回廊の中で 【巻2 綱の檻の姫】
魔法の迷路「回廊」の謎解きに挑む女性、灯火志義(あかり・しぎ)は、先日遂に「中心部」に辿り着く。
回廊にいる〈誰か〉の手がかりは、『ジルダゼラミ』という不明な単語と、〈こだま〉と呼んでいる謎の声のみ。
ある日、志義は偶然の出来事をきっかけに、回廊でとうとう〈誰か〉と出逢う。
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1,見舞い
★★★
今日は叩き付けるような大雨だった。
志義と花鈴は傘を差して、徒歩で、町の総合病院に向かっていた。
「ごめん、こんな大荒れの日に、付き合わせちゃって。今日しか都合がつかなくて……」
傘の下から花鈴が言う。
花鈴の遠い親戚が入院している、という。
今日は面会が許される数少ない日であるのだとか。
今日はその人の見舞いに行くのだ。
病院に着き、ある病室の前に来ると、隣の花鈴の様子は尋常でなく緊張し、硬直していた。
おそるおそる、といった手つきで花鈴が戸を開け、志義と共に中に入る。
病床に、長身の女性が、死んだように横たわっている。
灰色のパジャマ姿で、両腕は点滴の管と繋がっている。
腰より長い黒髪が横に流れる。
「親戚の、雲母瑠希(きらら・るき)よ」
と花鈴が言った。
雲母瑠希という女性は目を覚ます気配が無い。
見舞いに訪れた二人に全く気付いていないようだ。
「瑠希さんは、どういう病なの」
志義が聞いたが、花鈴は直ぐには答えず、じっと瑠希の横顔を見ていたが、やがて静かに語り出した。
「瑠希はね、……5年前、彼女が住んでるマンションから飛び降りだの。それで、……死なずには済んだんだけど、見ての通り、ずっと目覚めない。植物状態になってしまった。5年間、ずっとこのままなの」
志義は何と言っていいのか分からなかった。
「瑠希は、あの頃、学校でいじめられてたんだって。大勢、全員が敵になって、彼女は一人ぼっちで、酷かったんだって。耐えられなかったんでしょうね。だって……自ら、身を投げて死のうとしたんだもの」
語尾は涙声になって、花鈴は顔を両手で覆った。
志義は花鈴を椅子に導き、自分も隣に座った。
花鈴は泣き続ける。
それでも、話を止めない。
話さなくては、という気があるのだろう。
「私、あの頃、彼女の事、なんにも知らなくて。入院しているってことも、実は最近になって、親から聞かされたの。どうして、こんな事に……。私、胸が苦しくなってきて、それで……」
志義は、瑠希をもう一度よく見た。
顔立ちは美しい。
だが、その顔にも、腕にも、くっきりと痣が残っている。
身を投げた直後の彼女は悲惨な状態だった事だろう。
「ごめんね、瑠希。私ったら、あなたの事に何一つ気付いてあげられなかった。本当にごめんなさい」
意識の無い瑠希に花鈴はただただ謝る。
少し時間を置いてから、志義は、落ち着いてきた花鈴に聞いた。
「花鈴はなぜ、瑠希さんの状況を知る事ができなかったの」
「元々、疎遠だったの。昔は住んでいた場所も随分遠かったし、遠縁という事もあって……。今の家も隣町だし、学校も違うし、全然会う機会が無くて。最後に会ったのは、6年も前なの」
「瑠希さんはどんな人」
「よく覚えてないわ。6年前に会った印象では、清ましたお姉さん、って感じ。彼女は私より2歳年上だから、当時はそんな感じがしたのかも。あと、優しかったかな。穏やかな雰囲気もあった気がする」
(具体的なようで、曖昧でもあるな)
一定しない瑠希像が、花鈴における瑠希の位置付けをはっきりと示していた。
「ほかに、瑠希さんについて知っている事はある」
花鈴は首を横に振ってから、
「……瑠希が通っていた学校の事なら、少し聞いたわ」
と言った。
「何でもいいから教えて。差し支えの無い範囲で」
志義はなぜか、自分は瑠希の事を知らなければならないという義務感に駆られた。
花鈴はようやく顔を上げ、ハンカチで涙を拭い、話す。
