月物語
1 老人と月
2060年、月で最も大きな居住地域は、南極の巨大な洞穴を利用した共同基地で、定住者と一時滞在者を合わせた3千人と、ロボット1万数千体が住んでおり、いつともなく「シティー」と呼ばれるようになった。
いつものように武司はマービーの押す車椅子に乗って、シャトルのポートにやって来た。月の周回軌道へ行くシャトルが1時間後に出発する。
出発ロビーには搭乗者と見送り人が別れを惜しんでいた。旅立ちを祝う華やかさと別れの淋しさが混じり合った、独特の時間が流れていた。武司はひっそりとロビーの隅で、そうした人生模様を垣間見ていた
「必ず戻ってくるわ」
女が言った。腹の膨らみでそれとなく分かる。
「15年は長いよな……」
男がため息をついた」
「地球で子どもを育てようって、私たちが決めたことなのよ」
「ああ、いい湯だった」
武司に浴衣を着せ終えると、介衛士の貴美子はいったんマービーに引き継いだ。マービーは車椅子を押して湯屋の出入り口から通路に出た。引き続き、すぐ隣の居酒屋の暖簾をくぐって店に入ってきた。
「お疲れさま」
今度は茶の作務衣に着替えた貴美子が店の奥からビールとつまみを運んできた。
「たけしさんに試飲してもらうわ」
「例の新製品かね?」
「そう、本日初登場」
グラスにビールが注がれた。淡黄色の液体の上に白い泡が盛り上がった。武はまず一口飲んだ。
「うまい!」
「行けるでしょ?」
「いける、いける。昔日本で飲んでたのと同じ味だ」
「よかったぁ。苦労したのよ、ここまで来るのに……」
「――だろうね。この枝豆と冷奴もいける」
たちまちグラスが空いて、貴美子がビールを注いだ。
「今日もポートへ行ってたんでしょ」
「うん。それにしても、子どもが十五になるまで夫婦が別居というのは……切ない話だよな」
「低重力の月で生まれて育つと、地球や火星で暮らせなくなるからって、決心するんじゃない……でも近頃は、別の考えを持つ人もいるわ」
「月で子供を産んで育てようという人たちだね」
「少数だけど。でも低重力の月で生まれて育ったら、一生地球や火星には行けないわ」
「高重力から低重力への適応は可能だが、逆は難しいからね。私も同じだ。命は助かったが下半身に障害が残った。左手だけは何とか使えるが、普通に暮らそうと思えば、月に留まることになる……つまり、私も地球には帰れないさ」
と言ってグラスを飲み干した。
「でも月に住んでいると身体に負担が少ないから寿命が延びるわ。武司さん今八十二でしょ、百歳まで生きられるわよ」
「貴美子さんは幾つだっけ?」
「お答えできません」
と貴美子はむくれて見せた。が、仕様がないわねと苦笑いしながら、
「古希を過ぎましたよ」
「いや、あなた四十代にしか見えないよ」
「まあ、お上手だこと。ひょっとして月のおかげ――?」
武司はほろ酔い気分で店を出た。
居住区の部屋に戻ると、すぐベッドに入った。月はエデンだと武司は思う。低重力や管理された気候、野菜主体の食生活など、体への負担が少ないために、老人にとっては暮らしやすいのだ。
月は地球に比ベて小さな天体で、大気や海もないために地球のような自然災害とは無縁でもあった。隕石や有害な宇宙線は地下の深い居住区には影響が及ばない。開拓途上であるがゆえの欠乏さえ、武司はさほど不自由には感じない。なぜなら月には、地球とは別の生活様式と文化が生まれようとしていた。それは新しい歴史の始まりだった。その現場に居合わせている幸福を武司は感じていた。
娘からメールが来ていた。
「どうしてパパが月を気に入ったのか分かったわ」
武司は返信した。
「お前たちも月に来ないか」
2 少年と月
聡(さとし)は里香以外の他者とは、キーボードを通してしか意思疎通ができなかった。十二歳を過ぎる頃からコンピュータの世界に没頭していくのを、不安を感じながら里香は見守ってきた。
仕事を済ませ、急いで買い物をして帰宅すると、午後10時を過ぎていた。
「お腹空いたでしょ?」
「おれ、済ませたから」
「あら、そう」
買い物を取り出していた里香は少し気が抜けた。
「ケーキ買ってきたよ……」
聡の様子がおかしいことに里香は気づいた。両腕を組み、ぼんやりとコンピュータの前で座り込んでいた。
里香の戸惑いを察したのか、聡は泣き笑いのような表情を浮かべ、椅子から立ち上がろうとした。ふらついて倒れそうになった。あわてて里香が聡の身体を支えた。
聡は十歳の時に学校に行けなくなり、ウエブ上の学校に転校した。以来、仮想世界で聡は学園生活を送ってきた。その世界で友人と遊び、デートをし、アルバイトで小遣いを稼いでいた。
10階のベランダからは街の明かりが見渡せた。町の突き当たりに港があり、貨物船が停泊していた。港の先は海で、暗い水面が広がるばかりだ。水平線上に糸のように細い月が懸かっていた。里香と聡はベンチに座っていた。
「何か……あったね?」
「行き場がなくなっちゃった……」
「説明してくれる?」
「おれ、無人島に流されたんだ。南国の楽園。きれいな花が咲いてて、かわいい動物がいて、魚も釣れる。でも島には誰もいなくて、脱出不可能な場所……」
「何か悪いことをしたの?」
「してないよ。嵌められたんだ。おれ、事業を立ち上げてさ。アイデアがすごく有望だったから、乗っ取られたんだ」
「……そうだったの」
「あ、何か光った!」
聡は月を見ていた。月の南極の影の部分に、針の先のような鋭い光が点滅した。
「おれ、月に行ってみたいな、仮想じゃなくて本物の月に」
「――行きたい?」
「ああ、でもうちにそんな大金ないし」
「聡は明日で十五だよね?」
「そうだよ」
「ケーキ食べちゃお、前祝いだ」
「どうしたの? いきなり」
里香は笑っていた。聡を出産するために月から帰ってきたのだ。15年前のことだった。
3 再び月へ
月行き35便は地球周回ステーションを出発して二日目に入っていた。
「また月が大きくなった」
聡がつぶやいた。
「ほんとだね」
月への旅は里香にとって15年ぶり2回目となる。 15年の間に、運用システムが驚くほど進歩していた。かつては不定期の輸送便だったが、現在は航路が確立されて定期便となった。同乗者も搭乗員ではなく、乗客と呼ぶ方が適切な顔ぶれだった。
「地球は大きいね。まだ画面からはみ出してるよ」
聡は自席のディスプレイに映し出されるリアルタイムの映像を始終切り替えていた。小声になるのは、乗客の一人である同じ年格好の美しい少女に子供と思われたくなかったからだ。聡は地球の夜の側にある列島の灯りの連なりを見つめていた。
「あれから1か月……」
「月に行くのを決めたのは、聡の15歳の誕生日の前日だったね」
「そうそう」
聡がうなずいた。
「コンピュータの仮想世界で聡がトラブルに遭った日でもある」
聡は苦笑しながら、
「そんなこともあったけど……おれにとっては、仮想世界が色褪せて見えた日でもあるんだ」
「転機になったね」
「仮想世界も一定のルールで成り立っている。本質的に管理者やプレーヤーに都合のいいルールで支配されている世界なのさ。すごく居心地が良かったんだけど、長年暮らしていたら、ある意味ひどく薄っぺらで、窮屈に感じるようになっていたのさ……」
聡は一瞬遠くを見る眼で、
「ヒトの都合や約束事に支配されていない世界を見たくなった。ただそれだけだよ」
「そうか……」
里香は深いため息をついた。地球で15年は子供を育てるためだったが……。
「聡にとってはどうだった?」
「何が?」
「地球での15年」
「いい思い出だよ。お母さんはどうなの?」
「私は……大変だった、精神的に」
里香はまたため息をついた。
「お父さんがいなくて寂しいと思ったことはなかった?」
「ないさ。初めからいないんだもん」
