霞ゆく夢の続きを(9)
【前回までのあらすじ】
物語は赤井君(主人公)が小倉駅で小説のお手製本を無償配布するところから始まる。分かりきった話だが、誰もそんな本など興味がなく受け取ろうとしない。彼は厳しい現実を知り深く失望する羽目に。
そんな中、ひょんなことから彼のところにメールが届く。うちで働かないかとのこと。いよいよ生活に窮していた彼は、いぶかりながらも背に腹は代えられず、そこでお世話になることにする。
ところがその職場がぬるいこと、ぬるいこと。行っても仕事らしい仕事があるわけではない。勤務時間の大半が二人(社長の花菱と社員の箱村)との下らないお喋りに費やされる。そして思い出したように、その合間を縫って風変わりな作業をするのである。作業というのは、夢茶という怪しいお茶に酩酊し、浮かんでくる映像イメージを言語化し記録するという奇妙奇天烈なものだ。仕事は以上である。それ以外はない。それだけで高額な日当がもらえるのだから笑いがとまらない。
ある日、箱村から「妻と一緒に三人で食事会をしよう」と促される。レストランで箱村の妻を見た赤井君は、その美しさに心を奪われてしまう。別れ際、彼女から二人だけで再度逢いたいと奇抜な手段で仄めかされた彼は、相手が人妻であるにもかかわらず、誘惑されるがまま実際に彼女とデートをしてしまった模様である。不倫覚悟なのか? だが現時点では、二人に肉体関係が生じ不倫に発展したかどうかは確認できない。次回作以降を待つしかないようだ。
一方、物語には精神病棟のベットに横になり夢現の状態で小倉の繁華街をを逍遥する男のシーンがたびたび挟み込まれる。これは何を意味するのだろうか。そして彼は誰なのか。彼こそが花菱いうところの赤井君の第三の顔なのだろうか。何も分からない。
今も花菱の訳の分からぬ話は続いている。ついさっきも赤井君は、花菱の言葉に触発されて不合理な不安に悩まされはじめたばかりだ。さて‥‥‥
(55)
次から次へと訳の分からないことを喋りまくる花菱。トークライブショーだ。街頭演説中にゾーンに入った政治家と同じで、頭に浮かんだことは残らず吐き出さないと気が済まなくなっているから始末が悪い。最初は注意を向けていたが、まったく興味がわかない話を字幕が追いつかないほど大量に喋るので、最後には聞くふりを決め込んでしまう赤井君である。おかげで花菱の話はたんなるノイズと化した。
────うわの空で、理解しようとしなければいいんだな。ふう、スッキリ。あたかも自分が宇宙の外側に出ることを許された気分だ。
内心、そう嘯く赤井君。こんな話より今の彼の関心事は“このさき小説家をめざせば透明な死へまっしぐらかも”という何の確証もない憂慮なのである。まあ、ご立派なこと。確証がないのに、気になったらとことん堂々巡りしてしまう───ド文系脳の赤井君、面目躍如である。
「どうした。深刻ぶって何を考えとる。そう言えば肌の色艶もあまりよくないな。顔にニスでも塗ってテカテカにしちゃろか。体調が悪いんかいな。君が黙りこくって、トンチンカンな受け答えをしてくれんようになったら“何でやねん”が言えんじゃないか。突っ込めんと、おもろなかばい」
怪訝な顔をしながら花菱がのぞき込む。
「はあ」
「そうか、分かったぞ。ワシの卓越した洞察によって三つの顔、すなわち無自覚の多重人格性に気づかされたせいなんだな。な〜にショックを受けるには及ばん。第三の顔をもつ君は悪魔でも何でもない。君自身のもう一つ姿だ。見えない影に怯えるには及ばん。それこそが君の特異な芸術的センスの源泉じゃ。優れた芸術は狂気から生み出されるんだ。そんなこと言ったって、凡庸な奴らはただ薄気味悪く感じるだけってか? 芸術性を解さぬ豚どもはほっとけ。誰が人のアイデンティティーは一つだけと決めた。心の病だから治さにゃいかんなどと言う奴は笑止千万だ。いくつものアイデンティティーを同居させて生きていけばいいだけのことだ。しょせん豚どもには君の実力は評価できんよ」
やれやれ、まだあの三つの顔の話は終わっていないらしい。だいたい体型的にも豚はアンタのほうじゃないか。それに、特段そんなことに何のショックも感じてないし。なにを勘違いしてるんだろう。独断専行でどんどん先走って早とちりしてしまうのはB型花菱のお家芸だ。不安に思えるのはまったく別のことでなんですよぉ~~だ。
そう心の中で無理して茶化してみたものの、いまだ心穏やかでない。感情メーターの針は小刻みに揺れている。じわじわ崩れゆく砂の城の住人になった気分だ。余計なことを関連付けて気に病んでしまった。今ここに生きていることが、真に生きていることに脈絡していない気すらしてくる。小説家をめざせば透明な死へまっしぐら────この漠とした不安を何とか心からポンプで汲みだしたい。
僕は、かの自殺した川端康成でも、芥川龍之介でも、太宰治でも、ヘミングウェイでもない。なるほどあれほどの大作家ならそういうこともありうるのだろう。だが、こんなどこの馬の骨とも分からぬ自分が小説家を目指すということと、死ぬということに何の因果関係があるというのか。いくら綿密かつ冷静に考えてみても、「風が吹けば桶屋が儲かる」的関連すらどこにも探し出せない気がする。
にもかかわらずこれほど動揺してしまうのはどうしてか。恐怖が蛇のようにひんやりと体に巻きついてくる。この実体なき恐怖はどこからくるのか。爪と指の間に入り込んで固まった血液のように心にこびり付いて洗い流せない。何もないところから自ら不安をつくりだし、その不安で自ら動揺している。アホちゃうか。どうして三島由紀夫と自分を比べてしまうのか。お前は馬鹿か。あんな天才とどこにでもいるこんな凡人を比べてどうする気なのか。重々それを承知の上で“鈍才だってまかり間違えばいつそうなるか知れたものか”と変な懸念を抱く。そこまで可能性の間口を広げたら切りがないではないか。にもかかわらず考えてしまう。そして、考えるほどに怖くなるのだ。
葛藤は予感から始まる。たとえそれがまったく根拠のない杞憂であったとしても、未来の空に暗雲をもたらすことに変わりはない。自分の感情は自分では制御できない。制御できるのは思考だけなので、これも仕方ないことなのであろうか。
あるいはその二つ、すなわち小説家を目指すことと死ぬということには何か思いもよらない関連性があるのかもしれない。が、あったとしても複雑すぎて僕にはとても特定できそうもない。特定できない以上、現状恐れは恐れのまま受け入れるしかないのだ。
とはいえ花菱には何の責任もない。たとえ全部つくり話だったとしても、だ。知ったか仏陀爺さんの話を半ば真に受けて無関係にこじつけた挙句、勝手にショックを受けているのはお前自身ではないか。
そういえば箱村があのスカイレストランで三人で会食したとき話していたことも気になる。「もう一つの赤井の人生ストリー、掌編小説の出来上がり」などと、したり顔で長々と喋りまくっていたっけな(霞ゆく夢の続きを〈5〉─38)。なにしろ冗長すぎて内容はうろ覚えだが、確か「僕には二つの人生ストーリーが用意されていて、小説家になる方を選択すれば最後には自殺することになる」というのが大筋だったように記憶している。
正直な話、あの時はまたオッサンがアホ話をズラズラ並べているぐらいにしか感じていなかった。しかしある程度時間が経ってみると、なぜかそれが現実味を帯びて思い出されるのである。あの話が記憶の片隅に貼りつき、その後ガン細胞さながらに増殖していったのであろうか。まさかとは思うが、万が一この彼の話が夢物語なんかではなく真実であったとすれば‥‥‥。まだ軸足に体重は十分残しているつもりなのだが、そう考えると心が不安定に揺れだしてしまうのを禁じ得ないのである。
「どうした、不安げな顔して。励ましとるんじゃぞ、君を」
「ちょっと胸騒ぎを覚えて。虫の知らせというやつかもしれません」
「虫博士敬意を表して、わざわざそんなセリフを言ってくれるのか。何もそこまでサービスせんでもよか」
と、なんでも自分にいいように解釈してしまう花菱である。続けていうことには───
「それよりワシの主張に何か意見はないのか。忌憚なく言ってもええんぞ」
「命と同じで、みんな一つずつ持っているのが心でしょう。そんな、一人で心を幾つも持ってちゃ変じゃないですか? おっしゃってることがよく理解できません」
不安を打ち消し胸のつかえを下さんがためか、あえて花菱にしょーもない異論を唱える赤井君である。人は同時に二つのことを考えることはできないからだ。君は半強制的に思考のフェイズを変えてしまうつもりなのかな?
「これじゃからノータリンは困る。こうやって一つ一つ噛み砕いて、理路整然と解説してやっとるのにどこが分からんのじゃ。そのオツム、なんとかならんか。小学生低学年の学習ドリルでも解きなおしたらどないや。“わて、アホでんねん”と書いたプラカードを持って大通りを行進したらいい」
「三つの顔のうち、とくに三番目のやつが分かりません。僕の知らない真実の顔って何なんでしょう。色っぽいフェミニンな魂が乗り移ったらもうそれ、僕じゃないでしょう」
「さっきちゃんと説明しただろう。この分からんチンがぁ! チンはあそこだけにせい。どれだけイタチごっこしたら気がすむんだ。いつまで足踏みしとる、少しは前へ進まんかい。もう一度かいつまんで話しちゃるばい。なんちゅうたらええんかいなぁ、要するに君の心の裏アカウントを乗っ取って誰かが発信しとるちゅうことばい。SNSなんかでいるだろう。裏であることの匿名性をいいことにバッシングし放題の罰当たりな連中が。彼らが悪意をもち意図的に誰かを貶めたり傷つけたりするのに反して、君の場合は誰かがちゃっかり君の裏アカウントを盗んで好き放題、狂った言葉を吐き出しまくっとるちゅうこっちゃ。そこが違う点だ。心のなかに侵入されとるのに、低能な君にはまったくその自覚がない。生霊か死霊か怨霊か何だか知らんが、そういった霊に利用されるだけ利用される大馬鹿イタコ、それが君の正体ばい」
なにが“かいつまんで話す”だ。長々と喋って、少しもかいつまんでないじゃないか。花菱AIなんてのを誰か発明してくれないかなぁ。あればもう少し分かりやすく解説してくれるだろうに。
「なんかますますトッ散らかって分かんなくなりました。いまだ濃霧がはれません」
「何を言うとるんじゃ。なら、心に裏アカウントのない人はいない───これは認めるな」
「ええ。それを使って悪意を表現するかしないかで、運命に大きな開きが出てくることも」
「よう分かっとるじゃないか。そこまで知っとってワシの理屈が把握できんとは、よほど頭が悪いんじゃのぉ。やっぱ本バカじゃて」
「馬鹿がいなけりゃ利口もないでしょう。だって比較ができない。馬鹿あってこその利口。利口は馬鹿に感謝すべきですよ。馬鹿と言われて怒って反抗するのが本バカ。そう定義する限り、僕は馬鹿であっても本バカじゃありません」
「お、とうとう自分が馬鹿でワシが利口だということを認めたな」
え、なんでそうなるの?
「強情だったが、ついに認めたか。ついでに意地を張らずにオカマであることも認めんしゃい。気持ちが解放されて楽になれるぞ」
と、とことんオカマにこだわる花菱。だから~ぁ、その気はないっていつも言ってるっしょ。そんなセリフはIkkoにでもぶつけてほしい。何が何でも僕をオカマにして笑いのネタにしたいらしい。どんだけ~。
「もうどうでもいいですよ。負けました。僕の中に色々な人格が存在していることは認めます。“君は潜在的オカマだ”と誰かさんから決め打ちされるより、よっぽどいいですから。オカマと決め打ちされるんじゃなくて、幾つもの人格の選択肢の中から自分自身で決めていく方がマシですもんね」
「おう、おう、おう、やっと堂々巡りの輪廻から出かかったか。ついでにワシのオカマ呼ばわりにも反抗してきやがった。その意気だ。君も成長したな。ついにワシのブラックジョークを皮肉ってきたか。その“誰かさん”とはワシのことじゃな。こりゃワシの性分だからしゃあない。ああいうのは全部冗談だ。すまん、すまん。断っとくが、あれってセクハラじゃないよな」
花菱が珍しくしおらしくなった。僕が自分を馬鹿であると認めたせいかもしれない。それにしても、ちょっと脇見運転したなと思ったら話がセクハラにコロッと変わっている。もう前の話題は半分忘れているのに違いない。もしかしたら短期記憶力がかなり衰えているのかもしれない。
「そりゃセクハラとは違います。僕が女だったらセクハラになるかもしんないですけど。花菱社長はどう思います?」
すかさず花菱の短期記憶の衰えに便乗しようとする赤井君。というのも自分の中に幾つもの人格が併存しているなんて話は、何が何だか意味不明だからだ。早いとこスクロールしてほしい。これ以上花菱の馬の小便話をダラダラと聞かされ続けるのはまっぴらなので、ミスディレクションして早々に打ち止めさせたい。
「そりゃ愚問じゃぞ。男と女とどこか違うのかね。付いてるか付いてないかだけの差じゃろう。染色体がちょこっと異なるだけちゃうか。そんなの、すぐ入れ替わっちまうよ。ワシなんざ歳くってるから、男でも女でも可愛いけりゃOKだ。大谷翔平選手と同じ二刀流じゃわい、ワッハッハッハぁ」
しおらしくなったと思ったら、しおらしくなかった。この人が話題にしているのは多分アレのことだろう。ミスディレクションにはのってきたものの、色ボケ、ずれまくりじゃないか。アンタは無駄に明るい。笑う門には福来る爺さんよ、せいぜい病気をうつされないよう気をつけな。アンタは生き仏じゃなくてセクハラ大魔王だ。
「花菱社長が僕をオカマ扱いするのは、この声のせいなんですか?」
「声って何じゃ」
「この録音された声ですよ。今日はじめて聞いたんですが、まるで女の声ですね。僕って普段もこんな声なんですか?」
「何でじゃ」
「“何でじゃ”はないでしょう。だって自分の声は普通自分では聞けないじゃないですか、録音しない限り」
「声が変なのは、ヘリウムガスでも吸ったんとちゃうか。いやこれ、やっぱちゃうかな。イラン軍のホルムズ海峡閉鎖でヘリウムガスも日本にあまり入って来んくなったからな」
「真剣に訊いてるんですよ、真面目に答えて下さい」
花菱はコホンと咳払いするや、
「普段の君はこんなふうじゃないよ。夢茶でトランス状態になると女になっちまうんだ。違う人格が入ってくる。あれじゃないか、君はチビで痩せてるから声帯も細くて小さい。だからこんな甲高い声になるんじゃないんか。別に気にするほど変な声じゃない。ワシなんか艶めかしくて、アソコが痺れてチビりそうになるわ。期待して立ってくれるのを待っとったが、歳じゃからなかなかそこまではいってくれんわい、残念じゃ」
と、やはりまともな答えは返ってこない。
「なんかこれ、かなりイカれた声ですよ。ニューハーフが営業用で無理矢理こしらえた声みたいだ。まさか社長、ボイスチェンジャーで僕の声をつくり変えているんじゃないでしょうね」
「ほんなテレクラ詐欺みたいなこと誰がするか。変えてどうするんじゃ。君の声を聞きながらセンズリでもするんか。アホいうな。そこまで悪趣味じゃないわい。ワシャもう弾切れじゃ。君こそオカマになって偽装マンズリ、変造パイズリしとるんじゃないのかぁ? 情けないぞ。アソコがまだビンビンに立つじゃろう。立つ限りにおいては立派な男じゃい。なんでオカマになんかになるんじゃ。もっと誇りを持て。お掃除オバサンに性転換して部屋のホコリを掃きだそうとすな!」
いったい僕をオカマにしたいのか、させたくないのか。そんな趣味など毛ほどもないのにねぇ。ほんでもって、なにがなんでも最後に駄洒落で締めようとするの、どうにかならんもんですかね。毎度、大コケなんですけど。
「なんでいつも僕をオカマ呼ばわりするんですかぁ」
「ワシって君をそんなにオカマ扱いしちょるか。全くしとらんこともないが、ちょっとしかしとらんだろう。NHK紅白歌合戦なんか、合いの子の桃色歌手が一杯でとるじゃないか。最近のマブい若者たちを見れば、男女と女男だらけじゃわい。まあ、どスケベ発言をワシがかますのも、君が夜の街をうろついて既に免疫があるのを知ってのことだ。ちっこくて可愛いから、ついからかってみたくなるんだよ。顔が三つあるっていう話が理解できんのなら、いい、いい。この話は流そう。じゃが、君の歓楽街での奮闘ぶり、ちとやり過ぎじゃ。いくら遊びたい年頃といってもな。下半身を除けば、まあまあ品行方正なZ世代なんじゃがなぁ。さ~て何とかならんもんかのぉ。エンゲル係数の異常に高い君が、風俗に金をつぎ込んでどうするつもりじゃ。ますます生活が苦しくなるじゃろう。自分の性欲に小突き回されていることが自覚できんのか。ヘラクレイトスなら“万物は流転する”とかなんとか格好つけてればすむが、なんで君まで女を求めて流転するんじゃ。花から花へと蜜を吸ってまわるだけじゃ、何も残らず空しいだろう。君はミツバチか。なにを受粉させるつもりだ」
「蜜を吸われてる側かもしれません」
「それもそうか、金はらうの君だもんな。なるへそぉ、共存共栄かぁ。バットふりふり、金ばら撒いとるんばい。間抜けな君のことだ、やらずぼったくりにも今までどれだけ遭ったことか。情けなかぁ」
いいかげん、秘密の隠れ家に土足で踏み込むのはやめてほしいものだ。も~うッ、いつもいつも遠慮なく押し入ってくるんだから ٩(๑`н´๑)۶ プンスカ!
こう再三再四こすられると、恥ずかしくて穴があったら入りたくなるじゃないか。なんでこの人は他人の私生活を物珍しそうにほじくろうとするんだろうか。鼻クソじゃないんだぞ。
「またそうやって秘め事を蒸し返そうとする、勘弁してくださいよぉ」
「まあまあ、いいじゃないか。邪険にすんな。気心の知れた仲だろう。水臭いぞ。もう顔馴染みも顔馴染み、身内同然じゃないか。君とワシの好で、なあ。冷たいこと言わんでくれやぁ。夏は冷や奴でも冬は湯豆腐じゃないか、のう」
───そんなゾッとするセリフをならべられたんじゃ、こっちの気持ちは真冬の冷や奴ですよ。
こんな具合に花菱は甘えキャラで、ことあるごとに馴れ馴れしく距離を詰めてくる。耳元のカナブンよりも鬱陶しい。思わず虫よけスプレーを噴射してやりたくなるほどだ。
そばにいるだけで暑苦しいのに、甘えん坊よろしく詰め寄ってこられると、さすがの冷や奴でも暑苦しい。油揚げにくるんだようなギドギドした花菱の顔。その顔が嫌がらせドライバーの幅寄せみたいに接近してくる。不快指数マックスだ。体から温室効果ガスでも排出してるのかぁ? 暑苦しいので、そのテカテカ頭に打ち水しちゃろか。誰か彼を丸ごと瓶詰めにして、どっか遠い場所に持って行ってくれ。
「今日、ちょっと暑くありません?」
「痩せの君が暑いのか。今年は冷夏とちゃうんか。ワシャちっとも暑ないぞ。空調がきき過ぎて防寒具がいりそうなくらいだ。こりゃちっと冷風にあたり過ぎで浮腫が出んといいけどな」
「‥‥‥‥」
アンタはもともとムクんでまんがな。そういう意味じゃないんだよ。違う~だろう、違うだろ! このハゲ〜~!(豊田真由子議員じゃないよ)
「なあ赤井君、旅は道連れ世は情けじゃないか。君とは馬が合う。初対面ですぐに意気投合したじゃないか、憶えてないのか? そな、ブス~ッとしとらんで、お互いさっくばらんにいこうや」と、猫なで声の花菱。
あら? 別に意気投合したつもりはないが。親しみある物言いなのでウザったいとまでは言わないけれども、なんとなく面倒くさい。遠慮というワードを辞書から省いたような人だ。どうせまた僕を下ネタにして笑い転げるつもりに決まっている。見え透いてらぁ。
「本番をしたことはあるんか」
「そこまでホジくります?」
「耳クソ掃除か」
なに、その小ボケ。滑りすぎてズッシ~ンと尻もちをついてしまいまんがな。
「んじゃなくてぇ〜」
「いいじゃないか、男同士の会話だろう」
この助平ジジイがぁ。その歳になってもまだ更衣室を覗きたいんですかぁ!
