終わりなき神話 愛の記憶

本作は、終わりなき神話長編小説が戦闘、神話的、SF的な部分を強くしているので、より恋愛的な方向性を強くした作品です。
元々、ムーライトノベルズような書いたのですが、こちらで公開することにしました。

『太陽の恋 1』

『太陽の恋 1』

―人間だった頃―

 午後の街は、静かな音で満ちていた。

 商店街の奥にある小さなレコード店。壁一面に並ぶ古いジャケット。埃の匂いと、ビニールのかすかな甘い匂いが混ざり合い、時間がゆっくりと沈んでいく場所だった。

 男は、棚の前で立ち止まった。

 名はアポロン。

 それはまだ、神でも何でもない。人間として生きていた時代の名前だった。

 彼は一枚のレコードを探していた。
 タイトルは「クローズ」。

 旋律だけを聞いたことがある。どこで聞いたのか思い出せない。ただ、その音だけが心の奥に残り続けていた。

 指先でレコードの背表紙をなぞる。

 見つからないらしい。

「すみません」

 店員に声をかける。

「『クローズ』というレコードを探しているんですが」

 店員は端末を確認し、少し困った顔をした。

「申し訳ありません。入荷記録はあるんですが、在庫はないようですね」

 そうですか、と言いかけたときだった。

「え?」

 近くで小さな声がした。

 振り向くと、一人の女性が立っていた。

 長い黒髪。薄いグレーのコート。少し驚いたように、彼を見ている。

「……もしかして」

 彼女は言った。

「『クローズ』、探してるんですか?」

 アポロンは眼を細めた。

「知っているんですか?」

「ええ、わたしもそれ、探してるんです」

 思わず顔を見つめる。

「どこで知ったんです?」

 女性は少し照れたように笑った。

「ネットです。誰かが上げてた旋律だけの動画。すごく綺麗な曲で……それで、どうしてもちゃんと聴きたくて」

 楽しそうに話すその表情に、アポロンは興味を持った。

 音楽の話をする人間は多い。
 だが、彼女の言葉には、純粋な喜びがあった。

「あなたも?」

 彼女が聞く。

「同じ理由です」

 アポロンは淡々と答えた。

 ほんの少し沈黙が流れる。

 レコード店の奥で古いジャズが流れている。

「もしよかったら」

 彼女が思いついたように言った。

「この近くに喫茶店があるんです。そこで、もう少し話しませんか?」

 誘いは、自然だった。

 アポロンは戸惑いの気持ちもあったが、頷いた。

 喫茶店は古い店だった。

 木のテーブルと、柔らかい照明。コーヒーの香りが静かに漂っている。

 二人は窓際の席に座った。

「まだ自己紹介まだでしたね。わたしはミキです」

 彼女は笑顔で言った。

「アポロン」

 名前を告げると、ミキは少し笑った。

「本名ですか?」

「そうですが」

「神様の名前ですよね」

 彼女はコーヒーカップを手に取りながら言う。

「知っていますか?」

「もちろん。音楽の神様でもありますよね」

 アポロンは少しだけ笑った。

「音楽の神」

「だから、音楽を探してるのかなって思いました」

 ミキは楽しそうに言った。

 二人はそこから、音楽の話をした。

 古いレコード、好きな旋律、街で聞いた音。

 話は尽きなかった。

 時間は、静かに流れていく。

「ミキさんは、日本の人ですか?」

 アポロンが率直に聞く。

「はい。でも今はアメリカに住んでます」

「仕事で?」

「看護師をしています」

 アポロンは少し驚いた。

「大変でしょう」

「看護師はどこの国でも大変です。でも好きなんです」

 と彼女は楽し気に笑った。

「人のそばにいる仕事だから」

 その言葉を聞いたとき、アポロンは不思議な感覚を覚えた。

 人のそばにいる。

 その言葉が、妙に心に残った。

 窓の外では、夕方の光が街を包み始めている。

 二人は気づけば、何時間も話していた。

 音楽の話、旅の話、世界の話。

 ミキは時々、くすくす笑った。

「不思議ですね」

 彼女が言う。

「初めて会ったのに、こんなに話してる」

 アポロンも頷いた。

 確かに不思議だった。だが、それが嫌ではない。

 むしろ、心地よかった。

 このとき、アポロンはまだ知らなかった。

 この出会いが、自分の運命を変えることを。

 人間という存在を、これほど深く理解するきっかけになることを。

 ただ彼は、目の前で微笑む女性を見ていた。

 ミキ。

 彼女の名前を、静かに心の中で繰り返していた。

『太陽の恋』2へ続く

『太陽の恋 2」

―人間だった頃―

 店を出たとき、夜の空気は昼よりも少し冷えていた。

 街の灯りが路地を静かに照らし、遠くから車の音がかすかに聞こえる。レコード店の前で、ミキはコートの襟を少し引き寄せた。

「ずいぶん長く話しましたね」

 彼女が笑う。

 アポロンは腕時計を見た。確かに何時間も経っていた。しかし不思議なことに、時間の重さはほとんど感じなかった。

「退屈ではありませんでしたか」

「まさか」

 ミキは首を振る。

「こんなに音楽の話をしたの、久しぶりです」

 二人はゆっくり歩き始めた。夜の街は昼よりも静かで、空気が澄んでいる。

「普段は病院ばかりで」

 ミキは言う。

「忙しいんです。アメリカの病院って、想像以上に慌ただしくて」

「アメリカに住んでいるんですね」

「夢だったんですよ、海外で生活するのが」

 アポロンは彼女の横顔を見た。街灯の光が、黒い髪を柔らかく照らしている。

「あと一週間で戻ります」

 ミキはそう言った。

 その言葉を聞いたとき、なぜか胸の奥に小さな違和感が生まれた。理由は分からない。ただ、その一週間という時間が妙に短く感じられた。

 川沿いの道へ出ると、風が少し強くなった。

「星、見えますね」

 ミキが空を見上げる。

 アポロンも空を見た。人間の眼で見る星は、どこか遠く、静かだった。

「アポロンさん」

「はい」

「あなた、ちょっと変わってますよね」

 突然の言葉だった。

「そうですか?」

「うん」

 彼女は笑う。

「なんていうか……普通の人と話してる感じがしない」

 アポロンは答えなかった。ある意味、正しかったからだ。

「でも」

 ミキは続ける。

「嫌じゃないです」

 その言葉と一緒に、彼女の視線が彼に向けられた。

 彼女の眼はとても柔らかかった。

 二人は川のそばのベンチに座った。

 夜風が静かに流れる。

「寒くないですか?」

「少し」

 ミキは笑った。

 そのとき、ふとした動きで二人の肩が触れた。

 ほんの一瞬の接触だったが、ミキは少し驚いたように顔を上げた。

「ごめんなさい」

 沈黙が落ちる。

 ミキの髪が風で揺れ、ほのかな香りが漂う。

 アポロンは自分の心臓がわずかに速く動いていることに気づいた。人間の身体は、時々理解できない反応をする。

 ミキはゆっくりと彼を見た。

「アポロンさん」

「はい」

「もし……」

 彼女は言葉を少し迷わせた。

「もし、また会えるなら」

 アポロンは静かに言った。

「会いましょう」

 ミキはほっとしたように微笑んだ。

 そのとき、彼女の指が彼の手に触れた。

 今度は偶然ではなかった。

 柔らかな手。温かな体温。

 アポロンはその感触を静かに受け止めていた。

 しばらくして、ミキは小さな声で言った。

「……ホテル、すぐ近くなんです」

 彼女の手はまだ彼の手の上にあった。

 アポロンはその手をそっと握り返した。

 ホテルの部屋に入ると、静かな空気が広がっていた。窓の外には街の灯りが揺れている。

 ミキは少し照れたように笑った。

「なんだか、不思議ですね」

「何がです?」

「今日初めて会ったのに」

 彼女は少しだけ肩をすくめた。

「こんなふうに一緒にいるなんて」

 アポロンは答えず、彼女を見ていた。

 ミキはゆっくりとコートを脱ぎ、椅子に掛けた。彼の前に立つ。視線が合う。

 少しの沈黙。

 やがて彼女は静かに服を脱ぎ始めた。

 躊躇いはあった。だが、その動きはどこか自然だった。

 柔らかな光の中で、彼女の肌が静かに現れる。

 ミキは少し恥ずかしそうに笑った。

「……こういうの、久しぶりで」

 アポロンは近づき、彼女を抱き寄せた。

 二人の肌が触れ合う。

 温かな体温が伝わってくる。

「人って、こんなに温かいんですね」

 彼は思わずそう言った。

 ミキは少し驚き、優しく笑った。

「当たり前ですよ」

 彼女の腕が彼の背中に回る。

 二人はゆっくりとベッドに倒れ込んだ。

 唇が触れる。ミキの身体には熱い物が込み上げてきた。頭が真っ白になっていくのが分かった。

 夜は長く、静かに続いていった。

『太陽の恋』3へ続く

『太陽の恋 3」

『太陽の恋 3』

 朝、わたしは先に眼を覚ました。

 カーテンの隙間から柔らかな光が差し込んでいる。静かなホテルの部屋。遠くから車の音が小さく聞こえるだけだった。

 隣にはアポロンが眠っていた。

 わたしは少しだけ身体を起こし、彼の顔を見つめる。こんなふうに誰かの寝顔を見るのは、久しぶりだった。

 不思議な人。

 昨日、レコード店で出会ったばかりなのに、まるでずっと前から知っていたような気がする。

 わたしはシーツを少し胸まで引き上げた。身体にはまだ彼の体温が残っている。

 昨夜のことを思い出すと、少しだけ頬が熱くなる。

 何度も抱き合い、何度も笑った。まるで時間が止まっているみたいだった。

 わたしはそっと手を伸ばし、彼の指に触れる。

 その瞬間、アポロンの眼がゆっくりと開いた。

「おはよう」

 低く静かな声だった。

「おはよう」

 わたしも笑う。

「よく眠れました?」

 アポロンは少しだけ笑った。

「久しぶりに」

 その言葉がなぜか印象に残った。

 わたしはベッドから降り、窓のそばに立つ。朝の街がゆっくり動き始めていた。

「今日、何か予定あります?」

 振り返って聞くと、彼は少し考えてから言った。

「ありません」

「じゃあ」

 わたしは笑った。

「一日だけ、東京を案内します」

 それから数日、わたしたちはほとんど毎日会った。

 レコード店を回り、古い喫茶店でコーヒーを飲み、夜は静かなバーで音楽を聴いた。

 ときどきホテルの部屋で過ごした。

 抱きしめられると、なぜか安心した。彼の腕の中にいると、世界の音が遠くなる。

 アポロンはあまり自分のことを話さなかった。

 でも音楽の話になると、信じられないほど詳しかった。

「どうしてそんなに知ってるの?」

 ある夜、わたしは聞いた。

 彼は少し考えてから言った。

「長い時間、聴いてきたから」

 その答えは、どこか冗談のようでもあり、本気のようでもあった。

 アメリカへ戻る日が近づくにつれ、わたしは少しだけ不安になっていた。

 この人は、どこか遠くへ行ってしまいそうな気がしたから。

 ある夜、わたしたちは窓の外の夜景を見ていた。

「ミキ」

 アポロンがわたしの名前を呼ぶ。

「はい?」

「あなたは、今の人生が好きですか」

 突然の質問だった。

「好きですよ」

 わたしは少し笑った。

「忙しいけど、嫌いじゃない」

 彼は静かにうなずいた。

 少し強引に、わたしを抱き寄せた。

 その抱きしめ方が、なぜか少し強かった。

「どうしたの?」

「……いえ」

 その夜も、わたしたちは長い時間を一緒に過ごした。

 まるで別れを惜しむみたいに。

 でも、そのときのわたしは、まだそれに気づいていなかった。

 ある朝、わたしが眼を覚ますと、部屋には誰もいなかった。

 ベッドの隣は空いている。

 バスルームも、リビングも、静まり返っていた。

「アポロン?」

 返事はない。

 テーブルの上に、一枚の紙だけが置かれていた。

 そこには短い言葉が書かれていた。

 ――ありがとう。

 それだけだった。

 わたしはしばらくその紙を見つめていた。

 理由も、説明も、何もない。

 ただ、彼はいなくなっていた。

 それから何年も経った。

 わたしはアメリカに戻り、また病院で働いている。

 忙しい毎日。

 患者の声、機械の音、夜勤の疲れ。

 普通の生活。

 でも、ときどき思い出す。

 あのレコード店。

 あの喫茶店。

 そして、あの夜。

 今でも、時々レコードを探すことがある。

『クローズ』

 あのとき、見つからなかったレコード。

 もし、またどこかで見つけたら。

 そのときはきっと、彼のことを思い出すだろう。

 名前だけを残して消えた、不思議な人。

 アポロン。

 あの人は、本当にただの人だったのだろうか。

 そんなことを、ときどき考える。

 でも答えは、きっともう分からない。

『太陽の恋』 完

『戦の女神の恋』

――神になる前の時代

エーゲ海から吹く風は、春でも少し冷たかった。

アテナは小さな作業机の前で、細い金属線を曲げていた。
真鍮の輪に、銀の糸を編み込む。細かな模様が形を作っていく。指先は慣れたものだった。

彼女の仕事は工芸だった。アクセサリーや小さな装飾品を作り、観光客の多い店に卸す。古い神殿の近くの店で売られることも多く、神話をモチーフにした作品は特に人気だった。

窓の外には、白い石造りの街並みが見える。遠くにはアクロポリスの丘も見えていた。

アテナは作業を止め、机の横に置いたノートパソコンに眼を向けた。画面には、開いたままの論文ページが表示されている。

タイトルは奇妙だった。

「宇宙文明と神話の相関性――神々は宇宙に存在するのか」

思わず苦笑が漏れた。

「ずいぶん大胆な題ね」

だがページを閉じる気にはならなかった。

書いたのは、ギリシャの大学に所属する研究者らしい。名前は

ペトロ・カリディス。

文章は真面目だった。神話を単なる伝説として片付けるのではなく、人類が宇宙文明と接触した記憶なのではないか、と考察している。

オリュンポスの神々。雷を操るゼウス。海を支配するポセイドン。知恵の女神アテナ。

アテナはその名前の部分で、少しだけ指を止めた。

「わたしと同じ名前」

 別に珍しいことではない。この国では、神の名前は普通に使われる。

 それでも、何となく胸に引っかかるものがあった。

 論文は続いていた。

 もし宇宙に知性が存在するなら、人類の神話は単なる想像ではない可能性がある。

 古代人はそれを神と呼んだ。

 今、人類はようやく宇宙へ手を伸ばし始めている。

 アテナは腕を組み、椅子に深く座った。

 奇妙な感覚だった。

 この論文を書いた男は、どこか本気だった。夢想ではない。本当に宇宙に何かがあると信じている。

 神々の存在を、信じている。

 アテナはしばらく画面を見つめていたが、ふと小さく息を吐いた。

「少し話してみようかしら」

 自分でも理由は分からない。

 ただ、その論文を書いた人物に興味が湧いた。こんな真剣に神を語る人間がいるのか、知りたくなったのだ。

 彼女はキーボードに指を置いた。

 メールフォームが開く。

 しばらく考え、短く打ち込む。

『あなたの論文を読みました。とても興味深い内容でした。神々が宇宙にいる可能性について、もう少し詳しく聞いてみたいです。』

 送信ボタンの上で、指が一瞬止まる。

 自分でも少しおかしく思えた。

 知らない研究者に、いきなりメールを送る。それも神の話について。

「変に思われるかしら」

 だが次の瞬間、アテナは肩をすくめた。

 別に構わない。返事が来なければそれまでだ。

 彼女はクリックした。

 メールは送信された。

 そのままノートパソコンを閉じようとしたとき、通知音が鳴った。

 アテナは驚いて画面を見た。

 こんなに早く?

 メールを開く。

 文章は長かった。驚くほど熱量があった。

『メールありがとうございます。論文を読んでくれた人がいるのは嬉しいです。神話は単なる物語ではないと私は思っています。人類が宇宙を理解できなかった時代の記録かもしれない。』

