コメラレ・メランコリィ パイロット版

【なにもない部屋からの脱出】

コメラレ・メランコリィ パイロット版

【第一話 なにもない部屋からの脱出】



 また、閉じ込められた。
 折原は微かな憂鬱と共に意識を取り戻した。その部屋は暗黒だった。なので、彼はズボンのポケットからスマホを取り出してライトを点けた。
 白く照らされたのは壁だった。折原の身長の二倍近くはありそうなほど高い壁だった。手をつきながら、部屋を一周してみた。テニスコートくらいはありそうなほどの広さだった。特徴的だったのは、四隅がカーブしていたことだった。
 部屋には、窓も扉も換気扇も無かった。床や天井にも、一切の出入り口が無かった。ただ冷たい壁だけが、彼のすべてを囲んでいた。
 現実離れした空間。折原は可能性を考えて、潰していく。
 まず、夢ではない。中三の夏に夢の中に閉じ込められたが、あの妙な浮遊感はない。
 次に、魔界でもない。中三の冬に魔王の城の檻のなかに閉じ込められたが、あの独特な匂いはしない。
 そして、御伽噺でもない。一ヶ月前に不思議の国のアリスの世界に閉じ込められたが、壁もスマホもあの絵柄ではない。そのときお土産にと勝手に持ち返った帽子は、今も自室の壁を賑やかしている。
 ならば、宇宙だろうか。先週UFOに閉じ込められたばかりである。現実離れした空間なら、疑うべきだろう。
 折原はスマホのマップアプリを起動した。GPSで居場所を確認した。俯瞰されたのは、彼の通う高校であった。居場所を示すピンは、大気圏外ではなく、間違いなく高校を指していた。
 疑問が深まる。
 ここは一体どこなのか。
 窓も扉も換気扇も、その他一切の出入り口が存在しない部屋。
 ──なにもない部屋。
 しかしここは、校内であるという。
 果たして、我が高校にこんな部屋は存在していただろうか? 高校一年生である彼は、五月末現在まだ二か月程度しか通っていなかったが、それでもこんな部屋があるのはおかしいと十分に分かった。
 今からその正体を突き止めて、できるだけ早急に、脱出しなければならない。
 しなければならない理由が、彼にはあった。
 折原は憂鬱に溜息をついた。

 部屋には、彼の他にもう一人いた。
 彼女は目を覚ますと、ライトを向けてきた折原に対して、眩しそうな、そして軽蔑するような視線を寄越した。
「ここはどこにゃ……」
 名前は君ヶ園。バレー部らしいショートボブをした、スラリと背の高い女子生徒だった。中性的な整った顔立ちをしており、切れ長の双眸には威圧感がある。友人の少ない折原とは対照的に、彼女はクラスの中心的なグループに属していた。
 彼女は自分のスマホのライトを点けて、ざっと状況を確認した。
「なんか濡れてるし……」
 彼女の言う通り、折原と君ヶ園は何故かぐっしょりと濡れていた。下着や持ち物にまで浸透していた。既に乾き始めていることから、濡れてから多少は時間が過ぎたのだと分かる。
 そのせいか、服からは異様な匂いがしていた。六種類くらいの料理をミキサーで混ぜたような、今までに嗅いだことのないような不思議な匂いだった。
 君ヶ園は、一軍女子特有の(と、折原が思っている)排他的な態度で、折原をじとっと見下ろした。
「あたしを閉じ込めて、どうしたいのにゃ?」
「違います」あらぬ誤解を受けて、折原の憂鬱が膨らむ。「僕も閉じ込められた側です」
「でも、あんたってストーカー野郎にゃ」
「それも誤解です」
 君ヶ園の辛辣な態度には理由があった。
 彼女には、由紀鳥という同じ女子バレー部の友人がいた。由紀島は大変性格が良く、努力家で、内気で、小さな体躯をしていた。いつしか君ヶ園は、彼女を見ていると、守ってあげたくなるような衝動に駆られるようになった。そんな折、廊下で、折原が由紀島を押し倒しているのを見てしまった。
「もう、僕のこと何とも思ってない?」
 折原が彼女にそう言っているのを聞いて、君ヶ園はすぐに察した。つまり、これは最近よくニュースになっているあれだ。女性からの優しさを好意だと勘違いした男が、拒絶されて暴走したやつだ。
 彼女は持ち前の膂力で折原を蹴り飛ばし、由紀島を救出した。
 そして、嫌悪と警戒の目つきで折原を見るようになった。
「だって由紀島さん、よく転ぶでしょう? 助けていただけです」
「なら、あの台詞はにゃんだ」
「あれは──」と折原が口ごもる。「……由紀島さんは、本当に、一瞬だけ僕のことが好きだったので……」
 ほら見ろ、とばかりに君ヶ園が顔を歪めた。
「きも……」
 そして彼女は友人に電話をかけた。五人と通話して、それぞれに助けを求めた。だが、ここがどこだが分からないので失敗に終わった。
「ほんっとーに、あんたは何も知らにゃいんだな?」
「本当です。これから調査をするので、手伝ってください」
 君ヶ園は舌打ちをして、渋々と頷いた。
「……それと、聞いていいのか分からないのですけど、さっきからその語尾なんですか?」
 君ヶ園がぎくりと硬直する。
「あと、そのカチューシャ……」
 折原が指した先には、猫耳があった。君ヶ園が被っているのだ。ふわふわと毛羽立ち、ピンクと紫のまだら模様をしている。
 右耳はピンと立ち、左耳はくったりと曲がっている。あざといデザインだと折原は思った。
「う、うるさいっ」
 君ヶ園がそっぽを向いた。そして、もじもじと話し出す。
「……さっき飯食ってるとき、友達としりとりしてて……。それで負けたから……一時間は猫人間にならないといけない……のにゃ……」
 折原は堪えきれずに噴き出した。すると彼女の鋭い眼光が飛んできたので、慌てて口を結んだ。
「ここには僕しかいないのですから、普通にしたらどうです?」
「でも、一時間っていう約束だから。筋は通したいにゃ」
 おもしれー人だな、と折原は思った。

