『サヤームの鈴 ―日本人義勇隊の軍師になった男―』

『サヤームの鈴 ―日本人義勇隊の軍師になった男―』

 バンコクで行き詰まるドキュメンタリー作家レックは、亡き恋人・有希の影に囚われ、自らの人生を見失っていた。ある日、アユタヤの日本人町跡で発見した古びた恋文に「未来から来た男にこの鈴を……」と記されていた。

 その時、彼は17世紀サヤームへと時を逆行する。そこは関ヶ原の敗残兵が築いた日本人義勇隊が王朝の権力争いに巻き込まれる激動の時代。彼を救ったのは、有希と瓜二つの容貌を持つ娘ハナだった。だが彼女の心は、異国に名を馳せる武士・山田長政に捧げられていた。

 現代の知識を武器に、レックは長政の軍師として戦場に立ち、ビルマ軍との戦いに貢献し、日本とタイの交易や町の繁栄を支える。しかし陰謀と裏切りはやがて日本人町を襲い、長政も毒矢に倒れる。歴史の濁流の中、レックは「影武者」として長政の名を継ぎ、愛するハナを守るため命を懸ける。未来へ帰ることも、歴史を変えることもできない――それでも彼は「生きてくれ」と鈴に願いを託し、ハナへ渡す。二人の魂が重なったその瞬間、物語は静かに幕を閉じる。

 そして現代。アユタヤ資料館の映写室で目を覚ましたレックの掌には、確かにあの鈴の感触が残っていた。歴史は変えられない。だが、想いは時を越えて響き続ける。

第一章 アユタヤの町娘

第一章 アユタヤの町娘

1.不採用

「ああああ、また没なのか……俺ってやっぱ才能ないのかなぁ……」

 レックは湿り気を帯びたシーツの上で、絞り出すような溜息をついた。

 昨晩、歴史資料の山を前に力尽き、カーテンも閉めずに寝落ちした報いだ。

 乾季特有の暴力的なまでの朝陽が、安アパートの薄い窓ガラスを透過し、容赦なく網膜を焼きにくる。

 バンコクの朝。

 地平線から昇ったばかりの太陽が、林立する高層ビルの鏡面に反射し、街全体が巨大な電子レンジに放り込まれたかのような熱を発し始めている。

 レックは、寝ている間に無意識に蹴り落としたタオルケットを探す気力もなく、皮を剥かれたエビのようにベッドの上で丸まっていた。

“ビーッ”

 枕元でスマートフォンのバイブレーションが、死刑宣告を告げるブザーのように震えた。

 レックは舌打ちをしながら、目ヤニの付いた顔で画面を弄る。

『レック様。今回の持ち込み企画は残念ながら採用致しませんでした。貴作は史実の裏付けこそ正確ですが、ドキュメンタリーとしての「人間への洞察」、そして観客の魂を揺さぶる「ドラマ」が決定的に欠けています。次回の応募をお待ちしております』

 大手出版社、そして映像制作会社からの、テンプレ回答に少量の毒を混ぜたような不採用通知。

 鳴かず飛ばずのドキュメンタリー作家のレックにとって、これはもはや朝食前の恒例行事だった。

 日本留学時代、彼は狂ったように日タイ交流史の研究に没頭した。

 戦国時代の余波を受け、新天地を求めてサヤーム(現在のタイ王国)へと渡った浪人侍たちの足跡。

 その情熱を映像に昇華しようともがいてきたが、現実は無情だ。

「記録としては優秀だが、物語がない」

 その評価は、レックという人間の生き方そのものを否定されているようだった。

有希(ゆき)、また、駄目だったよ。情けねぇな、俺って……」

 重い体を引きずり、洗面台へ向かう。

 鏡の端には、浅草の雷門の前で微笑む二人の写真が貼られていた。

 有希。

 日本留学中のレックを支え、そして不慮の事故でこの世を去った最愛の女性。

 彼女を失ってから、レックの時間は止まったままだ。

 彼は「撮影者」としてレンズを覗くことで、世界から一歩引いた安全圏に身を置き続けている。

 自分の人生という名の「ドラマ」を動かす勇気を持てず、過去という名の泥濘(ぬかるみ)に足を取られていた。

“ビーッ”

 再びスマホが鳴る。

 今度は配達アプリのアラートだ。

「ちっ、今度は何だよ……」

 画面には「カオトム(タイ式粥)1点。至急配送」の文字。

 歴史への情熱とは対極にある、日銭を稼ぐための過酷な現実。

 レックは無造作に「受ける」を押し、英国のロックバンドの名前が入ったTシャツを頭から被って部屋を飛び出した。

 外に出れば、そこは“天使の都”という美名とは裏腹な、交通渋滞の地獄だった。
 
 社会の急成長にインフラが全く追いついていない。

 排気ガスの熱気に包まれながら、レックは大家からタダで借り続けているオンボロの125ccバイクを操り、車と車の間のわずかな隙間を縫うように走らせる。

 ふと、頭上を走るBTS(高架鉄道)の車両広告が目に留まった。

『アユタヤ世界遺産祭りに行こう! 400年前の息吹が今、蘇る』

「アユタヤか……嫌味かよ」

 排気ガスの煙に巻かれながら、不意に記憶の底が疼いた。

 資料室の埃っぽい空気の中で読み耽った、アユタヤ王朝時代に存在した日本人村の記録。

(日本人村の頭領・山田長政。そして、異国の地で散った日本人義勇兵。……あの時代、奴らは間違いなく、今の俺には想像もつかないほど強烈な「ドラマ」を生きていたはずだ)

「この週末、行ってみるか」

 この閉塞感から逃げ出せるなら、行き先はどこでもよかった。

“ビーッ!”

「なんだよ、いったい!」

 後ろのピックアップトラックからの鋭い警笛。

 信号はいつの間にか青に変わっていた。

 レックは「すまない」と軽く左手を挙げ、エンジンの不規則な振動を股ぐらに感じながら、熱気に満ちた交差点を右折していった。

 その鍵束には、かつて有希と揃いで買った、古びたハローキティの鈴が、チリリと小さく鳴っていた。


2.歴史の断片

 その週末。

 レックは、今にも息絶えそうなオンボロバイクで、通称アジア・ハイウェイと呼ばれる、国道一号線を北へとひた走っていた。

 バンコクの喧騒を抜け、景色がコンクリートの壁から鮮やかな緑と起伏のない平坦な田園風景へと変わる頃、空気の質が微妙に変化した。

 アユタヤ ― バンコクの北約70キロに位置する地方都市である。

 *

 14世紀から18世紀にかけて、東南アジア随一の国際都市として繁栄した王都。

 中国、日本、ヨーロッパ諸国との交易で栄え、世界有数の貿易拠点として名を馳せた。

 しかし17世紀後半、宿敵ビルマ軍の侵攻により徹底的に破壊され、アユタヤ王朝は滅亡した。

 壮麗を誇った宮殿や寺院は炎に包まれ、街は廃墟と化した。

 現在のアユタヤは、周辺に工業団地が広がり、多くの日系企業が進出し、自動車産業をはじめとするアジアの生産拠点の一角を担っている。

 かつての栄華を物語る、朽ち果てた遺跡群は「アユタヤ歴史公園」として整備され、ユネスコ世界遺産に登録されている。


 
 太陽は天頂にあり、地面を白く焼き付けていた。

 時が止まったように、熱い空気だけが耳を圧迫している。

 遠くの雲の上を飛ぶ、ドンムアン空港発のジェット機のエンジン音がエコーのようにこだまする。

 レックは、白い門壁に「日本人村」の看板が掛けられた入口でバイクを止め、入場料の50バーツを払い、長時間の運転でしびれるお尻を摩りながら、歴史展示館へ向かって歩き出した。 

 子供用のサッカーグラウンド程度の広さの“跡地”には、今では「日本庭園」のような様相に様変わりしていたが、日本人が住んでいたような当時の家屋跡もなく、無機質な建物の土産物が一軒あるだけだ。

 ただ中央の広場には「アユチヤ日本人町の跡」という石塔があり、涼し気な木陰には休憩所が設けられている。

 観光客はまばらで、そのほとんどは日本人観光客と思われた。

 また、日本ブームにのった日本好きのタイ人の若いカップルが、園内にディスプレイされたレプリカの鳥居や提灯、商店街のアーケードにあるような樹脂製の桜の木の前でSNS用の写真を撮っている。

 日本人村は、チャオプラヤ河の左岸に面して存在したらしいが、現代に至ってもこの付近で日本人が使っていたと思われる生活用品などが出土した話は聞いたことがない。

 チャオプラヤ河の反対岸にはポルトガル人村や、イギリス人村、オランダ人村などがあったとされ、当時、アジア随一の貿易で栄えた、国際色豊かだった当時の王朝の名残だろう。

 レックは首にかけたカメラの重みを感じながら、河沿いまで歩くと、舳を少しもたげた「ロングテールボート」(เรือหางยาว)が爆音を上げながら河の中央を遡っていくのを見た。

「煩いなぁ‥‥当時のアユタヤにはこんなやかましい舟などなかったはずだよな……」

 そう呟きながら、サヤームの高級武官の衣装に身を包んだ「山田長政像」に一礼をして、小さな祠に線香を立て、賽銭箱に20バーツ紙幣を一枚入れて、歴史展示館へと足を踏み入れた。

 冷房の効いた館内の静寂が、火照った肌に心地よい。

「ふぅ…まずはここでゆっくりと涼みながら、夜まで時間を潰そうか……」

 ロビーの壁には、今夜開催される『アユタヤ世界遺産登録35周年記念』の巨大な広告幕が垂れ下がっていた。

 黄金にライトアップされた遺跡を背景に、歴史劇の役者たちが象に跨り、剣を振り上げている。

「幻想的な光と音のショー」という文字。

「……35周年か。当時のアユタヤは、こんな演出がなくても、街全体が黄金に輝いていたんだろうな」

 レックは皮肉混じりに独りごちて、奥へと歩を進めた。

 壁に沿って並ぶ日タイ交流の年表。

 その先には、波を切り裂く朱印船の模型や、貿易の品々、泥の中から引き揚げられた日本の陶磁器、そして鈍い光を放っていたであろう錆びた武士の刀が、静まり返った空気の中で整然と並んでいる。

 そして、山田長政の肖像画。

 (山田長政……沼津の六尺(駕籠かき)からサヤームの上級官位「オークヤー・セーナーピムック(戦の神)」にまで登り詰めた男。だが、最後は王位継承の争いに巻き込まれ毒殺された。……結局、歴史の歯車には勝てなかったんだよな……)

 レックは肖像画の鋭い眼光と、しばし視線を合わせた。

 正確な知識は、時として残酷なほど冷笑的な視点を生む。

 彼にとって歴史とは、すでに結末が記された「不動の遺跡」に過ぎなかった。

 だが、その一角。

 特別展示の小さなガラスケースの前で、レックの足が止まった。

「……なんだ、これ」

 そこには、茶褐色に変色し、所々が虫食いになった一通の手紙の断片があった。

 四百年近く前の日本人町で書かれたとされる、未投函の恋文。

 手慣れた筆運びの草書体だが、一文字一文字に、祈るような力強さが宿っている。

 レックは無意識にガラスへ顔を寄せた。

 日本留学で叩き込まれた古文書の読解力が、掠れた崩し字を意味へと変換していく。

『……長政様……村の皆は、北へ逃れる準備を整えております……どうか、ご無事で……』

 そこまでは、迫りくる戦乱の予感を伝える悲劇的な恋文だった。

 しかし、結びの一文を目にした瞬間、レックの心拍が跳ね上がった。

『――未来(さき)から来た男に、この奇なる猫の鈴を託されました。彼は今、私の隣で、貴方の影となって戦っています』

「未来から……来た男?」

 あり得ない。

 四百年前の人間が、決して記すはずのない言葉。

 その困惑を切り裂くように、ジーンズのベルト通しに引っ掛けたバイクの鍵束が、意志を持ったかのように激しく震えだした。

   チリリッ、チリリリリッ!

 有希との形見であるはずの、キーホルダーに付いた色褪せたキティちゃんの鈴。

 それが、館内の静寂を突き破らんばかりの、鋭く、高い音量で鳴り響く。

「うわっ、なんだよこれ!」

 レックが慌てて鈴を手で押さえた瞬間、資料館の床が、底なしの泥沼のように深く沈み込んだ。

 視界が急速に歪み、展示品の色が溶け出して、巨大な渦となって彼を飲み込んでいく。

 意識が遠のく中、耳の奥で、確かにあの懐かしい声が響いた気がした。

「有希……有希なのか?」



3.四百年前の陽光

「……うぁ……」

 強烈な眩暈(めまい)と、吐き気に襲われ、レックは地面に突っ伏した。

 鼻を突くのは、排気ガスの臭いではない。

 焼けた土、むせ返るような水の匂い、そして、得体の知れない獣と香辛料の香り。

 ゆっくりと目を開けたレックは、その光景に言葉を失った。

 目の前にあるのは、資料館のタイルではない。

 硬く踏み固められた乾いた土の道だ。
 
 そしてその寺壁の先にそびえ立つのは、崩れかけた遺跡ではなく、金箔が陽光を浴びて神々しく輝く、威風堂々とした巨大な寺院――ワット・プラシーサンペットだった。

 屋根には色鮮やかな釉薬を塗った瓦が並び、回廊の柱には緻密な彫刻が施されている。

 かつてレックが「不動の遺跡」と切り捨てた死の風景は、今、極彩色の命を宿して彼の網膜を灼いていた。

「嘘だろ……。これ、幻覚か?」

 フラフラと立ち上がったレックの横を、象を連れた男たちが悠然と通り過ぎていく。

 周囲を行き交う人々は、上半身を裸にしたタイの民や、奇妙なほど見覚えのある装束に身を包んだ人々だ。

 マゲを結い、腰に刀を差し、筒袖の薄手の着物に半袴。

「日本人……?」

 間違いない。

 それは江戸時代初期、関ヶ原を生き延び、傭兵としてサヤームへ渡ってきた日本人たちの姿だった。

「おい、そこの不審な身なりの男! 止まれ!」

 鋭い日本語の怒号が響いた。

 振り返ると、三人の男たちが刀の柄に手をかけ、レックを包囲していた。

 彼らの眼光は鋭く、全身から本物の殺気が漂っている。

 胸元に”Who”と書かれたTシャツとジーンズというレックの姿は、彼らの目には異端の極みに映ったに違いない。

「お主、何処からまいったのか。キリシタンのならず者か、それともビルマの密偵かっ!」

「あ、いや、俺は……俺はただのドキュメンタリー作家で……」

 パニックに陥りながらも、レックは必死に日本語で答えようとした。

 だが、現代の日本語は彼らには通じていない。

「えーと、あのー、ここでこのアクションカメラで動画を撮って、SNSに上げて・……そのぅ」

 言葉の端々に混ざる現代語が、さらに彼らの警戒心を煽る。

「お主……それは南蛮語か? 訳の分からぬ口を叩くな。斬り捨てて検分するぞ!」

 一人が刀を抜き放った。

 白刃が午後の陽光を反射し、レックの網膜を刺す。

(死ぬ。俺の人生、こんなところで、何の意味もなく終わるのか――)

 レックが絶望に目を閉じた、その時だった。

「待ってください! その方は……その方は、私の知っているお方です!」

 凛とした、しかしどこか焦燥を含んだ声が響いた。

 レックが恐る恐る目を開けると、一人の娘が男たちの間に割って入っていた。

 抜き放たれた白刃を、臆することなくその身で遮っている。

 南国の強い陽射しを浴びて輝く、濡れたような黒髪。

 そして、意思の強そうな大きな瞳。

「……有希?」

 レックの口から、無意識にその名が漏れた。

 外見は、亡き恋人に驚くほど似ている。

 だが、その佇まいはもっと力強く、大地に根ざした野生の美しさを湛えていた。

 彼女はレックの異様な風体を一瞬だけ凝視したが、すぐに男たちを睨みつけ、言い放った。

「この男は、私が預かります。長政様に伝えねばならぬ大事な役目を持って、遠方から参ったのです。……刀を収めてください」

 娘のあまりに堂々とした物言いと、長政様という名に、浪人たちは毒気を抜かれたように顔を見合わせた。

 ハナの視線が、レックの腰で静かに鳴り続ける「キティの鈴」に一瞬だけ釘付けになる。

「お立ちなさい。……死にたくなければ、私について来なさい」

 娘はレックの腕を無造作に掴み、強引に立たせた。

 その手のひらは驚くほど熱く、レックの知る有希のそれよりもずっと固い「今を生き抜く者の手」をしていた。 

 そう、彼女こそがあの「恋文」の主――日本人二世の娘、ハナであった。

 レックはまだ知らない。

 この「有希に似た娘」による咄嗟の嘘が、彼を単なる歴史の傍観者から、血煙の舞うアユタヤの「運命の不条理」に巻き込まれていく、長い旅の始まりであることを……。

第二章 八百万の神のいない国

第二章 八百万の神のいない国

1. 一眼レフと雄鶏

 鼻腔を突くのは、泥の匂いと、獣の糞が陽光に焼かれたような噎(むせ)返る臭気だった。

 朦朧とした意識が戻り始めたころ、レックの視界を支配していたのは、現代のアユタヤ遺跡で見るような、角の取れた穏やかな赤レンガではなかった。

「……っ、熱い……」

 頬を押し付けている地面は、焼けた鉄板のように熱を帯びている。

 ハナに腕を強く引っ張られ、身を起こそうとして、レックは息を呑んだ。

 目の前にそびえ立つのは、巨大な三基の仏塔(チェディ)――ワット・プラシーサンペットだった。

 だが、それは資料写真や観光地として知る現代の姿とは、似て非なるものだった。

 崩落していたはずの尖塔は、一点の曇りもなく天を突き、表面を覆う金色の漆喰は眩い光を放っている。

 彫り込まれた仏像の指先、天衣の(ひだ)にいたるまでが鋭利な輪郭を保ち、その一部には、気が遠くなるほどの黄金が施されていた。

 仏塔の基部には、多孔質の赤い天然石「ラテライト石材」が堅牢に積み上げられ、熱帯の湿気を吸って赤黒く沈んでいる。

 それは信仰の場というよりは、王権の絶対的な不可侵性を示す、巨大な精神の壁のようだった。

「ここは……本当に、あの場所なのか?」

 顔を上げると、そこには「幻覚」では済まされない光景が広がっていた。

 王宮を望む川幅の狭いロッブリー川を、帆を掲げた朱印船が悠然と転針していく。

 河岸には、竹と椰子の葉で編まれた高床式の大きな家々が数キロにわたって連なり、その合間を、上半身を裸にしたタイの民が小舟を操って行き交っている。

「あんた、早く起きなさい、仏様に尻を向けて寝ていると、首を撥ねられるわよ!ลุกขึ้นเดี๋ยวนี้สิ!」

「それと、さっきから抱えている雄鶏、なんとかしなさいよ!」

 ハナの声に、レックは首から掛けていた一眼レフに触れようとした。

 だが、指先が触れたのは冷たい金属のボディではなく、生温かく、羽ばたく生き物の感触だった。

 一眼レフは、いつの間にか一羽の雄鶏へと姿を変えていた。

「売るの、売らないの? 売らないなら私が戴くわ!」

 ハナがさらに力を込めてレックの腕を引っ張ったその時、人混みの奥から、他の村民たちとは明らかに違う、絹の羽織をまとった恰幅のいい男が現れた。

 鋭い眼光を湛えたその男が口を開くと、周囲の空気が一変した。

「なんの騒ぎな。こん暑いさなかに、血ば流す気か?」

 男の名は、津田又左衛門。 

 肥後藩(長崎県)の商人で、朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)の重鎮として、長政よりも早くアユタヤに渡り、日本人町の自治を預かる実力者である。

「これは、又左衛門様……」

 お付きの浪人たちが一斉に姿勢を正した。

 又左衛門は、レックの腰で力なく揺れるキティの鈴と、見たこともない細工の鍵束を凝視し、特有の長崎弁で問いかけた。

「ハナ、こん妙ちきりんな格好ばしとる男ば、あんたの知り合いなのか? ……どこばどがん見ても、真っ当な人間の風体(なり)じゃなか。その服の(ロゴ)は何な。天草の乱波(らっぱ)か、さもなくば異教伴天連の(まじない)か?」

「……いえ、この方は、遠い南方の村から参ったのです」

 ハナの咄嗟の嘘に、又左衛門は鼻で笑った。

「嘘ば言え。南方の村に、そがんおかしな言葉ば喋る奴はおらんと。……おい、お主。そん『きてぃ』とかいう鈴はどこの出だ? 吐かんとなれば、ここで首ばねじ切ってもよかぞ」

 レックは咄嗟に現代の、少し丁寧すぎる日本語で問いかけた。

「あの……日本人……の方、ですか?」

 だが、又左衛門の反応は氷のように冷ややかだった。

「にほん……じん? お主、何処の訛りだ。やはりキリシタンの呪か」

 傍らにいた浪人の一人が、レックのTシャツに描かれた英語のロゴを、忌々しそうに刀の鞘の先で突いた。

「いえ、僕は……僕はバンコクから来たんです。日本に留学していて……」

「ばんこく? 留学? ……また訳の分からぬ口を叩くな」

 男たちの表情から、余裕が消えた。

 彼らの目にあるのは殺気だ。

 レックは焦り、母国語である「タイ語」に切り替えた。

『私はタイ人です。道に迷って……警察はどこですか? 助けてください!』
(ผมเป็นคนไทยครับ ผมลงทาง... ตำรวจอยู่ไหนครับ โปรดช่วยผมด้วยครับ!)

 しかし、その言葉を聞いた瞬間、周囲を歩いていた農民たちまでもが足を止め、怯えたような、あるいは蔑むような目でレックを見た。

 現代のタイ語は、400年の時を経て変質している。

 現代的なイントネーションや語彙は、17世紀のアユタヤの民には「タイ語に似た、不気味な言語」にしか聞こえないのだ。

「おのれ、やはりビルマの密偵か! さもなくば、南蛮の妖術使いか!」

 抜刀の音が響いた。

 白刃が午後の陽光を反射し、レックの鼻先に突きつけられる。

 鋼の冷たさと、微かな油の匂い。

 レックは悟った。

 自分が学んできた歴史も言語も、ここでは盾にはならない。

 むしろ自分を異形(いぎょう)の者として死へ追いやる鎖でしかないのだと。

「待ってください! その方は、私の知人です!本当です!」

 ハナは声を張り上げた。

 彼女は汚れた麻の着物を翻し、抜身の刀の前に身を投げ出した。

 その必死な瞳がレックを射抜く。

 彼女がなぜ嘘をついてまで自分を助けるのか、レックには分からなかった。

 ただ、彼女の肩越しに見える金色の巨大な仏像だけが、慈悲のかけらもない無表情で、この「八百万の神」さえいない異国の惨状を見下ろしていた。

 又左衛門は鼻で笑い、レックの胸元から雄鶏をひったくった。

「ふん、よか。……連れて行け。日本人町の牢にぶち込んで、干からびるまで素性を吐かすればよか。それとその雄鶏はわしがもろうとくばい」

 レックは屈強な浪人たちに両腕を捻り上げられ、土埃の舞う路地へと引き立てられた。

 背後でハナが何かを叫んでいたが、その声は熱を帯びた風にかき消された。

 時は西暦1627 年、仏歴2170 年の十二月のことだった……。


2.牢屋の呪術

「さぁ入れ、大人しくしとれば、命までは取らん……たぶん、な」

 浪人に背中を蹴飛ばされ、レックは湿った床に転がった。

 重い鉄格子の扉が閉まり、鈍い金属音が響く。

 そこは、日本人町の外縁に位置する、半地下の牢屋だった。

 壁面には無骨なラテライトの石材が積み上げられ、熱帯の湿気を吸って赤黒く沈んでいる。

 レックは震える手で、ポケットの中を確認した。

 指先に触れるキティの鈴と、バイクの鍵束。

 この冷たい金属の感触だけが、自分を「2026年の人間」として繋ぎ止める唯一の錨(アンカー)だった。

「……落ち着け!落ち着くんだ!」

 通路には一人の牢番が座り、手持ち無沙汰に竹の棒を削っている。

 その傍らには、又左衛門が奪っていった「あの雄鶏」が、足を縛られて転がされていた。

 そこへ、軽い足音が響く。

 ハナだった。

 彼女は竹で編んだ籠を抱え、シャム人の若い牢番に小さな包みを渡すと、格子の隙間からレックを覗き込んだ。

「これ、食べなさい。死んだら、あんたを助けた私の嘘が、無駄になるじゃない」

 差し出されたのは、バナナの葉に包まれた黒ずんだ塊だった。

 レックが口に運ぶと、強烈な腐敗臭と、舌を刺すような辛味、そして喉の奥にへばりつく薬草の過酷な苦味が襲った。

「……っ、これは?」

「プラ・ラー(ปลาร้า 川魚の塩辛)の薬草和えよ。悪い霊が憑かないように、苦い木の実を混ぜてあるわ」

 あまりの不味さに涙が出るが、その刺激が、朦朧としていたレックの脳を覚醒させた。

「ええ、これがプラ・ラーなの?アユタヤ時代の味?不味くて食えないよ!」

「でしょうね、私の村の日本人も決して食べないわ、ははは!」

 ハナが白い歯を見せて大声で笑うと笑窪ができる。

 確かに有希も同じような笑窪ができて、本当に可愛らしかった。

 しかし、今のレックにとっては、この不条理な味こそが、今この時代の「現実」なのだと悟るのだった。

 レックは気を取り直し、ポケットからキティの鈴と、ホンダのロゴが入ったバイクの鍵を取り出した。

 暗い牢屋の中で、ホンダのロゴが刻まれたニッケルメッキの鍵が、鈍く、薄明かりの中で光を反射する。

(こいつは使えそうだな……)

 レックはわざと、有希との形見の鈴を「チリリン……」と軽く鳴らした。

「ちょっと、あんた、何おっぱじめる気なの?」

 驚きの目で耳元に囁くハナの声がくすぐったい。
 
 レックは、じわりと鍵の鋭いエッジを牢番へと向けた。

「ハナ、僕の言葉を訳してくれ。……『その鶏を今すぐ放せ。さもなくば、この“呪いの鍵”が封印を解く。お前の家系は三代先まで、この鈴の音とともに魂が削り取られることになるだろう』と」