 読み進めるうち、アテナは思わず笑っていた。

 この男は、かなり熱心だった。

 神話の構造。古代文明。宇宙物理学。

 すべてを結びつけて語っている。

 夢物語のようでいて、どこか理論的でもある。

 メールの最後に、こう書かれていた。

 もしよければ、大学に来ませんか。直接話した方が早いと思います。コーヒーくらいなら出せます。

 アテナは画面を見つめた。

 ゆっくりと椅子にもたれた。

「大学……」

 外では夕方の光が街を染めていた。エーゲ海の風が窓を揺らす。

 アテナは再び画面に視線を戻した。

 ペトロ。

 宇宙を語る男。

 神々を信じている研究者。

 彼に会ったら、何を思うだろう。

 アテナは小さく笑った。

「いいわ」

 返信を書いた。

『行ってみます。神について、あなたが何を考えているのか聞いてみたい。』
 送信を押す。

 その瞬間、アテナの胸の奥に、ほんの小さな期待が生まれていた。

 それはまだ、恋ではない。

 好奇心だった。

2へ続く

『戦の女神の恋』

2

 大学は街の中心から少し離れた場所にあった。

 白い建物が並び、石畳の道の両側にはオリーブの木が植えられている。海からの風が静かに葉を揺らしていた。

 アテナは入口の前で少し足を止めた。

 自分でも少し不思議だった。ただ論文を読んだだけの男に会いに、わざわざここまで来ている。

「変なことしてるわね」

 小さく笑ってから建物に入る。

 研究室の番号はメールに書かれていた。

 廊下を歩いていると、扉が半分開いた部屋があった。中で誰かがパソコンに向かっている。

「ペトロ?」

 声をかけると、男が顔を上げた。

 思っていたより若い。三十歳前後だろうか。黒い髪が少し乱れていて、眼は驚くほど真剣そうだった。

 数秒、二人は黙って見つめ合った。

 先に口を開いたのは彼だった。

「あなたが……メールの?」

 アテナはうなずいた。

「アテナよ」

その名前を聞いた瞬間、彼の眼が少しだけ大きくなった。

「本当に?」

「え?」

「いや……」

 彼は照れたように笑った。

「論文でアテナの話を書いていたから」

 アテナもつられて笑った。

「そうみたいね」

 空気が少し柔らかくなる。

 ペトロは椅子を引いた。

「どうぞ。座って」

 研究室は散らかっていた。机には本や論文が積まれ、壁には宇宙の写真や古代遺跡の図が貼られている。

 アテナは椅子に座り、周囲を見回した。

「宇宙と神話……本当に両方研究してるのね」

 ペトロは少し恥ずかしそうに肩をすくめた。

「変わり者って言われるけどね」

「どうして宇宙に神がいると思うの?」

 彼は少し考えてから答えた。

「人類の神話は、あまりにも似ているから」

 彼はホワイトボードに簡単な図を書いた。

雷を操る神。海の神。戦いの神。知恵の神。

「文明が違っても、似た神が出てくる」

 ペンを置き、アテナを見る。

「もし宇宙文明が昔から地球に関わっていたなら?」

 アテナは黙って彼を見つめた。

 真剣だった。

 本気で信じている。

 夢を見る子供のようでもあり、研究者のようでもある。

「面白い考えね」

「信じてくれる?」

 アテナは少しだけ笑った。

「全部は。でも、嫌いじゃない」

 それだけで彼は嬉しそうだった。

 二人はそのあと長く話した。

 宇宙。神話。文明。人類の未来。

 気づけば外は暗くなっていた。

 ペトロが時計を見て驚く。

「もうこんな時間だ」

「お腹空いたわ」

 アテナが言うと、彼は笑った。

「近くにいい酒場がある」

 夜の街は昼とは別の顔を見せていた。

 石造りの通りに灯りがともり、人々の笑い声があちこちから聞こえる。

 酒場は小さく、木の扉が古びていた。

 中に入ると、ワインと料理の香りが漂う。

 二人は奥の席に座った。

 赤ワインが運ばれてくる。

 グラスを軽く合わせる。

「宇宙の神に」

 ペトロが冗談めかして言う。

 アテナは微笑んだ。

「宇宙の神に」

 ワインは少し強かった。

 だが会話は止まらなかった。

 ペトロは楽しそうに語り続ける。

 宇宙。星。遠い文明。

 時々、アテナの顔を見つめる。

 その視線に、彼女は気づいていた。

 グラスを置いたときだった。

 二人の指先が触れた。

 ほんの一瞬。

 だが互いに引かなかった。

 アテナはゆっくりと彼を見た。

 ペトロの呼吸が少し乱れている。

「……アテナ」

 彼女は何も言わない。

 ただ静かに顔を近づけた。

 唇が触れる。

 最初は軽く。

 だが次の瞬間、キスは深くなった。

 ワインの香りが混ざる。

 時間が少し止まったようだった。

 離れたとき、二人は少し息をしていた。

 ペトロが小さく言う。

「うち……近い」

 アテナは数秒黙っていた。

 それから静かに立ち上がる。

「行きましょう」

 夜の風が少し冷たい。

 だが彼の家へ向かう二人の間には、もう別の熱が流れていた。

3へ続く

『戦の女神の恋』

3

――わたしが去る朝

 彼の部屋に入った瞬間、空気が変わった気がした。

 外の夜の冷たさとは違う、閉じた空間の熱。ワインの余韻と、さっきまでのキスの続きを求めるような沈黙。

 扉が閉まる音が、小さく響いた。

 アテナはゆっくりと室内を見渡した。本、机、星図、ベッド。

 ここで何が起きるのか、もう分かっていた。

 それでも、逃げる理由はなかった。

「……少しだけ、静かね」

 そう言うと、ペトロが近づいてくる気配がした。

 振り向くより早く、腕が背中に回る。

 抱き寄せられる。

 その強さに、わたしは一瞬だけ驚いた。

 人間の力。

 けれど乱暴ではない。確かめるように、離さないように、抱きしめてくる。

 胸が触れ合う。

 互いの鼓動が、はっきり分かる距離。

「アテナ……」

 その声は、酒場のときよりも低く、熱を帯びていた。

 わたしは答えない。

 ただ、彼の胸に手を当てた。

 心臓が速い。

 こんなにも、分かりやすく感情が動く存在。

 その事実が、どこか愛おしかった。

 顔を上げると、すぐ近くに彼の眼があった。

 逃げ場はない。

 わたしは少しだけ息を吸って――

 自分から唇を重ねた。

 最初は触れるだけ。

 けれどすぐに、彼の腕に力がこもる。

 キスが深くなる。

 呼吸が混ざる。

 わたしの背中をなぞる手が、ゆっくりと下へ滑っていく。

 その感触に、思わず身体が反応した。

「……っ」

 声が漏れそうになるのを、わたしは飲み込む。

 彼はわたしの変化に気づいたのか、さらに優しく、けれど確かに求めてくる。

 唇が離れ、首筋へと移る。

 温かい吐息。

 肌に触れる感覚。

 その一つ一つが、妙に鮮明だった。

 人間の感覚は、こんなにも細やかなのか。

 わたしは眼を閉じた。

 抗う理由が見つからない。
 
 服がゆっくりと外されていく。

 布が肌を離れるたびに、空気が触れる。

 少し冷たいはずなのに、身体は熱を帯びていた。

 彼の手が、素肌に直接触れる。

 その瞬間、わたしは小さく息を吸った。

「きれいだ……」

 またその言葉。

 けれど今度は、さっきよりも近く、深いところで響いた。

 わたしは彼の肩に腕を回した。

 人間の身体。

 温かくて、不安定で、強く求めてくる。

 ベッドに倒れ込む。

 視界が揺れる。

 彼の重みが重なる。

 逃げようと思えば逃げられる。

 けれど、わたしは動かなかった。

 むしろ――

 彼を引き寄せた。

「……来て」

 自分でも驚くほど自然な言葉だった。

 その一言で、彼の動きが変わる。

 遠慮が消える。

 だが乱暴にはならない。

 求めながらも、確かめるように触れてくる。

 肌と肌が重なる。

 体温が溶け合う。

 呼吸が乱れていく。

 わたしは彼の名前を呼びそうになって、やめた。

 代わりに、彼の背中を強く掴む。

 それだけで十分だった。

 夜は短かった。

 情熱は何度も波のように押し寄せ、そのたびに身体と意識が揺れる。

 人間の感情は、こんなにも激しいのか。

 こんなにも――

 満たされるものなのか。

 やがて、すべてが静まる。

 わたしたちは同じベッドの上で、息を整えていた。

 彼の腕の中で、わたしはしばらく動かなかった。

 この時間が終わることを、どこかで理解していたから。

 朝。

 光で目が覚める。

 わたしは静かに身体を起こした。

 隣で彼が眠っている。

 昨夜とはまるで別人のように、穏やかな顔。

 その無防備さに、少しだけ笑みがこぼれる。

 わたしはベッドから降り、窓の前に立った。

 裸のまま。

 朝の光が肌をなぞる。

 昨夜の余韻が、まだ身体に残っている。

 指先で、自分の腕を軽くなぞる。

 そこには確かに、彼の記憶が残っていた。

 わたしは振り返る。

 ペトロを見つめる。

 ゆっくり近づき、ベッドの横に座る。

 手を伸ばし、彼の頬に触れる。

 温かい。

 生きている温度。

「……不思議」

 小さく呟く。

 人間は弱い。

 けれど、こんなにも強く、誰かを求める。

 宇宙のことを考えながら、こんなふうに愛する。

 わたしはしばらくそのまま手を置いていた。

 だがやがて、静かに離す。

 ここにはいられない。

 分かっている。

 わたしは立ち上がり、服を身につける。

 一度だけ、彼を振り返る。

 起こそうとは思わなかった。

 言葉を交わせば、きっと迷う。

だから――何も残さない。

 扉を開ける。

 外はもう明るい。

 わたしはそのまま歩き出した。

 振り返らない。

 空の向こうへ。

 帰るべき場所へ。

――

 彼はその後、わたしを探した。

 けれど見つからない。

 残ったのは、名前だけ。

 アテナ

 ある日、彼は画面の中の女神を見つめていた。

 その眼に、わたしを重ねながら。

『戦の女神の恋』 完

フレイヤの誘惑

# フレイヤの誘惑 Ⅰ

 街に降り立った瞬間から、空気が変わっていた。

 石畳の通りを歩くだけで、人々の視線が彼女へ集まる。カフェの男たちは会話を止め、店先で煙草を吸っていた若者は、火を落としたことにも気づかない。信号待ちの女は恋人の腕へ身体を寄せ、通りの向こうでは、さっきまで口論していたらしい男女が突然抱き合っていた。

