっかりと維持しているように見えた。彼女の話は壮絶な過去から現在に至り、淡い恋の話に辿り着いて終わった。相槌の隙間がどこにもない、優しい彼女の語りだった。数日後、休日だった彼女は店に彼氏を連れて買い物に来た。この前話した人です。付き合うことになったんですよと笑った。とても優しそうな男の子だった。
―体調はどうですか?
南医師からメールが届いた。
―変わりありません。
数年前、二十二、三歳の時に住んでいた場所のことを思い出してみました。
二十代の記憶はどこを切り取ってみても何の面白みもありそうにないです。晴れていた日などなく、天気は曇りか雨の二つしかなかったのではないかと思うくらいです。土地の記憶はほとんどありません。職場と家を車で往復するだけの日々だったのです。部屋の記憶も薄く、職場のことだけが鮮明に残っています。そこで一緒に働いていた女の子がいました。会社を辞めてから今まで思い出すことはなかったけれど、その子の名前と顔を今日、思い出しました。声を出して笑ったとき、その子の頬にはくぼみができる。えくぼにしては大きい、その子だけのしるしのようなその頬のくぼみのことまで思い出しました。
―そうですか。そこは、回復の地にふさわしい場所でしょうか。
―それはないと思います。楽しい瞬間もあったのかもしれない。でも私は、できればもう二度と行きたくはない。繰り返される一日の行動のすべてが好きではありませんでした。それを選んだのは自分で、誰にも強制されることなくここにいる。だから、手放せば人生が終わる。当時の心に引き戻されると、どうしようもない気持ちになります。いつでもお前を待っていると言われているように怖くなる。きっと本当にすぐに私はああいう日々に戻れる人間なのだと思います。戻るべき人間のような気もする。だから、目を逸らしていたい。背中を向けていたい。色んなこと、本当のこと、すべてを知りたくはないのです。晴れていたような日のできごとを思い出すことができたのは良かったのかもしれない。けれど、少し苦しいです。
―そうですか。
お前に何が分かるのと言われてしまうかもしれませんが、林さんはその日々に戻ることのできる人間、いや、体ではないと思います。行動を決めるのは体です。あなたの体はそんなにふうにはできていない。幸福を、楽しさを求めて動くような、単純なつくりをしていると思います。それを絡ませ複雑にするものがあなたの背中を狙っているものの正体です。もっと思い出してください。あなたの単純な体が捉えてきたものを思い出してください。そしてよければ、また私に教えてください。
4
都市の、午後三時の人々を見下ろしていた。
駅に直結した巨大な芸術劇場。一階のエントランスの中央は丸くくり抜かれ、地下を行き来する人々が見下ろせた。人をじろじろと見るべきではない。すれ違う人の顔はできるだけ見ない。見ても首から下の方か、足元だけを見るようにする。電車が一番難しい。正面に座っている人にはどうしたって目が行ってしまう。今の俺には携帯を触る理由が無さすぎるし、持ち運びたい本もない。できれば人々の向こうに広がっている空を見ていたいけど、そこにある空は人の顔と近すぎて、空を見ている俺は、人をじっと見ている俺になりかねないからそれもできない。人をじっと見る人間にはなりたくない。結局電車に乗った俺は向かいに座る乗客たちの靴を見つめることになる。退屈でどうにかなりそうによくなる。
地下を行き来する人々に俺の視線は届いていないだろう。もしすごく敏感な人がいて届いてしまっていたら申し訳ない。俺の方を見上げる人はいないからたぶん大丈夫だと思う。地下には芸術劇場らしい洒落た椅子がいくつか置いてあった。劇の開場を待つようにチラシを吟味している婦人や、見終わった劇の感想を語り合う女性たちがいたりした。その間をすり抜けるように駅に向かう人、駅から街へ行く人々がすばやく通り過ぎて行った。制服を着た中学生くらいの青年が広場の隅で立ち止まった。周囲を見渡し、座る場所ではなさそうな段差に腰を下ろす。空いているベンチはまだ残っていたけど、どの席も青年の中の何かが拒んだのだろう。気持ちは分かるような気がした。青年は鞄から取り出したタブレット端末をいじりはじめた。何をしているかまではさすがに見えない。俺の視界を爺さんが横切る。俺は丸くくり抜かれたエントランスの、その丸みに沿って設置された腰掛に座っていた。腰掛と、地下の人々が映し出される透明なガラスの柵の間には空間があるが、人一人が何とか通れるくらいの広さしかない。視界を横切られる準備ができていなかった俺は、爺さんの登場に大袈裟に体を後ろに反らせてしまった。腰の曲がった爺さんは何事もなかったように、スローペースで俺の横に体を納める。
爺さんはポケットから煎餅らしきものを取り出して、袋を開けずにばりばりと砕きはじめる。それが合図だったかのように二匹の鳩がやってきた。爺さんが来る前からそいつらはそこにいた。誰かが座る度に寄って行くシステムなのだろう。俺が食べ物を持っていないことを知るとすぐに去っていった。鳩たちが嬉しそうに爺さんの足元をうろついている。爺さんは砕き終わった煎餅をほれほれと言いながら鳩にあげた。鳩の飼い主。変なフレーズが頭に浮かんだ。都市にはある一定数そういう人がいるのかもしれない。猫を家に閉じ込めないで飼っている田舎の家のやり方みたいに、都市で鳩を飼っている人。そういう感じで色んな動物が飼えたらいいのにな、なんてことを思った。頭は順調に悪くなってきているみたいだ。
俺は鳩に煎餅をやる爺さんがひどく優しい人間に見えてきた。視界に入っているけれどピントを合わせないもの。それは優しさにも冷たさにもなる。俺が誰かにピントを合わせても、合わせなくても、それはどちらも一つの行動なんだよな。しなかったことも選び取った大きな行動であって、攻撃だ。暗い穴の前に立っている奴の背中を押すことにだってなるだろう。俺は沈んでいく気分の中で、地下の人々を眺めつづけていた。仕事終わりらしきスーツ姿の女性が椅子に座り、携帯をいじる。青年はまだタブレット端末を操作している。歩いている人はみな急いでいる。俺は考えていた。何が人を、殺すんだ? この景色の中にその答えがあるんじゃないかって、どうしてかそう思った。人が死を選ぶ理由は一つではないのかもしれない。それでも人は眠りつづけることはできないわけで、だから生きている限り目覚め、世界を見ることになる。死を選んだ人の瞳には俺の見ているものと同じものが少なくとも一つ、多ければ何十個も何百個もあったはずだ。穴を目の前にして、彼彼女らは明日を想像するだろうか。飛び込まなかった明日の景色にここがある。想像を終え、その足はどこに向かうだろうか。
この場所にはどっちもあるような気がした。死ぬことにする景色も、生きることにする景色もあるように見えた。そんなことはあたりまえだよな。だから死ぬ人も生きる人もいるわけだ。でもきっと世界には、いや、そんなに壮大になるまでもなく少し先を行けばどちらか一方しかない場所があるんだと思う。どれだけ見渡しても一つの選択肢しかない。そんな場所か、そんな瞳を持ってしまったのか、どちらにせよ一つしかそこにはない。死ぬことにする景色か、生きることにする景色。俺は俺を大切にしたいからここを動かないでいよう。もっと安全な、生きるだけを選べる場所があるのかもしれない。でも俺にここを動く勇気はない。だって一歩違えば死ぬしかない場所になるかもしれないから。俺には何もできない。自分しか守れない。俺ができることと言えば、鳩にえさをやるくらいだ。
俺はコンビニでパンを買って、爺さんがいなくなってつまらなそうにしている鳩たちにちぎってやった。満腹だったのか鳩はパンくずをつつくだけで食べなかった。帰り際、エントランスの柱に「鳩にえさを与えないでください」という張り紙を見つけた。俺は一体何をしているんだろう。まあいい。今日も怠惰な一日がやれた。
🕗
恐れていたことが起こりはじめていた。眠れない夜が数日つづいている。顔がひどくむくみ、体がだるい。眠らない動物はいないと、いつかテレビに出ていた睡眠学者が言っていた。眠ることが命取りになりかねない野生の動物たちでさえ、眠らずに生きることはできないと。しかし生物がなぜ眠るのか、眠らなければ生きることができないのか、その明確な答えは分かっていないらしい。私は思う。人は忘れるために眠るのではないだろうか。世界を受け止めるにはこの一つの体では弱すぎて、見ているものすべてを重ねて留めておくなんてことをしていたら死んでしまう。だから一日の半分は眠って、ちゃんと忘れてしまわないといけない。それを証明するみたいに、ごちゃごちゃと頭の中が賑やかだ。私は眠るのを諦め、パソコンを開いた。南医師へのメール作成のボタンをクリックする。文字に吐き出してみたら、少しは重さが減るだろうか。送信するかどうかは書いたあとで決めよう。
―私が暮らした中で一番美しかった場所は京都だったと思います。
大学の四年間をそこで過ごしました。鴨川沿いの道を何度も歩きました。思い出す風景はどれもとても美しいです。今思えばとても贅沢な場所にいたんだなと思います。それでもこの土地もまた、行きたくはない場所として記憶に収められているみたいです。私はここ数日考えています。どうしてこんなにも心が乱されるのだろうか。大学時代なんて特別かなしいできごとも大変な毎日もなかったはずなのに。どうしてだろう。私は一つの可能性に気づきました。私はどこかの時点で、何かを纏いはじめたのではないかと思うのです。瞬間的なものだったのかもしれない。それか、じわじわと少しずつ頭からか、足元からか纏いはじめた。大学時代の私を思い返すと、その姿はもうすっかりと体全体を覆っているように見える。美しい風景の中にいる私はだから、とても気持ち悪くて目を閉じたくなる。その場所には楽しい思い出がなかったのではなく、楽しいことを楽しめなかった自分がいるのだと気づいたのです。纏っているがために、楽しめなかったのだと思います。
