女を"海"とよばないで
人間の生き方には何か一つの純潔と貞節の念が大切なものだ。とりわけ私のようにぐうたらな落伍者の悲しさが影身にまで泌みつくようになってしまうと、何か一つの純潔とその貞節を守らずには生きていられなくなるものだ。
──坂口安吾『いずこへ』
1
わたしのゆびさきはスマートフォンの冷然硬質な硝子面を介し、うす燈のようにめざめるわたしの意識にしたがって、SNSという、鮮明なる表面をさらしながらもくぐもる泡を立てる海のなかをかきまわすように揺らめき、あたかもあてもなく彷徨っていたのだった。
色とりどりの欲求をあっけらかんと、あるいは周到に秘められて照りかえす画像の一群はスクロールされる度尾をひるがえすようにして上方へのぼり、まるで銀の鱗の魚たちが泳ぐように過ぎてゆく、そうして、なかばもうろうとした意識で前後にしならせていたわたしのゆびさきをふと静止させたのはかのひと、というのはかの憧れ。いわゆる、わが、推し。
わたしの推しは、嘗ては、AV女優ではなかった。
色の黒い数人の男性に囲まれてピースサインをする水原藍(現芸名は別)は露出の過度な下着姿、きんと硬質な音を散らすように陶器めいた肌を、不特定多数の閲覧者等に惜しげもなくさらしていたのだった。
この肌の質感に対するわたしの印象は、けっしてスマートフォンの硝子ごしにみているがゆえの想像だけのものではない、というのも、このきついほどにまっしろな光を反射するある種硬い腰を、わたしは一度だけ抱いたことがあるのだから。
水原藍は十八歳まで、いわゆる地下アイドルとして活動していたのだった。
わたしは彼女のライブに通い、一度チェキを撮ってもらったときはハグまでしてもらったというのが先程の不穏きわまる伏線のはやすぎる回収である。
デビュー当初は十六歳、わたしは彼女と同学年であり、同性であり、さながらに太陽を愛するように水原を崇拝し、月へ憧れるように水原的な生き方──彼女いわく、”少女的な理想を守りつづける生き方”──に身をなげうってみたいと悲願した。
わたしのこつぜんと止まったゆびに反し、わたしの脳裏にはさまざまな追懐、想い、情愛、そして、「どうして?」という疑問と、どことなく憐れげな憎しみが駆け巡る。
転身直後のショックと比較して、わたしはそれほどに推しがポルノに出演していることに拒絶反応はない──と、想っている。
唯一の問題は、貞節のそれである。
彼女は、「結婚するまでセックスをしない」という透明にしてひりつくように神経的で少女性的な戒律をファンに公言し、わたしはその言葉を、そのままに信じていたのだった、水原の決意を信じ、尊敬し、そして愛そうとしたのだった。
わたしはそれを模倣しようとしていたのだけれども、十八になって水原がAV女優に転身したとき、わたしは悲しみに暮れ手のひらで顔を覆うような気持のままにアプローチしてきていた男と交際し、「かれがほんとうにわたしを大切にしてくれているのか」の判断を迷っているままに、かれの希むまま処女をうしなわせたのだった。
水原藍が少女特有の毀れやすいモラルを破り、それでも尚メディアにわが身を露出させていること、これに対する疑問と憎しみと、そしてそれでも残り火花の撥ねるような愛おしい気持、くわえてかつての崇拝の気持が堕落して残ったそれのいりまじったような複雑な感情に、それでも尚しぶとく芸能の世界に身を置ける俗悪-美のような印象に対する印象、いわく、「低劣へ沈んで死ぬことを拒み、たとえ醜い姿に変容してもどうにか優越へ伸びようとする自尊心の無尽蔵性って、俗悪だけれども、そんなにまでして生き延びようとする命の姿が、命の野心そのものがぎらぎらときらめいてみえる」というような感覚が交ることを、わたしには避けることができない。
キッチュ。あたかも、人間の生きる姿そのもの。
彼女の、今日の書き込み。
私は今の道というか
生き方を自分で選んだのにさ、
部外者がガタガタ言って私のことおとしめて
私は私の人生を生きるから、
アンチもみんなお前らの人生を生きなよ
わたしのコメント。
藍ちゃんが選んだ道をわたしは応援するよ!
同性ファンとして、
藍ちゃんの生き方を規範としたいし、
今日の写真もお美しくて大好き!
藍ちゃんのこと、一生推すねー!
藍ちゃんがこれを読んだらどう感じるだろうか、喜んでくれるだろうか、もしかしたらこの書き方だと不快になっちゃうかも──そう悩みながらあれこれ文章の内容を吟味していると一時間が経ち、できあがった文章は無難のきわみ。
余計なことを書くよりはいいだろうと判断して、心臓の高鳴りを感じながら投稿した。
わたしはその後彼女からの「いいね」がないか数分に一回はそのSNSのアプリをひらいていたのだった、返信機能を使って彼女に話しかけたのは久方ぶりで──なぜって、無反応が何度も続いたら不安定になってしまうから──、忙しいから、いちいち一つ一つに反応できないからというのがあるのはわかっていても、わたしは推しから「いいね」が付かないという状況に不安を感じる体質、夜にアカウントの通知がついて飛びつくようにひらくと「いいね」ばかりか藍ちゃんからの返信まであり、わたしは文字通り部屋で小躍りした──水原藍がアイドル時代に所属していたグループの曲の振りつけ、『歓べ!』。
水原藍からの返信。
ありがとう涙
ただこれだけに過ぎないのに、わたしは水原藍がわたしのためにゆびをうごかしてくれたという事実が嬉しくてむせび泣き、そのときのゆびのうごきを想像して「ありがとう、藍ちゃん、美しい御指をわたしなんかのためにうごかしてくれてありがとう」と心揺り動かされる想い、もしその時彼女がその唇に綺麗な笑みをたたえてくれていたら──ああ、わたしはここまでは希んでいないけれども!