 二人で壁に手をつきながら、ぐるりと部屋を一周した。やはり、扉も窓も存在しない。
 壁は、どうやらプラスチックだった。薄緑色の分厚いプラスチックに囲まれていると分かり、折原はますます首をひねった。
「……マジでどういうことだにゃ」
 君ヶ園も困惑を隠せない。メイクされた細長い眉をひそめていた。
「そもそも、四隅がカーブしてる部屋って何なのにゃ」
「分かりません……」
 次に、二人で床を調べた。折原が事前に調べた通り、出口は見つからなかった。ちょっとばかりの水溜まりが、ライトを鈍く反射しているだけだった。壁にも水滴が残っており、室内は全体的に湿っているようだった。
 折原は壁に耳を当てて、外界の音を聞いてみた。暗闇なので耳を澄ませやすかった。生徒が廊下を走る音や、グラウンドで騒いでいる声などが、聞こえた。
「やはり、ここは高校のなかで間違いないようですね。君ヶ園さん、なにか心当たりはありますか?」
「あるわけないでしょ。こんな場所知らない……。先輩から聞いたことも無いし……」
「にゃあを忘れてますよ」
「黙れにゃ」
 外から声が聞こえるということは、こちらの声も届くかもしれない。そう考えて、二人は大声を張り上げた。しかし、五分ほど続けても収穫は無かった。
 その苛立ちのまま、今度は壁を破壊しようとした。二人して壁を蹴り続けた。蹴る度に、壁だけではなく床まで震えた。どうやら一枚で繋がっているらしい。
 懸命なる抵抗は、折原の腹から聞こえた大きな音によって中断された。
「……まだ、お昼を食べていなくて」
 折原は空腹による脱力感を覚えて、その場に座り込んだ。実際、気分も暗かった。脱出への手がかりが全く掴めていない。彼はこの、なにもない部屋から早急に脱出しなければならない。ならない理由が、あるというのに。
「──ちょっと待てにゃ」
 君ヶ園はそう言って、何かを探し始めた。スカートのポケットに何も入っていないと分かると、ずっと肩にかけていた巾着袋を降ろした。
「うわ、にゃんだこれ」
 折原がライトを向ける。ポリエステルの巾着袋は、内側から大きく破れていた。エイリアンが食い破って生まれてきたかのような有様であった。中身は一体何だったのだろう、と折原は気になった。さっき飯を食ってて、と彼女は言っていた。今は昼休みだ。昼休みに持ち歩くものと言えば、弁当箱だろう。巾着は、きっと弁当箱入れだ。
 君ヶ園は不気味そうに巾着を放り捨てた。そして、スカートの下に履いていたジャージのポケットから、目当てのものを見つけた。
「……食えにゃ」
 と、折原に差し出したのは、チューインガムだった。個包装の状態で、やはり濡れている。
「あ、ありがとうございます……」
 折原は困惑しながら受け取った。君ヶ園から施しを受けたことに驚いていた。彼女は、自分に嫌悪を向けているはずなのに。
 それでも、お腹を空かせた目の前の人を放ってはおけなかったのか。
いい人だな、と折原は闇のなかでこっそり微笑んだ。そして、ガムを口の中でゆっくり溶かす。その甘味で、思考を回す。
 ここは高校。GPSといい外界の音といい、それは確定だ。そして、折原も君ヶ園もさっきまで高校にいた。そういう記憶がある。時間は昼休みだった。
 そして、いつの間にかびしょ濡れでここにいた。
 この部屋には扉も壁もない。床に地下室への入り口なんてものも無い。
 ……なら、そもそもどうやって入った?
 壁も床も駄目なら……天井は? 天井しか考えられない。だが、ハッチみたいなものは見当たらない。
 なら──。
 と、折原は壁と天井の繋ぎ目にライトを当てた。そこには隙間があった。壁の上に天井を乗せて、蓋をしているような感じだった。
「……君ヶ園さん、肩車をしましょう」
「は?」
 彼女は隙間を見ると、すぐに彼の意図を察した。そして、壁に手をつきながら折原の肩へと昇った。筋肉のせいか想像より重かったが、折原は何も言わなかった。
「……駄目にゃ」
 君ヶ園は両手で天井を押した。力いっぱい、何度も押した。確かに、天井は少しだけ浮き上がった。外れそうな気配があった。しかし、それは数センチだけであった。何かが上から抑えつけているようだった。重いものが乗っているのか、壁と粘着しているのか、君ヶ園には分からなくて彼女は舌を打った。
 ようやく見えかけた脱出への糸口が断たれて、とうとう二人して座り込んでしまった。暗黒のなかで調査することや、事態がなかなか進展しないことに、二人は消耗していた。目線を合わせ、憂鬱を交わし合う。
 折原の脳内に、ある人物の言葉がよぎった。設計士をしている従兄の言葉である。彼は、三十九人いる親戚の一人であった。
 ──鍵が合わないなら、扉ではなく鍵束を見ろ。
 彼の言葉を思い出し、折原はアプローチを変えることにした。ここへどうやって入ったのか、直前の記憶をすり合わせることで導こうと考えた。

