回廊の中で 【巻2 綱の檻の姫】
魔法の迷路「回廊」の謎解きに挑む女性、灯火志義(あかり・しぎ)は、先日遂に「中心部」に辿り着く。
回廊にいる〈誰か〉の手がかりは、『ジルダゼラミ』という不明な単語と、〈こだま〉と呼んでいる謎の声のみ。
ある日、志義は偶然の出来事をきっかけに、回廊でとうとう〈誰か〉と出逢う。
※「︙」マークから目次を通して各章にスキップできます。
※「★★★」マークが節(話)の切れ目の目印です。章の切れ目≠節の切れ目なので注意。
1,見舞い
★★★
今日は叩き付けるような大雨だった。
志義と花鈴は傘を差して、徒歩で、町の総合病院に向かっていた。
「ごめん、こんな大荒れの日に、付き合わせちゃって。今日しか都合がつかなくて……」
傘の下から花鈴が言う。
花鈴の遠い親戚が入院している、という。
今日は面会が許される数少ない日であるのだとか。
今日はその人の見舞いに行くのだ。
病院に着き、ある病室の前に来ると、隣の花鈴の様子は尋常でなく緊張し、硬直していた。
おそるおそる、といった手つきで花鈴が戸を開け、志義と共に中に入る。
病床に、長身の女性が、死んだように横たわっている。
灰色のパジャマ姿で、両腕は点滴の管と繋がっている。
腰より長い黒髪が横に流れる。
「親戚の、雲母瑠希(きらら・るき)よ」
と花鈴が言った。
雲母瑠希という女性は目を覚ます気配が無い。
見舞いに訪れた二人に全く気付いていないようだ。
「瑠希さんは、どういう病なの」
志義が聞いたが、花鈴は直ぐには答えず、じっと瑠希の横顔を見ていたが、やがて静かに語り出した。
「瑠希はね、……5年前、彼女が住んでるマンションから飛び降りだの。それで、……死なずには済んだんだけど、見ての通り、ずっと目覚めない。植物状態になってしまった。5年間、ずっとこのままなの」
志義は何と言っていいのか分からなかった。
「瑠希は、あの頃、学校でいじめられてたんだって。大勢、全員が敵になって、彼女は一人ぼっちで、酷かったんだって。耐えられなかったんでしょうね。だって……自ら、身を投げて死のうとしたんだもの」
語尾は涙声になって、花鈴は顔を両手で覆った。
志義は花鈴を椅子に導き、自分も隣に座った。
花鈴は泣き続ける。
それでも、話を止めない。
話さなくては、という気があるのだろう。
「私、あの頃、彼女の事、なんにも知らなくて。入院しているってことも、実は最近になって、親から聞かされたの。どうして、こんな事に……。私、胸が苦しくなってきて、それで……」
志義は、瑠希をもう一度よく見た。
顔立ちは美しい。
だが、その顔にも、腕にも、くっきりと痣が残っている。
身を投げた直後の彼女は悲惨な状態だった事だろう。
「ごめんね、瑠希。私ったら、あなたの事に何一つ気付いてあげられなかった。本当にごめんなさい」
意識の無い瑠希に花鈴はただただ謝る。
少し時間を置いてから、志義は、落ち着いてきた花鈴に聞いた。
「花鈴はなぜ、瑠希さんの状況を知る事ができなかったの」
「元々、疎遠だったの。昔は住んでいた場所も随分遠かったし、遠縁という事もあって……。今の家も隣町だし、学校も違うし、全然会う機会が無くて。最後に会ったのは、6年も前なの」
「瑠希さんはどんな人」
「よく覚えてないわ。6年前に会った印象では、清ましたお姉さん、って感じ。彼女は私より2歳年上だから、当時はそんな感じがしたのかも。あと、優しかったかな。穏やかな雰囲気もあった気がする」
(具体的なようで、曖昧でもあるな)
一定しない瑠希像が、花鈴における瑠希の位置付けをはっきりと示していた。
「ほかに、瑠希さんについて知っている事はある」
花鈴は首を横に振ってから、
「……瑠希が通っていた学校の事なら、少し聞いたわ」
と言った。
「何でもいいから教えて。差し支えの無い範囲で」
志義はなぜか、自分は瑠希の事を知らなければならないという義務感に駆られた。
花鈴はようやく顔を上げ、ハンカチで涙を拭い、話す。
「瑠希が通った学校はどれも、生徒同士のいざこざが絶えなくて、その上、教師を始め大人達の対応が相当杜撰だったらしいの。そんなだから、いじめもどんどんこじれていって。瑠希が最後に行った学校は、瑠希がこうなってしまった事を深く反省して、教師達がやっと腰を上げたそうよ。学校中を徹底的に調査して、全ての人間関係の問題に一つ一つ向き合っていったら、いじめとかは殆ど無くなったって。問題が起きても早い内に食い止められるようになれた、と今は自慢の種らしいわ。
瑠希をいじめた人達には、いわゆる更生教育みたいな事をやったり、ほかの傍観者だった生徒達にも〈心の教育〉をしたり。でも、そっちは効果が分からないんだって」
思いの外静かな口調で花鈴が言った内容は、恐らく自分で調べたのではない。
人から伝え聞いたのだろう。
(調査した、か)
志義の記憶から滲んできた物を、志義自身が別の思考の風で掻き消した。
――助けて。助けてよ。
志義は目を瞠った。
回廊で聞いたのと同じ響きの女性の声。
遠くから反響するように、志義の頭の中に入ってきた、悲痛な空気を持つ言葉であった。
「どうしたの」
いきなり緊張し出した志義に驚いて、花鈴が尋ねた。
どうやら花鈴には、あの声が分からなかったみたいだ。
「今、声が聞こえた。……〈こだま〉かもしれない」
「ここで? どんなふうだったの」
「前に言った事がある女性の声で『助けて。助けてよ』って。物凄く悲しそうな感じで」
花鈴は頬に手を当てた。考え事をする時の彼女の癖だ。
「誰の声かしら」
手掛かりが無いので、それ以上の事は二人には判らなかった。
