掌編集 59
581 女性は君の領分だ
私が子どもの頃から好きな彼は、恋愛には無関心だ。
恋愛感情や極端な情緒は、彼の冷徹な推理の邪魔になると考え避けているのだ。
ただひとり、あの人への敬意も、女性への興味ではなく、女性の知性に対するものであると思う。
彼の無関心領域は、主に事件解決に直接関係のない知識や感情だ。
彼は自分の脳を、
『必要な知識だけを収納する屋根裏部屋』
に見立て、興味のないことや実用性のない知識は意識的に無視、あるいは忘却している。
『緋色の研究』では、
『地球が太陽の周りを回っている』
という知識すら知らず、相棒を驚かせた。
「そんなことは私の仕事に何の関係もない」
と。
彼の興味は事件に特化しており、世間の動向や文学作品、政治には基本的に無関心だ。
推理に役立たない趣味の知識や、一般的な教養も関心外だ。
【お題】 無関心領域
582 並びたくない
実際に並ぶわけでないけれど待ちます。
待ちますよ。平均2、3年。都市部だと5年以上待つことも。(その間に死んじゃうことも、殺されちゃうことも……悲しい現実)
全国で約20万人が待機。
要介護3以上が原則で、認知症や寝たきり、介護者の介護疲れが高いほど早く入れる。
ようやく順番が来て入居されても期待しないでください。どこも人手不足。
ナースコール押したってすぐには行けません。
食事もそれなり。
「こんなもの食えるか!」
と、わめいていたマンサクさん。
その歯で食べられるように刻むのも大変なのよ。
異動の季節。また職員が辞めていく。去年の12月に人材確保手当というのが付いていた。私は短時間パートだから少しだけど。
何が付いても安い給料。増える残業。
入りたい人は行列で、施設はどんどん建っているけど、働く職員がいない。
【お題】 行列の先にあるもの
583 感情を抑える
隣の旦那さんが認知症になった。
夜中声が聞こえる。娘さんの名を呼ぶ。住んでいるのは父と娘。80歳くらいの父親に50歳くらいの娘さん。壁が薄いのか、聞こえてしまう。娘さんはフルタイムで働いている。
娘は父親を怒る。優しくはなれない。耳が遠い父親に大声を出して怒る。日常茶飯事になってしまった。聞いているほうもいたたまれないが、怒っている本人は……? 安らぐことはないだろう。いつ終わるかわからない親の介護。自分を思い出す。
施設に入れればいいのに、と思う。デイ・ケアには通っている。順番待ちなのだろうか?
家ではひとりの世話も大変なのにユニットでは10人の世話。夜は20人。
ユニフォームに着替え、ユニットのドアを開ける前に1度死んでおく。
以前は接客業だった。初めの頃、店長に言われた。
「Yさん、思い切り顔に出てる」
だって、この方、買いもしないのに長い時間。それも閉店間際の忙しい時間に。
やがて身につく。営業用の笑顔。お世辞が出る。どの口から?
客が帰った途端……女は恐ろしい。きれいな服を売っているのに……
今の仕事も怒っていたらキリがない。朝行った途端に『バカヤロー』の罵声を浴びせられる。理不尽極まりない。認知症とわかってはいても。
災害も事件も真剣に考えたら自分が病んでしまいそう。
いじめ、虐待、殺人、戦争……多すぎる報道に鈍感力 (スルー力)が身についた。どんなに悲惨な事件が報道されても揺らがないように。
【お題】 仕事場ではこういう自分を演じてます
584 やってられません
少し前、認知症の妻が旦那様に殺されたニュースを聞いた。
介護が大変だったと。まだ66歳の奥さん。食事介助すれば吐き出すと。
身内だったら手が出ますかね?
真剣に向き合ったら殺人者になる。
食べ物を吐き出すなんて…‥ザラにある。茶碗を放る。固形物ならまだいいけど、水や麦茶ならまだいいけど、乳酸飲料や、とろみをつけた水分は後片付けが厄介だ。それは周辺業務の私の仕事。
うちの施設、資格なしのパートの時給、最低なんだって……まあ、私は歳だけど。働き始めからこの10年、毎年最低賃金。資格なしで入浴介助してた時もプラス9円だった。
歳だけど、シルバー人材センターの求人のが高いわ。これじゃパートさん来るわけないわね。
年度末でひとり辞める。若い女性。超勤が当たり前のこの数年。若い職員には優遇して数年間家賃補助がある。辞めてひとり暮らしは大変だろうに。たくさん貯めたのかな? また介護職やるのか?