「あたしの最後の記憶は……。一階の手洗い場で弁当箱を洗ってた。食べたあと持ち歩くのがなんか嫌で、いつも洗ってるにゃ」
「一階の手洗い場……」折原は違和感を覚えた。一年生の教室は二階である。何故、わざわざ一階の手洗い場で洗っていたのだろう? 恥ずかしいからだろうか。
「東側校舎ですよね? あの、体育館に近い」
「そうにゃ。そしたら、由紀島が走ってきてあたしにぶつかった。……で、気が付いたらここにいたのにゃ。由紀島の激突に、あんたも巻き込まれたにゃ?」
 折原は頷いた。彼は中庭に用事があって、そこから戻って来るところだった。手洗い場で弁当箱を洗う彼女の背後を、自分の存在に気がついた彼女の舌打ちを聞きながら、そそくさと通り過ぎようとした。そのとき、何者かがぶつかってきて、意識を失った。何者とは、由紀島だったのだ。
 ──全身が濡れていたのは、そういう理由だろうか? 由紀島の衝突によって、例えば肘が蛇口のハンドルを回してしまい、水が撒き散らされた。それを、床で伸びた僕らが浴びた。妙な匂いは、弁当の残飯の匂い……。無理のない考えだ。
 しかし、と折原は顎を擦る。由紀島は小柄で、大したパワーを秘めているとは思えない。彼女がぶつかってきただけで、気絶なんてするだろうか。それも二人とも。片や男子、片や高身長のスポーツ女子だ。
 なにか、あったのだ。
 ぶつかってくる、以外のなにかが……。
「由紀島さんはどんな様子でしたか?」
「分からないにゃ。近くで扉の開く音がして、それから誰かがこっちに走って来るのには気が付いていたけど……。早く洗っちゃおうと急いでいたから、特に振り返らなかったのにゃ」
「なるほど」
「あんたはどうして、手洗い場のほうまでやって来たのにゃ?」
「廊下で珍しいものを見つけたので、追いかけていたら、いつの間にか君ヶ園さんの背後に来ていました」
「珍しいもの?」
「黒い雀です」
「黒い雀……? あ、あたしも見たかもしれないにゃ。弁当箱を洗っているとき、目の前を通り過ぎたのにゃ」
「追いかけなかったのですか? 猫人間なのに」
「心まで猫人間になったわけじゃないのにゃ」
 折原は、特に頼まれもしていないのに解説し始めた。それはメラニティック雀であろう。遺伝子変異によってメラニンが過剰生成されたことで、本来のいわゆる雀色ではなく黒色に染まった個体だ。発生確率は、下手すると十万羽に一羽とも言われる。一生のうちに見るか見ないか、くらいであろう。
 そこまで語ってから、君ヶ園の様子がおかしいことに気がついて、口を閉ざした。
「……大丈夫ですか?」
 君ヶ園は震えていた。濡れた服が冷えるのか、暗闇が恐ろしいのか、膝を抱えて震えていた。腕に顔を埋めていた。
 折原はハッとした。彼はこういった事態に慣れているが、普通の人間は違う。そんな当然なことを、やっと思い出した。訳が分からないまま、この、なにもない部屋に閉じ込められて、もう三十分は経つ。しかも、暗闇だ。気丈ではいられまい。
 君ヶ園が顔を上げた。疲労の色が濃く浮かんでいた。
「……何でもないにゃ。それより、もっかい調べ直してみるにゃ?」
 こんなときでも、彼女は友人との罰ゲームを律儀に守っていた。
 折原の脳内に、ある人物の言葉がよぎった。花屋を営む従姉の言葉である。彼女は、三十九人いる親戚の一人であった。
 ──萎れた花を見かけたら、飲み水でさえ与える人間になりなさい。
 折原は、君ヶ園への気づかいが足りなかったことを反省し、立ち上がりかけた彼女へこう言った。
「……Youtubeでも見ます?」
「へ?」と君ヶ園が頓狂な声を出す。「いや、そんなことしてる場合じゃ無いにゃ」
 確かに、折原には時間が無い。しかし、
「あなたが優先です。つらいのなら、一度落ち着きましょう。ショート動画くらいなら大丈夫ですよ」
「……」
 折原が再生したのは、プロポーズをする様子を集めた動画だった。意外な状況、魅力的な絶景、などを背景に突然男性が跪いては指輪を取り出している。
 君ヶ園はそういった類のサプライズが嫌いだった。見ていると、べぇっ、と舌を出したくなる。しかし今、不安を和らげるにはそのくらいポジティブな動画がありがたかった。
 一方の折原は、光源として機能しそうなくらい目をキラキラさせて動画を見ていた。どうやら、彼は本気でこの動画を選んだようだった。
 そんな彼の様子に、君ヶ園はくすりと笑みを漏らす。そして彼女は、折原の対面から隣へと移動した。動画の向きを揃えることで、互いに見やすくするためだった。
 肩と肩が触れ合ったとき、折原は飛び上がった。
「あたしの隣……嫌なのかにゃ?」
 じっ、と。
 君ヶ園はからかうような目つきで折原を見つめる。
「……いえ」
 折原は首を振って、ぎこちない所作で彼女の隣へと戻った。少し、間隔を空けていた。なので君ヶ園は、ぴょんと尻を浮かせて彼にくっついた。彼の心臓が高鳴っていることを察して、いい気分になった。
 だが、それは照れでも驚きでもなく──焦燥であった。
 動画が終わり、折原はスマホをスリープさせた。部屋が、静寂と暗闇に戻る。「……どうしたのにゃ?」と君ヶ園がまたライトを点けた。照らされた折原は、顔をしかめながら、実に言いにくそうに言った。
「──ごめんなさい。実はこれ、僕のせいなんです」

 これ、とは。
「閉じ込められているのが、ってことにゃ?」
 折原はゆっくりと頷いた。
「やっぱり、あんたはストーカー野郎で、由紀島の次はあたしを……?」
 折原はすぐに首を振った。
「いいですか。今から言うことは、決してふざけているのではありません。本当に、本当のことです。いいですか。……この、閉じ込められている状況はですね、」
 彼はさも憂鬱そうに溜息をついてから、ちょっと赤面しながら言った。