「相手が好いてくれてる場合なら、たまにありますよ」
「なんと! そりゃ、いかん。危機管理がてんでなっとらん。最近の風俗嬢は昭和の女みたいに寛大じゃないんだ。これは一般女性にも通じることだぞ。実は日本の出生率が下がってきとる要因の一つもここにあるんじゃ。だぶんマゾ女が増えたせいじゃろうな。マゾなら自己犠牲的だと思ったら大間違いじゃ。反動形成で符号が逆になるんじゃよ」
「いや、迷惑かけないようにゴムはつけてますから」
「アホたれがぁ! そういうことを言うちょるんじゃなかぁ。今は不同意性交等罪ちゅうのがあるんじゃ、君も聞いたことぐらいあるだろう。たとえこっちが金を払うにしても、相手に明確な同意の意志を確認できなきゃ、やっちゃいかん。相手の出方によっては逮捕されるぞ」
「まさかぁ。やらしてくれた人はみんな優しかったですよ。そんな意地悪しそうな人じゃなかった」
「アホか。優しくするのはこれからも店や自分に金を運んでほしいからだよ。君を好いて優しくしてくれるんじゃない。“地獄の沙汰も金次第”というのは風俗嬢ならではの感性だ。それに君が気づかないだけのことだわい。もっとも今じゃ老若男女ひっくるめて、まるっとバカ日本人全体の感性になっちまったがな。せっかく危うい経験をしとるのに、そこから何も学んどらんとはのう。呆れたもんだ。たとえばソープに行ったんなら行ったで、かのアルキメデス原理レベルの発見ぐらいしてこんかい。これだからお花畑ニイチャンは困る。子供じゃのう、明日からランドセルを背負って小学校に通学しなおすか。今まで問題が起こらんだったのは、君が先方を怒らせんだったからじゃ。それと運が良かったというのもあるな」
「といいますと?」
「飲みこみの悪いやっちゃのう。すなわち大多数の風俗嬢にとってみれば、君は見るからにハズレ客だ。じゃが予想に反して、金はちゃんと払うし、小難しい政治や哲学の話を長々と聞かされるわけでもないし、ましてや怒鳴ったり手を上げたりするはずもない。もちろん相手が嫌がれば決してアレもしない。というか、できない。小学校でいじめられるような弱っちい性格だからな。それが今までぎりぎりセーフだった理由じゃ。風俗嬢にとって君はどうでもいい、いわば空気みたいな存在なんじゃ。加えて“傷つければ傷つけられる”の因果の道理もちゃんと心得とる。因果の道理に即して生きなきゃと思っとるおかげで、これまで悪運・悪縁を避けて通れたんじゃよ。けどな、全員そんな慈悲深い女ばかりだと高をくくったら、とんでもない読み違いだ。そのうち痛い目をみることになるぞ。君は知らんだろうが、ロッキード事件で爆弾証言をして田中角栄を追い込んだ女がおる。名前は忘れちゃたが、いわゆる“蜂は一度刺して死ぬ”という名言を残した女だ。女を甘く見ちゃいかん。女は恨みが昂じれば、刺し違える覚悟さえもつ生き物だ。蜜蜂は自分の内臓がちぎれても刺すべき相手は刺す。自分が致命的なダメージを負おうが、そんなことはお構いなしだ。何をやらかすか分からん。一国の総理大臣すら窮地に陥らせるぐらいだからな。もし君が高身長、高学歴、高収入の三高で、風俗嬢が惚れてセックスに至ったとする。実際には三低の君が女に相手にされるはずはないんだが、惚れたというのはあくまでも仮の話じゃ。だが君は店に通うほどに女をボロ切れのように扱うようになり、口汚く罵り、おまけに最後には暴力までふるいだした。どうなると思うかね。可愛さ余って憎さ百倍だ。女は忘れた頃に、意趣返しで不同意性交を持ち出す。裁判沙汰だ。おそらく君は負けて人生がおじゃんになる。こんなふうに、女を甘く見ると後々どれだけきついお仕置きをされるか分からんのだぞ」
「じゃ、どうしたらよかんべ?」
「君はアホか。やっぱり本バカじゃて」
「また本バカですか」
「“本バカ”がお気に召さないのなら“真性バカ”でもいいぞ」
「ただ言い換えただけじゃないっすか。中身は一緒っしょ」
「なに“ショ、ショ”言っとるんじゃい。ショ、ショ、証城寺の狸ばやしか。ちゃんと日本語を話せ。最低でも隠し録音して同意の証拠を残すんじゃ。スマホなんかの映像があればなおいい。いざというとき身を守ってくれる」
「え? そんなことまでするんですか。盗み撮りなんて変態のすることじゃないっすか」
「君は変態じゃろう」
「勘弁してくださいよぉ。カナちゃんからもノーマルだってお墨付きをいただいてるぐらいですから(霞ゆく夢の続きを〈1〉─9)」
「カナちゃん? 誰じゃ」
「風俗嬢です。振られちゃいました」
「馬鹿かぁ、風俗なんてただのエンタメじゃ。風俗嬢に振るも振られるもあるもんか、お子ちゃまランチがぁ。そんなもん、鮑の片思いにもなっとらんわ。で、どこで知り合った」
「SM店で」
「なんとぉ? そら見ろ、やっぱり変態じゃないかぁ」
「いえ、彼女によればどう見ても僕は正体バレバレのノーマルな原始人だって。いや、原始人とまでは言ってなかったかな。もう忘れちゃいました(霞ゆく夢の続きを〈1〉─9)」
「なるほど君の脳ミソはまったく進化せんからな。まあ、プロがそう言うならそうなんじゃろうが、君はオカマじゃろう。変態じゃないか」
「うんもぉ~、変態にしたけりゃご勝手に。けど録音や盗撮したんじゃ、ロマンチックもヘチマもあったもんじゃないですか。百年の恋も一時に冷めちゃいますよ」
「なに中学生みたいなことを言っとるんじゃ。満員車両の痴漢冤罪のことを考えてみい。証拠がなければ濡れ衣をはらすことは難しいぞ。最近の女の娘を甘くみちゃいかん。こと下半身マターに関しては、女側に有利なように社会規範も法律もできておるんだ。録音や盗撮したんじゃロマンチックもヘチマもあったもんじゃない、とな? なにママゴトほざいとるんじゃい。風俗通いの持てない男が恋だ愛だとぬかすな。何が百年の恋だ。どうせその場かぎりじゃろう。次回行ってみたら、もうその娘は店をやめとるとしたもんじゃて」
それってカナちゃんのことじゃないか(霞ゆく夢の続きを〈2〉─15)。どうやら事情を知ってるな。知ってて、からかってるのかも。
「‥‥‥‥」
「黙っとるところをみると図星だったな。そんな生っちょろいことを言っとるぐらいだから、過去を省みず何度も何度も小説を出版社に送り続けるんだ。少しは現実を見つめんしゃい。この甘々がぁ! 小説家なんて君みたいなヤワな神経じゃとてもつとまるもんか。万が一小説家になれたとしても、生涯食うや食わずの貧乏作家だ」
「それ、ぜんぜん関係ない話じゃないっすかぁ」
「かつて勝新太郎がコカインをパンツに隠し持って捕まったが、君も彼にならってパンツん中に保冷剤を入れたらどうじゃ。いいかげんチンポコがオーバーヒートしとるわい。おらおら、少しは冷やさんかい、ぽこちん。じゃなかったポテチン‥‥‥しまった、これは箱村の定番パクリギャグじゃわい。他人様のカラオケ持ち歌、十八番をしれ~と選曲しちゃマズいよな」
花菱がまた笑い出した。やっぱり思ったとおりだった、また下ネタにされてしまった。こんな下ネタのどこが面白いんだろう。今にも腹太鼓を叩きだしそうだ。ほんとによく笑うお爺ちゃんである。
「赤井君、安心しろ。ワシは勝新と違ってちゃんとパンツは履いとるからな、ワッハッハッハァ」
「おっ、来たぁぁぁぁぁ! とにかく明るい安村の“パンツ履いてますよ”ギャグ!」
「なんだ、そりゃ。なに訳の分からんこと言うとるんじゃ。勝新の“もうパンツは履かない”騒動を知らんのか。ああ何たるかなぁ、世代ギャップだ。なんでかいな、勝新のこの不祥事はちょっと前のことに思えるんじゃがなぁ」
「履くのが嫌ならTバックでも頭からかぶっといて下さい」
「なん? ワシャ変態かぁ」
「いえいえ、これは勝新に言ったんです」
「こらこら、故人を侮辱するな。君もいつかは故人になるんじゃぞ」
「てへっ!」
「“てへっ”じゃない。あのなぁ、人というのはよほどの悪人かよほどの善人を除いて、だいたい同じなんじゃ。君も勝新と同じでいつかは死に、勝新と同じで喜びも苦しみも人生で経験する。みんな同じ、似たり寄ったりだ。人間たるもの、あえいでいるのは、みんないっしょだよ。だから仏の慈悲はどんな人にも平等なんだ。君はなんも分かっちゃおらん。ワシャ神通力で見通せるんじゃが、君は今度こそ自力で救われてみせると意気込んで、わざわざ生涯独身を運命づけてこの世に生まれ出ているんじゃぞ。生れる前の話だから分かんないだろうがな。なのに何というザマかね。俗世に染まりすぎだ。性欲まみれの色坊主じゃな。自分の顔を鏡でよ~くのぞいてみんしゃい。見るからに顔から“女が欲しい”の垂れ幕が下がっておるぞ。若いうちからこれじゃ、はなから自力救済は無理じゃろて。だいたい君みたいなグータラでスケベな人間が難行道を歩めると思うのかね、ド厚かましい。ワシらとおんなじで他力本願で阿弥陀サンが救ってくれるのを待つしかなかろうのう。もっとも自力で救われた奴なんて未だかつて見たことないぞ。まあ、広い世の中には一人か二人ぐらいそんなスゲー奴がおるんかもしれんが、少なくともそれは百パーセント、君じゃない」
「いったい何の話ですか? あの、色坊主って、僕、お坊さんじゃないですよ」
「なにも分かっちゃおらんな。法衣をまとっている者だけが僧侶じゃない。生を明らめ死を明らめようと努める者は皆、僧侶じゃ。赤井君、君の書くノベルは何を述べる?」
「それ、駄洒落を言いたいだけなんでしょう」
「なに言うてまんねん。モチーフを尋ねておるんじゃ。君のノベルの主要テーマは“やがて死ぬことが分かっているのに何故生きなければならないか”じゃろう。生死の理を明らめようとしとるじゃないか。在家じゃとて、仏道に帰依することには変わりがなかろう」
なんじゃいな。花菱はいったい何を語ろうとしているのか。この人の脚本は不要なト書きが多すぎて困る。
「それを、だ。それを、生死の理を明らめる尊い使命があるのにもかかわらず、なんたるかな、毎夜風俗通いの本格的な色坊主になり下がりよって! 結構なお得意さんじゃて。いまや小倉の風俗産業、どこもかしこも顔パスで入っていけるんじゃろう。なんとまあ〜ぁぁぁ、頭の中は煩悩だらけ。耳元で除夜の鐘でも鳴らしちゃろか」
ありゃ、本格的な色坊主にされてしまったぞ。さっきから色坊主、色坊主って、なんのこっちゃ。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください。そういう難しい話は、僕、頭わるいんで分かりません。話を一語一語、じっくり吟味しながらでないと」
いいかげん持て余した赤井君がそう言えば、
「話が理解できんのは、ずっと上の空で聞いとるからじゃ。ワシの話を風みたいに右から左へ受け流しとるんじゃろう。いつお笑い芸人・ムーディ勝山になった。君は穴の開いた網戸か。風通しがよくなるのはいいが、虫が入ってきて脳ミソがバグりまくりだ‥‥‥おっとこれはイマイチかな? だいたい“僕、頭が悪いんで”って朝ナマの田原総一朗の口癖じゃないか。アイツの真似しとるんか。頭わるい奴が自分は頭がわるいなんて言うか、いくら君が情報処理速度の遅い低偏差値男だとしてもな。ほんとに頭の悪い奴は自分を利口そうに見せようとするじゃろうが。実際は反対なんだよ。例えばじゃ───例えば正直者が“自分は正直だ”なんて言うか? そんなこと言わん。そのセリフは不正直者が相手に自分を正直者と信じさせたくて言うんだ。逆なんだよ。それに君、なんとか言っちょったな、そうか、“じっくり吟味しながら”だ。吟味しながらって、言葉の一つ一つにルビをふってほしいとでもいうのか。よ~し、腕が鳴る。示唆するところが汲み取れんと言うのなら、頭脳明晰なワシがもっと詳しく、かつ平易に解説してやるとするか。じっくりと、ひとつひとつ噛んで含めるようにな」
ヤル気満々の花菱である。
───わっ、大変だ。なんでそうなっちゃうの?
「ちょ、ちょっと、噛んじゃ駄目でしょう。金メダルじゃないんですから」
「あん? つまらんボケをかまして、なんで慌てて逃げようとするんじゃ」
「あの、池上彰レベルってのはもういいです、いいです」
「ホントにいいのか? ワシは知性を出し渋るような、ケチな了見の持ち主じゃないぞ。知識欲が疼くじゃろう、痩せ我慢すんな。フランシス・ベーコンいわく“知は力なり”じゃないか。まさか君はトランプも泣いて喜ぶ反知性主義者でもあるまい」
凝ってもいないのに肩たたきされても痛いだけだ。2、3日前に“僕は実生活で本当に役立つ知識しかそそられない”と言ったばかりじゃないの。どーなってんねん。忘れたんだろうか。じゃなければ、大したしらばっくれぶりだな。厚意の押し売りはアダになりますよ。本音は自分が話したいだけなんじゃないのかな〜~ぁ?
「あの、ホントにいいです。池上彰レベルってのはいい加減、合言葉みたいになってますから。それに‥‥‥」
「それに、なんだ」
「僕、最近はピンクゾーンをうろついてませんよ」
「え? そうなんかい。はてさて、スケベな君がうろつかなくなったのは何でかいな」
「あのお~~、実はある人と遇ってからというもの、その気が失せちゃったんです。なかなか魔法が解けてくれなくて」
「ほう、ある人って?」
花菱はこういう話にすぐ食いついてくるから困る。
「内緒です」
「うんまあ、カニを茹でたみたいに顔が赤くなったぞ。恋の病にかかって愛しい人で頭が一杯ってか? 鯉のぼり男が恋をするなんてシャレてるじゃないか。それって初恋なのかぁ? 一途な恋、青春の真っ盛りじゃないか。じゃが、なんか君には似合わんなぁ。♪あなたと逢ったその日から恋の虜になりました、てか?」
「それ、“恋の虜”じゃなくて“恋の奴隷”でしょう。♪悪い時はどうぞぶってね、あなた好みの、あなた好みの女になりたい~~ピシッ! ;~Q~)アン!イイッ」
「やっぱりこの流行歌は君には似合わん。それに何で奥村チヨの昭和歌謡の名曲を知っとるんだ。さては懐メロ番組でも見とるんじゃな。かの華やかなりし古きよき時代、懐かしいのぉ。あの頃は性もまだ奔放で自由じゃった。女も男に寛大だったしな。そうか、君は風俗に通ううちにSMに目覚めたんだな。あんなのセックスレスのジジババの遊びじゃぞ。いい若い者がハマるもんじゃない。性欲は歳とともに弱まっていくもんじゃ、とくに男はな。だからこそ若者に手抜きされちゃいかんのじゃ。日本国繁栄のために、血気盛んな若いモンにはなるべく若い時期に子づくりに精一杯励んでもらわにゃ困る。子供は放っておけば泉から湧いて出てくるもんじゃないからな。ちゃんと後世にバトンを渡してもらわにゃ」
「それって説教なんですか、ふざけてるんですか?」
「こりゃ失敬。じゃが、ふざけてるのは君のほうじゃろう。ああ、初恋かぁ、無垢じゃのぉ。若菜集か。よぉよぉ、今日は島崎藤村づくしかな? まだあげそめし前髪の~~ってかぁ? 永遠の愛でも誓い合ったのか。どうせママゴト遊びじゃろう」
島崎藤村に強引にからめてくるのはアンタじゃないか。
「よして下さいよ、子供じゃあるまいし」
「なんじゃい、君はまだ思春期のガキだったのか。思春期なら、もろ子供じゃないか。AKBなんちゃらとかいうグループがあるだろう。まさかああいったタレント娘を好きになったんじゃあるまいな。君の手の届く相手じゃないわい、罰当たりが。握手会の後はずっと手を洗わないとか。なにやっとるんじゃ、ほんまアホちゃうか。はてさて悩ましいことよのぉ、そんなアホ未成年の君を働かせてもいいもんじゃろうか」
「またまたぁ、勝手にストーリーをつくってっちゃうんだから。とうに二十歳は過ぎてますよ。知ってて面白がってるんですからお人が悪い」
「二十歳かあ、若いのぉ。成人式の晴れ着がそのジャージとは、君もつくづく哀れな男じゃ。ああ、かわいそうな赤井君、思わずもらい泣きじゃ。涙がとめどもなく流れるわい」
そう言いながら花菱はせせら笑っている。
「僕、成人式に行ってないですから。気づかぬうちに過ぎてました」
「思春期───それは愛と性欲の間の泥沼を這いずりまわる多感な時期。異性という名のニキビの膿を無理やり取り出そうとする時期。あるときは指で押し出し、ときには針をつきたてることもある。陽に焼けた垢だらけの肌を爪で擦りながら女の太ももの白肌を想う時期。爪の間に詰まった赤黒い垢と血の汚れは、そのまま君自身の人生の汚れでもあるんじゃ。若さは甘酸っぱい香りを残して、シャーベットのように溶け去る。汝、溶ける前に十分味わい尽くしたまえ、この鋭敏なる今を‥‥」
なんだか分からないが、この場にそぐわぬ詩的なフレーズを並べだした。急に自己陶酔しだすから厄介だ。素晴らしいポエムのような気もするが、大したことないような気もする。いずれにしても抽象的すぎて何を言わんとするのかサッパリ分かんない。
「おい、ちゃんと味わっとるか」と花菱。
「はい、もちろん」
「ならワシがどういうことを語っとったか、かいつまんで言うてみい」
あらあら、そう来るか。
「あの、“ちゃんと味わっとるか”って」
「アホ、その前じゃ」
「忘れちゃいました。てか、ポエムをかいつまんだら失礼でしょう。要約するのは国語のテストだけで十分です」
「言い訳するな。なんの言い逃れにもなっとらんぞ。いつもワシが度忘れするのを心の中で笑っとるからじゃ。そうだろう」
「すみません。でもあれ、見事な爆笑芸です」
「“人は何を笑うかによってその人格が分かる”───ゲーテはうまく言ったもんじゃ。年寄りのズッコケがおもろいなんて、Z世代の笑いのツボはどこにあるんだ。昭和初期世代にはそのセンスが全く理解できん」
その言葉、そっくりそのままお返しします。僕も社長のツボがわからない。とんだ指圧師泣かせでんがな。
「で、“ある人”って誰じゃ。どうせ子供の恋煩いじゃろうて。はてさて、恋のキューピッドは誰の矢で君のハートを射ぬいたのでありましょうか」
振り出しに戻ってしまった。この話、忘れていなかったようだ、忘れてくれればよかったのに。興味津々である。健忘症の花菱もさすがにこれには栞を挟みこんでいたようだ。忘れてほしくないことは忘れて、忘れてほしいことは忘れない───うまくいかないものだな。
「他人の秘密を根掘り葉掘り、暴露系ユーチューバーにでもなるつもりなんです? 生き仏だからその人が誰だか見通せるんじゃないっすかぁ、それこそ持ち前の神通力かなんかで。なにも僕に無理に言わせなくても」
花菱が僕の顔をじっと見つめる。だが、目を凝らしじっと見つめているようでいて、微妙に焦点が合っていない。目が小さいのでよくは分からないが、うまく像を結んでいないような気がする。目は心の窓と言うが、窓が開け放しで風がふきぬけていく。
「どうしたんですか。老眼で僕の顔がボンヤリしてるんですか?」
「近くが見えないのは、幸福の在り処といっしょじゃわい。幸せは近くにあるのに、凡人は遠くばかりを探しておる。どうじゃ上手いじゃろう。こういうのを一流のエスプリと言うんじゃぞ、学べよ。さて、それは置いといて‥‥‥しかし誰かいな、見えてこんなぁ。シグナルが来てくれん。赤井君、ちょっと黙ってそのまま待っとれ。カップヌードルも三分待たなきゃ食えんだろう」
え! この爺さん、ほんとに神通力あんの? 目は心の窓ともいうから、いっそ目を閉じとくか。まさかとは思うが知られたら困る。
不安な思いが操り人形のように宙に舞っている。緊迫感に神経の線が互いに擦りあっている音が聞こえてきそうだ。花菱は僕を見つめ続ける。早く終わってくれ。時計のきざむ一刻一刻が鉛となって重く肩にのしかかる。
花菱はさっきから僕を突き抜けて、遠近法の通じない何処か別の空間を眺めている。この場所でなく、遠く離れた見知らぬ国の異教徒を見つめる眼差しだ。そして眼差しともに彼の意識もまた、ここではない遥か彼方の世界にある気がする。
「やっぱし見えないんでしょう」
「いや見えることは見えるんじゃが、二人の女が重なって見えるんだわ。なんだこりゃ。おいおい、両手に花かよ、君も隅に置けんな」
え? 二人?
「え~い、浮かんでこん。生き仏のワシとしたことが。情けない」
生き仏かぁ、デタラメもいい加減にしてもらいたいもんだ。そう言えばこの顔、布袋サンにも似てるんだ。ウンそうか、布袋は七福神だから神だ。じゃ、仏じゃなくてアンタ、神さまじゃないのか。
えい、下らない。そんなのどっちだっていいじゃんか。神と仏の区別さえよく分からないくせに、なんでこだわる。さっきの花菱が言ってたセリフ、「ワシャ生き神じゃない、生き仏だ。そこんとこ、間違えんようにな」(霞ゆく夢の続きを〈8〉─54)が妙に記憶に残ってるせいかなのかなぁ。
「誰じゃそれ。言ってみなはれ」とついに匙を投げた花菱。
「まあ、まあ、まあ、まあ」
「ほらほら、心の内側から鍵をかけようとすんな。言うとなんか差し障りがあるのか」
「ギクッ!」
どぎまぎする赤井君。そこに花菱がかぶせてくる。
「具合の悪い事情がありそうだな。その事情も言ってみなはれ。悪いようにはせんから。のぉ、世の中は持ちつ持たれつじゃないか。言ってくれれば、いい解決策を提供できるかもしれんじゃろう。水臭いこと言うな」
水臭いと言う前にアンタのオッサン臭さを何とかしてくれ。花菱は揉み手でしつこく擦り寄ってくる。相当の粘り腰だ、嫌になる。
「ご勘弁を。パスさせて下さい」
「仕方ない。気になるが、言いたくなけりゃよかろう。個人のプライバシーじゃから無理強いはせん。どうせモテないニイチャンが義理チョコを配ってもらって勘違いしてるだけのこった。本命彼氏が別にいることを知らんでな。な〜にいずれ分かることじゃ。勝負は時の運だと思って、今はせいぜい頑張りんしゃい。はてさて燃える恋の行方はいずこへ。君お手製の苦心作と同じで、最後には燃えるゴミに分別回収されて焼却炉いきじゃろて。はい、ご臨終です、チ~~~ン」
「失礼しちゃいますね」
「ゴメンゴメン、しかし風俗に行かんことなったらアレがたまるだろう。相手かまわず見切り発射して犯罪者になってもらったら困るぞ。ワシャ、君の親がわりだからな。さてさて女に恋をして、君から風俗通いがなくなったら何が残るんじゃろうか。ジャージしか残らんのじゃないか? 追い剥ぎに遭ったらどうするんじゃ。それこそ透明人間じゃな。まさか恋をしたのは女じゃなくて男じゃあるまいの。ホモホモレモンはやめとけ。どっちが女役をするんだ。君か、それとも相手か。迷うじゃろうが。プレイするとき、どっちが攻め役でどっちが守り役なんかい。ねじ込む雄ネジはどっちで、ねじ込まれる雌ネジはどっちだ。白馬に乗った王子様がどっちで、夢見るお姫様はどっちなんかい(♂? ♀?)。そうか、分かったぞ、押忍! 小ぶりだから君がお姫様なんじゃろう、メッス! カボチャの馬車に乗って王子様のお城に行くんか〜~い。ひらひらフリルのついたドレスを着て、お姫様になるんか〜~い。気色わる〜~ゥ。せいぜい掘られまくって切れ痔にならんよう気をつけるこった。相手が男で、よくチンコが蒟蒻みたいにフニャフニャにならんもんだ。行く末は婚約でもするんかい」
花菱がからかうように、そう言う‥‥‥というか実際にからかっている。花菱の猥談好きにも困ったもんだ。蒟蒻と婚約ってか? しょーもな、またズッコケ駄洒落でんがな。
「おっしゃる通り、どうせ僕なんて生まれてこのかた、ずっと透明人間です。誰も僕の存在なんて見えてない。それでいいんです、これから嫌なことがあっても透明人間になって生きていくんです」
「透明人間は元からってか。急にそんな真剣な顔して言うなって。ぜんぶ冗談なんやから。そうか、さっき“君は毒の塊で、デトックスしたら後には何も残らん”と言われたことを根にもっとるんじゃな(霞ゆく夢の続きを〈8〉─54)。執念深いな。だからって、どうせ僕は透明人間だなどと居直らんでもいいじゃないか。お釈迦様も“石に字を刻むようではなく水に字を書くように、悪口は聞き流せ”と教えておるぞ。だいいちアレは悪口を言ったんじゃない。人間、誰しも三毒の塊じゃ。貪り、怒り、愚かさ、その他もろもろの煩悩をこねあわせて作った毒饅頭じゃい。君だけじゃない。全員いっしょだ。全員、神や仏とはぐれた迷子じゃ。みんな毒を除いたら何もなくなる。透明人間だよ」
「人に喜怒哀楽の情がある限り煩悩から脱するのは無理でしょうね」
「君は自分をことさら透明人間って言いはるが、“ここにいるのに姿が見えず”って自分を卑下でもしとんのかぁ? “僕って存在感がないから”とふて腐れとるんかぁ? 透明人間は見えないからアリバイ証明ができんじゃないじゃないか。君の生きた証をどうやって残すんだ。じゃがワシには姿がはっきり見えとるぞ。透明人間だなんて、そんな切ないことを言うな。君は最低でもオカマのお姫様だ。“ここ掘れワンワン”とで周囲に吠えまくってやれ。いつか君の魂の色は限りなく透明に近い色だと言ったじゃろう(霞ゆく夢の続きを〈7〉─50)。これ、忘れちゃったのか? 若いからちゃんと憶えとるじゃろう。透明に近い色だということは、それだけ煩悩の毒が薄まっとるということじゃ。つまり仏にそれだけ近づきつつあると解釈できんこともなかろうが」
「もちろん憶えていますよ。しかしそれって、それこそ字面どおり死んで仏様になっちゃうってことなんじゃないっす?」
「そりゃ知らん。ワシでさえ分からんことを君が分かるわけないじゃないか。君は金魚じゃ。金魚鉢のなかの金魚は飼い主が餌を上から蒔いてくれていることは分からんじゃろう。金魚は“何か知らんが、食い物が上から降ってくる”ぐらいの認識しかない。君もそれと同じじゃ。いいか。知らないということを知ることが、真に知るということなんだ。君には阿弥陀仏の慈悲の深さは到底わからんよ。じゃが、君の人生の筋書きを読む限り、そんなに早く死ぬことにはなっとらん。自信を持て。自分を信じるから、自信っていうんだぞ」
この人、箱村と同じことを言う。言い出しっぺはどっちなん。震源地はどっちだ。ん? 地震? シャレでんがな。よりによって“ここ掘れワンワン”とは。何を掘れってんだ。まさかあそこじゃないだろな。その気の全くない男が話の流れで強引にオカマにされちまって、どうやって自信を持てというんだ。
「赤井君、そんなに自信がないのなら応援歌を歌ってやろう。♪赤井君、がんば!‥‥ソ~レ、赤井君、ファイト!‥‥♪」
花菱が腰をふりふり、歌い出した。どん引きだ。チアガールのつもりらしい。きつねダンスならぬ豚ダンスである。酢に浸したかのように体をクネクネ───うんもう~、そんなことはやめてほしい。踊るならリオのサンバフェスティバルで踊ってケロ。
「その歌と踊りやめてもらえません? めっちゃ個人的な意見なんっすけど‥‥‥‥」
「なんだ、言うてみい」
「そのパフォーマンス、かなりエログロですよ。もろ閲覧注意です。そのうちバンされますよ」
「なにピンボケをかましちょる。君が恋したと言うんで親切心からラブソングを歌ってやっとるんじゃないか。恋する思いをメロディーとダンスに乗せて‥‥そりゃ、♪赤井君、がんば、がんば!‥‥‥リクエストあらば次はkポップの女性アイドルグループみたいにマイクロミニで踊っちゃるぞ。ほれ、悩殺チラ見せじゃ、ほれほれ」
え? 次もあるの? わぁ、よしてくれ。想像するだに目が腐る。
「じゃが考えてみれば、いくらコソ泥でもそんなボロを奪おうとする物好きはいないかな。服をはぎ取られなきゃ君は透明人間にならんでええじゃないか。のぉ。大袈裟言うない、透明人間なんて被害妄想じゃ。しかしそのジャージ、いつも同じのを着ているから着続けるうちに徐々になじんで、不思議としっくりしてくるもんじゃなぁ。ブティック店員じゃなくても“お似合いですよ”と言うぞ。君は体育教師か。もとい、エロ体育教師か。ボロを着るのがすっかり板についとる」
変な歌と踊りはやめたので一安心と思ったら、う~ん、次は削りにきたか。そこまでこき下ろされたんじゃ、逆に自信がぐらぐら揺れちゃうじゃないの。この活断層ジジイがぁ。普通そんなこと、面と向かって相手にいう? 直下型地震じゃおまへんか。
調子ぶっこいて、チアダンスに続いてピョンピョン縄跳びしだしたりすんなよ。それこそメガトン級の大震災になってしまうじゃぁあ~~りませんかの“チャーリー浜”だ(あの吉本新喜劇の。知ってる?)。
「社長はグータラも板についていると間接的に皮肉ってるんでしょうか」
「お、当たり。感度がよくなったじゃないか。しかし君がその恰好で東京ガールズコレクションに登場したら、観客はドッと沸くじゃろうな。モテモテの花形千両役者ばい。満場の拍手喝采を浴びるぞ👏‥‥パチパチ。もちろん観客はもっと馬鹿を演じさせたくて拍手するんだけどな。君はそのことが分からず、“これが流行の最先端だ!”なんて絶叫したしてな。“こいつ、アホまる出しや”ってな感じで、場内大盛り上がりだ。シャボン玉ホリデーの植木等ばい。“お呼び出ない? こりゃまた失礼いたしました! ガチョ~~ン!”」
からかわれて、こっちは大盛り下がりだ。花菱の人を食った態度にはいつも閉口する。
「“ガチョ~~ン!”は谷啓でしょう」
「なんで君がそれを知っちょるんだ。まあ外回りの営業マンじゃないから別にそれでいいよ。いくらセールスしても君から買う客なんて誰もおらんしな。生涯労働者階級の君が着なれぬスーツをまとったところで、値札がついたまま気づかないのがオチじゃろて。まあ、穴の開いたジーンズをはかれるよりマシじゃわい。しかしなあ、穴の開いたジーンズがファッションなんかい? あれだけは昔から納得できんのじゃ。ああいうのが近頃はやりのSDGsちゅうもんかいな」
「あんまり関係ないと思いますけど」
「それにしてもジャージ、よく似合うのぉ。それ、君がジャージを着とるんじゃなくて、ジャージが君を着とるんじゃないのか? 装いも新たにピシッとしたスーツを着て出勤してきたのも遠い昔じゃわい。君はゼレンスキーなのか」
ことさらジャージにこだわる花菱である。
「意味、分かんないっす。ゼレンスキーじゃ駄目なんですか。カッコいい男じゃないですか、あんな風になりたいです」
「誤解すんな、ワシは一国の大統領を服装で小馬鹿にするトランプとは違う。見くびってもらったら困るな。相手の立場や服装で態度を変えるような、卑しくて打算的な人間じゃないわい。打算で事をなせば、結局最後には巡り巡って自分が痛手をこうむることになる。悪意でそうすれば、なおさらじゃ。いずれにしても、そうなるのは時間の問題じゃよ。これはお釈迦様も言ってることじゃわい」
「さすが生き仏ですねぇ。でもほとんどの人間は多かれ少なかれ打算的なんじゃないっすか? もちろんそれを恥じるかどうかで魂レベルに差がでてくるんでしょうけど」
「まだ悟りを開いとらん身で偉そうなことをいうな。確かに人間はそうだ。人である限り煩悩が尽きることはない。じゃが、仏は違う。だからワシも違うということだ」
あらまあこの人、ホントに自分を生き仏と思っているらしい。気は確かなんだろうか。
「しかし何だな、太っちょトランプはいいかげん大統領をやめてくれんかのう。大統領にさえならなきゃ、イランの小学校を誤爆して大勢の罪のない子女を殺さずにすんだだろうに。奴が大統領でなけりゃ、ホルムズ海峡を通せん坊されて石油が来んくなることもなかった。アイツのおかげでフン詰まり、ならぬ油詰まりじゃ。便秘薬がいるぜよ。便器が詰まってぜんぜん流れてくれんのじゃあ、話にならん。ウンコも落ち着いてできんじゃないか。全世界、大迷惑じゃ。油断も隙もあったもんじゃない‥‥‥なあ、今の分かったか」
「分かりましたよ、“油断”でしょう。ねえねえ、そうやって意識してウケを狙うのもうやめません?」
「直に会ってみれば意外とナイスガイなのかもしれんが、アイツのおかげで“ヨッ、大統領”と一声あっても、ちっとも嬉しくなくなってしもうた。ワシはアイツが大嫌いだから、奴が何を言っても何をやっても全部気に食わん。でかい口を叩くわりにいつもビビッて逃げてばかりの、あんTACO野郎がぁ!」
タコはそのツルッパゲ頭もっしょ。身長は別にしても、彼の体型はアンタに似てんじゃないの?
