『ドリアン山の最後の二等兵』~桃色の寺の菩提樹の下で

『ドリアン山の最後の二等兵』~桃色の寺の菩提樹の下で

第一章 火炎樹と赤土

第一章 火炎樹と赤土

 タイの雨季のスコールは、まるで空そのものが崩れ落ちてくるかのようだった。

 二等兵・相沢義信は、ぬかるみに足を取られながら山道を登っていた。

 軍靴の底はすでにすり減り、踏み込むたびに赤土が滑る。

 背嚢は軽い―軽すぎた。

 中には湿った握り飯の一塊と、空になった弾倉が一つ入っているだけだった。
 
 大日本帝国陸軍の南方軍部隊は壊滅した……
 
 夜明け前の空襲―炸裂する爆音。

 燃え上がる椰子の林。

 逃げ惑う兵士たち。

 そして――気がつけば、相沢は一人だった。

「ナコンナーヨック兵站地へ集結せよ!」

 中村軍曹の声が、まだ耳の奥に残っている。

 命令は簡単だ。

 生き延びて、そこへ辿り着け。

 それだけだった。

 だが、どこが東で、どこが西なのかさえ、もう分からない。
 
 前方の真っ赤に咲き誇った、火炎樹の森が揺れる。

 相沢はとっさに小銃を構える。

「……相沢か」

 現れたのは中村軍曹だった。

 顔は土と血で汚れ、左腕には包帯代わりの布が巻かれている。

 だが、その目はまだ死んでいなかった。

「他の者は何処でありますか!」
 
 相沢は問いかけたが、軍曹は答えなかった。

 ただ首を横に振る―しばらく無言で歩いた。

 湿った風が、腐った果物のような匂いを運んでくる。

 やがて、若い兵士が木の根元に座り込んでいるのが見えた。

 西田だった。

 銃を抱えたまま、虚ろな目で空を見ている。

「もう……日本には帰れませんよね」

 誰にともなく呟く声は、ひどく乾いていた。

「連合国の奴らに捕まったらどうなるんですか」

 中村軍曹は答えない―その沈黙がすべてだった。

 西田はふらりと立ち上がり、拳銃を取り出した。

「やめろ!」

 相沢が叫んだ瞬間、乾いた音がジャングルに響いた。

 名も知らない白い小さな鳥が一斉に飛び立つ。

 西田は、ゆっくりと前に倒れた。

 相沢はその場に立ち尽くした。

 戦争とは、敵に撃たれて死ぬものだと思っていた。

 だが今、目の前で死んだのは敵ではない。

 恐怖だった。土を掘った。素手で。

 爪の間に赤土が入り込み、血がにじんだ。それでも掘り続けた。

 埋め終えた頃には、夕暮れが迫っていた。遠くの山肌に、不思議な線が見えた。

 まるで誰かがジャングルを切り裂いたような、真っ直ぐな道。

「……あれは」

 中村軍曹が低く言う。

「日本街道(ถนนญี่ปุ่น)だ」

 相沢は、その言葉の意味をまだ知らなかった……。

(つづく)

第二章 白骨の日本街道

第二章 白骨の日本街道

「日本街道-ถนนญี่ปุ่น-だ」

 中村軍曹はそれだけ言って、先に歩き出した。

 道へ近づくにつれ、空気の匂いが変わった。

 腐葉土の甘い湿気に混じって、どこか焼けたような、古い汗のような匂いが漂ってくる。

 赤土は踏み固められ、丸太が横に渡されている。

 所々に石が積まれ、崩れかけた側溝の跡も見えた。軍用の道路だと、相沢にもすぐ分かった。

「ここを通れば兵站地に出られるんですか?」

 問いかけると、軍曹は小さく首を振った。

「もう使われていない。前に進出した時、現地の村人を集めて作らせた道だ、今では白骨街道だがな」

 その声には、疲労よりも重い何かが滲んでいた。

 相沢は足元を見た。赤土の間から、半分白骨化した人骨や、錆びた空薬莢が顔を出している。

 相沢が空の薬莢を拾い上げると、手の中で冷たく光った。

 誰かがここで撃ち、誰かがここで倒れたのだ。
 
 ふと、風が吹いた。
 
 鬱蒼としたジャングルの奥から、低い呻き声のようなものが聞こえた気がした。

 相沢は思わず振り返る。だが、そこには闇しかない。

「……聞こえましたか?」

「何も聞こえん」

 軍曹はそう言ったが、その歩調は少し早くなっていた。

 道は緩やかに山を巻いて続いている。

 両脇には切り倒されたまま朽ちかけた巨木が横たわり、白く乾いた幹が月明かりを反射していた。

 まるで骨の列のようだった。
 
 相沢の腹が鳴る。
 
 昼から何も食べていない。

 背嚢の中の握り飯はすでに腐りかけているだろう。

 だが、それでも食べるしかない。
 
 口に運んだ瞬間、酸っぱい匂いが鼻に抜けた。

 吐き気をこらえながら噛み砕く。
 
 その時だった。
 
 遠くに、かすかな灯が見えた。
 
 相沢は立ち止まる。
 
 闇の中に、橙色の点がいくつも揺れている―焚き火だ。

 人の気配だ。

「村かもしれん…」

 中村軍曹が呟いた。

 相沢の胸が高鳴る。

 食べ物。水。屋根。

 生き延びるためのすべてが、あそこにあるかもしれない。

 だが同時に、別の感情が喉元まで込み上げてきた。

 西田の白い顔。銃声。熱い赤土。

 ――俺は、生きるためなら何でもするのか。

 風に乗って、強烈な匂いが流れてきた。

 腐った果物のようで、どこか甘い。

「……ドリアンだ」

 軍曹が言う。

 灯はゆっくりと近づいてくる。

 いや、こちらが近づいているのだ。

 やがて木々の隙間から、高床の家と、裸足の子供の影が見えた。

 その瞬間、犬の激しい吠え声が夜を裂いた。

(つづく)