「そうだよね……。お父さんのこと、今まで聡にちゃんと話してなかったね」
「事故で亡くなったんでしょ、10年前に月で」
「やっぱり知ってたのね。おじいちゃんの事は?」
「その時、一緒に亡くなった」
「いいえ、おじいちゃん、つまり私の父は今も生きてる」
聡は耳を疑った。
「大ケガしたけど助かった。もう八十過ぎてるけど元気らしい。聡に会えるって凄く楽しみにしてる」
聡はディスプレイに月を出した。
「ひょっとしてここにいる?」
聡は月の南極を指さした。
「そうよ」里香が微笑んだ。
月まであと1日の距離だった――。
4 再会
月の周回ステーションを離れた着陸船は、小刻みに軌道を変えながら月面に向かって下りていった。船が姿勢を変える度に、窓から見える月の地平線が傾いた。30分後、船はホバリングしながら、月面を円形に切り下ろした発着場の中心に降り立った。
連結された気密通路から旅客たちは連絡バスに乗り込んだ。バスは発着場から地下トンネルに入った。
「凄い。月の地下世界だね!」
聡が昂奮した口調で叫んだ。ウエブで訪問しているはずだが、リアルな事物は、また格別だった。地球の6分の1の重力やトンネルを走るバスの揺れなど、バーチャルでは体感できないのだ。
「人がいる施設は、みな地下にあるの。太陽や宇宙からの宇宙線や損石を避けるためにね。でも、15年前にはこんな立派なトンネルはなかったわ。着陸船からバスに乗ると、そのまま凹凸のある月面をガタゴト走ったものよ」
里香が感慨深そうに言った。
「しかも、当時はみな宇宙服を着ていたわ。今は与圧されたキャビンで私服のままじゃない」 「15年の間に、ずいぶん変わったんだね」
「私がいたころは〝シティー〟なんて呼ばなかったし……」
バスがターミナルに着いた。旅客たちは気密通路を通って到着ロビーに入った。歓声が上がった。旅客たちは大勢の出迎えに驚いた。はるばる38万キロの旅をしてきた旅行者たちにふさわしい、温かい歓迎の空気が満ちていた。旗や手製のプラカードが揺れ、旅行者の名を呼ぶ声が飛び交った。里香と聡は人垣の最前列に、車椅子に乗った老人を見つけた。
老人は半ば驚き、半ば照れ笑いのような表情を浮かべて左手をぎこちなく挙げていた。 「父さん!」
里香が駆け寄った。
「おじいちゃん」
低重力に未だ慣れない聡は転びそうになりながらつづいた。
「よく来た、いや、よく帰って来た」
武司は大声で言い直した。
「そうよ、帰ってきたわ。15年目よ……」
里香の声が詰まった。両目から涙が溢れ、頬を伝った。
「よく帰ってきた、よく帰ってきた」
武司は里香の背中を左手でたたき続けた。里香は拳で目を拭った。里香に聡がハンカチを渡した。はっと気が付いて、里香は聡を武司の前に押し出した。
「父さん、息子の聡よ」
「聡です。初めまして、おじいちゃん」
「聡かい、大きくなったなあ。今幾つだ?」
武司は聡の手を取り、眩しそうに見上げた。
「十五です」
「そうか十五か。それにしても月へ来るってよく決心したね」
「はい、まあ……」
月に来たという実感が、聡にはまだ湧かなかった。
「里香ちゃん、お帰りなさい。聡くん、初めまして」
横から声が掛かった。
「貴美子さん!」
里香が叫んだ。貴美子の手を取った。
「武司さんたら、里香ちゃんたちが月に来るのを毎日毎日、ほんとに首を長くして待ってたんだから」
「ヒトノ首ハ長クナリマセン」
合成音が車椅子の後ろから流れた。
「あなたがマービー?」
「初メマシテ、里香サン、聡サン。ヨウコソ月ヘイラッシャイマシタ」
何もかもすべて――武司が何年もの間、夢見た時間が今、流れていたのだった。
5 月の新年
クリスマスから授業が休みに入ると、聡は食糧工場に通った。母の里香はシティー評議委員として各国の利害調整に多忙を極め、ほとんど家にいなかったので、祖父の介護士でもある貴美子が管理する豆腐の製造プラントで研修をしていた。
聡の仕事は、製造ロボットのプログラムを管理することだった。三交代勤務で、大晦日の今日は23時に終わった。オフィスに戻ると貴美子が待っていた。
「お疲れさん。今年はこれで仕事納めです。仕事始めは4日。聡くんは、月に来て初めてのお正月だわね。時間があればプラザのカウントダウンを見に行ったらいいわよ。それじゃあ良いお年を――」
シティーの中央広場(プラザ)は新年のカウントダウンを味わおうとする人々でぎっしり埋まった。ファンファーレが鳴り響き、レーザー光が交錯した。カラフルな衣装を纏った七人の男女がステージに登場すると、拍手と歓声が起こった。
彼らは初め荘重な曲に合わせてバレエのような振り付けで踊った。しだいにアップテンポの曲となり、軽快なダンスになった。最後に3人が代わる代わる歌を歌った。
ショーが終わり、照明が落とされると、人々の眼はステージの上に掲げられた巨大な電光時計に向けられた。
「30、29……10、9、8……」
皆が手拍子しながらカウントダウンを唱和していた。声が次第に大きくなった。カウントゼロの瞬間、熱狂は頂点に達した。歓声が上がり、クラッカーがはじけた。人々は両手を掲げたり、抱擁したり、キスし合った。人ごみの中で聡はいきなり両手をつかまれた。紫色のステージ衣装の少女――。
「聡! 私よ」
きらきらした眼が真っ直ぐ聡を見つめた。
「シルヴィ?」
少女は大きくうなずき、
「新年おめでとう!」
「……お、おめでとう」
聡は少女の勢いに気圧されながら抱擁しキスを交わした。
シルヴィは、新人月面研修の時に転倒した同一人物とは到底思えなかった。あの時彼女は、着慣れない宇宙服のブーツで溝に足を取られたのだった。レゴリス(月の砂)にまみれて横倒しになった彼女に聡は手を貸した。
「どうもありがと」
ヘルメットのスピーカーから弱々しい声が流れた。
「私はシルヴァ・アポニー。シルヴィって呼んで」
情けなそうに歪んだ顔が蘇る。ところが今日の前にいるシルヴィは別人だった。ついさっきまでスポットライトを浴び、ステージで精彩を放っていたのだ。聡は圧倒されていた。
「これが私の専門なの、聡!」
聡はこれだけ言うのがやっとだった。
「……すてきだよ。シルヴィ」
月面研修のときにシルヴィが「主専攻はエンタテーメント」と自己紹介した言葉の意味を、聡は今実感をもって知ったのだった―――。
6 月の酒
漁船の明かりが沖合に点々と連なっていた。一台の車が海沿いの国道を走っていた。助手席の貴美子は、窓ガラスに顔をくっつけるようにして夜の海を見つづけていた。その時何を考えていたのか、貴美子は覚えていない。
もう50年も昔のことだ。恋人に裏切られた夜のことだった。
そして今、貴美子は月にいる。地下100メートル、天然の洞窟を拡張した20層構造の地下都市の、深部にある居住区。その一隅に居酒屋 「瀬戸の海」がある。
今夜の客は宵の内に引き揚げた。客のいない小ぢんまりとした店内で、貴美子は地球のリアルタイムの映像を見ていた。月を終 (つい)のすみかと決めている貴美子だが、無性に故郷が恋しい時がある。
今夜、夜の側の日本列島が月を向いていた。貴美子は映像を拡大した。実際の映像とコンピュータ映像がどこかで入れ替わった。海岸線、島々、沖をゆく貨物船の明かり、ビーズのように連なる対岸の灯火、そして、寄せては返す波の音。
貴美子は瀬戸内海に面した町に生まれ育った。生まれた時から父はいなかった。高校を卒業して地元の町役場に就職した。就職して三年目に、貴美子は職場の妻子ある男性と恋に落ちた。不倫の関係は長く続かず、二年目に破局を迎えた。貴美子は役場を退職し、母の反対を押し切って大阪に出た。二十二歳の時だった。職を転々としたが、ありがちな転落の道をたどらなかった。一つには、物心つくころから、貴美子が心の底に澄み切った曇りのない〝深遠なものへの強い憧れ〟を秘めていたからかもしれない。