 フレイヤは何もしていない。

 ただ歩いているだけだった。

 白いワンピースの裾を揺らし、午後の光の中を静かに進んでいく。その金色の髪に風が触れるたび、街の熱は少しずつ上がっていくようだった。

 彼女は小さな店でアイスを買い、公園のベンチへ腰を下ろした。周囲では子供たちが遊び、噴水の水音が静かに響いている。

 アイスを一口舐める。

 人間の食べ物は嫌いではない。神々の宴にはない、不完全な味がするからだ。

「やっぱり君だったか」

 声が聞こえた。

 フレイヤは視線だけを横へ向ける。

 細身の男が、いつの間にか隣へ座っていた。

 黒いジャケット。長い指。笑っているのに、どこか信用できない眼。

 ロキだった。

「ずいぶん普通に現れるのね」

 フレイヤが言うと、ロキは肩をすくめる。

「普通じゃないのは君の方だよ」

 彼は顎で街の方を示した。

「君が現世へ降りてきただけで、愛の指数が跳ね上がってる」

「愛の指数?」

「そう。ほら、周りを見てごらん」

 フレイヤはゆっくり視線を巡らせた。

 通りの向こうで、カップルがキスをしている。カフェの奥でも、若い男女が額を寄せ合い、駅前では恋人同士らしい二人が強く抱き合っていた。

 公園の空気そのものが、少し熱を帯びている。ロキは笑った。

「君のせいだ」

 フレイヤはその光景を見つめ、そして楽しそうに微笑んだ。

「いいじゃない」

 彼女はもう一口、アイスを舐める。

「愛って素敵よ」

 その言葉を聞き、ロキは小さく吹き出した。

「相変わらずだな」

「何が?」

「人間が好きすぎる」

 フレイヤは答えなかった。

 だが否定もしない。

 彼女は人間が嫌いではなかった。愚かで、弱く、すぐ傷つく。それでも愛を求め続けるところが、妙に美しく見えることがある。

 噴水の水が光を反射する。

 風が吹き、フレイヤの髪が揺れた。

 その瞬間、公園の向こうで若い男が突然恋人を抱き寄せ、激しくキスを始めた。

 ロキが笑う。

「ほら、また一組増えた」

「いいことじゃない」

「現世の恋愛統計が狂うんだけど」

「細かいわね」

 ロキは呆れたように空を見上げた。

「だから神々は嫌なんだ」

 フレイヤは最後の一口を食べ終え、立ち上がった。

「どこ行くの?」

「散歩」

「また誰か人生狂わせる気?」

「失礼ね」

 そう言い残し、彼女は歩き出す。

 ロキはベンチに座ったまま、去っていく背中を眺めていた。

「……いや、本当に失礼じゃないんだけどな」

 小さく呟き、苦笑する。

 フレイヤは街を歩き続けた。

 夕方が近づき、人通りはさらに増えていく。レストランからは料理の香りが漂い、書店の前では学生たちが議論をしている。

 そのときだった。

 誰かが通行人とぶつかる音がした。

「あっ……すみません!」

 大量の本を抱えていた男が、バランスを崩して転びかける。

 持っていた本が歩道へ散らばった。

 周囲の人間は迷惑そうに避けていく。誰も拾おうとはしない。

 フレイヤは立ち止まった。

 男は細身で、冴えない印象だった。黒髪は少し乱れ、眼鏡もずれている。服装も地味で、明らかに街の空気から浮いていた。

「ああ……」

 彼は情けなさそうにしゃがみ込み、本を拾い始める。

 そのうちの一冊が、フレイヤの足元へ滑ってきた。

 彼女はゆっくりとそれを拾い上げる。

 表紙には文字が書かれていた。

『ギリシャ神話についての考察』

 フレイヤは少しだけ眼を細めた。

 興味が湧く。

 人間が神々をどう見ているのか、それを見るのは嫌いではない。

 彼女はページをめくった。

 そこには、愛の女神とは、人類の欲望を象徴した存在である。と書かれていた。

 フレイヤは小さく笑う。

「ずいぶん勝手に分析するのね」

 男が顔を上げる。

 彼女を見た瞬間、動きを止めた。

 時間が止まったみたいだった。

 フレイヤはその反応を見て、さらに面白くなる。

 彼女は本を閉じ、男へ差し出した。

「落としたわよ」

 男は慌てて受け取る。

「あ、ありがとうございます……」

 声が少し裏返っていた。

 フレイヤはその様子を見つめながら思う。

 この男。恋を知らない眼をしている。

 だからこそ、少し興味があった。

2へ続く

フレイヤの誘惑 Ⅱ

「落としたわよ」

 フレイヤが本を差し出すと、男は慌てたように両手で受け取った。持っていた本の山がまた崩れそうになり、彼は危うく膝で支える。

「あ、ありがとうございます……」

 声は少しかすれていた。

 フレイヤは黙ったまま彼を見ていた。眼鏡は明らかにサイズが合っていない。少し大きすぎるのか、彼は何度も指で位置を直している。黒髪は整っていないし、シャツの袖も微妙に長い。