第三章 沈黙の村

第三章 沈黙の村

 犬の吠え声は、まるで甲高い銃声のように鋭く夜を裂いた。

 灯が一斉に揺れる。

 子供の影が走り去り、家々の木戸がばたばたと閉まる音がした。

 相沢は思わず立ち止まった。

 目の前にあるのは確かに「村」だった。

 だが、そこには歓迎の気配など微塵もない。むしろ、見えない壁のようなものが張り巡らされているように感じられた。

 中村軍曹が低く言う。

「銃は下げろ。撃つな!」

 相沢は小銃を握り直したまま、ゆっくりと歩を進めた。

 高床の家の下には、干された野菜や籠がぶら下がり、赤土の地面には家畜の糞が乾いて白くなっている。

 どこからともなく、あの強烈な甘く腐ったような匂いが漂ってくる。
 
 ―ドリアンだ。
 
 腹がまた鳴った。

 視界の端が暗く揺れる。空腹は、もはや痛みではなく、思考そのものを削り取っていく。

 その時だった。

 ぎしり、と木の軋む音がして、一軒の家の階段の上に人影が現れた。

 細い腕。長い髪。月明かりに照らされた顔はまだ幼い。

 若い女性だったー彼女は相沢たちをじっと見つめている。

 恐れているのか、怒っているのか、それともただ観察しているのか分からない、静かな目だった。

 やがて彼女は高床の踊り場から木の階段をゆっくりと降りてきた。

 犬はなおも吠え続けている。どこかの家の奥で、老人の咳き込む声がした。

 若い女は相沢の前で止まると、手に持ってきた竹の水筒を取り出した。

 無言で差し出す。言葉はない。

 相沢は戸惑った。 

 受け取っていいのか。

 罠ではないのか―そんな考えが頭をよぎる。

 だが喉は砂のように乾ききっていた。
 
 震える手で水筒を掴み、一気に飲む。
 
 ぬるい水が体の奥へ落ちていく―涙が出そうになった。
 
 顔を上げた時、彼女はまだそこにいた。

 その背後の闇の中に、いくつもの目が光っているのに気づく。

 村人たちだ。誰も近づいては来ない。ただ遠巻きに見ている。

 中村軍曹が小さく呟く。

「……覚えているんだ」

 何を、と聞き返そうとした瞬間、相沢の視線が家の褪せた木柱に止まった。

 古びた傷跡が刻まれている。刃物で削ったような跡だ。

 日本語だった。

 ――昭和十八年 陸軍第三工兵隊

 相沢の背筋に冷たいものが走る。

 ここは、ただの村ではない。

 ここは当時、徹底抗戦を試みた日本兵たちが物資や武器輸送のために、村人たちを強制的に酷使して作らせた街道だった。

「日本街道」……村人たちは皮肉を込めてそう呼んでいた。

 その時、再び腹が鳴った。強く。恥ずかしいほどに。

 相沢の視線は、彼女の背後に吊るされた籠へと吸い寄せられる。

 中には白い米と、まだ生きている鶏がいた。

 喉の奥で何かが軋む。

 ――生きるためなら。

 その考えが、静かに形を取り始めていた。

(つづく)

『ドリアン山の最後の二等兵』~桃色の寺の菩提樹の下で

『ドリアン山の最後の二等兵』~桃色の寺の菩提樹の下で

「命令だ。お前はここに残れ――」 一九四五年、終戦間近のタイ。敗走する二等兵・相沢義信は、かつて日本軍が現地民を徴用して建設した「日本街道」の傍らで、剥き出しの憎悪と飢餓に直面していた。 生き延びるために盗みを働き、殺生を犯す相沢。しかし、彼を見つめる一人の村の娘の瞳にあったのは、断罪ではなく底知れぬ「慈悲」だった。共に逃げ延びた中村軍曹は、かつて道を作った際に犯した殺人を相沢に打ち明け、桃色の寺院で自らの命を絶つ。 一人残された相沢に下された、軍曹の最期の命令。それは「僧となってこの地に留まること」だった。 名前を捨て、橙色の僧衣に身を包んだ相沢は、かつて略奪した村から托鉢で米を恵まれ、言葉を失ったまま五十年の歳月を石段の掃除に捧げる。なぜ彼は帰国せず、タイの山奥で掃き清め続けたのか。

  • 小説
  • 掌編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-03-30

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Copyrighted
  1. 第一章 火炎樹と赤土
  2. 第二章 白骨の日本街道
  3. 第三章 沈黙の村