死にゆく女


 あの女が僕の診療所を訪ねてきたのは、12月の寒い夕暮れのこと。
 ひどくやせて青ざめ、歩くのもつらそうに見えた。
 いろいろ検査をして一週間後、結果を聞きに彼女は再び姿を見せた。
 どういう女なのか、不治の病におかされていると告げても顔色一つ変えず、あと数週間の命だと教えても眉一つ動かさないんだ。
 青白い顔でにっこりと微笑み、彼女はこう言ったのさ。
「先生のお人柄を見込んで、お願いしたいことがあります。長い話になるかもしれませんが、かまいませんか?」
「いいですよ」
 僕の診療所はいつも暇だからね。彼女は続けた。
「先生は、斉藤睦夫という名を聞いたことはありますか?」
「ええ、知ってます」
 斎藤睦夫とは10年ばかり前、日本中の話題を独占した男だ。
 まず、ある銀行で事件が起こった。
 強盗が白昼堂々と押し入り、行員を射殺し、現金を奪って逃走したのだね。
 すぐに非常線が張られたが、犯人はあっという間に姿を消し、影もなかった。
 手がかりもとぼしく、このまま迷宮入りかと思われたが、ひょんなことから容疑者が逮捕された。
 それが斉藤睦夫なんだ。
 奪われた紙幣の番号を銀行が記録していてね。
 おりしも斉藤は自動車を購入しようとしており、その支払いに使われた中に、一致する番号のものが含まれていたんだ。
 だが斉藤は犯行を認めなかった。
「自分は何も知らない。番号の一致する紙幣は、真犯人が市内で使用したものが偶然まぎれ込んだのに過ぎない」
 と主張したのだ。
 だが検察官は反論した。
 どこかの大学教授を連れてきて、奪った紙幣を強盗がすべて市中で使用したとしても、それが斉藤の所持金の中に複数混じる確率はゼロに等しい、と証明させたのだ。これが有罪の決定打になった。
「私は斉藤睦夫の姉なのです」
 と女は言い出したのさ。
「でも斉藤は先日、死刑になったのではありませんか?」
 彼女はうなずいた。
「10年にも及ぶ長い裁判でした。私は仇を討たなくてはなりません」
「どういうことです?」
「先日、私はドイツへ手紙を出しました。そして好ましい返事が届くと判明したのです。だけど私には、もうそれを受け取る時間がないのですね……」
「どういう返事なのですか?」
「ドイツへの公式な出入国記録です。銀行強盗が行われた日、弟はドイツにいたのですから」
「えっ」
「弟は語学が得意でした。それを買われ、商談のためにドイツへおもむいていたのです」
「その書類を、なぜもっと早く用意しなかったのですか? 冤罪を晴らすことができたでしょうに」
「戦争のせいですよ。第二次世界大戦が終わるまでは、ドイツとは連絡を取ることができませんでした」
「なるほど……」
「弟のアリバイを証明する書類が、数週間のうちに私の元へ届くでしょう。だけど先生のお見立てでは、私がその日まで生きながらえるのは難しい……」
「……」
「お願いがあります。私の死後、郵便物は先生の元へ転送されるよう手続きをしておきます。それを受け取ったら、しかるべきところに提出し、すべてを明らかにしてくださいますか?」
 そんな申し出を、どうして拒むことができるね?
 だからこれをごらんよ。今朝届いたばかりだ。
 もちろん封を切ったさ。
 医者のはしくれだから、僕だってドイツ語は読める。友人が記者をしているから、今から新聞社へ行こうと思う。
 なんだか気が重いよ。もし興味があれば、明日の朝刊を注意して見てくれよ。

死にゆく女

死にゆく女

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-03-29

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