「縁結びの儀式、なんです」

 君ヶ園がぽかんと口を開ける。
 折原は早口になって続けた。
「僕の遠い先祖が、その土地にいる『縁結びの神様』から怒りを買ったか寵愛を受けたかしたらしいのです。そして祝福を、あるいは呪いをかけられたらしいのです。
僕の血筋の者は、十五才になると〝儀式〟に巻き込まれ始めます。『縁結びの神様』が、運命を手招き、偶然を重ね合わせ、状況を創り出し、血筋の者をどこかへ閉じ込めるのです。その際、誰かと共に閉じ込めて、二人切りにします。一緒に閉じ込められた誰かは、時間が経つにつれて血筋の者が好きになっていってしまいます。そして二人が接吻すると、縁が結ばれてしまうのです。二人はそのまま、一生添い遂げることになるのです」
 話しながら、折原は思わず頭を抑えた。このはた迷惑な呪いに対して、勘弁してくれ、と嘆くように。
「〝密房の儀〟──と呼ばれています。君ヶ園さんは、この呪いに、儀式に、巻き込まれたのです。だから、僕のせいなのです……。ごめんなさい」
 彼は立ち上がり、頭を下げた。
 君ヶ園はなんて言っていいのか分からず、「あ、えっと」困惑した顔で固まっていた。
 普段の彼女なら、ここへ閉じ込められる前の彼女なら、オタクがなにか妄想を話しているだけだと、こいつはやはり思い込みで女に近づいてくるやばいやつなのだと、そう一笑に付しただろう。
 でも今は、違った。彼のことを信じてあげたかった。そんな呪いを生まれながらに背負わされた彼に、同情すら感じていた。申し訳無さそうに表情を曇らせる彼を、この胸で優しく抱いて、頭を撫でて、慰めてやりたいとすら思った。
「あっ」
 と、彼女は気がついた。そして、彼の言ったことを今度こそ本当に信じた。どうしてこのタイミングで話したのかも分かった。
 この気持ちは──儀式の効果なのか。
 恐ろしいな、と彼女はどこか他人事のように思う。折原のことは、ずっと嫌悪していたというのに。人を好きになっていくのは、こんなにも恐ろしいことだったとは。私が私で無くなっていくのに、見ている私が何もしてくれない。
「でも、安心して下さい」
 折原は、彼女の対面に腰を落とした。膝をつき、まるで騎士のようなポーズだった。
「僕は何度もこんな目に遭っています。そして必ず脱出しています。〝密房の儀〟は、既にある事象をパッチワークして作られるため、そこには必ず綻びが生じるのです。どんなに無理な状況だろうと、調査や思考を少しずつ積み重ねれば、必ず出られます。夢に閉じ込められても、魔王の城に閉じ込められても、御伽噺に閉じ込められても、UFOに閉じ込められても、僕は諦めませんでした。そして脱出してきました。だから今回も、必ず出られます」
 君ヶ園が彼の顔を見つめる。というより、見惚れていた。こんな状況なのに冷静な彼が、とても頼もしく思えたからだ。
「……君ヶ園さん?」
「あっ。な、何でもないにゃ」
 彼女がバッと顔を背ける。その頬は熱くなっていた。
「こ、この気持ちも……。儀式のせいってことにゃね……?」
「そうです。そうしてキスを誘発するんです」
「キスをしたら、縁が結ばれてしまう……」
「それまでに、ここから脱出しなければなりません」
「なんか、あれだね。リアル脱出ゲームみたいだね」あっ、と君ヶ園が口を抑えて、「──にゃ」と付け足した。
 確かに似ている。実際、折原は特訓としてよく行っていた。と言っても、この儀式にクイズや謎解きは用意されていない。
「──あんたのせいじゃないにゃ」
 君ヶ園は、彼の腕を叩いて慰めた。これくらいなら、触れても大丈夫だろうと思った。
「話を聞く限り、悪いのはご先祖にゃ。それか、理不尽な『縁結びの神様』とやらにゃ。あんたはそれに抗ってるだけ。……立派だよ、尊敬するにゃ」
「……ありがとうございます」
「というか、由紀島のこともそういうことにゃ?」
「そうです!」
 やっと誤解が解けた、と折原は歓喜から語気を強めた。当然襲ってなぞいない。由紀島が転び、それを助けていただけである。──もう僕のこと何とも思ってない? という台詞は、ただ儀式の後遺症を確認していたにすぎない。
「……ごめんにゃ」と、今度は君ヶ園が頭を下げた。ピンクの猫耳がずり落ちそうになっていた。「勘違いして、嫌ったりして……」
「いえいえ、仕方のないことです」
 君ヶ園が顔を上げ、折原に微笑みかけた。
 二人の間にあったわだかまりが解消されていった。儀式の効果に依る一時のまやかしだと、そう一蹴することはできない。チューインガムを渡したことも、YouTubeを一緒に見たことも、そして誤解が解けたことも、好感度とは別にある二人の性格だった。互いに、それを知ったのだ。
「由紀島のときは、どうやって脱出したのにゃ?」
「えっとですね、彼女とは不思議の国のアリスの世界に閉じ込められたんですけど──」
「じ、実在するとは……」
「〝密房の儀〟はそういう世界観なんです。もっと変な場所もありましたよ」
 ──と。
 折原が黙った。また、思考が回り始めた。それを察してか、君ヶ園は何も言わなかった。
 不思議の国のアリス。
 大事なのは、そこだった。
 不思議の国のアリス。一ヶ月前、あの物語の世界に由紀島と共に閉じ込められた。
 そのとき、折原はお土産を持ち返った。派手な帽子を手に入れた。
 お土産──。
 折原はさらに思考を深める。答えの光は視えており、あとは手繰り寄せるだけだった。
 持ち返ったのが──僕だけでは無いとしたら?
 由紀島は、何かを持ち返ってきた?
 由紀島と僕らがぶつかったとき、いったい何が起きた?
 そして、どうやって僕らはなにもない部屋に入った? 窓も扉も無いのなら、天井だ。天井から、僕らは入って来た。ではなく、入れられた。
 ここは何処だ? 窓も扉も換気扇も無い、しかし校内であるという、ここは。
 ──折原は気が付いた。そして、あまりの馬鹿らしさに脱力した。
「なにか、分かったのかにゃ?」
 期待のこもった君ヶ園の眼差しに、彼は応えた。