大阪で10年が過ぎた頃、故郷の母が患った。帰郷して母の介護をしながら、貴美子は介護福祉士の資格を取った。母を看取った後は東京に出た。もともと頑張り屋だった貴美子は、老人施設で働きながら、ボイラー技師、調理師の資格を取った。身体が丈夫で独身でもあったので、大阪時代の友人に頼まれると、昼間の仕事の後、夜は居酒屋の手伝いを引き受けていた。
その日、店はJAXA(日本宇宙開発機構)の職員たちで占められた。店はオフィスのすぐ裏にあった。その〝偉いさん〟の会話が貴美子の耳に飛び込んできたのは、練(ね)れた大阪弁だったからである。
「月に飲み屋があっても、ええのとちゃうか? 」
ママがすかさず合いの手を入れた
「そら、あったらよろしいわ。月で店するんやったら、こっちの喜美ちゃん推薦しますわ」
皆の視線が貴美子に集中した。
翌年、貴美子は正式にJAXAの職員となり、二年間の研修を経て月へ飛んだ。
「まだやってる?」
暖簾を分けて里香が入ってきた。眼を赤く腫らしている。
「今夜は飲みたい気分なの。付き合って」
とことん飲む夜になりそうだった――。
7 委員会
制限時間が追っていた。里香は凝った首筋を両手の親指で何度も押さえた。紛糾の種は分担金だった。シティー評議会の月開発委員会は、次の10か年計画を策定していた。2065年度からの10か年計画は、シティーを含む5か所の共同基地の拡張、二つの新規プロジェクトの着手、火星探査船の組立工場建設などに新たな分担金の拠出を各国・地域に求めていた。
しかしここに至って、分担金の増額に反対する国があった。独自の宇宙開発を展開している中国である。彼らは月の資源採取に熱心なあまり、従来から国際共同基地への出資を渋っていた。しかし彼らが宇宙開発に投入する膨大な予算と比較して、分担金の増額分は過大とは言えず、その背景に深刻な内政問題があると指摘されていた。
陳委員は審議の引き延ばしを図っていた。新分担金案を否決すれば理事国としての面子を失う。審議未了のまま時間切れを狙っていた。10か年計画の準備作業が遅れるのは自明だったが、委員会にはあきらめムードが漂い始めていた。
「委員長! 休憩を求めます」
里香の提案で委員会は30分の休憩を取った。ロビーのカフェで里香は陳を説いた。
「あなたの未来構想はどこへ行ったの?」
陳は沈んでいた。
「国際共同予算をカットせよと軍が――」
陳がいきなり言葉を切った。
「公安だよ」
陳がささやいた。
「ここは評議会エリアよ。厳格に認証された関係者以外入れないわ」
「カナダの記者章を付けている」
離れたテーブルで連れと座っているアジア系の女性がいた。
「党はあまりに長く権力を持ちすぎた。歴代の王朝のように――」
陳は上向いた。そして溜め込んだ思いを吐き出すように、里香に向き直って言った。
「私は自分の信念に従うことにしよう」
休憩の後、陳は発言を求めた。時間切れ直前だった。
「委員長、採決を求めます」
委員会内部にどよめきが起こった。カメラのフラッシュが一斉に光った。委員会は新分担金案を可決した。
だが、この一件で陳は本国へ送還されることになった。
「職を解かれるらしい。祖国で教師に戻るさ」
陳は寂しそうに笑った。
「いつの日か、月や火星は地球上の国々の支配から脱して独自の道を歩む。私はこの目でその日が来るのを見たかったが、君たちに夢を託すことにする」
別れ際に陳は小さな包みを里香に渡した。
「これを息子さんに」
包みを開けると水晶の玉だった。精巧な竜の像が彫られていた。竜はいつか天に昇るのだった。
8 月の鳥人
「皆さんこんにちは。レポーターの千鳥真衣です。月からのレポート7日目の今日も、月の日常風景を紹介していきます」
真衣がマイクを向けた。
「聡くん、今日もよろしくお願いしまーす」
「よろしくお願いします」
「今日は月のスポーツを紹介したいんですが、得意というか、好きなスポーツは何でしょう?」
「カイトは好きですね」
「翼を付けて飛ぶのね?」
「あれは面白い」
「やってみたいなあ」
「じゃあ、行きましょう」
アリーナは月面で最大の空間だった。高さ30メートル、直径100メートルの巨大なドーム状の空間には、1気圧の空気以外なにもない。だだっ広い空間を見下ろす踏み切り台の上に、翼を付けた真衣が立っていた。足元の斜面からは、温かい風が絶え間なく吹き上げてくる。
「ここから飛ぶんだ」
真衣の表情が硬い。
「10メートルの高さだけど、重力が地球上の6分の1だから、実際は地球で1.7メートルの高さから飛び降りるのと同じなんです。床も壁も、衝撃を吸収するラバーで覆われているから、落ちても大丈夫」
「こんな風に、飛び出すのね」
「そう、まず僕がやってみます」
聡はすっと踏み切ると、まっすぐ滑空して、50メートル先に降り立った。
真衣は斜面の上から叫んだ。
「行くわよ!」
翼を平行にそろえ、真衣は空中に躍り出た。両足が閉じてT字形になった。5秒ほど飛び、聡の近くに滑走して止まった。
「気持ちいい! 何ていう感覚? 鳥肌が立つわ」
「もう一度やってみます?」
「やる、やる」
真衣は何度も繰り返し飛び、上昇気流に乗るこつを知った。アリーナ内の数か所に設定された上昇気流に乗れば、達人クラスなら数時間も続けて飛んでいられるのだった。
1時間後、翼を畳んだ真衣のすぐ横に聡は着地した。
「真衣さん、初級レベル合格!」
「ほんと? うれしい!」
「面白いでしょ?」
「この感覚、私言葉で表現できない」
「月では、地球のスポーツはそのままでは楽しめないことが多いですが、空を飛ぶというのは、月で楽しめる最高のレクレーションの一つなんです」
「うーん、月へ越して来ようかしら」
聡は笑った。
「私、もっと高いところから飛んでみたい。え? 時間? 適当に撮影は終わっちゃってください。私、もっと飛んでいたいから」
「僕とペアで飛んでみません?」
「それ、いい」
下から見ていたテレビ局のスタッフたちも、荷物を傍らに置いて、われ先に翼を付けはじめた―――。
9 月の憲章
聡はカレッジのカフェテリアで遅い昼食を取っていた。テーブルに広げた電子新聞で日本のスポーツ記事を丹念にチェックしていたので、真向かいにシルヴィ・アポニーが立っても、聡は気が付かなかった。
シルヴィは茶の力ーディガンを羽織っていた。今月のシティーのテーマ「地球の北半
球の10月」を彼女なりに意識していた。シルヴィはコーヒーカップをテーブルに置いて
聡の前に座った。
「やあ、シルヴィ」
「この前、日本のテレビに出ていたね」
「ああ、どの番組かな」
「カイトの」
「面白かったでしょ?」
「そうね……」
シルヴィは熱の無い相槌を打った。
「ねえ、聡」
「うん?」
聡はスプーンで煮豆を口に運んでいた。
「黒ひげ先生の課題だけど、どこまでできてる?」
黒ひげ先生というのは、イギリス出身の政治学の教授のあだ名だった。
「えーと、将来制定されるベき……何だったっけ?」
「月意章を構想し、箇条書きで500ワード以内にまとめよ」
と、シルヴィーが続けた。聡は頭を掻いて、
「実はまだ着手してなくて」
苦手の分野だった。
「きみは?」
「私は下書きが終わったとこ」
「凄え」
聡は心底感嘆してシルヴィを見た。
「来週が提出期限よ。のんびりできないわ」
「そうだね」
聡はフィルム状の新聞を巻いて新聞立てに戻した。
「憲章というのは、つまり憲法みたいなものと考えればいいの?」
「そうね。黒ひげ先生は月の住人たちが早く独自の政治体制を作るベきだと考えている。今の月条約は、あくまで地球上の国々の利益を調整するための取り決めで、資源獲得のルールでしかないからよ」
「中国やインドは月を含めた宇宙に新天地を求めようとしているね」
