死女と馬


 道子とミドリ丸の間にどれほど深い感情の交流があったのか、部外者には想像も及ばないだろう。
 道子は嫁入り前の若い娘、ミドリ丸は彼女の馬で、ただの馬ではなく、とにかくデカいというのが、目にした者が抱く印象だった。
 ミドリ丸の肩は、どんな長身の男よりも高い位置にあり、腹の下には子供が何人も並んで立つことができた。
 だがおとなしい性格で、暇な日には近所の子供を乗せ、ぽっくりぽっくりと村を一回りした。ミドリ丸の姿を見ると、子供らはすぐに群がった。
 しかしその平和も、いつまでも続くわけではない。戦争が始まったのだ。
 日本国内は戦争一色になり、この村も例外ではなかった。
 一頭でも多くの軍馬を必要とした陸軍が、ミドリ丸に目をつけたのだ。
 軍人が家を訪れ、薄っぺらい命令書と形ばかりの代金を引き換えに、ミドリ丸を連れ去ってしまった。
 この日、道子は留守をしており、年老いた母親一人では軍人に抵抗できなかったのだ。
 帰宅した道子は話を聞き、文字通り怒り狂った。学校へ行くよりも、馬と一緒に暮らすことを選んだような娘なのだ。
 そのまま家から駆け出し、道子は町へと向かった。
 道子がどうやって軍の基地に侵入したのかは誰も知らない。
 暗闇にまぎれ、塀を乗り越えたのだろう。身軽な娘ではあった。
 だが塀を乗り越えても、馬小屋がいくつも並んでいるのでは、道子も頭を悩ませたに違いない。
 しかしついに居場所を見つけ出したのだ。扉を開け、道子はミドリ丸を連れ出そうとした。
 だがそれは、土台無理な試みだった。
 あれほど大きな馬が目につかないはずはない。2分もたたないうちに誰何されていた。
「お前、何をしている?」
 と問われたが、もちろん正直に答えるわけがない。
 相手の顔めがけて砂を投げつけ、道子はとっさにミドリ丸にまたがるしかなかった。
 手綱のついていない馬など、とても乗れたものではない。だが道子はミドリ丸を全力で駆けさせたのだ。
 兵は叫び声をあげ、不審者の侵入を知らせた。
 ほとんどが床についていたが、部隊の全員が起き出し、武器をたずさえて集合するには5分とかからなかった。
 カチャカチャと銃の鳴る音、
「何が起こったんだ?」
 という話し声、黒いブーツの響きが敷地を満たした。
 すぐさま正門が閉じられ、道子とミドリ丸は敷地内に閉じ込められてしまった。
「てーっ」
 指揮官は気の短い男で、すぐさま一斉射撃を命じたのだ。
 何十発もの銃声が、道子たちのあとを追った。道子を乗せたまま、ミドリ丸は駆け続けた。
 道子は優れた乗り手であり、ミドリ丸も彼女の癖をよく知っていた。
 植え込みや駐車中の自動車、固まっている兵たちを軽々と飛び越える様子は、翼が生えているとしか思えないほどだった。
 だがそれを狙って、兵たちは引き金を引き続ける。
「撃て撃て!」
 ミドリ丸は疲れ知らずだ。
 しかし相手は銃弾。永久に逃げ続けることはできない。弾丸は雨あられと降り注ぐ。
 兵たちが気づき、指揮官に向かって声を上げた。
「隊長殿、あの娘はすでに死んでおります」
 道子の首はガクンと折れ、ほどけた髪が長く垂れ下がっている。
 だが道子は落馬しなかった。腕を長くまわし、ミドリ丸の首に固くしがみついていたのだ。
 ミドリ丸ももちろん銃弾を受けた。
 すでに10発を越え、だがまったく力を失わずに走り続けた。
 それが方向を変え、突然兵たちへと向かったのだ。
 こうなると、兵たちも冷静に狙いを定めることができない。
 巨大な胸に突き飛ばされ、のしかかられ、一瞬で何人もが命を落とすことになった。
 暗闇に悲鳴が聞こえ、ひづめが地面を踏む音が続いた。
 倉庫に蓄えられた燃料油が流れ弾を受け、引火するのは簡単なことだった。
 炎は空高くオレンジ色に燃え上がり、乾いた西風がその勢いを増し、それが弾薬庫に回るのにも時間は要しなかった。
 えっ、あんなところに陸軍基地があったなど知らない? 聞いたこともないって?
 それはそうさ。今ではただの湖だからね。

死女と馬

死女と馬

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-03-30

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