 レックの発する低い声がハナの耳元に響く。

 彼女一瞬、呆気に取られたが、レックの話す現代の日本語を理解したのか、声色を変えて牢番へ語りかけた。

 ハナがアユタヤ時代のタイ語で、より呪術的なニュアンスを込めて翻訳する。

 シャム人の牢番の動きが止まった。

 彼は、レックが掲げた「銀色の物体」を凝視した。

 17世紀の技術では、これほどまでに歪みのない鏡面、これほどまでに鋭利で複雑な溝を掘り出すことは、神か悪魔にしか不可能だ。

 ましてや、その横で揺れる「奇妙な白い猫(キティ)」の無表情な顔が、彼には底知れぬ呪いの偶像に見えた。

「……そ、そんな呪いなど……だ、だれが信じるものか!」

 牢番の声が、ガチガチと震え始める。

 レックは追い打ちをかけるように、現代日本語で、あえて感情を殺した無機質な声を響かせた。

「システム起動……全回路、接続。ターゲット、ロック!」

 意味は通じない。

 だが、その「未知の言語」の響きは、牢番にとって致命的な死の宣告に聞こえた。

「さあ! 鈴が独りでに鳴り始める! この“呪いの鍵”が、お前の命を喰らおうとしているわ!」

 ハナが語尾を強くしていく。

 牢番は悲鳴を上げ、縛られていた雄鶏を放り投げると、尻餅をつきながら闇の中へと逃げ出した。

 「……ふん、案外脆(もろ)いわね」

 ハナは皮肉げに笑い、牢番が落としていった牢屋の鍵を拾い上げた。

 彼女の指先が、一瞬だけレックのバイクの鍵に触れる。

 そのとき、ハナの顔から嘲笑が消えた。

「これ……本当に、この世の物じゃないのね。冷たくて、滑らかで……まるで、月の欠片みたい」

 彼女の心の底で、何かが静かに変化した。

「これって……」

 そう言いかけて、彼女は鍵束をレックに返した。

 騒ぎを聞いて駆け付けた津田又左衛門に、ハナは冷静な落ち着いた口調で願い出た。
 
「津田様、この“呪いの鍵”は扱いを間違えると一族が滅びる恐ろしい代物です。私が預かり、長政様の前でこの男に説明をさせます。どうかこの者を牢屋から出してください」

 又左衛門は、ハナの強引な押しに根負けして、レックを一時釈放することにした。
 
 ただ、レックをハナの屋敷で暫く面倒を見ることを約束させた。

 泥だらけの道を行く途中、前方から数頭の象と、武装した兵士たちの行列が現れた。

 周囲の民たちが一斉に平伏する。

「伏せなさい! 御大将が通られるわ」

 ハナに腕を引かれ、レックも道端に膝をついた。

 行列の中心にいたのは、馬上に黒塗りの甲冑を身に纏い、南国の太陽を浴びてなお涼しげな眼光を放つ、一人の日本人だった。 

 山田仁左衛門(にざえもん)長政。

 アユタヤ王国の上級官職「オークヤー・セーナーピムック」に昇り詰め、日本人義勇軍を率いる英雄。

「……長政様だ。これから『日本人会評議(ひょうぎ)』へ向かわれるところよ。次の王位継承の件で、町中が殺気立っているわ」

 背の丈が六尺(約180センチ)もあるうえ、馬上の勇姿は大王の如く大きく見える。

 その視線が、異様な格好をしたレックと、その隣に立つハナに注がれる。

「ほぉ……又左衛門殿の言っていた『魔界の妖人』とは、お主のことか!」

 長政の声は低く、そして深い知性に満ちていた。

 歴史の教科書で見た英雄の姿ではない。

 レックは自嘲気味に、しかし確かな高揚感とともに、心の中で呟いた。

(|八百万(やおよろず)の神はこの国にはいない。……だけど、信じるに値する一人の『人間』なら、今、目の前にいる)

 王位継承という名の、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が渦巻く嵐が吹き荒れる直前のことだった。 

 時は西暦1627 年、仏歴2170 年も終わろうとしていた。 



3.鯰の蒲焼とラオ・カーウ

 ハナの屋敷は、日本人町の中心部に位置する、質素ながらも手入れの行き届いた高床式の建物だった。

 階下の軒先では母親のお滝が、炭火焼きの鯰の蒲焼を忙しなく売り捌いている――立ちのぼる香ばしい煙が路地に溶け、行き交う人々の足を自然と引き留めていた。

 高価な日本の鰻に代わり、タイの運河で獲れる鯰を工夫して調理したもので、現地の香辛料で作った甘辛いタレが絡んだ身は驚くほど柔らかく、町一番の繁盛店のようだった。

 夕刻になると、町人たちが足を止めては一串を頬張り、屋敷の帳場では奉公人が忙しく算盤を弾いていた。

 屋敷の土間には陶器や絹織物が整然と並び、香辛料や鹿皮、鮫皮が積み上げられている。

 商家でありながら屋台の活気を抱え込むその佇まいは、日本人町でも指折りの富を蓄えていることを物語っていた。

 ハナに連れられ、炭火の煙が立ち込める長屋の奥へ足を踏み入れたレックは、その光景に息を呑んだ。

 薄暗い広間、上座にどっしりと胡坐をかいているのは、紛れもない山田長政だった。

 脇には、抜き身の刀のような鋭さを放つ老狐、津田又左衛門が控えている。

(……本物だ。歴史の教科書が、目の前で呼吸している)

 レックの脳裏には、彼が知る「結末」が走馬灯のように駆け巡っていた。

 リゴールへの左遷、負傷、そしてカラーホームの放った刺客による毒殺――。

「……おめえ、名は、レックと言ったか。まあ、座れや。おめえの身なり、確かにこのシャムの都じゃ見ねえ代物だら。一体どっから来ただ?」

 少し「ラオ・カーウ」(白酒・焼酎)が回り始めた長政が、少し頬を紅潮させて、お国訛りの駿河弁になった。

 レックは拍子抜けし、長政の生の姿を暫し茫然としていた。

 しかし、長政の瞳は凄まじいオーラを秘めた眼差しで、レックの眼を見据えたままだ。

「私は……。長政様、単刀直入に申し上げます。リゴールへは行ってはなりません。パッタニー軍の討伐命令はカラホームの罠です」

 思わず口を突いて出た言葉に、一座が凍りついた。

 又左衛門が、盃のラオ・カーウをグイと飲み干した。

「な、なんば言いよっか、お主は! 長政様は、カラホーム、シーウォラウォン長官殿から直々に全権ば託されたったぞ。一気に蹴散らして、アユタヤに武名ば知らしむる絶好の機ばい。どこの馬の骨とも分からん男が、軍略に口ば出すな!ばってん、あの雄鶏は美味かったばい!」

 酔いが回って、又左衛門は気に障ったのか、声を荒げた。

だがレックには「雄鶏は美味かった」としか理解できなかった。

 レックは手酌で白酒を(あお)る又左衛門を一瞥し、長政に向き直った。

「軍略ではありません! これは、あなたの命に関わることなのです!そこへ行けば、あなたは二度とアユタヤへは……」

 長政は右手を振ってレックを制しながら、鯰の蒲焼を一口齧った。

「おめえの言いてえこたぁわしにもわかるだに。でもよ、こればっかりはお上のご命令だら、又左衛門さんの面子(メンツ)もあるでな……」 

 ―長政の声が上ずったように響いた。

 それは、あまりにも大きな自信に裏打ちされた、余裕すら滲む響きだった。

「シーウォラウォン長官殿は拙者を信じて、国の憂いを託してくれただ。武士が主君の言いつけ受けて戦場へ向かう、そりゃあ当たり前のことだら。何の疑いがあるだがや。おめえの言う『罠』とやらが何だろうと、拙者の剣で叩き斬るまでのことだに……」

 長政の飄々(ひょうひょう)とした言い方にレックは戦慄した。

 長政にとって、シーウォラウォンはまだ「共に王朝を支える戦友」なのだ。

 裏切りを予言するレックの方が、この場では「狂人」に過ぎない。

(言えない。……『彼は後にあなたを殺す男だ』なんて、今の彼に言っても届かない)

 レックは唇を噛み、黙り込んだ。

 現代の知識が、四百年前の「信頼」という名の不条理に完敗していく。

 そこへ、ハナが盆を持って入ってきた。

「はいはい、物騒なお話はおしまい。熱いうちに食べなさいよ」

 差し出されたのは、追加のラオ・カーウの徳利と、香ばしく焼けた鯰の蒲焼だった。

「ほら、レックさんも。あんた、さっきから顔色が真っ青よ。この酒でも飲んで、少しは正気に戻ったら?」

 ハナの差し出した盃を受け取ったレックの手は、小刻みに震えていた。

 長政は無造作に蒲焼を頬張り、豪快に笑った。

「はっはっは、うめえ! いいかレック、案ずるな。拙者が戻った暁にゃあ、おめえを正式に召し抱えてやるだ。……又左衛門殿、さっそく支度いたそうか」

合点(がてん)! 準備は万端ばい。こぎゃん不吉な事ば抜かす野郎は、放っておきんしゃい」

 そうして二人はほろ酔い気分で店を出て行った。

 後戻りのできない刻限が、静かに刻まれていく。

 レックは冷めた白酒を煽り、泥のような苦みを感じた。

 そして独り、裏庭へ出てチャオプラヤ河に沈みゆく夕陽を見つめた。 

 片付けを終えたハナが、柱に背を預けてレックを冷ややかに見つめていた。

「……あんた、長政様に何を吹き込んだの?」

「……ちょっと気になったことを話しただけだよ、でも、聞き入れてもらえなかったよ」

 ハナは、鼻で笑った。

「当たり前じゃない。あの方は、あんたの『まやかしの呪術』で動くような人じゃないわ」

 ハナの言葉は、レックの胸に鋭い棘のように刺さった。

「……あの方を救うつもりかもしれないけれど、下手をすれば、あんたが命を落とすわよ」

 ハナはそれだけ言うと、鯰の焼ける匂いが染み付いた暖簾(のれん)をくぐり玄関先へと消えた。

 アユタヤの湿った夜風が頬を撫でた。

 レックは腰の鈴に手をやった。

 キティの鈴は、もう鳴らなかった。

 その代わりに、運命の歯車が軋んだ音を立てて回り始めたのを、彼は確かに聞いた。

(第三章へつづく)

第三章 丁稚奉公のレック

第三章 丁稚奉公のレック

1. 商人(あきんど)のお滝

 アユタヤの朝は、水蒸気と腐葉土、そして何かが焦げる匂いから始まる。

 アユタヤ日本人町の片隅。

 高床式のハナの家の軒先で、レックは所在なげに立ち尽くしていた。

 昨夜、一人で客間に残され、供されたラオ・カーウ(白酒)をしこたま飲んだ挙句、そのまま板張りの床で泥のように眠りこけていたらしい。

 頭の芯に残る鈍い痛みと、南国の湿った熱気が、容赦なく現実を突きつけてくる。

 目の前を流れる、運河の濁った水面を見つめながら、レックは昨夜の光景を反芻(はんすう)した。

 馬上から射貫くような視線を投げかけてきた山田長政。

 あの圧倒的な威容は、歴史の教科書という薄っぺらい紙の上に閉じ込められるような代物ではなかった。

(あれが幻覚でないなら……俺は本当に、取り返しのつかない場所に来ちまったんだな)

 ほんの数日前までの自分なら、むさくるしいバンコクの安アパートでスマホのアラームに叩き起こされ、採用される見込みのないドキュメンタリーのプロットを書き散らし、唯一の生命線であるデリバリーアプリの配送依頼通知に一喜一憂する日々。

 交通渋滞の排気ガスと、液晶画面から流れる無機質な情報の洪水。

 それがレックの知る“世界”のすべてだった。

 しかし今、足元に触れるのはアスファルトではなく、ぬらりとした湿った土の感触だ。

 耳に届くのは自動車のエンジンの咆哮ではなく、名も知らぬ熱帯の鳥の鳴き声と、どこか遠くで響く木槌(きづち)の乾いた音。

 西暦1628 年、仏歴2171年初頭。

 自分がその「過去」という名の異界に着地してしまったという事実が、未消化の酒とともに、重い鉛のように胃の底へ沈んでいた。

「……ちょっと!いつまで、死んだ魚みたいな目をして突っ立ってるんだい」

 背後から、甲高い、しかし芯の通った声が突き刺さった。

 レックが弾かれたように振り返ると、そこには立ち昇る白い煙を割って、一人の女が仁王立ちしていた。

 ――お滝。

 ハナの母親であり、日本人町で一際繁盛している「(なまず)蒲焼(かばやき)屋」を切り盛りする女主人だ。

 彼女が年季の入った団扇(うちわ)を大きく振るうたび、炭火の上で脂の乗った鯰がパチパチと音を立てる。

 甘辛い醤油が焦げる香りが、レックの空腹を暴力的なまでに刺激した。

「母さん、この人まだ寝ぼけてるのよ。

 牢屋でプラ・ラーを食べさせたときは、あんなに威勢がよかったのに……」
 
 奥からハナが、呆れたような、それでいてどこか楽しげな笑みを浮かべて顔を出した。
 
 レックはお滝の顔をまともに直視できなかった。
 
 ハナが亡き恋人・有希(ゆき)の面影を宿しているなら、このお滝は、有希がそのまま過酷な時を重ね、異国の泥にまみれて魂の骨格を太くしたような、圧倒的な存在感を放っていたからだ。

「あんた、名は?」

「あ、あの……レック、です」

 お滝は娘のハナから聞いている筈なのに…

 彼女は手を止めずに網の上の鯰を素早く裏返した。
 
 その無駄のない手つきには、長年この町で生き抜いてきた女の凄みが宿っている。

「レック? シャムの人かい? “小さい”って意味だね。似合わない体格(がたい)をしてるじゃないか。ハナから聞いたよ。又左衛門様の前で、妙な“呪術”を使ったんだって?」

「呪術なんて、そんな大層なものじゃ……。ただの、言葉のまやかしです」

 レックは、以前仕事の合間に携帯で観た、タイの時代劇の主人公を思い出し、あえて語尾を丁寧に、かつ古風な響きを持たせたタイ語で答えた。

 その瞬間、お滝の持つ団扇がぴたりと止まった。

 彼女の瞳に、言い知れぬ驚きと、深い霧の奥から何かを探り当てるような鋭い色が浮かぶ。

「……あんた。今、その言葉、どこで覚えた?」

 お滝の追及は、先ほどまでの世間話とは明らかに温度が違っていた。

「どこって……その、昔の伝承とか、その、あの……」

 “携帯の映画を観て覚えました” などと言ったら、あの脂ぎった大きな団扇で頭を叩かれるのは目に見えていた。

「ふん。はぐらかす気かい。だがね、その節回し、言葉の選び方……。単なる商人や野良犬の使う言葉じゃない。昔、この町を訪れ、流行り病に苦しむ民を救ったという日本人の仏僧の話を聞いたことがあるのさ」

 お滝は煙を振り払うように団扇を一度大きく仰ぎ、遠い空を見つめた。

「あのお方は、今の王位争いさえも悲しげな瞳で予見されていた。あんたの言葉には、あのお方と同じ、この時代の人間には持ち得ない“先を見通す響き”がある。まるで、未来の出来事を、ただの過去として語っているような不気味な響きだよ」

 お滝は団扇を置き、焼き上がったばかりの鯰の一串と、もち米の詰まった竹筒(ガティップ・カオ)をレックの前に突き出した。

「食いな。理屈はどうあれ、あんたのその言葉には、この村の連中を黙らせる不思議な“重み”があるようだね」 

 レックは差し出された串と竹筒を受け取った。

「いやぁ、あの、それは違うんです。そうじゃなくてあのぅ……」

「何をぶつぶつ言ってんだい。あのさ、うちはまだまだ働き手が足りなくてね、あんたのその図体、うちの“便利屋”として役立ててみるかい?」

 立ち昇る熱気とともに、口に含んだ鯰の脂は、昨夜の腐敗臭のするプラ・ラーとは対照的な、強烈で力強い生命の味がした。

「ああ……お、お願いします。何でもやります」

「よし。じゃあ、まずはその薄汚い格好をどうにかしな。今日からあんたは、うちの看板息子だ」

 お滝の不敵な笑みは、有希が時折見せた、勝気で眩しい表情そのものだった。

「それと最近はなんだか王宮周辺が物騒になってきて、町にもシャム人の武官や官吏が出入りするようになってきたんだよ。何かあった時の用心棒にもなって頂戴ね……」

 レックは何も言わず、ただただ首を上下に動かし頷くだけだった。

 1628年のアユタヤ—レックの“異界”での生活は、一軒の鯰の蒲焼屋の煙の中から、静かに、しかし抗いようのない勢いで動き出した。

2.雷魚獲りとガレオンの影

 お滝の店で(なまず)(さば)く生活が始まって数週間。

 レックの日常は、夜明け前の仕入れから始まった。

 アユタヤの湿った朝気が立ち込める中、レックは店先のあ炭床を整え、お滝の厳しい監修のもとでタレの煮詰め作業を手伝う。

「いいかい、レック。火加減は命だよ。焦がせばただの炭だし、弱ければ泥臭さが残る。あんたのその大きな体は、うちの団扇(うちわ)を仰ぐためでもあるんだからね」

 お滝の叱咤が飛ぶ。

 レックは、現代の仲間とキャンプで培った、バーベキューの炭の扱いとは次元の違う、職人的な火起こしに悪戦苦闘していた。

 しかし、ひとたび焼き上がれば、その香ばしさは日本人町の通りを支配した。

「母さん、レックにばっかり厳しくしちゃって。この人、これでも長政様からも一目置かれているのよ」

 ハナがくすくすと笑いながら、朝食のカオトム(タイのお粥)を運んでくる。

 しかし、具材には朱印船で運ばれてきた、日本の紀州の梅干しや、津田又左衛門の地元、肥後藩からのイワシの煮干しが入っている。 

「ふん、長政様がねぇ。うちじゃ、ただの“丁稚奉公(でっちぼうこう)”さ。ほら、レック、手が止まってる! 炭の声を聴きな!」

 お滝の勢いに押され、レックは「はい!」と裏返った声で答えるしかなかった。

 昼時になれば、ハナと並んで接客に追われる。

 二人は交互に忙しく狭い店先を動き回るが、すれ違うたび、レックの鼻腔をかすめるものがあった。

 それは、ハナが身にまとっている柔らかくも甘いお香の匂いだ。

 タイで古くから愛される「ジャスミン」の花のような、蜜の甘さと湿り気を帯びた香りが、レックの胸を不意に締め付ける。

(有希の匂いだ……いや、違うけれど)

 有希が好んでいたのは、デパートのカウンターで買った少し背伸びしたブランドの、柑橘系が混じる甘酸っぱい香水だった。

 ハナのお香はそれよりもずっと土着的で、この熱帯の空気に溶け込んでいる。

 そして彼女が笑った瞬間の、頬の曲線や目元の柔らかさまでもが有希を想起させ、レックは時折、自分がどの時代、どの世界に立っているのか分からなくなるほどの眩暈(めまい)を覚えた。

 レックは、色々と店の“改善”を思いつき、現代の飲食店では当たり前の「おしぼり」の提供を始め、さらには「松・竹・梅(まつ・たけ・うめ)」の価格設定を提案してみた。

 松竹梅……江戸時代の寿司屋や蕎麦屋で生まれたメニューのランク付けのことだ。

「ハナ、サイズを三段階に分けて、真ん中の『(たけ)』を一番お得に見せれば、客は自然とそれを選ぶ。これを(おとり)効果と言うんだ」

「おとり? またあんたは、詐欺師みたいなことばっかり言って。……でも、確かに真ん中の『竹』串が一番売れるようになったわね」

 ハナは感心したように、竹筒の売上金を数える。

「あんたのその不思議な知恵、本当はどこで教わったの? 長政様や又左衛門様が執心するのも分かる気がするわ」

 ふと見せたハナの真剣な眼差しに、レックは胸の鼓動が速まるのを感じた。


 ある晴れた休日――乾いた空気は何処までも澄んで、チャオプラヤ河を滑っていく。

 レックは、のんびりと一人で運河の奥へと舟を出していた。

 とはいうもの、お滝から命じられた“雷魚”《らいぎょ》(プラー・チョン)」を獲るための“命令”でもあったのだ。

「日本村の町人には“極上の鰻”《うなぎ》』だと言い張り、シャムの衆には雷魚を“元気の出る魚”として売るのさ、この国では商いを巧くやんねぇと生きていけないのさ……」

 お滝の商売哲学を思い出し、レックは独りごちた。

 だが、泥抜きをした雷魚は、ハーブを詰め込んで炭火で焼けば、その白身の美味さは確かに絶品だ。

 運河の岸辺、張り出したマングローブの根元は絶好の雷魚の住処(すみか)だ。

 レックは舟を固定し、慎重に間合いを測る。

 水面に浮く睡蓮(すいれん)の葉の隙間で、親指ほどの稚魚が群れている。

 その下には必ず、鋭い歯を持つ凶暴な母魚が潜んでいるのだ。

 レックは手慣れた手つきで投網を打つ。

 網が円を描いて広がり、銀色の飛沫とともに水面へ吸い込まれた。

 手応えがある。

 網を引き揚げると、斑点模様の筋肉質な巨体が数匹のたうち回った。

 水面に広がる波紋と、静かな竹林のざわめき。

 このまま、この穏やかな時代で、一人の日本人として歳を重ねていくのも悪くない。

 有希に似たハナと、ぶっきらぼうだが気立てのいいお滝。

 この「家族」のような場所を守って生きていくのも――。

 そんな甘い考えが頭をよぎった、その時だった。

 腰に掛けていたキティの鈴が、微かな川風を受けたのか、不意に「チリン……」と乾いた音を立てた。

 小さな音なのに水鳥たちが一斉に飛び立ち、運河の底から泥が巻き上がった。

 河下から水面を押し潰すような轟音が響いてきた。

「……なんだ、あのでかいのは?」

 マングローブの影から姿を現したのは、アユタヤの風景にはおよそ不釣り合いな、巨大な浮遊要塞だった。

 三本のマストを高く掲げ、船体には無数の砲門が黒い口を開けている。

 マストの頂点に翻るのは、赤と白のブルゴーニュ十字旗――スペイン(イスパニア)帝国の軍旗だ。

 当時、スペインはフィリピンを拠点にシャム王国、アユタヤ王朝への圧力を強めていた。

 だが、これほど重武装のガレオン船が、検問のあるポンペットを突破する勢いで、日本人町の鼻先まで侵入してくるのは、明らかな宣戦布告に等しかった。

 甲板には、太陽を照り返す鉄の胸当てを着けた兵士たちが、マスケット銃を構えて並んでい
る。

 その銃口は、迷うことなく日本人町の方角、つまりハナやお滝がいる場所を向いていた。

「大変だ……知らせないと……!」

 レックが網を放り出し、泥を蹴って立ち上がろうとしたその瞬間。

 背後の茂みから、冷ややかな声が届いた。

「動くな!……そのまま、泥の中に伏せとれ」

 振り返ると、そこには編笠を深く被り、抜き身の刀を逆手に持った津田又左衛門がいた。

「スペインの狂犬どもが、ようやく牙ば剥きおったばい。……レック、お主の言う“未来の呪術”ちゅうもんは、あの大きか巨艦ば沈める役に立つとか?」

(第四章につづく)

第四章 英雄からの招待状

第四章 英雄からの招待状

1.要塞の監視官

 レックに新たな「辞令(じれい)」が下った。

 送り主は、あの山田長政である。

「お主のその博識、鯰屋に埋もれさせておくには惜しい」

 長政の命により、レックはチャオプラヤ川と支流が交差する要衝(ようしょう)、ポムペット要塞(ป้อมเพชร)の検問警備に任命された。

 日本人町の先輩武士たちは、揺れる小舟に身を任せ、北側の要塞まで水路で働きに出かける。

 だが、レックは町外れの馬飼いから小柄なポニーを一頭借り受け、陸路を「通勤」するようになった。

 周囲からは「変わり者の物好き」と失笑を買ったが、レックには自分なりの意図があった。

 舟は視点が低く、水面と岸壁の死角に視界を遮られる。

 だが馬の背は、高い位置から町を見下ろせる。

 要塞の人足たちの視線の泳ぎ、荷を隠すように急ぐ不自然な足取りが鮮明に見て取れる。

 赤茶けたレンガが重厚に積み上げられたポムペット要塞は、圧巻の威容だった。

 (俺の知る現代のアユタヤ歴史公園にあるこの“荘厳”な要塞は、城壁も朽ち果て、老人の散歩道に過ぎなかった。だが、どうだ……)

 擁壁(ようへき)の高さは14メートルに及び、フランスから持ち込まれた最新式のカノン砲が8門、河口を睨みつけている。

 タイ湾からバンコクを抜け、アユタヤへ遡上するすべての船を監視する、この国最強の「水門の砦」として威風堂々の構えである。

 レックの役割は、朱印船、中国のジャンク船、オランダの東インド会社船といった多国籍な船団の検問補助だ。

「……あのアラブ船、止めましょう」

 城壁の上から、レックが低く鋭い声を出した。

 要塞のシャム人の役人が、うだるような暑さに顔をしかめながら聞き返す。

「何を言う!積荷は香料と麻布との申告だぞ」

「喫水線を見てください。船が重たそうに沈んでいる。あんなの、香料や布の重さじゃないでしょう。もっと……そう、底に鉛でも詰まっているような沈み方です、早く停船の信号を送ってください!」

 役人たちが半信半疑で踏み込むと、案の定、麻布の束の下から大量の武器が発見された。

「……次はあの右岸に停泊中のオランダ船です。甲板に置かれた鹿皮の束、並べ方が整い過ぎています。あれは見せたくないものを隠すときの典型的な手口ですよ。皮の下に、申告していない火薬を違法に積み出そうとしています」

 レックの指摘する摘発率は、百発百中だった。

 それは彼がこれまでに調べて来た、アユタヤ王朝時代の論文資料から得た知識――いわば「歴史の答え合わせ」だった。

 この時代のアユタヤでは、オランダ東インド会社が日本向けの鹿皮輸出を独占しようと躍起になっていた。

 だが、彼らの真の狙いは商売だけではない。

 宿敵であるスペイン・ポルトガルの艦隊を叩き潰すための軍需物資を、中立国であるアユタヤをハブにして密かに動かしているのだ。

「いいですか、オランダ人は今、マカオやルソン(マニラ)のエスパニア拠点を封鎖したがっている。そのための火薬が喉から手が出るほど欲しいはずです。シャムの王室を通さず勝手に火薬を持ち出すのは、この国の主権を愚弄(ぐろう)している証拠ですよ」

 レックの言葉に、シャム人役人の顔色がさっと変わる。

 単なる「不自然な積荷」という違和感に、当時の「欧州勢力同士の対立構造」という国際政治の力学を裏付けとして添えることで、彼の言葉には現代の知識としての重みが加わった。

 レックは知っていた—だがどうしても口は出せない、もっと大事なことを……。

 この小さな密輸の摘発が、やがてオランダと日本人町の摩擦を生み、ひいては長政を窮地に追い込む「外交問題」へと発展していく可能性を。

 摘発の喧騒の中、レックは馬の背から対岸を凝視した。

 そこには、豪華な石造りの商館を構えるオランダ人たちの、冷徹な計算が渦巻いている。

 要塞を預かるシャム人の役人たちは、この「未来のタイ語を話す日本人」を、もはや単なる長政の助手ではなく、見えないものを見通す「未来の賢者」として畏怖し始めた。

 だが、その活躍が目立てば目立つほど、不穏な影も濃くなる。

 要塞の影から、あるいは王宮の回廊から、長政と彼に仕えるレックを疎む廷臣たちの、刺すような視線が常にまとわりついていた。

 非番の日、レックは馬を返すと、夕暮れの日本人町を歩いて「鯰屋」へと戻った。

 懐には、要塞での「手柄」として支給された銀貨が数枚、重みを持って揺れている。

「ハナ、これがお給金だ。お滝さんに渡してくれ」

 店先で仕込みをしていたハナに銀貨を差し出すと、彼女は手を止めて、複雑な表情でそれを見つめた。

 受け取った指先がわずかに震えている。

「あんた、すっかり長政様に気に入られたわね。……でも、町じゃ変な噂ばっかりよ」

「噂?」

「近いうちに長政様は南のリゴールへ飛ばされるって。あんたも、あの人に付いていくんでしょう?」

 リゴール(六昆)―現代のナコンシータマラート県だ。

 レックの頭の中で、かつて取材で目にしたタイの古地図と、歴史の知識が重なる。

 山田長政がリゴール太守に任ぜられるのは、一見すれば栄転だ。

 だがその内実は、王宮内の権力争いから彼を排除するための、狡猾な島流しに等しい。

「リゴールは、アユタヤとは別の国だと思ったほうがいいよ」

 奥から、(すす)けた前掛けを拭いながらお滝が顔を出した。

 その眼光は、要塞の役人よりも鋭くレックを射抜く。

「あそこは熱病と、海賊と、裏切りが渦巻く場所だよ。中央の役人たちが、長政様という“脅威”を恐れて、南の果てへ遠ざけようとしているのさ。……あんた、まさか一緒に行くなんて言わないだろうね」

 お滝の言葉は、単なる警告ではなく、レックをこの店に繋ぎ止めようとする抵抗のようにも聞こえた。

 レックは答えに窮した—歴史の筋書きを知っている。

 長政に付いていけば、いずれ暗殺の渦に巻き込まれるだろう。

 だが、このままこの店で鯰を捌いていれば、やがて来る日本人村の焼き討ちで、この二人が灰に巻かれるのを指をくわえて見ていることになる。

「まだ、決まったわけじゃないですよ、それに長政様から何も頼まれてもいないですし……」

 レックが絞り出すように言うと、ハナは力なく笑い、彼から視線を外した。

「あんたの目は、ときどきここじゃない遠くを見てる。……さ、飯にしましょう。今日はカオトム(ข้าวต้ม)よ。あんたが好きな、紀州の梅干しにイワシの煮干しに、生姜をたっぷり効かせたやつよ」

 出された粥を啜りながら、レックは現代の食卓を思い出していた。

 有希と囲んだ、なんてことのない夕食。

 全身に行き渡る“生きている”という充実感……。

 あの時も、自分は仕事の締め切りや次の取材地のことばかり考えて、目の前の幸せを「当たり前」だと見過ごしていたのではないか。

 ハナの立てる微かな衣擦れの音、お滝が包丁を研ぐ規則正しいリズム。

 この「日常」という脆いガラス細工を守るために、自分は何をすべきか。

 その夜。

 レックが寝床に就こうとした時、表で激しい馬蹄(ばてい)の音が響いた。

 静まり返った日本人町に、場違いな高揚と緊張が走る。

「レック殿、おられるか! 長政様がお呼びだ。今すぐ王宮へ参られたし!」

 使いの浪人武士の叫び声に、レックは飛び起きた。

 ついに、歴史の歯車が音を立てて回り始めたのだ。

 暗闇の中、ハナとお滝の部屋から、微かな吐息と忍び泣くような気配が伝わってきたが、レックは振り返らずに草鞋を履いた。



2. 子の刻の密会

 深夜の王宮は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、松明(たいまつ)の炎だけが石造りの回廊に不気味な影を落としていた。 

 通されたのは王宮の奥深く、四方を厚いチーク材の壁に囲まれた私的な諮問(しもん)の間だった。

 床には大理石が敷き詰められ、壁には仏教説話を模した極彩色の壁画が、揺れる灯火に照らされて蠢いている。

 中央の豪奢な円卓には、王室の重臣(オークヤー・セーナー・ピモック)の衣装を(まと)った長政が、彫像のように動かず座していた。

 その隣には、眉間に深い(しわ)を刻んだシャム人の高官が一人。

 そしてもう一人、日本人町の重鎮であり、武闘派として知られる津田又左衛門(つだまたざえもん)が、抜き身の刀のような鋭い殺気を(はら)んで畳ならぬ石床にどっかと胡坐をかいていた。

(リゴール行きの沙汰(さた)か……?)