「膨大な人口を抱える彼らの発展を支えるためには、地球では明らかに限界があるから」「でも中国の単独行動に対して、アメリカやその他の国々は苛立っている」
「だから、これ以上、月が地球の国々の領土欲の餌食にならないように、歯止めをかけないといけないわ」
シルヴィーがコーヒーをすすった。・
「月は、地球の国々のエゴイズムの対象であってはならぬ!」
「黒ひげ先生そっくり」
シルヴィーが笑った。
「人類史的な視点から月の開発を捉えよ。地球上の一国主義的な旧弊から離脱して、新しい政治体制を樹立せよ、かな?」
「出来たじゃない!それを月意章の前文にすればいいのよ」
聡はバッグからパソコンを取り出して テーブルの上に置いた――。
10 月に病む
目が覚めると見慣れないクリーム色の天井が見えた。しばらくして武司は自分がいる場所を思い出した。
きのう武司は〝ムーム〟(MOOM:月機構中央医療センター)に収容されたのだった。丁重だが、実は強制的な入院といえるものだった。2週間前から微熱がつづき、下痢に悩まされていた。体がだるく、激しい咳が出た。年齢こそ八十三だが、身体障害であること以外に持病はなく、シティーの人工的な環境に適応したつもりだったので、武司は少なからず気落ちしていた。
年を取るということは、体の各パーツがくたびれてくるということなのだと、武司はあらためて思い出した。危惧されるような感染病などではないと武司は思ったが、〝ここ〟では、軽度と思われる症状でも、厳しいチェックの対象になるのだった。検査結果が出るまで、武司は厳重に隔離された病室から出ることができなかった。
もっとも「メガネを掛けて」病室を抜け出すことはできた。眼鏡型のディスプレイに映し出されるCG映像で、ベッドで横になりながら、医療センター内を自由に移動することができたし、シティーはもちろん、その先、つまり〝ムーム〟のコンピュータが繋がっている全ての世界を訪れることができた。
武司は昔の日本映画を見ていた。テキヤ稼業の主人公が、美しい女性に恋して最後に失恋するコメディーである。播州龍野が舞台だった。老画家が昔の恋人の家を訪ねていくシーンに、武司の亡くなった妻の故郷が映っていた。
亡くなった妻とは20年前に離婚していた。別れて8年後、妻は東京で病死した。七十二だった。娘の里香が妻の故郷の龍野の地に葬った。
武司は一度だけ龍野を訪れたことがある。結婚する前年の2006年の秋だった。妻の両親の家は、映画に映った道筋に程近い、モダンな洋風の家だった。墓参をしていないことがずっと気にかかっていた。地球に帰れないことを言いわけにしていた。しかし老いて寝込むと、故人との距離が縮まるのかもしれなかった。
里香が送って寄こした一連の英数字を入力すると、10秒後に武司は亡妻の墓前にいた。そこは妻の一族の墓所の一角で、結婚後の姓のままの墓碑が刻まれていた。まだ真新しい小ぶりの御影石の墓だった。武司は頭を下げ、線香に火を点して手を合わせた……。
三日後、武司は隔離病室から出ることができた。眉間に深い皺を寄せたインドからきたばかりのシン医師が重々しく言った。
「普通の風邪です」
半ば予想していたが武司は安堵した。
「よく見られる風邪のウイルスです。しばらく病院で安静にしていてください」
医師の指示に従うことにした。そして、昔のことを少しずつ思い出そうと思った。
11 月の投資家
指定感染病の疑いは晴れたものの、風邪が元で気管支炎を起こして1か月病院に留まることになった武司は、症状が軽くなると、談話室「コンティキ・ルーム」で午後の大半を過ごした。
南太平洋のリゾートホテル風の広間で、入院患者たちが思い思いの時を過ごしていた。武司のお気に入りの場所は、椰子の木の傍らの、パラソルの下だった。武司は車椅子に座り、コーヒーを飲みながら電子ペーパーの新聞を読んでいた。
頭に術後のネット帽を被ったその男は、一度武司の前を横切るとまた引き返してきた。右脇の松葉杖で体を支え、左手でコーヒーマグを捧げていた。
「少しお話してよろしいですか」
「ああ、どうぞ」
武司は籐の椅子を勧めた。男は武司より年上に見えた。
「右手が使えないもの同士ってところですかな」
男は苦労しながら座るとニヤリと笑った。
「脳出血です。先々週手術しましたが右半身に麻痺が残りました。あなたは?」
遠慮のない人物らしい。
「15年前に落盤事故で怪我をしました」
男はうつむいた。思い出して顔を上げた。
「トンネルを掘っておられましたか?」
「そうです。シティーからジュールベルヌへ行く地下トンネルを掘削していました」
「今は全長100キロの地下リニア鉄道が通っていますな」
ジュールベルヌ区は、月の裏側最大の工業地区である。地球からの景観を損ねず、かつ月の南極にあるシティーへ資材を供給できる距離に建設された。核の利用を含むあらゆる工業災害からシティーを守るための最低限の距離でもあった。ジュールベルヌはまた、月の裏側に展開する天文施設群や実験施設の拠点であり、火星への前哨基地としての役割も担っていた。
「南極点から山岳部を貫くルートの70パーセントを掘り進んだ時でした。掘削機の回転歯が空回りし始めました」
「氷ですか」
「氷は有力な水源の発見でもありますが、その時は岩盤中の氷が事故の原因となりました。掘削で生じた土砂の中の氷が溶ける。溶けた水が掘削機を支える足場を緩ませ、掘削機の先端が掘削面を押す力を弱めて回転歯を空転させた。真空中で水蒸気となった水分子がロボットのセンサーをダウンさせたので、状況を把握できなかった。現場へ急行すると、水蒸気が充満し、造成したばかりの壁面が流れ出していた。危険を感じて戻ろうとした、その時に壁が崩れてきました」
「犠牲者が出たと記憶しています」
「婿が亡くなりました」
「痛ましいことです」
男は頭を垂れた。と、ナースがぷりぷり怒りながら談話室に入ってきた。
「あ、いかん。いずれまた」
男は左手を挙げながらナースに連れ去られた。
武司にとって男の名は、自分がまだ二十代だった頃の甘酸っぱい時代の記憶の中にあった。21世紀初頭、インターネット事業を元に莫大な財を成し、時代の寵児として耳目を集めた後、経済事犯で収監されて以後は徐々に時代から忘れ去られた男、大友康介は今、武司の前にいた。
10年前、大友は宇宙開発の民間事業者としてマスメディアに再登場した。大友は地球から静止衛星軌道までケーブルを繋ぐ宇宙輸送ンステム、宇宙エレベーターを建設することを宣言したのだった。
「一足早く地球を飛び出して来た。本当は宇宙エレベーターの最初の乗客になりたかったが、地球の重力に一刻も我慢ならなくなったのさ。地球では介助を必要としたが、月では自分の足で自由に歩けるじゃないか」
八十九歳になる大友は子供のように笑った。
「来年はケーブルを張り終わる。次はエレベーターの運行テストだ。誰でも宇宙にいける、そんな時代が目前さ」
〝究極〟の宇宙往還装置であるエレベーターには、しかし重大な弱点があった。高速で地球の周りを回る無数のデブリ(宇宙ゴミ)の存在である。静止衛星と地球の赤道上のアンカーを繋ぐケーブルは、地球周回軌道を横切ることになり、軌道上を秒速数キロで飛来するデブリとの衝突に常に脅かされるのだ。
「デブリの掃除は100年以上かかる。10兆円の貸金を投人して半分も除去できなかった。だから発想を変えたのさ。要は、大きなゴミはよける。次にケーブルを3本架ける。同時に全部やられることはない。常時2本で運用して1本は予備だ。乗客が乗るキヤビンは、非常時に宇宙船として使用できるものにする。エレベーターの建設費用に10兆円かかった」
「よく費金が続きますな……」
