映画『悪は存在しない』レビュー

 本作の話の筋自体はそれほど複雑なものじゃありません。
 コロナ禍で所属タレントを上手くキャスティングできなくなり、資金繰りに窮した芸能事務所がグランピング事業に出される公的機関の補助金を受け、コンサルタントの助言どおりにその予算を必要最小限に抑える事で事務所存続の為に合法的な資金流用を図ろうとした。
 けれどグランピング開発により建設予定地に与える影響は大きい。計画書の内容は当然に杜撰だし、担当である二人の社員、高橋と黛は元々芸能人のマネージャーだから地元民からの質問にも上手く答えられない。開催した説明会において、事業者側は彼らの理解を得られません。
 もっともその溝を全く埋められなくなったという訳でもなく、元々他所から移ってきた開拓者という意識の強い地元民の中にはその計画次第では協力できないこともないという態度の者がいた。メインの登場人物である花の父親、巧もその一人です。
 突き上げを喰らった説明会から計画を持ち帰り、中止の判断を社長に促しても聞き入れて貰えなかった高橋と黛はコンサルの提案にあった①「村の便利屋と称する巧にグランピングの管理者をやってもらう」という案を受け入れてもらおうと巧の元を訪ねますが、彼の承諾は得られなかった。
 なのでその道中に高橋が黛に対して話していた冗談みたいな腹案、②芸能マネージャーを辞めた高橋が巧の元で山村の暮らしを学び取り、そこで暮らしながらグランピングの管理者をするという思い付きを実現する為に行動する。悲劇はそうして起こります。
 複数の要因が偶然にも重なり、最も最悪な形で結実した事態は恐らく上記グランピング事業を中止させるのに十分な衝撃を与えるものだったでしょう。ことの顛末がスクリーン上で一秒たりとも描かれなかった分、その想像は観客の脳内で過剰に巻き起こります。


 エンディングを迎えて、およその視聴者が本作に対して抱く(であろう)消化不良の感覚は、起きた悲劇をどれだけ遡っても因果関係の紐が断ち切れない所にあると私は考えます。
 こうしていれば、ああしていればという想定で腑分けできるifの分岐点は、そこから続く別の未来を創出することを人々に許します。それがどれだけの救いになるかは天災、人災のいずれを問わず現実社会で巻き起こる事態を目の当たりにすれば、容易に理解できるところだと思います。しかしながら、本作はその救いをこそ許さないのです。
 刑法の概念である過失責任は、予見できた結果を回避するのに必要だった行動を取らなかった不注意に基づいて罪責を問うものと理解していますが、本作の結末については、かかる過失責任をもってしても誰ひとり断罪することができません。あの結果を、誰が予見できたというのでしょうか。不注意を問うなら、むしろ悲劇に見舞われた本人の方では?
 論理的に語ろうとすれば、非人道的にしか事が収まらない。それを誰もが受け入れられないのは当然の話です。そこから膨張し始める因果関係に従って「悪」と名付けたくなるのは本作のストーリーラインそのもので、けれど、そう名付けた途端に自然と湧き上がる違和感にこそ倫理観の萌芽は認められます。ゆえに運命、なんて簡単に使いたくない言葉を本作には力の限りで投げつけたくなる。その衝撃音を聞いても、しかし何もすっきりはしない。落ち着かない心持ちにのしかかる『悪は存在しない』というタイトル。こうして非情に過ぎるオープンエンドの地獄の底に全観客が叩き落とされます。


 そんな救われない物語を描くのに濱口竜介監督が採用するのは可能な限りに人称性を排したカメラワークであり、話を進める意図を見失ったと思えるぐらいに無意味で、かつ芸術性に富んだ人と自然の関係を映し出す演出意識です。ロケ地で湧くインスピレーションに従い、即興的に積み上げた映像美の数々を純度100パーセントの形で保ったまま編集できたことに誰よりも驚いているのは監督自身では?と妄想してしまうぐらいに本作の映像表現は完成度が高く、かつ偶然の要素に満ちています。
 ここに加わる石橋英子さんの劇伴もまた大絶賛すべきクオリティで、上記した物語性を無視してでも楽しめる記録映画的側面をリアルタイムに磨き上げていきます。「本読み」と呼ばれる濱口監督特有の台詞に関する演出も、劇中において巧といった主要な登場人物のキャラクター性に回収されない音楽性を獲得している。そんな台詞たちが非言語的に浮かび上がらせる人物像の方は、特に巧に関してミステリアスで不気味な側面を観客に補充させる副次的効果を生んでいるように私は感じました。
 公開から2年経とうとする今においても、本作が成し遂げた表現はいい意味で異常。第80回ヴェネツィア国際映画祭にて本作が銀獅子賞を受賞したのも当然だと深く納得するばかりです。
 商業映画一般と比べれば、本作は万人受けしない作品だと言わざるを得ません。けれど、ぶっ刺さる人には死んでも忘れられない一作になること間違いなしです。なので、オススメ!とは言いません。2026年3月の時点でどこのプラットフォームでも配信はされていませんし、観るならBlu-rayなどを購入するしかない作品なので、ご自身の直観を信じて『悪は存在しない』を観るか否かを決めて欲しい。観終わった後の衝撃だけは保証します。是非。

映画『悪は存在しない』レビュー

映画『悪は存在しない』レビュー

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-03-20

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