一つだけ、掘り起こしてみたいと思ったできごとがあります。そのできごとは最後、あるアパートの一室で終わります。全く楽しくはなく、不快感すら起こしかねないできごとだけど、私はその場所のことをよく覚えています。ここに綴りながら、思い返してみたいと思います。
ある日、大学の構内でビラ配りをする男性と出会いました。大学は山に囲まれた土地に立っているため坂が多かった。そのため敷地の中には屋外エスカレーターがいくつかありました。その男性は教室に向かう途中にあったエスカレーターの下に立ち、上りはじめようとする学生たちにビラを差し出していました。部活動の部員募集のビラでした。季節は春をとっくに過ぎた夏頃だったと思います。そんな時期に部活動の勧誘をする人はおらず、学生たちのほとんどが彼を無視してエスカレーターを上っていきました。私はというと、目の前に差し出された紙を思わず掴んでしまいました。すると彼はにこりと笑い、エスカレーターに一緒に乗ってきました。次、何の授業? と聞いてきて、答えると、へえ。と笑う。他に何の授業取ってるのと聞いてきて、月曜から順に答えていると、それ俺も取ってると大きな声で私の言葉を遮りました。結局それくらいで坂の上へと辿り着き、彼はビラに関することは何も話さずじゃあまたねと言って去って行きました。
数日後、彼も取っていると言っていた授業で私たちはまた顔を合わせることになりました。授業がはじまると、彼はノートに文字を書いて私に見せてきました。その文字の下に私が返事を書いて筆談しました。彼氏いるの? からはじまり、次第に卑猥な方向へと進んでいきました。最後に、つまらないし教室出てどっか行かない? と、笑みをこぼした彼がノートの文字をペンでこんこんと叩きました。それはちょっとという顔を向けると、彼は席を立ち一人で教室を出て行きました。私は彼の背中を見送り、しばらく授業を受けていましたが、数分経って教室を出ました。廊下の壁にもたれていた彼は私に気づくとにこりと笑い、私を待つことなく歩き出しました。一定の距離を保ったまま、私と彼は同じ方向に歩きつづけました。だるまさんが転んだの鬼の役をするみたいに、時より彼がこちらに体をねじって見せました。私はその度に立ち止まり、背中が見えるとまた歩き出しました。立ち入ったことのない区域へと進んで行き、辿り着いたのは地下の駐車場でした。「先輩から安く買ったんだ」と、彼は聞いてもいないことを口にしながら古びた軽自動車の鍵を開け、距離を保ったままでいる私を見つめました。「帰ろうかな」私が言うと、「じゃあ車で送ってあげるよ」と落胆した感じもなく言い、運転席に乗り込みました。私は迷った末、結局車に乗りました。車が動き出し、私は毎朝汗を流しながら上っている大学までの長い坂を涼しい車内から眺めました。「ここ右です」と私が家の方向を伝えると、「へえ」としか返事が返ってこない。曲がりもしない。五分くらい走って、車が止まったのはボーリング場の駐車場でした。彼はボーリング部の部員でした。ビラを見てそれは知っていました。おそらくスポーツ推薦で大学に入ったのだと思います。部活に所属する学生のほとんどがそうでした。
「部活行くの?」「行かない」「俺んち来ない?」「行かない」「部活行きなよ」「コーチに怒られたから行きたくない。林さん入ってくれたら行こうかな」「ボーリングほとんどしたことない」「俺が教えるよ」「いいよ。そんなに好きじゃないし」「あっそ」
しばらく沈黙があって、彼は私の膝に手を置いて、それを私は払いのけてを繰り返しました。
「勃起してきた」「知らない」「やめようかなボーリング。期待されてないし。ビラ配りでもやっとけって言われるし。ビラ配り暑いし」沈黙。「期待されてるから怒られるんじゃないの」「そんなことないでしょ」沈黙。「一回だけでいいから、家来ない? 何もしないから」
彼の家は大学への長い坂を下って、狭い路地を少し進んだところにありました。古びた二階建てのアパートで、彼の部屋は二階にありました。玄関を埋め尽くす靴やゴミ袋を流し避けながらドアが開かれると、知らない人の家のにおいが鼻をつきました。彼は暑いなと言いながら靴を脱ぎ、廊下に点々と落ちたゴミや衣類を足で隅に追いやりながら奥の部屋に向かう。私は後につづきながら、廊下に不自然に転がっていたボーリングの玉を見つけました。部屋は六畳くらいの畳の部屋で、家具はほとんどなく、敷きっぱなしの布団が敷かれてあるだけ。ものは少ないけれど服や本やゴミがその辺に散らばっているためか、それなりの密度を感じる部屋でした。そして散らばったものの中に二つ目のボーリングの玉を見つけました。
彼は荷物を降ろすとすぐに服を脱ぎはじめ、しようと言って迫ってきました。行為は最後のところで上手くいかず、途中でやっぱりやめたと言っておわりました。クーラーが効いていなかったのか付けていなかったのか、とても暑かったのを覚えています。私は何となく近くに転がっていたボーリングの玉を両手で掴んで持ち上げました。濃いむらさき色をした、水に絵の具を垂らしてぐるぐると混ぜたようなうねりのある模様。不気味な球体を、裸同然の姿で持ち上げてみたのです。熱く、重たかった。
こんなことを恥ずかしげもなく書いてしまって、先生を不快にさせてしまっていたらごめんなさい。書くだけ書いて送らないでおこうかとも思ったのですが、読んで欲しいと思い送らせていただきました。文字にすることは私の中にある私の知らない部分を掘っていく作業のように感じます。どうしてこのできごとが大切にしまっているような鮮明さで残っているのか、それは分かりません。この男性に対して起こっていた感情についても考えてみました。ぴったりとくる言葉があるのかもしれない。けれど今の私にはそれを明確にする必要はないような気がするのです。私がやるべきことは感情を振り返ることではなく、何が、誰が、どこが、あるのか。体にあるほくろの位置を確認するように、ただ単純に過去を見つめてみる。先生の求めていることはそういうことでしょうか。間違っていないでしょうか。間違っていなければ、このメールの返信は要りません。先生の助言なく、しばらく一人でやってみたくなりました。こちらからのメールはお許しください。わがままを言ってごめんなさい。ではまた。
送信ボタンを押す頃には瞼が重くなりはじめていた。私は先生から言われた通り、物語から離れていた。一日の中に現れた見慣れない静寂を記憶と文字でやり過ごしている。眠れない夜にはどこかに潜んでいるらしい動物の気配を感じた。それはもしかしたら私の背中を追いかけてきている病なのかもしれない。私と病の距離はタッチされそうなほど近づき、そしてまた遠ざかったりを繰り返しているのだろう。それでも私は感じはじめていた。逃げ切るために必要な場所の、その雰囲気みたいなものを。とても遠く、幽かだけれど、そんな気がしていた。
5
込み合った車内、いつもより激しく体を揺らされているような気がした。握ったつり革のぎしぎしという振動が指に響く。窓の外にはミニチュアみたいな都市の姿が広がっていた。ビルの、屋上へとつながった非常階段に目が行く。
〈はやく、ここだけが残るから〉
そいつは俺に右手を差し出して言ってくる。左手は階段の手摺を強く握っているらしい。
〈もっと高いところがあるはずだ。ほら、あのてっぺんのところに行こう〉
波が迫り来る都市の真ん中で、俺はそいつに言い聞かせる。
〈いや、ここだけよ。残るのはここ。あそこは崩れて飲まれて沈んでいくわ〉
そう言っているのはカオルのような気がした。
イメージだけが今の俺の遊びだった。カオルはいつも俺のイメージの中に登場してきた。イメージの主人公はカオルで、そこに俺がいないことだってあった。いないときの、カオルだけのイメージの方が俺は好きだ。俺のイメージにカオルが登場するわけは、きっと詩のせいだと思う。カオルはある時期から詩を書きはじめた。それはカオルが故郷を出て行く少し前のことだった。ある日カオルが教えてくれたから、俺はそれを知っている。
正月だった。年が明けて、ばあちゃん家に親戚が集まっていた。男はだらだらと正月番組が流れるテレビを眺め、女は料理の支度をしている。正月の代わり映えしない光景がそこにはあった。小さい頃は男にまざって一緒にテレビを見ていたカオルも、いつからか女の方にまざっていた。料理を食べ終えると、ばあちゃんが旦那の仕事はいつまで休みなのかと周囲の女たちに聞いた。俺はテレビに目を向けながらも、背後で開催されている少し緊張感のある会話劇に聞き耳を立てていた。回答の順番がカオルに回ってくると、ばあちゃんは旦那のいないカオルにいつまで休みなのかと個人的な質問に変えて問いかけた。カオルは「いつまででも?」と、少し笑いをまじえた声で答え、「仕事やめたから」とつづけた。ばあちゃんは俺の耳まで届くサイズのため息を吐いた。カオルが仕事をやめたのは三度目だった。女たちの会話はしばらく止まり、余ったお寿司分けないとねと言う誰かの発言によって再開した。俺はばれないようにそっとカオルの方を見た。視界に入り込んでいるはずの俺の体を突き抜けるような瞳をテレビ画面に向けていた。少しでもそこから目を逸らしてしまったら死んでしまうんだと訴えられているようだった。