「あのね」
花鈴。
「瑠希がね、遺書みたいな物を書いて、机に置いていたんだって。それの中の言葉を1つ、思い出したの。『私は花ほど儚く散ったりしない』。以前に志義が言った、その〈こだま〉の言葉と似ていない?」
「確かに。〈こだま〉は、『私はそう簡単には散らないんだから』だった。似ている」
「もしかして、なんだけど……」
花鈴は、有り得ない、という顔をしながらも言葉を続けた。
「瑠希と、回廊の〈こだま〉を発した人――女性の声の持ち主は、何かの関わりがあるんじゃないかな、って。
有り得ないよね。でも、ちょっとだけ、そんな感じの事を思いついてしまったの」
「偶然にしては、でき過ぎた一致だけれど」
志義は花鈴と全く同じ事を思いついていたので、否定しなかった。
というより、否定ができなかった。
とんでもない推測、と康太や真貴也には言われそうだが、ここまでの状況が、その思いつきをますます信じられそうにしている気がしてならない。
花鈴が、また、しくしくと泣き出した。
「瑠希に、私は何もしなかった……」
志義は深く考えるのを止めて、花鈴に声を掛けた。
「自分を責めないで。花鈴にはどうしようもできなかった事なんだから。あなたのせいではない」
看護師が病室に入ってきて、面会の終了時間だと告げた。
志義は花鈴を支えながら、共に病室を出た。
志義の目には、この面会時間中、微動だにしなかった瑠希の姿が焼き付いている。
病院の休憩室で花鈴が落ち着くのを待ち、それから二人は病院を後にした。
帰り道、雨はまだ降り続く。
真っ赤な目の花鈴が、志義と別れる十字路の所でやっと笑顔を作って、言った。
「今日は付き添ってくれてありがとう。実はね、私、瑠希と顔を合わせる勇気が無かったの。でも、志義のおかげで、ようやくお見舞いに行けた。瑠希に謝れた。……たぶん、瑠希は許してくれない。それでも、瑠希と正面から向き合えたはず」
「良かったね」
志義も優しい笑顔になる。
志義と花鈴はここで別れた。
歩きながらの、いつもと同じ考え事をする。
(もし、瑠希さんが、……〈誰か〉本人だとしたら)
突拍子もない考えがよく出てくるものだと、自分を笑った。
でも――でも。
(瑠希さんは意識が無い。その意識だけが、体を離れて、回廊に居る、としたら)
こう考えるのは、彼女の経験故である。
経験については、志義はやはり思い出すのを拒んだ。
「ともかく、回廊に行って、〈誰か〉に会えばはっきりする。回廊に行けるのは、明日」
2-1,遭遇
★★★
夜中まで続いた雨は日の出と共に上がり、雲が多めの晴れの天気で一日が始まる。
回廊の前に来た志義は、入口で一旦止まり、深呼吸を2回する。
目を閉じて心を静め、ぱっと目を開いた。
「よし」
回廊の中に足を踏み入れる。
背後の竹林から、ひっそりと康太が来ているのには気付いていた。
志義は彼の探検心を尊重して、知らぬふりをした。
絶対に中心部に行きたいので、確信したあの右ルートを迷わず選んだ。
階段。
分かれ道。
トンネル。
壁。
壁は案外脆い材質なのだろうか、志義が登る時に付く蹴り跡がすり減って窪みになり、より足を掛けやすくなっている。
横穴へ入って暫く進む間に、康太も壁を攻略したのが分かった。
通路へ出る。
螺旋階段。
下り坂。
通路。
中心部への最後の左カーブの道。
志義は、後方の康太のほかに、前方からの人の気配を感じ取った。
(居る!)
まだ、誰が居るのかは分からないが、1人ではない事にも気付く。
アーチ天井の入口から中の様子が見えた所で、志義は止まる。
康太も慌てて、志義の真後ろで立ち止まった。
中心部の内部に、4人、人が居る。
正面に、3人の少年達。
こちらに背を向ける形で、佇んでいる。
流行りの格好の型からして、10代後半だろう。
彼等は上を仰いでいる。
彼等の視線の先に、空中に留まる女性の姿がある。
女性の周りを囲むのは、綱の檻だ。
三角錐の辺の形の檻が、ゆっくりと回転している。
顔が、目に入った。
(瑠希さん!)
顔つき、高い背丈、腰より長い真っ直ぐな黒髪。
昨日、病室で目にした女性の特徴を、寸分違わず具えている。
瑠希と瓜二つの女性は、灰色無地のゆったりとした服を身に纏う。
切れ長の目は開かれ、真っ黒な瞳から恐ろしげな鋭い光を放つ。
「お前、ジルダゼラミ!」
少年が、叫んだ。
怯えに満ちている。
「魔物の正体は、あんただったのか」
別の少年も言った。
(ジルダゼラミ。やはり、回廊の〈誰か〉の事だったんだ。しかも、目の前に居る、あの女性こそが、ジルダゼラミ本人)
激しい怒りの表情で少年達を睨みつけ、ジルダゼラミが言葉を発した。
「こそこそ陰から私を痛めつけて、それでよくも今尚堂々と生きてられるわね。忘れたなんて言わせない。この私が、お前達の卑怯な罪業を全て思い出させてやるから」
声は、〈こだま〉の女性の声そのものだった。
凄まじい怒りを込めに込めた感じだ。
背後の康太は震えた。
(彼女と少年達は知り合いか。一体何があったという)
落ち着いたまま、志義は成り行きを見る。
ジルダゼラミが左腕を横に払った。
かなり太い綱が宙に出現し、少年達に勢いよくぶつかった。
三人は綱に体を持って行かれ、左の方に吹っ飛び、床に叩きつけられた。
同時に、綱が跡形もなく消える。
再び、ジルダゼラミは腕を払い、綱を出す。
それも少年達に向かい、胴を打って飛ばした。
綱はまたも消える。
3人の少年達はまともな抵抗を許されないまま、綱による攻撃を受け続け、とうとう中心部への道の1つの中へ叩き込まれた。
「もう二度と、ここに来るな」
ジルダゼラミはそう叫ぶと、右手を挙げた。