「そういう社長はトランプに似てるんじゃないっすか?」
「デブだからか。アイツは外人だからデカいだろう。デブ同士でもワシャ、あんな超弩級のデブじゃないわい! 勝負にならん。ああいうのを正真正銘の百貫デブと言うんだ。♪デ~ブ、デ~ブ、百貫デブ、車に轢かれてペッチャンコってか? あんなガキの歌にでてくるようなメガトンデブといっしょくたにすんな」
「♪デ~ブ、デ~ブ、百貫デブ、デーブスペクターは痩せている」
「おい、勝手に作詞すんな」
「いや太ってるとかそういうことじゃなくてぇ‥‥‥似てるのはすぐ忘れちゃうところがですよ」
「あん? なんだ?(怒)」
「いえ、いえ、いえ、あの、この発言もさっさと忘れて下さい」
うん、これ、違うかもしれないな。この人は本当に忘れてしまうようだが、トランプの場合は本当は全部覚えていて、忘れたふりをディールの手段の一つにしているのかもしれない。
「あん? 何かようわからんが、ああいうイジメっ子が世界の表舞台からいなくなりゃ、飯ウマで日本のお米も少しは安くなるんとちゃうか」
「そうですかねぇ」
「なんでなんか。アイツは米国大統領だから、わざわざお米を引き合いに出してやったのに‥‥‥‥それにしてもアイツ、戦争ばかり起こしくさって。ベネズエラが終わったら今度はイランだ。どれだけ罪のない民間人を苦しめたら気がすむんだ。奴は爆撃に逃げ惑う民衆のことが想像できんのやろか。けしからん。トランプに因果の道理を教えてやりたいよ、どうせ信じないだろうがな。まあ、アイツがポシャりゃ“こういう生き方をすればこういう顚末を迎える”といういい教材になってくれることじゃろうて。もうここまで来たら“他人の振り見て我が振り直せ”しかないわな。まさしく“コメ・コメ・ウォー”じゃわい。なぁ、“コメ・コメ・ウォー”って歌、知っとるじゃろ? ♪コメウォー、コメコメウォー、コッコメウォー(^^♪。 これ、米米クラブの七枚目のシングルだ」
そんなの知らんがな。なんの関係があるんかい。
「あの強欲な虐めっ子がファイアーされたら、それこそ飯ウマだろう。消えてくれたら、もうどこの国もカツアゲされんじゃないか。カツアゲの心配がなくなりゃ、安心して食も進むじゃろう。なんでそう思わん」
「若者のなかにはトランプがやめたら飯マズになる人も結構いるんじゃないかなぁって気がして。僕は違いますけど。今はSNSで誤情報だけでなく悪感情も拡散されちゃう時代ですから。日本にもMAGAみたいにトランプを英雄視する人たちがいますよ」
「ホントかぁ? それがホントなら昭和のメンタリティーとかなり違うばい。なにが気に食わないのか知らんが、トランプは次々と自分より弱い国に爆弾落としたりミサイル撃ち込んだりしとるじゃろう。プーチンとどこが違うんだ。ほれ、弱いものイジメはよさんかい! アメリカはよくゲーム理論がどうのこうのと言うが、トランプがあれだけルール破りすりゃゲームだっておもしろなかろう。今の若いのはあんな男がすることや言うことに“いいね”をクリックすんのか。情というものがないんかい。彼らの思考や論理の中には人はいなくて、ロボットが住んどるんじゃないのか。世も末じゃ。最近の若いのは皆、ネット蛸壺に捕獲されたタコじゃな。洗脳されまくっちょる。思わず“この、タコ!”と怒鳴ってやりたくなるわい」
だからぁ〜アンタもだって。その禿げ頭、タコでしょう。横山ノックなんか~~い。助平なとこまで彼といっしょ。ひとつ大阪府知事にでも立候補してみまっか? 知事になったところで、すぐセクハラ辞任だ。(若い人にはこのユーモア、ぜんぜん通じないかも)。
「ずっと気になってることがあるんですが」
「なんじゃい、言うてみい」
「さっきから再々“生き仏”っておっしゃいますが、それメタファーかなんかですよね」
「何を言うか。正真正銘の生き仏じゃわい。世のため人のためにこの世に舞い戻ってきたんじゃ。すなわちここにいる花菱は地上の仮の姿だ。しかしてその実体は? 何を隠そう衆生救済の化仏、すなわち生き仏、エル・カンターレであ~~る」
へっ? エル・カンターレは大川隆法じゃん。エル・カンターレ生誕祭でもするつもりなのかなぁ。とうとう教祖様になってしまった。 “この世に舞い戻ってきた”ってのは、例の夢遮断法とかいうスカタン話の続きかもしんないなあ(霞ゆく夢の続きを〈7〉─50)。もう付き合ってられないよ。
「へっ?」
思わず心の声が出てしまった。
「なんじゃ」
「で、この前お話しされていた夢遮断法とかいうことについてなんですが」
「お、そうか。よぉよぉ、君も本格的に関心が出てきてくれたようじゃな」
「でも、なんか内容がまだもやもやしてて。具体的にどういうことをするんでしょうか?」
「つまりだ、つまり夢遮断法というのはだな、具体的にかいつまんで言えばだ、向こう岸とこちら岸を結ぶ渡し舟なのであ~る。以上」
え? “以上”ってそこから先はないの? こっちの方はかいつまんでもらいたくないのに。やっぱりだ、“具体的に”といくら尋ねようと抽象的な答えしか返ってこない。
「どうだ、簡潔明瞭じゃろうが」
「だから具体的かつ明快にお願いします」
「明快って、ディスクじゃないんだ、これ以上コンパクトにはできんよ。しいて具体的に言えばだな、例えば君はここにいながらにして“これは僕の体じゃない”という確信にも近い状態に至るということだ。これ以上は言葉で説明することはできん。悟りを得、解脱した者がその状態を言葉で説明することができると思うか? それが出来れば誰も苦労はいらん。言葉はしょせん言葉だ。言葉でありのままを説明することはできないんじゃ。じゃが、釈迦の対機説法がごとく喩え話ならいくらでもできる。どうだ、もっと喩え話で解説してほしいか」
ダメだ、こりゃ。
「喩え話ならもう結構です、どうせ納得できないですから」
「分からないことを分かろうとしなければ、真理は永久に分からないぞ」
「え? なんのこっちゃ。この話もういいです。それより、この前も訊いたかもしれませんが、死ぬのが怖くないんですか?」
「そうじゃとも、生き仏じゃからな。死は恐怖ではないよ。生きてよし、死んでまたよしだ。死は救いだよ。そのときが来たら君も分かる」
「へっ? 誰だって死ぬのは怖いんじゃないんですか? たとえ生き仏でも」
フンと鼻であしらう花菱。耳を貸そうとしない。
「さっきから“へっ、へっ”とオナラでもしたいのか。すました顔して、すかしっ屁ばっかすんなよ。鼻つまみ者になるぞ。ここですんな、臭いのはたまらん。スカンクか。なんも知らん奴だ。“芋の煮えたも御存じない”とは君のことだ。だからって芋を食い過ぎんなよ。ますます屁コキ虫になるからな。金輪際“へっ、へっ”と言うのとはサヨオナラせい!」
へっ? “サヨオナラ”って、小学生低学年のガキが友達とじゃれあって言い合うギャグじゃね?
「たとえこの世におったって、人は現在世だけでなく天国や地獄を行き来しとるじゃないか。まだ二十年そこそこしか生きとらん君だって、これまで君なりの天国や地獄を経験したじゃろうが!」と、りきむ花菱。
「まあ、この世のプチ天国とかプチ地獄みたいなものぐらいは」
「そうじゃろう。あの世もこの世もおんなじなんじゃ!」
「ふつう生き仏って、自分が生き仏だなんて言って回りますかね。生き仏って徳が高いんでしょ?」
「つべこべ言うな! まだ開眼しとらん下っ端の分際で、いらん横槍を次から次へと入れてくるわ。推測で語るな! 変わり種もたまにはおるんじゃわい!」
花菱がイライラしだした。怒らしてしまうのは嫌なので、これ以上深入りしないことにする。けれども、なけなしの知識しかない者が推測で語れないなら、ほとんど話せなくなっちゃうよね。やためったら付和雷同するよりマシっしょ。そもそも死後の世界のことなんて推測以外で語れるもんなの? 😢クスン
「あの世ばかりでなく、この世にも地獄はあるというのは認めたんじゃな」と花菱が確認する。
「そりゃ、まあ。北朝鮮みたいな悲惨極まりない国なんかはそうでしょね」
「この世に地獄があるなら、この世に極楽浄土があったって不思議はないな。これも君はいま認めた」
「ま、プチ天国と地獄は体験しましたから」
「浄土にいるのは誰じゃ」
「仏さまです」
「したがってこの世にも生き仏がおるんじゃ。分かったか、これが論理学ちゅうもんだ。真理は一つ。三角形の面積は底辺×高さ÷2じゃろう。これ以外にはない」
なんて? 論理学だって? なんて雑な理屈だ。穴だらけじゃないか。そんな口車に乗せられる人がどこにいる。
「話は変わるが、赤井君はそのジャージの色違いは持っとるんか」
ホッ、変わってくれてよかった。でもまたジャージの話題か、いいかげんにしてよ。
「いえ、これと同じのがもう一組あるだけです。特価で安かったもんで。代わり番こで着てます」
「毎日おなじものを着て飽きはこんのか」
「同じものを着るのは、毎朝決断する心のエネルギーを節約するためですよ」
「それ、だだのズボラじゃろう」
「見解の相違です(w)。でも着回しできるから色違いを揃えてもいいですね」
「着まわしって、君は上下色違いのジャージを着るつもりなのか」
「変ですか?」
「まあ、変と言うほどでもないが、変わっとるのう」
「最近は幸せ太りでゴムもきつくなってきてますから、MサイズからLにしないと」
「何しょーもない見栄をはっとる、SサイズからMサイズじゃろう。それで太ってきたっていうのかぁ? 嘘つけ、まだ痩せぎすの煎餅布団じゃないか。そんなんじゃ、ゾンビ級の低体温じゃろう。年を取ったらガンになるぞ」
「着痩せですよ。脱いだらお腹まわりがポヨヨ~ンです」
「はあ? そうは見えんぞ」
「分かんないんですか? いつも自慢してるほど違いが分かる男じゃないんですね、ダバダ~ダバダ~。知らないんですか? 冷や麦は素麺よりちょっとだけ太いんですよ。これ、極太ウドンの花菱社長に言っても分かんないかもしれませんけど」
「カマ揚げウドンのくせして、偉そうに。こざかしい奴だ。そんなこと言っちゃあカマへんで」
出ました~~、ズッコケ駄洒落の連打! 是が非でも僕をオカマにしたいようだ。
「ウドンは腰が命なんじゃ。君のウドンにゃ腰がない。なんだ、そのナヨ~ッとした腰つきは。そりゃ色気ムンムンの細身ニューハーフの腰つきじゃろう。♪ちゃらんちゃんちゃん〜〜胸騒ぎの腰つき、胸騒ぎの腰つき~~ちゃらんちゃんちゃんちゃん〜~ヘイ、カモンベイビー♩(◜◒◝)♩♪。君にサザンオールスターズの“勝手にシンドバット”が降臨したのか」
歌詞をこの部分しか憶えていないのだろう、他の部分は“ちゃらんちゃんちゃん”でごまかしている。それに何で最後が“ヘイ、カモンベイビー”になっちゃうんでしょうか。歌詞を知らないのなら歌うなつ~の。この~~ッ! ギトギトに脂ぎった、ソース味極太焼きうどんジジイが憎まれ口を叩くこと、叩くこと、ちゃらんちゃんちゃんちゃん。
「だから、そんな趣味はないですって。何度言わせるんっすか、ちゃらんちゃんちゃんちゃん。あれ? 伝染っちゃったじゃないですか!」
「よ~し、そこまで意固地になるのなら、ちょっと脱いでスッポンポンになってみんしゃい。この目で確かめちゃる。さあ、今こそ男を見せてみろ。いや女かな? う~ん、男女を見せてみろ。そんでもって確認のためにアソコもポロッと拝ませてくれや」
またまた破廉恥発言だ。スッポンポンの裸になれって、裸電球はアンタのハゲ頭の方でっしゃろ、このピカチュウ! 実際この人、初対面から僕をオカマと決めてけている(霞ゆく夢の続きを〈1〉─7)。あれからずっとだ。毎度のことだからいいかげん慣れた。男色家なのかも。おっとっと、いけねぇ。それだって決めつけじゃんか。
「はぁ?(怒) ずいぶんじゃないっすか」
「ワシらはトモダチンコじゃないか。なぁ、“おぼっちゃまくん”よぉ。赤井君を見てるとなんとなく“おぼっちゃまくん”の実写版みたいな感じがしてくるんだよな」
「またアホを言い出す。もう慣れましたよ。漫画みたいに“ともだちんこ〜”と叫びながら、僕の手を握って股間に押し当てないでくださいよ」
「アハハハ、冗談やがな。最近ようやく本気にせんようになったな。こりゃ、からかい甲斐がなくなったわい。いやな、あまりにもボーッと眠そうじゃから活を入れちゃったまでだ。君も夏大根のあの辛味を見習って、少しはピリッとしんしゃい。ついでにダラけた恰好もどうにかしてくれんものかの。気持ちを引き締め、気合を入れようとしたらその恰好じゃ駄目だろう。しかしそのジャージ、薄地じゃろう。今はいいが、真冬になったら肌寒いじゃろうて。もっと厚手のものも買いそろえんといかんのじゃないか?」
「大丈夫です、重ね着しますから」
「重ね着って、ジャージを重ね着するのか」
「ええ」
「下もか」
「ええ、ステテコとおなじでしょう。変ですか?」
「変と言うほどでもないが、それより君のオツムの方が変だ。なんせ発想が奇抜すぎるんでな。夏物と冬物の区別がないとは季節感ゼロじゃないか。なんや味噌も糞も一緒くたやな。君はアルミ缶とスチール缶をちゃんと分けてゴミ出ししとるんか」
「え? あれ分けなきゃいけないんですか?」
「市町村にもよるが、そんなの今どき常識じゃろう。よくこれまで自治会長から叱られんだったな。そりゃアカん」
それ、言うと思ったよ。
「お、またシャレでっか?」
「もうパブロフの犬になっとる。それはともかくとしても、少しは自治体の分別収集に協力せんか。君は公務員試験の問題集を読んどるんだろう。いやしくも公務員になろうとするなら、なおさら協力せんといかんじゃないか」
「箱村さんから聞きました?」
「公務員は小説家の滑り止めか」
「似ても似つかない職業ですけど、結局そうことになりますよね」
「公務員が職業選択の安全弁ねぇ。何や、そげん堅か仕事は君にはしっくりこんばい。まかり間違って小説家になったらなったで、空き缶や吸殻みたいにすぐポイ捨てされるに決まっとるから気の毒な話しじゃし。かといって君みたいにルーズな人間が公僕にでもなろうものなら、わが日本国も終わりじゃし。どっちがマシなんやろか。いずれにしても嘆かわしい就活やなぁ〜」
「御心配なく。なかば運試しです。どうせ小説と同じで一次試験ではねられますよ」
「そりゃ、どうかな。アルミ缶とスチール缶の分別も知らん馬鹿者が、国家公務員上級職に受かって環境省や資源エネルギー庁のキャリア官僚になるなんてことは、ほっても無いにしてもだな。地方の役所事務員になるぐらいだったら大して学力はいらんじゃろう。就職氷河期ならいざ知らず、近年の就活は学生優位の売り手市場だから、安定志向の公務員もかつてほどの人気はない。今はかなりなりやすいんとちゃうか。瓢箪から駒が出ないとも限らん。今まで君は不運続きだったから相当運命に貸しをつくっとる。神様がプチ幸運をもたらしてくれるかもしれんぞ。さて、どうなるかお楽しみじゃ。だいたいの筋書きは知っとるが、なんせ物語の加筆修正権は君が握っとるから予断は許さん」
だいたいの筋書きを知ってるんなら結果を教えてくればいいのにね。どうせ口から出まかせを言ってるだけだから教えることなんてできないよな。外れたときカッコ悪いもんね。
試験に受かるか受からないかなんて、いわば時の運だ。受かるはずの人が落ちて、落ちるはずの人が受かる。誰も完璧には予想できない。未来は誰にも分からない。鬼が出るか蛇が出るかでんがな。
花菱社長、運命をアンタ自身が開ける割合ってどんだけ~~。10パーセントもないんじゃないの? 運命は丁半博打。神はサイコロを振らないそうだが、小太りの生き仏様も振らないんであ~りましょうか?