 レックは喉の乾きを覚えながら、冷たい床に膝をついた。

 部屋を支配しているのは、香木の重苦しい香りと、火花の弾ける音だけだ。

 だが、長政の口から出た言葉は、予想に反して例の“浮遊要塞”の話だった。

「レック、夜分にすまぬ。……あのエスパニアのガレオン船のことだ。ポムペット要衝の鼻先に居座りおって、一向に動く気配がない。又左衛門殿は『即刻、火船を放って沈めるべし』と息巻いておられるが、お主はどう見る」

 長政の目は、深夜とは思えないほど鋭く光っている。

 レックは一言も話す間もなく、又左衛門が苛立った口調でレックを睨みつけた。

「何を迷うことがある! 八年前、マカオでの勝利に乗じて遡上してきたエスパニア船を、我ら日本人部隊が焼き払ったことを忘れたか。あの勝利こそが長政様の、我らの地位を揺るぎないものにした。今こそ再び奴らを沈め、エスパニアに奪われた、全ての商権を我らの手に取り戻す好機ではないか!」

 又左衛門の言葉は“正論”だった。

 過去の成功体験に基づいた、最も確実な忠義の意志。

 だが、レックの脳内にある歴史認識は、別の答えを弾き出していた。

 レックは衣を整え、ドキュメンタリーの構成を述べるように冷静に語った。

「……あのガレオン船、沈める必要はありません」

 レックの言葉に、又左衛門が激昂した。

「何だと! 臆したか、小僧!」

「いえ。あの船は、アユタヤを襲撃に来たのではありません。……“ブラフ《威嚇》”ですよ。それも、スペイン、いやエスパニア本国やルソン(マニラ)からの命令ではなく、あの船の艦長、シルバ司令官独自の焦りによるものです」

 レックは現代で読み耽った大航海時代の欧州の歴史と、当時のスペイン帝国の内情を背景に、大胆な推論を重ねた。

「なんだと?”ブラフ”…いったいなんじゃそれは?」

 長政が首をかしげながら、「ブラフ、ブラフ……」と口の中で音を転がす。

「はい、えーとそれは、つまり“はったり”ですね。本当は戦争を仕掛けるつもりはないのです、単なる“脅し”のつもりなのです」

 何度も小さく頷く長政を横目に見ながら、レックは又左衛門に向き直った。

「又左衛門殿、八年前とは状況が違います。今、エスパニア本国は欧州での“三十年戦争”に忙殺され、アジアへ回す余力は底をつきかけています。あの船は最新鋭に見えますが、船体の塗装が剥げ、帆も継ぎ接ぎが目立ちます。補給が滞っている証拠です」

「補給が滞っている証拠だと?」

 又左衛門は開け放たれた木窓から流れ込む、湿った夜の空気を深く吸い込んで訊き返した。

「はい、彼らはアユタヤに戦争を仕掛けるつもりはないのです。勢力を伸ばすオランダに怯え、失った商権を強引に奪い返そうと、瀬戸際の“チキンレース”を仕掛けているだけです。王朝への脅威ですらありません」

 レックは又左衛門を完璧に“論破(ろんぱ)”したつもりだった。

 だが、今度は「チキン」という単語に、又左衛門はさらに眉を吊り上げた。

「チキン……何だと? 鶏の話などしておらん!」

 レックは思わず舌打ちをしそうになったが、我に返って笑みを浮かべながら言った。

「……失礼。“臆病者比べ”ですよ。こちらが過剰に反応して発砲すれば、彼らの思うツボです。彼らは“自衛”を名目に大義名分を得て、ルソン島の本隊を呼び寄せようとしている。ですが、もしこちらが兵糧攻め……つまり、彼らを“無視”し続ければ一ヶ月も経たずに自滅します。彼らには、長期戦を戦うだけの資金も食料もありません」

 レックの言葉が、高い天井に静かに反響する。

 長政はニヤリと口角を上げた。

 又左衛門の勇猛さよりも、レックの冷徹な状況分析を面白いと取ったのだ。

「聞かれたか、又左衛門殿。この男は、戦わずして敵を追い出すと言っている」

 又左衛門は屈辱に顔を歪めたが、論理的に武装されたレックの言葉に反論する術を持たなかった。

 シャム人の官吏は、鋭い目つきを翳して「ふん」と呟いて顔を逸らし、合掌もせずに部屋を辞した。

 長政はゆっくりと立ち上がり、小さく深呼吸をして、懐から一通の書状を卓上に広げた。

 部屋の隅、影に溶け込むように座していた二人の武士が、音もなく立ち上がり、部屋の唯一の出入り口である重い扉を内側から閉ざした。

「人払いですか……」

 レックの問いに長政は答えず、(あご)で書状を指した。

「……これを読んでみよ」

 長政の声には、重く乾いた響きがあった。

 卓上の松明が爆ぜ、二人の影が大理石の壁の上で巨大な怪物のように踊っている。

 レックは促されるまま、その墨痕鮮やかな草書体の書状に目を落とした。

 一行ずつ読むにつれ、文字が波打ちレックの心臓の鼓動が高まる。

 まるで戦の早鐘が、静寂を切り裂き鳴り響くかのように……。


3. 軍師のロジック

 書状には、病床に伏せるソンタム王の深刻な容態が、歪んだ筆致で生々しく記されていた。

 レックは一文字ずつ、記憶にある歴史認識と照らし合わせる。

(やはり…ここが分岐点か。歴史は今、この部屋から動き出そうとしている)

 ソンタム王の御身体は、側近が盛った微量の毒によって崩壊しつつある。

 だが、この書状の真に恐ろしい点は病状そのものではない。

 長政が何度も指でなぞったであろうその紙面からは、王宮の奥底に漂うソンタム王「崩御(ほうぎょ)」の臭いが立ち上っていた。

「……ソンタム王は、チェーター王子への継承を望んでおられる。わしに問われたのだ、日ノ本の国ではどうであるかと」

「長政様は……何とお答えに?」

「我が祖国では親子相続こそが筋である、とな」

 レックは息を呑んだ。

 長政が持ち込んだ、日本の“しきたり”が、アユタヤの伝統を覆す大義名分とされようとしている。

「ソンタム王はそれを遺言とされると、シーウォラウォン長官はそれを盾にして、政敵の王弟シーシン親王派を根こそぎ“粛清”するつもりでしょう。その実行部隊として我らを利用する気です」

「……分かっておる。だからこそ、レック、お主に頼みがある。わしの部隊を、単なる“雇われの傭兵(ようへい)”で終わらせたくない。これからは、お主の授ける“ロジック”を以って“日本人義勇隊(ぎゆうたい)”として奮起させる。わしらはただの駒ではないことを示すのだ!」

 傭兵から、義勇隊へ。
 
 それはレックという“軍師(ぐんし)”を得たことで、日本人傭兵隊が高度な「戦略集団(Intelligence Army)」へと脱皮することを意味していた。

 だが、その進化の先に待つ光景を、レックの脳裏にある“未来の記憶”が冷酷に映し出す。

(一六二九年八月五日付、オランダ平戸(ひらど)商館長の書簡……。そこには『新王プラサート・トーンが日本人らを使って高官を多数殺害した』と記録されることになる)

 今の決断が、四百年後には「異邦人によるクーデターへの加担」として断罪される。

 自分が“軍師”として生きれば生きるほど、ハナやお滝との穏やかな日常からは遠ざかり、血文字の公式記録の中へと引きずり込まれていく。

「……長政様。義勇隊を名乗るなら、その返り血は一生消えませんよ」

「構わぬ。我らが泥を被らねば、この日本人町の平穏は買えぬからな。……もうじき夜明けだ。デル・ロサリオ号へ乗り込むぞ!」

 レックは思わず絶句した。

「な……正気ですか! あそこは今、一触即発の火薬庫ですよ」

「だからこそ行くのだ。あの船を沈めるべきだと言った、この又左衛門殿のような頑固爺には見えぬ何かが、お主には映っているはずだ」

 試すような長政の視線に、レックは腹を据えた。

「……交渉相手は艦長のシルバ司令官ではありません。あの船を鏡にして、オランダと王宮にいる“政敵”を揺さぶるのです」

 この乗り込みの狙いは、過去の小競り合いの和睦交渉ではない。

 スペインを逆手に取り、自分たちを“烈火の日本侍兵団”へと押し上げる命懸けのパフォーマンスだ。

 当時、オランダは莫大な『銀』を背景に貿易を独占し、シーウォラウォンら高官へ裏金を流していた。

 長政がスペインという“新たな銀の供給源”とパイプを持てば、シーウォラウォンの権力基盤は長政に握られることになる。

「政敵……シーウォラウォン!」

 二人は揃って声を上げた。

 レックの論理が、四百年の時を超えて共鳴し合う。

「お主、やはり“鯰屋”には惜しい男よ」

 長政がレックの肩を強く掴んだその時、ざざっと重々しく立ち上がる着崩れの音がした。

「……ふん、また呪文か、何たる侮辱!好きになされるがよかろう」
 
 又左衛門は、レックの論理を「戦のいろはも知らぬ者の理屈」と断じ、自らの栄光が“ロジック”という言葉に置き換えられることに嫌悪を隠さなかった。

 彼はレックを無視し、長政に冷え切った視線を向けた。

 そして軽く頭を下げ「御意…」と小さく呟き、一度も振り返らずに広間を去っていった。

 レックは去っていった又左衛門の背中に、言い知れぬ不安を覚えた。

 その疎外感が、やがて長政を泥沼へ引きずり出す真のトリガーになることを、歴史を知るはずのレックもまだ予見できていない。

 窓の外、夜明け前のチャオプラヤ河には、スペインの巨艦が不気味な黒い影を落としていた。
 
 長政は自らの命をチップとして巨大なギャンブルに打って出ようとしている。

 だが、同時にレックを襲ったのは、胸を締めつける焦りだった。

(……まずい。これはやりすぎだ)

 もしこの『ガレオン船外交』が成功してしまえば、長政は歴史の記述を超えた怪物となり、アジア全体の勢力図が塗り替えられてしまう。

 自分は「歴史を破壊する」張本人ではないか。

 自分の指先ひとつで、四百年後の未来が、ハナやお滝の存在すら消し飛ばす『未知の明日』へ変貌してしまう――。
 
 レックは暗闇に浮かぶデル・ロサリオ号を見つめながら、夜の熱気を裂く氷刃のような戦慄を覚えていた……。

第五章 ふたつの太陽

第五章 ふたつの太陽

1. 巨艦の沈黙

 1628年、仏歴2171年の8月―。

 アユタヤは重苦しい雨季の底にあった。 

 ねっとりと肌にまとわりつく熱気と、降り続く雨がチャオプラヤ川を濁った琥珀色に変えている。

 だが、この朝の川面を支配していたのは、すべてを覆い隠すような乳白色の霧だった。

 その霧を切り裂くように、一艘の小舟が舳先に日の丸を立てて、水面に不気味なほど巨大な影を落とす

「漆黒の城壁」へと近づいていく。

 スペイン艦隊旗艦、『デル・ロサリオ号』。

 全長四十メートルを超えるであろうその巨躯は、長政とレックが乗る木造の小舟を押し潰さんばかりの威圧感で迫ってきた。

 漆黒の船体に施された金箔のマリア像は、ところどころ剥げ落ち、湿った朝日に鈍く光っている。

 船首楼から突き出たカノン砲の銃口が、まるで獲物の鼻先を嗅ぐ獣のように、まっすぐにこちらを覗き込んでいる。

「……レック、お主、震えておるのか」

 艫(とも)に立つ長政の声は、驚くほど静かだった。

 彼は正装である朱印船貿易商の羽織を完璧に着こなし、腰には黄金の柄の太刀を佩いている。

「……いえ。まさか、こんな殺気立った場所だとは……」

 レックは乾いた喉を鳴らし、見上げた。

「なんだ?未来の本にはそうは書いてないのか?ははは」

 長政は冗談か本気か分からないような奇妙な笑い声をあげた。

 レックは思わず口に出そうになった。

“歴史の文献には『長政、スペイン船にて和睦を成す』としか書いてありませんでしたから……”

 小舟が舷側(げんそく)に近づくと、頭上の甲板から「ガシャリ」という無機質な金属音が響いた。

 数十挺のマスケット銃が、霧を切り裂いて自分たちに向けられたのだ。

 火蓋が切られる寸前の、張り詰めた沈黙。

 だが、長政は笑った。

 それどころか、両手を広げて、朝の空気に染み渡るような朗らかな声を響かせた。

「おーい、わしらには敵意はない! 日本人町の頭領、ヤマダ・ナガマサだ。シルバ司令官に、日頃のキリシタンへの厚遇を感謝しに参った!さばーいでぃまーい!」

 レックは思わず目を疑った。

(……感謝だと? この状況で、その挨拶かよ)

 歴史書にある「外交」という言葉から、もっとこう、互いの利害を軍師が調整するような冷徹な儀式を想像していた。

 だが、目の前の男がやっているのは、まるで近所の家に挨拶にでも行くような、あまりにも無防備で厚かましい「人たらし」の直談判だった。

 小舟が戦艦に接すると、厳重な警戒の中で縄梯子が下され、二人は甲板へと引き上げられた。

 待ち構えていたのは、煤けた軍服に身を包んだディエゴ・デ・シルバ司令官である。

 彼は抜き身のサーベルを手に、疑念に満ちた眼差しで長政を射抜いた。

「……日本人よ。わざわざ殺されに来たのか。それとも、泥船のオランダを見捨てて我らに降伏を申し出るのか」

 シルバの声は低く、そして憔悴していた。

 レックは気づく。

 司令官の背後に控える士官たちの軍服は擦り切れ、ボタンが欠けたまま糸が垂れている。

 甲板の隅には、磨き残された赤錆がこびりついている。

 世界帝国スペインの威光など、この東南アジアの湿気と孤立の中では、とうにボロボロに朽ち果てていたのだ。

 長政は、シルバの剣先など見えていないかのように、柔和な笑みを崩さなかった。

「降伏? 滅相もない。ただ、我が日本人町には貴国のデ・ウスケ神父をはじめ、多くの敬虔な信徒がおります。司令官殿が、彼らを慈しむ騎士道精神の持ち主であると聞き、ぜひ我が町の極上の地酒と、心ばかりの品を届けたいと思いましてな、はっはっはっ」

 長政は白い歯を見せて笑い、レックに目配せをした。

 レックは震える手で、持参した贈答品の目録を差し出す。

「……酒だと?」

 シルバの頬が、わずかにピクリと動いた。

「ええ。アユタヤの熱気には、日ノ本の冷えた酒が一番です。我らは商人。争いよりも、豊かな交易の杯を交わしたい。そうは思いませぬか?」

 シルバ司令官は、しばらく長政を睨みつけていたが、やがてふっと肩の力を抜いた。

 そしてゆっくりとサーベルを鞘に収めた。

「……貴公、正気か。我々は今、王宮からもオランダからも敵視されているのだぞ」

「ははは! 友人と酒を飲むのに、どこの誰の許可がいりましょう。我ら日本人は、義理を重んじます。キリストの教えを信じる同胞が世話になっている以上、その親玉である司令官に挨拶に来るのは、当然の道理です」

 甲板に漂っていた殺気が、霧が晴れるように霧散した。

 士官室に案内され、日本から持ち込まれた清酒の樽が手際よく開けられた。

 澄んだ液体がガラス杯に注がれる。

 シルバは一口それを啜ると、驚いたように目をみはり、次いで深く長い溜息をついた。

「……悪くない。いや、驚くほど澄んでいるな、この酒は」

「そうでしょう。日ノ本の清く澄んだ雪解け水のような味です」

 酒が回るにつれ、室内の空気は急速に緩んでいった。

 長政は、まるで長年の友人のようにシルバと笑い合い、キリスト教の教義について(付け焼刃とは思えないほど詳しく)語り、日本人町がいかにスペインとの貿易を待ち望んでいるかを情熱的に説いた。

 レックは傍らで、その様子を見ながら呆然としていた。

(これが……これが歴史の真実なのか)

 緻密な戦略や計算なんてどこにもない。

 ただ、腹の底を見せ、うまい酒を振る舞い、「お前たちの事情は分かっている」と肩を叩く。

 現代の資料や文献には一行も書かれない、この男の底知れない「愛嬌」と「胆力」こそが、大帝国を動かしている。

 自分が持ってきた知性やロジックが、なんだかひどく小っぽけなものに思えてきた。

 だが、安堵したのも束の間、窓の外、霧の向こう側で動く不穏な影が見えた。

 チャオプラヤ川を下ってくる、複数の小型船。

 そこには、独占権を奪われることを何よりも恐れる、オランダ東インド会社の紋章が揺れていた。

「……長政様」

 レックが低く呟く。

「……ああ、分かっている。客人が来たようだな」

 酒杯を掲げたまま、長政の目が一瞬だけ、獰猛な武士のそれへと戻った。

 この和平の宴こそが、オランダという巨大な獣を誘い出すための「撒き餌(まきえ)」であることに、スペイン側はまだ気づいていない。

「司令官、どうやら無粋な連中が、我らの酒盛りを羨んでいるようですぞ」

 長政の言葉と同時に、船外で鋭い銃声が響いた。

 平和な宴の幕が、血の臭いを伴って引き裂かれようとしていた……。



2.歴史の落丁

  船外で響いた一発の銃声は、士官室の緩んだ空気を、冷えた刃で切り裂くようにして奪い去った。

 長政が持ち込んだ日本酒の香りが漂っていた室内は、一瞬にして鉄と硝煙(しょうえん)の匂いに支配される。

 シルバ司令官が跳ねるように立ち上がり、腰のサーベルの柄を強く握りしめた。

 酒で赤らんでいた顔が、一瞬で蒼白な軍人のそれへと戻る。

 その瞳には、戦闘本能と落胆が入り混じった鋭い色が宿っていた。

「オランダの赤鼠どもか!」

 シルバが吐き捨てるように叫び、部屋を飛び出す。

 長政とレックもそれに続いた。

 甲板へ駆け上がると、そこには視界を拒むような乳白色の霧が停滞していた。

 だが、その霧を割り、チャオプラヤ川の下流から、オランダ東インド会社の三色旗を掲げた武装カッター数艘が、獲物を狙う鮫のようにデル・ロサリオ号の舷側(げんそく)へと迫っていた。

 彼らにとって、スペインと日本人が密談しているという事実は、アユタヤにおける貿易独占権の崩壊――すなわち“撤退”を意味する。

 長政が甲板の縁に走り寄り、銃を構えて応戦体制に入ったスペイン兵たちへ怒号を飛ばした。

「¡No debes atacar!(ノー・デベス・アタッカー)――攻撃をするな!」
 
 しかし、デル・ロサリオ号の右舷では、護衛のために河面で待機していた日本人町の小舟が、すでにオランダ武装船と鼻先を突き合わせ、水面下で激しい火花を散らしている。

「撃つな! 応射するな!」

 今度は日本語で大声を張り上げた。

 長政の必死の制止だった。

 ここで引き金を引けば、それは単なる小競り合いではなく、二つの帝国の全面戦争、そしてアユタヤを火の海にする地獄の引き金になる。

 長政はそれを熟知していた。

 だが、その叫びは、最前線の狂気には届かなかった。

 霧の中から、乾いた銃声が立て続けに数発響く。

 オランダ側からの威嚇射撃、むしろ先制攻撃に近い。

 チャオプラヤの重苦しい空気が振動し、鉛の弾丸が、小舟で待機していた浪人武士の一人、角倉(すみのくら)の左頬をかすめた。

 細い一筋の血が流れた、その瞬間だった。

 戦国時代の敗残兵――関ヶ原や大坂の陣を経て、行き場を失い、血を流すことでしか己を証明できない“浪人武士”たちにとって、オランダの威嚇は、この上ない「開戦の合図」として響いてしまった。

「笑止千万、南蛮の赤鼠どもが! 我らが吉継殿の無念、その身に刻んでくれん!」

 大漢(たいかん)の角倉が吠えた。

 彼はデル・ロサリオ号の甲板へと投げ込まれた接舷用の鉤縄(かぎなわ)を、あえて避けるどころか、むき出しの左手で掴み取った。

 麻縄が掌を焼く摩擦音を無視し、全体重をかけてグイと引き寄せる。

 相手のカッターが、磁石に吸い寄せられるように舷側へ激突すると、彼は背負った三尺三寸の野太刀(のだち)を抜き放った。

 白刃が朝霧を切り裂く。

 角倉は、足場も定まらぬ小舟から小舟へと、重力を無視したような動きで吸い込まれるように飛び移った。

「待て! 斬るな! 斬らないでくれ!」

 レックの絶叫が河面を走るが、それは湿った重い空気に呑み込まれ霧散していく。

 レックの視界に入ったのは、未来の歴史書に書かれた「一六二八年の小競り合い」という、わずか五文字の無機質な記述ではない。

 狭いカッターの上、逃げ場のない空間で振り下ろされる、重き鉄の一撃。

 防御しようとしたオランダ兵のマスケット銃の銃身が、角倉の一撃によって、まるで飴細工のように易々と断ち切られた。

 火薬の匂いと、金属が削れる甲高い音が鼓膜を突く。

「おんどりゃぁ!」
  
 角倉の獣じみた咆哮が河面に轟く。

 次の瞬間、鈍い、濡れたような音が響いた。

 肉を斬り、骨を砕き、命を奪うという行為が、そこでは極上の娯楽のようにすら見えた。

 鮮やかな赤い飛沫が乳白色の霧を毒々しく染め上げ、オランダ側の小舟からは、人のものとは思えない悲鳴が次々と上がる。

 数分後―

 地獄のような悲鳴が止み、代わりに不気味なほど重苦しい静寂が河面に戻ってきた。

 デル・ロサリオ号の甲板に、一人の男が縄梯子(なわばしご)を伝ってゆっくりと這い上がってきた。

 全身、返り血で真っ赤に染まった角倉だ。

 その瞳は興奮で異様にギラつき、呼吸は獣のように荒い。

 彼は勝ち誇ったような歪んだ笑みを浮かべ、右手で泥にまみれた髪を掴んでいた「それ」を、事もなげに長政の足元へと転がした。

「長政様! 敵の将、しかと討ち取ったり!」

 ゴロリ、という重々しい肉塊の音が板張りの甲板に響き渡る。

 それは、つい数分前まで生きていたはずの、青白い顔をしたオランダ人士官の生首だった。

 見開かれた瞳には、死の瞬間の驚愕が張り付いている。

 レックは胃の底からせり上がる猛烈な嘔吐感に耐えきれず、口元を押さえてその場に崩れ落ちた。

(……嘘だろ。こんなこと、どの歴史資料にも、論文にも載ってなかったぞ……)

 長政とレックが積み上げてきた、アユタヤを安定させるための繊細な外交計画。

 それが、たった一人の「戦馬鹿(いくさばか)」の狂気によって、修復不可能なほど粉々に砕け散った瞬間だった。

 平和への橋は、一瞬で血に染まり崩壊してしまった。

 長政は、足元の生首を無言で見つめていた。

 長政の視線の先には、霧の向こうの王宮で薄笑を浮かべるシーウォラウォンの影があった。

「……レック。しかと見たか。これが教文(きょうもん)にはない“(まこと)”じゃ」

 長政の声は、驚くほど静かで、そして刃のように冷徹だった。

 彼はその生首の髪を、汚物を扱うような素振りも見せず無造作に掴み上げると、傍らに控えていた従者に短く命じた。

「これを持って、直ちに王宮へ走れ。シーウォラウォン長官へ届けろ。――『日本人義勇隊、我が物顔で“悠久の大河”を荒らすオランダの不埒者を、王宮に代わって成敗せり』とな」

 レックは身震いした。

 長政は、この破滅的な暴走を嘆く時間は一秒も要らなかった。

 即座にこれを「シーウォラウォンの懐に潜り込むための供物」とし、逆にオランダを悪者に仕立て上げる一手に変えたのだ。

 だが、それは同時に、オランダという巨人を完全に敵に回すことを意味する。

 この後、誠実な日ノ本の商人の顔をしてアユタヤの土を踏める日々が、急速に遠のいていくのをレックは感じていた。

 そして、激しい動悸の中で、懐に入れたあの「鈴」が、小刻みに震え続けていたことにさえ、気づいていなかった。
 
 それは未来からの警告か、あるいは歴史が修正不能な地点を越えたことを告げる弔鐘(ちょうしょう)だったのか。
 
 霧の向こう側から、オランダ艦隊が鳴らす復讐の鐘の音が、重く、低く響いてきた……。



3.粛清の駒 

 アユタヤ王宮の最奥、シーウォラウォンの私邸は不気味なほど静寂(せいじゃく)だった。

 磨き上げられた漆黒の床が、窓外の雨を鏡のように映し出し、その中央に置かれた麻袋から、じわりと赤黒い染みが這い出している。

「……見事なものだ、長政殿」

 宮内長官シーウォラウォンは、手にした扇子をパチンと閉じ、その先端で袋の口をわずかに押し広げた。

 無造作に転がり出たオランダ人士官の首を、彼は眉ひとつ動かさず、まるで出来の悪い骨董品でも値踏みするように眺めている。

「オランダの赤鼠どもには、私も手を焼いていた。我が王国の秩序を乱す無法者を、貴殿の義勇隊が掃除してくれたわけだ。……長政殿、骨を折らせたな」

 (ねぎら)いの言葉とは裏腹に、その双眸(そうぼう)には冷徹な計算だけが宿っている。

 外面では称賛し、裏ではオランダへ「報復」の許可を出しているであろうこの男の底知れなさに、レックは吐き気を堪えた。

滅相(めっそう)もございません。スペイン船との交渉は、あくまで商いの一環。それを邪魔立てしたオランダ側が、先に銃を向けたまでのこと……。部下の働きは、自衛のための偶発的な事故にございます」