少年達のいる道が真っ暗になり、姿を闇が覆い尽くす。
数秒後、元の明るさが戻ったが、そこに少年達はいない。
「ああいうからくりだったのか……」
と康太が呟いた。
くるりと、ジルダゼラミがこちらを向いた。
明らかに志義と康太を見ている。
怒りの表情は崩れないままだ。
(これは、来る)
志義は攻撃を予感し、身構えた。
「お前等2人とも、今直ぐここから消えろ」
叫びながらジルダゼラミが右腕を外向きに動かした。
綱が現れた。こちらに飛んでくる。
志義は中心部に入る形で右に跳び、綱を避けた。
康太は反応が遅かった。
逃げ切れず、綱が腹に命中。
道の奥へ吹っ飛んだ。
「康太」
志義が振り返る。
康太は腰を強く打ちつけたのか、
「痛たたた」
と言いながら、立ち上がった。
この間、ジルダゼラミは次の綱を用意していた。
それも飛んでくる。
志義は伏せて避け、今度は康太も何とか逃れた。
「これは、まずい所に来ちゃったな」
康太はそう言い残して道の奥へ走っていった。
逃げる事を選んだのだ。
志義は、逃げないと初めから決めている。
回廊の中心部に2人きりとなっても、ジルダゼラミは攻撃の手を弛めようとしない。
次から次へと様々な太さ・長さの綱を出しては志義に向かわせる。
志義は跳んだり、伏せたり、身をずらしたりして、1度も綱と接触しない。
「私はあなたの敵じゃない」
細い綱の束を、体を反らせて避けながら志義が叫ぶ。
「あんたなんかに、私の気持ちが分かる訳無い」
ジルダゼラミが返す。
更に綱を出そうと、顔を歪めながら両腕を掲げた。
「あなたの話を聞かせて」
志義が、前々から練り上げた例の一文を放った。
ぴたりと、ジルダゼラミの動きが止まる。
びっくりしたのがはっきり判る程に、目を瞠った。
志義を凝視し、瞬きもしない。
暫し、どちらも何も言わない。
2-2,憎しみ
ふわりと、ジルダゼラミが床に降りた。
(やっと招いてくれた)
床に座って、志義に背を向けたまま、ジルダゼラミは言った。
「ここは私の家。他人には出ていってほしいだけ。でも、今だけ、あんただけなら、ここに居てもいいよ」
しょうがない、と諦めたような言いぶりだ。
先程の少年達に向けた怒りが、まだ冷めていない。
志義はジルダゼラミから背丈2つ分離れる所まで寄った。
「あなたの話を聞かせて」
落ち着いた声でもう一度、志義が言う。
「私の話を聞いてくれるならね――」
ジルダゼラミは大きく息を吸った。
「――言いたい事なら、たっくさんある」
横に滑らかに動かすジルダゼラミの左手に呼応するように、中心部に繋がる道が次々と壁で閉ざされていく。
全ての道は塞がれ、中心部は閉鎖空間となった。
「私の言ってる事が傲慢だと思われても構わない。これが、いじめを受けた者としての素直な本音なんだから。
加害者どもめ、どれだけ白けても無駄だ! 全て、被害を受けた私の心と体が覚えているんだから。私に刻み込まれた傷は一生消えない。いじめがあった証として残り続ける」
志義に向けて言うのではなく、独り言として発しているふうだった。
「では、さっき攻撃していた少年達は、もしや」
「そう、私を痛めつけた主犯ども。2年近く、切れ目無く、あいつらにやられた。私に死を決意させた張本人だ。あいつらだけは死んでも許さない。
私をいじめたやつ、いじめを見てただけのやつ、私のいじめられる姿から目を逸らして逃げたやつ。保身の為に私を見捨てた大人ども。これらの、人間として今ものうのうと生き長らえてるやつらを、私は決して許さない。これからも生涯を掛けて呪ってやる。私と同じだけ不幸になるように」
顔を見なくても、ジルダゼラミの形相がどんどん険しくなっていくのが志義に分かる。
憎しみのみで彩られた言葉が裏付けている。
志義はここまで聞いて、遂に昨日の疑問をぶつけてみる事を決めた。
「もしかして、あなたは瑠希では」
ジルダゼラミが弾かれたように立ち上がり、志義と正面に向き合った。
驚きの表情だけに変わった彼女が、か細い声で、おそるおそる言った。
「何で、知っている? 雲母瑠希を」
「私は園池花鈴の友だ。瑠希は花鈴の親戚だと聞いた。昨日、花鈴に付き添って見舞いに行った。ほんの僅かな情報だが、瑠希がなぜあのようになってしまったのかも知っている」
「……なるほど」
一度俯いたジルダゼラミだが、素早く顔を上げ、早口で叫んだ。
「そうよ、その通りよ。私は元々『瑠希』だった。でも今は見ての通り、『綱の檻の姫』と呼ばれるジルダゼラミ。誰にも穢される事の無い、純粋な復讐者よ。
どうせ私なんか、この世に居ても居なくても同じなんだ。だったら、ここで復讐の魔物と化してやるって決めたんだ。
私の立場で物を見てみようとする人なんて1人として現れない。ヒエラルキーの上位にしかいた事が無いやつらに人間の苦しみは一生解らない。そんなやつらには、行動で訴えるしかない」
(つまり、ジルダゼラミというのは瑠希の魂――即ち生霊だ)
志義は驚かない。
過去の彼女の経験の記録に、それは存在してしまっている。
花鈴の事を思い出し、志義は1つ伝えなければ、と思った。
「昨日、花鈴があなたに深く謝っていた。どうして瑠希の危機に気付いてあげられなかったのか、と」
「あいつは遠縁だからって私を助ける気など最初からなかったんだ。それに――」
「違う、彼女は――」
「私の話を遮った! 話を聞かないやつは大っ嫌い。途中で話の腰を折るやつは皆して、勝手に誤解した事を真実だと思い込んで、一人で満足してしまう。私はそういうやつらにも深々と傷付けられた。全然、話を最後まで黙って聞いてくれなかった。そのざまはどうなった? これよ」