が、わたしのこんな喜びは絶えずそれとは異なる感情に、結ばれることと対立することのどちらか、或いは双方の意欲を秘めたそれ等に絞められ、頭突きされ、すくむような重さで抱かれてゆく。
やがては一条に吊り下がるような複雑怪奇な感情へ集約していったようなイメージがわたしの脳裏でされてゆく。
そういったうごきに促されてゆえであろうか、それまでの嬉し涙は何故かしらはじめとは異なる感情によって操られたそれへと変わっていく、感情が変容した状態でいつまにかに操縦者の代わったわたしの涙は、さながらに項垂れるようにして枕へと撒かれてゆく。
花であれと要求されつづける二十の女の躰が疲れ切り、以前はあった容れ物を喪って水のようなだらしなさでぐったりとしている、わたしはそんな自己イメージを想像しながら、ベッドにいつまでもいつまでも横たわり、枕を抱き締め泣いていたのだった。
*
その頃わたしは年上のバンドマンに遊ばれていて、都合のいいときに呼び出され煙草や酒を買いに行かされたり、相手の欲しいときに躰を差しだすことを強いられていたのだった、けれども実質わたしには、遊ばれているという感覚がそれ程にはなかったのだった。
というのは「かれに夢中で盲目になっていたから」というごくごく見られやすい簡単な感覚が理由ではない、そもそもわたしは、かれのことを特に好きではなかった。
容姿もかっこよくなかったしバンドも売れていず、やりたくもないアルバイトをやったりやらなかったりするような男、女性慣れじたいある程度くらいはしていたものの、かれの誘惑の言葉はわたしにはなんだか羞恥のような不快なくすぐったさのような感覚を与えるばかり、これまでの男のひと──といっても、二年足らずの話──と比較すれば、女のひとをどぎまぎさせるのが巧いというわけでもなかったように想う。
けれどもその際に、「こいつ、わたしのこと遊んでいるつもりなんだろうな」といううらがえしの軽蔑と冷笑の感情が生まれるのはわたしにはなんだか愉快であり、かれのような男に軽蔑されているという感覚はわたしに「軽蔑されていることを楽しむ気持」、いうなれば「うらがえしの虚栄心」のような感情を如何にも心地よいかたちでくすぐったのだった。
いわばかれの「わたしで遊んでいると想っている愚かさ」がわたしにとり玩具にすぎなかったのであり、いうなれば互いが互いを損なわせず愉快な気持を感じ合える、一種よい関係であったのだろう。その意味において、全くもって道徳的であったといってもよいと想われる(皮肉です)。
軽蔑と軽蔑。
尊厳をもっているはずの自己・他者の人格の利用と消費の綾織った、低劣な関係。
そうともいえそうだ。
わたしは、なぜ自分はこんなことをしているのだろうと、時々、自己をあざわらってもみる。なにかを補うために。
大切にされるべき人格の尊厳を剥がし、剥がされ、みずからの躰をすら玩具と化し、相手のことをも玩具とみて、道具のように扱う。
これまでにされたことと同じことをいつしかわたしだってするようになり、こんな関係性に身を置けるようになり、加害と被害の可逆性、両立性というものをすこしばかりは実感するようになっていた。他者を目的としてではなく、手段として利用するというモラルの欠如。遊びのやりとり。
こんなこと、子供の頃は絶対にやってはいけないと思っていた。自分がこんなことをするようになるとは思わなかった。
後ろめたい。わたしは、かつてのわたしに後ろめたい。
かれに対してだってなんだか申し訳ない気持があるのだ、かれのこんな生き方、ほして女性の観方・接し方に加担しているというわたしの行為は、やはりよくないのではないかというような気持もある。
いわばわたしはかれに遊ばれている自己を遊んでいたといっても間違いではないのかもしれない、わたしにはわたしのどこに自己の領域があるのかをみいだすことができなかったのだけれども、あるいは、かつての水原的な生き方への崇拝をさせるわたしの心の一領域が、ある種わたし自身であったのだろうか。
それは心の根にあったprimitiveなそれでもあったように感じる。そこが、ほんとうの「わたし」として機能することは果たして可能だろうか?