しばらくしてトイレに立つと、カオルの姿がないことに気づいた。別の部屋を探してもいない。外に出てみると、庭の片隅に置かれた丸椅子に一人座っているカオルを見つけた。カオルは俺に気づくと、座る?と言って立ち上がる。椅子にはばあちゃんが編んだ座布団が敷かれていた。いいよと俺が断ると、カオルはそう、と言って座り直し、空に上がりつづける煙の方を見た。ばあちゃん家の近くには大きな製紙工場がある。巨大な煙突は町を見下ろすように立ち、灰がかった白い煙を途切れなく吐き出しつづけていた。町にはその煙が作る独特なにおいが漂っている。高速道路のインターを降りるとそのにおいはすぐに鼻をついてくる。そのにおいで、いつもばあちゃん家に来たなって実感する。
寒くないかと聞くと、「寒い。けど家には入りたくない」とカオルは言った。それから俺たちは煙突の方へ歩いてみることにした。高速道路の下の道を並んで歩いた。田舎の町を正月に歩いている人間なんていなかった。頭上を走り去る車の音だけが大きな音で鳴っていた。
「私このにおい、嫌いなんだ」
「うん」
俺も嫌い。と言おうとしたけどやめた。言ってしまったら、何かそこにある俺たちの膜みたいなのが破れてしまいそうな気がした。誰にも届かないようにしてくれている俺とカオルを覆う膜が、俺の声で破れてしまったらいけない。そのときの俺たちの声は誰にも届いていなかったし、届かないことを願ってもいたと思う。誰かを傷つけないでいるためには言葉は難しすぎた。
「においは町を、越えるのかな」
カオルがつぶやく。
「越えないんじゃない。山とか川とか、あるし」
まちにはにおいがある。そのまちごとの、においがある。言葉はどうだろう。まちを越えることはあるのかな。
「詩を書きながらなら、素直にやっていける気がするんだ」
自分を抱きしめるように腹のところで両腕を重ね、カオルはそう言った。
「詩って、あの詩か」
「うん。その詩」
俺は詩なんてほとんど読んだことがなかった。詩を書いているカオルを想像しようとしたけど、上手くできなかった。
「そんなの書いてたんだ」
「うん。誰も知らないと思う。知らないままでいいと思う。でも誰かには知っていて欲しかった。私を知っている中の誰かに、私が詩を書いていることを知っていて欲しかった」
「読んでみたいな、カオルの書いた詩」
「詩の投稿サイトに上げてるから、あとで教える」
詩人になるのかとカオルに聞くと、ならないしなれないと思うと笑った。詩人という言葉が自分に似合わなすぎて面白いとも言った。それでも他の何かになるのはもう諦めたとも言った。生きていけるだけのお金を稼いで、詩を書いて、そういう感じでしばらくやってみようと思うと言った。
俺たちは長いこと歩き、そしてまた正月の風景の中に戻った。それが、俺が見た最後のカオルのいる正月だった。帰りの車の中で俺はカオルの詩を読んだ。
眠らない動物は一日で死ぬ
雨を弾かず 風に膨らむ
白い花をこのみ 大きい靴がほしい
死ぬと石になり いずれ砂となり 眠らない動物にまたなって
白い花を見つめ 大きい靴をさがしにいく
俺はまた、イメージの遊びをする。
ビルだらけの街に隠されたカオルがでかい歩道を歩いている。自転車が来たって犬を二匹連れた奴が来たって避けなくていいようなでかい道。カオルはそこを歩いている。頭上にはあのときのように高速道路が走っている。でもそれはもっとでかい高速道路だ。ちらりと見える標識には聞いたことのある名前の地名が書かれていたりする。渋谷とか、新宿とか。それは平日の昼の三時くらいで、みんなせっせと働いていたりする。まるでカオルに背を向けているみたいだ。前から来る奴も後ろから来る奴も、結局はみんなカオルに背中を向けているんだ。カオルはその後ろで歩いている。となりには、誰かがいる。俺じゃない。兄ちゃんかもしれない。街で出会った恋人かもしれない。そいつはやわらかい標準語でこう言ったりするんだ。
〈僕たちおそろしいくらい、世界に参加していないよ〉
カオルが新しい詩を投稿していた。
影に手をふり 鏡にささやき
バスで眠り夢をあやつる
遠くのほしの
さいごのこどものあそびかた
🕖
―南先生、度々のメールお許しください。つたない文章もお許しください。このスタイルで、私は私の記憶を取り戻してみたいと思うのです。
部屋を飾りはじめたのは、何かを纏いはじめたのと同じ時期だったように思います。兄弟たちが進学や就職で家を出ると、私は家の中の最後の子どもになりました。一番の上の兄はそんな私を不憫に思ったのか、一番広かった自分の部屋を私にくれると約束しました。一人になったらここを使えばいいよと、部屋にあった家具をすべて置いて一人暮らしの家に越していきました。それまでの私はほとんどの時間をリビングで過ごし、夜は物置部屋で眠っていました。ロフトベッドは寝返りを打つたびぐらぐらと揺れました。
兄弟たちが出て行くのを待っていたかのように、私は部屋作りにはまっていきました。中学の終わりくらいでしょうか、ファッション誌には女の子の部屋を特集した記事が毎月必ずありました。私はそれをスクラップしてノートに貼り、真似をしながら部屋を飾っていきました。布団カバーを花柄に変え、カーテンを水色にして、少年漫画を物置部屋に押し込んで少女漫画を並べました。古着屋で見つけた可愛いけれど着れない洋服を壁に掛けました。かわいい映画のチラシ、ポストカード、チェキで撮った海の写真。壁を埋め尽くすのが流行りだという雑誌の文言に乗せられた私は夢中で白い壁を何かで埋めていきました。
数カ月後、帰省した兄は変わり果てた部屋を見て、すごいなあと呆れと感動のまざった声で言いました。新しい棚でも買ったらいいよと言ってホームセンターに連れて行ってくれました。兄はもう車の運転をするくらい急ピッチで大人になっているのだなと感心しました。組み立て式の棚を買って、部屋で組み立ててくれました。兄は一人暮らしをとても楽しんでいるみたいでした。兄も私と同じように、誰にも邪魔されない自分だけの部屋を持ったことに喜んでいたのだと思います。少し高いけどすごくかっこいい家具を買ったんだと楽しそうに話していました。何度か母と一緒に兄の部屋を訪れたことがあります。とてもおしゃれでかっこいい部屋でした。私もいつかこんな部屋で一人暮らししたいなと言うと、したらいいよと兄は優しく笑いました。あのときの、兄の部屋の雰囲気みたいなものを今もぼんやりと覚えています。あの部屋のあったアパートと似た建物を見ると思い出します。狭いベランダに干された洗濯物や、駐輪場に詰め込まれたママチャリを見ると、あの部屋は今もつづいていて、どこかに存在しているような気がしてしまうのです。
部屋の記憶。私は少し「土地」というものを離れ、「部屋」について思い返してみようと思います。
部屋は住んでいる人をよく表しているような気がします。先日お伝えした、大学時代に出会った男性の部屋もそうだったように思います。あの部屋はとてもあの人らしかった。私も何度か言われたことがあります。部屋を訪れた人からあなたらしい部屋だと言われます。私は他人とどこかに出かけたり食事をしたりすることはあまり好きではありません。誘われるようなことがあれば、頭の中は無意識に断る理由を探しています。けれど家に誘われると、行ってみたいと思う。そこには何が置かれていて、飾られていて、どんなにおいがするのだろうと想像してしまいます。小学生の頃はよく近所の友達の家に遊びに行きました。一番仲の良かった子の家は田んぼを持っている大きな古い民家で、おばあちゃんとおじいちゃんとその子の家族の二世帯で暮らしていました。その子の部屋はとても広くて、大きなピアノがありました。ピアノに似合うシンプルなソファとベッドと少しガーリーな勉強机が置いてありました。その子の家に行くときは必ずお気に入りのぬいぐるみを持って行って、その子の家にあるぬいぐるみたちと即興の会話劇みたいなことをして遊びました。遊んでいると、決まってその子のおばあちゃんが手作りのおせんべいを器に盛ってやってきました。少し甘い、白くて内側にくるんと曲がった不思議なおせんべいでした。友達は食べ飽きているからと言ってほとんど食べませんでした。廊下は旅館みたいに広くてしんとしていて、振り子時計の音が響いていました。
その子の家から少し歩いたところにある子の家にもよく遊びに行っていました。いくつかの住宅が立ち並んでいる区域で、比較的新しい家が多くありました。その子の家にはシルバニアファミリーの家が三種類もあって、それで遊ぶのが目的でその子の家に行っていたのだと思います。その子は何年生かのときに転校してきた子で、とても珍しい苗字だったことを覚えています。あと、とても泣き虫だった。その子のお母さんを一度だけ家に行ったときに見たことがありました。眼鏡をかけていて、頭には激しいパーマがかかっていて、いつもむすっとした顔をしている。その子が泣き虫なのはこのお母さんのせいだと勝手に決めつけていました。怖いイメージが付いてしまったからか、その子の家に行くことは次第に減っていきました。