 長政は堂々と言い放った。
 
 暴走した部下の始末を“自衛のため”とすり替え、正当防衛という名の綱を渡りきる。
 
 その胆力に、隣に控えるレックは、濡れた指先の震えが止まらない。

「偶発、か。良かろう、角倉とやらを罪には問わぬ」

 シーウォラウォンは薄笑いを浮かべ、這い寄るように長政を覗き込んだ。

「だが、長官殿。今、病床のソンタム王を悩ませているのは外の(ねずみ)だけではない。チェーター皇子の継承を邪魔立てし、柱の下をかじる内の蜥蜴(トカゲ)ども……。その巣を掃き清めるのに、貴殿の“義勇隊”の力を借りたいのだよ」

 殺せ、とは言わない。

 だが、それは紛れもない「粛清(しゅくせい)の駒」になれという宣令(せんれい)に等しかった。
 
 王宮からの帰り道、激しさを増した雨が二人の肩を叩きつける。
 
 先行する長政の背中を、レックは引き()るような焦燥(しょうとう)とともに追う。

「……長政様。どうしても、腑に落ちぬことがございます」

 長政は足を止めない。雨のカーテンに霞む王宮の尖塔を睨みつけたまま、重い足取りで歩き続ける。

「オランダの動きが早すぎました。奴らは、我々がデル・ロサリオ号に乗り込む時刻を、正確に知っていた。日本人町に裏切り者がいるとは思えません。……誰が、情報を売ったのですか」

「あの夜の官吏(かんり)だ」

 吐き捨てられた答えに、レックの思考が凍りついた。

 ソンタム王の書状を届けに来た感情のない男。

 あれもすべて、シーウォラウォンが放った「目」だったのか。

「彼は、長官のスパイ、いや、“密使(みっし)”だったというのですか?」

「密使というほど大層なものではあるまい。ただ、お主がそこにいたこと。わしが何を決断したか。それを見届け、主人へ報告した。シーウォラウォンは、その情報を直ちにオランダへ横流ししたのだ。……わしらと赤鼠を、海の上で食い合わせるためにな」

 震えが止まらなかった。

 外交も、命がけの交渉も、シーウォラウォンにとっては、日本人とオランダ人の間に、消えない“血の溝”を作るための仕掛けに過ぎなかったのだ。

「長官は、最初から我々を破滅させるつもりです!」

 レックは雨音に(あらが)うように声を張り上げた。
 
 胸の内に溜まった“未来の史実”が、濁流となって口を突いて出る。

「長政様、狂言(きょうげん)だと思って聞いてください。私が知っている歴史の……いえ、未来の結末では、日本村はシーウォラウォンの軍勢によって焼き払われます。あなたも、お滝様も、日本人全員が彼に裏切られ、このアユタヤから消し去られるのです!」

 長政が、初めてその足を止めた。
 
 振り返ったその眼光は、嘘や迷いを一瞬で切り裂くほどに鋭い。

「……レック。お主、ついに気が触れたか?」

「日本村は、焼き討ちに遭うのです。長官にとって、政敵を排除した後に残る強大な脅威――我ら日本人は葬り去るべき外患となります。恩を仇で返し、根絶やしにする。それが、シーウォラウォン長官の企みなのです」

 狂人の戯言(たわごと)と切り捨てられてもおかしくない言葉だった。
 
 長政はレックを射抜くように見つめたまま、動かない。
 
 脳裏に、お滝がかつて漏らした不吉な言葉が蘇ったからだ。

『……かつて高僧が予言したのです。この地で日ノ本から来た民が栄華を極めたとき、その炎は自らを焼き尽くす紅蓮(ぐれん)に変わると』

(あの僧の言葉と、この若造の予言が、一本の線で繋がるというのか……!)

 長政の中で、バラバラだった疑惑が現実へと変わる。

 目の前の青年が持つ“異世界の知性”の正体が、単なる博識ではなく、運命を見通す“眼”であることを、彼は直感で受け入れた。

「……いいだろう。信じよう。お主の不吉な眼に見えているものを」

 長政の瞳には、獲物を狩る虎のような、冷徹な光が宿っている。

「ならば、長政様。長官の描いた策略を、こちらで塗り替える必要があります。彼は我らを政敵排除の“道具”にするつもりでしょうが、逆にその立場を利用するのです」

 レックは一歩踏み出した。

 雨に濡れたその顔から、かつての清廉な輝きは消え失せていた。

「長官が欲しがっているのは、政敵……王弟シーシン派を皆殺しにするための“大義名分”です。ならば、こちらでそれを“捏造(ねつぞう)”して献上してやるのです。――『シーシン派がオランダと内通し、日本村を焼き討ちにしようとしている』と。実際に我々が焼かれるという未来を、そのまま奴らの陰謀として、長官に売りつけるのです!」

 確定した過去を、今を生き延びるための毒牙に変える。

 歴史が自分たちを滅ぼそうとするなら、その筆を奪い、ここで書き換えてやる。

「……お主、もはや“魔界(まかい)妖人(ようじん)”ではいられぬな」

 長政の唇が、歪んだ笑みの形を作った。

 レックは今、自らの意志で血塗られた二人のシナリオに連署した。

 降りしきる雨の向こう、遠くで寺の鐘が雨脚に溶けて響く。

 それは一人の青年が清廉な知を捨て、泥沼の「策」へと堕ちていく戯曲(ぎきょく)の調べであった。



4.偽りの告発

 次の日の夕刻。

 ぎらつく夕陽もここ数日、チャオプラヤの河面を照らしてはいなかった。

 雨に濡れた日本人村は泥濘(ぬかるみ)の底に沈み、水位は限界を超えて、村の至るところで床下まで水が入り込んでいる。

 ハナの実家の蒲焼屋も商売あがったりで、軒先には(にご)った水が虚しく()まっていた。

 膝下まで浸かった土間の、木の椅子に腰かける長政とレック。

 その足元を、どこかの樽から逃げ出した(なまず)が、ぬらりと(かす)めて泳ぎ去っていった。

 お滝が差し出した茶の湯気だけが、かつての平穏な日常の残り香のように、白く頼りなく揺れている。

「……“偽書(ぎしょ)”、でございますか」

 茶菓子を運ぶお盆を持ったお滝の手が、ぴたりと止まった。

 その声は、脆く、微かに震えている。

 レックはお滝の顔を見られず、手元の(すす)けた机を見つめたまま、長政に代わり言葉を絞り出した。

「そうです。王弟シーシン親王の擁立(ようりつ)派がオランダと内通し、それを支持せぬ日本村を焼き払おうとしている……と。今、この場で私が、その“嘘の真実”を書状にします、お滝さん、墨と筆をお願いします」

 お滝の瞳に不安が広がる。

 彼女の脳裏には、あの高僧の不吉な“予言”が被さっていた。

(……この王国で日ノ本が栄華を極めたとき、その炎は自らを焼き尽くす紅蓮(ぐれん)に変わる……)

 「焼き尽くす」という予言、そしてそれが歴史の真実だった。

 レックは今、その歴史の軌道を無理やりねじ曲げようとしていた。

 史実では、シーウォラウォン自身が「日本村焼き討ち」を仕掛け、日本人を排除する。

 だが、その彼が思いつくはずの陰謀を、先んじて「王弟派とオランダの共謀」として捏造し、長官の耳に入れてしまうのだ。

 そうなれば、長官はもはや自分の手で村に火を放つことができなくなる。

 火を放てば、それは自分が「王弟派と通じている」と認めることと同じになるからだ。

 彼は己の野望のために、むしろ日本村を保護する“偽善者”を演じざるを得なくなる。

「お滝さん。これは毒を以て毒を制するための策です。この書状一枚で、シーウォラウォンから“主導権”を奪い取る。彼はこれを見た瞬間、自分の手の内を先に(さら)されたことに愕然(がくぜん)とするはずです」

 レックは深く瞳を閉じ、脳裏に浮かび上がる「十七世紀のポルトガル語の書簡」をなぞり始めた。

 お滝が以前、スペイン人の商人と鯰の蒲焼と物々交換をした、ガチョウの羽ペンが、鋭い音を立て、羊皮紙(ようひし)に黒いインクを刻んでいく。

 彼の筆先から一文字ずつ、異国の言葉が溢れ出す。

「……できた!」 

 長政が「よし!」と立ち上がった。

 しかし、その眼光には、窮地(きゅうち)を逆手に取る野心と、己の手を汚す奇策への激しい嫌悪が渦巻いていた。

 この偽書を差し出せば、長官は自らの手を汚さず、王弟派の鎮圧を長政に命じるだろう。

 それはつまり、長政が「自分たちを(おとしい)れようとした」という濡れ衣を着せられた者たちを、自らの刀で始末しに行かねばならない……という血の契約を意味していた。

 レックが最後の偽りの署名を終えた、その時だった。 

 屋敷の門を激しく叩く怒号が静寂を破り、泥まみれの伝令が飛び込んできた。

「申し上げます! 先刻、王宮より早馬が……! ソンタム王、崩御あそばされました!」

 一瞬、全員の呼吸が止まった。

「……日ノ本の“傘”が、折れたか!」

 アユタヤ日本人の守護者であり、理解者でもあったソンタム王の死。

 それは、宮廷の危うい均衡を保っていた最後の手綱が、ついに切れたことを意味していた。

 もはやシーウォラウォンの台頭を阻むものはなく、一気に彼が実権を握る時代が幕を開けたのである。

「レック、急ぎ参ろう。あの男に先手を食わせてやるのだ」

 お滝の、祈るような視線を背中に感じながら、長政は偽書を懐に収めた。

 それは、未来の歴史書には決して載らないであろう、最も醜悪(しゅうあく)で、最も慈悲(じひ)深い、歴史への反逆の始まりであった。

第六章 すれ違う鈴

第六章 すれ違う鈴

1.凍れる牙

 ソンタム王が崩御した。

 一六二八年、雨季が明けた十二月半ばのことである。

 季節の変わり目を告げる、乾いた北風が吹き始める頃であった。

 一点の曇りもない青空の下、田植えを待つ広大な水田は、まるで巨大な鏡のように静まり返っていた。

 泥水に反射する、天を突く椰子の木のシルエットだけが、水面に刻まれている。

 しかし、その長閑な風景の裏側で、王国の安寧は今まさに崩れようとしていた。

 アユタヤの宮廷と日本人町を結んでいた細い、だが強固な絆は、ソンタム王の死を境に急速に緩み始めた。

 王宮の回廊は、弔いの黒装束に身を包んだ廷臣たちで埋め尽くされていた。

 誰もが信心深い顔をして、手向けの言葉を口にしながら、その裏では主を失った玉座を誰が奪うのか、あるいは誰に縋れば生き残れるのか、互いの出方を探り合っている。

 そんな軽薄なすすり泣きの声が、逆に静寂のなかの不気味さを際立たせていた。

 王宮の北を流れるロッブリー川の対岸。

 喧騒から隔絶されたシーウォラウォンの豪奢な私邸。

 川面を渡る風が、ひんやりと湿った空気を運んでくる。

 シーウォラウォンは、金箔に縁どられた重厚な椅子に深く腰掛け、レックが認めたポルトガル語の書状を、傍らの従者に読み上げさせていた。

「なるほど……王弟シーシン親王がオランダを抱き込み、自らの即位を邪魔立てする日本人町を焼き払おうとしている、か」

 シーウォラウォンの声には、まるで感情が通っていなかった。

 彼はこの書状の内容が、自らが胸の内に描いていた「日本人町排斥」という企みを封じるための、長政とレックによる意図的な“演出”ではないかと疑った。

 だが、一度公の場にこの書状が示され、長政が証拠として突きつけてきた以上、彼はこの“演出”を真実として利用するほかなかった。

 今、日本人町を攻撃すれば、彼自身が「王弟派と通じている」と宮廷中に宣言するようなものだからだ。

 レックは、シーウォラウォンが最も嫌う「恥辱」という鎖で、その両足を縛り上げたのである。

 シーウォラウォンは、長政の背後に控えるレックへ、ゆっくりと視線を移した。

 射すくめるような、毒蛇のそれにも似た眼光。

 レックは、その視線に晒されながら、背中を伝う冷や汗を必死に抑えていた。

 この“演出”がばれるのではないかと、心臓の鼓動が鳴り続ける。

 だが、レックは冷静に頭の中にある、かつて文献から詰め込んだ「歴史の真実」をゆっくりとなぞった。

 本来の史実では、この崩御の混乱に乗じて、シーウォラウォン自らが軍を遣り、日本人町へ火を放つ。

 それによってアユタヤ最強の日本人義勇隊を壊滅に追いやり、自らの覇道を確かなものにするはずだったのだ。

 その凄惨な結末を回避するために、レックは歴史の改竄という、史実を欺く命懸けの“脚本”を仕上げたのだ。

「軍師よ……」

 シーウォラウォンが、皮肉じみた声を噛みしめるように問うた。

「軍師、と呼んでもよいであろう。……貴殿には、今のオランダがどう見えている?」

 シーウォラウォンは、もはや長政を視界に入れていなかった。

 未来を予見するような言葉を操り、自分の思考を、まるで掌を見るように先回りし続けるこの若者。

 彼こそが、自分の野望を阻む「脅威の根源」であると確信したのだ。
 
 レックは、膝の震えを悟られないよう一歩前へ出た。

 震える声を無理やり理性で抑え込み、自分が知っている当時の情勢を、揺るぎない事実として淡々と述べた。

「オランダは、強力な軍事力を備えた貿易商団です。彼らにとって、今はアユタヤで細々と手に入る鹿皮や香辛料よりも、台湾や長崎といった北の貿易拠点の拡大を優先したい時期にあります。勝ち目の薄い王弟派に与し、日ノ本やエスパニアと無益な戦をすることは、彼らの帳簿を赤字に染めるだけの愚行に他なりません。商人は、負ける賭けには乗りません」

 それは、シーウォラウォンが狙っていた「外国勢力を利用して政敵を掃討する」という選択肢を、一つずつ丹念に握りつぶしていく作業だった。

 レックは言葉を継ぐ。

「長官殿、この書状を盾に、オランダへ嫌疑をかけるのです。王弟派と内通した罪を問い、シャム国での特権剥奪を警告すれば、彼らは損を避けるために早々に身を引くでしょう。戦わずして、王弟派の最大の後ろ盾を剥ぎ取るのです。これこそが閣下にとって、日本人町を守ったという圧倒的な『大義』を手に入れつつ、政敵を完全に孤立させる最善の策となります……」

 この注進さえ、レックにとっては精一杯の挑発だった。

 実際、当時のオランダが、アユタヤの内紛に関与する余力がなかったことを、レックは未来の記録から剥ぎ取り、シーウォラウォンが拒めない“ロジック”として張り付けたのだ。

 レックは、シーウォラウォンの冷たい瞳の奥に吸い込まれるような錯覚を覚えた。

 自分の思考の数手先を読み、最も合理的で、かつ抗弁させない逃げ道を用意する。

 シーウォラウォンは、レックを奇才の軍師として認めながらも、いつか必ず息の根を止め、この世から消し去らねばならぬ「正体不明の魔物」として、その名を脳裏に深く刻み込んだ。

「……面白い。その知恵、拝借させていただこう」

 シーウォラウォンは、一切の感情を排した顔で立ち上がった。

「では、オランダ商館へ向かうがよかろう。このシーウォラウォンの名において、我が意向を伝えに行くがよい。不義理な商人どもに、この国の主が誰であるかを教え込んでやるのだ」

 その時だった。

 乾季の青く透き通っていたはずの空が、俄かに不吉な鉛色の雲に覆われた。

 先ほどまで吹き抜けていた乾いた北風がぴたりと止み、肌に粘りつくような湿気が室内を満たす。

 ――ゴロゴロと、地の底を這うような重苦しい雷鳴が轟いた。

 季節外れの雷光が、シーウォラウォンの冷徹な横顔を微かに白く浮かび上がらせる。

 それは、アユタヤを飲み込もうとする未曾有の濁流が、ついに決壊した合図であった。

 レックは懐の中で震える自分の手で、鳴らない鈴を強く握りしめた。




2.オランダ商館

 王宮を後にした長政とレックは、小舟に乗り込みロッブリー川を下った。

 チャオプラヤ川の本流へと合流する地点、水面に突き出すようにして、その異質な建築群が現れる。

 オランダ東インド会社、アユタヤ商館である。

 それは、周囲の竹や木で組まれた高床式の民家とは明らかに異なっていた。

 鈍い赤茶色のレンガを積み上げた二階建ての石壁。

 漆喰で固められた白い窓枠。

 屋根には焼成された重い瓦が載り、その頂にはオランダを象徴する三色旗が風に煽られている。

 商館の周囲には堅牢な木柵が巡らされ、その隙間からは最新鋭の火器を担いだ衛兵の鋭い視線が突き刺さる。

 熱帯の湿った風景の中に、欧州の建築様式が無理やりねじ込まれたような、冷徹な美しさと拒絶の気配が同居していた。

 この商館は単なる商取引の場ではない。

 欧州の力がこのアジアの一王国に打ち込んだ、列強国の「(くさび)」そのものであった。

 長政は、門番に会釈をし、レックを従えその重厚な門をくぐった。

 石造りの廊下を歩くと、ひんやりとした冷気が足元から伝わってくる。

 アユタヤの熱気から隔絶されたその空間は、まるで異界へ通じているようだった。

 通された応接室には、商館長ヴァン・フリーストが待ち構えていた。

 彼は苛立(いらだ)ちを隠そうともせず、パイプの煙を執拗に吐き出していた。

不躾(ぶしつけ)な訪問だな、ナガマサ殿。我ら東インド会社は、この国の法を遵守し、正当な税を納めている。王の崩御に伴う混乱に、金輪際(こんりんざい)、我々を巻き込まないでもらいたい」

 ヴァン・フリーストの、通辞を介したポルトガル語による牽制。

 レックはそれを、表情一つ変えずに受け流した。

「まずは、先の不始末についてお詫びせねばなりません」

 レックが、通辞を差し置いて流暢なポルトガル語で直接語りかけた瞬間、ヴァン・フリーストの眉が大きく跳ねた。

「エスパニア船との和平交渉を貴国が邪魔した際、我が義勇隊の角倉(すみのくら)が貴国の兵を斬首した件です。血気盛んな武人の暴走とはいえ、礼を失しました。……しかし、それゆえにこそ、事態は謝罪だけで済む段階を越えてしまったのです」

 レックは、謝罪を「譲歩」ではなく、対話を強引にシーウォラウォンからの書状へと移行させるための「足がかり」とした。

 長政が重苦しい沈黙を保ち、室内の空気をその威圧感で支配する中、レックは(ふところ)から一通の書状を取り出し、机の上に滑らせた。

「商館長。巻き込まれるか否かを決める段階は、既に過ぎ去りました」

 レックの声が、外交交渉の猶予を奪うほど冷やかに響いた。

「これは、崩御されたソンタム王の弟君であるシーシン親王(しんのう)から、貴館へ送られたとされる密約状です。内容は、この度の“斬首事件”の報復として、日本人町の焼き払いを許可する条件に、独占的な通商権を付与すると……」

 レックが流暢なポルトガル語で続けた。

「これが昨日、シーウォラウォン長官の手に渡りました」

 ヴァン・フリーストの顔から、急速に血の気が引いていく。

「馬鹿な……そのような心当たりはない! それは、シーウォラウォンが仕組んだ罠だ!」

「その真偽は、重要ではありません!」

 重苦しく淀んだ空気の中、ヴァン・フリースト館長は天を仰いだ。

「重要なのは、シーウォラウォン長官がこれを『(まこと)』として扱うと決めたことです。現在、王宮の近衛兵たちは、貴館がシーシン親王に加担した嫌疑でこの商館を包囲する準備を整えています。全財産の没収、そして乗組員全員の処刑。アユタヤの法の下では、反逆罪に慈悲はありません」

 商館長は、言葉を失い、机を叩こうとした手を空中で止めた。

 レックは、相手の表情が戦慄に変わる瞬間を見計らい、遂に本題を切り出した。

「ですが、長官は賢明な御仁だ。不毛な流血を望んではおられない。そこで、我々は貴館に『名誉ある撤退』を提案いたします……」

「『名誉ある撤退』だと……?」

「はい、直ちに商館を閉鎖し、王国から速やかに退去することです」

 ヴァン・フリーストの声が震える。

 レックは、相手の逃げ道を決死のロジックで固めていった。

「商館長、貴殿の帳簿は既に悲鳴を上げているはずだ。バタビアの本部からは、収益の上がらぬシャム貿易に見切りをつけ、日ノ本の長崎、あるいは台湾、高砂の国、いや、フォルモサのゼーランディア城の維持に注力せよという訓令が届いているのではないですか?」

 赤毛の巨漢はパイプに火を入れ直し、椅子に深く沈み込んだ。

 なぜ、この若者がバタビアの本部でも最高機密に近い極秘情報のことを知っているのか。

 レックが口にした「ゼーランディア城(熱蘭遮城)」という具体的な名称は、商館長にとって、目の前の男が未来を見透かしているかのような錯覚を抱かせるに十分だった。

 ここで意地を張れば全てを失うが、今引けば長崎という次なる利益へ資産を移せる。

「ここで反逆者として腹を切るか、それとも、長官に和平の賠償として銀を積み、商船を連れて長崎へ向かうか。……決断するのは、ヴァン・フリースト館長、あなたです」

 長政が腰の太刀に手をかけ、椅子を鳴らして立ち上がる。

 その鉄の鳴る音が、ヴァン・フリーストの最後の虚勢を打ち砕いた。

「……三日だ。三日以内にこの国を去るがよかろう、ではこれにて失礼いたす」

 交渉は成立した。

 史実におけるオランダ東インド会社の「アユタヤ撤退」という事実は、レックが仕掛けた言葉の罠によって、この瞬間に三十年も前倒しで“史実”となってしまった。

 底知れぬ不安と焦りがレックの胸の奥から湧き上がってきた……。

3.老兵の置き土産

 先ほどの雷鳴が嘘のように、雲の間から(まばゆ)い光が差し込み、港の水面を照らしていた。

 オランダ商館の岸壁では、既に撤退の準備を命じられたオランダ兵たちが、泥にまみれた長靴を鳴らし、呪詛(じゅそ)を吐き散らしながら慌ただしく樽や木箱を船倉へ積み込んでいた。

 彼らにとってこの地は、一刻も早く立ち去るべき忌むべき異郷へと変わり果てていた。

 その狂騒から少し離れた埠頭(ふとう)の端に、一人の老武士が静かに(たたず)んでいた。
 
 津田又左衛門。
 
 若き日の山田長政がアユタヤの地を踏む前から、日本人傭兵部隊の重鎮としてその名を(とどろ)かせてきた男だ。

 数々の修羅場を潜り抜けてきたその顔には、熱い太陽の年輪のような深い皺が刻まれている。

 長政にとっては、武芸のみならず異国での生き方を教わった、到底頭の上がらぬ大先輩であった。

 日本人町の精神的支柱でもあった彼が、今回、オランダ船の案内人として同乗し、日ノ本へ還ることになっていた。

「……レック殿。見事なお知恵であった」

 又左衛門は、長崎・出島への航路を共にするオランダ人たちの無様な積み込み作業を横目に、レックに向かって深く、重みのある一礼をした。

「わしのごたる戦場育ちには、血ば流さずに国ば一つ追い出すごたる術は、想像もつかんとたい。もはや、槍ば振るうだけの老いぼれの出る幕じゃなかばい。おぬしのごたる奇才がこの町に現れたこと、それ自体が天の采配やったと信じるばい、はっはっはっ……」

 その笑い声には、レックへの称賛だけでなく、己の役目が終わったことを悟った者の寂しげな響きがあった。

 又左衛門の瞳は、目の前の大河ではなく、その先にある故郷の山河を見つめているようだった。

「わしの役目は、未来の変わりゆく日ノ本の姿ば見届けることたい。……レック殿、アユタヤ日本人町の行く末と長政様のことは、おぬしに託したばい! よかか?」

 レックは威を正し、又左衛門に向かって深くお辞儀をした。

「又左衛門様、道中どうかご無事でいらっしゃいますよう、伏してお祈り申し上げます。日ノ本の行末(みらい)を、何卒お見届けください、お達者で」

 そこには、レック自身の切実な願いが込められていた。

 自分は決して踏むことのできない“過去”の日本の土さえも、この老兵の目に焼き付けてきてほしいという、祈りにも似た想いだ。

 又左衛門は、深々と頭を下げるレックを満足げに見つめて、傍らに立つ長政の(たくま)しい肩に、節くれ立った大きな手を置いた。

「……長政殿。おぬしには、ここよりもっと大きな役が待っとるばい。覚悟ばしとけよ」

 長政が怪訝そうに顔を上げると、又左衛門は「よか、よか」とだけ繰り返し、それ以上は何も語らなかった。

 遡ること数日前、又左衛門は独り、シーウォラウォンの私邸を訪れていた。

 アユタヤの政戦を長年見届けてきた老兵の勘は、この国の主が交代する動乱の今、最大の武力を持つ日本人町が真っ先に疎まれ、排除の標的になることを既に察知していた。

 又左衛門はシーウォラウォンに対し、長政への敵意を逸らすための“妥協案”を自ら進言していたのだ。

『長政は、ただの傭兵頭で終わる器ではござらぬ。あやつを南のリゴールの地へ太守として遣わされては如何に。あの地は反乱の火種が絶えぬ土地でござる。長政ならばその武力をもって鎮め、王国の富も(うるお)すに違いありませぬ。閣下におかれては、厄介な日ノ本の侍どもを王都から遠ざけつつ、南の憂いをも払える……これ以上の妙策はござらぬと存じまするが』

 それは、長政を宮廷の泥沼のような政争から引き離し、その命を守るための又左衛門なりの献身であった。

 武士として、弟子の出世を期待し、その名を一国の太守として歴史に刻ませたいという、強い愛情の産物でもあった。

 オランダ船の船梯子に足をかけた又左衛門が、最後にレックを真っ直ぐに見据えた。

「レック殿。わしはシーウォラウォンに種ば蒔いておいた。あやつは長政を恨んどるわけじゃなか。むしろ、持て余しとるほどに誇りに思っとる。……だがな、誇りと嫉妬は紙一重たい。あとの舵取りは、おぬしの知恵に任せたばい」

 長政は聞こえぬふりをして、眩い西日に(あかね)色に染まった仏塔を目を細め眺めていた。

 そして、去りゆく老兵の背中に向かっていつまでも頭を下げ続けていた。



「お見事だったぞ、レック。おぬしの言葉は、アユタヤから宿敵オランダを追い出したのだ。これからは又左衛門様の仰る通り、我らの新しい役目が始まるのだ」

 長政が、誇らしげにレックの肩を叩く。

 だが、レックはその掌の重みに、別の戦慄(せんりつ)を覚えていた。

 歴史を書き換えたという高揚感など、微塵もなかった。

 又左衛門が良かれと思って蒔いた「リゴール派遣」(現在のタイ南部ナコンシータマラート県)という(たね)