「3年で無くなった。世界中から寄付を集めまくったのさ。中国やインドなどが気前よく出してくれる。彼らは本気で地球外への移住を考えているからね」
「そうでしょうな」
「かつてスペースシャトルで国際宇田ステーンョンヘ行く費用が1人20億円かかった。 その後民問ベースで10億円になった。宇宙エレベーターなら静止軌道ステーションまでの往復は、建設コスト込みで2千方円となる。国などがシステム全体を買い上げてくれたら、一人100万円で済むだろう。エレベーターを資材の運搬に利用すれば、二基目、三基目の建設費はさらに安くつき工期も縮まる。ちょっと試算したが、今世紀末、エレベーターが10基出来るとすれば、一人10万円で静止衛星軌道まで往復できる。月へ足を伸ばして一週間滞在して一人100方円てとこだ。さらに20本も30本も出来たら、月往復は10万円、火星まで100万円なんて時代がすぐ来るのさ」
武司は微笑を浮かベながら聞いていた。
「そんな時代が来ると世界はどうなる?」
21世紀後半は新大陸発見時代の再来――月のメディアで最近目につき始めたキャッチコピーを武司は思い出した。
大友はソーダ水の入ったグラスをテーブルに置いた。炭酸ガスの泡が次々と浮かんでは弾けた。
「人はみな欲望にもとづいて生きている。言い換えれば、昨日よりも今日、今日よりも明日の暮らしが良くなることを願って人は行動している」
「マクロ的に見ればそのとおりですな」
「かつて人類の祖先は中央アフリカからスタートした。樹上から下り、棲みなれた森を出たのも、より良い生存領域を確保するためだった。彼らの生存圏は100万年後に地球上のすべてに及んだ。かれらの末裔である人類の生存領域が、地球に限定されることはない」
大友はグラスの中身を飲み干し、手の甲で唇を拭った。
「人類は常に新しいフロンティアを求めている。自分たちの版図を拡張し、人口を増やし、経済規模を拡大し続けていく存在だ。歴史的に見ればそれが分かる。ところが20世紀末から21世紀前半にかけて、一時的に足踏み状態になった。原因は、人類の活動領域を地球外へ拡張することが困難だったからだ。大航海時代が始まった頃の状況に似ている。当時新大陸に渡るのは命がけだった。今でも一部の人間は、人類の住みかと言えば地球しか頭にない。だから、経済発展と環境問題を両天秤にかけるような発想しかできないのだ」
「今や状況が変わったということですな」
「宇宙へ行く低コストの輸送手段が宇宙エレベーターによって実現された。今後は政府関係者や学者・技術者だけでなく、新天地を求めて大量の人々が地球を脱出するだろう。非人道的な宗教や旧弊な世界観、あるいは独裁的な政治勢力が支配する国や地域から脱出して自由を求める人々。自分たちの理想的な世界を地球外で実現しようとする人たちだ」
「かつて新大陸アメリカを目指した移民たちのように……」
「そうさ、まず月、月を足場にして火星、それから太陽系の隅々へ。さらに太陽系の彼方、つまり星々の世界へ我々は船出していくんだ……」
預言者のような口調になっていた。
「あなたにとって宇宙開発は、単にビジネスの対象だけではなさそうだ」
「私は子供の頃から宇宙に憧れてきた。そして常に時代の最先端に位置したいという衝動が私をつき動かしてきた。月へ来ることで一つ夢がかなった。次は火星だ。どうかね、あなたも私と一緒に火星へ行かないか? そしてさらにその先へ」
武司は何と答えていいのか分からなかった。大友を前にして別種の生き物を見るような気がした。
(このパワーはどこからくるのか……)
大友はグラスを回収ボックスへ入れた。
「いいものをお見せしよう」
大友は先に立って武司を案内した。新参であるはずの大友が、どうしてシティーの迷路のような通路を自在に進んでいけるのか不思議だった。やがて通路の行き止まりの扉の前で大友は立ち止まった。そこが一体シティーのどの辺りに位置するのか、武司にはさっぱり分からなかった。扉を開けると大友は武司を招じ入れた。
中は真っ暗で、非常灯の周辺だけ光があった。ペンライトを持った女が闇の中から現れて武司を誘導した。映画館か劇場のようだと武司は思った。間近に大友の声がした。
「ご存知でしょうが、私は金融業をやっとります。そこで本題に入る前に、少し映像を見ていただきたいのです」
空中に明るい棒グラフがずらりと立ち並んだ。赤と青の2本の棒が重なり合って展開している。
「横軸は時間。縦軸の赤は金融資本を、青は実体経済を表しています」
青い棒が左から右へ時間軸に沿って指数関数的に持ちあがっている。時間軸の中頃に初めて赤い棒が現れる。右へ行くにつれて上昇していき、青い棒を超え、右端では青い棒の3倍の高さになった。
「これは紀元0年から現在までのグラフです。時間軸を変えます。19世紀末からにしましょう」
横軸の左端、1890年で赤い棒の高さが青い棒の高さに並んだ。
「19世紀末というと、資本主義の始まりかな」
武司がつぶやいた。
「帝国主義の始まりとも言えます。横軸は19世紀末から現在までの170年間です」
「赤が青を追い越していきますな」
「これ以降、金融資本が世界経済に影響を及ぼしていく。余剰となった各国の資本が世界中に投資の対象を拡げて行く。その結果、市場や天然資源を巡る争奪が世界中で起きる。つまり列強の帝国主義的経済活動が戦争の原因になるわけですな」
「前世紀の二度の世界大戦も金融資本がなせる業だと……」
「金融面だけから見ればね。しかし世界大戦は結果的に余剰の金融資本を消費させた。逆説的だがダイエットになった」
グラフは20世紀の中葉で赤と青の2本の棒が再び並んでいた。しかしすぐに赤色の伸びが青色を追い越していく。
「グローバリズムというコトバを覚えておられますか」
「昔、よく聞きましたな」
「世界が均一化して、金融資本は国籍を離れて投資先を探すようになった。しかし有望なフロンティアが地球上にはもうない。そこで金融資本は、実体経済の営みから離れ、融資の対象を人工的に造り出す。世界中のだぶついた資金を引き受ける金融派生商品を大量に流通させる。実体経済との乖離が限界まで達して破綻。この繰り返しです。なぜなら金融の原理とは、人間の飽くなき欲望なんです。つまり、金が増えること、言い換えれば生活が豊かになることを人は切に望んでいる。そういう意味で実に普遍的だ……」
「お話は良く分かるんですがね。そもそも私はどうしてここに来ておるのでしょうか?」
「おお、そうでした。カレッジで教えているものだから、つい講義のようになってしまって」
大友は頭を掻きながら
「未来のグラフをあなたにお見せしたかったのです」。
未来の経済成長グラフは2100年頃から実体経済が指数関数的に成長し、金融経済との不健全なギャップが半永久的に解消されることを示していた。世界経済の飛躍的な発展の要因は、宇宙進出による人類の活動範囲の急膨張にあるらしい。
映像が暗転したその時、武司はちくりとした微かな痛みを首筋に感じた――。
武司と大友はフロアのテーブルに向かい合って座っていた。全面ガラス張りの窓の外は青々とした竹林だった。
「今お話したことは、私の主観的な想像や願望が反映された予測などではないと理解していただきたいのです」
「量子コンピュータの予言なんでしょう? 世界でトップクラスの性能を持つ、ヒミコとかいう……」
「ここではいつの間にか秘密が漏れてしまうようだ」
大友が苦笑した。
「株の予想をしているという噂もありますが」
「個々の銘柄の予想はまだ出来ないが、マクロ的なトレンドはよく予想する」
「あらかじめ結果が分かっていれば、投機は成り立ちませんな」
「そう。皆が予測に沿った売買をしたら、予想価はますます確度が上がり、計算通りの損益となる。天気予報と同じだ。株価の変動を予測できたら、対策も講じられる。暴落を事前に察知し、資産を安全な場所に退避させ、損失を免れることが可能です」