中学や高校の頃も、何人かの女の子の部屋に遊びに行きました。BL漫画がたくさんある部屋で、その良さについて語ってくれる子がいました。アイドル好きの女の子と、ポスターやうちわで埋め尽くされた部屋の中で何時間もライブDVDを見ました。うさぎを飼っている子の部屋で、うさぎにきゃべつをあげました。ゴミ屋敷みたいに汚い部屋で、避難場所のように置かれたピアノの椅子の上でクレヨンしんちゃんの漫画を読みました。どの家もどの部屋も他人の家のにおいがして、その子のにおいがしていました。そこではたいてい私と彼女たちの二人しかいなく、話題は尽きることはなく、尽きたところで手を伸ばせば何かがあった。本やピアノ、ぬいぐるみ、うさぎがあった。
彼女たちの部屋はでも、今も存在し、つづいているような気はしません。兄の部屋のように、彼女たちの部屋はもうつづいていないように思う。彼女たちの数人の今を、私が知っているからなのかもしれない。結婚したり、子供が生まれたりしていることを。生きていて、変わりつづけていることを想像できるから、過去の場所はもう無いように思うのかもしれません。
死の気配にあふれていた一時期、私の毎日はふわふわとしていました。体の中には常に何かがたくさん詰め込まれているようでお腹が減らなかった。心臓と首元の間を何かが行ったり来たりしている。そんな感覚があり、すべてが終わったときに襲ってきたのは温もりのある何かでした。浮遊していたものが着陸し、建物の中に入り、重い扉を閉じる。扉の向こうにあるのは明日とか未来とか将来とかで、こちら側にあるのは過去。小さな窓から差し込んでいる光が今なのかもしれない。私たちはしばらくその場所で体を抱えてじっとしていた。それはなんと言葉にすればいいのか、閉ざすことを許された場所のようでした。
回復の地について考えはじめ、私はその場所にいたときの気持ちに陥ることがあります。いつでも眠れそうなくらいひどく居心地がいいのです。それでも一日一日と日が経つにつれてそこにいる人の数は減っていって、私も追いかけるように扉を開けて出てきました。居心地は良いけれど、一人になった途端にとても怖い場所になるような気がしたのです。私は少し慌ててその扉を開いてしまったような気がします。そこを出るときに、何かを持って出るべきだったのでしょうか。今もどこかに存在し、つづいているような記憶。それはあの建物の中にしまわれていて、持ち主を待っているのかもしれない。
次の休日、ある場所に出かけてみようと思います。行きたいと自然に思えた場所です。回復の地への手掛かりになるかもしれません。ではまた、メールします。
6
体を起こすのに時間がかかり、立ち上がるのに時間がかかり、やる気が出てきた頃にはもう日が沈んでいる。信じられないことに、あたたかい季節の肉体だった。シャッターを閉める果物屋、店先のワゴンを仕舞い込む古本屋、見回りをはじめる博物館の警備員。そんな場面が頭に浮かぶ。近所の犬が吠えている。夕方の散歩を急かすような鳴き声だ。となりの部屋の網戸が開いたな。洗濯物を取り込むカチカチという音がする。もうあなたはどこへも間に合わないと言われているみたいだ。欲しい服も果物も、真っ暗闇のガラスケースの向こうだ。金のない奴と、俺と、どっちがあそこへ近いだろうな。
昼過ぎに母さんから電話が掛かってきて、一時間くらい話をした。話って言っても母さんばっかり喋って俺は相槌を打つくらい。ばあちゃんが怪我をして入院したとか、父さんが叔父さんに金を貸して返ってこないとか、今期のドラマはどれもぱっとしないとか、そういうこと。母さんの話を聞いていると、どうしても家の情景が浮かぶ。母さんはたぶんソファと机の間に座って俺と電話してる。テレビは付いているけど音は消してる。窓が開いていて、窓辺の植物は枯れかけていて、お隣さんの犬がこっちを見ている。いや、犬はもう死んだんだっけな。
俺は家を出るときにダイギンリュウという観葉植物を部屋に置いてきた。太い茎とギザギザとした葉っぱがかっこよくて何となく買ったけど、思っていたよりも成長した。植物を運ぶ方法もよく分からず、部屋に置いたまま引っ越した。数カ月後、実家に帰るとダイギンリュウは更に大きくなっていた。母さんはちゃんと水をあげているからねと得意げに言った。母さんは観葉植物をよく買うけど、すぐに枯らす。サボテンを枯らしたことだってあった。なのに俺の部屋のダイギンリュウは枯らしていない。俺はその事実に、申し訳ないなって思う。実家に帰って元気なダイギンリュウを見る度に思う。いっそどこかに捨ててしまおうかと思ったこともある。犬を飼っていた頃も、同じような気持ちになったことがある。俺が飼いたいと言って飼った犬を最後まで面倒みたのは母さんだった。大学で家を出てからは当然犬の散歩をするのは母さんしかいなくて、衰えて弱って死んでいくのを看取ったのも母さんだった。俺は命に手を伸ばせるほど責任感のある人間ではないんだ。二階の俺の部屋で風に揺れているダイギンリュウを思うと胸が痛んだ。母さんとの電話を切って、しばらくぼうっとして、眠った。俺はかなしくなる前に眠るようにしている。
俺にはこの怠惰の中で考えないといけないことがある。たいていの考え事っていうのは、怠惰の中でしか成功しないと俺は思う。よく眠って、体を健康に保って、脳みそを空っぽにしないとろくな考え事はできない。特に答えのないような、壮大なものごとなんかについて考えるときは。
死について、俺は考えたい。死ぬっていうのはどういうことなのか。答えはないようなものだから、どう思い込むことにするか。俺は死というものをどういう現象だと思い込み、これからをやっていくのかを決めたい。どうしてそんなことをするのかっていうと、怖いからだ。死ぬことは、今のところとても怖い。葬式も怖いし、骨も仏壇も墓も怖い。でも、葬式なんかに出ると思う。死ぬってことは固定されることなのかなって。笑ってる写真が掲げてあって、生前はこういう人でしたみたいなアナウンスが流れる。当然すべてのできごとは過去形で語られる。墓には名前と生きた年数が刻まれる。消せないように、石に彫りこまれる。そんな工程を見ていると、その人がどんどん世界に取り込まれていくような、染み込んでいくような、そんなふうに見える。生きている俺なんか必要としてなくて、死んだこいつが必要なんだ。もらっていくよ、返してもらうよって誰かが言っている。世界とか、宇宙とか、もっと大きな何かなんだろうなって思って俺は空を見上げたりする。俺はもしかしたら大きな死の中にいるのかもしれない。世界は死んでいるものばかりで、俺は死に囲まれながら生きている。死の、わずかな一部が俺で、生きるなんて一瞬の奇跡みたいなものなんだ。それだって言葉がなければ違いなんてなくて、フラットな続きなんだろう。感情なんて言葉がもたらした錯覚みたいなものだ。恐怖だって、こうやって分解してみたりしたら怖くなく思えたりする。言葉で怖がって、言葉で安心して、俺たちはいつまでも独り相撲している。しかたない。生きている俺たちなんか大した存在じゃない。死んでしまった良い奴のことでも思い出して、夢の中で二人して空を飛んだりしていればいいんだ。
俺は死ぬことについてこんなふうに考えることができるけど、死んだ人に対してやれることが何なのかってことは全然分からない。死ぬ前にできたことなんて山ほど思いつくのに、死んだあとにできることは一つも思いつかない。線香をあげることも、墓参りすることも、思い出すことも、俺のためにしかならない。死人にこそ言葉があればいいのに。そしたら俺はそれを聞いて……。いや、そんなことになったら恐ろしい。生き返らせてくれなんて言われたら、俺はどうしたらいい? それでも言葉をくれさえしたら、ごめんって、それはできないんだごめんって、好きだったって返せるのに。でも結局そんな言葉は死んでからしか出てこないんだ。世界に固定されて、過去だけになったそいつを振り返るように思い出し、そこまできてやっと俺はその言葉を思いつく。タイムリミットはもうとっくに過ぎている。生きている人間も、死んだ人間も、言葉のタイムリミットは同じ。死んだ文豪はもう小説を書けない。死への抵抗は、生きている間にしかできないんだ。
カオルにとっての詩は、そういうものだったのかもしれない。死への抵抗策として、自分の言葉を持ったのかもしれない。
俺のは、何だ? 俺はこれまでどうやって、死の誘惑に抵抗してきたんだっけな。
🕔
眠れそうにない夜、セックスシーンのある映画を見ることがあった。男性用のものではなく、ちゃんとしたストーリーのある、セックスというものが美しく描かれているタイプの映画だ。そういう映画のDVDをいくつか持っていて、長くなりそうな夜に見ていた。それを見ていると頭の中を占拠していた言葉や光景はみるみる押し出され、テレビの中で激しく動いている男女の姿だけになる。煩わしいことを切り取り、現実では誰も言わないようなセリフを吐き、行為は滞りなく進んでいく。私は束の間、世界のイメージを変えることができる。眠るために必要なのは、朝まで持ちこたえることのできる良いイメージだった。憂鬱ではないかもしれない。退屈ではないかもしれない。特別な一日は明日かもしれない。可能性が、不安を少しだけ上回る。本に混ざって並べられたDVDはそういう力で私を眠らせることができた。しかし今私は、物語を奪われている。フィクションに逃げることはできない。