 人間としては目立たない部類だろう。

 けれど、その眼だけは妙に真剣だった。

 男は本を抱え直し、ようやく彼女の顔をちゃんと見た。

 その瞬間だった。

「……フレイヤ?」

 彼は思わず、というように口にした。

フレイヤはわずかに眼を細める。

 胸の奥が、小さく揺れた。
 
 自分の名前を言い当てられるとは思っていなかったからだ。

 周囲の人間たちは、彼女を見れば美しい女だと思う。だが、それだけだ。まさか本当に神の名を口にする者がいるとは。

「どうして、その名前を?」

 男はハッとしたように顔を赤くした。

「あ、いや……その」

 彼は眼鏡を押し上げる。

「すみません、美しい女神に似ていたもので」

 フレイヤは少し黙ったあと、ふっと笑った。

「口が上手いのね」

「そ、そんなつもりじゃ」

「本気で言ってる顔してるわ」

 男はさらに困ったような顔になる。

 フレイヤはその反応が面白かった。

 彼は他の男たちとは違う。欲望に飲まれている感じが薄い。もちろん惹かれてはいるのだろうが、それ以上に、目の前の存在を理解しようとしている眼をしている。

 それが珍しかった。

「ねえ」

 フレイヤは少し身体を傾けた。

「時間ある?」

 男は完全に動きを止めた。

「え?」

「お茶でもしながら話しましょうよ」

 夕方の光が石畳へ長い影を落としていた。

 カフェは川沿いにあった。古い建物を改装した店で、窓際の席から水面が見える。

 フレイヤは椅子へ腰を下ろし、向かいに座る男を見た。

 彼はまだ緊張していた。

 カップを持つ指が少し硬い。

「そんなに警戒しなくても取って食べたりしないわ」

「してるわけじゃ……」

「してる」

 フレイヤは笑う。男は観念したように息を吐いた。

「……ミハエルです」

「フランス系?」

「はい。今はこっちの大学に」

「神話を研究してるのよね」

 ミハエルの表情が少し変わる。

 緊張よりも、熱が出てくる顔だった。

「ええ。ギリシャ神話が中心ですけど、北欧神話もかなり」

「へえ」

 フレイヤは頬杖をつきながら彼を見る。

「そんなに面白い?」

「面白いですよ」

 今度の返事は速かった。

「神話って、人類の想像力の集合みたいなものだから」

 さっきまで頼りなさそうだった男が、急に言葉を持ち始める。

 フレイヤはそれを黙って聞いていた。

「神々って、ただの超越存在じゃないんです。嫉妬もするし、怒るし、愛もする。人間よりずっと人間的なところがある」

「例えば?」

ミハエルは少し考えた。

「北欧神話なら……やっぱりフレイヤとか」

 フレイヤはそこで少しだけ笑みを深くした。

「フレイヤって、どんな女神なの?」

 ミハエルは完全に研究者の顔になった。

「愛と美の女神として有名ですけど、それだけじゃないんです。戦いとも関係が深いし、死者を導く側面もある」

 言葉が止まらなくなる。

「それに神話だと、彼女が歩くだけで神々や人間が魅了される描写がある。欲望とか恋愛そのものを象徴してる存在というか……」

 フレイヤは窓の外へ視線を向けた。

 通りでは、また恋人同士が抱き合っている。

 彼女は小さく笑う。

「迷惑な女ね」

「でも魅力的です」

 ミハエルは真面目な顔で言った。

「神話って誇張も多いけど、それでもフレイヤは特別なんです。自由で、美しくて、誰にも縛られない」

 彼は少し視線を逸らした。

「……たぶん、憧れてるんだと思います」

 フレイヤはその横顔を見つめる。

 面白い男。

 欲望だけで近づいてこない。神話の向こう側を見ようとしている。

「あなた、恋人いる?」

 突然聞かれ、ミハエルが咳き込んだ。

「い、いません」

「でしょうね」

「どういう意味ですか」

「本ばっかり読んでる顔してるもの」

 ミハエルは困ったように笑う。
 
 その反応を見ていると、フレイヤは妙に楽しかった。

 時間が過ぎていく。

 神話の話。宇宙の話。愛の話。

 気づけば窓の外は橙色になっていた。

 夕陽が川を染めている。

 ミハエルはそこでようやく時間に気づいたようだった。

「……もうこんな時間か」

 フレイヤは頬杖をついたまま彼を見る。

 夕陽の光の中で、彼の横顔は少しだけ大人びて見えた。

 彼女は思う。この男はまだ知らない。

 今、自分が語っていた女神本人と向かい合っていることを。

3へ続く

フレイヤの誘惑 Ⅲ

 カフェを出ると、街は夜へ沈み始めていた。

 石畳には昼の熱がまだ少し残っていて、店々の灯りが窓へ滲んでいる。通りでは恋人たちが肩を寄せ合い、遠くから音楽も聞こえていた。

 フレイヤはゆっくり歩きながら、隣のミハエルを見ていた。

 彼はまだ神話の話をしている。

 オーディンの知識への執着。ロキの曖昧な立場。愛の神々が文明ごとに違う姿をしていること。

 話している時だけ、彼は妙に生き生きしていた。

 普段は目立たない男なのだろう。人混みの中にいれば、誰も彼を見ないかもしれない。けれど言葉の奥には熱がある。何かを信じ続けている人間の熱だった。

「ねえ」

 フレイヤが不意に言う。

「まだ帰りたくないわ」

 ミハエルは少し驚いたように彼女を見る。

「え?」

「ワイン、飲まない?」

「今から?」

「そう」

 彼は困ったように笑った。

「でも、時間も遅いし」

「いいじゃない」

 フレイヤは立ち止まり、彼の袖を軽く引いた。

「来なさいよ」

「いや、でも……」

「遠慮するの?」

 彼女は少しだけ意地悪く笑う。

 その笑みを見た瞬間、ミハエルは言葉を失った。

 人間が抗える種類の微笑みではなかった。

 結局、彼は何も言えないまま、彼女についていく。

 アパートは街の外れにあった。

 古い建物だったが、部屋へ入ると空気が変わる。

 甘い香りがした。

 花のようでもあり、酒のようでもあり、どこか眠気を誘う匂いだった。

 ミハエルは靴を脱ぎながら部屋を見回す。

 綺麗とは言えない。

 服がソファへ投げられ、本が床へ積まれ、机の上には開きっぱなしの雑誌とグラスが置かれている。

 けれど彼には、それが奇妙に美しく見えた。

 女神の部屋。

 そんな言葉が頭をよぎる。

 フレイヤは冷蔵庫からワインを取り出した。

「座って」

 ミハエルはぎこちなくソファへ腰を下ろす。

 グラスが渡される。

 赤い液体が灯りを反射して揺れていた。

「乾杯は?」

「何に?」

 フレイヤは少し考え、それから笑った。

「愛に」

 グラスが軽く触れ合う。

 ワインは思ったより強かった。

 ミハエルは数口飲んだだけで、身体が熱くなるのを感じていた。

 酒のせいだけではない。

 部屋の香り。彼女の視線。近すぎる距離。

 すべてが感覚を曖昧にしていく。

 フレイヤは向かいではなく、いつの間にか隣へ座っていた。

 肩が触れそうな距離。

「顔、赤いわよ」

「……少し酔っただけです」

「弱いのね」

 笑いながら、彼女はミハエルの髪へ触れた。

 その指先に、彼の呼吸が止まりそうになる。

 神話を語る時の冷静さは、もう残っていなかった。

 フレイヤはその変化を感じ取っていた。

 人間は面白い。

 知識や理性を積み上げても、触れられるだけで簡単に揺れる。

 けれど、それを嫌だとは思わない。

 むしろ愛おしい。

 ミハエルは何か言おうとしたが、視界が少し揺れた。

「あ……」

 身体が傾く。

 フレイヤは小さく笑い、彼の腕を取った。

「ほんとに弱いのね」

 倒れるようになった彼を支え、そのままベッドへ連れていく。

 ミハエルは半分眠りながら、ぼんやり彼女を見上げた。

 フレイヤはベッドの端へ腰掛ける。
 
 静かな夜だった。

 窓の外では街の音が遠く響いている。

 彼女はミハエルの顔を見つめていた。

 不思議だった。

 神々にも、人間にも、恋人たちにも、欲望にも、これまで何度も触れてきた。愛され、求められ、奪い合われることにも慣れている。

 なのに今、胸の奥にある感情は少し違っていた。

 もっと静かで、柔らかい。

 ミハエルの頬へ手を伸ばす。

 指先に少しざらつきが触れる。髭だった。

 フレイヤは少し楽しそうに笑う。

「人間って、こういうところがあるのね」

 彼は眠そうに眼を細めた。

 その無防備さを見ていると、奇妙に心が落ち着く。

 フレイヤは身体を屈めた。

 彼の唇へ、静かに口づける。

 長いキスだった。

 激しくはない。

 けれど深く、熱がゆっくり溶け込んでいくような口づけだった。

 ミハエルは夢の中みたいに、その感触を受け入れていた。

 彼女の香り。唇の熱。柔らかな呼吸。

 意識が沈んでいく。