語気を強め、ますます早口になったジルダゼラミの顔からはもう驚きは消え去り、怒りの色が差している。
(彼女の言う事、解る)
志義はジルダゼラミに同意する意味で、1回首を縦に振った。
「分かった。私は聞く。ほかとは違う人間になる。聞かせて、何もかも。最後まで全部聞く。誓う」
「本当ね?」
鋭い眼差しで志義の真意を測るジルダゼラミ。
目を離さずに、志義ははっきりと頷いた。
ジルダゼラミの目が少し泳いだ。
迷いがあるようだ。
だが、直ぐに意を決したのか、志義に目を戻す。
「園池花鈴。私の親戚、数代前に遡ってからようやく繋がる血縁。譬え、私から物理的に離れていて、何も知らなかったのだと仮定しても、いいえ、そんな事は有り得ない立場にいるはずなんだ、あいつは。
後になってから謝られたって遅い。私が苦しかったのは過去。今だって辛さは残るけれど、それよりもっと辛かったのは昔。
あいつに限らない。誰も『今更』って単語を知らないんだ」
花鈴についての誤解は志義には明らかだ。
(誤解を解くのは、今でなければならない、という事はない)
目を合わせようと努める志義に対し、ジルダゼラミは志義から目を逸らす。
視線を自分の足先に落とす事で、集中を高め、話したい事柄を文字に変換しているらしい。
「私は何も悪くない。どれだけ過去を遡って隈なく覗き込んでも、私は絶対に、何も悪くは無かった。
どうして私だけいじめられたのか、全く理解できない。聞いたって理解したくもないけどね。あいつらのルールに正義も善も存在しない。よって、理解できる中身も無い。
私、私、私ばっかり。何で私だけあんな目に遭うの? 私が私のままでいる事の何がいけないっていうんだ」
文字にできた事柄だけをジルダゼラミは声に出している、と志義は思う。
ジルダゼラミは嫌な記憶と向き合う辛さと戦っている。
時折目を瞑り、頭を振る動作がそれを表す。
「何かと言えば『冗談』、『冗談』って! 冗談なんて嘘。言った言葉は本音そのものだ。冗談だと言い訳すれば罪でなくなるとでも思ってる訳? そんな訳無い。こっちがその『冗談』にどれだけ傷付けられたと思ってるの。
噂ってのも大っ嫌い。噂さえ存在しなければ、あれほどにまで傷付く事は無かったのに。あんなに悲しい思いをする事も無かったのに。
私に浴びせた悪口・陰口の数々、1つとして忘れられた事は無い。
憎い。何もかもが憎い。全ての人間が憎い!」
(口に出すのは本当は辛いはずなのに。ずっと長い間、心の中だけに在り続けたんだ)
ジルダゼラミの息は更に荒くなっていく。
「私が死んでから声を上げたって、何もかも遅いの。私がまともに生きている間に、自ら動いて止めに入れば、私はこんなふうにならずに済んだのに。やつらは『手遅れ』の本当の意味を知らない、完全な馬鹿だ。
悔しかった。ただとにかく悔しかった。私はこんな目に遭って、悲しいのもあるけれど、悔しさの方が勝っている。とにかく悔しい! 私があいつら全員に罪を知らしめ、罰を与える事が当時できなかったのがもの凄く無念。そうだから、今、ジルダゼラミとなった今こそ、回廊にのこのこやって来るいじめ加害者どもに罰を与えてやるの。
こんなに気分良く復讐できるなら、死に損ねた甲斐があったってものね。そして、私のようにこの世に留まれず散っていった同志達の無念も、私が背負ってここに存在し続けてやる。
私は弱くなんかない。私は本当は強いんだ!」
ジルダゼラミは両の拳を強く握り締め、大声を張った。
「自ら手にかけて殺す気も無いくせに、『死ね』という言葉を軽々しく言うな! 私はそう簡単に死んだりしない。私は、花みたいに潔く儚く散ったりなんかしない!」
中心部に反響する声。回廊全体にも〈こだま〉となって響いているだろう。
2-3,実態の証言
いきなり、ジルダゼラミは崩れ落ち、座り込んで、膝を抱えた。膝に顔を埋め、言葉を発しなくなる。
志義も、ジルダゼラミと同じ目線にする為、その場に座った。
志義は、言葉を待ち、自分から何かを話すのは止めた。
徐々にジルダゼラミの怒りが引いていくのが分かる。
怒りと入れ替わり、悄然とした空気が増していく。
「私は元々こんなに攻撃的ではなかったのに。もっと大人しかった。復讐にのみ燃えてる私の心は絶対に汚れたわ」
先程とは別人の如き、弱り切った声で話し出すジルダゼラミ。
「私は人に嫌われて生きてきた。嫌われるのは嫌だった。嫌で嫌で仕方無かった。嫌われない為に私なりの努力を沢山してきた。でも1つとして上手くいかなかった。敵が、上手くいく事が無いように散々細工してたという現実が分かった。私を受け入れようって空気も環境も初めから存在してなかったんだ。敵は最初から、私をいじめて娯楽の玩具にすると決めていたんだ」
ジルダゼラミの声はくぐもっていて、志義は耳を澄まして聞き取った。
「回廊は人間と違って、私を受け入れてくれた。必要とされているか否かは分からないけど、私がここに居ても苦情は言われない。嫌がらせをしに、いじめの続きを再び楽しみに来るやつがいても、今の私なら反撃できる。ここに居るのは快適よ、本当に。1人で居るのはちっとも寂しくなんかない。それよりも、大勢の中に無防備で放り込まれる方がよっぽど辛くて苦しいわ。
何もかもが怖くなった。全てが信じられなくなった。この自分自身でさえ、恐怖と不信感の塊になっていった。これからも同じ目に遭うとしか思えなくなった。
ああ、話をするだけなのに辛い。嫌な事をいちいち思い出さなければならないんだから」
ジルダゼラミは更に身を小さく丸め、何度か鼻を啜り、ますますか細い声になって、それでも話は続く。