私はベッドの中で目を閉じて、片方の胸を触った。映画を見られない代わりに、そういう記憶を思い出そうと試みた。最後にこの胸に触った人は誰だっただろうか。高校時代の友人だ。一年くらい前、出張で近くに来たからと言って部屋を訪れた彼とそういうことになった。大量のビールを抱えて部屋に上がってきた彼は、仕事の愚痴を吐き出しながらすごいスピードで缶を空けていった。食事が終わりテレビを見ていると、お腹がでてきたと言って腹を見せ、触ってみてと言って私の手を持っていった。お前も太ったんじゃないかと言って私のお腹にも手を当てた彼は、しばらくむにむにと触りつづけた。手はだんだんと上に上がってきて胸を触り、ズボンの中もまさぐりはじめた。
私は彼のことをずっと中性的な人だと思っていたから少し驚いた。久しぶりに飲んだお酒のせいか、やけに現実味がなく、それでも彼の異様な行動は直視できるものではなかった。私は仰向けの状態で、何も見ないようにと両腕で顔を覆っていた。
「ねえ、ズボン脱がしてもいい?」
聞いたことない声色で彼が言った。私は少し腕をずらし、「するの?」と、疑うように彼を見た。
「ちょっと我慢できなくてさ。今日だけ。もうしないから。最後だから」
彼はそう言いながらするすると私のズボンを脱がした。だめだと言えば彼は止めてくれていたと思う。それでも私は言わなかった。実際嫌だとも思わなかった。
「本当にいい?」
直前で彼はそう確認し、私はうんと返事をして目を閉じた。恐れていた通り、とてつもない痛みが走った。もう何年もしていなかった。思わず痛いと叫び、彼は驚いたように動きを止める。それでも大丈夫と言って耐え、彼が果てるのを待った。奥まで入っていないみたいだったし、あまり気持ちの良いものではなかったと思う。終わったあと、「気持ち良かったの」と聞くと、彼は「まあ」と答えた。その後「ごめん。もう絶対しない」と言った。何もなかったように私たちはしょうもない話をしながら駅まで向かい、別れた。「また連絡する」と彼は言い、「うん。またね」と私は手を振った。
帰り道で思ったことは、何でこんなにも冷静なのだろうということだった。セックスというのは本能的なものの最たる行為ではなかっただろうか。頭と切り離した、無意識に体が動いてしまうような行為のはずだ。振り返ってみた私の体にそんなふうに動いた部位は一つもなかった。そしてこれまでもそうだったことを思い出した。誰かに渡すべき大切な機能が抜け落ちているのかもしれない。彼が持っていた強い欲望が羨ましかった。誰かにそれをぶつけることのできる人だったんだと、私は感心しながら彼を観察していた。セックスさえも他人事のように、また後ろに立って眺めていたということだ。自分はとてつもなくつまらない人間だと思った。生物である資格を奪われても文句は言えない。眠れないときにセックスをする男女を見るのは彼らがとても羨ましいからだった。そんな日が、自分と、自分と同じ気持ちの誰かと二人きりのそんな一日が、一日だけならあるんじゃないか。未来だけは誰にも分からないじゃないか。そうやって言い聞かせ、不安を妄想でかき消している。恥ずかしい人間だ。
戻りたいと思った。何も纏っていなかった頃に戻りたい。思慮の浅い、単純な眼だけで景色を見ていたのはいつまでだったのだろう。
ある場所が浮かんだ。中学一年の夏の日、私は近所にある町内の体育館にいた。この日のことを上手く思い出せるだろうか。思い出したい。私はこれまでよりも強くそう思い、ここに行こうと決めた。
7
海の形は変わるだろうか。きっと変わる。変わりすぎていて変わっていることに気づかない速度で変わっている。だから俺の目には変わっていないように見える。その周りの景色の方が変わっているように見える。サティはなくて、病院があって、海の家はなくて、コンビニがある。でかい流木はなくて、砂まみれの水中眼鏡はあって、カニはいなくて、犬がいる。ワカメを咥えて走っている犬がいる。俺は帰って来た。故郷に帰って来て、サティのあった場所に来た。サティのあった場所の近くの海に来た。
「本当に会えるとは思ってなかったな」
俺はワカメを集める犬の飼い主に言った。
「私もです。あれから、君のことをずいぶん探しました。心配していました。元気そうでよかった」
南医師と出会ったのがいつのことだったのか、もう忘れてしまった。ちゃんと思い出せば正確な時期が分かるだろうけど、俺はそんなことはしない。数字で語って良かったことなんて一つもない。俺はここまで一日一日でやってきた。五月三日も十二月二十四日も俺にとっては今日でしかなくやってきた。春と冬の一日。季節くらいが分かればそれでいい。俺がそんな感じになったのは南医師が関係していた。このもっさりとした奇妙な男のせいであり、おかげであるとも言える。
胃腸炎で死にそうになって救急車で運ばれたことがある。目が覚めて寝かされていたのは家から随分離れた、やけにきれいな病院だった。受け入れ拒否されつづけた結果辿り着いた病院なんだと母さんから知らされた。そしてそこがかつてサティのあった場所だということも。まさか病院になってるとは思わなかったねと母さんは笑っていた。退院する前日、俺は病院内を歩き回った。サティの面影を探したんだ。だけどそこには何の気配もなかった。病院のにおいは隅々まで行き渡っていた。がっかりしたのと疲れたので、俺はぐったりと廊下の椅子に座っていた。そしたら若い医者が話しかけてきた。名札には研修医と書かれていて、その下に『南 珊瑚』という嘘みたいな名前があった。怪しげなその男は俺のとなりに座ると、ぼそぼそと長い話をはじめた。場所がどうとか、回復の地とか、ワカメを集める犬の話とか、とにかく意味不明な話を俺の反応を伺うこともしないで喋りつづけた。俺は黙って聞いてあげた。元気がなかったんだ。何が言いたいのか大体分かった。このままではいずれ病気になり死んでしまう。そうならないためにはここじゃないどこかに行く必要がある。そういう話だった。信じられるはずがなかった。俺のことが気に入らなくてからかっているんだと思った。黙れと言ってその場を去った。最後、その男は俺の背中に向かって大きな声で叫んできた。
「いつも海にいます! 夕方、ワカメと海にいます!」
常に体調が悪いような感じはあった。胃腸炎になるのもその月で二度目だった。それでも病院から知らされる結果は胃腸炎以外の何物でもなく、詳しい原因は不明。ストレス溜めていませんかというお決まりのフレーズでおしまい。体調なんてみんな悪いんだくらいに思っていた。それからも定期的にどこかしらに不調が現れ、あまり眠れなくなった。しんどいできごとがいくつか重なった。真面目にやってきたのにな。頑張ってきたのに何でだよと思って、そんなことを思う自分が嫌になった。欲しいものはそんなにはなかった。失いたくないものもそんなにはなかった。ただ深く眠りたかった。眠って、太陽の光をきれいだと思える心を取り戻したかった。結局仕事をやめ、故郷を離れた。奇妙な医師の暗示にでもかかっていたのかもしれない。俺はやつれていくにつれ、どこか別の、遠い場所に行きたいと思うようになっていた。海なんてない、物や人にあふれた、汚れたようなところに行きたい。どうしてかそんなことを思うようになっていた。
「先生、あれ、先生で良いんだよな? もしかして医者やめた? それか、なれなかったとか」
南医師は白衣を着ていなかった。まあでも海まで白衣で来る医者もいないか。
「いや、なんとかまだ医者でやっています」
南医師は大して嬉しそうでも嫌そうでもなくそう言って、砂浜に尻をつけて座った。俺は立ったまま海を見た。それから、言いたいことをぶちまけた。
「そう。じゃあ先生、できれば俺にもう何も教えないでくれると助かる。その、病が迫っているとか何とかっていうこと。あの話、信じたわけじゃないけどずっと頭に残ってた。実際あの後も体調は悪くなるばかりだった。結局ここを離れて、今は違う場所で暮らしてる。体調は今のところとても良い。仕事もせずにのんびりしてるから当然かもしれないけど。結局俺は他人の言葉で生きていたような気がするんだ。夢中になったスポーツもゲームも漫画もそんなになかった。脳みそが小さいのか、本なんか読むといっぱいいっぱいで気持ち悪くなる。自分にかけられた言葉は打たれたみたいに残る。良い言葉も、悪い言葉も同じ濃さで残って俺の行動を決めてしまうんだ。努力家だと褒められれば努力を怠らないようにするし、態度が悪いと言われればもっと態度を悪くする。空っぽな体に部品が投げ込まれるみたいに俺は言葉を跳ね返せない。人はそんな俺のことを嫌いにはならない。好きにもならない。今は一人でいる。誰も俺に言葉を投げてはこないからめちゃくちゃすっきりして気分が良い。こんな何もない日々でもさ、イメージや言葉が浮かんでくることがある。俺の広く空いたスペースに流れ込んでくるみたいに、景色がそれを連れて来るんだ。俺はそれを自分のものだと思い込むことにした。俺は空っぽだったんじゃない。ちゃんと中身はあったんだ。五月の風をきれいだと思う感受性があった。俺が死ぬのは、この感受性を失ったときが良い。誰かの言葉で死にたくはない。だからもう俺に先生の助けはいらない。でも、ここまできたのは先生のおかげだと思う。あの話を信じてしまう俺だったから、違う場所に行けたんだと思う。もう一度会って、言っておかないといけないと思った。だからここに来た」
医師はずっとワカメを集める犬を見つめていた。尻は砂に埋もれ、窮屈そうな姿勢だった。それでもそんなことはどうでもいいと言うみたいに俺の声が医師に吸い込まれているように見えた。それは医者に最も必要な特性なのかもしれない。案外この男は良い医者なのかもと思ったりした。きっと神様が備え付けるべき部品を間違えたんだ。