わたしは水原的な生き方、いいかえれば「少女的な生き方」に対する「憧れ」が「疑いと憎悪」に転じたアンチテーゼにも似た感情の存在を自分に感じていたのだった、まるでその重たい心をもてあましていたようなのだった。
わたしは破れかぶれだったし、もしや、男性や社会などではなく──それもあるだろうけれど──、特にわたしによって堕落ししてしまったと見做されているわたし自身へ復讐しているような気持で、こんなことをしているのだろうか。
うら若き頃にかぶれていたものから気持が離れたとき、しばしばひとはむしろそれに過剰な嫌悪をいだくようになる。ニーチェにとってのキリスト教。エミール・シオラン、ジョルジュ・バタイユにとってのニーチェ。
例は、枚挙にいとまがないであろう。
そうであるのにわたしは、水原藍によって改めてつよく刻まれたいまにも残る少女的な生き方への憧れ──わたしの考えでは、”他者を大切にし、性的なそれに限らず少女らしい貞節、多くは愛の問題の貞節を守り、つよくてやさしいひとへ向かう生き方”というのが少女的な生き方である──をもっているが、現在の水原藍の生き方にそれを発見することは難しい。
わたしのかってな憧れを投影されていたかの生は、翳のような幻影のような、芸能人のパブリックイメージとしてメッキの張られた虚構のそれであったに違いないのだろう。
わたしは水原藍がほんとうはどんなことを考えているのか、なにを思って過去・現在の芸能活動をしているのか、ほんとうはどんな性格なのか、果たしてアイドル時代と現在でどのくらい性格が変わったのか、なにひとつわからないはずであった。
けれどもわたしの理想を鏡のようにかってに投影された「水原藍」の美しさを信じようとする気持から、まだ、のがれられないのがわたし。
そして、そんなわたしに「まだ、わたしは少女すぎるのよ。大人になるには重たすぎるくらいに、少女性を背負っているんだわ」というようなかわゆらしさを感じさせ、それへの想いをくりかえすことによって、この性的に爛れた生活のなかで「純粋さ」をみずからに見つけようとするナルシスティックな心のうごきに邁進しているのが、いまのわたし。
かつて、わたしは内心で、静かにこう叫んでいたのだ。
わたしは「わたし」として生きる。
この文脈での「わたし」──されどわたしにはその「わたし」がほんとうにあるのか、それが何なのかも言語化できない、どれが「わたし」ではないわたしなのかもわからない。
Primitiveとfictinal、この双方のわたしを重ね合わせ、わたし自身の操縦者にしてみたい。それを、いつや「わたし」と呼びたい。
まるでわたしは「わたし」という概念の重みをもてあましていて、「わたし」とはべつのわたしとみなされた「わたしの心ではないわたしの躰」を男に遊ばせてもみたし、いったい恋愛によって人間はなにを悦ぶのかという主題を、「愛とはなにか」というほんとうにわたしにとって大切な主題を捨て切れないままに自分を実験台に置いて追及していて、時々くらいは愉しんでいたようにも推測されるのである。
この行為はまさに自分自身を道具のように利用するそれ、近代の倫理学でいうとおそらくやご法度、やはり、わたしは自己のことも他者のことも大切にできない人間になってしまっているのだろうか。
これまでの説明をまとめるならば、なにか「わたし」としての本心と離れた行為によってそのほかのわたしの領域を他者に利用させてみたかった、その最中のわたしのいたみの推移を自卑というかたちで注視してみたかった、そのなかで「わたし」を発見しようとしていた。
そういうことこそが当時のわたしのやりたいことであったのかもしれない。
そんな行為をさせている心はたしかにわたしのものではあるけれども、その操縦する心の側も、操縦される心の側だって「わたし」のそれではないようにおもわれていた。
「わたし」──それは破れかぶれに投げだされ傷を負った心がそれであるように思えるし、男へわたしがさらした躰、傷ついていく心へ冷めきった研究者の眼でまじまじと見つめていたわたしこそがそれであったようにも推測される。
「わたし」──いずこに?
*
中学生の頃、はじめて電車で痴漢されたとき、わたしがまず感じたのはふしぎに嫌悪ではなかったのだった、恐怖、それは後からやってきたものなのだった。
それでは、初めてわたしが感じたもの、それはなに?──それは疑問。
それは、一種の驚きをともなう疑問にほかならなかったのだ。
──どうして?
──どうして、あなたはそんなことができるの?
──どうして、わたしの人間としての尊厳や気持を侵し破壊しえる行為を、すこしでもわたしを大切にしようという気持とモラルがあればぜったいにしない行為を、自己に赦しえるの? たかが快楽。たかが快楽ではないのか。歓び。歓びの増加。たかが快楽の増加、そんなものの為に?
幾度も幾度もそれをされるたび、"わたしはこの程度の存在なのだ"という自虐的な感覚が、わたしのなにかを落ちこめていったような感覚がある。"わたしはこんなことをされるに値する、とるに足らない存在なのだ"という自己卑下の気持が、わたしがわたしを大切にする気持ちを壊し、沈めていったような感覚がある。
こんな視方はたしかに被害者意識的なそれが多く介入し、男性たちがそうしてしまうことへの事情に関する思慮はなく──ここまでの酷い男にはする気もなく──、わたしのやっている滑稽な遊びでかれと共犯する自己の罪を無にするものではあるまい。
わたしはだんだんに変わってゆく性格を意識し、水原的な純粋な感覚が穢れてゆくのをかなしみ、そんな自己を嘲ったり、卑下に泣く幾夜を過ごしたり、女なんかに生れたくなかった、性別のない、透明でやさしい観念に生れてみたかったという病める想いつきにとりつかれたような心が幾度も幾度もよぎるわたしを、意識する。その状態のわたしを発見しつづけ、いつだって確認してしまう。
けれども──聴いてくれませんか、わたしの叫びを。
苦しみの吐露を。
ひとつだけ。ひとつだけでいいのです。
先に暴力をふるったのは、あなたたちではないのか?