 それは史実において、長政が政争の果てに毒殺され、日本人町が崩壊へと向かうカウントダウンの始まりを意味していた。

 救おうとして伸ばした指先が、また一つ、残酷な歴史の歯車を噛み合わせてしまったのだ。
 レックは震える指で、懐の中の鈴に触れた。

 歴史の修正に反応して、何らかの微動なり、予兆なりが返ってくることを期待して、何度も、何度もなぞる。

 何の反応も、共鳴もない。

 有希(ユキ)のいた世界との線が、完全に切れてしまったのか……。

 答えを返さない鈴の、僅か数グラムの重みが、得体の知れない不安となって心の奥底に沈んでいった。


4.祝祭の宴

 オランダ商館が三日を待たずして撤退を開始したという報は、瞬く間に日本人町へ広まった。

 町は、祭りのような喧騒に包まれていた。

 通りにはどこから運んできたのか酒樽が幾つも並べられ、町の人々や、義勇隊の武士たちは高笑いを上げながら、溢れる酒を盃に受けていた。

 彼らにとって、レックは言葉だけで異国の軍勢を追い払った英雄であり、奇跡をもたらした“軍師”として称賛された。

「レック殿、一杯どうだ! おぬしがいなけりゃ、今頃この町はオランダの火砲で瓦礫(がれき)の山だったぞ」

 屈強な男たちに代わる代わる肩を叩かれ、何度も酒を勧められる。

 だが、レックの喉を通る酒には、陶酔(どうすい)昂揚(こうよう)もなかった。

 称賛の言葉が飛んでくるたびに、自分が犯した歴史改変の代償が、じわじわと胃の奥を()く。

 レックは独り、喧騒を離れて町の端にある船着き場へと足を向けた。

 祝祭の篝火(かがりび)が、遠く背後でパチパチとはぜる音を立てている。

 その光が届かない闇の向こう側、チャオプラヤ河の対岸に広がる暗い茂みに目を凝らした。

 ――誰かがいる。

 それは、単なる気配ではなかった。

 湿り気を帯びた夜気の中に、針のように鋭い視線が混じっている。

 シーウォラウォンが放った監視か、あるいは気を(うかが)う刺客か。

 オランダという盾を自らの手で排除したことで、日本人町はアユタヤの王朝中枢において、突出した武力勢力として恐れられる存在となった。

 自分の知恵が、自分たちの首を絞める準備を整えてしまった事実に、鋭い寒気が背筋を走った。

 不意に、背後で枯れ草を踏む音がした。

 反射的に身を固くし、懐の短刀へ手をかけようとしたその時、聞き慣れた声が届いた。

「レックさん、ここにいらしたのですね」

 ハナだった。

 彼女は町の騒ぎを避けるように、小さな包みを大事そうに抱えて立っていた。

 レックは息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いて表情を緩めた。

「皆が探していますよ。……日本人町を救った“軍師”さまが、こんな暗がりにいらっしゃるなんて」

「“軍師”などではないですよ。僕は、いや、拙者はただ、嫌な予感を形にしただけですよ」

 自称が「僕」から「拙者」へと滑り落ちたことに、自分でも戸惑いを覚えた。

 この時代の空気に馴染(なじ)もうとする本能か、それとも現代の自分を捨て去ろうとする覚悟か……。

「相変わらず、いつも難しいことばかりおっしゃる」

 ハナは着物の袖で口元を隠して笑った。

 出会った頃の警戒心が薄れ、彼女の言葉遣いは日を追うごとに丁寧になり、尊敬の念が混じるようになっていた。

 彼女にとっても、レックの存在は、もはや海を越えてきた迷い人ではなく、この過酷な乱世を切り拓く導き手となっていた。

 ハナはレックの隣に腰を下ろすと、抱えていた包みを解いた。

 中からは、まだ微かな温もりを帯びた握り飯が現れた。

「これ、まだ何も召し上がっていないでしょう。少し、塩気が足りないかもしれませんが…」

 差し出された“おにぎり”を、レックは受け取った。

 米の甘みと、少し強めに効かされた塩昆布の味。

 それは、二十一世紀のコンビニで買える無機質な味とは違う、人の手で握った生身の味だった。

 横に座るハナの横顔を見る。

 篝火の遠い光を反射して、彼女の瞳の中で小さな火が揺れていた。

(……ああ、そうか)

 レックの中で、一つの実感が湧いてきた。

 なぜ自分は、歴史を改め、さらに王位簒奪(おういさんだつ)を企むシーウォラウォンに“敵視”されてまで、この日本人町を守ろうとしたのか。

 未来を正すためでも、自らが歴史に名を残そうと思ったわけでもなかった。

 ただ、この隣にいる女性の、飯を握るその指先を、非業(ひごう)の血で染めたくなかっただけだ。

 彼女の(つつ)ましい日常が、戦火に踏みにじられるのを、ただ見過ごすことだけはできない。

 「現代」で亡くした最愛の女性、有希の面影を重ねる必要はもうないのだと悟った。

 今、隣にいるハナの体温を感じることで、レックしようやく、この「一六二八年」という過去の“現代”を生きていることを自覚した。

 それは執着であり、同時に初めて抱く、この時代に生きる女への、紛れもない恋心だった。

 だが、ハナを愛おしいと想えば想うほど、彼女が自分の隣にいることの危うさに、レックの指先が微かに震える。

 闇に潜む「()」は、今も自分たちを逃さず捉えているはずだ。

「レックさん?どうかしましたか?」

 不思議そうに覗き込むハナの頬に、篝火の影が揺れた。

 その柔らかな頬に、有希と同じ位置に小さな笑窪が浮かんでいる。

 張り詰めた心が僅かに穏やかになる一瞬。

「……ハナ。その君の笑窪、私の故郷では『幸せの賽銭箱(さいせんばこ)』って呼ばれているんだ」

「賽銭箱……?」

「そう。そこに今のこの時間を投げ入れたよ。これでもう、みんな幸せになれる」

 ハナは一瞬、きょとんとした顔をしたあと、可笑しそうに鼻先を鳴らして笑った。

「また、そうやって子供をからかうようなことを、ふふふ」

 有希も、レックがくだらない冗談を言うと、そうやって少しだけ鼻を膨らませて笑ったものだ。

 冗談を交わし合う数秒間だけ、夜の重さに一つ灯りがともる。

 レックは精一杯の微笑みを彼女に返し、手元の握り飯をもう一度頬張った。

「本当に、美味しいよ。ありがとう、ハナ」

 レックはふと、懐の鈴が肌に触れた。

 何の反応も見せない、ただの真鍮(しんちゅう)の塊。

 歴史をこれほど大きく(いが)めたというのに、未だ沈黙を守っている。

 掌に感じるその微かな重みは、有希と過ごした、あの楽しかった“未来”には戻れないことを、淡々と突きつけてくるだけだった。

 懐の鈴をなぞる指を離し、レックは隣で微笑んでいるハナを見つめた。

 (――上等だ)

 未来を告げる鈴が鳴らないのなら、この時代の激流の中で生き抜くまでだ。

 その時、対岸の茂みから一羽の夜鳥が勢いよく飛び立った……。

第七章 かんざしと旗印

第七章 かんざしと旗印

1.白亜の野望

 現代のタイを訪れる旅行者が、アユタヤの夕暮れ時に目にするのは、チャオプラヤ河畔に佇む赤茶けた煉瓦(れんが)の、悠久の“残骸(ざんがい)”だ。

 ワット・チャイワタナラーム寺院―

 一七六七年、ビルマ軍の猛火に焼かれ、廃墟(はいきょ)と化したその姿は、幾度の改修を経て、今ではアユタヤで最も美しい遺構の一つとして観光客を魅了している。

 だが、一六三〇年のその場所に、滅びの気配は微塵(みじん)もなかった。

 レックがその境内へ足を踏み入れた瞬間、視界を焼き尽くしたのは、威圧的な美麗さと、白と黄金の輝きだった。

 そこには、カンボジアのアンコール・ワットを彷彿とさせる、緻密で壮大なクメール様式の宇宙が立ち現れていた。

 中央には、高さ三十五メートルに及ぶ白亜の主塔が、天を突く槍のようにそびえ立ち、八方には須弥山(しゅみせん)を表現する小塔が整然と配置されている。

(……これが、あの“遺跡”の本来の姿か)

 先を歩く長政が、やや緊張気味の笑みを浮かべて振り返る。

 その腰には、亡き先王ソンタムから直々に授けられた、宮廷の最高官位「オークヤー・セーナー・ピムック」(*)の証である黄金の装飾を施した刀が、誇らしげに揺れていた。

「レック殿、どうした。この壮大さに気圧されたか?」

 レックの目には、この完璧な左右対称の建築様式が、シーウォラウォンの果てなき野望そのものに見えて仕方がなかった。

 二人は中央の大塔に続く高壇(こうだん)へと案内された。

 風が吹き抜ける回廊には、黄金の仏像の背後で、自らも神仏の一部であるかのように静止する一人の男が立っていた。

「オークヤー・セーナー・ピムック・ナガマサ殿。……そして、レック軍師殿。よく参られた」

 今や国家の実権を掌握したオークヤー・シーウォラウォンは、視線を河の対岸へ向けた。

 そこには、撤退を始めたオランダ船が、最後の出航準備を整えて停泊している。

「先日の又左衛門殿の進言、実に理に適っていた。南方のリゴール(*)は、前王の崩御に乗じて反乱の火種が燻っている。そこを鎮められるのは、アユタヤ最強の武人たるそなたしかおらぬと」

 シーウォラウォンの声は、静かな水の流れのようだった。

 レックの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

 又左衛門が良かれと思って放った言葉は、シーウォラウォンにとって、長政の義勇隊を王都から遠ざけるための絶好の口実となってしまったのだ。

「セーナー・ピムック・ナガマサ殿。新国王チェーター王の名において、そなたをリゴールの太守に任ずる。これは予の切なる願いでもある。……そなたなら、アユタヤの南門を完璧に守ってくれると信じている」

 シーウォラウォンの細い眼が、レックの視線と一瞬だけ交錯した。

 その瞳は、深淵のように暗く、不気味な静けさを醸し出していた。

「……承知仕(しょうちつかまつ)る。このセーナー・ピムック・ナガマサ、命に代えてもそのお役目、しかと果たしましょう」

 長政が深く頭を下げる。

 レックは、眉間(みけん)に寄る皺を必死に抑えて平静を装った。

 歴史の改ざんは、オランダを追い出し日本人町に未曾有の栄誉を与えた。

 それなのに、結局は「リゴール派兵」という史実のレールへと、凄まじい引力で引き戻されている。

 白亜の大塔が、巨大な日時計の針のように、レックたちの足元へ長い影を落とす。

(……このままでは、皆が殺される)

 脳裏をよぎるのは、日本人町の人々の暮らしだ。

 誇らしげに笑うハナ。

 温かい眼差しで気遣ってくれるお滝。

 自分を「軍師」と呼んでくれる侍たち。

 その一人ひとりの命が、間もなくシーウォラウォンの指先一つで、無造作に葬り去られようとしている。

 あまりの恐ろしさに、レックの指先が微かに震える。

 だが、その震えを止めるために必死で手繰り寄せたのは、明日のことだった。

(明日は……ハナの誕生日だ)

 きな臭い政争の匂いの中で、その事実だけがレックにとって唯一の命綱だった。

 彼女のあの小さな笑窪を守るために、自分に何ができる?

 レックは、シーウォラウォンの冷たい眼差しから逃れるように、そっと着物の懐に手をやった。

 そこには、沈黙を続ける猫の形をした“鈴”がある。

 歴史がどれほど史実へ収束しようとしても、自分はこの時代の「現代」を生きる。

 たとえ、それがさらなる歴史の冒涜であったとしても。

 拝謁を終え、白亜の寺院を辞した二人は、チャオプラヤ河の涼風に吹かれながら日本人町へと続く道を歩いていた。

 あまりに重い未来を背負わされた静寂に耐えかね、レックはふと思い出した疑問を口にした。

「……長政様。明日のことですが、ハナさんには何を贈るのですか?」

 前を行く長政が、ぴたりと足を止めた。

 そして、何事か重大な軍機漏洩でも指摘されたかのような、妙に深刻で、それでいてひどく間抜けな顔をして振り返った。

「たんじょうび……? レック殿、なんだい、そりゃあ?」

 少し訛りの混じった駿河弁(するがべん)が返ってくる。

「いや、生まれた日を祝うという……」

「馬鹿を言え。そんなもん、この乱世でいちいち数えとる暇がどこにある。ハナがいつ生まれたかなんて、本人だって覚えとらんずら」

 長政は豪快に鼻で笑うと、「それよりリゴールの仕度だ!」と、再び大股で歩き出した。

 二十一世紀の常識を蹴飛(けと)ばされたレックは暫し立ち尽くし、それから苦笑した。

(そうか……。ここでは、僕だけが覚えているのか)

 その孤独が、今はどこかひどく愛おしく感じられた……。

(⋆)オークヤー アユタヤ王朝時代の王に仕える最高官位(大臣)の称号。江戸幕府では「老中」といった将軍の側近・政策決定層に近い役割
(⋆)リゴール 六昆国―現在のタイ王国南部ナコーンシータンマラート県



2.マンゴー色の夕陽

 アユタヤの夕暮れは、空を熟したマンゴーのような色に染め、チャオプラヤ河の川面に黄橙の影を落としていた。

 日本人町の喧騒から少し離れた、河畔の木陰。

 そこには、西日に背を向けて一心不乱に針を動かすハナの姿があった。

 レックは、お滝に頼まれていた町外れの生簀(いけす)から、(なまず)雷魚(らいぎょ)の入った重い魚籠(びく)を担いで店に戻るところだった。

 ふと見れば、いつもは忙しく立ち働いているハナが、珍しく木陰で静かに縫い物をしている。

「おや……ハナさん、こんなところで何をされてるのですか?」

 声をかけると、彼女は跳ねるように顔を上げ、すぐにいつもの笑窪を作った。

「あら、レックさん。お仕事お疲れさま!」

 ハナは手に持っていた大きな絹布(シルク)を、誇らしげに広げて見せた。

 それは日の丸を基調としながらも、その中心にシャムの象徴である白象をあしらった、独特の意匠だった。

「見てください、あともう少しなんです。長政様がリゴールへお持ちになる一番大きな旗なんです。このお役目、私が任されたんです!」

 ハナの瞳は、まるで宝物を手に入れた子供のように輝いていた。

 指先を見れば、慣れない細かな刺繍(ししゅう)に何度も針を刺したのだろう、小さな赤黒い点々がいくつも残っている。

 だが、彼女はその傷跡を、名誉な勲章であるかのように愛おしげに見つめていた。

 レックは、着物の懐にある「それ」を握りしめた。

 数日前、お滝から「明日は、ハナが生まれた頃のはずだよ」と、曖昧な、だが確信に満ちた“推定誕生日”を聞かされていた。

 せめて現代的な習慣で彼女を驚かせ、自分も少しは意識してほしい。

 レックがその“かんざし”を求めたのは、日本人町からもほど近い、ワット・ヤイ・チャイ・モンコンの門前に広がるバザールだった。

 かつてナレースワン大王がビルマを退けた戦勝記念に建てられたという、天を突く巨大な仏塔がそびえるその寺院の周辺には、今日もあらゆる異国の言葉と熱気が渦巻いている。

 穏やかな微笑を浮かべた巨大な涅槃仏(ねはんぶつ)の足元、その陰にまでひしめく露店には、オランダのガラス細工、明の絹織物、そして遠く日本の江戸から朱印船(しゅいんせん)で運ばれてきた流行の最先端の品々が並んでいた。

 レックはそこで、周囲の賑わいとは不釣り合いなほど、繊細な小さなピンクの梅の模様が入った銀のかんざしを見つけた。

 それは遠い祖国の梅林(ばいりん)を想い起こす意匠で、ハナの黒髪によく映えるはずだった。

 そんな淡い下心で、そのかんざしをなけなしの金で買い求めていたのだ。

「ハナさん。実は、今日……」

 懐からそれを取り出そうとした時、ハナの顔に、今まで見たこともないような最大級の笑顔が咲いた。

「レックさん、聞いてください! 長政様は本当にすごいお方です。リゴールを治めるということは、このシャムの国の南をすべて背負うということでしょう? 義勇隊の皆も、長政様のためなら命を捨てると張り切っています。私も、この旗が皆の守りになるように、一針ごとに祈りを込めているんです!」

 レックは、喉まで出かかった言葉を無理やり飲み込んだ。

 ハナが縫っているのは、単なる絹布ではない。

 それは彼女にとって、手の届かない憧れの英雄である長政と自分を繋ぐ、たった一つの(とうと)い「(きずな)」そのものだった。

 レックが贈ろうとしたかんざしは、ただハナを飾るための華やかな道具だ。

 だが、今の彼女が心底欲しているのは、女として着飾ることではなく、一人の日本娘として、憧れの男の役に立ちたいという“忠義(ちゅうぎ)”という名の奉公だった。

「……綺麗な旗ですね。ハナさんが、全部一人で?」

 絞り出した声は、自分でも驚くほど乾いていた。

 レックは懐の奥に手を入れ、“猫”の鈴を指先で弾いた。

 ヂリヂリ、と小さな、情けない音が響く。

 歴史という大きな歯車を前にしても、自分のささやかな恋心ひとつ、彼女の心に届かせることはできない。

 山田長政という、あまりに(まぶ)しい太陽の影で、自分の存在が薄く透けていくような錯覚に陥る。

「ああ、それは長政様に喜んでいただけるといいですね……」

「はい! きっと!」

 ハナはレックの折れかけた心など露ほども知らず、再び猛然と針を動かし始めた。

 その没頭する姿は、周囲の景色さえ見えていない。

 ただ一点、遠い空の下で戦うであろう男の背中だけを追いかけているようだった。

 レックはそっと立ち上がり、彼女の視線から外れるようにして、独り小さく呟いた。

「……誕生日、おめでとう。ハナ」

 その声は、河面を渡る湿った風に吸い込まれ、誰に届くこともなかった。

 指先で弾いたはずの鈴は、今はもう、石のように冷たく黙り込んでいた……。



3.黄金の呪縛


 アユタヤ王宮「サーンペット・プラーサート宮」を支配していたのは、すべてを塗り潰さんばかりの、重々しく淀んだ「黄金」だった。

 第二十五代国王、チェーター。

 わずか十五歳で玉座(ぎょくざ)に据えられた少年王の戴冠式(たいかんしき)は、(まばゆ)い金箔の装飾と香油(こうゆ)の匂いに満ちていた。

 だが、レックには、その過剰な芳香(ほうこう)は、かえって崩壊の予兆を隠す虚飾に感じられた。

 レックは長政の数歩後ろで平伏しながら、床に映る百官の影を盗み見た。

 居並ぶ重臣たちの視線は、玉座の少年王を素通りし、その(かたわ)らで摂政として静止する男——オークヤー・カラホム・シーウォラウォンへと吸い寄せられている。

 いまや最高官位であるカラホム(国務大臣)に昇進し、数多の要職を兼ねる彼は、この国の絶対権力者として玉座を侵食していた。

「……王よ、万歳。アユタヤに永遠の繁栄を!」

 シーウォラウォンの朗々たる祝詞に合わせ、官吏たちの唱和が大合唱となって広間を揺らす。

 それに応えるように、場を埋め尽くさんばかりの僧侶たちが放つ重低音の読経(どきょう)が、黄金の堂内に低く、地鳴りのように響き渡った。

 だが、その中心で、チェーター王は重すぎる王冠の重みに耐えかねるように時折青白い顔を歪め、浅い呼吸を繰り返していた。

 その姿は、彼が「真の王」ではなく、次の覇者が現れるまでの「生贄(いけにえ)」であることを如実に物語っていた。

 式典が形式的な祝辞に移った時、その静寂を破ったのは長政だった。

 彼は、亡き先王ソンタムから受け継いだ「オークヤー・セーナー・ピムック(戦の神)」としての誇りと、愚直(ぐちょく)なまでの「義」を、この最悪の盤面で発動させてしまった。

「チェーター王の御治世、心よりお慶び申し上げます!」

 長政の低く太い声が、読経の余韻を切り裂いて黄金の壁に反響する。

「しかし、王の御身もまた、我ら臣下にとっては至宝。万一、天が王を早う召されるようなことがあれば……その時は、亡き先王の次子、アーティッタヤウォン様を正統なる後継としてお守りすることこそが、このセーナー・ピムックの誓い。日本人町は、王室の血筋を乱す不忠、断じて許しませぬ」

 長政は、カラホムの眼差しに潜む「王座の簒奪(さんだつ)」という野望を既に感じ取っていたのだ。

 その瞬間、宮廷内の空気が文字通り凍りついた。

 レックは心臓が口から飛び出しそうな衝撃に襲われ、必死に顔を伏せた。

(……長政さん、それだけは言っちゃダメだ! (きば)を剥き出しにして、相手を真っ向から拒絶するなんて……!)

 カラホム・シーウォラウォンにとって、チェーター王、そして王弟アーティッタヤウォンこそ、自らが王権を握るために根絶やしにせねばならない最大の障害だ。

 長政の言葉は、カラホムの内なる計画を白日の下に晒し、「我は貴様の敵に回る」と公式に宣言したも同然だった。

 カラホムは黄金の冠を、ゆっくりと長政へ顔を向けた。

 その口元に、慈悲深い仏像の仮面を被ったような、それでいて冷徹な微笑を浮かべている。

「……セーナー・ピムック・ナガマサ殿の忠義、まことに天に届くほど。王弟殿下へのその御覚悟、しかと、このシーウォラウォンの肝に銘じておこう」

 彼は憤るどころか、深く、優雅に頷いてみせた。

 だが、レックはその微笑の奥に、長政を死へと(いざな)う緻密な「粛清の筋書」が確定した音を聞いた。

(あいつ……今、決めたんだ。チェーター王を葬る時期と長政さんを確実に始末する手筈を!)

 戴冠式の華やかな旋律が、レックの耳には弔鐘のように鳴り響く。

 歴史の修正力という名の巨大な意志が、アユタヤ最強の武力である日本人町を「排除」し、覇道を完成させるための最終段階に入ったのだ。

 王宮を出る際、長政はどこか清々しい顔をしていた。

「これでいい。筋だけは通したずら」と笑うその背中を見つめながら、レックは懐の鈴に触れた。

 脳裏をよぎるのは、指先に血を滲ませ、一心不乱に旗を縫っていたハナの姿だ。

 彼女が祈りを込めて作り上げた、あの日の丸に白象の旗印。

 それは長政を勝利へ導く旗などではなく、日本人町という共同体を、戦火の中にさらすための「標的」にするのではないか――。

 アユタヤの太陽は、黄金の王宮を背に、レックたちの足元へ長く、鋭い、逃げ場のない影を刻みつけていた。 

 懐の奥で、指先に触れていた鈴が、不意に小刻みな震えを始めた。

 チリとも鳴らず、ただ不気味な脈動のように指を弾く。

 それは、これから始まる壮絶な歴史のうねりを前に、レックの指先だけに届いた、最期の警告であったのかもしれない……。

第八章 迫り来る黒雲

第八章 迫り来る黒雲

1.血に染まる王冠


 サーンペット・プラーサート宮の黄金の床には、どれほど磨き上げても拭いきれない、生臭い血の匂い漂っていた。

 回廊には白檀(びゃくだん)香煙(こうえん)が立ち込めていたが、それがかえって血の粛清(しゅくせい)の跡を際立たせている。

 先王ソンタムの弟、シーシン親王を支持した高官たちの首が次々と()ねられ、挙兵した親王軍との凄惨な身内同士の殺し合いも、ようやく幕を下ろしたばかりだ。

 泥沼の戦況を強引に終わらせたのは、長政率いる日本人軍団が放った、容赦のない鉄砲の斉射だった。

 だが、王都を血で洗って守り抜いたはずの、若きチェーター王は今やこの世にいない。

 王宮の回廊、雨季の到来を告げる雷鳴が、遠く近くで小さく響いている。

「長政さま、りきれませんね、先王の長子チェーター王まで()き者にするとは……」

 レックは隣に立つ長政に低く声を漏らした。

「先王への義理を果たすために、我らはあの十五歳のチェーター新王を守った。なのに、結局はあいつの思い通りだ」

 長政は無言で、(にわ)かに陰りを落とす、庭の生い茂った緑を見つめていた。

 黄金の柱についた、乾いた血飛沫の跡が、薄暗い雷光に照らされてどす黒く浮かび上がった。

 シーウォラウォンは長政と同じ、宮廷の最高官位のオークヤー・カラホムを冠し、自らをアーティッタヤウォン新王の「摂政(せっしょう)」となった。

 救い出したはずのチェーター王を酒と女で骨抜きにし、民の心が離れるのを待ってから、軍司令官カパインに「お前が次の王になれ」と(ささや)(そそのか)した。

 カパインが王宮を占拠してチェーター新王を処刑すると、カラホムは即座に「主君殺しの逆賊」としてカパインを処刑台に送った。

 すべては、カラホムが王位を簒奪(さんだつ)するための一人芝居だった。


 二人の前に、音もなくカラホムが姿を現した。

 その足音は、湿った石畳を這う蛇のように不気味だった。

「セーナー・ピムック・ナガマサ殿。貴殿ら日ノ本の者どもの武勇、まことに天晴(あっぱ)れであった」

 カラホムは、十歳になったばかりのソンタム王の次男、アーティッタヤウォン王が震えながら座る玉座の横で、冷たく微笑んだ。

 幼王が掲げた金の冠は、立ち込める暗雲とは対照的に眩しく輝いていた。

 広間を支配するのは、祝祭の歓声ではなく、冷たく殺伐(さつばつ)とした沈黙だ。

 ただ、(かんむり)の宝石が触れ合う「チリッ」という微かな金属音だけが、レックの鼓動を揺さぶった。

「アーティッタヤウォン新王は、その功績に対し、貴殿を南方の要衝リゴール《六昆》の知事に任じられた。早々に全軍を率いて出陣し、この国の憂いを取り除いてもらいたい」

 リゴール王。

 アユタヤから遠く離れた南の地。

 それは名誉という名の、重い呪縛(じゅばく)だった。

 リゴール―そこは内戦と南のパタニー国の回教(イスラム)軍の侵攻に荒れる土地。

 そこへ追いやられれば、当分の間、アユタヤの地を踏むことは許されない。

 長政は、その冠の重みに押し潰されるように深く頭を下げた。

 レックは、長政の(こぶし)が白くなるほど握りしめられているのを目にした。

 自分が書き換えたはずの歴史が、恐ろしいほどの修正力で、本来の史実へと(かえ)ろうとしている。

 長政の、先王への恩義と子への忠義。

 カラホムは、その長政の「忠義」という急所を卑劣(ひれつ)に利用したのだ。


 チャオプラヤ河の船着き場。

 降り出した雨が容赦なく土面を叩きつけ、泥水を激しく跳ね上げた。

 長政は軍船の舷梯(タラップ)に歩を進め、レックの手を強く取った。

「レック殿、あとは貴殿に任せたぞ!」

 レックは長政の手を、まるで引き留めるかのように両手で握り返した。

「長政さん、本当に行くんですか! 行ってはだめです。カラホムはあなたを追い出して、町を、そしてあの幼いアーティッタヤウォン王を殺す気ですよ!」

「わかっておる、レック殿。私がいなくなれば、すべてはあの男の掌の上だ。……だが、あいつには一つだけ、読み切れないものがある」

 長政は、雨に濡れた手をレックの肩へ、楔を打ち込むように置いた。

「読み切れないもの……?」

「そうだ、貴殿だ。カラホムは『今』を奪うことしか頭にないが、貴殿だけは、まだ来ぬはずの『先』を見ている。奴の謀略図に貴殿の知恵は入っていない」

 長政の瞳に、濁りのない光が宿る。

「頼んだぞ。奴の喉元に、その“知恵”を深く突き立ててやるがよかろう」

 長政は諭すように言った。

(あなたは、死んではならない人だ……)

 レックの脳裏に、あの時の白い病室の静寂が蘇った。
 
 有希を失う直前、物言わぬ彼女の顔に向かって、心の奥底から叫んだ言葉。

 それが今、時空を超えて全く同じ祈りとなって溢れ出していた。

「長政殿・・・・長政さん!」

 長政が纏う漆塗りの具足が、雨を弾いて鈍い黒光りを放っていた。

 軍船がゆっくりと岸を離れ、長政の背中が雨の帳の向こうへ消えていく。

 レックは、遠ざかる船影が霞んで見えなくなるまで立ち尽くしていた。

 未練を断ち切れないまま、レックは踵を返した。

 雨脚に煙る日本人町の入り口に、槍を手にした黒装束の兵たちが見え隠れする。

 守護神・長政が去った町を、カラホムの手先の兵が、静かに包囲の網を絞り始めていた。 



2.女侍、お滝とハナ


  降りしきるスコールの激しい雨音が、土路(どろ)に生えたバナナの巨大な葉を叩きつけ、その重い音だけが町に響き渡っている。

 長政のいない日本人町は、守護神を失った抜け殻のように暗い。

 レックは雨の(とばり)を突き抜け、独り、お滝とハナの屋敷へ急いだ。

 屋敷の土間では、二人が静かに遅い夕食の準備をしていた。

 聞こえるのは、藁葺(わらぶ)きの屋根を叩く凄まじい雨音と、時折、雨樋(あまどい)から(あふ)れた泥水がどさっと地面に落ちる重低音だけだった。
 
 レックは二人に歩み寄り、その雨音をかき消すように、鋭い声で命じた。

「お滝さん、ハナ、手を止めてください。……奴らが来ます。一人じゃない、黒尽くめの刺客が少なくとも四人はこの目で確認しました」

 ハナとお滝の手が止まった。

 だが、そこに「(おび)え」の表情は感じられない。

 彼女たちは長政を見送ったその瞬間から、この事態を予期していた。

 長政という後ろ盾を失った今、自分たちが「標的」になることを、直感で理解していたのだ。
 
 二人の瞳には、生き延びるための静かな殺気が宿っていた。

「お滝さん、部屋の隅にある魚醤(ナムプラー)(かめ)を入り口近くまで転がしてくれ。ハナは台所の唐辛子(とうがらし)胡椒(こしょう)を全部出し、(かまど)の熱湯を桶に移して。……奴らはそこまで来ています。私たちがここで倒れたら、長政さんが守ろうとしたこの町は、カラホムの野望の中に消えてしまう」

 レックは、かつて日本の時代劇で見た“殺陣(たて)”のシーンを手繰り寄せた。
 
 闇に紛れ、身の回りの道具を凶器に変え、法の届かぬ悪を裁く仕置き人たちの無慈悲な技。
 
 陰の暗殺者を相手に、素人が刀を振り回しても勝ち目はない。

 視界を奪い、足場を乱し、不意を突く“戦法”に賭けるしかない。

 お滝とハナが“戦闘準備”を整えた頃、レックは高床式家屋の柱を這い上がるような、微かな(きし)みを感じた。

 そして目を閉じ、意識を床下へと集中させた。

(床下に二人、裏の勝手口に二人……奴らはそこまで来ている)

 その時、竹を組んだ床板の隙間から、銀色に光る槍の穂先が音もなく突き出された。

 レックの足元、わずか数センチの場所を鋭い刃がかすめる。

「――今だ! ぶち抜け!」

 跳ね退いたレックの合図とともに、お滝が唸りを上げた。

「あたいの家で、好き勝手させやしないよ!」

 お滝が、中身の詰まった巨大な陶器の瓶を、槍の突き出た床板めがけて力任せに叩きつけた。

――メキメキッ! ガシャァァン!