 フレイヤはしばらく彼を見つめ、それから静かに立ち上がった。

 窓の外には、夜の終わりが近づいていた。

 朝になった。

 ミハエルが目を覚ますと、部屋は静まり返っていた。

 身体を起こす。

 眩しい朝日がカーテンの隙間から差し込んでいる。

 昨夜の部屋とは違っていた。

 散らかっていたはずの部屋には何もない。

 服も、本も、ワインの瓶も。

 まるで最初から誰も住んでいなかったみたいに、綺麗に消えている。

 ミハエルはしばらく呆然としていた。

 夢だったのか。

 酔って眠って、妙な幻想を見ただけなのか。

 そう思いかけた時、不意に頬へ触れる。

 まだ温かい気がした。

 唇にも、熱の記憶が残っている。

 ミハエルは窓の外を見る。

 朝日が街を照らしていた。

 新しい一日が始まろうとしている。

 けれど彼は知っていた。

 昨夜、自分は確かに何かへ触れたのだと。

 人間ではない何か。

 神話の向こう側にいる存在へ。


『フレイヤの誘惑』 完

忘却の秋

忘却の秋 1

 目を覚ました時、窓の外では薄い灰色の空が広がっていた。

 ストックホルムの秋は静かだ。夏の名残はもう消えかけていて、街路樹の葉は黄色と赤へ変わり始めている。朝の光も弱く、どこか世界そのものが眠そうに見えた。

 ロキはベッドの上で仰向けになったまま天井を眺めていた。隣では男がまだ眠っている。昨夜、名前を聞いた気もするが忘れた。覚えているのは酒場で出会ったことと、サッカーの話で盛り上がったことくらいだった。男は幸せそうな顔で眠っている。ロキは少しだけ笑った。
人間は面白い。一晩一緒に過ごしただけで、何か特別な意味を見つけようとする。けれどロキは知っている。どんな愛も永遠ではない——神々ですらそうなのだから。

 彼は静かにベッドから降りて服を着た。冷たい床が足裏に心地良い。男を起こさないよう部屋を出ると、朝の空気が肺へ流れ込んできた。

 街はまだ目覚めきっていない。パン屋が開店準備をしていて、路面電車がゆっくり走っていく。ロキはポケットへ手を入れ、そのまま歩き始めた。行き先はない。昔からそうだった。神々の世界にいた頃も、現世へ降りてからも、どこかへ向かうという感覚が薄い。

 風が吹き、落ち葉が石畳を転がっていった。

 その時、歓声が聞こえた。広場の向こうで人が集まっている。ロキは興味本位で近づいた。小さなパブの前に大型モニターが置かれ、サッカーの試合が流れていた。平日の昼間だというのに人が多く、熱狂している。叫び声が飛び交い、誰かが机を叩く。ロキはその光景を眺めながら笑う。戦争も恋愛も競技も、人間は本当に熱中する。

 その中に、一際大きな声があった。

「違うだろ! そこはパスだ!」

 黒髪で日焼けした顔の男だった。身振りが大きく、今にも画面へ飛び込みそうな勢いで叫んでいる。ロキは思わず吹き出した。男が振り返る。

「何がおかしい?」

「いや」とロキは肩をすくめた。「君が監督より真剣そうだったから」

 男は一瞬黙り、それから豪快に大笑いした。「確かにな!」そう言いながら手を差し出してくる。

「ロベルトだ」

「ロキ」

 握手する。力が強い。

 その瞬間から会話が始まった。好きなチーム、好きな選手、歴代最高のゴール。ロキは実際には大して興味がなかったが、人間の熱量を見るのは好きだった。ロベルトは話しているうちにどんどん表情が豊かになる。笑い、怒り、興奮する。まるで感情そのものが服を着て歩いているような男だった。

 気づけば試合は終わっていた。周囲の客も帰り始めるが、それでも二人の話は続いている。ロベルトがビールを飲みながら言った。

「お前、変な奴だな」

「よく言われる」

「でも嫌いじゃない」
 
 ロキは少しだけ目を細めた。人間は時々こういうことを言う。何気なく。だが、それが妙に胸へ残る。フレイヤが消えてから、そんな言葉を聞く機会は減っていた——思い出したくない名前だった。

 ロキは空を見上げた。雲が流れている。秋の空は、どこまでも高かった。

「また会えるか?」とロベルトが聞く。ロキは答えなかった。代わりに笑った。その笑顔を見て、ロベルトも笑う。まるで約束が成立したみたいに。

 夕方になり、二人は駅で別れた。ロキは一人で歩く。街灯が灯り始め、ストックホルムの夜が静かに広がっていく。

 ロベルトという男のことを考えている自分に気づき、ロキは苦笑した。人間は感染する——感情という病気を。それが面白いから、何度も彼らの世界へ降りてきてしまうのだろう。

 風が吹いた。落葉が舞い上がる。ロキはコートの襟を立て、そのまま夜の街へ消えていった。


忘却の秋 2

 ロベルトと別れてから数日が過ぎていた。

 ストックホルムの秋はさらに深まっている。木々は色づき、風は冷たくなり、夕方になると街全体が薄い琥珀色に染まる。ロキは相変わらず気ままに暮らしていた。今日は港を歩き、明日は古書店へ入り、気が向けば知らない人間と酒を飲む。誰とも深く関わらない。それが楽だった——そう思っていた。

 だが不思議なことに、最近はロベルトの顔を思い出すことが増えていた。あの豪快な笑い方。興奮すると身振りが大きくなる癖。どうでもいいサッカーの話を何時間でも続けられる熱量。神々の世界にはあまりいない種類の人間だった。

 その日の夜も、ロキは酒場へ入った。木造の古いバーで、薄暗い照明の下にカウンターの常連客が並び、奥では誰かが静かにジャズを流している。ロキは席へ座り、ウイスキーを注文した。一口飲む。悪くない。だが少し退屈だった。
周囲を見回していた時、隣から声が聞こえた。

「それ、美味しい?」
 
 黒い髪に鋭い眼、革のジャケットを着た女性だった。年齢は二十代後半くらいだろうか。彼女はロキのグラスを見ながら笑っている。

「あたし、飲んだことないんだよね」

 ロキは少し面白くなった。「じゃあ飲んでみる?」

「いいの?」

「減るものじゃない」

 女性はグラスを受け取り、一口だけ飲んだ。数秒沈黙する。そして顔をしかめた。

「苦っ」

 ロキは吹き出した。彼女も笑う。

 それだけだった。それだけなのに、なぜか会話が続いた。

 彼女の名前はスンヒョンだった。韓国系の家族を持つらしく、仕事の都合でストックホルムへ来ているという。

「あたし酒強いよ」

 と突然言った。

 ロキは眉を上げる。

「挑戦状?」

「そう聞こえた?」

「聞こえた」

 スンヒョンは笑った。挑発的な笑い方だった。ロキは嫌いじゃない。

 一時間後、テーブルには空いたグラスが並んでいた。二時間後にはさらに増え、周囲の客が時々こちらを見ている。そして三時間後、スンヒョンは机へ額を押し付けていた。

「負けた……」

「意外と粘ったね」とロキは平然と言う。正確には人間とは身体の構造が違う。飲み比べなど勝負にならない。だがスンヒョンは知らない。

 彼女は顔を上げた。

「悔しい」

「また今度やればいい」

「絶対勝つ」

 ロキは笑った。その表情を見て、スンヒョンも笑う。負けたのに楽しそうだった。人間は面白い——勝敗より、一緒に過ごした時間を喜ぶことがある。

 夜はさらに深くなり、店の客も少なくなっていた。二人はカウンターへ移動し、今度は酒ではなく話をしていた。仕事の話、旅行の話、子供の頃の話。気づけばロキも少し話していた。もちろん本当のことは言わない。神々の話も、世界の裏側の話も。けれど嘘ばかりでもなかった。孤独について、人と別れることについて、失うことについて——そのあたりだけは本音だった。

 スンヒョンは黙って聞いていた。途中で茶化したりしない。慰めたりもしない。ただ聞いていた。それが少し意外だった。

「ねえ」とスンヒョンが言う。「ロキってさ」

「うん」

「どっか行っちゃいそう」

 ロキは少し笑った。「そう?」

「うん」

 彼女はグラスを回しながら続ける。「今ここにいても、心は別の場所にあるみたい」

 ロキは答えなかった。図星だったからだ。スンヒョンは肩をすくめる。「ま、あたしの勘だけど」

 外へ出ると夜風が冷たかった。二人は駅まで並んで歩く。落葉が風に舞い、街灯の光が石畳へ伸びている。

 別れ際、スンヒョンは振り返った。「また飲もう。あたしが勝つまで」

「無理だと思う」

「むかつく」

 その言葉に二人とも笑った。電車が来て扉が開く。スンヒョンは乗り込む前にもう一度ロキを見た。ほんの一瞬だけ、何かを確かめるように。そして手を振る。ロキも軽く手を上げた。

 電車は走り去る。静かになったホームで、ロキは一人になった。

 ロベルト。スンヒョン。数日前までは知らなかった名前。それなのに、もう少し会いたいと思っている。その事実に気づき、ロキは小さくため息をついた。人間は本当に厄介だ。近づけば近づくほど、離れる時が難しくなる。