*
「葵、煙草買ってきてよ」
バンドマンの家。甘えたような言い方で、そう頼んでくる。
女は頼みごとをされるのが好き、そう男性作家が書いているのを読んだことがある。わたしからいわせればもちろんそうでない女性だって結構いるし、そもそもそういうタイプの女性だって、相手のことをどう思っているかによるだろう。
わたしは、すくなくともかれに頼みごとをされたって、嬉しくもなんともない。
わざとタールの量が多いものを購入してきた、反応を試したのだ。こんなことを、相手によっては平気でできるような人間に堕落しているのだ、わたしは。
予測。
男はきっとわたしのことを馬鹿だという。そういうところが可愛いとぞわりとするような甘い言葉をささやく。指をからめ、ドキドキさせようとし、わたしという二十の女の躰を繋ぎ留めようとする。そして、ベッドへ。
はい、とタール12の青いアメリカンスピリットを置くと、
「色違うじゃん、黄いろだよ。なんで間違えるの?」
「店員がこれ持ってきたから」
かれはふっと軽く笑っていたが、わたしの眼は唇の端のめくりあがったような表情を見逃すことはない。優越の笑みであった、支配欲の満たされた、高圧的な嘲笑であった。
わたしはその感情を向けられていることを逆転的によろこぶのだった、これはけっしてマゾヒズムなどではない、というのもその際のわたしの感情の正体とは、わたしのなかにある「うらがえった虚栄心」によってまるめ直すように軽蔑の小復讐をするという、暗い歓びがそれであったのだから。
自尊心は無尽蔵、これ、要検討。
向けられた軽蔑を見えない軽蔑でくるみなおし、内心だけで復讐するというこのやり方が珍しいものだとはわたしには想えない、それは社会において、弱い立場のひとが生きるのに必要な程度の自尊心を守るため、どうしてもしてしまうものでもあるような気がする。
たとえば男性優位の世界のなかで、女性というだけで弓のように飛んでくるさまざまな差別、女性としてのわたしたちを人間として大切にする気がない状態で向けられるさまざまな欲望、それらに対する復讐心の激情を脱力させ鎮めながら、どうにか自尊心を残しつづけるためには、この心のうごきしかないようにも感じるのである。あるだろうけれども、まだ、わたしには見つけられていない。
折に触れてそういう風に心をうごかしつづけてゆくと、心の根に、男性への不信と軽蔑心がわだかまってきた。まだ、まだ攻撃性としてはっきりとした形をもっていないそれらが。
外部からのさまざまな暴力にからみとられ、ある時は粘るように撥ね、ある時はやるせない気持でうけいれ、深く、深くそれらは沈殿しつづけていっているようにわたしはおもう。
こういった風刺的な気持に、当時わたしはまるで支配されていたのだった。ありとあるものを優越の立場から嘲ってやろうという、ニヒルをきどる若者のよくする生き方を、それの無駄と有害を「幾分くらいは知性と良識をもつわたしは知っている」と錯覚しながら、自覚的におなじことをやってのけようとしていたようにも感じる。
二十。
わたしは、二十歳だった。
女の二十というのは男性たちから恋愛対象として最も求められる年齢の一つであるといえるけれども、女が二十歳として生きていることでうまれうるこの抑圧、怒り、憂い、わが身が自然と放つ性の香りと折合をつけられないというこの戦慄にも似た不安、果して、これらをすら抱いて愛し大切にできる男が、いったいどこにいるのだろうか。
わたしはほんとうの意味で愛してみたい、愛されてみたいと悲願しているのだけれども、「それはどんな愛なのか」という問題にこたえを出すことはできないし、そのこたえが存在するともおもえない。
二十の女が愛のない恋愛ごっこをするのは危険というほかはなく、だが、交際のまえに「かれはわたしを愛してくれる」と寄りかかって期待することの愚かさだってややくらいは理解しているつもりだった。
そして、こんな悩みが「ろくでもない男としか関係をもったことのないわたしにも原因がある」という意見も、一蹴してはいけないだろう。
いずこに?
わたしには「わたし」という一領域がどこにあるのか、そしてそれがあるとしたら「わたし」はどこへゆくべきなのか、それすらもわからない。
「はあ」
とかれはやわらかげにためいきをつき、
「まあ、丁度ニコチン切れしてたし、いいよ」
外れ。なんだか気を遣ってくれた言い方。わたしがおもっているより、優しいところがあるのかな。
そして予想通りわたしに触れてきた、肩を抱いたのだった。はい、ほぼ正解。
わたしは肉体を許すたびに、心をおおう背骨を硬く引き締めているようなイメージをする、それがわたしの、精神を守護する精神の貞操帯。
わたしが「わたし」として守護しなければいけないと、それに疑いと虚無を感じながらも、切ない気持で守らざるをえない、こんな貞節。
仕事で不特定多数の男性と性行為をする女性が、キスをする度に感じる「無感覚の痛み」にむしろ安堵するという、かわゆらしい気持ち。わたし、共感するの。
水原藍もまたこれを守護しつづけているのなら、わたしは、彼女を信じる気持ちを信じつづけることができる。
ただ一つの貞節すらないのなら、いまのわたしは、いったいなにを生きることができるの?
「最近、詩を読んでるんだ。芸の肥やしってやつ? 葵は文学とか読まないでしょ」
会話がはじまる。
「うん、全然わかんない」
「ジム・モリソンやマーク・ボランがさ、アルチュール・ランボオって詩人の詩が好きだから俺も読んでるんだけど、『永遠』って詩がすげえいいよ。エロい」
アルチュール・ランボオは十二歳から愛読しているけれど、いわないでおいてあげる。バカで思われておくことって、ちょっと、愉快だし。わたし、性格悪いから。
「エロいの?」
「太陽的な男性が、海のように生命の始原であり往きつく領域である女性を貫いて、融け合い引きつれるのが永遠なんだってさ。海はただ横たわり、連れこまれるのを待っていて、太陽は上を走り昇りつづける。一晩射し貫いて融け合い消えて、あらたに生命が産れて、そして日々がくりかえされる。それの連鎖が人類の営みであり、男と女という永遠の主題なんだ」
*
わたしは女へのこのような解釈を、けっして是認しない。
女を”海”とよばないで!