 凄まじい破壊音とともに、瓶の重みで薄い床板が()ぜるように崩落した。

 溢れ出した大量の魚醤(ナムプラー)と陶器の破片が、床下に潜んでいた刺客の頭上へと降り注ぐ。

「うひゃあああっ!」

 絶叫と共に異臭の中に押し潰される一人の刺客。

 間髪入れず、ハナが崩れた床の穴へ向かって、沸騰した熱湯をぶちまけた。

「主の留守を狙うたぁ、薄汚い真似しやがって! とっとと失せやがれ!」

 熱湯が刺客の皮膚を焼き、唐辛子の粉が粘膜を灼く。

 床下は一瞬にして絶叫の渦巻く地獄と化した。

「お滝さん、外へ! 床下の奴らを掃き出せ!」

 レックの指示を受け、お滝は勝手口から雨の中へ飛び出した。

 彼女が手にしたのは、日頃から担ぎ桶で鍛え上げた、厚みのある堅い天秤棒だ。

「長政様の留守中に、ひとんちへ泥足で上がり込むんじゃないよ!」

 お滝は床下のもう一人の刺客の背後から、天秤棒を真横にフルスイングした。

 ――バシッ!

 水しぶきと共に放たれた一撃は、刺客の脇腹を文字通り()ね飛ばした。

「な、なんだこの女! 女侍か!」

 床下で混乱する刺客たちを、お滝は再び天秤棒を槍のように振り下ろして、次々と泥濘(ぬかるみ)の中へ叩き伏せた。

 その時、残りの二人が木窓を破って室内に飛び込んできた。

 レックは叫んだ。

「ハナ、今だ! 油を!」

 ハナが、跳びかかろうとしてきた刺客の一人に、手桶の灯油を浴びせた。

 そこへレックが竈の残り火を迷わず投げ込む。

 ――シュゴオォォォ!

 激しい火柱が吹き上がり、魚醤(ナムプラー)の油分と混じり合って床下へ堕ちて行った。

 すると、最後の一人、リーダー格の男が、抜き放った刀でレックの喉元を狙う。

「死ね、異邦の小僧!」

 黒装束から剥き出しの眼だけが異常に血走っている。

 レックは長政から授かった短刀を咄嗟(とっさ)に引き抜いた。

(滑る……この床なら行ける!)

 レックは魚醤(ナムプラー)で滑りやすくなった床上を走り、相手が踏み込む瞬間に懐に潜り込んだ。

 体勢を崩した刺客の喉元へ、レックは初めて抜く刃を無我夢中で突き立てた。

 だが、刃先が喉笛を貫く直前、レックは動きを止め、刺客の首筋に冷たい刃を押し当て、獣の咆哮(ほうこう)のように唸った。

「命が惜しければ、お前を雇った主に伝えろ。我ら日本人町の“女侍たち”を甘く見るな、とな」

 刺客たちは仲間を抱え泥にまみれて、命からがら逃げ去っていった。

 静寂が戻る。

 聞こえるのは、三人の激しい胸の鼓動と、変わらぬスコールの雨音、そして半分崩れた床下から漂う魚醤(ナムプラー)と油の焦げた匂いだけだった。

 レックは震える短刀を握りなおし、崩れた床穴を見つめていた。

 カラホムが仕掛けた暗殺劇は失敗に終わった。
 
 レックは、ゆっくりとハナとお滝を見た。

「二人とも、怪我はないですか」

 レックの声に、二人が我に返り同時に振り向く。

「この(うち)、どうしてくれるんだい!床に穴まで開けちまってさ!」

 お滝は刺客に襲われた恐怖より、自分の屋敷が壊れてしまったことに、むしろ腹を立てているようだった。

「レックさん……これで、終わりじゃないんだよね」

 ハナが、掠れた声で問う。

 その瞳は、刺客を追い払った安堵ではなかった。

 レックは短刀を鞘に収め、雨の帳の向こうを見据えた。

「奴らはまた来るでしょう。……次はあんな刺客じゃない、カラホムの軍勢がこの町を焼き払いに来るはずだ」

 傾いた屋敷の床に、三人の荒い呼吸だけが共鳴していた。

 静寂の中、お滝はひび割れた天秤棒を握り直し、ハナは指の震えを空の桶に押しつけた。
 
 レックは自分の手の震えを止めるように、短刀の柄を強く握りこんだ。
 
 アユタヤ日本人町を照らすはずの路肩の松明が、降り続く雨脚の向こうで、(いびつ)に不気味に揺れている。

 日本人町への包囲網は、今この瞬間も狭まり続けていた……。


3.泥の告白


 一夜明け、スコールが嘘のように晴れ渡ったアユタヤの空は、残酷なほどに蒼かった。

 だが、日本人町の空気は、湿った重い(よど)みとなって地面にへばりついている。

 チャオプラヤ河の水面は、数日降り続いた雨水と泥を巻き込んで茶褐色に濁り、不気味なうねりを上げていた。

 かつて六百人以上の長政の義勇隊が象や馬に乗り、軍装も鮮やかに練り歩いた目抜き通りには、もはや往時の活気はない。

 軒を連ねる長屋の窓越しに、住人たちが怯えた瞳で外を(うかが)い、ある者は刀を研ぎ、ある者は呆然と河を渡ってくる熱風に身を任せていた。

 レックは、町の中心部にある「日本人町評議会」の町会所へと足を運んだ。

 建物の周囲は、純白のジャスミンの木々に囲まれている。

 シャムでは「母の愛」を象徴するこの花が、甘い芳香を放ちながら、主を失った日本人町を静かに包み込んでいた。

 かつて故郷を捨てて海を渡った日本人が、この異国の白花に救いを見出し、自分たちの暮らしのなかにその香りを馴染ませていった証でもあった。

 町会所には、日本人町の交易を牛耳(ぎゅうじ)る有力な商人と、町の防衛を指揮する武士団の幹部たちが集まっていた。

 後方では、昨夜死闘を演じたばかりのお滝とハナが、互いの震える指をぎゅっと握り合っている。

「……昨夜、私たちは刺客に襲われました。カラホムはすでに、個々の暗殺から、この町全体の根絶へと策略を練っています。軍勢は王宮の守りを固め、我らを三方から包囲しつつあります」

 一同は昨夜の騒ぎをすでに耳にしていたが、レックの冷淡な宣言に顔を強張らせた。

 レックは机の上に当時の海図と古地図を広げ、思わず息を呑んだ。

 四百年後の正確な衛星写真や現代地図が脳裏にある彼にとって、海岸線の形も河の流れも微妙に異なる過去の”現代地図”の歪みに眩暈(めまい)を覚えたからだ。

 気を取り直し、レックは落ち着いた口調で話し始めた。

「……今ならまだ、北のピッサヌロークへ抜ける道が開いています。あそこは、ソンタム前王の出自の地であり、王家ゆかりの権威と、長政さんの義勇隊の影響力が根強く残る土地だ。一度撤収し、軍を立て直して反撃の機を伺うべきです。今ここで戦うのは無駄死にです!」

 長い沈黙が流れた。

 だが、それは侮蔑と、凝り固まった自尊心を揺さぶられたことへの静かな反撥(はんぱつ)だった。

「撤退だと? ……小僧、貴様は日ノ本の武士が、シャムの兵に背を向けて逃げろと言うのか」

 武士団の長、角倉友助(すみのくらともすけ)が吐き捨てるように言った。

 オランダ兵を易々と斬首したという曰く付きの男の、顔に刻まれた深い傷跡が醜く歪む。

「我らは、関ヶ原や大坂の陣を潜り抜けてこの地に流れ着いた者たちだ。この町は、我らが汗と血で築き上げた城も同然。それを“座して死を待て”とでも言うのか。そんな恥辱、死んでも選べぬわ!」

「わしらの商売も同じだ、レック殿」

 大坂の商人、今津寛三郎(いまづかんざぶろう)恰幅(かっぷく)のいい初老の男が苦虫を噛み潰した顔で続けた。

「ここに積み上げた鹿皮も、鼈甲(べっこう)も、すべてを捨てて逃げろやて? そんなことしたら、わしらの信用は地に堕ちて、二度とこのアユタヤで商いはできまへんがな。長政様が生きてはったら、決して逃げろとはおっしゃらんやろう」

 今津の言葉に、レックは理解を示し、何度も頷いた。

「しかし、長政さんなら、あなたたちが生き延びることを第一に考えるはずだ!」

 レックは身を乗り出し、粘り強く説得を試みた。

「角倉友助殿、誇りで腹は膨れない。今津寛三郎殿、信用も命がなければただの紙屑だ。カラホムは本気で我が日本人町を焼き払う気だ。火が放たれてから、煙のなかで後悔しても遅いのです!」

 だが、彼らにとってのレックは、長政に重用されただけの「予言めいた知恵を吐く得体の知れない居候」に過ぎなかった。

 平和な時には面白がられたその知識も、この期に及んで、彼らの根強い「武士道」や「商魂」を突き破ることはできなかった。

「……ああもう、なら勝手にしてください!」

 レックは吐き捨てるように町会所を出た。

 外に出ると、夕暮れ間近のチャオプラヤ河が、黄金色(こがねいろ)に輝きながら、すべてを飲み込むように流れていた。

 夕陽が沈む河辺の桟橋に、ハナが独り座っていた。

 レックは隣に腰を下ろし、流れる水面をぼんやりと見つめた。

「ああ……誰も、聞いてくれない。歴史は、どうしてもこの町を焼き尽くしたいらしい……」

 “歴史”という言葉が思わず口に出てしまった。

 ハナは何も言わず、ただ怪訝(けげん)そうにレックの横顔を覗き込んだ。

 その不思議そうな眼差しが、かえってレックの心のダムを決壊させた。

 有希を失い、時を超え、ここでもまた大切な人々を救えない無力感が溢れ出した。

「ハナ……信じないかもしれないけど、聞いてほしいことがあるんだ」

 レックの声は、情けないほど震えていた。

 一抹の迷いが脳裏を横切るが、もう止まらなかった。

「ハナ、僕は今から四百年も先の世界から来たんだ。鉄筋のビルが立ち並び、空を飛ぶ鉄の塊があり、誰もが手元のガラス板で世界を知ることができる、そんな未来の世界から……」

 ハナは黙って、まるで迷子をなだめるような、慈しむような微笑を浮かべた。

 彼女の冷えた指先が、レックの熱い頬にそっと触れる。

「レックさん。あなたは、とても不器用な人なのね……」

「ハナさん……信じないのか」

 ハナはゆっくりと河面を見つめた。

「四百年後の世界なんて、私には想像もつかない。でも、今のあなたの言葉は、まるで幼い頃に母から聞いた、別世界の御伽噺(おとぎばなし)のようだわ」

 ハナの言葉をレックは溜息をついて聞き流した。

「……やはり信じてくれないよね」

 未来人としての優位性など、この泥臭い現実の前では、まさしく“現実逃避”にしか聞こえない。

 ハナは、レックが霧の中から現れた、あの日のことを忘れてはいない。

 だが、それを敢えて今ここで口にしなかった。

 彼女にとって大事なのは、レックがどこから来たかではなく、いま、ここにいる彼が歴史の狭間でどれほど苦しんでいるか、それだけだった。

「レックさん、いいのよ。たとえ、あなたが未来から来た妖人の妄想だとしても。……あなたが、私たちのことを大切に思ってくれている。それだけで、私は嬉しいのです」

 レックは絶句した。

 ハナは「妄想」として優しく受け流すことで、皮肉にもレックをこの現実の世界に繋ぎ止めていたのだ。

 二人の影が、桟橋の上に長く伸びていく。

 対岸の林の向こうでは、重い鉄の車輪が泥を噛む軋み音が、鈍く河面を流れて来た。

 カラホムが呼び寄せた大砲の列が、じりじりとその口をこちらへ向けようとしている。

 レックは立ち上がり、ハナの手を取った。

「帰りましょう。お滝さんが夕飯を作って待っている、いや、ちょっと待って……」

(“おとぎばなし”……幼い頃に母から聞いただと……?)

 桟橋を去る二人の背後に、ジャスミンの甘く重い香りが、夕刻の湿気と共にまとわりついていた……。

第九章 アユタヤ燃ゆ、前夜

第九章 アユタヤ燃ゆ、前夜

1.日本人町のバリケード


 現在のタイ南部、ナコンシータマラート県。

 バンコクから南へ約八百キロ。

 現在なら国内線の飛行機で一時間強も飛べば、タイ南部最大の都市ハジャイに次ぐ、緑豊かな土地に降り立つことができる。

 レックにとっても、そこは馴染(なじ)みのある土地だった。

 従兄妹(いとこ)がタイ人の夫と結婚して移り住み、現地で有名な「カノムジン(激辛グリーンカレーをかけて食べる米麺料理)」の店を開いていたからだ。

 真っ白な麺の上に、薄緑のカレーと山盛りの生野菜。

 SNSで「タイ南部で最も美味しいカノムジン」と拡散され、地元民や観光客で行列ができる繁盛店。

 レックもかつてその店のテラスで、南国の穏やかな風に吹かれながら、従兄妹の幸せを祝ったことがあった。

 だが、十七世紀の「リゴール」は、そんな平穏な観光地ではなかった。
 
 そこは王都アユタヤの支配が及ばない「火薬庫」だ。

 マレー半島南部のパタニ王国と国境を接し、イスラム教徒による大規模な反乱と越境の脅威にさらされている最前線。
 
 そしてレックは、歴史の文献に刻まれた冷酷な事実を知っている。
 
 山田長政はリゴールへ送られ、戦いで負傷し、その傷口に塗られた毒によって命を落とす――。

 カラホムにとって、長政をリゴール領主(りょうしゅ)に封じることは、栄転などではなく、体よく「死地」へ追放することに他ならなかった。

 いま、レックが知る「現代」と、彼が立たされている「過去」が、リゴールという地名を境界にして激しく火花を散らし始めた。

 時は、合戦の場へと飛ぶ。

 朝霧のリゴールの平原を埋め尽くす、パタニ国の軍勢は七万。

 その軍容は、大地そのものが(うごめ)いているかのようだった。

 先陣には百頭を超える戦象(せんぞう)が並び、背後の矢倉からは弓兵(きゅうへい)が鋭い弦の音を響かせている。

 象の皮膚は(よろい)のように厚く、その巨大な足一本で大人三人を容易に踏み潰す。
 
 小高い丘の古い要塞(ようさい)跡に陣を張り、馬上の長政は、日本の合戦とは全く異なる光景に戦慄を覚えた。
 
 そして、(はや)る心を押し殺し冷静に号令を放った。

「よーし、鉄砲隊、前へ!」

 いっせいに火縄に火が入る、乾いた音がした。
 
 一方、日本人義勇隊隊四千、シャム軍六千、現地軍五万が加わり、総勢六万の軍。

 日本人の多くは関ヶ原の敗将に従い、あるいは大坂城が落城する夜に逃げ堕ちた、謂わば“落武者(おちむしゃ)”たちだ。

 彼らに迷いはない—

 ただ敵を殺し、生き残ることだけを信条とする。

「撃ち方用意、放て!」

 最初の斉射(せいしゃ)が朝霧を真っ二つに割った。

 弾の破裂音と共に硝煙(しょうえん)が上がり、先頭の戦象が狂ったような咆哮を上げてたじろいだ。

 敵兵が怖気(おじけ)づく隙を、義勇隊は見逃さない。

「突っ込め!」

 角倉友助が、数人の部下と共に要塞の斜面を滑るように駆け下りた。

 角倉の手には、返り血を吸い込んで赤黒く光る大身槍(おおみやり)がある。

 彼は突進してくる象の巨体の脇を紙一重でかわすと、その強靭な足の関節を、槍の石突(いしづき)で力任せに打ち据えた。

「おりゃぁああ!」

 巨象の膝を突く―。

 その瞬間、角倉は象の背の矢倉へ飛び乗り、混乱するパタニ軍の弓兵を槍の穂先で()ぎ払った。
 
 地上では、日本人部隊が象の鼻を刀で切り裂き、鼻先から噴き出す鮮血で土面が赤く染まる。
 
 パタニー兵がその凄惨な白兵戦に戦々恐々とする中、長政自身も馬を飛ばし、数人の兵の首を馬上から斬り去った。
 
 そして、丘の中腹に陣取った鉄砲隊に檄を飛ばし、敵の将が乗る最高位の象を一斉射撃で止めを刺した。
 
 遂に、七日目の夜明け、最後の将をパクパナン川の支流に追い詰め、その首を討ち取った。
 
 勝機が見えたその瞬間、長政は右足に奇妙な熱を感じた。

 視線を落とすと、膝の下に一本の矢が深く突き刺さっている。

 いつ射られたのか、自覚すらなかった。

 アドレナリンが引いていくと共に、激痛が津波のように押し寄せる。
 
「敵は後退した! 勝鬨(かちどき)だ!」

 長政は叫んだが、その瞳は北方の空を見つめていた。
 
 数日前、アユタヤから届いた密使の(しら)せが、心を凍らせていたからだ。

『アーティタヤウォン新王、カラホムの手により処刑さる』

 恩義ある主君から託された幼い王子が、もうこの世にいない。

 カラホムの狙いは最初から、この厄介な武力をリゴールに釘付けにし、その間に王位を盗むことだった。

 長政が勝てばパタニの脅威が消え、負ければ長政が消える。

 どちらに転んでもカラホムにとっては「勝ち」の博打(ばくち)だったのだ。

「ぬうっ……!」

 長政は折れた矢を自ら掴み、歯を食いしばって一気に引き抜いた。

 噴き出した鮮血が南国の乾いた土を汚す。

 血に濡れた手で刀の柄を握り直したが、その傷口の痛みは、単なる外傷を超えた不吉な疼きを帯びていた。

「戻らねば……今すぐに……軍師殿のいるアユタヤへ」

 同じ頃、アユタヤ日本人町。

 町の中心部、重い静寂に包まれた町会所(まちがいしょ)の広間には、リゴールへ出征(しゅっせい)せず町に残った老武士や、多額の軍費を提供した商人たちが顔を揃えていた。

 その中心に、レックがいた。

 彼は広げられた地図の上に、小石と木箸を淡々と並べていく。

「町の入口にあるジャスミンの木、あれをすべて切り倒してバリケードにします、えーと、防塞(ぼうさい)のことです。運河沿いには逆茂木(さかもぎ)を。それと、敵の騎馬兵が踏み込む場所にはあらかじめ油を()き、いつでも火を放てる準備をしてください」

 レックが語るのは、かつて日本の戦国時代の武将の野戦築城の術だった。

 しかし、それは“今”の時間から言えば、僅か八十年ほど前の出来事ではあったが。

 集まった長老たちは、当初は若造の放言と侮っていたが、レックが語る「敵の侵攻ルート」と「死角の作り方」の理路整然とした説明に、次第に身を乗り出していった。

 その傍らで、お滝は娘のハナと並び、レックの横顔をじっと見つめていた。

 つい先日、雨の中で鯰を獲っていた青年とは打って変わり、居並ぶ歴戦の老いた男たちを言葉一つで黙らせ、戦場を俯瞰(ふかん)しているレックの眼差しは、まさしく長政が全幅の信頼を寄せた“軍師”そのものだった。

(大したもんだね……。この子の頭の中には一体、いくつの兵法(へいほう)が詰まっているんだい)

 お滝は、その頼もしさに目を見張っていた。

「レック殿、だが相手は大砲も持ち出してくる。その、“ばりけぇど”って、いや、その、木の柵だけで防げるのか?」

 一人の老武士が訊いた。

 レックは手のひらを斜めに動かし、躊躇(ちゅうちょ)なく答える。

「防ぐのではありません。大砲の射線(しゃせん)をこのように変えさせるんです。カラホムの軍勢が『ここを通れば楽に攻め落とせる』と思い込む道こそが、我らが用意した落とし穴になります」

 レックの言葉には、確信に基づいた自信があった。

 町会所の広場を通り抜ける夜風が、ジャスミンの香りをさらっていく。

 それは静かに研ぎ澄まされた刃のように、集まった者たちの頬をかすめて行った……。




2.濁流の防衛線

 次の日から、日本人町を囲うようにバリケードの構築が始まった。

 手に残る鎌の重み、杭を打ち込む槌の音、ハナの心は落ち着く暇がなかった。

 それらすべてが、すぐそこに迫っている敵の襲来を予感させ、肌を粟立(あわだ)たせる。

 ハナは時折手を止めては、遥か南の空を仰いだ。

 そこには、数年前にこの町へ現れて以来、彼女が敬愛してきた山田長政がいる。

 かつて、アユタヤへ着いたばかりの二十歳の長政を初めて見た日のことを、ハナは今でも鮮明に覚えている。

 シャムの装束を纏っても隠しきれない質実剛健な体躯と、六尺の長身、そして南国の強い陽光を跳ね返すような涼やかな目鼻立ち。(六尺は約180センチ)

 その凛々(りり)しい姿を目にした瞬間、まだ幼さの残っていたハナの胸には、熱い恋心(こいごころ)が宿った。

 あの日から、私たちの町を、そして自分を守ってくれるのは、あの(まぶ)しいほどに強い太陽のようなお方しかいないと、ハナはずっと信じていた。

(長政様……どうかご無事で。一刻も早く、アユタヤへ戻ってください)