「まあ、何はともあれ君のグ~タラにはてこずらされるわい。たしかによ~く見ると、以前の干物人間ではなくなってきたようじゃ。じゃが、ほんの少し腹が出てきたぐらいで見栄を張って幸せ自慢するな。ましてやダイエットなんてすんなよ」
「大丈夫、僕は無理してダイエットするには及びません。何もしなくても金欠病で強制貧乏ダイエットさせられてますから(w)」
「君は華奢すぎる。もっと太らにゃいかん。ワシは幼いころ戦後の飢餓を体験しとるから、ダイエットなんてもったいなくて、とてもする気になれんわ。この歳じゃ、病気になれば嫌でも痩せるんじゃからな」
「うひょ~ぉ、そんな頃から生きているんですか」
「そうだ、長い年月だ。悲しきかな、若い頃の白黒写真を見るとまるで別人みたいに思える。月日は残酷じゃ。じゃが、おかげでヘマしても歳のせいにできるから便利だ。太ってるから穴があっても入れないもんな(w)。人生経験豊富だから言うことをよく聞けば学びになるぞ。そこで君に辛口コメントだ」
「なんでしょうか」
「何度もくりかえすが、君は服装のセンスが無茶苦茶だな」
「またそれですか」
「いかにも浮ついた感じがする。ワシみたいに老けこんできたら自撮りはしたくなくなるもんじゃが、君はまだ若くてピチピチしとるじゃろう。なんで他の若者にならってセルフィーとやらをせんのじゃ。すれば少しは自分の哀れな姿を実感できるじゃろうに。君のズボラな性格は、その着古したジャージといっしょに一度クリーニング店に出して染み抜きしてもらわにゃいかん。たとえば浴衣は下駄ばきじゃろう。じゃが、君は浴衣姿なのに革靴を履いて夕涼みするタイプだ。ブーツファッションの坂本龍馬だよ。無骨すぎる。龍馬も“日本を今一度、洗濯いたし申しそうろう”などと粋がる前に、自分自身を洗濯してもらえってんだ。もちろん物ぐさな君みたいに、洗濯をサボって黄ばみ黒ずみのシャツを着とるようじゃ話にならんがな」
「洗濯は鬼の居ぬ間にしてます」
「ん? 鬼って誰じゃ。まさかワシのことじゃなかろうな」
「違いますよ。大家さんです、電気代がどうのこうのと騒ぐんで(霞ゆく夢の続きを〈1〉─3)」
「あんな倉庫に、よりによって人間が住めるとはな。ついでに君のそのアホな脳ミソも洗濯したらどうじゃ」
「住めば都ですよ。簡素な生活もそれはそれでいいもんです。ホーム・スィート・ホーム」
「簡素すぎるじゃろ。倉庫なんて出荷待ちの商品が一杯で手狭じゃろう。いいかげん引っ越しを考えてみんか。腰の重いやっちゃ。このビルの一室をタダで貸しちゃるとこのまえ言うたろう」
「それがですねぇ~、結構長いこと住んでるんですが、商品がずっと動く気配がないんですよ」
「商品が動かん? その店、潰れるんとちゃうか? まあいいや、潰れたら嫌でも君はおん出されるからな。このビルに住まんとおれんくなるばい」
「そう言えば最近やたら臨時休業が多いですね、大丈夫やろか。さ~て、いま引っ越すべきかそのまま居座るべきか、それが問題だ。センタクに苦しみますよねぇ」
「うわっ、おもろなか〜ぁ。ハムレット気取りでよくそんな洒落を恥ずかしげもなく言えるもんだな。大すべり、ならぬ猿すべりのモンキー箱村だって、体裁ぶってそんな陳腐な駄洒落は言わんぞ。そんなん、居酒屋でハイになった酔っ払いぐらいしか笑ってくれんばい」
すべるのはアンタもじゃないですか。とくにそのテカテカ禿げ頭からツルッとね。水鉄砲でそこにシャーッとやったら、ツルリンコでK点越えの大ジャンプでんがな。
「言ったもん勝ちでしょ? 花菱社長から学んだんですよ」
「ところで洗濯をサボるといえば、君は物グサを野性味と取り違えとらんかな? 正直に認めんしゃい。ワシの服装があまりにも洗練されとるから嫉妬しとるんじゃろう。だからハイカラの向こうを張ってバンカラにこだわるんばい。そのうち明治時代の学生みたいに学ラン、角帽、下駄ばきで通勤するんじゃなかと? 下駄なんかはいたら鼻緒が切れて縁起の悪いことが起こるぞ」
「いいんです、生まれてこのかた僕の人生そのものが縁起が悪いですから」
「ほ~ら、また拗ねる。まだ若いじゃないか。今後ふとしたきっかけで人生が好転することも大いにあり得るじゃろう。ともかく悪いことは言わん、そのダサい服装はやめんしゃい。ますます女の娘の鼻つまみ者になるぞ。君は“ワイルドだろぉ~”のスギちゃんなんかい」
「スギちゃん? そんな古いネタがよく浮かんできますね」
「古いってちょっと前じゃろう。一、二年前じゃろうが」
「十年ひと昔レベルの話ですよ」
「嘘こけ、ちょっと前じゃろう。スギちゃんに悪いじゃないか」
「歳をとれば時間がはやく流れるというのはホントなんですね」
「ホントだからって、それがどうした。神さま仏様の粋なはからいじゃよ。老いるほど生きていくことが辛くなるからな」
そうかぁ。花菱と僕の時計の針は刻む時間がかなりズレているんだ、あらためて納得。
「まあ、それはともかく、だ。それはともかく我が花菱党は弱小少数政党であるからして“通勤はスーツ以外は厳禁”などと無理筋の党議拘束をかけるつもりはない。じゃが、服装にも多少は公私のケジメをつけたらどうじゃ。君にとっちゃドレスコードなんてもはや死語だな。どこへ行こうが場違いの服装だ。TPOがてんでなっとらん。無為自然もそこまで行くとお笑いじゃ。君は常識的なマナーを心得とるんか」
「常識的とおっしゃいますが、花菱社長はB型でしょ?」
「なんじゃい、そりゃ」
「いえ、いえ、いえ、こっちの話です。TPOっていうなら、花菱社長だって会社にパジャマ姿で来たらいいじゃないですか」
「パジャマ? なんでじゃ」
「だって寝てばっかりだもん。社長の仕事ぶりは、まるで寝正月じゃないっすか。朝から晩までパジャマ着て過ごしても少しもおかしくないですよ。社長がパジャマ着てウロウロ、部下がジャージ着てウロウロ───まあ〜~、明けましておめでたい職場ですこと」
「痩せても枯れてもここは会社ぞ!」
「会社といったって来客一人こないじゃないっすか。誰も来ないんだったらジャージやパジャマで十分っしょ」
「パジャマ、パジャマと馬鹿にすな。ワシャ、昼間は眠くなるが、夜は目がパッチリなんだぞ。夜は緊張で眠れん、なんでやろうか」
アンタが緊張? 嘘でっしゃろ、夜もグーグー眠ってるくせして。
「何か知らん、睡魔の野郎が夜はなかなか来てくれん。そのくせ昼間にはひっきりなしにやって来やがるんだ。おかげで深夜番組にやたら詳しくなったわい。実は睡眠時間自体は少なくて、寝不足なんじゃ。気を抜くとついついアクビが出ちまうんだ」
「フヮぁぁぁ〜~」
「なんで君がアクビをするんじゃ。社長が会社にパジャマで出勤するんかい。いい笑い者じゃろうが。面子にかかわる」
「そうでもないっすよ、いかにもユニークで天才っぽくって。天才スティーブ・ジョブズもマーク・ザッカーバーグもTシャツ姿じゃないですか。天才かどうか知らないけどホリエモンもそう。パジャマなら彼らの上を行くことになりますよ」
「彼らは真冬でもあのファッションなのか。アホまる出しじゃないか。笑いをとりたいのか。あんなのアメリカだから通用するんじゃよ。ところで君は風俗にもその泥臭い恰好で行くのか。よそ行きのオシャレ着までそれじゃなかろうな」
「どうしてです?」
「君の服装センスがイカれてるからだよ。マナーがなっとらん。そんな恰好で女の娘のまえでデレデレしちゃ救いようがないからな。じゃから興味本位で聞いてみた」
「いくら男は中身だからと言ったって、さすがにそれは、ちょっと───」
「そうか、君は四六時中ズボラな着流し人生じゃと思っとったら、たまには紋付き袴の場合もあるんじゃのぉ」
「ちょっとぉ〜、いくらなんでも紋付き袴じゃ行きませんよ。バカと思われちゃいます」
「言葉通りとるやつがあるか。実際にバカじゃから仕方なかろうが」
「おっと、言われちゃいましたね」
「その恰好でもゼレンスキーだったらモテるだろうが、君じゃあな。肘鉄ものじゃろう」
「一杯くらわされてます(w)」
「そりゃ、そうじゃろう。ワシが言いたいのは、もっとパリッとしたおニューのスーツを買えというこっちゃ。以前ワシの小遣いで買ったスーツはどうした。メルカリにでも出しとるんか」
「あれは着るのがもったいないです。いざという時のためにとっておかなきゃなんないんで。それにおニューを買おうにもお金がありません。生活を犠牲にしなきゃいけなくなっちゃいます」
いくら言っても埒が明かないので、とうとう泣き落とし戦術に出てしまう赤井君である。
「なにバカなこと言っとる。何のために親代わりのワシがおると思っとるんじゃ。身だしなみに金を使うのなら惜しくはない。そんなケチくさい男ではないぞ。かわいい部下が肩身の狭い思いをするのはかなわん。小遣いぐらいいくらでも出しちゃる。ワシャ、度量が大きいんじゃ。金に糸目は付けんぞ。なんなら行きつけの店でオーダーメイドで仕立ててやってもいいんだ」
親代わりと言うより、祖父代わりじゃないの? そんな細かいこと、どうでもいいけど。
「そりゃダメです。何もしないでお金や物をもらうなんて申し訳ないっす」
「だから親だと言っとるだろう。子を育てるのは親の役目だ。親鳥は雛に口移しで餌を与えんといかんじゃろうが」
わっ、また気色悪いことを言う。
「でも‥‥‥お、お言葉だけ頂いておきます」
「なんともかんとも、若いのに慎み深いな。いくら未熟とはいえ、いやしくも芸術家たらんとする者にはパトロンが必要だ。ワシは君の師であり、父親であり、そしてパトロンでもあるんだ。遠慮がすぎるぞ。君みたいな物欲のない男は人に催促するぐらいでちょうどいいんだ。がめついオバチャン連中を見習え。なんや知らんが、君が息子のように思えてならんのじゃ。よし、ワシのお古をやろう。ずぼらな君がおニューを買っても、どうせ値札がついたまま着て、恥をさらすだけじゃろうからな。身長はほとんど変わらんじゃろう」
え、冗談でしょう。いくら身長がいっしょぐらいでも、細身の僕がその腹周りの服をどうやって着るんでっか? スラックスなんて丈はSでもウエストは超ビッグサイズの特大Lでんがな。お気持ちは有り難いが、いらんお節介を焼かれてもねえ。
「そうでもないっしょ。体重では負けても、身長は僕の方が3、4センチ高いんとちゃいまっか?」
「そうくるか。そんなもん四捨五入すりゃ同じだ。かくなるうえは明日から若い頃に買ったシークレットブーツをはいて通勤しちゃるばい」
「今頃まだそんなものを捨てずに持ってるんですかぁ。あれは重くてゴトゴト足音がするから短足偽装がバレバレですよ」
「なんば言うかぁ、女がハイヒールはくのといっしょばい」
「ハイヒールなんて、オカマは社長の方じゃないっすか、デブ専の」
「デブ専?」
「あ、いや、ポッチャリ系の‥‥‥オ、カ、マ。ん? 花菱社長がオカマ? わっ、気色悪る~ぅ、グロテスク〜ゥ」
外見低偏差値男どうし、必死で見栄を張りあっている。ドングリの背比べありのままだ。だがチビの赤井君にとっては、たかが3、4センチであっても、されど3、4センチなのである。端数切捨ては納得いかないのだ。彼らがキムタクほどの男前なら自分の背の高さを気にしても別段おかしくはないが、風采の上がらぬ醜男二人が背の高さを競い合ってどうするつもりだろうか。小人プロレスか、まったく。
「シルクハットを被ってみたらどうです? 目線は変わらないですけど、背は確実に高くなるんちゃいます? ハゲ隠しにもなるし」
「この~ぉ、チビがチビチビとハゲハゲ言うな」
「なんです? そのややこしい言い方。でもチビで悪いんでしょうか。小さいからって、あそこも小さいとは限りませんよ。お相撲さんだって体がいくら大きいからと言っても何もかも大きいとは限らないでしょう」
「なんでワシをじっと見つめながらそれを言うんじゃ。ワシャ、相撲取りとちゃうわい。アレを見たこともないくせに。くそ、ハゲとかチビとかノッポだとかいう話はもういい! その前に君はヤセだろう。ちっとは食って、鍛えて、ムキムキになりんしゃい。ジロジロ見たわけじゃないが、肋骨の浮き出た痩せこけボディーのせいで若者らしい溌剌さが感じられん。柿が吊るされて干し柿になっちまったみたいだぞ。どうせ吊るされるなら鉄棒に吊るされて懸垂でもしたらどうだ。少しは筋肉がついて背も伸びるかもしれんぞ。君は紺色は似合わん。そんなん痩せじゃ、紺を着たらますます痩せっぽちに見えちまうだろうが。君はダークブラウンか白っぽい膨張色のスーツでなきゃダメだ。よし、お古はそっち系をやろう」
アンタのお古のダークブラウンや白を着たら、横に拡がりすぎて人間チョコレートパフェになっちゃうじゃないですか。
「いいか、君はゼレンスキーじゃない。だから着飾らなきゃいかん。フィギュアスケートだって、華麗な衣装を着ているから演技があれだけ素晴らしく見えるんだろう。貧乏タレじゃだめだ。中身は空っぽでも、せめて外見だけはリッチにみせなきゃいかん。君には着飾って少しはよく思われたいというか、そういった自己顕示欲はないのか」
「自己顕示欲は一杯あります。でも他人様に誇れるものが何もないので仕方ありません」
「う~ん、言われてみれば確かにそうじゃな。返す言葉がない。こりゃ一本取られたわい。また髪の毛が抜けてしもうたか」
「‥‥‥‥」
「どうした、ここ爆笑ポイントだぞ」
「え?」
「いいか、バカ女は男の着ている服や、身につけている物や、履いている靴に金の匂いを嗅ぎつけて近づいてくるんだ。目当ては金だ。君自身に近づいてくるわけじゃない。もちろん賢い女は違うけどな。君は計算高い強欲女でもブスたれ女でも、女だったら誰でもええんじゃろう。ウブかどうかは知らんが君は草同様、女のことも無知すぎるぞ。チビでガリガリの貧乏神面じゃ一般女性に見向きもされないから、風俗でモテたがる気持ちは分からんでもない。まあいっても、浜辺に裸足で踏みこんだら波に濡れる。そういうことだ、仕方なかろう。これも自然の成り行きじゃな。神様がそういうふうに男をつくったんだから仕方ない。な〜に君が風俗にかまけようが、かまけまいが自由だ。誰でも叩けば埃が出るもんじゃからな。お目付け役じゃあるまいし、これ以上干渉せんよ。わしゃ、鍋奉行じゃないからアアしろコウしろとは言わん。それだけ君の悟りが遠のくだけのこっちゃ。この世に咎のない者なんて一人もおらんよ。あの見るからにナイスガイの国分太一だってそうだったじゃないか。みんな、自分は罪だらけのくせに他人の罪を裁こうとするからこの世が地獄になるんじゃわい。赤井君、これまでだって別に素人相手に痴漢とかレイプとか、そういった犯罪をおかしてたんじゃなかろう。セレブ芸能人が上納とか献上とかいって、最近流行りの性接待を特別に受けとるんじゃったら社会的に問題じゃろうが、君は最貧困層じゃろう。彼らみたいな上級国民じゃない。社会の最下層の人間が必死で貯めた、なけなしの金を使って商売女とヤルのなら、商行為で経済サイクルをまわしてるだけのことじゃ。チンカモが商法に定められているかどうかまでは知らんがのぉ。けど世の中ちゅうのは怖い。火遊びも過ぎれば焼け死ぬとしたものじゃ。用心しろ。ピンクゾーンには至る所に電線がちぎれて垂れ下がっちょる。不用意に握るなよ。握ったり咥えたりするのは男でなくて女の仕事じゃて───あらま、これはちょっと猥褻過ぎか、18歳未満禁止のエロちんぽっぽギャグじゃて。君みたいな子供の前で言っちゃアカンわ、ワッハッハッハァ。いずれにせよ風俗嬢にとっちゃ、君は馬鹿で、マヌケで、スケベで‥‥‥かてて加えて底抜けに馬鹿で、底抜けにマヌケで、底抜けにスケベで‥‥‥そのうえ超ウルトラ馬鹿で、超ウルトラまぬけで‥‥‥」
「もう、ええでしょう」
「何でこのタイミングで『地面師たち』のピエール瀧になるんじゃい。ま、赤井君は要するにそんなアホな一顧客にすぎんというこっちゃ。誰かを傷つけたり、迷惑かけるわけじゃなかろう。別にどうってことない。チンコを使うからといって別に珍客というわけじゃない。何処にでもおる、ただの好き者じゃ。若い頃は、ワシもおんなじだったよ。もっとも似て非なるかな、ずっとスマートに女遊びしておったがのぉ」
よく言うよ、肥満体のアンタのどこがスマートなんだ。そういう盛りに盛った自分史は読みたくないよ、ホントはみっともない姿を一杯さらしてきただろうに。
打って変わって態度が軟化したのもそのせいかも。彼は自分の過去の姿を僕に見た。煩悩だらけの野郎どうし、少しは性欲モンスターの身になって考えてくれたようだ。いずれにしても逆らわずおこう。アンコ型の花菱と押し相撲しても勝てるはずがない。
「ほんでもってワシらもともと何しよったんかな? ど忘れした」
二回目だ、いや三回目かな。こっちも分からなくなってきた。いいかげん耳にタコができる。でもこれ、ひょっとしたらワザとかも。ど忘れというより定番物忘れ芸でっしゃろ、このタコ!
「いやだなぁ。僕らが吹き込んだ、この音声の論評をうかがっていたんでしょう。なんで録音再生装置が目の前にあるんですかぁ。忘れちゃったのはお年のせいでしょうか? 年だから忘れるのは仕方ないっしょ。なら、いっしょに“年忘れにっぽんの歌”でも見て、そんな嫌なことは一切合切、忘れちゃいまひょか」
「お、そうじゃった、そうじゃった、思い出した。じゃが、いまのギャグは今ひとつだ。そりゃ年末恒例番組じゃろうが。今日は見れんばい」
「は? ホントに見るおつもりなんですか?」
「あ、いや、いや、いや、いや。ま、ともかくこんなふうにトランス状態になるとな、人の脳ってのはな、実際に経験したことのない出来事を、さも自分の記憶を辿るかのように鮮明に描写するんじゃ。AIみたいに記憶を自動生成するんだな。ない事をある事にしちまう。だから中にはどうしてもその矛盾を解消したい人なんかが出てきて、このイメージはきっと前世の出来事だとまで言いだすわけじゃよ。じゃが、凡庸な奴らはただそんなふうに解釈するところまでが精一杯で、実際にやれと言われても、なかなか君みたいにはいかない。赤井くん、君はオスの人魚にお目にかかるぐらいの希少価値があるんだぞ。近頃の無能な若者の中にあって異彩を放っとる。箱村のイメージと結合していい化合物になりよるわい。いかれニイチャン、憑依されっぱなしの巻だ」
「そうなんですか、でもちょっとそういう抽象的で難しいことは‥‥‥自分のことなのに自分のことが分からないっていうか‥‥‥人魚が普通、メスだってことぐらいは分かりますけど」
「どこが難しい。君には何をレクチャーしてやっても犬に論語だな。そんなザマじゃ犬にも申し訳が立たんぞ。オツムは何処に漂っとる、パラダイス銀河か。なるほどそうか、読めたぞ。あえて人魚に焦点を当てたところをみると、君は人魚をモチーフにして詩を描きたいのだが、うまくいかんのじゃな。うん、我ながら卓越した洞察力じゃ。君の考えていることぐらいマルっとお見通しじゃ。思慮深い君は言い出すのが憚られたんじゃな。よし、そういうことなら模範例をご披露申し上げよう。たとえば、こうじゃ。
レモン水の海を人魚が泳ぐ
背中を太陽の光の帯が走る
人魚の掻く水の舞踏
斑の影が揺動する
岩に砕ける海の飛沫
彼女は嘆息する
夕陽が海面にただれ落ちていく
オレンジ色の魂の跳躍
さあ、君もこれに続けてみんしゃい、どうやってさらにイメージを膨らませる?」
おりょ、奇想天外なことを言い出した。のけぞってリンボーダンスをしてしまいそうだ。唐突にそんなこと言うのはよせよ。入室前にはちゃんとノックしてくれ。
「え、僕もやるんですか?」
「当り前だ、何を漫然としとる。頭ん中は歩行者天国か。誰のための模範だと思っとるんじゃ。さあ、のんびりするな。お手並み拝見じゃ」
「本気っす?」
いま一つ乗り気にならない赤井君である。
「くどい。甘やかしてばかりじゃだめだ。ワシャ、君の恩師をもって任じておるからな。たまには鬼になってスパルタ教育もせんといかん。♪仰げば尊し、わが師の恩~~」
たしかに働かなくても金払いはいいので恩人ではあるのだが‥‥ってか、なんで歌いだすの?
「よぉ赤井君、何事も案ずるより産むが易しだ。ちょっとした試し斬りじゃろう。ほれ、切れ味を見せてみろ。面白いから笑うんじゃなくて、笑うから面白いんだ。やってみなけりゃ始まらん。いざ鎌倉。ともかく、やれ。千里の道も一歩からじゃ」
ウエッ、これから千里も歩かされたんじゃたまらないよぉ〜。
「君は経験することのパワーを知らんのか。知っとるじゃろう。白内障手術も最初の片目をするときは怖いかもしれん。じゃが、残りのもう一つをするときはちっとも怖くないとしたもんだ。それが心理学ちゅうもんたい」
「論理学の次は心理学でっか?」
「仕方なかろう、君は学がないんじゃから。いいか、箱村みたいに怖気づいちゃいかん。なにごとも経験なんじゃ。君の出来映えを見て、後からワシがじっくり指南して進ぜようぞ」
「し、指南するって?」
「君に分からせるのは至難の業じゃ(またシャレでんがな)。いちいち君には解説がいるな。指南するというのはだな───たとえばスキーを滑るのにはストックがいるだろう。ワシがストックになっちゃるということだ。君の芸術観、文学観はガキが格好つけて乗るスノボーみたいに乱暴で危なっかしいからのう。教え導いちゃろうちゅうわけばい。ワシの助言が肥料となり、君の脳ミソの養分を豊かにすること請け合いだ。さすれば、さらに素晴らしい言葉の実がなることじゃろうて」
僕の頭は畑なのか。この人は何でもかんでも比喩と例えだ。話せば話すほど、聞けば聞くほど分からなくなる。これで解説した気になっているんだから呆れる。
それにしても抜き打ちテストかよ。なんでアンタの巻き添えを食わなきゃいかんのか〜~い。あれまぁ、今日もこの人には振り回される。いいように遊ばれる僕は、コマ回しのコマなのか。
まったく厄介な人だ。こんなことに、いったい何の意味があるというんだ。アンタの頭といっしょで不毛じゃないか。
「何、冴えない面しとるんじゃ。張り合いがないのう。さっき君の才能は認めとると言うたやろう。確かに君は有用な鉱石だ。じゃが、いかに貴重で稀有な地下資源といえども、今みたいに地下深く埋もれて誰にも気づかれんようじゃ何の役にも立たんじゃろう。君を掘り出す指導者がいないと話にならん。それがワシだというこっちゃ。分かったか。分かったら、さっさとやれ!」
「え~と、ちょっと待ってくださいよ‥‥‥ただれた青い肌のように、沸き立つ海に揺れる魂の救命ボート‥‥」
「それだけか、もっと出てこんのか。表現が不十分だ。舌足らずじゃのう。それじゃ満足できん、こんなの造作なかろう。切れ味が悪いのう、なまくら刀がぁ。いいかげん錆びついちょる。君の頭には砥石がいるな。まだ半分ねむっとるんじゃないのか。電源オフで君の頭は停止状態か。ほれ、電源をオンにして頭を始動させろ。脳ミソのヌカ床を掻き回せ。そんなんじゃ、いい漬物はできんぞ。そら、出し惜しみすんな、ミニスカ女子じゃあるまい。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるだ。“量より質”というのはもちろん正しいが、“質”を得るためにはある程度“量”をこなさんといかんのも事実じゃぞ。蟻ん子サンから学べ。一匹一匹はあんな小さな体でも、何匹も集まるからデカい餌でも運んどるじゃないか。ある意味、数量というのも大事なんだ。あんまり関係ないかもしれんが、わんこ蕎麦も何杯たべるかが勝負じゃろうがぁ」
ほんとにまったく関係ない。
「あの、その、あの、何ていうか、あれ‥‥」
「言葉がちっとも出てこんじゃないか、アノとかソノとかアレとか口をパクパクさせるだけで。エラ呼吸でもしとるんか。やっぱり君は魚類だ。ワシの言った通り鯉じゃないか。口ぱくアイドルじゃなくて、ちゃんと歌をうたいんしゃい。世話のかかる奴だ。箱村みたいに煮ても焼いても食えんことはないが、君はなんか小骨が多すぎて食べるのに手こずるわい」
おいおい、よしてくれ。食べちゃうつもりかよ。
「そのぉ〜あのぉ〜なんかぁ〜、魂つながりで、やっとこさ、これだけ。う~ん、浮かんでこない。これ以上は無理っぽいです、なんも出てきません。一杯いっぱいです。どうもテンパってるみたいで」
「そら見たことか。自分の脳ミソはまだ柔らかいと、若さに胡坐をかいとるからじゃ。ほらほら、もっと熱意を出さんかい。せっかく猛特訓してやっとるんだから気合をいれろ。スパートだ、ギアを上げんか。もっと没入感を高めろ! 君の力量が問われておるぞ。シナプスを叱咤激励しろ。右脳と左脳にいっぱい活字を躍らせろ。もうひと頑張りだ。エンジン全開、フルスピード! ほらほら、もっとイメージを膨らませんかい」
「と言われましても‥‥」
「なんじゃいな、若いくせして出てこんもんじゃのう。鯉のくせしてスラスラと水を得た人魚姫───じゃなかった、水を得た魚のようにはいかんのか。この境界知能ニイチャンがぁ。もっと真剣になれ。頭ん中がファンタジーランドになっとるぞ。あ、そうか。分かったぞ。脳ミソがブドウ糖供給不足になっとるんばい。よし、エネルギー補給に、出前でもとって腹ごしらえするか。お~~い、箱村! 出前をとるぞぉ〜」
「あ、いいです、いいです。お腹はすいてませんから」
「頭を少しも使ってないから腹が減らんのじゃ。いいか、創作活動というのは自分の脳細胞を少しずつ切り刻み、それを観念の広大な海に投げ込んでいく作業なんだ。しっかりせい! そんな消極的でどうする。なるほど今や言葉はほとんど出尽くしてしまった感がある。これからの作家たちは、その出し尽くされた言葉の死骸をいかに組み合わせ、いかに再構成するかしか生き残る方途がないように思える。それじゃAIに到底かなわんだろう。じゃが、未知の潜在領域から新たな言葉を創出しうる天才は別じゃ。天才は限界突破する。天才は前人未踏の領域に分け入っていく。既成概念を取っ払い、全く別世界からイメージを汲み上げるんじゃ。ある種の特異なインスピレーションによってな。その天才とは誰か。もちろんワシだ。その天才が君の才能を認めとるんじゃぞ。“歴史は繰り返さないが、韻を踏む”というマーク・トゥエインの有名な言葉があるだろう。ワシの歴史ももうすぐ終わる。なるほど君にワシの歴史を繰り返すことはできん。じゃが、死後、せめて我が人生の韻を踏んでもらいたいんじゃ。君しかおらん。箱村じゃ力不足だ。物になると思うから厳しくするんだぞ。心してハゲめよ」
ハゲめって、ハゲはアンタでしょ。このハゲ〜!(何度も言うけど豊田真由子じゃないよ)。それはさておき、なんだか分からないが僕を評価してくれているらしい。こんな僕でも期待に応えられるなら応えたいが、その前に花菱の喋っている内容が難解すぎて捉えどころがない。
何を言ってるんだ? その理屈、当たっているのか外れているのかすら定かでないよ。けれど大胆にも自分を天才などと称するところをみると、結局のところは自画自賛がメインでっしゃろ。まあ、よほどの変人でなけりゃ褒めてくれないだろうから、自分で自分を褒めるしかないのか。
「あ、出てきそうです」
「お、やっとしぼり出せそうか」
「はぁ」
「さあ早く出さんか」
「ここでいいんですか」
「いいに決まっとるだろうが」
「いや、また引っ込んじゃいました」
「引っ込んだって何がだ」
「ウンコが」
「‥‥‥‥」
「すいません、便秘がちなもんで。食べる量が少なくて押し出してくれないもんですからねぇ」
「コラ、おちょくっとるんか! 前言撤回じゃ。君はトモダチンコじゃなくてトモダウンコだ!」
「でも、快便って大切なことでしょう」
「そりゃそうじゃが、そんな尾籠な話を大切なレクチャー中に持ち出すな。やっぱり君はTPOがなっとらん。どうもさっきから“へっ、ヘっ”とかましてくるから屁でもしたいんかと思っとったら、ついに実まで出したくなったか。トイレに行きたけりゃ黙って行け。おっと大切なことを忘れとった。君はオカマだったな。だったらトモダウンコでなくてトモダマンコだ! ヒャッハッハッハァ~~、トモダマンコってか!‥‥こりゃブチおもろい! いっそ海外で性転換手術でもしてきたらどうじゃ。なんなら旅費はワシが出したるぞ。これからは君をトモダマンコと呼ぶことにしよう」
あらあら、またぁ? 何かある度、この人は強引にそこに持って行こうとする。オカマって、そこまで僕って可愛らしいのかな? どこが? どう逆立ちしてもゴツゴツした野郎顔だろう。だいたいこの人、大の男が周囲から可愛く見られて喜ぶとでも思ってるんだろうか。男が可愛いと言われて許せるのは、せいぜい赤ちゃんだった頃ぐらいでんがな。
「成人した男にむかって、トモダマンコなんてあんまりです」
「いいじゃないか、漢字で書けば友田萬子、少しも変な名前じゃあるまい。なんや金持ちげな名前やないか。君の小説のペンネームも友田萬子に変えたらどないや。宵越しの金は持たない、その日暮らしの生活からぬけ出せるかもしれんぞ」
「繰り返しますが僕にはオカマ趣味はありません!」
「よっ、怒ったか、怒ったか」
「そりゃ腹もたちますよ」
「冗談だ、冗談だ。君を見とると末法の世を感じるから、たまりかねて刺激を与えてやったまでだよ。いつもボーッとしとらんで、少しはピリッとせい。ワシのようなもっと桁数の多い人物にならんといかん。そんな生返事、糞返事するようじゃまだまだだ。とはいえ君を評価しとらんわけじゃないんだぞ。ワシャ素読みには興味がない。日本語として意味が通るかどうかは二の次じゃ。したがって、何や亡者が阿波踊りしとるような、いかにも気違いじみた君のイメージは逆にワシの評価するところなんじゃよ。ダメ出しするつもりはない。が、なんせ分量が少ない。夢茶に酩酊しとらんと何も出てこんのか。下らんボケは幾らも出てくるくせしてのぉ」
「分量が少ないって何がですか? ウンコの量ですか?」
「ほれほれ、そうやって、ばばっちいボケをかまして澄ました顔でいる。ピリッとせいと言うのは、そういうところだ。イメージだよ、イメージの量が少ないと言っとるんじゃ」
「ふ~~ん」
「ほら、まだ言っちょる。糞だから“ふ〜~ん”か。いつまで汚らしいボケをかまし続けるつもりだ!」
「怒ってます?」
と、赤井君はへらへら笑っている。
「え~~い、怒っとらん。怒り方を練習しとるだけだ。九州男児は我慢強いんばい」
「どこが汚らしいんですか? フンドシはお相撲さんの正装でしょう。違いまっか? ねえ、花菱関」
「フンとフンドシ? はてな?‥‥おい、誰が相撲取りやねん!」
「どすこい! そこで四股ふまないで下さいよ。ビルが揺れて倒壊しますから」
どことなく気まずい間があく。悪ふざけが過ぎたかな?