2
推しが炎上した。
この炎上事件はわたしの水原への信頼を崩し落したのだった、何故わたしはたかがひとりの人間を信じていたのかと自責・悔恨し、わたしは「わたし」と結ぶなにもかも失った状態で、何故守るべきかもわからなくなった貞節だけを残して、この地上に立っていたといってもいい過ぎではなかった。
わたしはひざまずく対象を喪失したといってもいいのだった。しばらく、わたしは何もしなかった、何もしないということをするほかはなかった。
わたしには何も気力が残らなかった。唯、ヤケであった。
推しは当時流行していた男性俳優と恋愛関係にあり、かれは同時に三人の女性と交際していて、水原藍は妊娠しているというのが報道であった。いつまで経っても男性と結婚するという報道はなく、世論へのふたりの反論はショックなほどに口汚なく、形ばかりの謝罪がすこしだけで徹頭徹尾保身的、生まれてくる子供への言及は一度たりともなかった。
こうして生まれてくる子供の存在、それそのものをわたしは全肯定だけはしたいとおもうけれども。生まれてきたら大事にされてほしい。大切に存在を肯定されてほしい。SNSで流行りすぎ、他者の存在自体を否定する言葉。いわないでよ。
痛くて、痛くてたまらない状態で生きている人間が発した優しい言葉って、稀有なものでもあるのだし。
されど作る側は別だ。別であるはずだ。
なぜ生まれてくる子供のくるしみを配慮できないのだろうという疑いは、わたしに激しい苦痛をあたえたのだった。わたしがかってに肉付けしていた水原藍の素敵なところは、世論への反論の言葉のなかに、ただひとつもなかった。
水原。どうして?
そして、この俳優。どうして? 男性。男性だからなの?
わたしは水原藍の、優しいところがいっとう好きだった。
*
わたしのかってな信頼は裏切られた。わたしの愛を信じたい気持は破られた。わたしはひざまずく対象を失った。なにもかも信じられなくなった。
ある種麻痺しはじめていたわたしの思考では、そんな風にしか考えられなくなった。
わたしがかってに水原藍に夢を投影して、生きることの苦しさを縋らせたのも、たしかによくなかったにちがいない。
水原藍には水原藍の人生がある。彼女固有の生き方がある。別個のそれとして、決めつけたりせずに尊重しなければいけない。けれども──子供をつくる、新たな命をつくるという行為には、もうすこしモラルと、配慮をする人間であってほしかった。
やたらめったらに遊んでいる男性と避妊をしないセックスをするような人間を、もとからわたしは認めたくなかった。
そして、かつての憧れがそれをしている人間だったというのは、胸をかきむしるような憎悪がわくようなのだった。
アンチ・水原藍。
アンチ・男性の性欲。
わたしはネットに書き込みこそしなかったけれども、さながらに重力のようなものにしたがってそんな気持に支配されはじめたのだ。
つぎのわたしの心のうごきをいえば、わたしの「ひりつくような神経的な淋しさ」という一領域──ここに「わたし」はない、いや、むしろあるような推測も立ちうる──をひざまずかせる対象をなににしようかという、愚かでみじめな思考であったような気がする。
自分で自分を愛する? はあ?
失語症になるような言葉だ。
わたしはどうにかわたしを愛するために背を折ってうずくまり、肉から浮くような背骨の凹凸を抱きすくめようと、うでで胴体を覆うときがあった。が、平均的日本人の体形でそんなうでの長さがあるわけはない。骨格の問題。
貞節は背骨に宿る、これ、わたしの詩的なイメージ。
しかしわたしの背骨の突起は、いまや病的な廃墟さながらの不穏な陰翳を落しながら、抱え切れなくなった貞節が漏れはみだしたようにボコと脹れているよう──そういうゴシック的でやつれた見方しか、できなくなった。
わたしはこの世界に在るというのがまさしく違和感であった、なぜこの世界はこんなにも不気味なのだろうかという疎外的な感覚から抜け出ることが、どうにもできなくなってきた。
わたしはそのなかでSNSのいるかもわからぬ美しい女になろうとしてゆびさきをうろうろと彷徨わせていたのだった、それはなにも信じられなくなったわたしへ「美しくある」ということだけが「わたしは存在してもいい」という条件を与えていたからなのかもしれない。
その条件が必要になってきたのは、他者たちから優越していなければわたしはわたしの存在を認められないという気持に原因していたのかもしれないし、SNSにあるようなある種「主流の価値尺度」の内の一つでもいいからそれで測られて優越していなければわたしの存在をほかでもないわたし自身が否定するというような病にさいなまれていたからだ。。
わたしはわたしがここにあってよいとみなされる条件を満たすために美しく着飾り、最新のメイクをし、くるしい体形管理にいそしんでいたのだけれども、なぜそれが男性の欲情をあおることに直結するのかもわからないし、腹が立つし、なぜ男性たちは女を大切にする気もないのにほんとうの欲望を隠して女性たちへ欲望のうでを伸ばすのかが、根の部分で想像ができない。
否、それは身体差の問題もかなりあるから、わからなくてもいい。
わたしには、そんな言動を実際にすることをなぜ自分に許しえるのか、それがわからないのだ。
わたしたちはたくさんのセクシャル・ハラスメント、痴漢などの性加害が向けられることを回避しえないし、まずもって「女が二十として存在するという状態は、欲望のこもった視線を受けることすら避けられない」という被害者意識的な感覚は、果して、自意識過剰な妄想といえるようなものなのか。ある程度までは、事実ではないだろうか。
わたしは、現実という粘着質の重みをもった体液がたえずわたしに垂れてくるというような、病んだ世界の観方をもちはじめた。
復讐したい。復讐したいという気持すらも、わたしたちには赦されないのか。
わたしはこんな考え方に一種邪悪なものも見つかり、誤りの認識も大分混じっているだろうということを絶えず意識していて、この悪玉のような脳に詰まるぐちゃぐちゃな思考をどうにか透明な理路をたどらせて、他者を大切にできる人間になろうとする努力だけは忘れないようにしているつもりだった。
男性のみえない事情を配慮できる人間にもなろうとしていた。だって、それがわたしの貞節でもあるのだから。