 その一方で、泥にまみれ、図面を広げて町衆たちに指示を飛ばすレックの姿が、ハナの胸を複雑にざわつかせていた。

 霧の中から現れたあの日、彼がこの時代の人間ではないという確信めいた違和感は、今も消えていない。

 眩しい太陽のように町を照らす長政と、その光が届かない足元を、月のように蒼白くそっと照らし出すレック。

 ハナは、その対極にある二つの輝きの狭間で、答えの出ない問いを抱え続けていた。
 
 だが、現実は答えを待ってはくれない。

 ―その時だった。

 アユタヤ正規軍の軍装とは異なる、二十名ほどの異形の集団が、細長い平底船に乗り、チャオプラヤ河の上流から突如姿を現した。

 上半身をはだけ、胸から背中にかけて真っ黒な刺青を隙間なく彫り込んだ男たちだ。
 
 呪術的な文様が刻まれたその肌は、汗と脂でどろりと光っている。

 手にする武器は、錆びついたシャム刀、農具を改造した大鎌、そして中にはポルトガルから流れてきた旧式のマッチロック式銃(火縄銃)を誇示するように掲げている者もいる。
 
 名のある武士の多くが長政に従ってリゴールへ出征し、日本人町が手薄になった隙を突いて、「金と女」という生々しい欲望のために土足で踏み込んできたのだ。

 町に残った老若男女全員が“戦闘態勢”に入った。

「……来たぞ! 南側の平地からだ! 手筈(てはず)はよいな!」

 見張りの老武士、吉田弥五郎の声が響いた。

 だが、その声が途切れるのと同時だった。

 空を裂く鋭い音がして、弥五郎の胸に深々と矢が突き刺さった。

「弥五郎さん!」

 ハナの悲鳴が上がる。

 弥五郎は、崩れ落ちる間際まで町への通路を(ふさ)ぐ杭を離さなかった。

 かつて長政に拾われ、この町を「(つい)住処(すみか)」と決めていた老兵は、最期までその約束を果たすかのように、ただ静かにその命を町へ捧げた。

 日本人町自衛団、最初の殉職者だった。

 略奪者どもが、怒声を吐きながら次々と土手へ這い上がって来る。

「レック様、どうすればよいでしょう!?」

 ハナが焦りを隠せず、息を切らせて叫んだ。

 レックは地図から顔を上げ、町家(まちや)の軒先に掲げられた松明(たいまつ)を指差した。

「落ち着いて! 計画通り動くのです。ハナ、お滝さん。……あそこの火を!」

 敵の先鋒が、切り倒されたジャスミンの木で作られた不格好な柵を嘲笑(あざわら)いながら突っ込んでくる。

 だが、彼らが柵の隙間に足を一歩踏み入れた瞬間、そこは火炙(ひあぶ)り地獄へと変わった。

 柵の下には、巨大なプラー・ブック(メコンオオナマズ)の脂肪を煮詰めた「魚の油」が撒かれていた。

 ハナとお滝が震える手で投げた松明が落ちると、(ねば)つく油に火が走り、炎の壁が猛烈な勢いで立ち上がった。

 呉服屋の長次郎が「生かして帰すか! 悪党どもめ!」と叫びながら、さらに松明を投げ込む。

 燃え移った炎に包まれた男が、断末魔(だんまつま)の叫びを上げながら土手下へと転がり落ちていった。

「火だ! 下がれ、道が塞がれているぞ!」

 右往左往する敵の眼前に、土面の中から牙のような「逆茂木(さかもぎ)」が姿を現した。

 先端を鋭く削り、槍のように尖らせた木の枝。

 それを外側へ向けて何重にも組み上げ、土深く固定したその柵は、踏み込もうとする者の肉を裂く。

 逃げ場を失い、炎の熱風に(あぶ)り出された敵の群れ。

 その正面、逆茂木の合間に、弓を携えた老武士たちと、火縄銃を構えた男たちが双方から息を殺して待ち伏せている。

「皆さん、ここは(こら)えてください! 敵を脅すだけでよいのです!」

 レックの狙いは、無益な殺生ではない。

 日本人町の圧倒的な抵抗力を示し、戦意を(くじ)くことにあった。

 だが、刺青の一人の男が、懐からポルトガル銃を取り出し、最前線で松明を手にしたハナへ銃口を向けた。

「この、小娘がぁ!」

 火薬が()ぜる音が、ハナの耳元に響いた。

 弾丸が風を切る音が頬をかすめ、彼女は反射的に目を閉じて身を伏せた。

 直後、重なり合うようにしてもう一発、鋭い乾いた音が響く。

 恐る恐る顔を上げたハナの視界に入ったのは、立ち上る白い硝煙だった。

 ハナのすぐ後ろにはレックが、火縄銃を構えて立っていた。

 その銃口の先では、先ほどの悪党が心臓を正確に貫かれ、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。

 レックは自分の手が激しく震えていることにすら、気づいていないようだった。

「レック様……」

 ハナは喉の奥が熱く引き()り、それ以上、声を出すことができなかった。

 命を救われた安堵と恐怖が入り混じった、激しい動揺が彼女を支配していた。

 混乱は一刻近く続き、敵の指揮官は血に染まった数少ない部下を引き連れ、這々(ほうぼう)(てい)でカラホムのいるアユタヤ王宮の方角へと逃げ去っていった。

 もちろん、日本人町にとっても無傷の勝利ではなかった。

 弥五郎の身体は冷たくなり、数人の若者が血を流して手当てを受けていた。

「レック様、大丈夫ですか……? その怪我、早く見せてください」

 ようやく口が利けるようになったハナが駆け寄った。

 レックは火の粉で頬を焦がし、擦り剥いた手からは血が滲んでいる。

「私は全然平気です、他の皆さんの手当てを急いでください」

 彼はハナの問いに視線すら合わせず、逃げていく敵の土煙をじっと見つめていた。

 その瞳には、次に来るであろう軍勢をどう迎え撃つかという、炎のような執念だけが宿っていた。

 この人は、私たちの世界を救うために、自らの手を汚すことを決めたのだ。

 その孤独な覚悟が、ハナの胸を激しく締め付けた。

 だが、町の平穏はかろうじて保たれているに過ぎない。

 カラホムの影は、さらに巨大なうねりとなって日本人町を飲み込もうとしていた……。

(長政さん、どうかご無事で……)




3.南への伝令

 リゴールからの帰路、山田長政はかつてない窮地(きゅうち)に立たされていた。

 パタニ軍の残党は、領国を蹂躙(じゅうりん)された怒りに燃え、数千の兵が地の利を活かして長政の背後に執拗(しつよう)に食らいついていた。

 小高い丘で小休止をとりながら、馬上で長政が(うめ)いた。

 「ううっ……」

 右足の矢傷は、どす黒い腫れとともに、心臓の鼓動に合わせ、錐で突き刺すような激痛を全身に撒き散らしていた。

 長政は朦朧(もうろう)とする意識の中、視界が熱帯の陽光に焼かれ、白く|(かす)む。

 退軍ルートの先には、大河パクパナン河が横たわっている。

 進軍時には乾季の名残で、馬の膝を濡らす程度の浅瀬が広がっていた場所だ。

 だが、南部の変わりやすい天候が牙を剥いた。

 行軍の最中、この辺りはスコールが七日間も降り続き、河は見る影もなく増水していた。

 渦を巻く濁流は、一歩踏み込めば人も馬も飲み込み、二度と浮き上がらせぬ澱みと化している。

 本来なら、一旦海上に出るか、内陸部を大きく迂回すべきだが、長政にはその猶予はない。 

 アユタヤでは、恩義あるソンタム王が遺した二人の王子が、簒奪者(さんだつしゃ)カラホムの手によって無惨に葬り去られた。

 その卑劣な暴挙を思い出すたび、腸が煮えくり返るような怒りが傷の痛さを上回る。

 一刻も早く戻らねば、日本人町の皆が、そしてお滝やハナが、あの男の毒牙にかかる。

「このままでは、ここで全滅か……。だが、死ぬわけにはいかぬ。皆が待っている……」

 前方には濁流、背後には迫りくる数倍の敵。

 丘の上に立つ長政は、文字通り、崖っぷちへと追い詰められた。

 同じ頃、アユタヤ日本人町。

 先刻までの晴天が嘘のように、入道雲が鉛色に変色し、空を覆い尽くしていた。

 熱風が吹き抜け、不意に、針のような冷たい雨粒が頬を打つ。

 嵐の前触れだった。

 町会所の奥で、レックは嵐に急かされるように、まだ癒えぬ手で筆を動かしていた。

 ハナが「レック様、怪我を診させてください」と声をかけるが、彼は聞こえないかのように紙に食らいついている。

 レックの頭の中には、かつて見たリゴール郊外の風景が、二〇二六年の詳細な地図データとして投影されていた。

 “その”湿地帯は現代では県立大学のスポーツ競技場として見事に整備されている。

 そこに(たたず)む、かつて日本人義勇隊が追撃戦で苦杯をなめたことを記す、古い石碑の文言を思い出していた。

(……頼む。気づいてくれ。あの袋の中の手紙を読んでくれ!)

 実は出征の朝、レックは長政が腰に下げた薬入れの革袋の中に、一枚の折り畳んだ|羊皮紙(ようひし)を忍ばせていた。

 そこには、万が一、退軍時にこの湿地帯に追い詰められた際の戦法が記されていた。

 リゴール、パクパナン河の岸辺を見下ろす高台。

 長政が強行渡河の覚悟を決め、傷の痛みを散らす薬を求めて革袋に手を入れた時、指先に奇妙な紙の感触が触れた。

 引き出したのは、見覚えのない羊皮紙。

 その包みの表には、筆の跡も新しい文字でこう記されていた。

『いきはよいよい、かえりはこわい♪』

 不吉な歌の文句に、語尾に添えられた場違いな音符の印。

 レックが現代でSNSを打つ際に無意識に添える、あの奇妙な癖だった。

「……なんじゃ、これは?」

 長政は怪訝(けげん)そうに呟きながら、切り傷だらけの荒れた手で紙を広げた。

 そこには、蛇がのたくったような奇妙な曲線が密集する、見たこともない図解があった。

『長政様、この線が重なり合う場所は、泥の下に固い岩盤(がんばん)が走っています。強行に渡河を装い、この“浅瀬”を一直線に駆け抜けてください。追撃してきた敵を、沼の深みへ誘い込むのです』

「“いきはよいよい、かえりはこわい……” ああ、なるほど。そういうことか!」

 長政は思わず膝を打った。

 雨季の増水までも予見し、泥底に隠されたかつての古道の跡――砂礫(されき)が固まり、周囲より一段高くなっている浅瀬の底道を、レックは的確に指し示したのだ。

 長政の口元に、確信の笑みが浮かぶ。

 彼は馬首を翻し、全軍に向けて号令を発した。

「全軍、右の林を抜け、対岸へ前進せよ! 泥沼に足を取られるな。我らが通るべき道は、あの河の底にある!」

 雷鳴が轟くと同時に、日本人義勇隊が河へと突入した。

 追撃してきたパタニの残党兵たちは、勝利を確信して歓声を上げた。

「日本人どもが捨て身になって川に飛び込んだぞ!」と。

 彼らもまた、獲物を逃すまいと、長政たちの後を追って水に飛び込んだ。

 だが、次の瞬間、絶叫に変わったのは敵軍の方だった。

 長政の軍勢は、まるで見えない橋の上を駆けるように、濁流の中を驚異的な速度で進んでいく。

 対して、後を追った敵兵たちは、一歩踏み込むごとに底なしの泥に足を取られ、重い防具とともに水底へと引きずり込まれていった。

「今だ、放て!」

 レックの図解通り、高台へと迂回させておいた別働隊が、混乱する敵を見下ろすように姿を現した。

 頭上から降り注ぐ弓と火縄銃の猛射。

 逃げ場のない水中で、敵軍は水に落ちた羽虫のごとく、なす術なく撃ち落とされていった。

 一発の銃声が響くたび、泥水が赤く染まっていく。
 
 —わずか半刻。

 数倍の兵力を誇った残党軍は、レックが指し示した「沈んだ古道」という知略の前に完膚(かんぷ)なきまでに叩きのめされ、撤退を余儀なくされた。

 パクパナン河を無事渡り切った対岸で、長政は息を弾ませ大きく息を吐いた。

「こわいながらも……とおりゃんせ、とおりゃんせ……か」

 長政は、生まれ故郷の村の境内で流行っていたわらべ歌を思い出した。

「レック軍師殿……今回もあなたの知恵に助けられたましたぞ」

 だが、渡河成功の余韻に浸る間はない。

 アユタヤまでは、ここから少なくともあと五日の強行軍が必要だ。

 長政は激しく(うず)く足の傷を荒縄で固く縛り上げ、手綱を握り直した。

 一刻も早く、アユタヤへ戻るのだ。そして、守るべき町へ。

 はやる気持ちと、傷口の痛みに(うな)される意識。

 長政は、土煙を上げる馬列の先頭で、沈みゆく夕陽を見つめていた。

 その眼差しには、アユタヤを血に染めようとするカラホムへの、静かな、しかし烈火のごとき戦意が宿っていた……。

第十章 不落のアユタヤ象防柵

第十章 不落のアユタヤ象防柵

1. 日本人町の象防柵 ―長篠の再来―


 日本人町の北の空が、赤紫色(あかむらさき)に染まっていく。

 太陽はとっくに西の空に沈み、本来なら満天の星が輝く時間だ。

 だが、星々の光を掻き消すほどに、王宮の方角から迫りくる王軍の業火(ごうか)が夜空を焦がしていた。

 南北を貫く目抜き通りは、逃げ惑う人々の怒号(どごう)喚声(かんせい)で響き渡っている。

 「押さないで! 子供を先に! 南の船着き場へ急げ!」

 町年寄たちの制止も虚しく、約三千の住人を抱える町は混乱の極みにあった。

 平時には活気あふれる目抜き通りも、今は家財道具を一家や、親とはぐれた幼い子供たちが右往左往する地獄絵図だ。

 お滝は町会所の前で、泣きべそをかきながら慕ってくる数人の子供たちの頭を、慈しむように優しく撫でた。

 視線の先では、広場で避難の指示に忙しなく動くハナの姿がある。

 (ああ、いよいよ来たのね……)

 耳を(つんざ)く怒号も、炎の()ぜる音も、今のお滝の意識から遠のいていく。

 彼女の顔から迷いの色が消え、優しく子供たちの背をハナの方へと押し出した。

「ハナ、南門の葦の茂みに隠した平底船が数隻あるわ。この子たちを連れて対岸のポルトガル人居留区へ逃げ込みなさい。いいわね、決して戻るんじゃないわよ」

「お母様は……? お母様はどうするの!」

 ハナの問いに答えず、(きびす)を返すと町会所の奥へと消えた。

 部屋の片隅に置かれた、(すす)けた長持(ながもち)を引っ張り出した。

 蓋を開けると、そこには亡き夫の形見の武具、赤い胴丸(どうまる)が収まっていた。

 お滝は慣れた手つきで手拭いを首から外し、鉢巻にして強く締めた。

 古びた鎧の小札(こざね)が擦れ合い、カチカチと(こす)れあう音が鳴る。

「お母様……?」

 ハナはその母の姿に息を呑んだ。

 目の前にいる母は、鯰の蒲焼を焼いていた陽気な商人(あきんど)の「お滝さん」ではない。

 一分の隙もない、戦場の空気を(まと)った「武家の女」の姿だった。

「ハナ、早く行きなさい。あたしはこの町を守るよ。……“あの方”との約束なのさ」

 ハナは一瞬、母の言葉にどきりとしたが、聞こえぬふりをして「ほら、早く!」と子供たちを促し南門へと走り出した。

 日本人町は、西を流れるチャオプラヤ大河を天然の堀とした、南北に長い“要塞”と化していた。

 レックが構築した「竹柵の陣」は、北、東、そして河沿いの三方に張り巡らされている。

 特に、チャオプラヤ河の土手には、三百メートルにわたって鋭く削りされた無数の竹を幾重にも重ねた逆茂木(さかもぎ)が突き刺されていた。

 かつて、織田信長が武田の騎馬軍団を三河の長篠で破った馬防柵を、ここでは“象防柵”として機能させる狙いだ。

 唯一、南門だけは柵を最小限に留めていた。

 そこは三千人の命を対岸のポルトガル人居留区へと逃がすための、細い「命の糸」だった。

 対して、北の闇から迫るカラホムの象背(ぞうはい)部隊は十二頭。

 一頭につき十名の歩兵が付き従い、総勢五百を超える兵団が赤土を跳ね上げて迫る。

 日本人町の軍勢は、算盤(そろばん)を捨て鉄砲を担いだ商人、老若男女、(いくさ)の素人を含めても僅か三百に満たない。

「北を抜かれれば、南の避難民まで一気に飲み込まれるぞ……!」

 レックは火の見櫓から、暗闇に蠢く巨大な影を睨みつけた。

「軍師様!……本当にこれだけで、あの山のような獣を仕留(しと)めることができるのですか?」

 陶器屋の五助が、震える指で弓の弦を弾きながら見上げて問う。

 長次郎ら町の若者たちが、不安げに顔を強張らせている。

「仕留めるのではありません、歩みを鈍らせるのです。その重さの均衡を崩せば動けなくなる。いいですか、よく引き付けてからです!」

 レックは櫓から降り、一人一人の弓を手に取って弦の張り具合を確かめて回った。

 その時、人気が途絶えた目抜き通りを、鎧が擦れ合う音が近づいてきた。

 お滝だった。

 長槍を携えた彼女の姿にレックは息を呑んだ。

 彼女はレックを優しく見つめ、静かに口を開いた。

「レック様……これは、亡き亭主の形見の鎧でございます。昔、あるお坊さんに命を救われたことがありました。清らかな袈裟をまとい、未来のこと未来の言葉で語る御仁でした。亭主が最期にこう言い残したのです―『いつか必ず、その方と同じ気配を持つ若者が現れる。その時は、命を懸けてでも守り抜け』と……」

 お滝の指先が、レックの右頬に触れた。

 バリケード戦で負った火傷の痕。

「その火傷の痕……あの方の顔にあったものと、まったく同じ場所に……」

 レックの心臓が跳ねた。

 お滝やハナが最初から自分を“特別な存在”として優しくしてくれた理由。

 彼女たちは、自分の“過去の姿”と“未来(いま)の姿”を知っているのか?

 もし自分がその僧侶だったとしたら、この戦いの結末も、そのあとの自分の運命も、すでにこの歴史の中に書き込まれているということか!

 その瞬間、レックの中で何かが弾けた。

(……宿命だろうが、因果だろうが、関係ない、今、この時を生き抜くのだ……)

 レックは火縄銃の引き金にかけた指に力を込め、お滝と視線を合わせた。

 そこにはもはや迷いはなかった。

「軍師様、さぁ、号令を。この槍は、まだ錆びてはおりませぬぞ」

 その瞬間だった。

 最前線の竹柵が、先頭の戦象の重圧によって砕け散った。

 狂ったように突き進もうとした巨体が、ガクリと前のめりに崩れる。

 隠されていた落とし穴の底で、無数の竹杭がゾウの柔らかな足裏を深く貫いたのだ。
 
 断末魔(だんまつま)咆哮(ほうこう)が夜空を裂く。

 狂乱したゾウが後続の兵をなぎ倒し、カラホム軍の進撃が止まった。

「第一列、放てっ!」

 レックの号令とともに、硝煙が夜を貫く。

 お滝は鎧を軋ませながら、誰よりも先に槍を突き出し、押し寄せるカラホム軍の波へと向かって一歩を踏み出した……。



2.僧侶の伝言


 船底が泥を(こす)る音が、深夜の運河に重苦しく響く。

 南門の(あし)の茂みから滑り出した数隻の平底船(ひらぞこせん)は、泣き叫ぶ子供たちと母親たちを乗せてチャオプラヤの濁流へと押し出された。

 ハナは船尾で懸命に竿を操りながら、遠ざかっていく日本人町の光景を見つめていた。

 背後からは、夜気を引き裂く戦象の咆哮と、レックたちが放つ火縄銃の爆ぜる音が届く。

 それは、戦国の世を生き延び、この異国でようやく築き上げた平和な暮らしを、再び戦火の渦中へと引き戻す弔鐘(ちょうしょう)の響きのようだった。

「おハナさん、おハナさんの母上は……どうなっちゃうの?」

 膝を抱えて震える少年が、弱々しく衣の裾を掴む。

 ハナは唇を噛み、折れそうな心を、槍を振るい奮闘する「お滝」の残像で繋ぎ止めた。

「大丈夫よ。母はもう少ししたらここに来るからね……。さあ、立って。もうすぐ岸よ」

 ハナは対岸のぬかるんだ土手に船を寄せると、震える小さな体を引き寄せ、一人ずつしっかりと抱きかかえて岸へと押し上げた。

 対岸のポルトガル人居留区(きゅりゅうく)へ足を踏み入れた瞬間、ハナの胸の奥で、長い間「御伽噺(おとぎばなし)」として眠っていた古い記憶が、(にわ)かに色彩を伴って蘇った。

 それはまだ十にも満たぬ頃、蒸し暑い午後の昼寝の時間に、母、お滝から聞かされた話だ。

 かつて裏庭の木陰に現れたという、奇妙な僧侶の物語。

 色褪せているが塵一つない袈裟(けさ)(まと)い、現世の理から外れたような奇異な日本語とタイ語を話した男。

 彼は父、伊三郎(いざぶろう)が戦役で胸を深く貫かれ、村の祈祷師(きとうし)さえ(さじ)を投げた時、忽然(こつぜん)と現れたという。

 呪文や祈祷の代わりに、迷いのない手つきで白い布を裂き、見たこともない鋼の道具で父上の傷を縫い合わせ、父を死の淵から救い出した命の恩人。

『いいかい、ハナ』

 寝床でお滝は、ハナの頭を撫でながら静かに語り継いだ。

『そのお坊様はね、別れ際にこう言ったんだよ。「いつか、僕と同じ瞳をし、僕と同じ火傷(やけど)を負った男がこの町に現れる。その時、彼は自分の正体に迷い、進むべき道を見失うだろう」ってね』

 僧侶の右頬には、今のレックと全く同じ場所に、消えることのない火傷の痕があったという。

『ハナ、その人が来たら、あんたがその人の眼となり耳になってあげるんだよ。あんたの声が、迷えるあの方の道標(みちしるべ)になる。それが、父上の命を救ってくれたお坊様への恩返しになるんだから』

「……そうだったのね。私は、このために此処にいるんだわ」

 ハナは確信した。

 自分がなぜ、レックの放つ独特の言い回しや、彼の奥底にある孤独にこれほど()かれ、理解できてしまうのか。

 すべては、あの僧侶が母、お滝を通じて自分に遺した、時を超えた「伝言」のせいだったのだ。

 ハナは子供たちを居留区の教会へ預けると、止める修道士を突き飛ばすようにして、再びチャオプラヤ河の岸壁へと走った。

 暗い水面に漕ぎだしたとき、前方に浮かぶ巨大な“城”が目に入った。

 スペイン艦隊のガレオン船――デル・ロサリオ号――。

 甲板の上では、以前、長政とレックが乗り込み、酒を振る舞ったスペイン将兵たちが、不敵な笑みを浮かべて大砲の火門を点検していた。

「おい、娘! 日本人町はどうなっている? 王軍の象どもは、そろそろ竹柵に串刺しになった頃か?」

 革の帽子を(いじ)りながら声をかけてきたのは、以前レックが「友」と呼び、共に杯を乾かした砲術長だった。

「レック軍師様は今、北門で戦っています! すぐに加勢をお願いします、長政様が戻るまで町を……」

「長政か。あんなに剽軽(ひょうきん)で人たらしな男は、地獄の閻魔(えんま)でも手懐(てなず)けて戻ってくるだろうよ、はっはっは」

 一人の水兵が茶化す。

「おい、待てよ。あの凄腕の帰りを待つ間に、町が灰になっちゃあ寝覚めが悪い」

 そこへ、重厚な長靴(ちょうか)の音とともに一人の男が姿を現した。

 艦長のディエゴ・デ・シルバ司令官だ。

 彼は北の空に上がる火柱を黙って見つめ、威厳をもって宣告した。

「カラホム軍と日本人町が泥沼にハマれば、我々の権益も危うくなる。何より、あの若き日本人の若者に食わせてもらった酒の味を忘れるほど、我々スペイン海軍は野蛮ではない。……砲撃、許可する!」

 シルバ司令官の号令が飛んだ。

 将兵たちは巨砲をゆっくりと、レックたちが死守している北門の、さらにその外周の方角へと向けた。

 あくまで「酒の恩」と「長政への敬意」を示すための、威嚇(いかく)の援護射撃だ。

「恩を売るなら今だ。あの暴れ象どもを、我々の“雷砲(らいほう)”で少しばかり大人しくさせてやろう」

 シルバ司令官が剥き出しのサーベルを振り下ろした。

 瞬間、デル・ロサリオ号の舷側(げんそく)に並んだ黒鉄の砲門が一斉に火を噴いた。

—ド・ドォォーン!

 火縄銃の乾いた破裂音とは次元が違う。

 それは夜気(やき)を引き裂き、運河の水面を震わせ、腹の底に響き渡る凄まじい衝撃波だった。

 アユタヤの夜空を、数条のオレンジの尾を引く鉄球が切り裂いていく。

 これこそが、レックが酒樽(さかだる)一つで()ぎ取った“未来”の産声だったのだ……。 



3.英雄の帰還

 日本人町を包囲するカラホムの軍勢は、日本の戦場とは全く異なる異様な威圧感(いあつかん)を放っていた。

 シャム兵たちの多くは、赤や紺の木綿で作られた腰布「パ・ヌン」を着け、筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)裸体(らたい)(さら)している。

 その浅黒い肌には、銃弾や刃を退けると信じられている精緻(せいち)護符(ごふ)刺青(サックヤン)が、呪詛(じゅそ)のように刻まれていた。

 彼らが手にするのは、東南アジア特有の緩やかに反った片刃刀や長柄(ながえ)(ほこ)である。

 象の背に跨る指揮官たちは、金細工が施された鳥兜を被り、腰には家系を象徴する短剣を差していた。

 火縄銃を構える歩兵隊も混じるが、その主力は何と言っても「戦象(せんぞう)」だ。

 首の周りを鎖で補強し、牙の先に鉄の突起を装着した巨大な巨獣たちは、シャムの兵たちにとって動く要塞であり、日本人町を文字通り踏み潰すべき軍神の象徴であった。


 その巨獣たちの頭上で、スペイン艦隊、デル・ロサリオ号から放たれた砲弾が、夜の赤土を破壊した。

 衝撃で跳ね上がった瓦礫(がれき)土塊(つちくれ)が、カラホム軍の頭上へ容赦なく降り注ぐ。

 見たこともない凄まじい着弾音に、戦象たちが制御を失った。

 巨体が折り重なり、逃げ場を失った自軍の歩兵をその足で踏み潰しながら、無秩序な後退が始まる。

「今だ、北門の柵を開けろ!」

 レックの怒号が飛ぶ。
 
 錆びた刀や火縄銃を握りしめた町人たちが、竹柵の隙間から一斉に外へと躍り出た。
 
 彼らはもはや庄屋の番頭でも、算盤を弾く商人の顔でもない。
 
 異国で築いた家と家族を焼かれまいとする、剥き出しの形相で敵に食らいつく。
 
 ある者は転倒した敵兵を組み伏せ、ある者は折れた竹槍で象の脚を突き、慣れない引き金を引き、死に物狂いで防衛線を死守した。
 
 その先頭を、煤けた鎧を軋ませたお滝が駆ける。

「――ここで仕留めなきゃ、町が焼かれちまうよ!」

 お滝の槍が、戦象の陰に潜む敵兵の喉元を一刺しに貫いた。

 一突きごとに彼女の足元には赤黒い血が飛び散り、かつての戦場を歩いた武家の女の気魄(きはく)が夜を裂く。

 レックは火見櫓(ひのみやぐら)を駆け降りた。
 
 スペインの砲撃はあくまで一時的な目眩(めくら)ましだ。
 
 この混乱が収まれば、数で勝るカラホムの軍は陣営を立て直し、また押し寄せてくる。
 
 その時、南側の開けた田畑の向こうから、激しい馬蹄(ばてい)の音と、こちらを鼓舞するような野太い咆哮(ほうこう)(とどろ)いた。

「待たせたなぁ、レック軍師どのぉ!」

 南から北へ、日本人町の目抜き通りを突風のように駆け抜けてきたのは、山田長政だった。
 
 続いて、歩兵隊長として殿(しんがり)を務めてきた重松蔵人と、騎兵隊を率いる河村権兵衛が、疲弊した馬を蹴立て、背中に“アユチヤ日本義勇隊”の紅白旗を纏い続いてきた。
 