「ここは……弁当箱のなかですね」

「──は?」
 君ヶ園は目を点にした。折原の出した結論が、本気なのか冗談なのか、あるいは疲労で狂ってしまったのか、分からなかった。
 ここは弁当箱のなか。
 なんて、あまりに突飛で信じ難かった。
 だが折原には自信があるようで、「あ、そっか。あれもそういうことか」と既に確認作業に入っている。
「い、一から説明して欲しいのにゃ」
「あぁ。すみません」
 折原は一人でぶつぶつ呟いていたのを止めて、彼女の質問に答えだす。
「まず……あたしらは、どうやって縮んだのにゃ……?」自分で言っていて、君ヶ園は頭がおかしくなったような気がしてくる。「ここが弁当箱のなかなら、そのサイズまで小さくなってるってこと、にゃ……?」
「アリスの小瓶です。その中身を頭から被ったんです。……不思議の国のアリス、子供の頃に飛び出す絵本などで読んだことがありませんか?」
 君ヶ園は頷いた。そして、小瓶の存在をすぐに思い出した。
 ウサギを追いかけて穴に落ち、まず着いた広間には小さな扉があった。アリスは〈Drink Me〉と書かれた紙と、近くに置かれた小瓶を見つける。その中身を飲んだら、身体が縮んで、小さな扉を通り抜けられた──というシーンがあった。
「それを、由紀島さんは持ち返って来たのでしょう。恐らく、大きくなる方の小瓶も持ち返っていると思います」
「な、何でにゃ……?」
「さぁ、それは分かりません。身長のことで悩んでいたとか、そういう感じじゃないでしょうか」
 由紀島はバレー部だが背が低い。十分にあり得る理由だった。
「彼女は、瓶の液体を使って校内で実験をしていた。いきなり自分の身体に使うのではなく、例えば……その辺にいるカラスなどに」
 あっ、と君ヶ園が声を出す。
「黒い雀……!」
「はい。あれは、縮められたカラスだったのでしょう。サイズ感的に、僕らは雀だと思ってしまった。きっとよく見れば分かったのでしょうが、如何せん鳥ですから。基本的に飛んでいます」
 そもそも、どうして家ではなくて校内で実験をしていたのか。どうやってカラスを捕まえたのか。
 そこら辺の疑問に、折原は取りあえず目を瞑ることにした。現にそうなのだから、後回しだ。
「しかし、実験中にカラスが逃げてしまった。もし誰かが捕まえたら騒ぎになってしまう、そう考えた由紀島さんは焦り、うっかり瓶の蓋を開けたまま、カラスを追いかけてしまいます。そして、いつものように躓いて、たまたま手洗い場の前にいた僕と君ヶ園さんにぶつかった──」
 君ヶ園は唖然とした顔で彼の推理を聞いていた。『縁結びの神様』による、偶然の重ね合わせ。運命の手招き。その恐ろしさを実感していた。
「瓶の中身がぶちまけられ、僕らは全身でそれを浴びてしまった、最初にぐっしょりと濡れていたのは、水道の水ではなく、瓶の中身だったのです。下着や持ち物にまで浸透したから、そのまま縮んだのかもしれません。これは、不幸中の幸いでしたね。もし浸透しなければ、そこの巾着のように、中身だけ大きいままとなり内側から破れてしまったでしょうから」
 君ヶ園は床に転がった巾着へ目をやり、ぞっとしたように二の腕を擦った。もし顔だけにかかっていたら、スマホも何も持たない全裸の二人がただ転がっていたのだ。
「……じゃ、じゃあ、なんで由紀島は、あたしらを弁当箱のなかに閉じ込めたのにゃ?」
「恐らく、安全のためです。縮小し意識を失った僕たちを、由紀島さんはとても危険だと判断したのでしょう。だから、ちょうど近くにあった君ヶ園さんの弁当箱に入れて、バンドで封をした。これなら、鳥につつかれたり勝手にどこかへ行ったりしませんから」
「由紀島は今、何をしてるのにゃ?」
「多分……元に戻すため、大きくなる用の小瓶を取りに行っているのでは無いですか?」
「なら、わざわざ取りに行かずに、弁当箱ごとあたしらを運べばいいのにゃ」
「いやいや、それは危なすぎます。由紀島さんはよく転ぶんですよ? 小さくなった人間を二人所持した状態で、盛大に転んでしまったら……」
 君ヶ園の顔が恐怖で引き攣った。「お、置いていってくれて、助かったにゃ……」彼女はすっかり青ざめている。この状況に至るまで、割と綱渡りだったのだ。
「……以上の推理から、僕はこの場所が弁当箱のなかだと考えました。どうでしょうか」
 どうでしょうか、と訊かれても君ヶ園は困った。彼の出した結論の衝撃と、しかし信じるに足る状況の数々に、まだまだ混乱の最中である。
 なので彼女が言ったのは、
「……凄いのにゃ」
 という賞賛の言葉だった。
「よく、そんなことを考えられるのにゃ」
 彼女はぱちぱちと手を打った。折原は反応に困って頭を掻いた。取りあえず、異論は無いようだった。
「由紀島が大きくなる用の小瓶を取りに行っているのなら、何も焦ることは無かったのにゃ。彼女が戻って来るのをこのまま待てばいいのにゃ」
「いいえ、駄目です。これは呪いによって起こされた状況なのですよ? 僕らをキスさせようと、呪いによる時間稼ぎが発生しているはずです。現に、ここに閉じ込められてから四十分以上は経っているというのに、由紀島さんは戻ってきません。何らかの偶然により、到着が遅れている。そう考えるべきでしょう」
「た、確かに……」
 折原は考える。普通だったら、瓶は実験をしていた教室に置いてありそうなものだ。しかし、恐らくそうではない。君ヶ園は、扉の開く音を聞いている。僕も聞いた。どの教室からかは覚えていないが、とにかく近いことは確かだ。由紀島が実験をしていた教室は、すぐ近くだったのだ。それでも、こんなに時間がかかっているということは……瓶はもっと別の場所にあるのだろう。由紀島はそこまで取りに行って、何らかの運命的な足止めを食らっている。
「今すぐここを脱出しましょう。由紀島さんはどこに弁当箱を隠したのでしょうか? あまり持ち歩きたくないという心理から、手洗い場付近であると思います。そして、見つかりたくないでしょうから、人の寄り付かない場所だとも考えられます」
 折原は東側校舎一階のマップを頭に浮かべた。そして、今話した条件に合わない場所を消していく。教員が昼休みにいそうな場所や、生徒の出入りがありそうな場所は駄目だ。
 すると二つに絞れた。
 手洗い場を前にして、左へ少しだけ歩いたところにある、小教室B。
 逆に、すぐ右にある国語科準備室。
 この二つの教室には、昼休み、誰もいなかったはず。
 どっちだ。どっちに隠した。
 それとも、取りあえず助けに来てもらって、外れならもう一方を見て貰えばいいだけか? 果たしてそれだけの時間が、残されているだろうか。キスは回避できるだろうか。好感度が閾値を超えた女子がどんな強硬手段に出るのか、彼は身に染みて知っていた。
「待つにゃ」
 君ヶ園が、折原の思考に横槍を入れた。
「由紀島なら、確実に隠しそうな場所があるにゃ」
 彼女は得意気に指を立て、こう言った。
「──体育館の女子更衣室にゃ。あの子はバレー部だから、自分がいつも使ってるロッカーがあるにゃ。昼休みだから授業では使ってないし、手洗い場からも近いにゃ」
「それです!」折原が高揚して叫んだ。「すぐに、助けを呼びましょう!」