 風が吹いた。秋の匂いがした。ロキはコートのポケットへ手を入れ、そのまま夜の街へ歩き出した

忘却の秋 3

十月の終わりだった。

 ストックホルムの空は低く、午後になるともう夕方の気配が漂っている。街路樹はほとんど葉を落とし、風は冬の匂いを運んでいた。ロキは港の近くの遊歩道を歩いていた。海は灰色で、空も灰色で、その境界だけが曖昧に溶け合っている。人間なら寂しい景色だと思うのだろう。だがロキは嫌いではなかった。世界が静かな時、人の心はよく見える。

 ポケットの中で携帯が震えた。ロベルトだった。『今夜空いてるか』——相変わらず短い文章だった。ロキは少し笑い、返事を送る。『空いてる』。数分後。『じゃあいつもの店』。それだけだった。

 夜になると店にはロベルトだけではなく、スンヒョンもいた。どうやらロベルトが呼んだらしい。

「よお!」とロベルトは相変わらず大きな声だった。

「また酒で負けるために来たの?」ロキが言うと、スンヒョンが睨む。「あたしは今日こそ勝つ」

「前も聞いた」

「今日は違う」

 ロベルトが笑い出し、その笑い声につられてスンヒョンも笑う。ロキも笑った。不思議だった。こんな時間は久しぶりだった。神々の世界では得られない時間——誰かと酒を飲み、くだらない話をして、ただ笑うだけの夜。

 ロベルトはサッカーの話をした。スンヒョンは仕事先で起きた変な出来事を話した。気づけば深夜になっていた。店の客はほとんど帰り、窓の外では小さな雪が降り始めていた。初雪だった。

 ロベルトがグラスを置く。「なあ」珍しく真面目な声だった。

 「お前さ」

少し迷い、言葉を探す。

「そのうちいなくなるだろ」

 店の空気が静かになった。スンヒョンも何も言わない。

 ロキは小さく笑った。

「どうしてそう思うの」

「分かるんだよ」

 ロベルトは窓の外を見る。

「お前は最初からそういう顔してる。なんていうかな」と少し困ったように頭をかく。

「ずっとどこか遠く見てる」

 スンヒョンも頷いた。

「あたしも思ってた」

 彼女はグラスを回しながら言葉を選ぶ。

「儚いとかじゃない。危うい」

 ロキは二人を見た。人間は時々驚くほど本質を見る。だから面白い。だから厄介だ。

「心配してくれてるの?」

「当たり前だろ」

 ロベルトは即答した。まるで当然のことのように。

 その言葉が妙に胸へ残る。何百年も、何千年も、数え切れないほどの出会いを経験してきた。神も、悪魔も、英雄も、王も。けれど人間はいつも同じだ。短い人生しか持たないくせに、誰かを気にかける。失うと分かっていても近づく。その愚かさが、時々眩しい。
夜は終わった。店を出ると、雪が少し積もり始めていた。三人は駅前で立ち止まる。

「またな」

「また飲もう」

とスンヒョンも言う。

 ロキは二人を見つめた。返事をしようとして、やめる。代わりに笑った。いつもの笑顔だった。けれど二人は少し違和感を覚えた。まるで別れの挨拶みたいだったから。

 翌日、ロベルトは携帯を見ていた。連絡がない。メッセージを送る。返事は来ない。夜になっても来ない。翌日も、その翌日も。スンヒョンにも連絡が届いた。『ロキから連絡来た?』『来てない』。二人はそれぞれ街を探した。バー、港、公園——ロキが好きだった場所。どこにもいない。まるで最初から存在していなかったみたいに。

 数週間後、雪が本格的に降り始めた頃、ロベルトはサッカー中継を見ていた。隣の席は空いている。以前なら、くだらない茶々を入れる男がいた。ロベルトは苦笑しながら小さく呟いた。

「馬鹿野郎」

 どこにいるのかも分からない。それでも元気でいてほしいと思う。あいつは消えてしまいそうだったから。

 一方、スンヒョンはバーで一人飲んでいた。グラスを見つめながら、ふとロキの顔を思い出す。最後の夜の笑顔——あれは別れを決めた人間の顔だった。いや、人間ではなかったのかもしれない。そんな気さえする。彼女は小さく息を吐いた。

「ちゃんと生きなさいよ」

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 その頃、ロキはストックホルムを離れていた。雪に覆われた北の空を見上げると、夜空には無数の星が輝いている。フレイヤはいない。人間たちもいつか老いる。出会いは終わる。どんな恋も終わる。それでも——ロベルトの笑い声と、スンヒョンの少し乱暴な優しさは、消えずに残っていた。
ロキは静かに笑う。

忘却の秋 完

『ロンドンの夏』

 ロンドンの空は朝から曇っていた。

 デメテルは両手に紙袋を抱えながら歩いていた。週末の買い物を終えたばかりで、パンや野菜、それに紅茶の葉が入っている。通りには多くの人が行き交い、観光客らしい人々が写真を撮り、ビジネスマンたちが足早に横切っていく。そんな光景を見ながら、彼女はいつものように穏やかな気持ちで歩いていた。神々の世界を離れて長い時間が経っていた。今では小さなアパートで暮らし、近所の市場で買い物をし、時々公園で読書をする。人間たちの生活は忙しく、騒がしく、それでいてどこか温かい。デメテルはそうした日常を嫌いではなかった。

 その時だった。前方で誰かの悲鳴が聞こえた。振り返ると、一人の老婆が歩道へ倒れている。買い物袋が地面に散らばり、人々が慌てて立ち止まる。だが誰もどうしていいか分からないらしく、遠巻きに見ているだけだった。デメテルは反射的に駆け出した。

「大丈夫ですか!」

 老婆の傍らへ膝をつく。顔色が悪く、呼吸も苦しそうだった。その時、別の足音が近づいてきた。

「場所を空けてください!」

 低く力強い声だった。黒人の男性が人垣をかき分けるようにして近づいてくる。年齢は三十代半ばくらいだろうか。落ち着いた目をしていた。彼はすぐに老婆の脈を確認し、胸元へ手を当てた。その動きには迷いがなかった。

「心臓発作の可能性があります。救急車を呼んでください」

 デメテルは一瞬だけ動きを止めたが、すぐにスマートフォンを取り出した。指が少し震える。番号を押しながら、なぜか胸が高鳴っていた。男性は老婆へ声をかけ続けている。落ち着いていて、冷静で、周囲の混乱に飲み込まれていない。デメテルは救急隊へ状況を説明しながら、その姿を見ていた。

 やがて救急車が到着する。老婆はストレッチャーへ乗せられ、病院へ搬送されていった。デメテルも男性も、なぜかそのまま病院へ付き添うことになった。

 待合室は静かだった。白い壁、規則正しい足音、消毒液の匂い。二人は並んで座っていた。先ほどまでの緊張が少しずつ解けていく。

「助かると思いますか」

 デメテルが尋ねると、男性は頷いた。

「処置は早かったですから」

 その声を聞いて、ようやく彼女は安心した。しばらくして医師が現れ、老婆の命に別状はないと告げる。二人はほぼ同時に息を吐いた。それがおかしくて、顔を見合わせる。初めて笑った。

「助かって良かったですね」

「本当に」

 病院を出る頃には夕方になっていた。曇り空の向こうから弱い陽射しが差し込み、街を柔らかく照らしている。

「お礼と言うのも変ですが、もし時間があるなら、紅茶でもどうですか」

 デメテルは少し驚いた。だが断る理由はなかった。病院の近くの小さなカフェへ入る。木のテーブルと赤い椅子が並ぶ落ち着いた店だった。紅茶が運ばれてくる。湯気が立ち上る。そこで初めて互いの名前を知った。

「アンドリューです。医師をしています」

「デメテルです」

 彼女も微笑み返した。その名前を聞いても、彼は特に不思議そうな顔をしなかった。神話の女神と同じ名前ですね、などとも言わない。ただ自然に受け入れていた。そのことが少し嬉しかった。

 会話は思った以上に弾んだ。医療のこと、ロンドンのこと、好きな食べ物、休日の過ごし方。気づけば紅茶は二杯目になっていた。夕方の光が窓へ差し込み、店内を黄金色に染めている。デメテルは久しぶりに楽しいと思った。神々とも人間とも違う、ただ一人の男性との会話が。

 帰る前、アンドリューが少し遠慮がちに言う。

「もし良ければ、連絡先を交換しませんか」

 デメテルは小さく笑った。

「はい」

 二人はメッセージアプリのアカウントを交換する。それは本当に些細な出来事だった。


2

 それから、毎日のようにメッセージが届くようになった。最初は短いものだった。

「仕事終わりました。今日は救急外来が戦場でした」

「市場で良いトマトを見つけました。ロンドンにもちゃんと美味しい野菜はあるんですね」

 そんなやり取りが続くうちに、二人の間の距離は自然と縮まっていった。アンドリューは忙しい人だった。夜勤も多く、急に呼び出されることもある。それでも彼は時間を見つけてはデメテルへ連絡を送ってきた。ある雨の日、彼はこう送ってきた。

「病院の窓から外を見ていたら、あなたが好きそうな空だと思った」

 デメテルはその文章を読んで、しばらくスマートフォンを見つめていた。神々の時代にも、詩人や恋人たちは空を見て誰かを思った。人間は何千年経っても変わらない。そのことが、なぜか胸を温かくした。

 二人は何度も会うようになった。テムズ川沿いを歩き、古本屋を巡り、小さなレストランで食事をした。アンドリューは落ち着いた人だったが、笑うと少年のような顔になる。その笑顔を見るたびに、デメテルの心は少しずつほどけていった。

 ある夜、二人はサウスバンクのバーでワインを飲んでいた。窓の外にはロンドン・アイの灯りが揺れている。

「あなたといると、不思議と疲れが消えるんです」

 アンドリューが静かに言った。デメテルはグラスを傾けながら彼を見る。

「医者って、いつも人を支える側でしょう」

「だからかもしれません。誰かと静かに話せる時間が、すごく貴重なんです」

 彼の言葉は飾り気がなかった。だからこそ、まっすぐ心へ届いた。

 その帰り道、橋の上で風が吹いた。デメテルの髪が揺れる。アンドリューはそっと彼女の髪を耳へかけた。その指先の優しさに、デメテルは自分がもう引き返せない場所まで来ていることを知った。