だが、投げられる。投げられるのだ、性への軽視が、性的な視線が、性加害が──頻繁に。
脳裏で鳴る。鳴るのだ、怒りが、不安が、復讐心が──絶えず。
わたしは毎晩数時間をかけてシモーヌ・ヴェイユの本を読んでいたのだった、わたしは当時、つぎはヴェイユ思想にひざまずこうとしていたような気がしている。
水原藍という”ロールモデル”を失ったわたしは、もはやこの世で生きる理不尽と違和感、この世にある気持の悪さしか感受できぬ、一条の病んだ神経である。
そう、わたしはわたしを定義した。
ああ、わたしは──人間は、みな善いこころでわたしに接するというのが当然であるというような、子供っぽい気持をまだもっている。
*
「でもそれってさ」
女友達に相談すると、こう返ってきた。
「女性は男性の気持や状況を配慮せず、欲望のまま暴力しているっていうのは、いまの葵とまあまあいっしょじゃん。強い言葉で批判したいのなら、男性のくるしさや事情を見る努力をしてから批判したほうがいいんじゃない? そしたら、さっきみたいな言い方にはならないとおもうよ」
高校時代から二年付き合っている恋人がいる彼女は、しずかな口調で語り始める。
「は?」
「葵はたしかに悪い男性にくるしめられてきたけど、それは葵がその男性たちを選んできたからでもあるよね。
葵は、気遣いできてリードしてくれるひとが好きって、前言ってた。でも気遣いとかスマートさってさ、技術だし、ほんとうの心とは離れた部分の優しさだから、経験があるかないかの問題が大きいんじゃない? そういう技術を身に着けようとしてきた男性って、そりゃ女性をそういう風に扱いたいひとも多いんじゃないかなってわたしは思う。
たしかに多いよ、葵のいうように、女性を”人間として大切にする”気がまったくなく、”女性としてモノみたいに欲しがる”男性はね。間違っていないし、そこから受ける苦しみは同性として心から認めたい。ほんとうに問題。みんなではないにしても、そういうひとが多いのはたしかだとおもう。出逢ってすぐドキドキさせてくる男性は、かなりそういうひとが多いんじゃないかな。”女性として欲しがる気持よりも人間として大切にする気持を優先させようとする意志”がある男性は、出逢ってすぐドキドキさせるなんてしないひとが多いはずだよ。そういう男性はほんとうに気になりはじめてからアプローチするだろうから、経験値低いままになりがちで、アプローチもなんだか慣れてない不器用な感じするんじゃないかな。そういうひとの悪口を言うときが最近あったよね、そういうのは葵がよくないよ。
でも、葵のことを大切にしてくれる男性もいるんだよ。いろんな男性がいるよ。だからさ、葵がいままで対象外だった男性のなかにはいいひともいるし」
「うるせえよ!わたしの気持なにも知らないで適当なこといわないで! 自分の恋愛がうまくいってるからってえらそうなこといわないでよ! 大事にされない女のこと見下してる? だよね、そうだよね? わたしのこと下に見てるんだよね? わたしのこと、男関係で優越感をたのしませてくれる存在だとおもってたの? だからいまの状態のわたしにそんなこと言うわけ? そんなひとだと思ってなかったよ、そんな風に思われてるなんて気づかないわたしが悪かったんだよね、それでいいよ。そんなSNSで流れてくるようなとってつけたようなアドバイス、誰でもいえるじゃん! もういい!」
怒鳴ったあと、自分のいまの言動に血の気が引いた。堕ちた。そう突きつけられたような気持だった。
友達の顔をみると、怖がっているし、申し訳なさそうな顔をしている。傷ついている。
ひとは、自分が他者を傷つけたことで傷つく。それは、良心の一種だとおもう。だから、彼女がいま傷ついているのは、わたしを傷つけたことを意識しているからで、つまりは、彼女の良心をわたしが傷つけてしまったからだ。けれども、いまのわたしに、先ほどのような言葉を放って友達に暴言を吐いてもいい理由は、ない。
彼女は話す時間が長いときが多いし、思ったことを言ってしまう性格ではあるけれども、わたしを傷つけようとして言葉を放ち、反応を喜ぶことなんてぜったいにしないひとだ。そんな友達に、わたしはかってな邪推で怒りをぶつけてしまったのだ。関係のない、むしろわたしを一番大切にしてくれるひとのひとりを意識的に傷つけてしまったのだ。
わたしがもし平常な精神状態で、いまの友達の状況に立っていたとしたら、おなじような言葉をいったかもしれない。
だが、いまのわたしは友達のこんな言葉に逆上するほどに暴力的で、荒んだ心をもっている。
友達がふるえる唇をひらく。
「ごめん、ごめんね。葵がそこまで追い詰められてるって気づけなかった。わたしデリカシーないから、かってに自分の考えぶつけちゃってた。寄り添うべきだった。ねえ、もっと話して。寄り添おうとするから。ね?」
泣きそうな顔をして、顔を近づけて、わたしの表情をうかがってくれている。わたしはたしかに傷ついている状態だけれども、それを全く関係のない、しかもわたしによく接してくれるあなたへ暴言を吐いてしまったのに。
顔を覆って泣き出しながら、わたしは言った。
「ごめん。ごめんなさい。デリカシーなくないよ、美波が一番優しい、こんなわたしに優しくしてくれるのは美波だけなんだよ。美波だけ、美波だけなのに。あなたはなにも悪くない。でも、美波をこれ以上攻撃したくないから、もう、帰る」
「いまのはわたしが悪いよ、葵がつらいことを考慮できてなかった。ごめんね。心配だからもうすこし話を聞きたい気持があるんだけど、でも葵が決めてね。帰ることにする?」
女友達は、ほんとうのかなしい顔をしてくれていた。
「ちがうの、わたしは、あなたが悪くないのはもちろんだけど、男性じゃなくて、わたしが、わたしが、わたしが全部わるいから。もう、自分のことなんにも信じられなくなってる」
わたしはしゃくりあげながら泣きはじめていた。
「そんなことないよ。絶対ない。葵のくるしみって、ある意味、純粋な少女特有のものでもあるとおもうよ」
「…どういうこと?」
「ほら、はじめて男性向けのひどいAVを見て、わたしたち、怒りや悲しみより先に、”どうしてこんなものがあるの?”、”どうしてこんなものに喜ぶ人間がいるの?”って思わなかった?