 長政の装束は無残に裂け、馬は白い泡を吐き、返り血は黒く変色していたが、その眼光だけは異様なほどに冴え渡っていた。

 長政は馬を飛ばし、崩れかかった敵陣の中央へ真っ向から斬り込んだ。

 馬を降り、お滝の横に並ぶと、襲いかかる敵兵を長刀(なぎなた)で斬り伏せる。

「皆、よく持ちこたえた! 助太刀(すけだち)に戻ったぞ!」

 その一声が、疲労困憊(ひろうこんぱい)していた自衛団の空気を一変させた。

「長政様だ!」「長政様がお戻りだ!」

 五助や長次郎たちが喉を枯らして叫ぶ。劣勢に傾いていた防衛戦は、この一軍の帰還によって、確かな「反撃」へと転じていった。

 夜明け前。
 
 カラホム軍は、狂乱した象を収容し、王宮の方角へと引き上げていった。
 
 日本人町の外周には、折れた竹柵の残骸(ざんがい)と、動かなくなった戦象の巨体が、生々しい戦いの跡を晒している。
 
 生き残った安堵が町に広がる一方で、漂う硝煙(しょうえん)の臭いが、これが終わりではないことを告げていた。
 
 町会所の石段。
 
 給仕の女が運んできた熱い日本茶が、四人の渇いた喉に沁みた。
 
 落ち着きを取り戻した、長政、レック、お滝、そしてハナの四人は、立ち上る朝靄(あさもや)の中で一堂に会した。

「……長政様。カラホムの軍はすぐにまた町を襲うに違いありません」

 レックが、手の甲に負った傷の痛みを堪えながら、血の付いた図面を広げた。

「ああ。日本人町が意外に手ごわいと知って、次なる戦略を練っているに違いない。次に来る時は、この程度の柵も鉄砲も敵わない手を使ってくるだろう」

 長政は愛刀の(あぶら)を布で静かに拭い、(さや)に収めた。

 その目は、すでに次に襲来するカラホム軍の布陣を見据えている。

「カラホムは軍勢を整え、今度こそ我が町を火の海にするでしょう」

 ハナはお滝の傍らに座り、母の傷ついた掌をそっと包み込んだ。
 
 お滝は、遠く王宮へと続く道の先を、険しい目つきで睨みつけている。

「あのカラホムって男、あたしたちを殺すまで、ここを焼き払うまで止める気はないよ。次はもっとえげつない手で来るさ。……ああ、忌々しい」

 東の空が白みはじめ、消えゆく闇が戦場の惨状を浮かび上がらせた

「不落」と称した象防柵(ぞうぼうさく)は、初手の不意を突くための、一時凌(いちじしの)ぎの策に過ぎなかった。

 四人は、次の攻撃が町を地図から抹消するほどの規模になることを、声には出さずとも、肌を刺すような予感として感じ取っていた……。 

第十一章 英雄の落日

第十一章 英雄の落日

1.チャオプラヤと梅

 カラホム軍の一次撤退から数日。

 日本人町は、嵐の前の(つか)()の平穏に包まれていた。

 折れた竹柵の修復や負傷者の手当てに追われる日々の中で、レックとハナがようやく二人きりになれたのは、昼間の熱気が和らぎ始めた夕暮れ時だった。

 町外れの運河に突き出した、朽ちかけた桟橋。

 レックは、手の甲に負った傷をハナに手当てされていた。

 母、お滝から教わったという薬草の、青臭くも清涼感のある緑の汁を、ハナが指先で丁寧に塗り込んでいく。

「痛みますか、レック様」

 ハナの指先は驚くほど優しく、そして微かに震えていた。

「……いや。ハナさんの手の方が、よっぽど温かいよ」

 レックがそう言うと、ハナは夕映えの(だいだい)を写したように頬を赤らめ、視線を落とした。

 ハナの()れた横顔を見た途端、レックの胸の奥で眠っていた孤独がふわりと揺れた。
 
 自分はこの世界の住人ではない。

 歴史の流れに逆らい、いつか消える存在かもしれない。

 だが、この柔らかな髪の匂いや、指先の確かな温もりだけは、どんな教科書にも公文書にも記されていない、彼だけの真実だった。

「ねえ、レック様。戦いが終わったら、お母様と三人で、長政様が言っていた『遠い未来』の話、もっと聞かせてくださいね。レック様の故郷には、本当に夜を昼に変える魔法があるのでしょう?」

 無邪気(むじゃき)に問いかけるハナ。

 レックは、彼女が思い描いていた「未来」が、まさに今、現実の中で崩れ始めていることを知っている。

「うん、ほかにも聞かせたいことはたくさんあるんだ……」

 彼は、(ふところ)から大切に忍ばせていた布包みをそっと取り出した。

「……これ。(いくさ)が始まる前に渡したかったんだ。ずっと、出しそびれていて」

 包みを解くと、梅の花を(かたど)った“かんざし”が現れた。

 極彩色の地元の装飾品とは異なる、日本の早春を思わせる控えめな白梅の柄模様。

 その白い模様が、夕暮れの中で淡く白光を放っているように見えた。

「これは……」

「梅という木の花だよ。厳しい冬に耐えて、春になると最初に咲くんだ。……再会や、希望の象徴なんだよ」

「そうなんだ……梅の花」

「ハナは、日本、いや、日ノ本の国には行ったことがないの?」

「私はここアユタヤで生まれたから……。でも、一度は行ってみたい。お父様とお母様が生まれた国の景色を、この眼で見てみたいです」

 ハナは、かんざしを宝物のように両手で包み込み、そっと自分の髪に挿した。

「似合いますか?」

「ああ。この世で一番似合っている。約束するよ、いつか、君に全部見せてあげたい。……たとえ私がいなくなっても、君がその光の中にいられるように」

「……大切にします。あなたが言った『冬』が終わるまで。そして、この花が咲く『春』からも、私はあなたの道標(みちしるべ)となります」 

 不安げに見上げるハナを、レックは優しく微笑み、そっと引き寄せた。

 運河を渡る風が二人の髪を揺らし、水面には黄金色の夕映えが波打っている。

 二人の間には、この瞬間のために生きてきたのだという、(もろ)くも美しい確信が芽生えていた。

 永遠に続くかと思われた甘い一時(ひととき)は、わずか数秒で幕を閉じた。

 町の南、静かな田畑を突っ切ってくる、馬蹄(ばてい)の響きが二人の世界を粉々に砕いた。

「レック軍師殿! おハナ様っ!」

 張り詰めた声で叫びながら、重松蔵人が落馬せんばかりの勢いで桟橋へ突っ込んできた。

 顔を強張(こわば)らせ震える声を上げた。

「長政様が……! リゴールの傷が()み、熱に(うな)されておいでだ! 早く、早くお屋敷へ!」

 駆け戻った長政の居室は、さっきまでの穏やかな時間が嘘のように、重苦しい湿気に満ちていた。

 開け放たれた襖から、(むせ)るような薬草の匂いと、傷口を清める強い酒の匂いが漏れてくる。

 特別に召し出されたポルトガル人の医師が、沈痛な面持ちで白い包帯を手に取っていた。

「……長政様!」

 レックの呼びかけに、寝床の主がわずかに肩を揺らす。

「長政様、どうかそのまま」

 ハナの気遣う声が、震えを帯びていた。

 アユタヤ日本人義勇隊を率いた威風堂々(いふうどうどう)たる骨格は、薄い麻の肌着の下でひと回り小さく見える。

 リゴールで受けた毒矢の痕は、今なお熱を帯び、主の命をじわじわと(むしば)み続けていた。

「……遅いぞ、軍師殿。拙者は少し、身体が火照っただけだ」

 長政は、ひび割れた唇を歪めて不敵に笑った。

「熱が引かない。毒が全身にまで回っている。……並の男なら、(とう)に事切れていてもおかしくはない」

 青い目の医師が、感嘆とも諦めともつかぬ吐息をつき、長政の額に湿った布を当てがう。

 アユタヤの空に雨季が近づき、(うな)るような遠雷を運んできた。

 その響きは、刻一刻と迫り来るカラホム軍の進軍の銅鑼(どら)()を予感させる。

 不意に長政が、その震える手でレックの手首を掴んだ。

 その(てのひら)の温度は、異常なほどに熱い。

「軍師よ、よく聞け。奴らは拙者のこのざまを好機と見て、一気に畳みかけてくる。今度こそ、この町を跡形もなく灰にする気だ」

 激しく咳き込み、肩が大きく上下する。

 長政は気力を振り絞るように、レックの目を覗き込んだ。

「……“未来の世”のことは拙者には計りかねる。だが、お主はまぎれもなく、この“今の世”に命を賭けておる。……拙者が再びこの足で立つ時まで、全軍の指揮はお主に託す。よいか、頼むぞ」

 レックは、長政の熱い手を祈るように両手で握り返した。

 彼が再び陣頭に戻るまでの時間を、一秒でも長く稼ぎ出す。

 それが今の自分の、唯一の使命だ。

「……承知しました。それまでこの町は、私が守り抜きます」

「軍師殿、お主ならやれる……。頼んだぞ……」

 長政は荒い息を吐きながら、再び寝床へ深く沈み込んだ。

 レックは託された重責を胸に、ゆっくりと立ち上がった。

 床の間の隅、鎧棚(よろいだな)には「朱塗(しゅぬ)りの大鎧(おおよろい)」が掛けられている。

 幾度も戦場を駆けてきたその甲冑は、静かに“その時”を待っていた。

 長政の居室を出た廊下には、重松蔵人と、騎兵隊を率いる河村権兵衛が、数人の諸将と共に待ち構えていた。

 使い込まれた胴大丸の小札(こざね)が擦れる音が、板張りの回廊に硬く響く。

 男たちの視線は、レックの背後、長政が伏す奥室の闇に吸い寄せられていた。

「……長政様は」

 重松が問いかけた。

 刀の柄を握る指先が白く強張っている。

「今も、病魔と戦っておいでです。ご自身が戦場へ戻るまで、一歩も引くなとの仰せです」

 レックの言葉に、武将たちの間に微かな動揺が走った。

「長政殿は戦える御身(おんみ)ではない、ということか」

 河村権兵衛が苛立ちを隠さず、一歩踏み出した。

「カラホム軍の象部隊が水路を塞ぎ、歩兵はすでに南の防壁を越えようとしている。頭領の姿が見えねば兵の士気は持たぬぞ。この瀬戸際、誰が兵を束ねるというのだ」

「私が、指揮を()ります」

 レックは退かず、武将たちの視線を正面から受け止めた。

「長政様より、全軍の指揮権を預かりました。異論のある方は、今ここで私の首を()ね、好きになされるがよい!」

 静かな宣告に、回廊の空気が一変した。

 アユタヤで長政と共に歩み、同じ泥に塗れてきた男の、退路を断った覚悟がそこにあった。

 張り詰めた空気を切り裂くように、遠くからカラホム軍の銅鑼(どら)(かね)()が、夜風に乗って響いてくる。

 重松が、ゆっくりと膝を折った。

「……御意。軍師殿の指図に従おう。長政様の命とあらば、たとえ魔物であっても、(それがし)は付き従う」

 重松の言葉に、河村も、居並ぶ諸将も、苦渋を飲み込むように次々と頭を下げた。

 町会所の一室に据えられた円卓に、一枚の地図が広げられた。

 レックは言葉を選びながら、丁寧に戦闘方針を告げた。

「敵は我々の動揺を待っている。だが、水路の象部隊は雨季の増水で足元が脆い。そこを狙い撃つ。……私は、長政様が戦場へ戻られるまでの『(たて)』となります。敵に、山田長政が健在であると思い知らせるために」

 その時、夜空を引き裂くような轟音が響いた。

 建物全体が震え、円卓の上の地図が激しく揺れる。

 カラホム軍による総攻撃の号砲――大砲の初弾が、日本人町の外郭を容赦なく叩き潰したのだ。

「……では参る!」

 レックは短く告げ、砲煙が立ち昇る南の空へ向かって、暗い廊下を歩き出した……。
向かって、暗い廊下を歩き出した……。



2.朱炎(しゅえん)慟哭(どうこく)


≪富士と英雄≫

 南の防壁が崩れ、黒煙が上がった。

 日本人町の北を守る竹柵の裂け目から、猛然とカラホム軍の先遣、近衛隊(このえたい)雪崩(なだ)れ込んでくる。   

 長政の屋敷の重い門が開いたのは、その直後だった。
 
 長政が姿を現した。
 
 朱塗りの大鎧(おおよろい)(まと)っているが、その足取りはおぼつかない。

 重松と河村の肩を借り、右足を引き摺るようにして一歩ずつ踏み出すのが精一杯だった。

 河村が膝をついて長政の左の具足を抱え上げ、ようやく愛馬「富士」の背へとその身を押し上げた。

 「富士」は、長政の故郷、駿河の灰土を宿す脚と、富士の冠雪の白背を誇る葦毛(あし)の牡馬だ。

 主人の身を焦がす高熱を背に感じたのか、富士は硬い地面を蹄で叩き短く嘶いた。

「長政様、なりませぬ。今出ればお命が……!」

 駆け寄ったレックが、富士の(くつわ)に手をかけるが、長政はそれを采配(さいはい)の一振りで払いのけた。

「……案ずるな、軍師。拙者は、まだ、山田長政である!」

 (かぶと)の奥に沈んだ眼が、(やいば)のようにレックを貫いた。

 自らの最期を悟った男の、凄まじい執念(しゅうねん)がそこにあった。

「さあ、行くのだ、富士!」

 長政の一喝とともに、鞭が富士の後躯(こうく)を打った。

 白馬が矢の如く駆け出す。
 
 防壁の裂け目から侵入した敵軍の前に、炎を揺らす(あか)い影が差した。

「長政様、長政様だ! 我が頭領がお出ましだぞ!」

「今だ、押し返せ!」

 武器を手にした商人や町の若者たちが、その「朱塗りの大鎧」を目にした瞬間、喉を潰さんばかりの喚声を上げた。

 長政は馬上で日本刀を抜き、焦点の定まらぬ視界のまま、近づく敵を次々と斬り伏せていく。
 
 富士は主の意志を汲み取るように、突き出される槍の林をかいくぐり、敵陣の奥深くへと突き進んだ。

 だが、その勢いは長くは続かなかった。

 敵の一斉射撃の銃先(つつさき)が馬上の長政に向けられた。
 
 騒乱を裂き、火縄銃の乾いた破裂音が響き渡った。 
 
 ――パン、パパン!
 
 数発の鉛の弾が朱塗りの小札(こざね)を砕き、長政の身体を激しく揺さぶる。
 
 富士が前脚を高く上げ、天に向かって悲鳴のような(いなな)きを上げた。

 その直後、長政の六尺の姿態は翻筋斗(もんどり)を打って宙を舞い、土面へと叩きつけられた。

「長政様っ!」

 傍らで太刀を振るっていた重松の絶叫が空に消える。

 泥を撥ね上げ、地に落ちた朱色の鎧。

 英雄の首を狙い、色めき立ったカラホムの兵たちが我先にと殺到する。

 守護神の陥落を目の当たりにした日本人たちは、信じがたいものを見たかのように絶望に包まれた。

 レックは硝煙(しょうえん)が渦巻く中、長政の(もと)へと全力で走った。

 背後を抜ける矢の風切り音も、傍で土を噴き上げる砲弾の震動も、今の彼には届かない。

 たどり着いた泥土の中に、長政は横たわっていた。
 
 顔の半分が黒土に汚れ、首元からは絶え間なく鮮血が溢れ出している。

 長政は、震える手でレックの襟元を掴み寄せた。

 喉の奥から絞り出すような声が、レックの耳を打つ。

「……奴らに見せろ。……拙者、山田長政は、まだ、死んでいないと……」

 指から力が抜け、長政の瞳から光が失われていく。
 
 背後からは、手柄を確信した敵兵の足音が、一歩、また一歩と迫っていた。
 
 レックは震える手で、主の血で生温かく濡れた、鎧の紐へと指を掛けた。


≪鎧の継承≫
 
 勢いに乗ってカラホムの軍勢が、象牙の()短剣(ダープ)を振りかざして迫ってきた。

 近衛兵たちは黒漆(くろうるし)に金箔を貼った長盾を構え、中央には三つ首の蛇の精霊(ナーガ)(がら)がうねっている。
 
 レックは膝をつき、横たわる長政の体に手をかけた。

 朱塗りの小札には、まだ熱い赤黒い血が粘りついている。

 背後で風を切る音がし、矢が一本、傍らに突き刺さった。

「軍師殿、急がれよ!」

 重松が数人の手下とともに円陣を組み、必死に敵の先鋒を食い止めている。

 だが、それも長くは持たない。

 敵兵の野太い叫び声は、すぐそこまで迫っていた。

 レックは震える指で、大鎧の紐に指をかけた。

 長政の血を吸った組紐は、焦れば焦るほど結び目が固く締まり、容易には解けない。

 レックは腰の短刀を引き抜くと革紐を力任せに断ち切った。

 引き剥がした胸当ての裏側から、鉄錆と混じり合った生々しい血臭が立ち昇る。

 鎧を纏うべく、レックは邪魔な上着を剥ぎ取った。

 その拍子に、懐から小さな「鈴」がこぼれ落ち、赤く染まった水溜まりへ沈んだ。
 
 有希(ゆき)との形見――この世界で唯一、自分が何者であるかを繋ぎ止めてきた拠り所、キティの鈴をつけたキーホルダーだ。

 レックはそれを片手に掴み取ると、朱の鎧の腰紐にねじ込み祈るように固く結びつけた。

 肌に直接、生暖かい鎧の重みがのしかかる。

「レック殿、何をしておる! 敵が押し寄せてくるぞ!」

 重松が返り血を浴びながら叫ぶ。

 レックは転がる兜を掴み、深く被った。

 面頬(めんぽお)を締めた瞬間、視界は朱に染まり、町が火の海へと変わった。

 立ち上がったレックの正面に、一人のシャム兵が躍り出た。
 
 手柄を確信し、短剣を振り上げた兵の動きが唐突に止まった。

 血みどろの中から、討ち取ったはずの「長政」が再び立ち上がったのだ。

 レックは足元に転がる長政の刀を拾い上げ、一気に振り下ろした。

 重い刀身が、易々と敵兵を切り裂いた。

 その時、自分でも聞いたことのない怒号がほとばしった。

「山田長政、ここにあり! 命の惜しくない奴は前に出ろ!」

 その一喝に敵軍が凍りついた。

 呼応するように、倒れていた富士が後肢を蹴って跳ね起きる。

 レックは白馬の鬣を掴み、その背へと飛び乗った。

 富士が荒々しく嘶き、戦場を駆けだす。

 その激しい振動に合わせ、腰の鈴がひび割れた音を立てて震え続けていた。

 一度は壊れたはずのその音色が、今は修羅の道を行く男の、唯一の伴奏のように聞こえていた。


紅蓮(ぐれん)道標(みちしるべ)
 
 富士の背で刀を掲げるレックの目に、南の避難路を塞ぐ巨大な壁が映った。
 
 カラホム軍の切り札、戦象部隊(せんぞうぶたい)である。
 
 町家や上屋を薙倒(なぎたお)しながら進む象の群れは、その先にある、ハナたちの養生所へと迫っていた。
 
 養生所では、凄まじい振動に薬瓶を鳴らしながらも、ハナが負傷者の処置を続けていた。

「ハナ様、早く逃げねば象に踏み潰されます!」

 誰かが叫んだ。

 しかし、ハナは凛とした声で遮る。

「いいえ、レック様が……長政様が、あそこで今、戦っておられます。影となって、この町を守るために。私が先に逃げるわけにはいきません!」

 ハナの細い肩は、レックが“長政の影”として立つ覚悟を、誰よりも強く感じ取っていた。
 
 その頃、レックは敵の軍勢に阻まれ、ハナたちへ近づけずにいた。

「そこを退()け! 退()かぬ奴は叩き斬る!」

 レックの怒声に呼応し、重松蔵人が左右を固め、河村権兵衛率いる騎馬武士たちが風となって敵陣を切り裂く。

「長政様に続け! 臆した者からあの世行きぞ!」

 河村の叫びとともに、馬蹄が泥を跳ね上げ、カラホムの兵たちを蹴散らしていく。

 だが、戦象の巨躯を前に、騎馬隊の進撃も限界を迎えつつあった。
 
 歯を食いしばるレックの耳に、激しい騒乱を突いて、重い車輪の軋む音が聞こえた。

 お滝だった。

 伊三郎の形見の具足を無理やり纏い、南蛮(なんばん)火薬の樽を山積みにした荷車を引いて、彼女は戦象の足元へと突き進んでいた。

「軍師殿! そのまま前だけ見てな!」

 その叫びが、火炎に拒まれ足掻くレックの耳に響いた。

 お滝の燃えたぎる眼光は、赤い鎧の中身が誰であるかをとうに察していた。

 彼女は、影武者となったレックを死なせぬ道を選んだ。

「お滝さん、戻れ! 戻ってください!」
 
 レックの声は、喉を焼く火炎と、兵たちの怒号にかき消される。

 お滝は戦象の鼻先までたどり端に、迷いなく松明を樽へと突き入れた。

「ハナ、生きて、強い女になりなよ! ……軍師殿、娘を、この町を、頼んだよ!」

 刹那、白濁の閃光が夜の闇を塗りつぶした。
 
 ――ドーン! ドォーン!
 
 凄まじい爆炎が渦を巻き、戦象の断末魔を飲み込んでいく。

 崩れ落ちる巨躯、開かれた進路。

 その光の中に、お滝の姿はもうなかった。

 衝撃波で富士が大きくしなり、レックの体は激しく揺さぶられた。

 その時、視界が歪み、景色が白くかすんだ。

「なんだ、このめまい……」

 レックは頭を振り、“長政”の(とき)の声で押し潰した。

「進め! 道は開かれた!」

 富士が火の海を蹴り、お滝が命を賭して示した空白へと突っ込む。

 腰に結んだ鈴が、爆音の余韻の中で、ひび割れた高い音を立てて震え続けていた。

 その不協和音は、散っていった者たちの魂が、彼の背を激しく押しているかのようだった。
 
 朱炎の慟哭が、燃え崩れるアユタヤ日本人町の夜を容赦なく染めていった……。


 
3.(あかつき)残照(ざんしょう)


 お滝が命を賭して引き起こした、巨大な火柱。

 その紅蓮の幕を強引に切り裂き、朱色の鎧が躍り出た。

 白馬・富士の(いなな)きが、逃げ惑う兵たちの耳を(つんざ)く。

「長政だ……。朱い悪魔が、地獄の底から這い上がってきたぞ!」

 誰かの上げた悲鳴が、さざ波のように、瞬く間に敵陣の末端まで震えさせた。

 当時のアユタヤにおいて、戦場に這い出す亡霊や悪霊の類は、目に見える刀剣よりもはるかに生々しい「霊障」そのものとして信じられていた。

 レックは刀を振るわない。

 ただ、富士の背で刀尖(きっさき)を高く天に掲げ、面頬(めんぽう)の奥から「ウォーウォー」と妖気のような低い声を絞り出した。

 正面から敵軍の真っ只中へと突っ込む。

 それだけで、最前線の兵たちは腰を抜かし、踏み留まろうとする味方を突き飛ばして逃げ惑った。

 陣形は瓦解し、カラホムの軍勢は内側から崩れ、統制を失った散兵へと成り果てていく。

 レックは、矢傷と弾傷の激痛で白く(かす)む眼で、敵の配置を視界に焼き付けていく。

「蔵人殿! 前方、敵の右、あの旗が動いている場所を叩け! 権兵衛殿は左へ! 敵の動きを止め、町民の避難の道を(ふせ)がせないことだけを考えよ!」

 その淀みのない差配は、周囲の者たちに、もはや妖魔と化した、長政の執念を見せつけていた。

 本陣でこの光景を見ていたカラホムは、屈辱(くつじょく)に震え、椅子の肘掛けを握り潰さんばかりだった。

「……理解できぬ。拙僧の謀算(はかりごと)を亡霊となってまで狂わすというのか!」

 彼は苛立ちをぶつけるように、明国の商人から献上された高価な茶器を床に叩きつけた。

「構わぬ、町を焼き尽くせ。日本人どもを一人も残さず、灰にするのだ。犠牲は厭わぬ……」

 カラホムは感情を殺した声で命じると、何事もなかったかのように、ゆったりとした歩調で王宮の奥へと消えていった。

 ハナたちがいる養生所を死守するため、レックは執拗に敵の注意を引きつけ続けた。

 だが、養生所のすぐ手前まで辿り着いたその時、一筋の鋭い風切り音が空を裂いた。

 ――ガツッ。

 戦の華々しさなど、どこにもなかった。
 
 混迷を極める乱戦の中、誰が放ったかもわからぬ一本の迷い矢が、朱塗りの鎧の中央を、深く、深く貫いた。
  
 レックの視界が、急激に白く濁り始める。
 
 富士の(たてがみ)を掴む指から力が失せ、世界が霧のかかったような(もや)の向こう側へと吸い込まれていく。
 
 富士は主人の異変を悟ったように、悲痛な嘶きを上げながら養生所の敷地へと駆け込んだ。

 レックは馬の背から滑り落ち、硬い土の上に崩れ落ちた。

 異変を察して駆け寄ったハナが、朱に染まったレックの背中を見て絶叫した。

「レック様! しっかりしてください、今すぐ手当てを、誰か!」

 彼女の手が、震えながら鎧の紐にかけられる。

 レックの呼吸は浅く、掠れていた。

 口の端から溢れる血が、土に吸い込まれていく。

「……ハナ、さん……。もう、いいんだ……。僕を、これ以上……」

「何を、何を仰るのですか! 死なせない、私がお守りすると決めたのに!」

 面頬を外したレックの顔は、死人のように青白い。

 だが、その瞳だけは、夕凪のような穏やかさでハナを見つめていた。

 彼は傷だらけの手を震わせ、腰に結びつけた「鈴」へと指を這わせた。

 血がこびりつき、戦火の煤を被りながらも、その鈴は決して砕けることなく、そこに在った。

 レックは、ハナの小さな掌を借りるように、その小さな金属を押し当てた。

 キーホルダーの金具が、微かに彼女の肌を弾く。

「未来のこと……もっと、たくさん……君に……伝えたかった……。もっと……一緒に……」

 震えるレックの指先から、熱が失われていく。

 ハナの涙が、煤と泥にまみれたレックの頬に、幾つも零れ落ちた。

「伝えてください、レック様! 未来の話を……お滝さんと、三人で……!」

 レックは、掠れた笑みを微かに浮かべた。
 
 もはや言葉は形にならなかった。
 
 レックはゆっくりと目を閉じた。
 
 かつて有希を喪ったあの日、自分はただ震えながら見送るしかなかった。
 
 四百年を越えてもなお、あの瞬間(とき)の無力さに立ちすくんでいた。

 だが今、(まぶた)の裏に浮かぶのは有希の幻影ではない。

 十七世紀のアユタヤで共に命を懸けて戦った――「ハナ」という一人の女性だ。

 有希が「生きて」と託したこの鈴を、今、彼は自分の手でハナへ託した。

 それは過去の呪縛を解き、目の前の彼女を選び取った、彼なりの終着点だった。

「……ハナ、さん……」

 最期に消え入るように、その名だけを呼んだ。

 ハナは、掌の鈴を祈るように胸にあてた。

 この鈴が鳴るたびに、彼女は思い出すだろう。

 次元の裂け目に落ち込んだ一人の青年が、愛し、守り抜いたのは、この時代を共に駆け抜けた自分だったということを。

 愛する人の温もりに包まれながら、レックは静かな闇へと溶けていった。

 昇り始めた朝の光がチャオプラヤ河の水面を眩しく照らし始めた……。

『サヤームの鈴 ―日本人義勇隊の軍師になった男―』

『サヤームの鈴 ―日本人義勇隊の軍師になった男―』

“歴史は変えられない。だが、想いは時を越えて響く――” バンコクで挫折を抱えるドキュメンタリー作家レックは、アユタヤの日本人町跡で一通の古びた恋文に触れた瞬間、17世紀サヤームへと時を逆行する。そこは敗残兵が築いた日本人義勇隊が王朝の権力争いに巻き込まれる激動の時代。彼を救ったのは、亡き恋人に瓜二つの娘ハナだった。だが彼女の心は、異国に名を馳せる武士・山田長政に捧げられていた。現代の知識を武器に、レックは長政の軍師として戦場に立ち、日本とタイの交易や町の繁栄を支える。しかし陰謀と裏切りは日本人町を襲い、長政も毒矢に倒れる。歴史の濁流の中、レックは「影武者」として長政の名を継ぎ、愛するハナを守るため命を懸ける。未来へ帰ることも歴史を変えることもできない――それでも彼は「生きてくれ」と鈴に願いを託す。やがて現代のアユタヤ資料館で目を覚ました彼の掌には、確かにその鈴の感触が残っていた。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-04-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一章 アユタヤの町娘
  2. 第二章 八百万の神のいない国
  3. 第三章 丁稚奉公のレック
  4. 第四章 英雄からの招待状
  5. 第五章 ふたつの太陽
  6. 第六章 すれ違う鈴
  7. 第七章 かんざしと旗印
  8. 第八章 迫り来る黒雲
  9. 第九章 アユタヤ燃ゆ、前夜
  10. 第十章 不落のアユタヤ象防柵
  11. 第十一章 英雄の落日