「私は誰からも必要とされていない……。私は一度も、誰からも、助けてもらった事なんて無かった。私は世界に見捨てられたんだ。
学校は身分社会だった。友人関係もヒエラルキーに縛られていた。大勢の中に数えてもらえたらましかとも思ったが、そうでもないし。私は〈大勢〉には入れてもらえなかった。私は常によそ者で、はじかれた。
どんな努力だって、『やるしかないからできる』なんて言ってる人はおかしい。こっちをも同じ部類の人間だと決めつける、いかがわしい目で私を見ないでよ! 私達は傷付いて動けないんだ、そっちのせいで。できないもんはできない、という単純な事がどうして理解できないの? レッテルを勝手に貼り付けて、勝手な価値観で見やがって。許さない」
もはや纏まりを失くし、滅茶苦茶な、突発的な言葉の羅列になっているが、ジルダゼラミも志義も気にしない。
「毎日が戦い。戦って生きるのはもう疲れた。だって、絶対に勝てないんだもの。良くて引き分け、でもそれさえもさせてもらえない。敵は『自分達は常に勝ち組でいて当たり前。負けてやるなんて有り得ない』と、私を負けさせ、負かし続ける。そして、それには終わりが無い。
そんなだから、もう生きていたくない、死にたい、そう思って、死ぬ事に決めた。見事に失敗したけれど。そうして、私はここに居る事となった」
途中から、明らかに涙声になった。
少しだけ顔を上げたジルダゼラミは、確かに泣いている。
だが、涙をぼろぼろと零す目は、未だに鋭さを失わない。
「学校の人間関係は二分していた。いじめに加わるか、いじめを受けるか。殆どのやつらはいじめる方を選んだ。私はね、どちらにもなりたくなかった。いじめられない為にいじめをするとか嫌だ。私はいじめられる人の気持ちがよく解る、気持ちそのものだもの。
でも、やつらはそれを認めなかった。容赦しなかった。全員が必ずどちらかに属するよう強制した。
加害者や傍観者になるくらいなら、被害者の方がいい。被害者だけは誰にも傷を負わせない、そうでしょう? 私はそういう判断をした。
もう、あんな思いを二度と味わいたくない。いじめなんか、二度と遭いたくない」
2-4,本音
突然、ジルダゼラミは立ち上がった。
袖で目元を拭き、自分の足先を見つめる。
「私が受けたのは、目に見えないいじめだった。証拠となる物が1つとして存在してくれない、卑怯極まる陰湿な型だ。それ故か、誰も加害者を責め込めなかった。いっそ、証拠作りに怪我でも負わせてくれとさえ思った程よ。
いつの間にか、『私がいじめられるのは、私が悪い事をしたからだ』とか、『罰だ』、『報いだ』、『呪われている』とか考えさせられていた。
こんな考え、正しいはずがないんだけれどね。そう考える事で耐え忍べると思ったのかな。
いじめられた側の子に、いじめられる正当な理由なんて絶対に無い。『いじめられる子にも原因がある』などという言葉は、最悪の逃げ口上の1つに過ぎない。
私は、こんな言葉を支持するやつらには黙っちゃいない」
少しの沈黙の後、ジルダゼラミは再び座り込んだ。
脚を崩し、両手を床について体を支え、頭を垂れた。
打ち拉がれているようにも見える。
ぽたぽたと涙が床に落ちる音が、実際の響きよりも大きく聞こえた。
「大人や教師達は、今時のいじめは掴み処が無いと嘆いている。
でも、私の体験から言えば、必ず中心犯は存在する。あいつらは生徒を真面目な目で見てないだけだ。逃げているだけなんだ。
いじめは最早、大人の助力無しには救いようの無い状態に悪化する。
ただし、いじめの当事者たる人々自身にも義務がある。努力しなければならない。
大人にいじめの存在を全力で知らせる義務。
いじめを止めさせる義務。
加害者は即刻いじめを止める義務。
大人は、子供達の訴えに全力で応える義務がある。
これらは当然にあるべきだと、死に損ねてから頭に浮かんできた。
いじめられても強くならない。むしろ、どんどん弱り果ててゆく。いじめは人をぼろぼろに壊す。軽々しい物ではない。
犯罪にしてほしい、いじめを。変わるべきは社会、そして人。
変わる決断をしないならば、第2、第3のジルダゼラミが必ずこの世に現れてしまう。
いじめをしたやつも、見てただけのやつも、全く気付いていない。自分達がどれだけ残酷な事をしでかしたか。
あいつらが、してきた事を本気で『遊び』だと思い、思い続けているのなら、そいつらの心は本物の悪だ」
志義はここまで、あれこれ考える癖も静めて、聞く事に徹している。
考える事など、できない。
ジルダゼラミの言葉は重い。
今までの人生で耳にした話の中で最も重みがあると感じていた。
話はまだ終わっていない。
「友達とか言う人間関係は、所詮、薄情で無責任なだけよ。
いじめをするやつらには、まともな心が無いと思いたい。人を痛めつけて面白がる心なんて、どこにも良い点なんか無い。見てただけのやつらも同じだ。
私はそいつらが憎くてしょうがない。いじめてきた加害者だけでなく、何もしてくれないでただ見てばかりで面白がってた傍観者も。
殺してやりたいくらい憎い!」
ジルダゼラミは拳で床を叩いた。
声に、あらゆる負の感情が入り乱れている。
「かわいそうとか、思ってるだけなんて全く意味が無い。目に見える形で表してくれなきゃ、世界は変わりもしない。態度で、行動で、口に出す言葉で、はっきりと出してくれなきゃ誰一人救えないんだ」
もう1度、ジルダゼラミは床を殴った。
首を振った時に涙が飛んだ。