疑問。疑問だった。”どうして?”だった。その状態でとまっていて、汚い現実と折り合いがつけられていないんだとおもうよ、葵みたいなひとは。
だからね、葵みたいなひとは、元々の性格がすごく優しい子が多いとおもうよ。
ある意味でいうと、生きていくには純粋なまますぎる、まだ少女っぽすぎるんだよ。
どういうことかっていうと、人間は相手を大切にする優しい気持で接するのが当然っておもっているから、葵はそういう風に苦しんでるんだよね?
それは、自分だってそうしてきたから、そうするのが当たり前だたから、そういうひとが周りに集まってたからだってわたしは思うだよ。そうだよ、葵は高校時代そうだったよ。優しくて、繊細で、夢みがちで思い込みがはげしいところがあったけれど、それもふくめてすごくいい子だったよ。いまだってそう思ってるからね。
葵はひとがひとを大切にするのは当然だって思ってて、だからそうじゃないひとたちの存在にびっくりして、傷つきすぎちゃったのが大きなきっかけのひとつでもあるとおもうよ。
これはわたしの感覚だし葵の話だから、男性嫌悪の女性の全員がそうかはわからないけど、わたしはあなたのことを高校時代から知っているから、葵がもともと思い遣りのある子だって知ってる。
昔から、わたしの気持をいつも丁寧にかんがえながら接してくれたよね。わたしが傷つけられたら、相手に怒ってくれたこともあるよね。いまも残ってるよ、絶対。自分の悪いとこ責めすぎちゃってるのも、優しさの証拠だよ。今日だって、さっきの話をするまでは、わたしに気を遣ってくれてたよ。ありがとね。
でも、いまの葵の心の状態は暴力の連鎖っていえるとおもうし…あ!いま言わないほうがいいよね、ごめん!」
「いまはそれ聞きたくないに決まってるじゃん、なんでいつもいつも思ったことぽんぽん言うわけ? やめて! やめて、やめて!」
わたしは千円札を机に置き、カフェを去った。
*
友達はなんにも悪くないのに。あんな態度を向けられたらかなしいし、怖い思いをしたにちがいないし、わたしには耳が痛い言葉もふくめて、きっと、友人のわたしへの善意でいってくれていたはずなのに。わたしが全部悪い。わたしが全部悪い。
長文で、美波へ謝罪ラインを送る。後から見直して、文面の病んだ内容、けっきょく漏れ出るような自己憐憫の文章に乾いた気持を感じ、わたしは、元からこんな人間なのだと悲痛な気持で定義してしまう。
ラインのアカウントを、衝動的に消した。
謝罪するまえに消さなくてよかった、そう、眠れない真夜中に思って泣き笑いする。
わたし、もう、ひとと会う資格を自分に与えられない。もっと善い人間になりたかった。もっと善い人間になりたかった。いまの自分なんて壊してしまいたい、壊して、歓びのままにずたずたにしてやって、血まみれにしてやって、また、わたしが造りなおしてあげたい。もうすこし善い人間に、造りなおしてあげてみたい。
いまのわたしがやっているバンドマンとの遊び、こんなこと、したくもなかった。するべきじゃなかった。わたしのバンドマンへの気持が、じつは、いつも、いつも後ろめたい。あのひとだって、傷がある。見えない痛みがある。だから、あんな風に女性を弄んでいるという側面もあるだろう。時々、淋しそうな顔をする。自虐して、自分の罪をいうときがある。そんなとき、わたしはかれのことをほんのすこしだけ、好きになる。ひととして、だけれども。
わたしは、たぶん、人間の善性を、ずっと信じつづけていたかったのだ。しかしわたしはもはや、自分自身に善性というものをまったく信じられなくなった。わたしは、わたしに失望した。
*
水原藍のアイドル時代の動画をみる。
素直で、すこし天然で、メンバーへの気遣いがいつもあって、苦手なダンスを必死にがんばっていて、へたな歌すらもいとおしく、わたしは、こういうのが人間のあるべき姿だとおもっていた。
わたしはこうではない人間を認められなかったし、だからいまの自分なんて憎悪の対象でしかなかった。
快楽にすがるような生き方が、ある。
歓べ。歓べ。歓べ。
それだけが、ひざまずく対象を失った死にたい人間に、生きる断続を重ねつづけられうるのなら──けれどもわたしは、そのような生き方を、わたしに是認することはできない。
3
わたしは数週間家にひきこもって親にも連絡しなかったから、自分を世話してくれるひとなんているわけもなく、精神と肉体の健康は堕ちぶれてゆき、しかし、これがわたしという違和感を鳴らせる背骨の凹凸とはまる、真にダークな領域だというような気もしていたのだった。わたしはそれを嘲ってみたのだけれども、それも金属の穴から吐かれる乾いた音を立てるばかりなのだった。
デカダンって、これ?