「‥‥‥もう付き合いきれんばい。君のポエムはイメージの量が少ないと言っとるのに、下らんジョークで味噌も糞もいっしょにしくさって! ワシャ、真面目な話をしとるんぞ!」
怒らせてしまった。そんな下らないイメージがたくさん出てきたところで何の自慢にもならないが、花菱から叱責されると、いくら鈍感な赤井君でもさすがにバツが悪い。
「恥ずかしながら、正直これ以上イメージは出てこないようであります」
「君は残留日本兵、横井庄一か(古! 分かる世代なら分かる)」
「横井庄一? 誰?」
「あん? 横井庄一も分からんのか。じゃから、ギャグが通じずボケーッとしとるんじゃな。まあいい、そんなことより君のイメージに救命ボートがなんで出てきた。誰を救助するんかい」
そんなこと知らんがな。
「そりゃ人魚でしょう、他に登場人物は出てないし。人魚は網にかかって暴れ狂ったもんだから、怪我しちゃったんすよ。救いの手を差し伸べるのが人の道でしょう、いや魚の道かな?」
「魚をたすけたら“人の道”じゃなくて“人で無し”になっちゃうじゃろうが。魚は人か? いっそ半魚人でもボートに乗せとけや。ワッハッハッハ、こりゃおもろい。腹がよじれるばい」
だから何でそんな詰まらないギャグで急に大笑いすんだ。やれやれ救命ボートを出してほしいのは、人魚でなく僕の方だ。何度も繰り返すがこんなことに何の意味がある。
「そうか、分かったぞ。君は河童なんだな。頭の皿の水が乾いて、能力が発揮できんのばい。よし、水のかわりに夢茶を注いじゃろう。調子が出んのなら、いっちょ夢茶で景気づけだ。マズいけど、二人で鼻をつまんで流し込もうじゃないか」
「夢茶はいいです、いいです。しかしホントにアレって大丈夫なんでしょうか」
「またそれかいな。かなわんのぉ」
「だって、たかが草だといっても甘く見ちゃだめでしょう。つい最近もトリカブトを誤って食べて死んだ人のニュースをやってましたよ。たしかNHKで見たんだったっけ」
「まだ夢茶を信用しておらんのか。今さっき、ここで石を見せられて、“これは中国月面探査機が月の裏から持ちかえった石だ”と言われたら信用するしかないと説得したばかりじゃないか。嘘を立証できんからだ。君もフムフムと頷いとったじゃろう(霞ゆく夢の続きを〈8〉─54)。いいかげん夢茶を信用したらどないや」
「なにも僕じゃなくて、加トちゃんを呼んで二人で飲んだらいいじゃないですか」
「なんじゃ、それ」
「だってドリフの唯一残った同志でしょう。名前も“茶”だし」
「なんだ、ボケただけなんか。ワシはドリフの高木ブーじゃない、文豪花菱だ。似て非なるもんじゃ。ごっちゃにすんな。あんなに頭に毛ははえとらんわ。ハゲで何が悪い。整髪リキッドがいらんから経済的じゃ。ハゲは男性ホルモンが多くて優秀なオスの証なんじゃい。ハゲには男の剥き出しの野性味が宿るんだ!」
「確かに地肌剥き出しですよね」
「ふさふさ頭の赤井君よぉ、君だってジジイになったら禿げるかもしれんぞ。しかし何だな、これだけ口説き文句を並べたのに夢茶を飲まんとは強情だな」
「口説き文句? ここは小倉北区でしょう」
「なんでやねん。ここの住所を言ってどうするんかい」
「失礼しゃあした。そっちじゃなくて、こっちのアドレスですよね。でも僕、ネットとつながってないんでメルアドないんっすよぉ」
「メルアド‥‥‥??? 何を言わんとしとるんだ? なんや、よう分からんが、そこまでひねり過ぎたボケじゃワシのように大爆笑はとれんぞ」
そうかなぁ。人はタイミングさえ合えば、どんなこねくり回したギャグでも笑うんじゃね?
「いや、ボケをひねり過ぎたんじゃなくて、単純に君がアホなだけなのかな? よう分からんが、まあ、そこはいいや。そな、おもろないギャグなんぞ言わんで、なあ、一杯やろうじゃないか。豪快な飲みっぷりを見せてくれ。敷居の滑りをよくするには蝋を塗るだろう。夢茶は蝋みたいなもんじゃ、飲めば口の滑りもよくなるぞ。それともアレか、好色変態女みたいに蝋は塗るんじゃなくて垂らしてもらうほうが好きなのか。オカマになってアッハ~ンとよがりたいのなら、なおさら夢茶を飲め。飲めば快感倍増、パラダイスじゃ。お〜い、箱村、夢茶もってこい。ごっつい熱~いやつをな。お~い、どこに行った。あんにゃろう、いつも肝心な時におらん。どうなっとるんじゃい。ワシとの舌戦を恐れるあまり何処かに蒸発しよって」
「だから遠慮しときますって言ってるじゃないですか。僕、猫舌ですし」
「フ~フ~と冷まして飲みゃいいじゃないか」
なにをお気楽なことを言ってんだ、この豚舌がぁ。
「それにあの臭いも何とも体に受け付けません」
「あの臭いたぁ、どんな臭いだ」
「なんかオッサンの蒸れた靴のなかを嗅いだみたいな。それにさっきの人魚の話じゃないんですけど、あの味は飲む度に体じゅうに鱗がはえた気持ちになっちゃうんですよ。嘔吐きたくなります。汗かきのオッサンが使ったタオルみたいな臭いと味ですよ」
「若いからってオッサン、オッサンと虚仮にすな。そんなもん食ったことがあるんか。何でも食うんじゃな、ウンコでも食うんじゃないのか。それこそ正真正銘の変態じゃろうが。こっちまで嘔吐きたくなる。夢茶がどういう臭いと味だと言うんじゃ。臭いの強い野菜ほど栄養価は高いんじゃぞ」
「あのぉ、甘味料かなんかで誤魔化せないもんでしょうかねぇ。特異体質かどうかは知りませんけど、ほんの少し引っかけるだけでベロンベロンに酔っちゃうんですよねぇ」
「そんなことあるもんか。“私、酔いすぎちゃったかしら”と言う女の娘は、たいていまだ余裕があっていくらでも飲める。“酔いすぎちゃったかしら”は“もっと注いでちょうだい”のサインじゃ。それにひきかえ“まだ酔っちゃおらん”と息巻く糞オヤジに限って、グデングデンに酔ってバタンキュー寸前としたもんなんじゃ」
「なんの話? それってお酒の話でしょう。あまり無理強いすると夢茶ハラスメントになりますよ」
「酒も夢茶も同じようなもんじゃわい。夢茶もお猪口でチビチビやりゃいいじゃないか。飲酒運転せんだったらいいんだろう」
「は? 飲酒運転? どこからそんなのが出てくるんですか、ぜんぜん関係ない話じゃないですか。遠慮しときます。寝落ちして起きたら二日酔いだったというのは嫌なんで」
「弱気じゃのう。寝なきゃいいじゃないか、一晩中飲み続けりゃ」
「無茶いわないで下さい」
「だったら起きなきゃいいじゃないか」
「え? 僕、死んじゃうんですか」
「アッハッハッハァ~冗談だ。本気にする奴があるか。人生の台本では死なんことになっとるとさっきも言ったじゃろう」
「悪い冗談ですよ。箱村さんも人生の台本って社長と同じこと言いますけど、これって本当なんですかねぇ。人間、いつ死神がやってくるか分からないと普通は考えるでしょう。もしかしたらそれは一時間後かもしれないと。いくら石橋を叩き、準備万端調えたとしてもやって来るものはやって来る。転ばぬ先の杖がポキッと折れることなんて人生ではザラじゃないですか」
「どうやら君は人生の台本を信じとらんようだな。道標の文字は擦れてはおらん。君は歩むべき道を歩むことになっとる。ここで君の人生の予告編でも見せてやりたいどころだが、見せちゃいかんと決められとるんでな。仕方ないんじゃ。これは予定した人生の課題を自力で解決させるためだ。バースデーケーキの蝋燭は自分の息で吹き消さなきゃな。いくら君の蝋燭の本数が少ないからといって、ワシがしゃしゃり出て横から扇いで消したらいかんじゃろうが。いつも全問正解、満点の人生を送れる魂なら、わざわざこの世に生まれてくる意味はない。君がこの世に生まれ出たということは自力で魂の歪みを正したいからじゃ。どうせ今の君は“ゲームを制限時間内にクリアできなくとも、別世界に赴くだけのことだ”ぐらいに軽く考えちょるんじゃろう。真実の自分がかつて目指したところをすっかり忘れちょる。浅はかじゃわい」
「いくら考えても分からないことなんで、適当に考えることにしています。本心では考えたくないんですが、生きてればどうしても考えないわけにはいかないもんですからね」
「ああ言えばこう言う、君はオウム真理教時代の上祐なんかい。もとい、短足チビ上祐なんかい。あの頃の上祐と議論しても勝てるはずはないな」
どうして僕が上祐にされてしまうんかい。
「まあ、それならそれでいいわい。言い負かしたところでこっちが正しいとは限らんし、言い負かされたところで向こうが正しいとは限らん。オウム真理教の顚末がそれをよく物語っとる。そこまで四の五の言うなら、まあよかろう。好きにせい」
お、奇跡だ。急に物分かりがよくなった。しかし短足チビ上祐とは。少しは言い方に気をつけてくれ。褒めたと思ったら貶して、貶したと思ったら褒めて───上げたり下げたり、僕はヨーヨーなのか。
「何をです? 何を“好きにせい”ってことですか? 人生や生死のメカニズムをどうとらえるかってことですか?」
「絡んでくるな。そっちじゃない、こっちじゃ」
「それ、あっちこっち丁稚でしょう」
「おい、なんで先に言う。ワシに言わせんかい。おいしいところをちゃっかり持ってくな。ワシが言いたかったのは“素面でイメージ創出の結果が出せんのならば、それはそれで構わん”ちゅうこっちゃ。夢茶に与太った時、立派なのが録音できさえすればいいよ。この録音みたいにな。最近の君の仕事のうちでこの録音が一番だ。傍にいて、それでいて傍にいないもう一人の君の存在が垣間見える。さっき言った第三の顔じゃな。はらはらドキドキの場面展開じゃよ。少女はキャラクター的にいい線いってる。今にも手毬唄が聞こえてきそうじゃないか。少女の手から毬がそれて‥‥‥路地を転がる笑い声。火のついたように泣きじゃくる少女。手毬の赤い糸がほどけてツーッとあの世まで繋がっている。狂気だ。すばらしい。ああ、頭骨にからまる神経の毛糸を解きほぐすように、君の心が闇の心棒に巻取られていく‥‥‥うん、いい。なかなかいい。だが一つ難点を指摘すればだな、揺れているのはブランコでなくて木馬のほうがいい。情景をイメージしてみろ。揺れる木馬、少女の乗った木馬が揺れている。少女が消えても、木馬だけが誰も乗せずに揺れている。背景は夕焼けの燃える赤だ。ブランコの揺れにしたがい、近づき遠のく落日の空‥‥‥それも悪くはないんだが、欲を言えばちょっと陳腐だな。ホント言うとな、ここに“夕焼け雲を背に輪を描く赤とんぼの群れ”ってな感じのフレーズを挟みこみたいところだが、今じゃトンボなんてド田舎に行っても見つからないもんな。う~ん、思案のしどころじゃ。安楽椅子に人形をのせて揺らすか。あちゃぁ〜~~、ダメだ、ダメだ、そんなの。人形は生きとらんから、ただ不気味なだけじゃ。丹精込めて細工し、電気仕掛けの魂を入れたとしても、人形は人形じゃい。少しもセクシーじゃない。いっそ少女に赤い手毬をテンテンとつかせるか。それとも童歌でもうたわせてみるかな。いや、ダメだダメだ、ますます子供子供してセクシーさから遠ざかる。う~ん、知恵の輪がうまく外れん。お、外れた。そうかぁ、いっそ道路にチョークで円を描いて、そのなかに少女を裸で寝そべらせるんだ。あ、痛! やっぱダメじゃ、そんなんじゃ」
「かまぼこ!」
「なんじゃて?」
「だって板の上にのるのはカマボコでしょう」
「そのイタじゃない!」
「ええ、分かってますけど」
「ふう、痛いのは君もじゃ。おイタもいいかげんにせい。箱村の軽薄さに汚染され過ぎちょるぞ」
「そんなこと言われると、二人の板挟みにあっちゃいます。それに僕、射手座生まれじゃないし。お~っと、イタとイテ、ちょっと違うけどご勘弁を」
「あイテッ! 性懲りもなくまだシャレを言うちょるのか。今は駄洒落の講義をしとるんじゃないぞ。しかし何だな、オカマの君がカマボコと言うなんてオカマ・カマボコじゃな。オカマカマボコ‥‥おカマボコ‥‥なんや語呂がいいじゃないか」
「だからぁ、オカマ趣味はないですって、もう。カマわんでください」
「また駄洒落か。救いようがないな。イタとかイテとかカマとかタマとか、おカマボコがそれを言いだすと、もうぐちゃぐちゃになってしもうて、もう訳が分からんくなったわい」
「タマとはいってませんよ。それって中国料理のカニ玉とごっちゃになってません?」
「う~んもう、重箱の隅を楊枝で突っついて、なんば言いよるんか。タマを突っつかれたらタマらんわい。ビリヤードじゃないんぞ。玉を突かれて“カ・イ・カ・ン”ってな感じか。おカマボコの君は、マゾでオカマの薬師丸ひろ子か? ワッハッハッハ。こりゃ、おもろいばい。おもろいのが浮かんできた。愉快、愉快、ワッハッハッハ」
またまたぁ、くだらんシャレと下ネタで笑い出だしてる。とにかくよく笑う爺さんだ。誰が脇腹をくすぐっているんだろう。すべりギャグの神様かな。
自分も率先して迷惑ダジャレを連発してるじゃないか。こっちはその影響を受けただけですよ〜~だ。アンタはよくて、僕はダメなの?
「それはともあれじゃ、道路にチョークで円を描いてそのなかに少女を裸で寝そべらせてもダメなんじゃ。そんなの日活ロマンポルノのワンシーンにもならんわな。小便臭いガキがいくら寝っころがっても色気ゼロじゃて」
「それ、ロマンポルノってより児童ポルノでしょ、捕まりますよ。てか、その前に児童虐待でしょ。知恵の輪を外したら、また元通りにしておかないと。それとも今度は輪投げでもして遊ぶんですか」
「そんなこたぁ言われんでも分かっとるわい。う~~ん、まだ生乾きで気持ち悪いのぉ。黴くさい嫌な臭いが漂ってきそうだ。パリッと着心地をスッキリさせるためにはどうするか、だ。やっぱし部屋干し洗剤か。冗談はさておき、う~ん、名案が思い浮かばん。思案投げ首じゃ。いや待てよ、そ~~かぁ。閃いたぞ!」
「閃いたって、そのテカテカの禿げ頭がですか?」
「ちゃうわい! もう、き、君、君っていうやつは──」
「そのシャレ、うまい! 確かに白身より黄身のほうがうまいですもんね」
「はぁ? そ、そのキミじゃない!! まんまのシャレを言って得意になっとるのは自分のほうじゃないか。ぜんぶ丸掛かりだろう。少しも整っとらん。ねづっちを見習え! なんで君が玉子の黄身になるんじゃい。君は金の玉子か。田舎から集団就職でもしにきたんか。このぉ好色金玉男がぁ!‥‥‥‥ワッハッハッ、こりゃおもろい。おもろいのが浮かんできたぞ。どっかにメモしとかないかんな。好色金玉男かあ、ワッハッハッ、傑作じゃ。赤井君は絶倫好色金玉男でござい、好色金玉男でござ〜~い。こりゃ、タマらんわい。“タマだけにタマらん”ってか? ワッハッハッ、大ウケばい。おもろて、おもろて、腹がよじれるわ。ワッハッハッ、殺す気かぁ〜~」
😆…ギャハッハッハ~
だからぁ、なんで笑いだすんだ。自分でふざけた言葉をつくって、自分で大笑いしてりゃ世話ない。
「そうかぁ、そうだったんだ、しこたま笑ったから閃いたぞ。少女でなくて美女を乗せたらいいんじゃ。おせち料理に数の子が入っていないみたいに何がが足らんと感じとったんだが、決定的に色気が足らんのばい。美女の乗った木馬が妖しく揺れている。セクシーでいいじゃないか。欲情に美女は濡れる。いいぞ! こりゃ、妙案ばい。風景が切り取られて額縁にピタリとはまる絵になった。斬新じゃないか、異彩を放っとる。そうは思わんか。一語変えるだけで、ただの風変わりな絵がたちまち一流の芸術作品になる。これぞカントの純粋理性批判いうところのコペルニクス的転回じゃわい。どうだ、鋭い切り口じゃろう。ワシの話にゃ含蓄がある。カミソリ花菱の真骨頂じゃ」
はあ? 美女が濡れる? なにを言っているんだ、濡れてビジョビジョでんがな。どこがコペルニクス的転回だ。瑣末なことにこだわり過ぎて、ちょっと理屈こねすぎじゃね?