 君ヶ園は教室にいるクラスメイトの女子に電話をした。とにかく女子更衣室に来て、そこにある弁当箱を開けて欲しいと伝えた。相手は困惑しながらも了承してくれた。
 これで、一安心だった。折原は長く息を吐きながら、壁にもたれかかった。そのまま煙草でも咥えるんじゃないかという雰囲気だった。
 あとはクラスメイトが到着するのを待つだけ。この弁当箱を開けてくれさえしたら、儀式は中断される。その後は、由紀島の到着を待って元のサイズに戻ればいい。
「……なんとかなって良かったのにゃ」
 と、君ヶ園は折原の真似をするみたいにぴっとりと真横に立った。再び肩と肩が触れ合ったが、折原は気にしなかった。君ヶ園は面白くなさそうに唇を尖らせてから、まぁいいかとこっそり体重をかけてみる。
 折原は、それを、跳ね除けるべきだった。まだ脱出できたわけではないのだから、不意にキスしてくる可能性だってあるのだ。しかし、気が緩んでいた。油断していた。そんな彼に喝を入れるよう、脳内にとある声が響いた。

 ──でも、本当にそれで良かったのでしょうか?

 従姉の言葉である。もちろん、三十九人いる親戚の一人であった。彼女はリアル脱出ゲーム店でスタッフとして長年働いており、この台詞がすっかり口癖なのだった。
 ピリッとした緊張が走る。折原は背筋を伸ばした。彼が何かを見落としているとき、この声が無意識に響くのだ。これまで何度も助けられてきた。
 なにか、ある。
 なにか、見落としている。
 顎を撫で、再び思考を始めた折原に、一方の君ヶ園は構わず話しかける。彼女は床へ目線を落とし、まるで夜の公園で親友に打ち明けるかのような態度だった。
「あたしさー、つい先週フラれたんだよね」
「……」
「聞いてるのにゃ?」
「え、えぇ。はい」
 と言いつつも、半分は上の空である。折原は今、情報を一から考え直すのに忙しい。
 振り返ってみると、一つ引っ掛かることがあった。彼女の持っていた巾着だ。内側から破裂してしまった巾着。その中身は弁当箱かと深くは考えなかった。しかし弁当箱は洗っている途中だったのだから、小瓶の中身を浴びたとき、巾着のなかには無かったはずだ。
 ──なら、巾着には何が入っていた?
 弁当箱は外にある。スマホは胸にポケットにある。昼休み中に、君ヶ園が持ち歩いていたものは何だ?
 そもそも、どうして一階で洗っていた?
 たとえ恥ずかしくても、同じ階の教室から離れたところで洗えばいいはず。何故、わざわざ階段を降りてきた?
 思考を深めていく折原の二の腕を、君ヶ園が邪魔するようにつんつんとつつく。
「なんでフラれたの、とか聞かないの? 気が利かない男にゃ」
「なんでフラれたのですか」
「えー? 言うー……?」
 訊いたら訊いたでもじもじし始めたので、折原は軽く苛立った。
「……多分、興味無いのがバレたから、なのにゃ」
「興味が無いのに、そもそも付き合ったのですか」
「うん」
 君ヶ園はさも憂鬱そうな伏し目がちで、長い睫毛を瞬かせた。
「……高校に入ったんだから、何かしなくちゃと思った。中学んときは何も上手くいかなかったから、何か一つでも得てみたかった。だから、手頃な──」
 彼女はハッとして口を閉じた。
「──なんて言い方、ひどすぎるにゃ。……もっと、ちゃんと謝らないと……」
「何かを得たいなら、バレー部で頑張ればいいじゃないですか」
「あたしって、身長だけあって全然才能無いのにゃ」
 そんなの、まだ五月なんだから分からないだろう。そう言いかけて、折原は止めた。彼女はもう既に挫折を経験しているのかもしれない、と気が付いたからだ。
 そしてもう一つ、気が付いたことがある。
 彼女はバレー部だ。
 そのことを意識した途端、折原には巾着の中身が分かった。
 そして、どうして一階にいたのかも分かった。
 どうして、東側校舎の一階、すなわち体育館の近くにいたのか分かった。
 自分が騙されていたことが、分かった。