「ご飯は食べましたか」
医師はそんな言葉で沈黙を破った。
「いや、まだだけど」
「病院内に食堂があるんです。案外美味しいと評判なのです。もし良かったら行きませんか。病院に入るのはやはり嫌ですか。それか、もう私とは何も話したくはないですか」
「そんなことはないけど」
「じゃあ行きましょう。ワカメの仕事も終わったみたいです」
砂浜の一角にはワカメの山が出来上がっていた。犬は満足げにその傍に座って前足を舐めていた。
病院の食堂は予想していた感じとかなり違っていた。俺が入院していた建物とは別の棟に立てられていて、食堂というよりもレストランみたいだった。天井が高くて、大きなガラス窓の向こうには海が見える。
ランチセットの食券を買ってカウンターのスタッフに渡すと、手際よく盆の上に皿が乗せられていく。ものの数分で俺と南医師の前に差し出された。午後二時。ランチタイムの終わった店内はがらがらだった。窓際のカウンター席に座り、俺は医師と並んでランチセットを食べはじめた。
「この建物、以前は映画館だったらしいんですよ。全然そんな感じしないですよね」
医師はパンを頬張りながら言った。
「映画館? サティじゃなくて?」
「サティ?」
「ああ、ショッピングモールみたいなの。ここにあっただろ?」
「ありましたありました。本館の方はそうです。でもここは映画館だったって聞いています。ショッピングモールの中の映画館だったのかもしれないですね」
「そうか」
俺は周囲を見渡した。食品サンプルが飾られたガラスケース、券売機、盆を持って並ぶ客、料理を作るコックたち。馴染みの客がご飯を盛る従業員に喋りかけている。今日はいい天気だなんて話をしている。
「もしかして、来たことがあるんですか?」
「ある。小さい頃よく家族で遊びに来た。映画は見たことなかったけど、ゲームセンターでメダルゲームするのがいつものパターンで、トイレが近かったんだ。ゲーセンから一番近いトイレが映画館のトイレでさ、そんな理由でここに来てた」
トイレに行きたくなったちいさい俺は、一人ざわつきの中を抜ける。束の間の外の空気を思い切り吸いこみ、別館への扉を開ける。暗くなる視界、柔らかくなる床、鼻をつくポップコーンの香り。ガラスケースにみっちりと入ったポップコーンを横目に、俺はトイレへと向かう。覚えている。覚えているけど、もうその形はどこにもなかった。頼りない俺の脳みそにしかもうそれはないと突きつけられていた。
「思い出しますか? 同じ場所に来ると」
「同じ場所なんて思えないよ。こんなふうに変わっていかれたら、何もかも忘れてしまいそうだ」
「そうですね。でも、体に必要な記憶なら、残るのだと思います。体は私たちにいつでも優しいです。健康を目指しています。君は元気です」
「俺は元気」
「あ、ごめんなさい。余計なことをまた言ってしまったかもしれません」
「いや、うれしいよ。ありがとうな先生」
南医師ははいと小さくつぶやき、サラダをかきこんだ。急に席を立つと、大量に盛られたサラダを二つ持って来て一つを俺の前に置いた。
「私にできることはもうこれくらいしかありません。サラダを食べてください。野菜をたくさん食べてください。できれば明日も明後日も、野菜を食べてください。あ、お米も食べてください」
その言葉を最後に、南医師は仕事に戻って行った。俺は大量のサラダを前に一人取り残された。海を見ながら食べた。
帰り際、トイレに寄った。食堂のスタッフが指をさした方に向かうと、そこには三段だけの階段があった。下ったところの壁にはペイントされた文字。右に行けばTERRACE、左に行けばTOILET。俺は階段を下る。スリーステップ……タン、タン、タン。
🕙
日が沈みきった午後七時、田舎の夜は暗く静まり返っている。道を歩いている者は私以外に誰もいない。近道するため私は児童公園の門をくぐる。ブランコに触れて、鉄棒をトントンと叩き、飛行機の形をした遊具の操縦席のクラクションを鳴らす。プーと小さな音が鳴ったことを確認し、並んだ上り棒をジグザグに歩く。まるで訓練中の犬みたいに。誰かが作った砂場の山を足で崩し、落ちていたボールを蹴る。少し長い下りの階段の前に立つ。下った先には体育館がある。窓から中が見える。両開きの二つの扉が開け放たれている。まるで自分を待っているみたいだ。そこだけが明るい。笛の音、ボールが床に落ちる音、笑い声、叱り声。私は少し迷う。やっぱり行かないでおこうかな。また笑われたり、怒られたりするかもしれない。パーンと、音が響く。誰かがアタックを打った。明日も来いよ。そう言ったあの人だろうか。私は心臓の音が速くなるのを感じながら階段を下る。
中学一年のある時期、私はバレーボールをしに体育館に通っていた。家から歩いて三分程の場所にあった体育館は町内のスポーツクラブの人らがよく利用していた。今思えば私が参加させてもらっていた集団は何の結びつきで結成されたものだったのか、よく分からない。強面のコーチの男性が一人いて、あとは主婦っぽい人が二人くらいと、高校生くらいの女の子、小学生の姉妹とその兄、そして私の同級生の女の子が一人。私はたしかこの同級生の女の子に誘われて体育館に行くようになったんだと思う。家が近いし暇なら来なよみたいな軽い乗りだったはずだ。私は学校では卓球部に入っていて、その子も何かの文化部に入っていた。部活の選択肢はとても限られたものだったけれど、バレー部もちゃんとあった。でもそれは何というか、選ばれし女子たちの集団だった。その子はきっと小さい頃から体育館でバレーをしていたんだろうけど、そこに入るのは気が引けたんだと思う。そこまでバレーが大好きという感じでもなかった。背がとても高くて、真面目な女の子だった。
体育館に集まったばらばらの年齢と性別と身長の人たちは、レシーブの練習をしたり、別れて試合をしたりしていた。冗談を言い合ったりしながらも、ボールを追いかけるまなざしは真剣だった。バレー経験のない私の加入は練習の妨げになっていたはずだが、みんな優しく迎え入れてくれた。強面のコーチも優しい人で、笑いを交えてびしびしと私にボールをパスしてきた。いつの間にか私のあだ名はやっちゃんになっていて、小学生の二人はまるで同い年のように私の手を引っ張って遊んだ。練習が終わっても、しばらく駐車場で遊んだりした。九時頃になると姉妹たちのおばあちゃんの車がやって来た。それがおしまいの合図だった。姉妹の兄が「明日も来いよ」とつぶやき、「うーん、たぶんね」と私は曖昧な返事をした。楽しいと言っても、運動神経の悪い私にとってはなかなか過酷な時間だった。それでもしばらくそこに通っていた。姉妹の兄である彼のことが気になりはじめていたのだと思う。
彼は当時中学三年生で、私よりも二つ年上だった。男子の部活は女子よりも選択肢が狭く、野球かサッカーか卓球の三択だった。男子バレー部はなかった。彼は卓球部で、私の部活の先輩でもあった。初めて体育館に行ったとき、彼の姿を見てとても驚いた。部活内では一度も話したことはなかった。彼はエースで、私は壁打ちばかりの一年の中でも最底辺の部員だった。夜の体育館ではため口で話すまでの仲になっていたけれど、学校で言葉を交わすことはなかった。それでも次第に距離は近くなっていった。
家まで送ってくれるようになって、バレーがない日の夜に公園で会ったりするようになった。遊ばれているのかもしれないと感じることもあった。学校で女の子と親しそうに話をしているところをよく見たし、部内ではあの先輩と付き合っていたらしいという噂も耳にしていた。付き合ってほしいと言われたとき、この人にとって特別な言葉ではないのかもしれないと思った。それでも私はとても嬉しかった。中学一年生だったのだ。もうその頃の自分がどういう感じだったのか思い出せない。どんな話し方をしていて、どんなふうに笑って、怒っていたのか。思い出せないからこそ、この頃の私はとても素直な子供であったんだと信じたい。同じ場所に立ち、いくつかの断片的なできごとが蘇ってきた。
ある一日のことを、思い出していた。
土曜日か日曜日だったのだろう。まだ明るい、二時か三時くらいに私は体育館に向かっている。夜にバレーをしに行くときと同じ道。近道のルートを辿って、私は彼が待っているはずの体育館に向かっている。前日に彼の家に遊びに行くと約束したんだ。携帯はお互い持っていなくて、家でみんなが使うパソコンでメールのやりとりをしていた。
『体育館で待ち合わせして、そこから歩いて行こう。〇時に体育館の前に来て』
そんな文面で終わっていたと思う。私は体育館に着いて、入口にある階段のところに座っていた。時間になっても彼はなかなか現れなかった。時間を間違えたのかもしれないと思い、私は一度家に帰ってメールを読み直した。間違えてはいなかった。『〇時に体育館の前』
もう一度体育館に行って、階段に座った。どれくらいそこで待っていたのか忘れたけれど、私はしばらくして家に帰った。メールを送ってみようかと思ったけれど、彼が家にいなかったら読まれることはないと思ってやめた。彼からメールが来ないかとパソコンの前で待った。それから私はもう一度体育館に向かった。もう日が落ちかけていたと思う。体育館に着くと、閉まっていた入口の扉が開いていた。中を覗くと彼がいた。一人でバレーのネットを張っている。私はぎくりとした。待ち合わせの場所は体育館の中だったのだろうか。私は扉を開けてみることはしていなかった。彼はもしかして、ずっと中で待っていたのかもしれない。私は恐る恐る中に入った。気づいているはずなのに、彼は私の方を見なかった。怒っているとは限らない。彼はよくそういういたずらをする。見たことのないトレーナーを着ている。初めて見る彼の私服だった。長袖の季節だった。