「量子コンピュータはまだまだ可能性があるようですな……」
「株の予想なんて序の口らしい。今後の進化は専門家も予想できないそうだ」
「時に……」
「うん?」
「ここはどこですかね? シティーじゃなさそうだ」」
「テヅカツーム。ジュールベルヌ区のはずれです」
「………」
テヅカ・ツームの正式名称は「手塚治虫記念創造科学研究所」だが、所員らはみな「手塚古墳」と呼んでいる。建物の大半が地中に埋められ、盛り土された外観が、日本の古代の古墳を連想させるためらしい。
武司と大友はヒミコの計算制御室に向かっていた。不思議なことに武司は車椅子を使わず自分の足で歩いていた。
「それにしても古墳の中にヒミコとは、でき過ぎですな」
大友は大声で笑いながら
「いかにも。鬼道をよくいたしますぞ、彼女は」
しかし彼らの行く手は分厚いコンクリートの扉で阻まれた。案内役の所員が申し訳なさそうに、
「演算を始めましたので、立ち入り禁止となりました」。
「ヒミコの静寂を妨げるのかな」
「残念ながら・・・」
という大友の声――。
気が付くと武司はシティーの自室のベッドの上にいた――。
12 月の温泉
「日本の皆さんこんにちわ。三十路かぐや姫の千鳥真衣です。民放連特番、世界の驚異を見て回る特別編としまして、月からはシティーの新名所より生中継でお送りします……オープニングはこんな感じでいいの?」
真衣がやや戸惑いながらモニター上の人物に問うた。大阪の局のプロデューサーである。「ええよ。ほら、今回、宇宙エレベーター試運転で月へ行くスポンサーの山田翔太が連れていく新しい彼女。あれって、お笑いタレントの山崎みどりなんよ。それで山田が、千鳥真衣に任せて自由に、ただし、自分たちをネタに面白おかしくやってくれって希望なの」
ライトが一斉にともった。テレビカメラが回る。もうもうと上がる湯気の中から、かつらを被り十二単もどきの衣装をまとった真衣が現れた。アップで冒頭をしゃベり終わると、湯の中で頭を並ベる二人にマイクを向けた。
「ずばり、今のご気分は?」
「最高! 月の温泉一番乗りだぁ!」
カップルは打ち合わせ通り、湯の中から勢いよく両腕を突き出した。
「お湯はいかが?」
「つるつるすベすベ。まるで……山形の銀山温泉みたいだ!」
「いいえ、有馬温泉よ。茶褐色のこのお湯、これ鉄分よ」
「翔太さん、みどりちゃん。このお湯、メタケイ酸や鉄、カルシウム、ナトリウム、アルミニウム、水素イオンが合わせて温泉1キログラム中に5千ミリグラムも溶け込んでるの。比較する温泉なんてないそうよ」
「すごーい」
みどりの顔が真っ赤に上気していた。
山田は根っからの温泉ファンで、自前のたらいとタオルをいつも旅先に持って行く。月へも苦労して持ち込んだ。大の秘湯ファンである山崎みどりとも、温泉番組で知り合ったのだ。「あたし、何だかぼうっとしてきたわ」
すでにみどりは、茹で蛸のように真っ赤だ。汗が顔面に噴き出した。
「そういえば、おれものぼせて……」
山田が言い終わらないうちに異変が起きた。みどりの頭がかくんとうなだれ、そのまま湯の中にずぶずぶと沈んでいったのだ。
リハーサルで5回も湯に入ったのだから、湯当りするのも不思議ではなかった。みどりはぴちぴちした21歳で、ふた回り近く年長の山田の親父体質とは縁がない。しかも彼らが入った「温泉」は、月の地層に何億年も封じ込まれていた氷を溶かしたもので、地層の鉱物成分をたっぷり含んでいたのだ。
山田もダウンしてしまったので、局では急きょ「月の温泉」プロジェクトの経緯を録画で流し、関係者らの談話を長めにして穴を埋めた。しかし限界はある。人類史上初の月の温泉の中継で「閉め」が誰もいない湯船では絵にならない。CMが流れる間に真衣は衣装を取り、バスタオルを巻いて髪を結った。
視聴者はCMの後、湯の中で陶然とした表情でマイクを握る真衣を見た。真衣は純和風の凝った造りの浴室や、富士山のペンキ絵ならぬ、地球を映し出す全面ディスプレイなどを紹介して、エンディングに持って行くつもりだった――。
13 月のニューイヤーコンサート
魔法のように霧が晴れ、ドナウ川のさざなみが眼下に拡がった。水面が朝日を反射して魚の背のようにきらきら光っている――。
シルヴィ・アポニーは枕元の時計を見た。午前7時。起きるべきか、もう一眠りするベきか逡巡したのち、シルヴィは、今見た夢を吉としてベッドから抜け出した。
人生の節目で必ず見る夢だった。ドナウ川の輝きは「タクシーで空港へ行く時にエリザベト橋の上で見た景色よ」と母から教わった。シルヴィが6歳の時だ。一家はブダペストからニューヨークへ移住した。両親がハンガリーの外務省から国連へ転勤したからだった。
「もう起きるの?」
シルヴィの母が寝間着のまま、あくびしながら寝室から出てきた。
「自分で支度するから。ママはもっと寝てなさい。昨夜も新年会で午前様だったじゃない」
「そうね。日曜日だし、もう少し寝ようっと」
シルヴィは手早く朝食を作った。クロワッサンをカフェオレに浸して食ベながら、黒ひげ先生から注意されてメモしたノートを見た。黒ひげ先生は政治学の教授だがダンスの振付師でもある。
――地球で身に付けた感覚はいったん忘れる。回転も跳躍も早めに心がけて。着地のタイミングを合わせるために拍子の整数倍の時間で跳ぶこと――。これが難しい。低重力の月で地球の感覚で跳ぶと6倍も長く跳んでしまい、間延びするだけでなく、着地が音楽の拍子と途方もなくずれる可能性があるのだ。
こんなことはもちろん、ニューヨークの舞台芸術アカデミーでは教えてくれない。シルヴィが15歳の時に父母が月へ転勤することになり、プロのエンタテーナーになりたかったシルヴィは母方の叔母の家に下宿してアカデミーに通った。が3か月後、アカデミーの先生に「あなたも月へ行きなさい」と諭された。
「異なる重力環境で新しい振り付けを確立しようと模索している場所がある。あなたも参加すべきだ」と。
さらに、シルヴィが秘めた他の才能を生かすためにも、月へいくべきだと叔母に後押しされ、16になった年にシルヴィは父母が待つ月へ行くことにした。あれから1年半――。
開通して間もない、軌道エレベーターを利用して〝来月〟した観光客が街に溢れていた。祝祭的な空気をさらに盛り上げる存在が、新しいシティホールだった。
リハーサル前にホールに入ったシルヴィは、月の基準をはるかに超えた豪華絢爛なホール内のあちこちで、観光客やVIPの一行と出くわした。
ニューイヤーコンサートは、立ち見も入れて1500人の観客で立錐の余地もなかった。指揮者ほか著名な演奏家が地球から参加しており、テレビで同時中継もされた。公演はワルツやオペレッタから抜粋した15曲が演奏された。歌は地球から来た超一流の歌手が主役だったが、舞踊は月の踊り子たちの独壇場だった。シルヴィは一曲歌い、六曲踊った。アンコール曲最後の、バイオリンデュオによる炎のような『チャールダーシュ』に合わせて緩急自在に踊ったシルビィは、総立ちの拍手と歓声の中で幕が下りていくのを、肩で息をしながら半ば放心して見ていた。
14 月の師弟
年が明けて聡は課外研究で日本の古代史を選んだ。その日はカレッジのライブラリーで興味を引く資料を探し、必要な資料をダウンロードしていた。個人の端末では閲覧不可の資料も、カレッジの専用端末なら、自由に見られ、簡単な手続きでダウンロードできるのだった。指導教授の大和田衛(まもる)が聡の傍らに来た。
「君はどういうきっかけで日本の古代史に関心をもったの?」
「中学生の時に邪馬台国の本を読んで興味を持ちました。実際に奈良へも行ったことがあります。その時は古墳だけじゃなく、有名なお寺や仏像も見て回りました」