「──嘘をつきましたね?」

 ぎくり、と君ヶ園が固まる。
 そして「……そんにゃまさか」と誤魔化した。しかし、分かりやすく目が泳いでいる。
「あたしがいつ、嘘なんてついたのにゃ」
「由紀島さんが弁当箱を隠すなら、体育館の女子更衣室だろうと提案しましたね? それは嘘です。由紀島さんが女子更衣室に弁当箱を隠すとは考えにくいと、あなたは知っていた」
「あたしは何も知らないにゃ……」
「わざわざ一階まで降りてきて弁当箱を洗っていたのは──どこかへ向かう途中だったのから、ですか?」
「そういう気分だっただけにゃ」
「どこかへ──体育館へ向かう途中だったのではないですか? だから、巾着を持ち運んでいた。そこに体育館履きを入れていた」
「……」
「あなたはきっと、バレー部の友達と体育館でバレーをする予定だったのです。ならば今、体育館にはあなたの友人がいます。人の声がする体育館へ、由紀島さんが弁当箱を隠しに行くとは考えにくい。絶対に話しかけられるでしょうから」
 もしかすると、君ヶ園とその友人たちは、そもそも一階で弁当を食べていたのかもしれない。二階にあるクラスで食べていたのなら、洗ってから降りてくればいいだけだからだ。館履き入れの巾着を肩にかけたままだったことから考えるに、向かう途中ではあっただろうから、階段や中庭などだろうか。
 とにかく。
 彼女は嘘をついていた。
 クラスメイトが女子更衣室へ向かおうとも、そこには何も無い。誰もいない。
このまま待っていても助けは来ない。来るのは、キスというゲームオーバー。
 折原はスマホの画面をタップした。通話アプリを起動した。同時に、君ヶ園がまるで猫のような素早い動きで、彼の手からスマホを弾いた。頼みの綱が部屋の隅へと滑っていく。折原は咄嗟に追いかけた。しかし、君ヶ園が立ち塞がった。
 ──あぁ、と。
 彼は自身の行動の遅さを悔いた。
 手遅れだった。
 儀式はもう、手遅れなほど進行していた。
 君ヶ園が嘘をついた。つまり、彼女はもう、ここから出ようだなんて思っていない。

「得たいの、にゃ」

 双眸を欄と輝かせ、じりじりと近づいて、折原を、その唇を、狙っている。
 折原は深い憂鬱を感じた。
 彼は今から、目の前の彼女を、クラスメイトを、いい人を、──フラなければならないのだから。