一語かえてみたって前とほとんど変わってないじゃないか。カミソリ花菱と自惚れるなら、その後頭部にちょろっと生えてるお毛々を剃って、スキンヘッドにしちゃろか。
「あのぉ~、どこが劇的に変わっているんですか? それって何チャラ的転回と回転木馬をかけたんですか? 素人目にはほとんど同じに見えるんですが。少し視点がズレてるんじゃないかと」
「なんじゃと? 話の腰を折るな! ちょっと減らず口が多いぞ。雑炊とお粥の違いも分からんようでどうする!」
花菱のひと睨みに、気後れしてしまう赤井君である。
「言葉のちょっとした匙加減で味わいは大きく変わってくるんじゃ。この違いが分からんとは君の舌はどうなっとるんじゃ」
「別に料理を食べようとしてるんじゃないんで」
「ウナギはガスでなくて炭火焼きじゃろうが。レバーといっしょに炒めるならニラだろう。他の野菜じゃ駄目じゃろうが。そんな違いも分からんようでどうする。そんなことでは一流の料理人にはなれんぞ! いつまで経ってもB級グルメじゃ」
だから、なんで言葉が食い物に化けちゃうんだ。この食いしん坊デブが。
「僕、食通でもないし、シェフになるつもりもないんで」
とサラリとごまかそうとすれば、
「なんば言うとっと? これは喩えばい───とツッコミを入れてほしいんやろ? ばってん、そのズッコケは下らなか~ぁ。バリおもろなかろ? 箱村レベルばい。じゃけんツッコミ甲斐がなかとよ。少女と美女を入れ替えるだけで、草野球と大リーグぐらいの開きがでてくるのに、これが分からんと? 少女が木馬に乗るなんて在り来たりな表現じゃなか? そりゃ遊園地のメリーゴーラウンドたい‥‥‥どうだ、これが正統博多弁ちゅうもんだ。君は今、九州に住んどっても実は九州生まれじゃないだろう。もともと九州とは縁もゆかりもなかろう」
「ええ。分かりますか?」
「そりゃ君の話し方を聞けば分かるばい。三つ子の魂百までじゃ。子供の頃のアクセントの癖は一生変わらん。ワシは草虫博士であると同時に方言博士でもあるんだ。観察眼を甘く見るな。箱村みたいにインターナショナルピーポーなんぞと訳の解らんことをドヤ顔で並べるのとはわけが違うんじゃ。学ぶならワシからよく学びんしゃい」
何でそんなもん学ばにゃいかんのか。おっとそれより、急に思い出したように何で方言の話題に先祖返りするんだろうか。その話って、とっくの昔に終わってない? 花菱が強引にマウスをグリグリして、ポインタを一気に過去の画面にスクロールさせてしまった。話の腰を折っているのはどっちやねん。どうしてここで、そんなのを蒸し返すんであ~~りましょうかの“チャーリー浜”だ。
きっと老化の特徴はこんなふうに出はじめるんだろう。話した端から忘れていくだけじゃなくて、こんなふうにポンポンと中間的記憶がぬけ落ちては、また何かの拍子に戻ったりすることもあるんだろうな。
「いいか、美女が木馬に乗るからセクシーで官能的なんだ。一語入れ替えるだけで景色が一変し、客観が主観を従属させていたのが、たちまち主観が客観を構成することになるじゃろう。外側に見えていたものがグイーッと引いて、今度は内面から発せられるんじゃ。問答無用、この主客転倒をコペルニクス的転回と言わずして何と言うんじゃ」
「はて?」
訳の分からないお経は続く。その木魚頭、ポクポクと叩いちゃろか。そんなデマカセを言っちゃ、いカントよ(w)。
「君はカントの純粋理性批判を読破しておらんじゃろう。読んでいないで何が分かる。ワシャ学生時代にちゃんと読んでるからな。いいかげん観念せぇ」
またまたぁ、見栄っ張りなんだから。格好つけ過ぎ、なんでカントなんかが出てくる。カギ括弧つけて郭公が鳴くときたもんだ。学生時代に読んだからって、その歳になりゃ、内容ぜんぶ忘れてるっしょ。それとこれとは全然違う話じゃないか。だって哲学と文学じゃギャップありすぎっしょ。何処と何処がどう絡まってそういう理屈が出てくるんだろう。訳の分からぬ理屈の上にさらに訳の分からぬ理屈を縫い付ける───アップリケでも作っているのか。毎度あきれはてる。
「なに間の抜けた顔をしとる。獅子舞に頭を一噛みしてもらったらどうじゃ。ほれ、コタツの上にある果物は何じゃ」
やれやれ、また食い物かよ。
「え? うんとぉ〜、ミカンですよね」
「そうじゃろうが。君はミカンでなくてバナナを置いちょる。最後の詰めが甘いんじゃ」
「へっ? 何を置くかなんて人それぞれ、そんなの好みでしょう。焼き鳥に塩派とタレ派がいるみたいに」
「なに寝とぼけたことを言うとるんじゃ。少女にするか美女にするか、この一点こそがこの作品の成否を決めるマッチポイントなんじゃ。蜜入りリンゴと普通のリンゴぐらいの差がある🍎。いいか赤井君、こういうのを一流の美意識って言うんだぞ。若すぎるから違いが分からんのだ。補聴器のいる歳にならなけりゃ、小鳥のさえずりの美しさに真に感動することはできん。どうだい、ここまで説明してやればいくらアホの君でも、さすがに目から鱗が落ちただろう」
あまりにも奇想天外な屁理屈ばかりで、こっちとら、びっくりして目から鼻水がたれそうだよ。
「いいか、赤井君。“学ぶ”とは“真似ぶ”だ。芸術は模倣から始まるんじゃ。こういうワシの一流の美意識をこそ盗め。いくら盗んでも窃盗罪にはならんからの。さすれば君とて、歳とりゃ少しは違いがわかる男になるじゃろうて。ネスカフェゴールドブレンド、フリーズドライ製法、ダバダ~ダバダ~。どうじゃ、ワシは今日も切れ味、抜群じゃろう」
「ほう、ちょうですか」
「な? いま包丁とかけたのか」
「ね、僕も鈍じゃなくて少しは切れるでしょう。芸人の卵にだってなれるんじゃないのかなあ」
と勢いで言ってしまったものの、もちろん芸人になれるなどとは思っていない。当然、なる気も更々ない。光り輝く場所ほど闇も深いからだ。ん? これ、小説家にも言えるのかなあ。
「そのギャグ、クリーンヒットだと思っとるんか。ボテボテの内野ゴロだぞ。そんなお粗末なシャレを自慢する奴があるか、ダバダ~ダバダ~。君の生き様そのものが駄洒落と違うんかい。さては待ち構えていたな」
「当たり」
「いいか、赤井君、潜在意識の奥底からもっと深く、さらに深く言葉の泉を汲み上げるんじゃ。目で見るから美しいんじゃなくて、心で感じるから美しいんだ。その心構えが美意識を鍛えるコツだ。どや、名言じゃろが。さすれば君も少しは違いが分かる男になれる、ダバダ~ダバダ~。井戸の底の月を掬え。もっとワシにならってボキャブラリーを洗練せにゃいかん。いいか、少女でなくて美女だぞ。贈り物にはリボンをかけないといかん。君の作品はリボンがかかっていない。鯛焼きは尾ビレまでアンコが入ってなきゃな。いま一つだ、画竜点睛を欠くだ」
「はあ」
素っ気ない赤井君。だが、ただの寝言ぐらいに思っていたものを“作品”とまで言われると悪い気はしない。
「でも大丈夫だ。ワシが目を入れて竜を大空に飛翔させてやっから。何かこの前にも赤井君がいろいろくっちゃべってるな。だけどこれ、日本語には違いないんだが、どうにも解読不可能なんだよなあ。文字お起こしツールもついて行けず、途中で固まっちまった。さしものAIも白旗を上げたようじゃ。なんか薄気味悪い女が出てきて、赤井君を窓から突き落としたり、噛みついてきたりと、それは理解できるんだが、あとはワーとかグワッとか叫ぶだけで、まったく支離滅裂でお手上げなんだね。なんとか形にしてやりたかったんだが無理だ。許せ。(霞ゆく夢の続きを〈4〉─29)」
トンチンカンにほとほと呆れたところだったのだが、その一方で花菱は外見に似合わず時おりこういった優しい側面を見せる。物言いも情に厚い。こんなちょっとした優しさに接する度、親しみが増す。何ともいえない温もりがあるのだ。大袈裟だが、人情の機微に触れた気がする。箱村と同じで根はいい人なのだろう。
「許せ、だなんて。めっそうもない。僕も内容をほとんど憶えていません。どうせ大したこと喋ってませんよ」
「いや、こういうイカれた言葉をつぎつぎと並べまくるというのは、いわば最近の堕落した文学へのアンチテーゼだ。ワシのようなエキスパートに言わせれば、最近の若者の書く小説はハチャメチャさがなくていかん。整い過ぎてるんだ。盆栽みたいに小ぎれいに仕上げちまって退屈だよ。形の整った類似品ばかりだ。どうせ有名出版社のネームバリューや、著名人の推薦文だけで売れとるんじゃろう。ただのハロー効果だわい。芸術性がスカスカで、若いくせに骨密度が低すぎる。もっと精神を崩壊させなきゃダメだ。学校で国語の先生に教えてもらったことなんか全部忘れろ。分かりやすい文章を書きなさい? アホぬかせ。狂人の書く、ぐちゃぐちゃな文章でいいんだ。相手が分かろうが分かるまいが知ったことか。そんなことより内容の薄気味悪さで読み手を圧倒しろ。朽ち果てた廃墟の頭蓋にイメージの手榴弾を投げこめ。砕け散れ、観念の爆発だ。木っ端微塵ばい。沈没船みたいに常識と伝統作法の海に沈んじまった、そんな言葉や、文体や、思想は、灯油をかけて燃やしちまえ。狂いに狂った言葉をこれでもかってぐらいにぶつけてみろよ。異常で病的な、倒錯的で破滅的な言葉の狂い咲きをさせてみろ。あいつら、言葉の蛇口を絞って、狂気が文学に入り込んでこないように締め出してるんだ。ああ、嘆かわしい。人ってのは言葉がなければ考えることができないだろう。文学のなかに狂った言葉が入ってこないようにして、読み手に考えさせないようにしてるんだ。そうやって読者を白痴化して、空っぽな頭ん中にすっと入りやすい‥‥‥何かそういった大衆受けする小説があるだろう、ホームドラマ的な作品とかお涙頂戴的な作品とかな。そういう安易な代物を骨太小説なんぞと喧伝して、いっぱい売りつけてやれっていう魂胆なんだ。そんな大衆迎合主義がまかり通っていいのか。人気取り小説なんかやめちまえ! けしからん、言語道断だ。骨が太くても肉がついてないんだよ、肉が。そんな骨、野良犬にでもしゃぶらせとけ!」
長々と話しているうちに次第に興奮して、終いにはまた怒り出してしまった花菱である。急にご機嫌斜めになるなんて、優しくて情に厚いと思った途端にこれなんだもんなぁ、まったく。普段はその体型がごとく、角が摩耗して丸みを帯びた性格なのだが、こと文学の話になると決して譲らない。丸っこい性格にツキツキの角を出し、金平糖になってしまうから面倒だ。
「小説ブームは過ぎ去って久しく、最近は昔ほど売れてないのかもしれませんけど、下火になったとはいえ中には結構イケてるのもありますよ。確実に進化している。新しいものも食わず嫌いじゃなくて、たまには読んでみたらよろしいかと‥‥」
おっと凡ミスだ。言うんじゃなかった。花菱の顔色が変わった。見れば禿げ頭にトサカが立っている(立つわけないか)。
「進化しとる? 何をほざくか! ぜんぜん世の中は進化しとらんじゃないか。セルフレジを導入するのはいいが、やっと使い方に慣れたと思ったらすぐ新機種に変わっちまって、また迷わにゃいかん。若者は気兼ねなく支払えていいんだろうが、年寄りにとっちゃ迷惑で不便なだけだ。老人ばかりのド田舎スーパーに行ってみろ。いつもセルフレジに長蛇の列じゃわい。あれだってそうだ、電話ならすぐ話せるのに何でメールでわざわざ文字を打たにゃいかんのか。タイムロスじゃろうが。何のためのデジタル機器のやりとりなんだ。文字で証拠でも残したいのか。証拠を残すなら録音で十分だろう。どこが文明の力だ。少しも便利になっとらん! 最近のあらゆることは進歩でなくて退歩じゃ! 近頃じゃ自筆の手紙もめったに来なくなっちまってのう。味も素っ気もない世の中だ! ああ、昭和が懐かしい。昭和はよかったわい!」
花菱は怒りに眉をつり上げる。膨れっ面の虎フグになってしまった。丸かいてチョン、チョンチョンチョンの絵描き唄フェイスが怒っている。なんでだろうか、叱られてるのに眠い。叱る中身がマンネリ化していて退屈だからだろう。毎度のことだから慣れっこになってるのかな。
しかしまあ、小説の話がどうしてセルフレジやメールの話になっちゃうんだろうか。例によって若者と最近の小説腐しだ。蛇蠍視して、やたらめったら貶しまくる。そんなに好き嫌いを言ってると心の栄養が偏りまっせ。時代に逆走する、この化石人間がぁ! アニメや漫画が幅を利かす昨今、花菱推しの昭和型小説は端っこに追いやられて、いまや青息吐息だ。
昔を美化したがる気持ちは分からないでもないが、何度も何度も賞味期限切れの情報や思想を以ってしては話を蒸し返す。しかも判で押したような型通りの同じ話。古い映画のリバイバルは来る日も来る日も繰り返される。分からず屋の彼はやたら再放送が多い。アンタはNHKなのかぁ? アンタの人生、備忘録が何冊いるんでしょうかぁ?
とはいえ、もともと人間というのは我儘な生き物だ。他人が同じ話を何度も繰り返せばひどく気になるが、自分が論旨不明の訳の分からぬ話を繰り返していても大して気にならない。そういうことは誰にもありうる。意外と僕も同じ話を繰り返していて気づかないだけかもしれない。自分の体型を差し置いて他人の体型は気になる。これは花菱だけとは限らない。人の心は皆、不完全。これは僕も例外ではない。反省。
苦虫を噛み潰し、ブスッと黙り込む花菱。さて、僕が水を差したせいで弁論大会は終わったのかな? その渋面はさながら生きた化石、カブトガニだ。
「昭和にはニューミュージックと呼ばれた曲であっても、今や世間はオールドミュージック扱いしてますよ」などと、手を替え品を替え時代遅れを説得しようとも、説得するたび叱られる。いつも逆風だ。世の中は新陳代謝して旧は新におのずと入れ替わっていくというのに、この石頭の頑固ジジイにはそれが響かない。決して自説を曲げようとしないのだ。
文学観に温度差がありすぎる。寒暖差があればミカンは甘く育つそうだが、二人には目指す小説の理想型に根本的な解釈のズレがあり、関係性が酸っぱいままで少しも甘くなってくれない。立っている場所がまったく違うので、同じものを見ても同じものを見ていない。ぎくしゃくした緊張関係が未だに続いている。B型にもかかわらず(知らんけど)、こと小説に限っては何故か古臭い枠をはめたがるので困る。そんな古い文学観でどうするんでっか? 古事記しか読まない人は乞食になるよ(失礼)。(¯▽¯)ゞ ワルイワルイ
もっとも時代の移り変わりとともに昭和が隅っこに追いやられていくのは時間の問題である。昭和を目一杯感じさせられる、花菱のいるこの場所はさながら陸の孤島だ。見方によっては貴重な空間だとも考え得る。不満に感じながらも、辛うじて昭和が残っている今のうちに精一杯、味わっておくほうが賢明なのかもしれない。
ともあれ花菱は何を言おうと頑なに意地を張る。社会の担い手が日に日に入れ替わっていく事実に気づこうとしない。苔の生えた石地蔵そのもの。一筋縄ではいかない。いつも頭突きをくらって痛い目に遭う。思い込みが激しいので分かってもらうのに一苦労、もうお手上げだ。丸っこい体だから齟齬を丸め込めると思ったら、そうはいかない。
彼は損をしている。適当に妥協しながら世渡りすれば、何事ももっと円満に進めることができるのに。安易に妥協して、あとで困るようなものでもないっしょ。これは箱村にも通じる。そして恐らく僕にも。
部屋にキーボードを打つ音だけが響く。その音は一段と大きく、ある意味乱暴にすら聞こえる。本当に腹を立てているらしい。隙間風が吹き始めてしまった。しばらく経ったので怒りは峠を越してるかな? ここいらで機嫌をとっておくべきかもしれない。
「お仕事中失礼しますが、後学のために教えてもらいたい事があるんですよぉ。僕が見た幻覚のブランコのくだりは花菱先生ならどんな風に整理します。お手本をお聞かせただきたいんですが」
慇懃無礼な赤井君。さてはさっき人魚のポエムでなじられた仕返しをねらっているようだ。ところが先生という呼び方が功を奏したのか花菱は破顔一笑、手の平返しで機嫌がよくなる。この人の喜怒哀楽はジェットコースターだ。こんなに簡単にかわっちゃうの? ほんとにシンプルな単細胞人間である。
「おう、そうかそうか。そこまで言うならワシが特別に模範を披露してあげよう。ワシは生徒に模範演技を見せることのできないポンコツ体育教師や、御託を並べるだけ並べて自分では何もしないコメンテーターではないからな‥‥‥そうさな、たとえば、だな、
吊り下がった骨が揺れている
ブランコの茶色く錆びついた軋みの上で
少女が逆立ちして笑っている
少女は揺らめくガラスの部屋で眠った
ガラスの部屋は暗い空に砕け散り
赤いドロップの雨を降らす
少女は夢を見た
平原の真ん中に円柱が直立している
その周りを
白い顔をした子供たちが
不気味な笑みを浮かべて
手をつなぎ
輪をつくって
ぐるぐると回っている
見れば
横縞の衣装を着込み
白く厚い化粧をしたピエロが
丘の上に立っている。
ピエロが手にもつ白い旗を上下に振ると
彼の前面が一瞬にして砂のように崩れ落ちた
後に残ったのは
目のくらむほど落ち込む深淵
ぱっくり開いた大地の巨大な口をのぞき込みながら
ピエロは不気味に笑った
笑った唇の端が切れている
血が一すじ垂れた
血は長い糸をひきながら暗い永遠の底に沈んでいく
闇中に引きのばされた心臓の幻影が
君の足下に赤い幕をたらす
悦に入る花菱。会心の笑みを浮かべている。余裕綽々、どや顔だ。アタフタすると思っていたら目論見が見事に外れてしまった。う~ん、残念。壁にはられたマリリン・モンローのポスターにマジックで髭を書き入れる気分で、おちょくってみたつもりだったが、見通しが狂った。なんの冷やかしにもなっていない。
「どや、急ごしらえの割にはいい出来じゃろうが。流麗な言葉のレリーフだ。詩文の語句がよどみなく流れていく‥‥‥‥これを芸術と言わずして何を芸術と言うのだ」
赤井君は声を失い、目が点になる。吹き出しに書き込む言葉がない。自信たっぷりな様子はいささか鼻につくが、特異な能力であることは確かだ。鳥肌が立ってきた。一見だれでもできそうだが、いざ実際にやってみるとなかなかこうスラスラとはいかないものだ。
「‥‥‥‥」
「なんだ、真昼間から夕凪か。種も仕掛けもないぞよ。格の違いを見せつけられて仰天したな、そんな驚いた顔して。どうした悪代官、葵のご紋の印籠をチラ見せされて、ハハ~ッとかしこまったか。まさしく国士無双じゃ。ああ、新進気鋭だった頃を思い出すわい。ワシャ若い頃から才気煥発じゃった。なのに、あの糞どもがぁ、つまはじき者にしやがって。さんざん下積みを経験させられたのに、何だアイツ等は。威張りくさるな! 中にはたまに“君は大器晩成型だ”と言ってくれた奴もいたが、だからってワシの晩成はいつ来るというんじゃ。いつまでたってもちっとも来やせんじゃないか。とうとうこの歳になっちまった。かくも天才的なワシが過去を振り返るとき、どうして後世に形あるものとして残る作品がまだ一つもないんじゃ。このままだと死ぬに死にきれん。紆余曲折はあったものの、ずっとこれを拠り所に生きてきたんだ。じゃが、君が現れて潮目が変わりそうだ。ワシャ、まだまだやれる。世の中をアッと言わせるまで隠居してたまるかい! 今は完全に埋もれちまったが、文壇の異端児、花菱ここにありだ!」
「ひっ、文壇の異端児?」
「そうじゃ」
「そうじゃ?」
「そうじゃ、どこがおかしい」
「え? どこがおかしいって?」
「君は鸚鵡か。どこもおかしくなかろうが。真に優れた作品を残す者は常に少数派なんだ! 周囲は誰も嫉妬して認めようとせんのだ。君にしても箱村にしても何度も何度も一次で落とされて、まだそのことが分かっとらんのか!」
「分かってないって何をですか?」
「はあ?(怒)。君は鸚鵡でなくてアホウドリだな。魚なみの脳ミソしかないのか。哀れにもルアーに必死に食つこうとしておる。あんなもん、フェイクといっしょじゃ!」
「あ、は‥‥‥はぁ」
剣幕に気圧されて絶句。次の言葉が出てこない。しかし花菱なんていう作家は聞いたことがない。いったいいつのことなのやら。ペンネームで書いてたのかな。調べるのも骨が折れるからどうでもいいや。作家は自分でそう名乗れば作家だ。彼はせいぜい文壇界隈をちょろっと通りがかった通行人の類だろう。作家といっても、どうせ素人の手すさび程度の作品を数作かき上げた───そんなところが関の山だ。
「後世に形あるものをまだ残していないって言いますけど、出版社から本の一、二冊ぐらい出してもらえなかったんですか。文壇の異端児というくらいの逸材だったなら」
「性懲りもなくまだ言うか! 君こそそこまで有名出版社に本を出してもらいたいのか! 今日の晩飯代にも事欠くくせに、“なんとか賞、なんとか賞”といつまで宝クジを買い続けるつもりだ! 何度も何度も一次で落とされ続けても諦めないのは、“勝負は時の運、風向きがよければ僕だって”などと浅く考えとるんかもしらんな。引いたら当たったり外れたり、それがクジじゃないかと高を括っとるんじゃろう。じゃがそんな簡単なもんじゃない。君が引いとるのはクジじゃのうて綱引きの綱だ。相手が相撲取りなら綱引きして勝てる訳なかろうが。どういう篩にかけて選別しとるんか知れたもんじゃないぞ。何かの裏やカラクリがない限りは、どこの馬の骨とも知れぬド素人が弓を引いて、そうそう的に当たるもんか。君は生活に困窮して、神頼みで小説新人賞に応募しつつげたんじゃろう。アイツらは神か? アホぬかせ。そげな競争には参加すんな。そんなもん、彼らがつくったルールや基準に巻き込まれとるだけのことだ。どうして他人様がつくった鋳型に無理やり自分をはめ込もうするんだ。明らかに君はワシと同じ異端者だ。自分のことじゃから、そんなことぐらい分かるじゃろう。異端者が彼らの鋳型にスッポリはまると思うかね。彼らは自分流の鋳型に溶かした金属を流し込み、望み通りの鋳物を作りたいんだ。君の作品は彼らのリクエストに全く応えちゃおらん。互いにまったく違う世界に住んでおる。道端の石ころみたいに蹴飛ばされるだけのこっちゃ。ガキならガキらしく登下校は通学路を使え、スケベ心で華やかな大通りに出ようとするから事故に遭うんだ。いま闇鍋に箸を突っ込もうとしとる自覚がないのか? ずる賢くて商売上手な連中がこしらえたゲームには参加するな。パチンコ店といっしょだよ、裏で操作しようと思えばいくらでもできるんさ。自分の今の惨めさや非力さのゆえに現状打破したい気持ちは分からんでもない。だが君が破ろうとしとるのは現状でも何でもない、せいぜい障子だ。障子破りは低能なガキのすることだろう。いくら将来を悲観して途方に暮れとるからといって、障子を破ることはないじゃないか。君は低能なガキだから、葦の髄から天井をのぞいとる。現実がどうなっとるか知らずに、流言飛語だろうが何だろうが信じたい情報だけを選ぶ。はては信じたい事実まで妄想でつくりあげる。じゃから、障子を破ろうとしてお母さんから叱られるんだ。論より証拠とよく言うじゃろう。君には論だけあって証拠がない。素通しのダテ眼鏡は外すんだ。ちゃんと度の入った眼鏡で細部まで一つ一つ事実を拾っていかなきゃいかん。さすれば病巣はもっとずっと深いところにあるのが自ずと浮かび上がってくるはずなんだ。そな“なんとか賞が欲しい、なんとか賞が欲しい”などと甘ったるいことを言う前に、そのことをしっかり認識せい!」
息巻く花菱。こりゃ相当おかんむりだ。長々と話すわりには比喩だらけで具体性が全くないので何を言わんとしているかサッパリ分からないが、どうやら本を一冊も出してもらってないことだけは確かなようだ。
これで“文壇の異端児”とは片腹痛い。“今は埋もれてしまったが”と言うけれど、最初から最後まで埋もれっぱなしじゃないか。だって誰も掘りおこしてくれなかったんでしょう。
もしかしてこんなにも最近の小説や出版界を糞みそに罵るのは、本を出してもらえなかったことの面当てつもりなのかもしれない。
な〜んだ、かつて出版界の周辺をコバンザメよろしく泳ぎ回っていたことを除けば、僕や箱村とまるでいっしょじゃないか。これじゃ花菱という作家が思い当たらなかったのも無理はない。
だが再三いうけれども、作家は自分でそう名乗れば馬鹿でもチョンでも作家だ。これは花菱とて同じ。“文壇の異端児”などと自称しているが、結局のところ、文壇から断捨離されたんでしょう。あとはこの世から断捨離されるのを待つばかりだ。
そう考えると可哀想な気さえしてくる。さて、どうするか。何を言わんとしているのかよく分からないが、ここは分かったふりをするのが礼儀なのかなぁ。大人げなく痛い所を衝かずに、ここらでヨイショしとくか。
「おっしゃる通り! 社長さんの話は説得力があります。たしかに池上彰レベルと自慢するだけのことはありますね」
「お、そうかそうか、素直に自分の非を認めるところは箱村とは違うな。若いのに人間ができとる。何事も負けを認めるから成長できるんじゃ。豊作の稲穂は首を垂れるじゃろう。一杯もっているからこそ謙虚でいられるんだ。見込んだ通り君は優秀じゃわい」
───で、アンタはどないやねん。
花菱の目尻が下がっている。褒めたことが嬉しかったようだ。手の平返しで機嫌がよくなった。なんて分かりやすい人なんだろう(話はチョー分かりにくいけどね)。しかし僕は彼にとって優秀なのかアホなのか果たしてどっちなんだろうか? いつも悩む。
「自慢するわけじゃないが‥‥‥」と花菱。
どうせ自慢でっしゃろ、その得意満面の表情からして。あまり自慢すると嫌味になりまっせ。
「自慢するわけじゃないがもはや匠の技じゃよ、人間国宝級だ。そのうちギネスブックにも載るんじゃないかぁ?」
「え? 何がですか? 何が人間国宝級なんですか?」
「君はアホか」
ほらほら、僕はあなたにとって優秀なのかアホなのか、どっちなん。
「今さっき披露したワシのポエムに決まっとるじゃろう。君は間に違う話題が少しでも入り込むと前を全部忘れちゃうのか」
それはアンタでしょう。
「ああ闘志がわいてくるわい。パラパラ拍手をもらうぐらいじゃ物足りんな。スタンディングオーベイションで場内が沸く、ってなもんや‥‥‥三度笠だ(古!)」
不機嫌だった花菱が、今度は自慢でスーパーハイテンションである。ちょっと話を膨らましすぎなんじゃないの? その体、もうさんざんっぱら膨れているのに。人間たるもの、ここまで高慢チキになれるもんだろうか。いまにも胴上げでもさせられそうな勢いだ。アンタみたいな重たいデブを胴上げするなんて真っ平だよ。
「赤井君、色紙を持ってきたらサインしちゃるぞ。夢茶なんぞ飲まんでも、矢継ぎ早に言葉が出てくるんだわ。こんなアドリブ演奏なんざ、お手の物だ。“ああ、言葉が湧き出てくる。何の繋がりもない言葉が自在に動き出す”ってな感じでな。出そうと思えば、まだまだ幾らでも勝手に出てくるわい。エンドレスじゃ。品切れはない。長年の蓄積があるからな。泉が溢れそうなんじゃよ。まずは見とれ、そのうち高市旋風がごとき花菱旋風を世の中に巻き起こしてやるからな」
えっ? ちゃっかり高市総理と自分を比べちゃったりしてるわけ? 比べちゃダメでしょう。それって厚かましいにも程があるじゃないか。
大言壮語のガム風船を膨らませる花菱。やれやれ、自惚れもここまで来るか。自分にのめり込むのも程度問題だな。いい反面教師になる。トランプの絵札はキング。アンタは日本版トランプだ。シュプレヒコールはもちろん「王様はいらない」である。ババがキングのフリしてどーすんの? そのうちババ抜きになるよ。
「どうした、“結構なお手並みでございます”ぐらい言わんかい。いいか、こういうのは分析しようとするな。手放しで丸ごと味わえよ。林檎はそのまま丸かじりが一番うまいんだぞ。さてここで重要な質問だ」
「へっ、なんすか?」
「今のワシのイメージにどうしてピエロか出てきたか、言ってみい」
「え、そんなの分かるわけないじゃないですか。僕のポエムじゃなくて、花菱社長のポエムじゃないっすか」
「何を言うちょる、君でなきゃ分からん」
「なんで?」
「君もこのピエロに会っとるじゃろう」
「意味が分かりません」
「勝山公園で待ち人来たらずで、つい居眠りしかけたときのことじゃ。君はもはや存在していない木製ベンチに腰掛け、これまたもはや存在しない噴水を見ておった。うつらうつら眠りに落ちかける間際、君はピエロと会った(霞ゆく夢の続きを〈8〉─53)。ワシもほんの短い時間ではあったが、いまアイツと会ったんじゃ。墨絵のごとき色彩のない世界に住んじょったよ。君に伝言がある。聞きたいか」
「‥‥‥‥」
「伝言はこうだ。───死んでしまった私はもうこの街にいないのに───だ。なんや妙ちきりんな伝言だな。もしかしたら君、死んでしまったあの人に会いに行かなきゃいかんのとちゃうか? まさか君もまた、本当はいま死んでいるんじゃないだろうな」
確かに勝山公園で見た夢にピエロは出てきた。僕ですら忘れかけていたのに、花菱はどうしてそのことを知っているのだろうか。さらに不可解なことに彼はそのピエロと会ったと言う。いつ、どこで? そしてどうやって? いったい、そんなことがあるものだろうか。
「怖いこと言わないで下さいよ。生きた心地がしなくなるじゃないですか」
「ほらほら、やっぱり死んでるじゃないか。たった今、生きた心地がしないと自分自身で認めたろう」
「ほな、アホな。僕が今死んでいるって、何おかしなことを言ってるんですか。その目で僕を見てださいよ。ほら、見たまんまでしょう。こうやって生きているじゃないですか、ここに」
「どうやら君は現象だけ見て本質を見とらんようだ。どういうことかと言うと例えばこういうことじゃ‥‥‥」
「また喩え話ですか」
「だから言ったじゃろう。何回言わせる気つもりなんかい。本質的なことを言葉で人にありのまま理解させることはできんのじゃ。というより、そもそも本質を言語化すること自体、不可能なんじゃ。言葉はしょせん言葉にすぎん。なのであえて喩え話で当人に気づかせるよう仕組むんだ。これ、すなわち方便という。言葉で説得して人を悟らせることが出来ればお釈迦様もあんなに苦労することはなかっただろうよ。言葉で人を悟らせることはできん。自らが自らの力で体得するしかないんだ。そこで釈迦は来る日も来る日も可能なかぎり多くの人々に辻説法し続けた。その人の魂レベルに応じて手を替え品を替え方便を駆使して、それにより何とか自力で悟りの道に至るよう仕向けたんじゃろうが」
「それは何度も聞いたから分かってるんですけど‥‥」
「分かっとるんだったら、ワシの喩え話の何処が悪いんだ。ちっとも悪くないじゃろが。お釈迦様と同じことをやっとるだけのことじゃろう‥‥‥と、いうことで喩え話をもう一つじゃ。つまり君がいま死んでいるかもしれないというのはだな、こういうことなんだ。たとえば君とそっくりのクローンがつくられたとする。完全複製で姿かたちはもちろん、性格も記憶もまったく同一だ。ある日の朝、君が目覚めたとき“どうやらコピー工程にミスがあったようで、残念ですが、あなたのクローンは真夜中に死んでしまいました”と告げられる。そこで聞きたいんだが、本当にクローン人間は死んだと思うか」
「え? 質問があまりに突拍子なくて‥‥」
「眠っている間に君とクローン人間を入れ替えたとしたら、死んだのは君自身で、いま目覚めた君が実はクローン人間かもしれないじゃないか。なんでかってクローン人間は記憶が全く同じだろ? 同じなら自分がクローン人間であっても気づかないじゃろう。それに眠ってる間は意識がないので、自分とクローン人間を入れ替えたとしてもそれも気づくこともないしな。よって結論。君が君自身であり、なおかつ君が君自身のまま今ここに生きている───そういった確証などどこにもないんじゃよ。君だけじゃない、人間とはそういう存在だ。そしてここが重要なポイントだからよく聞け。今ここにいる君と、夢茶に酩酊したとき現れた第三の顔をもつ君とは、この喩え話と全く同じ関係にあるんじゃよ。人はしょせん腹話術人形だ。よ~く自分の内面を観察・分析してみい。もう一人の自分に操られていることが見えてくるじゃろう。せいぜいクローンに乗っ取られんよう気をつけることだな」
花菱の言葉がなんだか少し恐ろしく思われる。なんと表現したらよいのだろう。あるはずのない銀色の刃を背後に感じてしまうというか、心の扉が少し開きそこを何物かの影が一瞬通り過ぎていったというか───とにかく直接的な恐怖ではなく、何かしらそこはかと無い恐怖なのである。
花菱が言う。
「鏡をずっと眺めとったら、ふと“コイツは本当に自分なのだろうか”と思ったことはないか? 君はあるはずだ。それも一度や二度じゃない」
ん? 確かにある。最近ではあまり鏡でじっくり自分を見ることはないが、幼い頃よく感じた。これって誰にでもあることじゃないの? 違うの?