ハッ。わらっちゃう。
さながらに落葉のように不気味な観念的で曖昧なやわっこい破片が落ち、わたしはそれが頬をすべるままにしていた。
すこし食べては吐く。すこし食べては吐く。そして、食べることじたいをやめた。
わたしの眼前にはくらぐらと靄のような陰翳が降りかさなり、「世界、キモい」とだけささやいて、生存のために水だけを飲んだ。それでも吐くことはあった。わたしはわたしに介入するありとある汚らわしいものを吐き散らしたかっし、それによってできあがった空白に純潔な水を注いでほしいと悲願した。
インターホンを鳴らす音があり、バンドマンが来たことがわかった。セックスがしたいんだな、とおもったけれども、いまの入浴すらしていない痩せこけたわたしに性的魅力などあるわけがない。敢えて入れた。するとわたしの見た目を確認し、せせら笑うように「堕ちたな」、と一言だけをいうと、扉を閉めた。
わたしの乾いた笑いはからからと掠れた音を立てたが、やはりそれは頬をすべる涙への風刺的精神によるもの、ここ一年の習慣によるものであったのかもしれない。
水原。いま、わたしたちはどこにいるの?
腹痛が酷い、数日なにも胃に入れていないからだろうか。
海が見たくなった。海が。女という客体を投影された海ではなく、地上を襲う理不尽の主体としての海が。
窓を開ける。町並み。ひとびと。
わたしは喉から込みあがる吐き気にえずき、どっと床に肉体を倒れ込ませて嘔吐した。わたしは白いてのひらでそれを掬った。これもわたしの海だった。これがわたしの溜りだった。それが窓枠に垂れ、外へつと落ちた。
暴力は暴力と綾織っている。この世は見える暴力と見えない暴力に満ち、わたしだって他の人間と同様に一種の暴力者だったし、けれども、やはり被害者であった。加害と被害の関係性はいったりきたり、すべてぐちゃぐちゃと不穏に動きつづけるグレーの風景であるように感じられていた。
わたしは世界を、うねうねとのたうつどす黒いダスティな色彩として観ていた。わたしには気味が悪かった。暴力と被暴力が無数の蛇のようにうごめくのが人間社会のように想えた。ネットで暗い事件を紹介する怪しいサイトを見る幾夜幾夜があった。男性の怖い視線なんかよりもよっぽど怖い暴力が、この世にはたくさんあるようだった。
わたしの少女っぽい夢なんて、オモチャのステッキを振って呪文をかけたら働く大人の男に鼻で笑われるくらいに無力。
攻撃力、ステッキを投げたらきんと撥ね返される程度。
けれども捨てられなかった、捨てられなかったのだ、わたしの貞節を。捨てたくなかった。どうしても、どうしてもアイドル時代の水原藍みたいに優しくかわいらしく、自分らしく生きながらも他者のためにだって頑張れるような人間になりたかった。わたしは、つよくてやさしいひとになりたかった。つよくてやさしいひとになりたい、わたしの夢は、ただ、これだけだった。
ずっと、ずっとこんなことを考えていた。わたしはわたしの感覚をここまでみすえつづけて、もう一度外をみると──あ。
青空。
…
わたしはうずくまっていた躰をひるがえし、揺れるレエスカーテンに吐瀉物がついているのも気にせず、青空の清む光をみていた。わたしはひざまずいたのではなかった、けっして、そうではないのだった。
ただ、青空という美にうっとりとしてわたしのことを忘れ、たゆたうばかりなのだった。
いうなればわたしからわたしが離れた、そんな心的状況。それでも残る、美しいものを美しいと感じる心──この領域って、なんだか好きになれる。
「わたし」──「わたし」とは、先ずもってこんなprimitiveな心の一領域を、夢へ向かう意志的にしてfictionalな心の一領域をけっして綾織られぬと知っていながら織重ね、葛藤するうごきをさせる火と波の共同ダンスをいうのかもしれない。
その風景へわたしの伸ばされたうでは垢と汚物によごれていた。生きていたらそんなものだろう、すこしだけ、そう思えた。救われたなんてことはない。わたしなんかに、わたしを救い、他者を救いえる文章なんて書けるわけがない。わたし自身、楽になったともいえまい。ただ、美を前にしてふっと自意識を失ったとき、すこしだけこんな瞬間もあるということを、ひっそりと、すこしだけかわゆらしい気持で書いてみただけ。
なんで青空ってこんなに綺麗なの? 地上は悲しいことばかりなのに。
地上へ被さる青空とはなんて共感性のない無垢な王子なのだろう、そんなことを考えて、わたしはなんだかわらえてきた。
心の余白。そこに、友達からの優しい言葉がすっと入ってきた。
葵みたいなひとは、元々優しい子なんだよ。
そんなことないけれど。なんだか、いまになって照れてしまった。
ありがとう、そんな、他者へひらかれた気持もすこしだけよみがえった。
あの子、衝動のまましゃべりすぎちゃうところがあるし、正直時々うんざりしちゃうけれど、ほんとうに友達想いなんだよね。悪いところもいいところもあるよね、人間ってそんなもの。だから、わたしだってそうなのかもしれない。アイドル時代の素敵な水原が、ぜんぶ嘘なんてないはずだよね。
わたしはゆびさきを青空へ指し、しばらくスマホを操るように彷徨わせたのだった、わたしはこの意味のないうごきを、こころからよろこんだ。無為なよろこびというのはどこか素直で、かわゆらしい感じがした。
わたしはひとまずは青空が美しいから生きよう、わたしにも優しいところがあるから自分をすこしだけ信じてみようとかんがえ、その考えに論理性なんてまったくないことがなんだかかわゆらしくて、ふふっと微笑さえしてしまった。
バンドマンに別のアプリでDMをし、のちにかれをブロックする。
文面はこれ。
女は海じゃないし、男は太陽じゃない
そんな永遠は永遠じゃない
わたしは、海を燦爛と照りかえす一刹那の破片
それは流れるままに揺蕩ってもいいし、
綺麗な死の幻想の寝台に置くこともできるけれど、
わたしは、青空をすこしだけ反映するそれを
原っぱへ落して生きてみせるよ
さようなら
アメリカン・スピリット、
動物園みたいな匂いしてキライじゃなかった
女を"海"とよばないで
読んでくれてありがとうございました。生き抜こうね。