「普通? 『普通』って何よ! 私だけが『普通』の基準から外れてるって意味? 普通じゃない人間は存在しちゃいけないの? 私を排除したら皆が得をするとでも言うの? 誰がそれを決めた? 私は……私は、生きていてはいけないと、一体誰の勝手でそんな事になってるんだ」
溢れる涙をそのままにして、強い口調でジルダゼラミは叫んだ。
「私はいつまで、こんな事で悩み、苦しんでいかなきゃならないんだ。今のままじゃ、これが永遠に続くとしか思えない!」
話が止まった。
ジルダゼラミは何も言わなくなった。
声も立てずに、荒い息で涙を落とすだけだ。
2-5,紡ぐ言葉
志義がふと中心部を見渡すと、いつの間にか、中心部を閉じた空間にしていた壁は全て消え、道が見えている。
(勝手に去れ、という事か)
志義はこの時点で帰る気など毛頭無い。
(瑠希をこのままにしておけない)
必死で頭を巡らせる。
ようやく言葉が纏まり、志義は口を開いた。
「瑠希が今話してくれた事を、私は否定しない。誰も、あなたが間違っていると言う事はできない。あなたは、あなたの本音を大切にしてほしい。その上で、私の話も聞いてほしい」
ジルダゼラミが顔を上げた。
頬には涙の跡がくっきりと見えるが、もう泣いていなかった。
少しばかり驚いたような目で志義を見つめる。
志義の目は、座したまま、ジルダゼラミから逸れない。
「私にはあなたの心がよく解るんだ、瑠希。私も、あなたと同じような経験をしてきたから。悲しみ、怒り、嘆き、痛み、恐れ、絶望、そのほか多くの感覚と感情が、何もかも解る。あなたは独りではない。少なくとも、私がここにいる」
ジルダゼラミの眼光の鋭さが、少し弱まった気がした。
志義は立ち上がり、ジルダゼラミを囲む綱の檻の直ぐ側まで歩み寄った。
片膝を立てて座り、ジルダゼラミの目を真っ直ぐに捉える。
「瑠希は生きていて良い。生きなくてはならない。瑠希にだって、生きるべき価値がちゃんとある。
瑠希の存在を消そうと画策した悪人どもは確かにいたとしても、やつらにはあなたの命を奪う権利も何も無い。あなたが死んでも、得をする人間は誰一人としていない。
瑠希は堂々と、胸を張ってこの世を生きていけばいいんだ。
『普通』になる必要なんて全く無い。個性を全開にして、唯一の存在になればいい。
それを誰かに保証してほしいのなら、私が保証する。
悩みも苦しみも永遠ではない。苦しみから解放される時が、生きている間に必ず訪れる。
生きていれば必ず、幸せを感じられる時が沢山あるから。自分の人生の、希望を信じて」
ジルダゼラミは言葉を挟まない。何とも言えぬ表情で、志義の語りを聞く。
優しく且つきっぱりと、志義は言葉を紡ぐ。
「瑠希が生きた19年は、瑠希の為の大事な19年だ。何があったとしても掛け替えの無い人生だ。
その内の5年間を、あなたは復讐の為に生きた。瑠希が回廊で復讐に費やしたあの5年間は、もう戻ってこないんだ」
ジルダゼラミの瞳が揺らいだ。
明らかに動揺している。
志義は続ける。
「私の経験上、復讐は一時の爽快感しか得られない。復讐はただ空しいだけだった。時間の無駄で、労力と気力の浪費だ。娯楽にも成り得ない。楽しいと思える要素なんて何も無い。
私は何とか気付く事ができた。自分の人生の貴重な時間を、ろくでなしの為に使うなんて、なんて無駄な事なんだ、と。
あなたの言う同志達は、敵をこの回廊で攻撃するだけでは満足しないはずだ。彼等が求めているのは、敵の真の反省、真の懺悔。それは、身体的な痛みを与えるのみでは得られない事だ。
同志達の無念を背負う覚悟はすばらしい。けれども、あなた1人でそうする必要は無い。攻撃に頼る必要も無い。
これは皆で考える事だ。敵にいかに反省させるか、いかに懺悔の気を起こさせるか。瑠希だけが背負う課題ではない。世界中の全ての人間一人一人が悩むべき問題だ。
瑠希の心は汚れてなんかいない。いじめられて、敵に1つも怒りを感じない者は心が死んでいる。怒って当然。怒って良いんだよ。
心配すべきなのは、その怒りが長い年月に渡って残り続ける事。なぜなら、怒りは心にも体にも毒だからだ。自分で自分を傷付け続ける事になる。
いじめたやつを許せとか、怒りを忘れろとか、そういう話ではない。自分を守る為に、怒りから身を引く必要がある。遠くから眺めるように、怒りから離れるだけだ。
瑠希ならできる。瑠希の心は綺麗で優しいから。
瑠希だけじゃなく、本当は誰にだってできるんだ。この私ができたのだから、間違いは無い。
そうすれば、復讐を生き甲斐にしなくても、生きていける方法が自ずと見つかる」
志義は必死だ。
ジルダゼラミを決して非難しないよう、話す内容を慎重に選んだ。
なぜか。
ちらとでもジルダゼラミを否定する文言が入れば、彼女は忽ち激昂するだろう。
そうなってしまったら、志義がどうしても伝えたかった事柄など頭から消えてしまうに違いない。
2-6,解放
「あなたは、そのままのあなたでいて。自分を下手に演出しないで、その素直なままの瑠希でいて。
過去に引きずられず、未来と今を見るんだ。あなたなら、過去を無駄にする事無く未来を生きられる。未来を創れる。その為にも、今を生み出す生き方をしよう」
(落ち着け、私。落ち着いて言うんだ)
1つ深呼吸を挟む志義。
「これ以上、あなたの人生を無駄にしないで。生きていれば、あらゆる可能性が生まれてくる。
でも、この回廊に居続けて、復讐をし続けたら、その可能性はほぼゼロになってしまう。
今や、回廊は瑠希を束縛する物になってしまっている。綱の檻が、束縛の証拠だ。
瑠希は回廊から解放されなければならない。回廊の外にある自分の人生を生きなければ。
あなたはこれ以上、回廊に頼る必要は無い。もう既に、この事に気付いているんでしょう?