「寒いですか」

「少しだけ」

 彼は自分のコートを脱ぎ、彼女の肩へかける。デメテルは小さく笑った。

「あなたは優しすぎるわ」

「そうですか?」

「ええ。人間にしては」

 冗談めかして言うと、アンドリューは不思議そうに笑った。

 その夜、二人は自然な流れで彼の家へ向かった。部屋は整然としていた。医学書が並び、窓際には小さな観葉植物が置かれている。デメテルはソファへ座り、静かに部屋を見回した。

「あなたらしい部屋ね」

「つまらないでしょう」

「いいえ。安心するわ」

 アンドリューはキッチンで湯を沸かし、紅茶を淹れた。二人でカップを持ちながら、しばらく何も話さなかった。沈黙が苦しくない。それが心地良かった。やがてアンドリューがゆっくりと彼女の手を取った。

「デメテル」

 名前を呼ばれるだけで、胸が静かに震える。彼は彼女の眼を見つめていた。急がない。確かめるような視線だった。デメテルはその手を握り返し、静かに頷いた。

 キスは穏やかだった。夏の夜の風のように、ゆっくりと重なっていく。彼の唇は温かく、抱き寄せられた時、デメテルは長い間忘れていた安堵を感じた。ベッドへ横になると、窓の外で遠くのサイレンが鳴っていた。ロンドンの夜は眠らない。けれど二人の世界だけが静かだった。

 アンドリューは彼女を大切に扱った。急がず、無理をさせず、何度も彼女の顔を見て微笑む。そのたびに、デメテルは人間の愛の柔らかさを知っていく。神々の愛は激しく、永遠を求める。人間の愛はもっと脆く、だからこそ優しい。その違いを、彼女は彼の腕の中で静かに感じていた。

 夜が更ける頃、アンドリューが小さく囁く。

「好きです」

 デメテルは目を閉じた。そして彼の胸へ額を寄せながら、静かに答えた。

「わたしも」

 その言葉は嘘ではなかった。本当に、彼を愛し始めていた。



3

 夏は思ったより早くやって来た。

 ロンドンにも珍しく暑い日が続き、公園の芝生には寝転ぶ人々が増え、街角のカフェでは冷たい飲み物を求める客が列を作っていた。デメテルは窓を開け放ち、風を部屋へ入れていた。遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。平和な午後だった。テーブルの上にはアンドリューから届いたメッセージが表示されている。

「今日は少し早く終われそうです。夕食でもどうですか」

 その文章を見つめながら、デメテルは長い間動かなかった。その日は来ると分かっていた。最初から。人間と神では流れる時間が違う。どれだけ近づいても、どれだけ愛しても、その事実だけは変えられない。彼女は窓の外を見た。夏の陽射しが街を照らしている。人々は未来が続くと信じて歩いている。それが少し羨ましかった。

 アンドリューと出会ってからの日々が脳裏をよぎる。病院の待合室。初めて飲んだ紅茶。雨の日の散歩。彼の部屋。優しい手。穏やかな笑顔。どれも短い時間だったはずなのに、何百年もの記憶より鮮明だった。デメテルは静かに目を閉じる。そして、小さく息を吐いた。

 夕方、病院ではアンドリューが最後の患者を見送っていた。診察室を出る老人へ笑顔を向ける。

「お大事に」

 老人も笑って帰っていく。それが彼の日常だった。人を助けること、命を支えること。それは彼の誇りだった。机の上のスマートフォンを見る。返事はまだ来ていない。珍しいな、と思った。デメテルは必ず返信をくれる。忙しい時でも、短い言葉だけは送ってくる。少しだけ胸がざわついた。

 病院を出る。空はまだ明るい。彼は彼女のアパートへ向かった。呼び鈴を押す。返事はない。もう一度押す。やはり返事はない。不安が胸の奥で形を持ち始める。管理人へ尋ねると、返ってきた言葉は予想外だった。

「その部屋なら空いてますよ」

 アンドリューは聞き返した。

「空いている?」

「ええ。先月から」

 理解できなかった。そんなはずはない。昨日まで彼女はそこにいた。管理人は首を傾げている。まるで最初から誰も住んでいなかったかのように。アンドリューは部屋の前に立ち尽くした。風が吹く。夏なのに、妙に冷たかった。

 それから何日も探した。よく行ったカフェ、市場、公園、本屋、二人で歩いた川沿い。どこにもいない。連絡もつかない。写真も残っていない。不自然なほど何もない。まるで夢だったみたいに。それでも彼は忘れられなかった。忘れられるはずがなかった。彼女は確かに存在したのだから。

 季節が少しずつ進んでいく。夏の終わりが近づく頃には、アンドリューも探すことをやめていた。いや、本当は諦めたわけではない。ただ、受け入れるしかなかった。人生には説明できない別れがある。医師として多くの死を見てきた彼だからこそ、そのことは知っている。

 ある日の午後、病院へ若い女性が来た。不安そうな顔をしている。診察室へ入り、椅子へ座る。アンドリューは穏やかに微笑んだ。

「どうされましたか」

 その笑顔を見た女性は少し安心したようだった。彼は話を聞く。丁寧に、優しく、いつものように。窓の外では夏の陽射しが輝いている。ふと、その光が懐かしく感じられた。黄金色の麦畑、風に揺れる穂、優しい眼差し。なぜそんな情景が浮かんだのか分からない。だが胸の奥が少し温かくなる。アンドリューは小さく笑った。そして再び患者へ向き直る。

 人生は続く。人は出会い、別れ、また歩いていく。彼女はもういない。それでも、彼女が残した優しさは消えなかった。夏の光の中で、アンドリューは今日も人々へ笑顔を向ける。その笑顔の奥には、誰にも語らない一人の女性の記憶が静かに生き続けていた。

『ロンドンの夏』

『雪の訪れ』

 ロシア極東の港町に冬が訪れていた。

 海から吹く風は鋭く、港へ並ぶ漁船には薄く雪が積もっている。灰色の空と灰色の海がどこまでも続き、その境界さえ曖昧だった。

 ポセイドンは網の修理をしていた。手は荒れている。指先には古い傷も残っている。漁師として生き始めてから長い時間が経っていた。人間たちは海から魚を獲り、家庭を持ち、老いて死んでいく。そんな営みを彼はずっと見続けてきた。神々の王座よりも、最近はこうした港の方が落ち着く。誰も自分を神とは知らない。それが楽だった。

 昼過ぎ。魚を市場へ運んだ帰りだった。歩道は凍っている。通学中の子供たちが笑いながら走り去り、老人たちは肩をすぼめて歩いていた。その時だった。前方で女性が足を滑らせる。

「あっ!」

 声と同時に身体が宙へ浮いた。次の瞬間には転倒している。持っていた書類が雪の上へ散らばった。

 ポセイドンは無言で近づいた。女性は慌てて起き上がろうとしている。

「だ、大丈夫です」

 と言いながら全然大丈夫そうではない。コートには雪が付き、眼鏡も少し曲がっていた。ポセイドンは黙って書類を拾う。女性も拾う。二人で雪の上へ散らばった紙を集める。

「ありがとうございます」

 女性はそう言って笑った。明るい笑顔だった。冬の港町には少し似合わないくらい。

「怪我は」

 ポセイドンが短く聞く。

「あ、平気です」

 女性は立ち上がる。それから少し首を傾げた。

「あなた漁師さんですか?」

 ポセイドンは頷く。

「やっぱり」

 彼女は嬉しそうだった。

「わたし今日からこの町の学校へ赴任するんです」

 そう言って差し出された手を、ポセイドンは少し迷ってから握った。

「アンナです」

「……ポセイドン」

「え?」

「名前だ」

 アンナは一瞬驚いた顔をした。それから笑う。

「神様みたいな名前ですね」

 ポセイドンは何も答えなかった。

 数日後。学校から呼び出しを受けた。正確にはアンナからだった。放課後の教室。子供たちが騒いでいる。ポセイドンは扉の前で帰ろうか本気で悩んでいた。その時、アンナが現れる。

「来てくれた!」

 彼女は本当に嬉しそうだった。

「断ったはずだ」

「聞いてません」

「言った」

「聞こえませんでした」

 話にならない。アンナはそのまま彼の背中を押した。

「お願いします。子供たちに漁師さんの話を聞かせたいんです」

 教室へ入る。二十人ほどの子供たちが一斉にこちらを見る。ポセイドンは後悔した。海の怪物と戦う方が楽だった。

「先生、この人誰?」

「漁師さん!」

「魚捕るの?」

「サメいる?」

 質問が飛び交う。ポセイドンは無表情のまま立っていた。アンナが助け船を出す。

「ほら、みんな静かに」

 彼女は小さな声で言った。

「頑張って」

 ポセイドンは深いため息をついた。

 結局、一時間近く話した。話したというより質問攻めだった。魚の種類。海の嵐。船の生活。巨大なタラの話。流氷の話。子供たちは目を輝かせて聞いていた。終わった頃には疲れ果てていた。

「助かりました」

 アンナが言う。

「もうやらない」

「またお願いします」

「やらない」

「考えておいてください」

 全く聞いていない。

 翌日の夜だった。アパートの扉が鳴る。開けるとアンナが立っていた。両手に鍋を抱えている。

「お礼です」

「何だ」

「ペリメニ」

 彼女は当然のように部屋へ入ってきた。ポセイドンは止める暇もなかった。部屋の中を見回したアンナが固まる。椅子には服。床にも服。ソファにも服。テーブルには読みかけの本と缶詰。

「……ひどい」

「そうか」

「そうです」

 アンナは額を押さえた。ポセイドンは少し考える。怒られているらしい。彼女は勝手にテーブルを片付け始めた。

「座ってください」

「俺の部屋だぞ」

「だからです」

 意味が分からなかった。

 やがて二人で食事を始める。ペリメニは温かかった。外は吹雪いている。窓ガラスが時折震える。アンナはよく話した。学校のこと。子供たちのこと。昔住んでいた町のこと。ポセイドンはほとんど聞いているだけだった。けれど魚の話になると少し違った。