「あの、その‥‥‥」
二の句が継げない赤井君。言葉が出てこないので、かわりに無理に笑おうとしたが、口の端が引きつっているかのようなアンバランスな顔つきになってしまった。胃の腑が割れ、突然そこから膿が体じゅうに噴き出してきたかのごとき面食らった表情である。
「ようやく君もワシの言っとることが、ただのまやかしでないことが分かってきたようじゃな」
(56)
閉鎖病棟の一室。施錠された鳥籠。私は病室の閉じた世界に監禁されている。だがそれでいい。私は自分の内側にむかって旅をするのだから。存在の喪失自体が存在であるという、死という名の化け物。彼はいつ私を訪れてくれるのだろうか。
そろそろ瞼に毒蛾がとまり、視界に闇を注ぎ込む時刻だ。黄昏の色濃き西の空を茜雲が彩る。夜の闇が私の周囲に腹這いになり、寝息を立てはじめている。やがて辺りがさらに暗くなってくれば、私は砕けた夜の破片で悪魔の体を組み立てていくことになろう。
閉じた瞼の裏側に、緑色の球体が無数に浮かんでくる。球体はガラス細工にも、水晶玉にも、金魚鉢にも、水滴にも、シャボン玉にも、朝方に草葉にのる露にも、そして時として眼球にさえ見えてくる。
目を凝らすとその球体の一つ一つに小倉北区らしき場所の、ありとあらゆる路地裏の光景が断片的に映しだされているのが分かる。
都会はカタツムリの殻の中の迷路。きっとこれは、都会の入り組んだ迷路に私の目玉が無数に漂い、たった今もそれらが何百何千もの光景を見つめているからに違いない。
私は肉眼で見る必要はないのだ。なぜなら無数の目玉が緑色の球体となり、自ら意思を持ち、シャボン玉となって都会の街路のさまざまな場所をさまよい、そして私の想念の中に無数の光景を描き出してくれるからである。
夜空は黒い水面のようだ。闇が満ち潮のように、暗い波打ち際をぐっと手前に引き寄せる。漆を塗った波の光沢。海鳴りがする。波がおしよせ脳壁を洗う。私は夜の闇をかき回す。目眩がしてきた。
泥の中に顔を突っ込んだような闇に、髑髏さながら青白い球体が浮かんでいる。月だ。月が凍っている。無数の目玉も凍りつき、頭蓋のドームをカラカラと転がっていく。
多くの人が街中の路地を行き来していのが見える。とくに歓楽街はガラス瓶のなかでパチンコ玉を転がすように騒がしい。夕暮れの光が雑踏をすり抜けていく。彼らは銀幕に映った動く人影となって彷徨う。あたかも陽炎が揺らめいているかのように。帰り道を失い、永遠にまわり続ける回転木馬のように。
彼らは本当に生きているのだろうか。ただの動く影絵なのではないのか。私の脳のなかに入り組んだ無数の通路が穿たれ、そこを死人たちが行き来しているだけなのではないのか。
かつてよく想像したものだった。この人混みのなかに果たして殺人鬼や殺人鬼予備軍がどれぐらいいるものだろうか、と。予備軍も含めれば結構な数になるのではないか。人間というのは一皮剥けば、そういう残酷な生き物だからである。
全ては運命の巡り合せによって決まる。もし私がたまたまイスラエル軍の兵士であったのなら、どれだけのパレスチナ人やイラン人を殺したか知れたものではない。人間はつくづく哀れだと思う。縁によっては天使にも、悪魔にも、いかようにもなる。きわめて不安定で非力な存在である。
もし邪悪な指導者が一人、核のボタンを押してしまったことで世界が全面核戦争になってしまったらどうだろう。破滅だ。この世に生きている人間は一人もいなくなる。
この世は死体の山。夏、祭りの翌朝、砂といっしょに無数の虫の死骸を箒でかき集めるように、悪魔か神か宇宙人か知らないが、巨大な姿をした何物かが無数の人の死骸を処分しなければならなくなるのではないのか。
であれば私が今、街を行き来する人たちを死人と感じるのはある種の予言で、実際には彷徨う霊を見ているだけなのかもしれない。
月はレモンの切り口。とつぜん車輪の形をしたその切り口から雫が夜の海に落ちた。と同時に、浮かぶ緑色の球体の一つが手の甲に落ちる。それはさながら首吊り死体の足先からしたたりおちる雫の感触にも似て、冷気を背筋に這わせた。皮膚の表面を青い電気の膜でなぞられている気がする。
夜のカーテンがめくれ、その球体のなかにだけ神の顔が白く浮かび上がる。光が眩い。光に目がなじんでくると、球体のなかには少年の私がいることが分かった。少年であるはずなのに、なぜ私は少女のようにスカートをはいているのだろう。分からない。もしかしたら私は女なのか? 平衡感覚を失い、意識が宙に浮かび上がる。
私が女? まさか、そんな馬鹿な。
視界が水飴のように引き伸ばされて広がっていく。あたりの光景が目の中に流れ込んでくる。そこは魚市場だった。格別、空気が重い。普段なら生き生きと熱っぽく、活気にあふれているはずの市場は今日に限って暗かった。
コンクリートのフロアーには開かれた魚の白い腹、そしてとても大きな四角い氷の塊が横たわり、水蒸気がたちのぼっている。この現実感は何だろう。まるでそれらには命があり、今はただ眠っているだけかのごとき佇まいだ。
そのとき私はえぐられたこの魚の腹のように空虚だった。自分の内臓までが異臭をはなち腐っていくような気がする。からっぽの心。胸の中央に洞穴が穿たれ、そこを風が哀切な叫びをあげて通り抜けていく。言葉がその風に乗って吹き上がる。言葉が───
空白、とろけ落ちる目玉のシロップ、雪、暗い穴、動揺、巨塔から見下ろす恐怖、落下する影。
大きな俎板に包丁が食い込んだままの魚が横たわっている。生きているのか死んでいるのか。今、その尾びれが少し動いた。包丁は鋭く、ガラスのように表面が半透明に透きとおって見えた。永遠に果てることのない真空を見ているかのようだ。
私はその表面に何かしら影が揺曳しているのを感じた。もちろん実際にここからそれが見えるはずもない。ただ揺曳しているのを感じたのである。瞼の裏にその揺れている像を思い描いてみる。
よく見るとそれは首だった。目を閉じているので定かではないが、なぜか私の首に思える。別人が私の仮面を被っているだけなのだろうか。なぜなら本物の私はここにいるのだから。首が巨木に白い紐で吊るされ、振り子さながら左右に揺れている。
突然、仮面を被ったそいつがカッと目を開き、こちらを見つめ、笑いながらこう言った。
「お前、なんでここにいるの? お前はもうここにはいないんだぞ。お前の過去はもうお前自身のものではない。そんなものは誰かに全部くれてやれ!」
蠅取り紙には、無数の蠅が吹き出物のようにはり付いている。え? 蠅取り紙だって? これはいつの時代のことなんだ。ずっと昔であることは間違いない。嫌な臭いが辺りに漂う。汚れた下着から洩れ出る、腐った卵やチーズのような臭い。むき出しの裸電球と天井から吊り下がるコードには紫色の綿ぼこりが絡みついている。
トタン屋根の隙間から陽光が銀の蜘蛛の巣をはっている。毒グモが聖母マドンナの仮面をつけた悪女を捕まえようと、淫欲の牙を剥いている。
市場は暗かった。幼児を背負った母親は今、コロッケを買った。幼児はこちらに小さな手を向けて、ママシィーと言う。ママシィー? どういう意味だ、ママシィー‥‥‥‥
私は小倉の中心部、繁華街を歩いていた。肌にしみ入る夜気は湿気を含み重い。水を含んだ暗幕を体にまきつけ歩いているようだ。
舗道が一筋、銀の筒となって錐の先端ほどの消失点にむかって延びている。果てしなく広がるガラス製の床を裸足でどこまでも歩いているような気がする。青いカナリアの羽根はまだ手にしっかりと握りしめられている。
広い歩道の敷石を歩いてゆくと、細い横道があった。リールで巻き込まれるように自然に体がそこに入り込んでいく。そのとき急に重い疲労感を覚えた。眉間のあたりに血液が凝集し、固まってしまったかに思える。閉じた目の裏側に青や赤の血管の浮き出た脳が浮かんでいる。脳は膨大な時間のなかにとろけ込み、もはや外形を失いつつある。
目の奥に広がる闇のなかで思い切り両手両足をばたつかせてみた。が、なんの抵抗も感じない。私の感触をみたすものは全て、異次元に飛ばされてしまったのだろうか。吊りひもを無くした操り人形が無重力空間にいて、さも溺れ苦しんでいるかのようだ。
向こうから籠を背負った老婆が杖をついてやってくる。老婆は私を見ると静止し、顔をジロジロながめた。二人の影も黒スタンプを地面に押したようにしばし動かない。老婆の左目は黒目がなかった。可哀想に。目の不自由な人でも街中を歩けるのは、目の見える人がよけるからだ。だがよけるだけでいいのか。何とかしてあげられないのか。
驚きだ。私のようなエゴイストにも、こんな他人を思う気持ちが少しは残っていたとは。だけどお前は何もできない。あるのはただ言葉だけ。それ以上何の力もない。口先だけならなんとでも言える。お前ごときが、このお婆さんに何をしてあげられるというんだ。お前の魂は蝉の亡骸ほどの重さもないのだ。そう思うと星明かりが滲んで零れ落ちた。なんだ、この涙は。気でも狂ったか。何をいまさら、もともと狂っているじゃないか。
すれ違ってから、ちょうど二十二歩目に振り向くと、老婆はしゃがみ込み、灰色の干し柿のような尻を見せ地面に放尿していた。私はそれを見て一気に悲しみと憂鬱が晴れ、爽快な気分になった。アンモニアの放物線が天と地を結ぶ黄金の虹に想えたからである。
───私こそは時の時、まさしく神仏の御使い、死骸の骨と腐肉と汚物を食らい、それでも黄金の卵を尻からひり出す者。
言葉が放浪する。ありとあらゆる思考と空想が躍動し、空虚の中をさまよっている。ああ頭痛がする。言葉が‥‥‥‥言葉が湧き出てくる。何のつながりもない言葉が自在に動き出す。漆黒の闇の中、私は地獄の門をひらく。言葉が息つく間もなく溢れ出す‥‥‥言葉があてどもなく想像の荒野をさまよう‥‥‥
膨らませたチューインガム。その内部の薔薇色の空間に私は駆け行っていく。幼年期のその世界の中に。無数の頭蓋骨の胡桃の欠片を周囲に散らしながら、私は過去に駆けていく。
ダイヤモンドのガラス切りが胡桃の殻を割り、内側から黄金の光があふれだす。幼い頃みた、夏雲の切れ目から差し込むあの光。舌に何重にも光の糸が巻きついてきた。私の過去のすべての思い出が、光の蜜のなかに眠っている。
午前零時。時計の針が重なり合うと同時に、鋏のように何者かの腕を切り落とした。切り口からは血が噴き出し、眠っている女の肌を染めた。こってりと紅を塗った夕陽の唇が、女の乳房を這いずりまわっている。
悪魔が夢の端を切っている。意識の扉のむこうに白い球が浮いている。それは女の乳房にも見える。銀の皮膚がはがれ落ちると、そこには神経の条が光の帯となって何百本、何千本も密集している。
私は自分の内部にむかって歩き出す。そしてある時、そこに絞首台にぶら下がった白い影を見た。そのぼやけた輪郭がどんどん過去へと透け出していく。
夢の楽園へと続く道が次第に姿を現し、ぽっかりその口をあけた。道の行きつく先には夕焼け空も見える。私は空へシェリー酒を注ぎ込んだ。蜃気楼の大地に血液の雨が降る。崩れゆくシャレコウベが潤う。
剥製化した波の切り先が意識を侵食し、身体が死人の頭に変じて空に揺動する。ブヨブヨにたるんだ腹を噛む人魚のように、男は倒錯した気分になる。
数限りない蛇が地面にひしめき、口をあけて笑っている。骨の内側に何物かの青い光が浸透し、モノクロの版画絵を知覚の膜に映し出す。
今にも落ちてしまいそうな、赤く爛れた大きな目をした多くの人々。彼らの背中には一つずつ蝋燭が埋め込まれている。
彼らは夜の街を灯りで照らしながら列をつくって歩いている。体じゅうを走る網状の血管の中に蝋燭から垂れる蝋の雫が流される。蝋は瑠璃色の光沢を示し、石英の切り口を内臓の闇に向けている。
シャワー室で胸を刺されて殺された女の死体がある。冷たい肌。噴き出した血が、青ざめた乳房の間で固まって原色の塊となる。心臓が浮き出ているかのよう。乳首は勃起したまま。タイルに流れた血の条は水彩画のように淡い。舐めると赤いシロップのように甘そう。
(57)
「あのぉ‥‥‥」
「“あのぉ‥‥”なんだ。その先はないのか。君のどぎつい化粧顔を映した鏡が割れて、なんや不吉なことでも起こりそうなんか。さては少女の手毬が君の胸骨の隙間の暗闇にでも転がり落ちていきましたかな。闇の底に落ちていったんなら、いくら手を伸ばそうとも、そりゃ拾えんわな」
「なんと申し上げてよろしいのやら‥‥‥」
別に気後れするほどのことでもないのだが、花菱の繰り出す言葉に鼻白んでしまった赤井君である。稲光を見たかのように身がすくんでしまい、なんだか剥製になった気分だ。
一方花菱は花菱で俄然調子づき、テンションあげあげだ。先ほどの自作即興ポエムの余韻に浸っているご様子である。自画自賛は性懲りもなくまだ続いているようだ。
「どうかのぉ。本家本元、産地直送の言葉の味は。これがホンマモンの言葉の魔力じゃわい。亀の甲より年の劫じゃろう。まさに生演奏、ライブの醍醐味じゃ。こんな即興ぐらい朝飯前だ。若輩どもには負けんばい。老いて日々能力も衰えていきよるのを感じちょったが、これは円熟味が増したからそう感じるだけのことじゃい。ひょっとしたらワシの全盛期は若い頃じゃなくて今かもしれんな。年齢なんぞ、何の意味もないただの数字じゃ。まだまだ燃え尽きてたまるかい! 落葉はせんぞ、地面に落ちて焚き火にされるのはまっぴらだ。最後にひと花さかせてやるんばい! ♪咲いた咲いた、チューリップが咲いた~~並んだ並んだ~赤、白、黄色♪ そうだ! 最終便はまだ発車してオラン~~~ダ産のチューリップだ!(はあ?)。 乗り遅れてなるものか。老後はまだ先じゃ! そう簡単には主役花菱の大河ドラマに幕は下させんぞ。終活なんかしとる暇はない。そんなもん、ずっと後まわしじゃい」
うわぁ終活を後回しって、この人、いつまでこの世に居座るつもりなんだろうか。もしかして百歳ラインを越えるつもりなの? いくら自分が長寿の高木ブーに似てるからって、実際そんな人、何パーセントいると思うんだ。ド厚かましい。
自慢話はもうええて。さっきから得意満面の暴走運転でガードレールを破壊しまくってまんがな。並べること並べること。そのライブ即興演奏、自己陶酔がすぎて何処かでキーを外して、素っ頓狂な音をたてれば愉快なのに。ゲラゲラ笑ってやるのにな。
そう心の中で何やら負け惜しみらしきことを宣う赤井君である。
「燃え尽きてたまるかって、まだまだ火葬場で灰になりたくない気持ちは分かりますけど(いけねッ、これ、意味違うかな)、若い世代を若輩者呼ばわりすると、自分が老人であることを認めたことになりますよ」
「おっ、やっとこさ減らず口が出たな。負け惜しみか。びっくりした顔してしばらく言葉が出んだったくせに」
「‥‥‥‥」
「またエンストで出なくなっちまったか。どうした、固まっちまって。筋肉弛緩剤でも打たれたか」
「そな、縁起でもない」
「君の脳ミソはよくオフラインになるな。哲学者面して“もっとも雄弁な人とは沈黙する人のことであ~る”とでも言いたいのか? な〜に、ただシュルレアリスムのオートマティスムを応用したまでじゃよ。コツは自動思考からスキーマの影響を意図的に外してしまうことだな。要は究極のコックリさん状態になりゃいいんじゃ。こんなこと言ったって、IQの足りん君には分からんじゃろうが、いつかここいらを研究してみたらいい。“どや、心憎い手法でっしゃろ”と人に自慢できるぐらいになったらいい。とりあえず、ワシのレクチャーは君の才能へのオマージュとして受け取ってくれたまえ。これは、ちゃんとリボンのついた贈り物だ」
オートマティスムとかスキーマとか、半分以上なにを話してるのか解らない。それはいつ、どこの国の手法なんだ。昔の名前で出ています的な、何かのリバイバルでも狙っているのか。
花菱はシンバルを鳴らし続ける。興奮度、爆あがりだ。野次の一つも飛ばしてやりたいところだが、さすがに相手は雇用主、そんなことはできない。
「どや、ついてくる気になったか。君さえよければ、手取り足取り奥義を伝授してやってもいいんじゃぞ。君は潜在力はあるものの、所々に綻びがある。ちゃんとした図を書くには、まだ方眼紙の助けがいるんじゃ。イロハから手ほどきしてやろう。灰汁は丹念にワシがすくってやるよ。そのほうが近道じゃ。箱村はいかん、アイツは小物だからいつも“いずくんぞ知らんや”だ。何度レクチャーしてやっても進歩がない。馬の耳に念仏じゃ。それにひきかえ君は性格が低反発マットだから箱村よりずっと教えやすい。素直で、擦れてなくて、無添加だ。冷や奴みたいなサッパリした性格でいい。冬は湯豆腐だが夏は何といっても冷や奴だ。これ、前も言ったかな。まあいいわ、とりあえず君は豆腐脳ミソ男ということにしておこう。こっちとしても若者のオーラを浴びるのも悪くないしな。ついてこれば才能を磨き上げて、見事な光沢を出してやるよ」
花菱の暴走運転は止まらない。こっちは白けムードで体の芯まで冷え込んでしまった。寒さで路面が凍結して、もうブレーキは効かないようだ。
───ツヤをだすのは、その禿げ頭のほうじゃないの? どれだけ光るか一度モップで拭いてあげようか‥‥‥いや、これは冗談、失礼しました。さて、招き猫ならぬ招き豚が“ついてこい”と手まねきしている。アンタについていったらホントに福を呼び込めるのかな? どうも疑わしい。僕はバイト代さえもらえれば他には何も望まないのだが。
「光沢を出すと言いますと?」
ところがどっこい、少なくとも口先だけはゴマすりで自慢話を求める、舌先三寸男の赤井君である。
「つまり君は樽に入れて仕込めば、さらにいい風味を出すということじゃよ。うん、我ながらいい喩えだ」
え? 今度は醤油樽? 喩えを喩えで説明すんなよ。言いたい放題、思いつき放題だ。緊張感がまるでない。すっかりタガが外れている(樽の?)。
「僕って醤油なんですか? しょうゆ顔じゃないと思うんですが、しょうゆ顔はどちらかといえば箱村さんでしょう。鼻筋も通っているし‥‥でもちょっと通りすぎかな?」
“しょうゆうことだ”などとよくあるシャレを入れてくるかと思いきや、意外にも大笑いの花菱が中古パソコンよろしくフリーズしてしまった。さては調子に乗って虚仮にしすぎたと反省したか。少しは負い目を感じているのかもしれない。
口をポカンと開けたまま、ゼンマイの切れた子豚の玩具になっている。こういう具合で、花菱は体つきのわりに思いのほか繊細なところがある。
「いやいや、気を悪くせんでくれ。これでも丁寧にあつかってるつもりなんだから。いちいちそんな瑣末なことにこだわることはないだろう。性分だから仕方ない。これは馬鹿にしてるんじゃなくて。何て言うかな、俗に言う愛のムチだ。競馬騎手のムチはお馬さんを痛めつけてるんじゃないだろう。お馬さんも喜んでハッスルしだすじゃないか。君も喜べ。いつもノーマルばっかじゃなく、たまにはドMになって弾けてみい。たまには蝋蜜をたらされてエクスタシーを感じてみい。💋ああ女王様、ああ御主人さま、もっと熱く、もっと強く。アッハ~~ン‥‥😍💘」
「なんでしょうか? お灸でもしてもらうんですか」
「何いうてまんねん。ヨモギも知らん者がモグサを語るな」
トホホ、やっぱり下ネタに落ち着くのか。さっき若者はSMなんかで遊ばずに子作りに励めって言ってなかったっけ? 確かに言ってたよねぇ。どっちなんかい。ゴールポスト動かしたい放題のトランプ関税か。
この人の話は矛盾だらけだ。熟慮もせずに思い浮かんだことを思い浮かんだままダラダラ喋るだけなので、見事に平仄が合っていない。まあ、考え方が首尾一貫しないからといって、こんなエロ話、どっちだっていいわ。好きにしてちょぉ〜~だい、の財津一郎だぁ。
「どうしたんじゃ、白けた顔して。おぼこの君はSMが気にくわんのか。あんなの料理とおなじだよ。性欲も食欲も同じ欲じゃろうが。料理だっていろいろ趣向を凝らすだろう。SMなんざ料理レシピだ。口に合う合わんはあるだろうが、約束事がきちんと守れる限りにおいては何の問題もない。ただし、いつもそればっかしはダメだぞ。偏食は心にも体にも悪い」
「結局そこに行っちゃうんですね」
「や、スマン、スマン。いや~~別に悪気はないんだ。ちょいとからかってるだけじゃ。そんなことを気にするなんて、ちっちゃな男だな、体もちっちゃいが。いっそ蚤の背中に乗ってピョンピョン跳びはねるか」
繊細だと褒めた端から、余計な一言。だからぁ、ちっちゃいのはアンタもだろって。壁ドンで女を見下せないチビどうし、低いところで張り合ってどうすんだ。
しかし時折チラ見せする花菱のちょっとした気遣いは素敵だ。バカにしつつも、それでいて言葉の端々に相手を傷つけまいとする配慮がある。損得でなく情で人と接している。人間関係にソロバンを持ち込まない。
「要するにだな、要するにワシを師と仰げというこっちゃ。ワシの文学性、芸術性は揺るぎない。ワシは北極星だ。N極は常にワシを指す。道に迷ったら、ワシを頼りに進むんじゃ。それが一番よかろう。ワシャお茶で言えば玉露だ。高級茶だよ、あんな夢茶みたいにマズいもんじゃなくてな」
いま感心していたらこれだ。バブルを噴き出す花菱。とうとう赤井君そっちのけで、一人浮かれだしてしまった。自分に酔っている。自画自賛の嵐。自分の大売出しだ。大言壮語してはばからない。いつもの花菱あるある、である。たいした大風呂敷だ。たしかにアンタを包むには大きな風呂敷を広げなきゃいけないけどね。
それにしても花菱が示した手本は、狂った言葉がどんどん並べられていき、確かに食い出がある。イカれ言葉に食傷して今にも腹下ししそうだ。狂気とまでは言わないが、まともならこんな変なフレーズが即興でするすると口をついて出てこないものだが。今はラリってはいないはずだ。この人、少なくとも酒無しでは芝居のできない役者ではないな。只者ではないのかも。
普通、人が一定のまとまりを語る際は、前もって語る内容を用意しておくか、考えながら語るかのどちらかだ。ところが花菱にしても箱村にしても、ほとんど頭で考えることなく、口を開けば珍妙な言葉がズラズラ出てくる。あたかも別人格にあやつられるようにだ。
花菱も箱村もちょっと深酒ならぬ深夢茶が過ぎるんじゃないのだろうか。もはや中毒だ。年がら年中憑依されっぱなしとは、あなた方のことではないのか。憑依されたまま言葉の樹海に入り込み、戻ってこれなくならなきゃいいけどね。あ、これ僕にも当てはまるかな。
(58)
気づけば再び箱村が、デカい図体で隣にぬ~っと立っている。影をひそめていると思っていたら、いつの間に現れた。スーパーマンが音速5倍で飛んできたのか。おっと訂正、マッハ5はウルトラマンの方でした。
びっくりしたぁ、もう! ここはお化け屋敷か。熟柿の下にとつぜん熊を見た気分だ。このオジンがぁ! 何処から湧き出てきた。アンタは温泉か。♨ババンバ バンバンバン
「アロハ~」と箱村が見下ろす。
なにがアロハだ、ここはハワイなんですかぁ! 完全にバカンス気分だ。レイを首にかけ、いまにもフラを踊り出しそうな陽気さである。
赤井君は上目づかいで彼を見る(どうしてもそうなるよね)。
───まるでトーテンポールだ。高すぎて先っぽが見えないぞ。如意棒をどれだけ伸ばせばアンタに届く‥‥‥と、さすがにそれはないな。
屈託のない晴れ晴れとした笑顔でそこにいる。何処にすっこんでいたんだ、少しは屈託せい! 加勢のいる肝心な時いつもいない、役に立たない助け船だ。船底に穴でも開いて海の底に沈んでいたのか。いて欲しい時にいなくて、どうでもいい時に出てくる。いつ正月にしか出てこない門松になった。門松なら今は正月でもないのに何で出てきた。出てくるならお年玉をくれよ。お尻にできたオデキみたいな人だ。年がら年中、正月のようなお屠蘇気分を引きずっていられるとは大したもんですねぇ!