「私も奈良には行ったことがあるよ」
「先生は古代ローマ史が専門なんでしょ?」
「そうだよ。でも世界の歴史は関連し合っているんだ。例えば仏像のデザインだって、ギリシャ彫刻から伝わる流れがあるからね」
「確かに……。先生は奈良の飛鳥とか行きました?」
「ああ、行ったよ」
「飛鳥に都があった時は蘇我氏とか物部氏とかの豪族の力が強かったんでしょ」
「そう。大化の改新の舞台になったところだ」
「ああ、そうですね」
聡は奈良国立博物館が所蔵する電子資料のページを繰っていた。ふと、何か思いついたように手が止まった。
「先生はどうして月に来たの?」
衛は面食らった。
「どうしてって……何でそんなことを聞くんだい?」
「なんだか、先生は月には合っていないような気が……あ、気分を害しました?」
聡には鋭敏なところがあると思う。
衛は、今まで自分でも意識したことのないことを指摘されたと感じた。所詮おれは短期の滞在者にすぎないということか――。
「それは私が月に適応していないということかな?」
「そうじゃなくて……」
先生を傷つけたと思ったのかもしれない。
「ぼくは地球から脱出したとも言えるんだけど、先生の場合は地球でもやっていける人だと思ったから」
「月にやってくるいきさつは人さまざまなんだね。私の場合は、一度地球の外に出てみたかだからさ。他の天体に行くのは、小さい頃からの夢だったからね」
「先生はずっと月にいるの?」
「3年間の契約期間が終わるまでだよ」
「それはいつ?」
「再来年の3月末」
「そのあとはどうするの?」
「地球に帰ることになるけど……大学院に戻るか、教師になるか、今考えているところさ」
小和田衛は大学で西洋史を専攻した。大学院在学中に、月のカレッジで歴史の教師を公募していることを知り、応募した。多数の応募者の中から選ばれて、2059年カレッジに赴任した。自分が選ばれるとは正直思わなかったが、3D映像回線を経由した面接の際に述ベた持論が審査員に評価されたのかもしれない。曰く、地球外に生存領域を求める人々の精神的支えとなるような歴史認識、さらには、新しい文明ステージを創り上げていける素地となる歴史観を、月の若い市民たちに意識させたいと――。
「君はずっと月にいるのかな?」
「いつか火星に行きたいですね」
「火星か……将来は地球に似た環境に変えられるそうだね」
「そうです。でも、僕はもっと勉強して、いろんな知識や技術を身につけなきゃ」
「そうだね。火星は月以上に一人がいろいろな役割をこなさなきゃいけないところだから。でも、君なら充分やっていけそうだね」
聡は嬉しそうにうなずいた。
「今は、日本の古代史に凝っていますけど」
衛は笑った。
「火星に行っても日本の古代史は勉強できるさ。その道の研究者を紹介してあげるよ」
大学時代の友人で面白い人物の顔が頭に浮かんだ。聡の顔が輝いた。
「ぜひお願いします」
「じゃ、またレポートを出しといて」
「はい、今月中に」
15 月から還る
1月15日のことだった。
「石川家四十六代当主に決まった。すぐ地球に帰れ」という緊急メールが父から届いた。中世史の授業中だった。
そしてその夜、3D映像回線で父が事情をくどくど説明した。まさしく寝耳に水の話だった。だいたい石川宗家と自分が一体どんな関係があるのかと父に問うても、「母さんの里が……」と、あまり要領を得ないので、依然、衛には半信半疑の話だった。さらに画面が切り替わると、
「よっ! 先輩」
と瑠璃が挙手しながら登場したので、衛は驚き大笑いした。……が、大学の乗馬部で後輩だったというだけで、瑠璃がどうしてこんな局面で出てくるのか?
衛のけげんな表情に気が付くと、瑠璃は一転して神妙な口調になり、自分は石川宗家の血筋を引くと明かした。そして――年末の12月に最後の男子だった石川宗家四十五代当主が冬山で遭難死して宗家も分家も男子がいなくなってしまった。分家の一つから出て小和田家に嫁いだ女性が生んだ次男坊である人物、つまり衛が後を継げる唯一の男子である。委細は日本に帰ってからと――。
どこから伝わったのか、シティ―のネット社会で瑠璃を「プリンセス」という者がいた。衛は二日考え抜いた。石川家を継ぐ意味を考えたのだ。――自分が当主になれば瑠璃が妃になる――結論としてはそれくらいの意味しか残らなかった。が、それこそ衛にとって最大の理由だった。月に来た理由も――瑠璃を忘れるためだったのだ
新しくできた電磁シャトルの出発ロビーに人垣があった。中心に衛がいた。薄い超軽量のフィルムで作った造花の花束を贈られ離任の挨拶をした。カレッジの校長や同僚の教授たち、生徒らに拍手されながら衛はプラットフォームに向かった。
「先生! レポートは必ず送りますから」
聡が叫んだ。衛は片手を上げた。聡の横で車椅子に座る武司に頭を下げて、衛は出発ロビーを出た。
「先生、お元気で。お幸せに――」
衛は振り返りながら手を振った
十分後、衛の乗ったシャトルが電車のように地上のレールの上を発車した。体がぐっとシートに押しつけられ数秒で地下トンネルを抜けると、月面の接線方向に矢のようなスピードで走った。さらに2Gまで加速すると、体がシートに沈みこんだ。月面の地形が流れる線のように後ろに飛び去った。そして82秒後、中央駅から65キロの地点で秒速1.6キロに達したシャトルは台車から外れ、投擲(とうてき)器から放たれた弾丸のように宇宙空間に飛び出した。
月周回軌道に乗ったシャトルは、 1時間後、月の周回軌道ステーションに着いた。乗客らはシャトルから連絡通路を通って、地球静止軌道ステーション行の快速旅客船に乗り換えた。静止軌道ステーションまでの所要時間は8時間である。衛ら20人の乗客はキャビンの指定されたポジションに着くと、事前のブリーフイングに従って、壁に固定された寝袋に入りこんだ。頭から全身寝袋にくるまると、自動的に催眠ガスが寝袋内に導入され徐々に眠りにつく。全員が眠ったことをロボットと二人の保安要員が確認し、保安要員が船から出ると、自動的にハッチが閉まり、船はステーションを離脱した。エンジンが点火され船は月から遠ざかった。
それ以後、目的地までの飛行はもちろん、乗客の生命維持システムなどはすべてコンピュータによって管理される。乗客らは目的地に着くまで眠らされるので、飲食のサービスはなかった。船には窓もなく、20人の生命を8時問で無事静止軌道ステーションまで送り届けること以外の機能は一切省略されていた。
衛が目覚めた時には、すでに静止軌道ステーションに着いていた。ロボットが乗客全員の身体状況をチェックしていた。異常がなければ、順にステーションの到着ロビーに案内された。ロビーで最初に目に入ったものは地球の映像だった。到着ロビーの壁面ディスプレイにリアルタイムの地球の立体像が浮かんでいた。3万6千キロ彼方の地球は、月から見るよりは大きかったが、両腕で抱えられるビーチボールのようだった。
静止軌道まで帰って来たという実感がしみじみと湧いてきた。到着ロビーの通関では乗客のうち、衛ら地球に行く者は、月に滞在した期間に応じた重力順化を行うことが勧告された。衛は1週間を指示されたが交渉して5日に短縮させた。エレベーターで南太平洋上の終点まで3日、さらに東京まで1日かかる。遅くとも1月28日までに“お国入り”しなければならなかった。あと9日だった。
ロビー内のカフェで軽い食事が出た。ステーションの回転軸から少し離れたロビー内は、遠心力で月と同等の重力を感じた。衛はサンドイッチとジュースの入ったボックスをテーブルに置いて座った。
「それにしても味気ない旅だったね」
と、顔見知りのアメリカ人記者に話し掛けられた。彼はコーヒーを飲んでいた。