「冬のニシンは美味しい」

「そんなに違うんですか?」

「脂が乗る」

「へえ」

「海流で変わる」

 アンナは楽しそうに聞く。そのうちポセイドンも少しずつ話すようになっていた。気付けば三時間近く経っている。外の雪はさらに強くなっていた。

 帰る時間だった。玄関でコートを着るアンナが振り返る。

「また来てもいいですか?」

 ポセイドンは答えなかった。答えなかったが、追い返しもしなかった。アンナは笑う。

「じゃあ来ますね」

 そう言って去っていった。扉が閉まる。部屋は静かになる。けれど妙だった。さっきまで一人だったはずなのに、今は少しだけ静かすぎる気がした。

 ポセイドンは窓の外を見る。吹雪の向こうに港の灯りが見える。そして気付く。アンナという人間のことを、もう少し知りたいと思っている自分に。

 それからアンナは本当に港へ来るようになった。

 最初は週に一度だった。それが二度になり、気付けば学校が終わると当たり前のように姿を見せるようになっていた。

 冬の港は寒い。海から吹く風は容赦なく頬を叩き、雪が降らない日でも空気は氷のようだった。それなのにアンナは平気な顔をして歩いてくる。厚いコートにマフラーを巻き、手袋をした姿で船着場へ現れるのだ。

「今日も来たのか」

 ポセイドンが言う。

「来ちゃいけませんか?」

「寒いぞ」

「知ってます」

 アンナは笑う。その笑顔を見ると、それ以上何も言えなくなる。

 船から魚を下ろす作業を眺めたり、漁師たちの話を聞いたり、時には市場までついてきたりする。港の人間たちも次第に彼女を受け入れていった。

「あの先生、また来てるぞ」

「漁師になりたいのかもしれん」

「無理だろ」

 そんな冗談が飛び交う。アンナは気にしない。むしろ笑っている。

 ポセイドンには理解できなかった。なぜそこまで楽しそうなのか。何もない町だった。冬は長い。娯楽も少ない。海しかない。それでも彼女は楽しそうだった。

 ある日、二人は市場からの帰り道を歩いていた。空から細かな雪が降っている。アンナは手袋をした両手で紙袋を抱えていた。

「ねえ」

「なんだ」

「ポセイドンって昔からここにいるんですか」

 彼は少し考えた。昔から。その言葉の意味が普通の人間とは違う。

「長いな」

 それだけ答える。アンナは頷く。

「そう思いました」

「なぜだ」

「なんとなく」

 彼女は雪の降る空を見上げる。

「初めて会った時から、ずっとここにいた人みたいだったから」

 ポセイドンは返事をしなかった。それ以上聞いてほしくなかった。不思議なことに、彼女なら本当に何かを見抜いてしまいそうな気がした。

 冬は続く。二人は頻繁に会うようになった。外へ出る日もあったが、ほとんどはポセイドンの部屋だった。相変わらず散らかっている。アンナが来るたびに少し片付く。次の日には元に戻る。その繰り返しだった。

「どうして服を床に置くんですか」

「脱いだからだ」

「そうじゃなくて」

「そこに床がある」

 アンナは呆れる。ポセイドンは本気で何が悪いのか分かっていない。だがそのやり取りが楽しかった。

 ある夜。外は吹雪いていた。窓の向こうでは街灯が雪の中でぼんやりと滲んでいる。アンナはソファに座り、本を読んでいた。ポセイドンは魚網の修理をしている。静かな時間だった。誰も話していない。それなのに居心地が悪くない。むしろ心地良かった。

 アンナが本から顔を上げる。

「不思議ですね」

「何がだ」

「何もしてないのに楽しい」

 ポセイドンは手を止めた。アンナは微笑んでいる。穏やかな笑顔だった。その瞬間、胸の奥が妙にざわついた。海が荒れる前の感覚に似ていた。何かが変わろうとしている。そんな予感だった。

 その夜、アンナが帰ろうとした時だった。玄関まで送る。いつものことだった。コートを着る彼女を見ていると、急に帰らせたくなくなる。理由は分からない。ただそう思った。

 アンナも何かを感じたのか、扉の前で立ち止まる。二人とも何も言わない。沈黙だけが流れる。やがてアンナが小さく笑った。

「どうしたんですか」

「いや」

 ポセイドンは答えられない。言葉に慣れていない。感情にも慣れていない。海なら分かる。嵐も波も潮の流れも。だが人間の心は難しかった。

 アンナは少しだけ近づいた。そして彼の頬へ触れる。冷たい手だった。外を歩いてきたばかりだからだろう。

「顔、真っ赤ですよ」

「寒いからだ」

「そういうことにしておきます」

 彼女は笑う。その笑顔を見た瞬間、ポセイドンは負けたと思った。海の神であっても、この笑顔には勝てない。

 アンナは背伸びをする。そして軽く彼の頬へ口づけた。ほんの一瞬だった。それだけなのに、嵐よりも強く心が揺れる。

 彼女は照れたように顔を逸らした。

「おやすみなさい」

 そう言って扉を開ける。ポセイドンはしばらく動けなかった。扉が閉まり、部屋が静かになる。けれど今までとは違う。もう彼女のいない生活を想像できなくなり始めていた。

 そのことに気付いた時には。彼はもうアンナを愛していた。


 二月の終わりだった。

 港町は相変わらず雪に覆われていた。春はまだ遠い。海は鉛色で、空もまた同じ色をしている。けれどポセイドンにとって、その冬はこれまでとは違っていた。

 朝になると港へ出る。魚を獲る。船を整備する。市場へ魚を運ぶ。何十年も、何百年も変わらなかった生活。その終わりにアンナがいる。学校帰りに港へ来る彼女がいる。それだけで一日が違うものになっていた。

「今日は子供たちが大変だったんですよ」

「何があった」

「教室でカエルを飼いたいって」

「飼えばいい」

「そういう問題じゃありません」

 アンナは笑う。ポセイドンも少しだけ笑う。そんな日々だった。

 ある夜。二人はポセイドンの部屋で夕食を食べていた。窓の外では雪が降っている。ストーブの音だけが静かに響いていた。アンナはスープを飲みながら言う。

「ねえ」

「なんだ」

「もし学校を辞めたら」

 彼女は少し笑う。

「漁師になれますかね」

「無理だ」

 即答だった。アンナが吹き出す。

「即答ですか」

「船酔いする」

「それはそうですけど」

 二人は笑う。その瞬間だった。ポセイドンは思う。こんな時間が続けばいいと。永遠に。だが永遠を知る者ほど、それが叶わないことも知っている。

 数日後だった。港へ向かう途中、異変を知る。学校の前に警察車両が停まっている。人々が集まっている。ざわめきが広がっていた。漁師の一人が言った。

「先生が捕まったらしい」

 ポセイドンは立ち止まる。

「誰だ」

「アンナ先生だよ」

 世界から音が消えた気がした。

 その後の話は断片的だった。学校の資金が消えた。横領の疑い。職員の通報。警察の事情聴取。ポセイドンは何も言わなかった。だが、その日の夜も眠れなかった。次の日も。その次の日も。港へ出ても海が見えなかった。ただアンナのことだけを考えていた。

 一週間後。真実は判明する。単純な事務処理のミスだった。別の口座への送金記録を担当者が見落としていた。アンナは無実だった。町中が安堵した。学校も謝罪した。生徒たちも喜んだ。誰もが彼女の帰りを待っていた。

 アンナもようやく帰ってくる。雪が降る午後だった。長い事情聴取を終えた彼女は、疲れた顔でバスを降りる。だが少しだけ笑っていた。終わった。ようやく終わった。

 まず会いたい人がいた。港へ向かう。きっとポセイドンはいつもの場所にいる。ぶっきらぼうな顔で。何も言わずに。それでも待っている気がした。

 アンナは雪の中を急いだ。港へ着く。漁船が並んでいる。いつもの風景。だが何かがおかしい。船がない。ポセイドンの船が。

 彼女は漁師たちを見つける。

「ポセイドンは?」

 誰も答えない。顔を見合わせる。やがて老人が口を開いた。

「いなくなった」

 アンナは理解できなかった。

「どこへ?」

 老人は首を振る。

「分からん」

「いつ?」

「三日前だ」

 三日前。彼女がまだ事情聴取を受けていた頃だった。

 アンナは港を歩く。船着場。市場。倉庫。彼のアパート。どこにもいない。アパートの中は空だった。服もない。本もない。生活の痕跡だけが消えている。まるで最初から存在していなかったように。

 夜になる。雪はさらに強くなった。港には誰もいない。アンナは厚いコートの襟を握りしめる。寒かった。けれど帰る気になれない。目の前には荒れる海が広がっている。黒い波が砕ける。風が吹く。雪が舞う。

 その海を見つめながら、アンナは初めて理解した。彼は最初からどこか遠くを見ていた。誰よりも近くにいて。誰よりも優しかったのに。心のどこかは、ずっと手の届かない場所にあった。

 涙は出なかった。ただ胸が痛かった。海は何も答えない。荒れ狂う波だけが続いている。

 アンナは静かに海を見つめる。いつかまた会えるかもしれない。そんな希望すら持てないほど、冬の海は広く、冷たかった。

 風が吹く。白い雪が夜の港を覆っていく。アンナはただ一人、荒れる海を見つめ続けていた。

『雪の訪れ』 完

終わりなき神話 愛の記憶

終わりなき神話 愛の記憶

終わりなき神話。その終わらない世界には神々、デウィルたちという概念を超えた壮大な存在たちがいる。だが人間だった頃、永劫の中で忘れられない恋があった。 短編の物語です。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2026-03-14

CC BY
原著作者の表示の条件で、作品の改変や二次創作などの自由な利用を許可します。

CC BY
  1. 『太陽の恋 1』
  2. 『太陽の恋 2」
  3. 『太陽の恋 3」
  4. 『戦の女神の恋』
  5. 『戦の女神の恋』
  6. 『戦の女神の恋』
  7. フレイヤの誘惑
  8. 忘却の秋
  9. 9
  10. 10