「出てきちゃ悪いのか」
「え? なんで心の声が聞こえちゃうの?」
「聞こえるものは聞こえる、分かるものは分かる、ちゃうか?」
「はあ。でもそれって、ちょっと意味不明なんですけど。どうやって僕の脳ミソに密入国したんですか」
「俺はテロリストか」
「あらまぁ、そんなことより今までどこに消えてたんですか」
「この世は無常で、会う者は別れる定め。生者必滅、会者定離だ。俺の放浪癖を知らんわけでもあるまい。戻ってきてやったから有り難いと思え」
「はあ?」
「平家物語、読んだことないんか」
「なにアホ言うてまんねん。どうして平家物語が出てくんですか。会話がしっちゃかめっちゃかですよ。いつも箱村さんは何処へ行くのか見当のつかない、糸の切れた凧なんだから、もう」
「旅ガラス、木枯し紋次郎だかんな。いや~、醤油顔の男前はつらいねぇ。お前がなんと言おうが、あっしには関わりのないことでござんす」
やっぱり、しっちゃかめっちゃかだ。救いようがない。なにが木枯し紋次郎だ。中身の軽いアンタはタンポポの綿毛だろう。軽くて軽くてフワフワといつも漂ってばかり。
かたや花菱はといえば、少し離れたところでパソコン操作に余念がない。なにやらブラインドタッチの無意識世界に没入しているようだ。大型スクリーンに映し出される数字やグラグと首っ引きで、いったい何をやっていることやら。そのままずっとキーボードをいじくっていてくれれば騒がしくなくていいのに‥‥と思っていたところ、今度は箱村がビックリ箱よろしく急に顔をだす。お喋りペリカンの再登場だ。息つく暇もない。
やおら箱村が、中腰になって耳元に囁く。大魔神が耳にかぶりついたかと思ったぞ。あ、大魔神は話せなかったっけ。ならゾンビだ。うん? ゾンビも話さないな。ちっとは彼らの寡黙さを見習いなさい。
「どうも焙煎工程がうまくいかん。火力の調節ミスなんだよなぁ。豆を煎っても煎っても全部お釈迦になっちまう。おかげで腹ん中はコーヒーの失敗作でチャッポンチャッポンいってらぁ」
箱村がボソボソつぶやく。
「え? コーヒー豆でも煎ってたんですか?」
「煎ってちゃ悪いんかい」
小声でモゴモゴ、聞き取りにくいったらありゃしない。マウスピースでもはめてんのかい。アンタはささやき女将なのかあ? 頭が真っ白になる。向こうの部屋にこもって何してるかと思ったら、よりによってコーヒー豆にいそしんでいたとは。まったく呆れて声もでない。
「てっきり夢茶の最新バージョンを研究してたかと」
「誰がそんなこと言った」
再度、耳打ちする大魔神。
「社長が」
「アホか、あいつ。もう夢茶にはうんざりだよ。あの味を思い出しただけでウエッとくる。時間つぶしなら知恵の輪を解くほうがずっとマシだ」
声を潜めてそう言う。依然としてヒソヒソ話モードだ。
「そう言えば箱村さんからほんのりとコーヒーの香りが」
「シッ! これはマル秘事項だ。花菱に告げ口すんなよ。アイツは加齢で嗅覚が衰えてるから黙ってりゃ心配ねぇ。まだ開発段階だが待っとけ、そのうち箱村スペシャル・特製ブレンドを飲ましてやっからよ。だからここは黙っとけ。♪ナイショの話はあのねのね~~っとくらぁ(^^♪」
最後は陽気に一人カラオケの箱村である。おいおい、ここはカラオケルームじゃないでしょう。いい気なもんである。よりによって勤務中にコーヒーとは。面の皮が厚いというか硬いというか、あんたはフランスパンなんかい。大胆不敵な人だ。
赤井君は唖然。口と目を丸くして埴輪顔である。
「ちょっとお耳を拝借」
「なんだ、ピアスでも付けようってのか」
かがむ箱村。耳朶までデカくて、まるで象の耳だ。ダンボか。暑い日はパタパタあおいでクールダウンするのかなぁ(ちょっとこれは言いすぎかも)。
「そんなことして、バレたら大変ですよ。怒りだして大喧嘩になるかも」
「わっ、くすぐったい。お前が耳元で囁くとやけに色っぽいな。声がか細いからかもな。おい、変な気にさせんなよ」
「またオカマあつかいするのなら、夜中に生霊になって箱村さんの耳朶をベロリンコしに行きますよ」
「うえっ、気色悪いこと言うな。本気にして眠れなくなるじゃないか。大丈夫、花菱と大喧嘩なんかにゃなりゃしねぇ。アイツは鼻が悪いだけでなく耳も遠いんだ。だから本当は“お耳拝借”も必要ねぇんだけどな。ヒソヒソ話は念のためだ。電話の声も遠くて聞こえねぇから、たぶん年寄りターゲットのオレオレ詐欺にもひっかからないだろうさ。“売り言葉に買い言葉”ってよく言うよな。売り言葉も聞こえなけりゃ買えねぇだろう、ちゃうか?」
なんて屁理屈だろうか。ますます呆れはてる。
「それにしても何でぇ、あいつ、滔々と喋りくさって。口達者の役立たず、糸瓜野郎がぁ。ここはカラオケルームか(アンタもですよ)。マイク独り占めで歌う方は気持ちいいだろが、それを長々と聞かされる身になってみろ。お前、よくあんな長ったらしくて、訳の分からん講釈につきあってられるな。辛抱たまらんわ。せいぜい同じ色に染まらないよう気をつけな。それにしても赤井、あっちの部屋で夢茶をつくるふりしながら聞き耳を立ててたけどな、デブに褒められてたようじゃんか。えらく仲がよかったなぁ」
「そりゃ大丈夫です。肉体関係はありませんでしたから(w)」
「なんじゃいな、何アホ言うてまんねんな」
「お、久々にコテコテ関西弁がでましたね」
「俺はインターナショナルピーポーだからかんな‥‥‥おっと、これ話し始めると長くなるからやめとこ。それにしてもお前、すいぶんと下駄を履かしてもらってよぉ。買いかぶりもあそこまで行くとはねぇ。猫っ可愛がり、ならぬ豚っ可愛がりってわけか。なあ、いとしの子豚ちゃんよ」
「そんなこともないです。随分とからかわれました」
「“へぼ将棋、王より飛車を可愛がり”ってか? お前、飛車でなくて歩だろ?」
「失礼な」
「怒るな、ものの譬えだ。駒の動かし方も満足に知らんくせして」
「じゃ、王は誰なんです?」
「俺に決まってるじゃないか」
「ふう」
「また歩と掛ける。二回目はおもろないぞ」
だがらシャレじゃないってば。ただ溜息をついただけですよ。もうまったくゥ、将棋の盤面ごとひっくり返したくなる。
「それにしても、あれで文芸評論家気取りとは笑わせる。なんか中身のあること言ったか? 漫才ネタをくっちゃべってただけだろう。しかしアイツも“人を動かすには叱っちゃダメ、褒めなきゃ”ぐらいは心得てるようだな、経営者として」
「さいですか。でも箱村さんは悪く言われるだけでしょう。今まで一度でも褒められたことがありますか?」
「アイツは俺には毎度、辛口コメンテーターだ。ピカピカの才能に嫉妬しとるんばい。それに褒められたら俺は図に乗るからな」
あら? この人、ちゃんと自分を正しく分析してる。
「ピグマリオン効果で、お前が期待どおりになってくれるといいけどな。けど褒められたからってその気になるなよ、勲章もらいたいわけでもあるまい。アイツの言うことは鼓膜を叩くだけのただの雑音ばい、お前にとっちゃ傍迷惑な話だわさ」
「箱村さんもいつか、いい線いってると言ってくれたじゃないですか」
「何を?」
「さっきの録音」
「あぁ、あん時はな」
「今は?」
「二度目、お前の間抜け面を浮かべながら聴いていたら、あの怪談話はちっとも怖ない。笑た」
「怪談話?」
「じゃないの? 怖くてゾッとするというよりは笑っちゃうんだよね」
「え?」
「でももっとお化けを出してくれないとな、おもろない」
「はぁ?」
花菱にくらべて箱村の反応は軽い。本心からそう言っているとも限らないが、意外と庶民的な反応で何となく張り合いのない赤井君である。
「お前の狂った録音に、これまた狂った論評をクダクダと。ありゃ、ぜんぶデマカセだ。自分を重鎮に見せかけたいんだろうが、アイツが重いのは体重だけだ。話す中身は軽いのなんのって。落語でもしとけ!」
「なんですか、それ」
「桂文珍(文鎮)」
「おっとっとっと、チンつながりでっか。しょうもな。チンを二つ並べたら“ピー”を入れられますよ」
「それにしても花菱の野郎、随分と狂った言葉がお好きなようだな」
我関せずと花菱をイジりつづける箱村。あまりにも赤井君のチン発言は猥褻だったため、素通りされた模様である。
「アイツとは美意識から何から何まで反りが合わねぇ。ブランコより木馬がいい? 香りマツタケ味シメジだ、いっしょじゃねえか。一長一短だわさ。少女より美女がいい? このエロじじいが。ボキャブラリーを洗練しろ、ってか。てめぇの語彙こそ、ぼけブラリーじゃねぇのか。なにがアートだ。アートネーチャーでも御頭にかぶせてろ‥‥ああ、これはいつも言うボケだからおもろないか。狂ってるのは言葉じゃなくて、てめえの御頭だろう。“沈没船みたいな言葉や文体や思想は灯油をかけて燃やせ”だと? てめぇみたいな小物が何ほざいてやがる。海に沈んだ船をどうやって燃やすんだ。なあ、水ん中でどうやって火をつけて燃やすってんだ。アホか。小学校低学年にもどって理科を学び直せ。脳ミソが腐ったまま塩漬けちゃうんか。そんなにホラーが好きなら、沈没船の船室から、てめぇのシャレコウベでもヌッと出しとけつうの。でもこれ、ホラーじゃなくてコメディだな。どう見てもアイツはコメディアンだ。ノホホンと芸人面しやがって。だいたいホームドラマやお涙頂戴のどこが悪い。そういうポップな作品にこそ、それなりの面白さや感動ってもんがあるんだ。だから皆が読むんだよ。アイツなんて自分にしか通じない美的センスの殻に閉じこもって、ふんぞり返ってさ。あ、そうか、これお前にも通じるよな。小説、とりわけ純文学なんて読者を共感させてナンボの世界だろう。小説なんざ芸術じゃなくて大衆娯楽だ、なに高尚ぶってんだ。もっとも今はファンに見放されて、小衆娯楽になっちまってるかも知んないが。♪消臭~リキ〜 (^^♪♬……」
箱村が小声でボソボソ漏らす。長々とよくそこまで悪口、陰口の類が出てくるもんだ。やれ並べ立てること、立てること。罵詈雑言の羅列だ。そしてお決まりのパターンで、しょうもない悪ふざけを最後に付け足している。やっぱりアンタは軽い。
「♪長州リキ〜 あら僕、ハモっちゃいました?」
負けず劣らず小声で小ボケを返すと、一瞬、間をおいてから箱村がゲラゲラ笑い転げだした。 ~(^◇^)/ギャハハ
「長州力ってか! バチくり、おもろいやんけ。その手垢にまみれた語呂合わせは何度きいても笑えるな。誰が最初に言い出したんだろうな。ギャグってのは下らねぇのをかますほど、おもしれえや」
まだ哄笑している。笑いの花、満開の箱村。小声が次第に大声に変わっていく。
「いつになく豪快な笑いっぷりですね」
「最近じゃ、歳で膝も笑ってな」
と、つまらないギャグを挟んでまた笑う。つられて赤井君も笑い出し、二人は腹太鼓を叩き合うことに。笑いの連鎖反応だ。
「僕たち何やってんでしょうね」
「まったくだ。こんなのが面白いなんて、俺たちゃ異常者だな」
まだ腹を揺すって笑い転げている。哄笑は止まらない。声を落としたヒソヒソ話だったはずが、いまや人間拡声器の選挙演説である。とくに箱村の声はでかい。思わずツマミを回して音量調節したくなるほどだ。
「僕たち、好き勝手に振る舞ってますよね」
「アイツだっでそうじゃねぇか。ずる休みばっかしやがって。相子だろ? はい、最初はグー、じゃんけんポン。相子でしょ。そら、笑ってポン」
体の大きい箱村の笑い声は重低音で響く。大地が口をあけて笑っているかのようだ。いささか羽目を外しすぎである。小部屋で走り回る子供よりも騒がしい。深夜に響く迷惑夜間工事だ。
そこに一心不乱にパソコンを叩いていた花菱の怒声が響く。堪りかねたようだ。
「いつからピーヒャラドンドン、祭囃子が始まった。あ~~うっせえなぁ。こら、静かにせんか! シャンとせい! ラミネートケースに挟みこんじゃろか! ちっとは襟を正さんかい!」
ついに癇癪を起してしまった。癪の種はもちろん僕たちだ。常日頃のんべんだらりとしている花菱が、珍しく機敏に反応した。
「チェッ」と舌打ちする箱村。すっかりムクれて仏頂面だ。
その態度にぶち切れた花菱。爆竹の大声があたりに響き渡る。熱帯低気圧を発達させ台風にしてしまった。憤懣やるかたない様子である。
「なにドタバタじゃれ合ってんだ、このボンクラ二人組が! お神酒徳利たぁ、このことじゃわい。キンキン声をあげるな、ジャパネットかぁ。ジャラジャラとうるさい、貧乏人小銭コンビがぁ。たまには札束を拝んでみい。オバチャンよろしく井戸端会議とは結構なご身分だな! おちゃらけバラエティー番組にでも出てるのか。ちょっとダラケ過ぎだぞ。静かにできないんなら表に出てろ! ワシはいま大事な作業をしてるんだ! 貴様らはいつも、くっちゃべるのに忙しくて大変だな、まったく。ガチャガチャと騒がしい、秋の夜長のクツワ虫どもが。なんで出てくる。都会にゃそんな虫、もうおらんじゃろうが!」
こりゃ本気だ。怒りのGがハンパない。鼻息の圧力でプレス加工されそうだ。「静かにせんか!」とはりあげる花菱の声は静かではない。パソコンを前にした花菱が珍しく本気で二人に怒りだした。左のこめかみから右のこめかみへと、怒りに帯電した金属棒が突き抜けている。
ただし怒っていても、下らないフレーズを思いつくままダラダラ並べるだけなので、今一つ迫力がない。怒りにまかせて並べたくなる気持ちは分かるが、そのおかげで肝心の怒りの感情が水っぽく薄まって伝わる。
馬から落ちて落馬した的な類語反復のオンパレードだ。トートロジーならぬトロトロ爺いの本領発揮である。くどくて、まどろっこしくて、重複表現だらけの僕の小説とそっくりだ。彼が僕の作品を評価するのはトロトロ老頭児ならではの珍事である。
けど毎度きまってキャッチーなフレーズが一つもないので、ぜんぶ頭の中にリフレインしないまま素通りである。鳴れども鳴れども誰も取らない電話のベルだ。せっかくいろいろ尾鰭を付けたのに、ご愁傷さま。
ふうむ、それにしてもここまで憤慨する高木ブーを見たのは初めてだ。本物の高木ブーもこんな感じで、いかりや長介を怒鳴り散らせばよかったのに。
「貧乏暇なし‥‥‥お前ら見てると、ありゃ嘘だな。この貧乏人のド暇人どもが。出来の悪い部下のおかげで、ワシャいつもワンオペじゃわい」
花菱がブツブツと独り言つ。性懲りもなくまだ並べている。腹立ちはまだおさまらないようだ。怒りでキーボードを叩く音が大きい。
「さいですか。ほんじゃ表に出て、景色でも見ながら一息いれてきま~す」と箱村。
「ああ、出とけ、出とけ。とっとと消えくされ。なにが一息いれるだ。いつも千息も万息も入れやがって。お前は図体がデカくて目障りじゃ。いなくなってくれたほうがスッキリする」
「へ~~い。レッドカードですね、退場しときま~~す。あざっす、いい息抜きになりま~~す。まっすぐ帰らず、たまには寄り道で~~す」
箱村がめずらしく二つ返事で素直に応じる。
僕も金魚の糞になって箱村について廊下に出ようとすれば、背後で花菱の声がした。
「たまには寄り道? いつもじゃろうが。あざっす? なんだ、その特徴的な言葉遣いは。ありがとうございますの省略形か。お前が若者言葉を使うな。赤井君の影響じゃな。いや~ぁッ、出来の悪い部下どもをもつと疲れるわい。あんなデカいのを何でワシが肩車してやらんといかんのだ。“ほ〜ら、高い高~い”ってかぁ? ノッポだから高いに決まっとるじゃろが、どアホ! いつもワシにおんぶに抱っこじゃわい。お前らはダッコちゃん人形なのか。プシューッと空気ぬいちゃろか。お前らは頭痛の種じゃ。ま~~ホンマ、気苦労が絶えんのなんのって。とくに箱村。奥さんの尻に敷かれるだけの座布団野郎の分際でのぉ。ホンマ、厚みのない座布団ペラ男だ。“あなた、明日は生ごみを出す日よ、ちゃんと忘れず出しとくのよ”ってか? ガミガミ言われっぱなし。女に食わせてもらってちゃ、そりゃ頭があがらんのぉ。この甲斐性無しのヒモが。なっさけないのぉ。そんでも九州男児なのか、ああ恥ずかしい」
そう長々と愚痴るや、また豚爺さんはソファーにゴロリだ。一瞬ボワーンと豚が宙に浮かぶ。一瞬の出来事なのに滞空時間が長く感じられるのはなぜ? アニメのようだ。紅の豚になって飛行機で空を飛んだのか?
いつもの定位置に陣取る巨体冷凍マグロ。その特等席、たれぱんだの花菱社長にお似合いです。───まったく~ゥ、ここは養豚小屋なんか〜い。だったらアンタはボンレスハムだな。
花菱はやめたと宣言したはずのタバコをくゆらしている。元の木阿弥、ヘビースモーカーに逆戻りだ。窓から差し込む光と混ざり、煙がゆっくり七色の輪をつくって天井へ上っていく。暑苦しいのだろう、仰向けになったままシャツをはだけてデカ腹が露わになっている。
やれ、めでたい。いつも寝正月のアンタにふさわしい、鏡餅もどきの腹だ。床の間にでも飾っちゃろか。その腹餅でアンコたっぷりの大福もちをこしらえれば、さぞやウマかろう。メタボリック症候群もここまでくるとはね。これがマグロの身だったら、脂がたっぷり乗ったトロなんだけどな。ああ、今にも涎がでてきそうだ。
ひょっとしてその腹、自転車のタイヤみたいに誰かが臍から空気入れて膨らませたんとちゃう? だったらアンタはまるっとそのままエアマットなんかい。この寝転がった花菱のお臍に空気ポンプを差し込んで、さらにどれだけ膨らむか実験してみたくなるよね。
そのうち腹鼓でも打ちだすんじゃなかろうか。そ~れ、令和ポンポコ、狸ならぬ豚の腹鼓でこざ~い。雷様にヘソを取られなきゃいいけども。あら? いま気づいたんだがズボンのチャックも開けっ放しだ。よくこんなだらしなさで僕の服装センスをアレコレいじくれたもんだな。
寝タバコはよくないでっせ。ほらほら、コックリコックリしだした。危ない、危ない、いまにも赤ちゃんよろしくスヤスヤ寝息をたてそうだ。
ピィ~~ッ、スゥ~。ピィ~~ッ、スゥ~~
おっ、鼻がピィ~スゥ~鳴りだした。ミニSLの汽笛だな。夢の入り口はどないでっか? バブルガムよろしく噛んで膨らませれば、アンタは風船となって夢の青空に飛んでいくのでありましょうか。
グォ~グォ~グォ~~~
おやおや、ついに高鼾だ。熟睡ですな。毎度ながら不細工な寝顔だ。福笑いかぁ? こりゃ、おもろくて笑える。この顔なら変顔をつくらなくても、にらめっこ連戦連勝だな。しかし気苦労が絶えんとブツクサ言うわりには、よく寝る人だ。火事になっても知りまへんで。失敗がいい薬になるから、このまま放っておこうか。煙がモクモクと立ちのぼる‥‥‥‥燻製にでもなるつもりなのかなあ。
最後までお読み下さり、有難うございました。
赤井かさの(ペンネーム、挿絵も)
霞ゆく夢の続きを(9)