「来てたんだ」私はそう言ったと思う。
「うん。まなさんはいつ来たの」
彼はネット張りをつづけながら言う。そういえば、なぜか彼は私のことをさん付けで呼んでいた。
私はそれに何て答えたんだっけな。本当のことは何も言えなかったことだけは覚えている。入口で待っていたとか、一旦帰っていたとか、そういうことは言わなかった。彼も何も言わなかった。丁寧にネットを張って、かごに入ったボールを出してきて一人でサーブの練習やアタックを打ったりした。私はそれを座って見ていた。本当にバレーが好きなんだなと思いながら見ていた。
結局その後、私は彼の家に行った。二十分くらい歩いたような気がする。あまり会話もなく、車の多い道から逸れると手を繋いだ。家は小さな民家で、庭には犬がいた。ちょっと待っててと言われて玄関でしばらく待っていた。その間に姉妹のお姉ちゃんの方に見つかってしまって、からかわれた。ごゆっくりと含み笑いをしてどこかに消えていき、入れ違いのように彼が戻ってきた。「行こ」と言って、階段を上った。廊下を突き当たった奥の部屋が彼の部屋だった。何もない部屋だった。勉強机らしきものもなかったと思う。ベッドと、小さなローテーブルくらい。漫画も雑貨もない。彼が好きなのはバレーだけだったのかもしれない。ベッドの上で横になって、何かの話をした。手を握り合って、長いことキスをした。何分キスをしていられるか計ってみようと彼がふざけて言い出して、どこからか見つけてきたストップウォッチで計った。キス以上のことをする気はないと何度か話をしていた。そういうのは高校生になってからねと、それもふざけた感じで言っていた。もしかしたらそういう経験があったのかもしれない。彼は本当にそれ以上は求めてこなかった。私が幼すぎてそういう気にならなかったのもあるだろう。身長も低く、当時はまだ小学生に勘違いされるくらいだった。ベッドの中でじゃれ合っていると、彼の手が私の背中で止まった。ん? と言って、服の中に手を入れると「ブラジャーがない」とつぶやく。私はまだブラジャーをしていなかった。タンクトップの、胸のところが二重になっている下着を付けているだけだった。ブラジャーなど必要のない、わずかな膨らみしか持っていなかった。私はまた何も言えなくなり、寝ると言って顔を伏せた。彼は不思議な顔をするだけで、それ以上は何も言わなかった。
帰りは雨が降っていた。一つの傘に二人で入って、来た道を歩いた。私の頭上には有り余るほどの傘の屋根があって、彼は体の半分を濡らしていた。彼はそういう人だった。誰かが寒がっていたら自分の上着を貸してあげた。姉妹をとても大切にしていた。一番下の妹は恋人のように彼のことを慕っていた。迎えに来るのはいつも目つきの悪いおばあちゃんで、母親らしき人に会ったことはない。彼も家族の話はあまりしなかった。そこにあった私の知らない彼の環境が、彼をそんなふうにしていたのかもしれない。当時の私にはやはり主観以外の何もなく、彼の中身を深く掘り下げることも、そんなことを考えもしなかった。奇跡的にできた優しい恋人、知らないことを教えてくれたりしてくれる年上の彼氏。それだけが私の見ていた彼のすべてだった。元気で単純な中学生だった私は、しばらくしてそんな彼に別れたいと告げることになる。そのはっきりとした理由は覚えていないし、そんなものが当時の私にあったのかも怪しい。クラスの男の子と良い感じになったとか、彼の悪口を誰かが言っているのを聞いて付き合っているのが恥ずかしくなったとか、クリスマスに貰ったマフラーがコンビニに売ってたとか、そんな感じだったと思う。彼はすんなりと分かったと言った。バレーは気にせず来なよと言って、私はその後バレーにも何度か行った。彼の態度は何も変わらなかった。公園で話さなくなって、電話もメールもしなくなったけれど、バレーの日は家まで送ってくれた。そのうち私はバレーに行かなくなった。そのまま彼は中学を卒業した。バレーの強い高校に行ったと友達伝いに知った。それから会うことはなかった。
彼のことはずっと残っていた。あの体育館で、結局彼は一人待っていたのだろうか。私が何時間も後にやって来て、どんな気持ちだったのだろう。それがずっと気になっていた。この記憶もまた、今もどこかでつづいているような記憶だ。止まってはいなくて、風が吹いていて、ボールが転がっていて、ネットが揺れている。あの日の雰囲気を、誰かを好きになる度に求めていた。行きたい場所、住んでみたい場所、いつも答えに詰まった。どこにでもあるような気がするし、どこにもないような気もする。でも、今は分かる。きっとそこに辿り着いたら、私は迷うことなくここだと言えるだろう。
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都市に戻ってきた。数日離れていただけで、人ごみの中にいる自分がとてつもなく無防備な人間に思えた。ここで俺はまだ何の外側も得ていない。袖が触れ合うほど近くを行き来するこの場所の人々と俺の間には何の思い出もない。ここで俺が意識を失っても、俺の名を呼んで叩き起こしてくれる人間はいない。誰も俺の名前を知らないんだから。それってやっぱりすごい無防備だ。すぐに死んでしまいそうだ。でもなんか、俺はそんな場所に戻ってきたことに安心してる。涙や、疲れとか後悔とかの気配がないからかもしれない。俺は俺の関係のないところでみんなが元気にやってくれていたらいいなと思う。時々そのすみっこで、たとえばそう、冬の終わりを告げる風が吹く丘のぬかるみくらいでいい。その辺がきっと俺の一番落ち着ける場所だ。そんなの勝手だとか、贅沢だとか、さみしいじゃないとか、的を得た正しい言葉はもうすぐにでも浮かんできて、俺は俺の言葉にため息をついたりする。それでも俺はそう思った今の自分を大切にしてみようと思う。最初に浮かんだ、言葉よりも前に感じた思慮の浅いどうしようもない俺を大切にしてあげようと思う。
体が作られてまだ間もない頃に俺の中身のかたちは決まった。家族や、土地が、この体を作った。何をきれいだと思うかとか、どんな人を好きだと感じるだとか、そういう感受性みたいなものも同じように作られたはずだ。俺はそういう、底にずっと存在する、昔に作られた基準に守られてきたような気がする。死の誘惑にそういうもので対抗し、今こうしてここにいるんだと思う。この場所は俺にとって中間のような場所な気がする。暮らしてみて、そんな気になった。俺はきっとまた何かの不調に悩まされるだろう。それはきっと季節のめぐりのように回避することはできない。そうなったときが、この場所を離れるときなのかもしれない。浮かんでくるであろう場所のイメージを掴み、進むための丈夫な体を保っておかないといけない。イメージの遊びと習慣を、怠ってはいけないんだ。
*
都市の歩道橋はでかい。歩道橋で追いかけっこできるくらいでかい。一人の女の子が手摺を掴んで下を見ている。大きな交差点を行き交う車を見つめている。都市の夜にそんなことをしているから、死んでしまう女の子を見るような目で見られている。彼女は別に、死んでしまいたくて下を見ているわけじゃない。ただそこから下を見てみたいだけなんだ。
道を歩いている男がいる。俺みたいな奴だ。秋のはじまりのにおいを嗅ぎつけて、機嫌よく部屋を出て来たハッピーな男。高いところが好きで、鉄塔があれば必ず見上げ、東京タワーへの感動は薄れることはない。歩道橋があれば必要がなくても上ることにしているらしい。道と道をつなぐ橋。どんな人が考え出したのかななんてことを思いながら、男は大袈裟に音を鳴らしながら階段を上っていく。女の子はまだ橋の下を見つめている。
中学の終わりくらいだったと思う。駅のベンチに座っている女の子を見かけた。田舎の、一時間に一本しか走っていない駅員もいないような電車の駅だった。俺はそこにある自販機でしか買えない炭酸のジュースを買いにその駅に行った。夕方の、七時か八時くらいだったと思う。待合室みたいなところには古びた電球が吊るされていて、そこだけが夜に照らされていた。その子はそこにあるベンチの真ん中に一人座っていて、俺はすぐに誰だか分かった。学校に来なくなったクラスの女の子だった。特に何の問題もないように見えていたその子は、夏休みが終わっても学校に来なかった。その子の膝には上着らしきものが乗っていて、身に付けているのはタンクトップ一枚だけだった。夏休みが終わっていることを知らないのかもしれない。俺は彼女に気づいていないふりをして、待合室と背中合わせに置かれた自販機の前に立つ。目当ての炭酸ジュースのボタンを押すと、大きな音を鳴らして落ちて来た。しまったと思って彼女の方を見ると、やっぱりこっちを見ていた。俺は観念して声をかけた。
「何してるの。どっか行くのか」
「うん」
「もう電車ないんじゃないの」
俺はジュースを飲みながら時刻表を眺めて言った。適当に言ったけど、本当にもう電車はなかった。
「そうなんだ」
彼女は落胆した様子もなくそう言って、上着を羽織った。両手を膝の下に入れて足をぶらぶらさせる。
「明日にしたら?」
俺は適当な感じで言った。不登校の女の子というのはとてもデリケートだと思っていたし、とにかく当たり障りのないことだけを言わないとと思った。