「旅情も何もあったものじゃない…… 」
衛も同感だったが、月から最速で地球に帰る手段としては、現在は他に選択肢がなかった。
「特急便だから仕方がないですよ」
「日本に急用で帰るんだね」
「ええまあ。あなたは?」
「母が急病で、来週手術の予定なんだ」
沈欝な表情になった。が、さすがに新聞記者だった。何か思い出したのか、
「オワダさん?」
衛はうなずいた。
「プリンセス・ルリに婿入りして殿様になるというのは本当かね?」
衛は絶句した。世間は狭い。噂が広まっているようだ。幾分事実とは異なると思うが、衛自身詳細が分からないので、否定はしなかった。
「おめでとう」
と握手を求められ、写真を撮られた。
「ありがとう」
と答えざるを得ず、衛は仏頂面でサンドイッチを頬張った。
それから5日間、衛はステーションに滞在した。1日ごとに、回転するステーションの外周方向に移動しながら、地球の重力である1Gに体を慣らしていった。静止ステーションは、開業してわずか3か月の間に旅客や貨物の輸送が急増しているらしい。すでに2本目のエレベーターの建設が始まっており、地球からは頻繁に資材の運搬が行われていた。政府筋や報道関係はもちろん、観光客もひっきりなしにエレベーターで上がってきていた。ステーション自体がターミナルとしての機能を強化するために、施設の拡充や居住性の向上のための建設工事が三交代で24時間行われていた。
ステーションに来て6日目にようやくエレベーターで下りることになった。と言っても降下速度は平均時速五百キロで、リニア新幹線と変わらない速度だから、3万6千キロ下のキリバスにあるアースポートまで72時間、つまり3日かかることになる。エレベーターの寵に当たるクルーザーは、16人の乗客が3日間、最低限の快適さで過ごせるようなシステムを備えていた。クルーザーは3両まで連結できるが、衛の降下時は2両連結だった。乗客らはステーション中心部の出発ロビーから通関を出てクルーザーに乗りこむ。2両のクルーザーは、上から吊るされたウインナソーセージのようだった。つまり円筒形の茶筒の上下が流線形に絞られた形で、太陽光を反射するために表面が金色にコーティングされている。キャビンは、円筒形の内部が上下に4つのフロアで仕切られ、各フロアに4人ずつ乗ることになる。3日間過ごすために各人ごとの仕切りがあり、仕切られた個室には、ベッド兼用の肘掛けのある座席と、座席の横には円い窓があった。設備は飛行機のファーストクラス並みだが、食事はそういうわけにはいかず、フロアの中心軸部にある自動調理器から供される味気ないものばかりだった。
地上に降りていく3日間のうち2日以上は、地球がひと抱えの大きさから視野に収まりきらない大きさになっていく過程を見るだけだった。地球を周回せず、ただ一直線に太平洋に向かって降りるので、景色の変化はない。しかも1日の半分は窓から太陽光が入るためにシャッターを下ろすので、その時は衛も備え付けのディスプレイで動画を視聴したり地球や月のニュースを見ていた。
ステーションを出発して1時間経った時だった。メールの着信があった。例のアメリカ人記者からだった。シティー版デイリーニュースを見るように、とあった。ロスアンゼルスへ戻る個人的な経緯と地球への帰路の旅を手記のように掲載してあり、ステーションで「時の人」に出会ったとして、衛のことが写真入りで紹介されていた。「姫が待つ地球に向かう」という小見出しには笑った。今、彼も下のフロアで自分の記事を見ているのだろうと衛は思った。
静止ステーションを発って71時間後、地球からの高度300キロまで来た。かつて国際宇宙ステーションがあった高度だが、クルーザー内部では、すでに地球重力の1G近くあった。ステーションで5日間体を慣らしたはずだが、エレベーターの旅が無重力から始まったので、今はまた体を動かすのがいちいち大儀だった。
次第に大気が濃くなるため、降下速度は時速300キロまで減速した。つまり後1時間で到着である。船内アナウンスが身支度の準備を告げた。慌ただしい時間帯だが、地球の景色を眺める絶好の時間でもあった。ちょうど夕暮れ時の太平洋に向かって降りていた。地平線を赤く染めながら太陽が沈み、刻々に暮れていく海が眼下にあった。衛がカバンなどに小物類を入れたり着替えをする間に、クルーザーは地上駅のある海上島の上空10キロにいた。慌てて窓に額をくっつけて見るうちに、すっかり日が落ち、ライトで煌々と照らされた光の中心に降りて行った。
キリバスの海上島の空港から超音速機で東京まで1時間だったが、当日の便はすでになく、6時間かかるが、東京行普通便に乗ることにした。
「慌ただしい旅だったね。お幸せに」
「お母さんの手術がうまくいきますように」
アメリカ人記者と別れの挨拶を交わしてから飛行機に乗った。6時間後に成田に着いた。それが1月26日の夜8時のことである。いったん東京の実家に帰って、翌日午後1時羽田発の飛行機に乗った。空港からタクシーに乗って2時間後、午後4時に無事“お国入り”することができた。月中央駅を発って9日と14時間経っていた。ぎりぎり間に合った―― 。
16 軒先の月
石川家の祖は、遠く古代のヤマトの豪族まで遡るという。
衛は石川郷の町役場で、家老の末裔という町の収入役から途方もなく長い系図を見せられた。
式典の前日のことだった。式典は厳密には御柱の奉納と言い、毎年旧暦の1月8日に行う。家祖を祀った石川神社で郷の民から献上された木の柱のミニチュアを当主が捧げるという儀式で、千年以上続く最重要な行事であるらしかった。
式典は降りしきる雪の中で執り行われた。東京で生まれて育った衛には初めての経験ばかりだった。夜は祝賀会が開かれ、 四十六代当主となった衛は、ひな壇のような上座に座り、傍らの小姓役の少年に酒を注がれた。当主はただ黙って酒を飲んでいればよく、面倒な挨拶や酒のやり取りなどは家臣衆が行った。当主は宴席を中座する慣わしとかで、衛は酔いを醒ますために外に出た。
雪が止んでいた。積もった雪が明るかった。見上げると軒先に月が出ていた。下弦の月が眩しく輝いていた。そういえば地球に戻ってから、まともに月を見ていなかった……。
「向こうにいい人でもいたのかな」
瑠璃だった。
「はあ? そんなのいないって。それよりお前どこにいたの?」
「女は会場が別なの」
瑠璃は髪を結い上げて着物を着ていた。別人のようだった。
「当主はお国入りするって決まり知ってる?」
「今、お国入りしてるじゃないか」
「そうじゃなくて。ここで住むってこと」
「ああ、昨日聞いたよ」
「月には戻れないよ」
「仕方ないだろ」
「これからは、ここに住むあなたの未来を考えて。石川郷の人たちと、あなたの妻となる私のために」
いつになく神妙な言い方だった。
「妻って、お前……」
衛はわざとそっけなく返した。しかしもちろん、内心は正反対だった。紆余曲折あったが、とうとう瑠璃を伴侶にすることができる幸せを噛みしめていた。が、気持ちとは裏腹に、衛は相変わらずぶっきらぼうだった。
「分かった。とりあえず、よろしく」
衛がぎこちなく右手を差し出した。瑠璃は神妙な面持ちで、
「こちらこそ」
と右手を握った途端、ぷっと吹き出した……。
――10年後の夏のある夜。小高い丘の上の天守閣から、一家が東の空を見上げていた。視線の先にはひときわ鋭く光る火星があった。衛は火星へ行った聡とシルヴィの話をした。子どもたちが口々に火星に行きたいと言い出した。衛は少し困った顔をして
「子どもがみんな火星へ行ってしまったらどうする?」
と瑠璃に向けた。瑠璃は少し考えてから
「火星石川家の始まりだわ」
と言った。
小説作品集「女の都」(文芸社刊)より
月物語