映画『落下音』レビュー
物語の舞台となるのはドイツ北部に位置するアルトマルク地方。プロイセンの揺籠とも称される自然豊かな地で邸宅を構える大農家の歴史を四つに区分し、それぞれの時代を生きた少女たちの視点で、その地に囚われる不穏な記憶を本作は掘り起こします。
具体的な年代は次のとおりです。①1910年代、②1940年代、③1980年代、④2020年代。第一次世界大戦が勃発した1910年代は厳しい経済統制が敷かれ、大農家といえども生活が盤石でない社会状況にありました。第二次世界大戦時にはアルトマルク地方がソ連軍侵攻の最終到達点となり、冷戦期には鉄のカーテンによって東ドイツ圏に組み込まれることに。コロナ禍に見舞われた2020年代の社会状況については、観客の誰もが生き証人です。このような大きな流れの中にあって、大農家を営む一家が生き延びるために《何を》してきたのか。本作のスポットはこの一点に降り注ぎます。
農工具と等しい扱いを受けてきた使用人、家財と同じように扱われる子供たちを包み込む時代の常識ないし感覚に覚える残酷さは、しかしながらどこかで断たれることは決してなく、形を変えて彼女たちの周囲を漂う。ゆえにそこから逃れようと選択された《行動》も、時代を超えてなお執拗に繰り返されていきます。そのリフレインを何度も目撃する観客の頭の中に否が応でも生み出される妄想は、本作を一級のホラー映画にまで押し上げていくのですが、パンフレットに掲載されていた制作の裏側を参照すると、ロケ地となったアルトマルク地方にある農家の全面協力を得てかき集めることができた資料を元に語り継がれることのなかった彼女たちの声を拾い上げ、形にしようとした監督の狙いが伝わってきます。
この点を踏まえると、本編で「覗き見る」意識が積極的に採用されている理由もよく分かるんです。
目の前で起きた出来事を知覚して記憶する私たちは、その結果として生まれる二次的な世界にしか生きられません。その世界を彩る感情の色や形も、人の数だけ異なります。私たち人間はどうしたって共通の現実には手が届かない。その事実をよく識る本作は、だからこそ「覗き見る」意識をカメラに宿し、アルマ、エリカ、アンゲリカ、レンカあるいはネリーといったそれぞれの時代を生きる少女たちから何度も見返されることで私たち=主観的な記憶の塊という事実を浮き彫りにし、我々の間に存在する絶対的な隔たりへと観客の想像力を促します。
四つの時代の話がシャッフルして描かれているのも、かかる演出と決して無関係ではないでしょう。『落下音』で物語られるものを知覚し、記憶し、それを保持して繋ぎ合わせる作業を観客の一人ひとりに強いることで、人が思えること、考えられることが如実に反映された『落下音』は誕生する。そのどれもが真実では決してないはずなのに、真実よりも真実らしい顔をして孤独な人々の良心を揺り起こします。誰に分かってもらえなくとも続く人生の轍が、そこではしっかりと映し出されているのです。
映像表現の面では本作を撮るにあたりマーシャ・シリンスキ監督がインスピレーションを得たという写真家、フランチェスカ・ウッドマンの作品が大切な鍵を握っています。
身体という括りの溶解を試みる写真家が記録する残像は、幽体のような浮遊感で超現実の扉を開きます。その表現は苛烈なほどに死の存在をイメージさせ、作られた現実のたがを外します。劇中においては二箇所、まったく同じ表現技法が採用されていますが、いずれにおいても既に消え去った魂の行方が示唆され、死者と生者の境目が曖昧になるシーンとして異彩を放っています。他の映画と比べても、本作は直視し難い場面が頻繁に出てくるのですが、不気味さという点では当該カットが断トツの仕上がり。シンボリックに糊付けされた編集の妙と相まって、言い知れぬ不安をひたすら煽られるばかりでした。
観客に多くを託す作品ではありますが、それに慣れてくると良質な長編小説のページを夢中で捲るのに似た興奮を覚えられるのも事実です。そのスケールの質感はガルシア・マルケスに匹敵するものであり、不条理との向き合い方という点ではアルベール・カミュの頭を抱えさせる。こう記せば、読書好きには少なからずの興味を持ってもらえるかと期待するところです。
本作はまたサウンドからも十分に語れる映画でもあるので、音響に優れた劇場で鑑賞するのをお勧めします。とんでもない怪作ですよ。興味がある方は是非。
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