私が今日、この中心部であなたに会えたのも、きっと、あなたを回廊から解放させる為に違いない。
よって、私は、瑠希がジルダゼラミでなくなる瞬間を見届けるまで、ここに居続ける。
自分をもっと大切にして。あなたの代わりはどこにもいない。替えなど存在しない。
もう、自分を犠牲にしないで!」
ジルダゼラミは反論をしない。
捉えられた目を離す事無く、微動だにしなかった。
何を考えているのか、見た目では判断できない表情をしている。
擦れ声で、ジルダゼラミが問うた。
「なんで、そこまでするの? 私なんかの為に」
鋭い眼光を受けながら、志義は真顔のまま答えた。
「瑠希、あなたは、どこの誰よりも美しい心を持っている。
あなたはとても大切な人。唯一無二の大事な人なんだ」
ジルダゼラミの目が見開かれた。
一気に光を吸い込んだ目から、大粒の涙が零れた。
歯を噛み締め、体が小刻みに震える。
「そんな言葉……今まで言われた事無い」
両の掌で顔を覆って、ジルダゼラミはありったけの声を上げて号泣した。
彼女の正面で、志義は静かに、あえて声を掛けずに、冷静に見守る。
(1つだけ確かなのは、私の言葉が彼女の心を動かした、という事)
これ程までに親身に説教した人など、過去にはいなかったのだろう。
自分のこの存在を肯定し、自分の思考を受け止めた人間が思いがけず現れた事は、ジルダゼラミ即ち瑠希には驚きであると同時に、未経験の喜びだったに違いない。
――回廊から出たい。
中心部に、ジルダゼラミの声が、〈こだま〉となって響く。
「変わりたい。外で、やり直してみたい。私にも、私にも……」
突然、綱の檻が、かたかたかた、と鳴り出し、振動し始めた。
鏡が割れるような音と共に、綱は砕け散り、消えた。
ジルダゼラミを回廊に留め続けさせた綱の檻は、もう存在しない。
志義はジルダゼラミの真隣に近付き、手をそっとジルダゼラミの肩に置いた。
「これで、外に出られる。必ず、やり直せる。
あなたは、完全に自由だ」
ジルダゼラミは呼吸を整えて涙を静めてから、大きく頷いた。
ジルダゼラミの姿が薄くなっていく。透けていき、消えた。
中心部の中央の床に、志義だけが居る。
「解放された。瑠希の魂は、あるべき所へ、生きている自身の体へ、戻った」
呟くと、それは間違いの無い事のように思えた。
「さあ、出よう」
志義は、適当に選んだ道を進み、ほんの10分くらいで回廊の外へ出た。
空は晴れ渡り、辺りはいつものように、竹林を抜ける風がさらさらと流れる。
「やれる事はやり切った。帰ろう」
両腕を上げて背伸びをし、清々しく言い切った。
3-1,本来の思い
★★★
志義は1人で、瑠希がいる病院へ向かった。
受付で瑠希に面会したいと言うと、相手はぱあっと明るい顔になって、早口に言った。
「3日前に、突然意識が戻ったんです! 5年の間、一切の反応が無かったけれど、もうあの子は大丈夫です。御両親の喜びようは、言葉では言い尽くせませんよ」
病室の戸を開けると、起き上がっている瑠希といきなり目が合った。
瑠希は、志義の姿を捉えて一瞬、目を大きくした。
が、直ぐに無表情に戻った。
「あんたを恨むわ。突然元の暮らしに戻されたんだもの」
瑠希の言葉と本心が揃っていない事を志義は瞬時に見抜く。
「元気そうだね」
「ちっとも元気じゃない」
目を逸らしかけた瑠希は、何かを思い出したというふうな顔で再び志義を見る。
「あなたの名前は」
(あ……)
志義は回廊の中では名乗っていなかった。
「志義。灯火志義」
「良い名前ね」
不思議そうな響きで瑠希が言った。
志義は側の椅子に腰かけ、正面を向くが故に志義と目を合わせない瑠希を見る。
「目覚めてから、今までの回廊の出来事は夢じゃないか、って疑った。でも、今日、志義が来て、あれは嘘ではないんだ、現実だったと信じられた」
淡々と瑠希は話す。
「こっちに戻って最初に思ったのは、これからどうしよう、って事だった。5年の空白の埋め方とか、今何がしたいのかとか、正直なところ、さっぱり浮かばなかった。
周りが勧めるからとりあえず、新しい学校に行こうかな、と。決まったのはそれだけ。
親とも久々に話した。親は大人だから、回廊に入れないからね……。謝りながら、心配してたと何度も何度も言われた。
信じていいのかなとまず思ったけれど、志義の言葉が頭を過ったから、まあ、信じてみようとしてる。同時に、親の考える事はまだ具体的に解ってない自分にも気付いた。ずっと敵の一部だとしか思わなかった相手を、急に味方と考えるようにするのは難しいな、って。
自分の事は、将来とかはまた後で考える。どんな茨の道であっても、この世界で自分の人生をやり直さなくてはね。もうジルダゼラミには戻らないつもり。戻っても良い事は無いのだと、あなたは教えたでしょう。
ただ、直ぐに気持ちが切り換えられる訳ではなさそう。親とのやり取りでも、一人で考えている時でも、それが分かった。
回廊を出て、復讐を止めたからって、私をないがしろにしてきた人でなしのやつらを簡単に許す事はできない。
そんな中でも、数秒、数分と少しずつ、人を憎んだり怒ったりするのを休んでみる事ならできそうかな。そうやって、ちょっとずつ心を変えられたらな。
今度こそ、穏やかに生きてみたい」
瑠希の口調も、表情も、僅かに和らいでいく。
志義も微笑む。ひっそりと涙を堪えながら。
(回廊でのやり取りは無駄ではなかった)
胸を打つ喜びの波が、瑠希の一語一語に合わせてやって来るようである。
(たった3日で、こんなに人とは変われるものなのか。――そうだ。変われる。これは瑠希が元々持っていた気持ちであり、以前は怒りや悲しみが強すぎて隠れてしまっただけ)
瑠希の目が、窓際にある花に向けられた。
花の取り合わせを見れば、見舞いのマナーを押さえつつ、花鈴の趣味と合致しているのが志義には判った。
「花鈴の事なんだけど」
花から目を離さずに瑠希が言う。
「どうやら、私の誤解だったみたいね。あの人は、良いも悪いも無く、その判断の外にあった。そもそも、関わりが無い状態だったのだし。
最近、1人でここに来たみたい。この花も花鈴が持って来たと、看護師の人が言ってた。私が目覚める数時間前、とか言ってたけれど。
会う事があれば、私は彼女を拒絶しない。自然に話せれば良いんだけどな」
「花鈴に伝えておくよ。安心すると思う」
志義はほっとした。
瑠希がまだ花鈴に憎しみを抱いているようなら、今日、改めて弁明するつもりでいたからだ。
瑠希が志義に向いた。
「私、本当にやり直せると思う?」
回廊での鋭い視線とは異なり、不安をそのまま曝して聞く瑠希。
「あなたはできる」
力強い声で志義は断言した。
瑠希が小さめに頷いた。
「志義があの時言った事は、私も生き直せるって事、だよね。そうだよね、あなたが必死になって私に伝えようとしたのは」
志義ははっきり頷く。