「明日かあ」
彼女は意外にもたくましそうな声で言った。
「学校来ないならいけるだろ」
俺はあっけなく慎重さを失い、そんな言葉を漏らした。
「まあいけるんだけどさ、タイミングがね。今日だと思ったのにな。違ったのかあ」
「タイミングですか」
「何かしたりどこかに行ったりするのに、タイミングってすごい大切だと思うんだよ。私、なんか最近元気がないみたいでさ、なんというか、ちょっと怪しいんだよね。それでもまれにすごい元気な日があって、朝起きて思うんだ。今日はとてつもなく素晴らしい日な気がするって。外に出たくなって、走りたくなって、遠くに行きたくなる。気持ちだけじゃなくて、そんな日は本当にどこまでも行けるの。隣町まで歩いて行ったこともあるんだよ。今日も、やっと来たそんな一日で、たくさん歩いて、ここまで来た。今日ならもっと遠くに行ける気がして、駅を見つけたから電車に乗ろうと思ったんだ。でも、電車とはタイミングが合わなかった。今日はここまでってことかな」
彼女は本当に元気そうに喋った。
「また、あるでしょ。そんな日が」
「たぶん、そんなにはないんだよ。そんなにはなくて、逃しても、逃したことに気づかない。だからずっと耳を澄ましていないといけない。体の声と、外の声に耳を澄まして、重なったような一日に走り出す。勉強も部活もしてない私は、全然疲れてない私は、どこまででも行けると思うんだ。その一日さえ逃さなければ、どこまででも」
「どこまで行く気だよ」
「そうだな、じゃあ、塔を目指すよ」
「塔?」
「うん。それはね、都会にできた新しい塔なんだ。元気な私はみんなが眠っている夜のあいだも都会の街を歩きつづける。道には迷わない。もう少しで完成する新しい塔はとてもとても高いからどこからでも見えて、都会的な光をチカチカさせて、私の目印になってくれる。寄り道しながら塔を目指して、夜が明ける頃、私は塔の下に辿り着く。そして誰よりもはやく塔の頂上に登る。ガラス張りの展望室には誰もいない。静かに開いた非常口の扉からヘルメットを被った点検員のおじさんがやってくる。おめでとうって言って、旗をくれるの。塔の完成日が刻まれた旗。その日だけは、私はみんなよりもはやくて、高くて、遠いの」
彼女の特別な一日の空想に、俺はどんなリアクションをとったんだっけな。その日以降も彼女が学校に来ることはなかった。駅にも何度か行ったけど姿はなかった。時々、俺は教室で彼女のことを思い浮かべた。夕方に目覚めた彼女はパジャマ姿で窓辺に立って、外を見る。花の咲く樹、道路の影、巣に帰る鳥の群。そんなものたちを撫でるように、彼女は窓ガラスに手をあてる。そうやって一日を待っている。
*
ふくらはぎに疲れを感じはじめた頃、男はやっと階段を上り切り、橋のスタート地点に立った。夜空が近い。ビルの上の方の階の中が見える。明かりの付いた事務所の中でパソコンに向かっている会社員の人々が見える。男は何かを探しきょろきょろ辺りを見回す。高い所に立てばどこからでも東京タワーが見えると思っているんだ。当然そんなものは見えない。まあいいかと男は機嫌よく歩き出す。四方向に繋がった正方形の歩道橋。一方に歩き出し、橋の真ん中で立ち止まる。手摺に手を掛けて下を覗く。危なそうな交差点をすいすいと行き交う車をすごいなあと見つめている。顔を上げ、向こうに広がる景色を見る。向かいにも橋がある。ここと繋がった橋だ。歩道橋はそれくらいでかい。中央には女の子がいて、その向こうには彼女を乗せるように長い道が伸びている。連なる車は夜に紛れ、ライトだけを光らせている。女の子は自分と同じ姿勢で下を見つめている。男は真似をするようにまた下を見て、何かを思い顔を上げる。女の子が、こっちを見ている。
女の子は顔に笑みを浮かべ、思いきりこっちに手を振ってくる。男はすぐにそれに応答し、手を振り返す。
「今日!?」
男は女に叫ぶ。男の声は騒がしい街に大半が吸収され、それでもかろうじて女に届いた。
「今日!」
女は男に叫び、親指を立てたグッドポーズで成功の合図を送る。
向かい合う橋の上でしばらく二人は身を乗り出して手を振り合った。秋のはじめの、風が心地よく吹いているような、何でもない一日のことだ。
🕒
―小さな頃から街が好きでした。
田舎に生まれて、その県唯一の都会的な場所のことを「まち」と呼んでいました。家族だけの呼び名だったのか、限られた地域だけの呼び名だったのかは分かりません。妙なイントネーションで「まち」と呼びます。忠犬ハチ公を「ハチ」と呼び捨てするときのイントネーションと言えば伝わるでしょうか。「まち行こう」「まちにしか売ってないやろ」そんな感じで使っていました。そのまちへ行くことが好きでした。しかし車社会の田舎では、まちへ行くことは少し覚悟の必要なことでした。駐車場を探す必要があり、駐車料金もかかる。近所のスーパーやドラッグストアにあるだだっ広い無料駐車場に慣れている者からすれば、それはとてつもなく煩わしい作業です。無事に車を停め、商店街に辿り着いたとしても普段目にしないブランド店や専門店、路地を覗けば怪しげな飲食店やゲームセンター。両親からすれば、楽しさよりも費やす労力の方が勝るようなイベントだったと思います。
デパートのエレベーターで降りる階はいつも決まっていました。買う予定のなかったものを買うような余裕はなく、本屋で目当ての専門書を手に入れ、地下で少し贅沢な総菜を買って寄り道せずに帰る。母は駐車料金が割引になる額を計算して買い物をしていて、時より私の服も買ってくれました。デパートにしか売っていないブランドものの洋服でした。とても嬉しかった。
月に一度は足を運んでいたまちでしたが、次第にその頻度は減っていきました。家の近くに大きなショッピングモールができたのが大きな要因だったと思います。そこに行けば買えないものなどなかったし、駐車料金もいらなかった。もうまちへ行く理由など私たち家族にはなかったのです。
再びまちへ行くようになったのは高校生の頃でした。両親の付き添いなしで、自転車と電車を使ってまちへ行きました。自分の足でまちへ行ったのはそれが初めてでした。電車で学校に通っている女の子にプリクラを撮りに行こうと誘われて行くことになりました。私は自転車通学で、二十分くらいかけて通っていました。電車通学をしている、なんだか爽やかに登校してくる子達のことを少し羨ましく感じていました。私は駅に自転車を停め、その子と電車に乗りました。とても新鮮で、窓の外ばかり見ていました。
駅からはじまるまちの姿は、知っているものとずいぶん違って見えました。知らなかった道を通ってゲームセンターに行きました。制服姿でまちを歩いていることがとても危険な行為のような気がして落ち着きませんでした。友達は慣れた様子でここだと言ってプリクラ機の一番多いゲームセンターを選び、もう誰だか分からないような顔で写る自分たちに笑いました。激安の古着屋で服を買って、雑貨屋で文房具を買って、流行っていたからあげの店でからあげを買って、歩きながら食べました。
それをきっかけに私は時よりまちへ行くようになりました。一人で行く勇気はまだなかった。母に、まちにしかない古着屋に行きたいんだと言って車を出してもらうこともありました。ショッピングモールじゃだめなのかと文句を言いながらも、たまにはいいかと母も付いて来てくれました。その頃はもう兄弟たちは家を出ていて、父は単身赴任で長いこと家を離れていました。家は母と私の二人で、まちへ行ったときには少し贅沢して高いケーキを買って帰ったりしました。明日の朝のパンがないと母が言い、まちへ行った帰りにショッピングモールに寄ったりして、最初からここで良かったんじゃないかと冗談を言ったこともありました。
今日、何年かぶりにまちに行きました。高校生の頃のように、自転車と電車を使って行きました。まちは変わっているところもあったし、変わっていないところもありました。当時あった店はほとんどがもう無くなってしまっていたけれど、まだ新しそうな雑貨店やお菓子屋、小さな本屋などがぽつぽつとありました。歩いていて、私はとても好きだなと思いました。やっぱりここが好きだとしみじみ思ったのです。それはつまり、小さな頃に私を惹きつけたものがまだそこにあったということです。私はずっと、何かを買いたくてまちに行っていました。デパートのブランド服が欲しかった。古着や文房具、食べ物が食べたかった。そこにしかないものを買いたくてまちに行っていたつもりだったけれど、それだけじゃなかったのかもしれません。
私はまちの、何に惹かれていたのでしょうか。
帰りの電車の中で、小さな女の子がドアの前に立って外をじっと見つめていました。時より手を窓ガラスにくっつけてそうしていました。その後ろ姿を見て、私はここに、南医師へ、誰かへ、伝えてみたくなったのです。小さな頃から街が好きでしたと、伝えたくなったのです。
回復の地は、どこにあるのか。それはまだ分からないけれど、私は少し、欲望のようなものを抱きつつあるように思います。その欲望を、過去に私は満たしたことがあるのだと思います。記憶にちゃんと残っています。それをもう一度感じてみたい。記憶を思い起こす日々の中で浮かびあがってきたこの感情は、私が回復の地に辿り着くために必要なものなのだと思います。何も纏っていなかった、単純な瞳に宿っていた光は、今も同じものを見つめているはずだと思うから。
ワカメは元気ですか? お返事待っています。
ではまた。
スリータイムスリップステップ