「瑠希が通った学校はどれも、生徒同士のいざこざが絶えなくて、その上、教師を始め大人達の対応が相当杜撰だったらしいの。そんなだから、いじめもどんどんこじれていって。瑠希が最後に行った学校は、瑠希がこうなってしまった事を深く反省して、教師達がやっと腰を上げたそうよ。学校中を徹底的に調査して、全ての人間関係の問題に一つ一つ向き合っていったら、いじめとかは殆ど無くなったって。問題が起きても早い内に食い止められるようになれた、と今は自慢の種らしいわ。
瑠希をいじめた人達には、いわゆる更生教育みたいな事をやったり、ほかの傍観者だった生徒達にも〈心の教育〉をしたり。でも、そっちは効果が分からないんだって」
思いの外静かな口調で花鈴が言った内容は、恐らく自分で調べたのではない。
人から伝え聞いたのだろう。
(調査した、か)
志義の記憶から滲んできた物を、志義自身が別の思考の風で掻き消した。
――助けて。助けてよ。
志義は目を瞠った。
回廊で聞いたのと同じ響きの女性の声。
遠くから反響するように、志義の頭の中に入ってきた、悲痛な空気を持つ言葉であった。
「どうしたの」
いきなり緊張し出した志義に驚いて、花鈴が尋ねた。
どうやら花鈴には、あの声が分からなかったみたいだ。
「今、声が聞こえた。……〈こだま〉かもしれない」
「ここで? どんなふうだったの」
「前に言った事がある女性の声で『助けて。助けてよ』って。物凄く悲しそうな感じで」
花鈴は頬に手を当てた。考え事をする時の彼女の癖だ。
「誰の声かしら」
手掛かりが無いので、それ以上の事は二人には判らなかった。
「あのね」
花鈴。
「瑠希がね、遺書みたいな物を書いて、机に置いていたんだって。それの中の言葉を1つ、思い出したの。『私は花ほど儚く散ったりしない』。以前に志義が言った、その〈こだま〉の言葉と似ていない?」
「確かに。〈こだま〉は、『私はそう簡単には散らないんだから』だった。似ている」
「もしかして、なんだけど……」
花鈴は、有り得ない、という顔をしながらも言葉を続けた。
「瑠希と、回廊の〈こだま〉を発した人――女性の声の持ち主は、何かの関わりがあるんじゃないかな、って。
有り得ないよね。でも、ちょっとだけ、そんな感じの事を思いついてしまったの」
「偶然にしては、でき過ぎた一致だけれど」
志義は花鈴と全く同じ事を思いついていたので、否定しなかった。
というより、否定ができなかった。
とんでもない推測、と康太や真貴也には言われそうだが、ここまでの状況が、その思いつきをますます信じられそうにしている気がしてならない。
花鈴が、また、しくしくと泣き出した。
「瑠希に、私は何もしなかった……」
志義は深く考えるのを止めて、花鈴に声を掛けた。
「自分を責めないで。花鈴にはどうしようもできなかった事なんだから。あなたのせいではない」
看護師が病室に入ってきて、面会の終了時間だと告げた。
志義は花鈴を支えながら、共に病室を出た。
志義の目には、この面会時間中、微動だにしなかった瑠希の姿が焼き付いている。
病院の休憩室で花鈴が落ち着くのを待ち、それから二人は病院を後にした。
帰り道、雨はまだ降り続く。
真っ赤な目の花鈴が、志義と別れる十字路の所でやっと笑顔を作って、言った。
「今日は付き添ってくれてありがとう。実はね、私、瑠希と顔を合わせる勇気が無かったの。でも、志義のおかげで、ようやくお見舞いに行けた。瑠希に謝れた。……たぶん、瑠希は許してくれない。それでも、瑠希と正面から向き合えたはず」
「良かったね」
志義も優しい笑顔になる。
志義と花鈴はここで別れた。
歩きながらの、いつもと同じ考え事をする。
(もし、瑠希さんが、……〈誰か〉本人だとしたら)
突拍子もない考えがよく出てくるものだと、自分を笑った。
でも――でも。
(瑠希さんは意識が無い。その意識だけが、体を離れて、回廊に居る、としたら)
こう考えるのは、彼女の経験故である。
経験については、志義はやはり思い出すのを拒んだ。
「ともかく、回廊に行って、〈誰か〉に会えばはっきりする。回廊に行けるのは、明日」
回廊の中で 【巻2 綱の檻の姫】