ただ、それと同時に、形振り構わなかった回廊での自分に瑠希が気付いていたという事を知って、少々恥ずかしく思った。――恥ずかしいなどと思ったのは、いつ以来か。
さっと俯いて、瑠希が言う。
「私と同じ思いをする人間は二度と現れてほしくない。第2、第3のジルダゼラミが生まれるのはごめんだ。
世の中にはまだ、かつての私と似たような苦しみを味わわされている人達がいる。苦しみに潰されてしまった人も沢山いる。
今の私には、彼等を助ける力は無い。一刻も早く救われるようにと祈る事しかできない。
でも、いつか必ず、私は彼等を救える力を得て、真剣に向き合っていける人になりたい。ジルダゼラミがしていた復讐ではない手段で、苦しめられている人を皆全て助けたい」
「すばらしい志だ」
直ぐに志義は賛同を示す。
「できるかな、私に。言ってはみたけど、自信無い」
顔を上げて瑠希は呟いた。
志義は鞄から、ノートを出した。
あの詩『叫び』を書いたページを開いて、瑠希の手元に置く。
それから言った。
「自信を付ける為に、これが少しは役に立つかな。――友の一人が酷く批判したけれど、私は気に入っているし、共感してくれた人も何人かいる」
瑠希はノートを手に取り、じっくりと時間を掛けて詩を見つめた。
「なるほど。あなたの回廊での行動とそっくり」
瑠希はノートを志義に返した。
「そう、まずはやってみなきゃいけないんだ。何かを始める事が、どこかに繋がる」
微かな声の張りは、なんとか自分を奮い立たせようとしているかに感じられた。
3-2,頼み
「ところで」
志義が話題を別の物にする。
「回廊について、瑠希が知っている事を教えてほしい。私は、瑠希との出来事が回廊の全てではないと思っている」
「回廊の謎解きの続きでしょ」
特別に驚きもせず瑠希は言う。
「それは最初から気付いてた。あなたが回廊にしょっちゅう来るのを、私も彼も知ってたもの」
「彼、とは」
志義は自分の目的が既に瑠希に知られていた事を驚いたが、それよりも瑠希の「彼」という、人を指す語が気になった。
やや戸惑い、迷うような表情を見せる瑠希。
それも直ぐに消え、決心した顔になる。
「回廊にはもう1人居る。名はフウ、年は18歳。身内は今はいない。何年も前に、彼のおじいさんが亡くなって、それ以来、回廊にずっと居るみたい。
私が回廊に現れた時には既に、フウはそこに居た。回廊に留まるよう勧めてくれたのも彼。いつも一緒にいたのではないけれど、時々会った。
回廊についてなら、フウに尋ねるのが良いと思う。彼は何年も回廊を操りこなす、主のような存在になっているから」
「もしかして、〈こだま〉の少年の声は、フウという人なのか」
「え? 〈こだま〉って」
「回廊に響き渡る、人の言葉を含む声を、私と友は〈こだま〉と呼んでいる」
「ああ、そういう事。私の声ではない響きなら、フウに間違いない」
「フウはどんな人」
「そうね……。フウは年下だけど、兄のような存在。
私が、回廊に来たかつてのいじめっ子どもに襲われた時には、必ず私の加勢に来てくれた。
泣けば慰めてくれたし、怒っていれば気遣ってそっとしておいてくれたし、怖がって怯えた時は側に居続けて、私が落ち着くまで励ましてくれた。ごくたまにあった面白い事を話せば一緒に笑ってくれた。多少のわがままにも応えてくれた。
とても心強かった。彼がいなかったら、私の回廊での5年間はもっともっと苦しい時間になっていたはず。そもそも存在し続ける事さえできなかったかも。彼には本当に感謝してる。私を生かしてくれた人だから。
でも、私の方からフウを気遣ってあげる事は結局できなかった。私が自分の事で一杯一杯になってしまっていたからだと思うけれど」
視線を落としながら瑠希は続ける。
「私の前では勇敢で優しくて明るかったフウだけど、確実に彼は深い負の感情を抱いている。彼は尋常ではないとても悲観的な考え方をする。
フウにも助けが居る。あのままでは間違いなく、自ら死んでしまう」
志義には、瑠希がフウを本気で心配しているのが分かった。
「志義なら、フウの気持ちを変えられるかも!」
「え?」
いきなり瑠希が顔を上げ、真剣な眼差しで志義を見つめたので、志義は戸惑った。
「今度、志義が回廊に行けば、フウはきっとあなたに会おうとする。私が解放されたのを、フウは絶対に知っている。私の側にあなたが居続けていた事もね。彼は回廊の中の出来事は全部感知できるのだもの。
フウは、志義がどうやって私を回廊の呪縛から解いたのか知りたがっているに違いない。その機会を使って、あなたの話を聞かせるんだ。
話して、フウに。あの時と同じように。彼を救って」
思い掛けない頼みである。
志義は一瞬で腹を決めた。
「分かった。やってみる」
志義がちらりと壁の時計を見ると、面会の時間があと僅かである事を知らせている。
「志義」
瑠希が言う。
「あなたはずっと私の味方でいてくれるよね」
「もちろんだ」
即答すると共に、志義が右手を出す。
友情、絆の証として、志義が必ず行う所作である。
瑠希は意外そうに2度瞬きをし、次に迷い無く右手を出して、志義の手を握った。
志義に初めて見せる、言葉で言い尽くせない輝きを一気に散りばめさせた、瑠希の笑顔。
(こういう笑顔を持っているのか)
負けじと笑い顔を作る志義だが、到底及ぶものではない。
(こんなに美しい笑顔を、消そうとしたやつらを、私も許すものか)
じわりと心の奥に浮かび上がった黒い感情は、表に出さない。
二人は手を離す。
面会終了を告げに看護師が来た。
志義は立ち上がる。
「また会えるかな」
と志義が聞くと、
「当然でしょ」
瑠希に言われた。
微笑みながら手を軽く振って、志義は病室を後にした。
病院を出ると、トンボが目の前を優雅に飛んでいった。
トンボは空を目指すように高く高く上がっていく。
(瑠希と話せて良かった)
ジルダゼラミであった先日も、瑠希に戻った今日も。
(腹を割って話す事ができた。これは大きな収穫だ。瑠希の命の密度を、増せたかな)
そして、新たな課題。
(また回廊に行かねば。回廊の謎はまだ僅かしか掴めていない。
これから会う人、フウは多くを知っているようだが、手強そうだ。まともに一対一の会話ができるかどうかも分からない。
それに、瑠希の話によれば、命と向き合えてないらしい)
トンボを見失うと、志義は歩き始めた。
(どんな相手であろうと、私は決して逃げたりしない)
楽しい回廊探検、ではなくなっているが。
「私だけにしか、できない事がある」
【巻2 綱の檻の姫 終わり】
【巻3へ続く】
回廊の中で 【巻2 綱の檻の姫】
【登場人物紹介 *巻2の内容に合わせて】
◇ジルダゼラミ=雲母瑠希(きらら・るき):19歳、女性。14歳の時、投身自殺を図って、意識不明の「植物状態」に。その時に瑠希の魂が生霊となって回廊に現れ、「ジルダゼラミ」と化す。志義の必死の説得で本体に魂が戻り、目覚める。