 飛ばされたスマホは裏返しとなり、ライトが天井を照らしていた。その逆光で黒い影となった君ヶ園が、折原に飛びついた。
 彼を押し倒す。腹の上で馬乗りになる。床へ抑えつける。力は、彼女の方が強かった。手首を掴み、そして、鳥がついばむように、口を、口を、口を、迫った。
 折原は暴れて、どうにかキスを回避し続けた。何度か、彼女の唇が頬をかすめた。儀式の完了は口対口(マウストゥマウス)によって成される。それは、時間の問題だろう。そう思えるくらい、キスの猛攻は激しかった。
「……もうっ」
 と、君ヶ園が顔を上げて、不貞腐れた表情で彼を見下ろす。
「どうして抵抗するのにゃ? そもそも脱出する必要なんてにゃいのに」
 もしこの場に彼と彼女以外の第三者がいたなら、その指摘に対して大いに頷いたかもしれない。君ヶ園はいい人だ。美人だ。そんな彼女が無条件に好いてくれ、キスまで迫っているのだ。このまま添い遂げることは、むしろ望むべきことだと、羨ましいと、普通なら思うのかもしれない。
 だが、折原には。
 あるのだ。
 脱出する必要が、彼にはあるのだ。
「……よく見ると可愛い顔をしてるのにゃ……」
 うっとりと目を細める君ヶ園に、折原は訴える。
「落ち着いて下さい、君ヶ園さん。これは呪いです。あなたの気持ちも、呪いの影響です。そもそもの関係を思い出して下さい。あなたは、僕のことを嫌悪していたはずです。それなのに、キスがしたいだなんて、おかしいじゃないですか」
「呪いとか、過去とか、どうでもいいのにゃ。今、あたしは高揚してる。今、この瞬間を重要に思う。まやかしにノること、それが青春なのにゃ」
 甲高く、着信音が鳴り響いた。君ヶ園の胸ポケットが光った。スマホが震えていた。
 恐らく、クラスメイトだ。女子更衣室に到着したのだ。そして、呼ばれたというのに誰もいないし弁当箱も無いから、不思議がってかけてきたのだろう。折原も君ヶ園もすぐにそう察した。
 その通話をとることができたら、そして本当の隠し場所を伝えられたら、まだ助かるかもしれない。折原はそう考えた。しかし、本当の隠し場所とは──どこだ? 女子更衣室が潰れた今、残る選択肢は二つ。小教室B。国語科準備室。どっちだ、どっちだ。これは賭けだ。裏か表か、丁か半か。
 折原の脳内に、ある人物の言葉がよぎった。高校生の従兄弟の言葉である。彼は、三十九人いる親戚の一人であった。
 ──多くの問題は、序文を読まない者だけを困らせるんだ。
 ヒントは最初の方にある。折原はそう考え、思考を巡らせた。
「……そんなに、あたしが嫌なのにゃ……?」
 君ヶ園は瞳を潤ませた。折原の心に、一抹の罪悪感が湧く。
「あたしは、そんなに駄目なのにゃ……?」
「そんなことはありません。あなたは素敵です。これは、僕の問題です。僕には──」折原は赤面して目を逸らした。「──ほ、惚れている人がいるんです」
 君ヶ園は傷ついた表情を浮かべた。「う、嘘にゃ」
「嘘ではありません。中一のとき、とある女性に惚れたのです」折原は恥ずかしそうに語った。「でも、彼女の名前を知らないのです。今、どこにいるのかも分からないのです。だからずっと調べ続けています。いつかその正体に辿り着いて、告白しようと思っています。……と言っても、もう三年以上調べて、手がかりすら掴めていないのですが」
 君ヶ園は、何だか彼が許せないような、八つ当たりしたくなるような、ささくれた気分となった。
「……何度もこんな目に遭ってる、と言ってたにゃ?」
「はい」
「何度も脱出してるのは、何度も儀式を拒否してるのは、……その人を追いかけているからなのにゃ?」
「はい」
 即答する彼に、彼女は苛立ちを隠せない。
「……楽になりたい、とは思わないのにゃ? あとどれだけ調べればその人に会えるのか、分からないのに。あと何回脱出すれば儀式が終わるのか、分からないのに。そして、そこまで頑張っても、結局、憧れの人なんて見つからないかもしれないのに──」
「その通りです」
「だったら! だったら──もう、止めたらいいのにゃ! 手頃で済ませたらいいのにゃ! 諦めちゃえば、楽になるのに──。すぐにでも、なにか得られるのに──」
 その気分の正体は羨望。そして、嫉妬。君ヶ園は彼が眩しかった。しかし恋心で我を失った今、彼女はそれに気が付けない。
「──いいえ、諦めません」
 折原は、微かな羞恥を残しながらも、毅然とした態度で告げた。
「何も分からない。いつまでかかるか分からない。……何も視えない、どこにもいけない。それでも、積み重ねれば、少しずつでも進み続ければ、きっと、きっと、突破口はあるはずです。いつかは辿り着くはずです」
「どうしてよ! そんなの嫌でしょ? いま、楽になろうよ! 楽にしてよ!」
「──その方がロマンチックだから、です」
 一瞬。
 君ヶ園の、動きが止まった。
 彼の言葉が効いたのだ。それは彼女にとって、説教だったのか、救済だったのか、分からない。しかし、彼女の心に刻まれたことだけは確かだった。これから君ヶ園が生きていくなかで、その言葉は何度も頭をよぎるだろう。
 君ヶ園の、手が緩んだ。
 折原はその隙を逃さず、彼女の拘束から逃れた。胸ポケットから未だ震えているスマホをサッと盗むと、距離を取りながら、通話に出た。そしてクラスメイトへ、こう叫んだ。
「一階の小教室Bに来て下さい! 弁当箱を探して、開けてください!」

 折原はクラスメイトの悲鳴に耳をふさいだ。爪楊枝くらいしかない人間を見たら、誰だってそうなるだろう。
 ずっと暗闇にいたせいか、蛍光灯の光がやけに眩しい。
 折原は達成感に包まれて、床へだらんと大の字に寝転んだ。後は、由紀島の到着を待つだけだ。それまでに、クラスメイトを落ち着かせることができるだろうか。
 どうやら賭けに勝ったようだ。
 二択のうち、どちらの可能性が高いのか。
 女子更衣室以外で、由紀島が隠しそうな場所は──元々実験に使っていた教室だ。そこなら、確実に人がいない。いないから、実験をしていたのだから。
 では、どちらが実験をしていた教室なのか。
 手洗い場を前にして、左へ少しだけ歩いたところにある小教室B。 逆に、すぐ右にある国語科準備室。どちらか。
 答えは常に目の前にあった。
 君ヶ園が被っていた猫耳のカチューシャ。ふわふわと毛羽立ち、ピンクと紫のまだら模様をしているカチューシャ。
 右耳はピンと立ち、左耳はくったりと曲がっている。あざといデザインだと折原は最初思ったが、それは違う。瓶の液体を被って、濡れたのだ。左耳だけ多く濡れていたのだ。多く濡れていたということは、恐らく由紀島はそっちの方向から走ってきた。折原はそう考えて、実験は小教室Bで行っていたと、賭けたのだ。
 君ヶ園はぼうっとした様子で、床にぺたんと座り込んでいた。弁当箱の蓋が外された瞬間、彼女は我を取り戻し、今は折原から距離を取っていた。そんな様子を見ていると、折原の心に罪悪感が湧いてくる。儀式からの脱出は、虚しい悲しさがいつも残る。
「……まぁ、頑張って」
 君ヶ園は、折原に目を合わせないまま力なく笑った。
「応援してるわ」
 そして猫耳を取り去った。


コメラレ・メランコリィ パイロット版

コメラレ・メランコリィ パイロット版

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-03-14

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