そのあとも辞める予定の人がいる。今いる入居者さんは私がいた10年の中でいちばん大変だと思う。
年齢が若い。若いから元気。認知症でも、半身麻痺でも、全介助でも元気だ。
車椅子の方は口が達者。見栄っ張り。ほんとか嘘か知らないけど。いい生活してたのになぜ特養に? それに意地悪だ。狭い空間で認知症のひどい人を見下す。
見下されても平気。妄想の中にいるから。昨日は58歳。娘の名前は忘れたって。
紳士だったマンサクさんも暴言がひどい。特に若い女性には。職員の応対が悪いのかマンサクさんが悪いのか? バカヤロー、殴るぞ、とか。
「ああなると精神病ですよね」
テレビのリモコンが言うこときかないから怒ってテレビを落として壊した。家族は新しいものを持ってきたけどチャンネル操作いろいろあるから映らなくなる。さらに音量が100。リビングまで響く。誰も文句を言わないけど。
真剣に向き合ったらやってられません。次は何が起こるかしら? 誰が転ぶ? 誰が⚪︎ぬ?
死んだって話題にもならない。すぐに次がやってくるから。
今度の方もすごいらしい。夜中ベッドの上で裸になっていた。服を着せようとすると暴言。
昨日は車椅子の横で寝ていた。
立ち上がって倒れたのか?
【お題】 そんなこと言わないでさ
585 忘れること
結婚して40年。貯めに貯めた夫の黒歴史ファイル。胸に封印したり忘れたり。
それを思い出すのよ。投稿してると。
昨日のことのように思い出す。
我慢した日々。
子どもがいなければ、生活力があったら、実家が頼れるところなら……
なのに聞かれる。
夫婦円満の秘訣はなんですか? って。
我慢しかないでしょ。
退職して大喧嘩して、離婚は経済的に無理だから家庭内別居しましょ。
なんてこともあったわね。
でも、今じゃあなたは家のことはなんでもできる。料理、洗濯、掃除、洗い物、ズボンの裾上げまでやってくれるわね。
昨日はふたりでゴルフ。
私は下手すぎて嫌になるけど、老後に同じ趣味がないと……そう思って頑張るわ。
あとは、悲惨な老後にならないように。
動いて、会話して、新しいことをやって、クヨクヨしないで、あとひとつなんだっけ?
【お題】 黒歴史ファイル
586 プラスになりたい
歳をとると調子の良い日は続かない。知人は言った。調子の良い日なんて年に3日よ。
年明けに健康診断の結果が出て、運動しようと誓った。やってなかったわけではない。ジムにプールはサボってたけど、ウォーキングはまあまあ頑張っていた。
しばらく調子良くやっていた。ジムもプールも週1だけど。そして他の日はウォーキング、1時間。
それがやはり続かない。
おかしいと思ったら人生初の帯状疱疹。それも顔面。外にも出られない。無理をすると後が怖いらしい。
朝体重は変わらないけど体脂肪が増えていく。
また体力どこまで落ちる?
やたらYouTube観て、健康に良いもの摂ってたのに。
きな粉と黒のスリゴマ牛乳。ゼラチンをスープに入れて飲む。セイロンシナモンも頼んだ。そして寝る前に蜂蜜をひと舐め。非加熱の値の張るやつ。
続けていたのになぜ帯状疱疹なんかに?
都心に出たのと孫の子守りで疲れがたまっていたけど。
落ちて落ちて、また取り戻すわ。
【お題】 プラマイゼロ
587 孤独
越してきたのはもう45年も前のこと。親しくなったママ友たちを家に呼んだり呼ばれたり。
やがてママたちはそれぞれ働いたり親の介護。「ウチくる?」は言わなくなった。会っても頭を下げるだけ。
あの人の子どもたちが結婚したのかもわからない。
旦那様を亡くした方もいる。奥様がデイケアに通ってる方も。亡くなったママも。
もう、夫が家にいるから「ウチくる?」なんて言えない。
なんて……寂しいの……
でも、ひとりのほうが好きかも。
【お題】 「今日、ウチくる?」
588 道
長い人生だが『道』のつく修行などしたことがない。
大昔、区のアーチェリー(弓道)教室に参加したことがある。教えてもらった通りにやったつもりだが……
なぜか左腕に何が当たったのかも忘れたが、皮膚が真っ赤になり1度でやめた。
茶道、華道、花嫁修行もしなかった。同僚は習っていた。友人も茶道、華道、着付けも習っていた。
ここ数年、旅行先で抹茶をいただく機会が増えた。正座などしない。椅子に座り茶碗を回しもしないが。
抹茶に興味を持ちAmazonでひと通りのセットを取り寄せてみよう、なんて思っていたら……
区の新聞でテーブル茶道というものを知った。すぐ近くの区民センターで週一で3回、3千円。作法よりも抹茶の点て方を教われればよかった。
先生は素敵な服を着た素敵な方だった。生徒6人ほとんどが年配者、たぶん私がいちばん上だろうな。
皆おしゃれだ。髪も服も、アクセサリーも。言葉遣いも動作もワサワサしていない。
検索したらこんな意見も。
テーブル茶道? あれを茶道とは言わない。喫茶だろう、と。
でもね、年寄りに正座はきついのだ。足腰膝が弱くなる。今は神社でもお寺でも椅子が置いてある。
テーブル茶道、いいじゃないの。
懐紙に菓子を取り、クロモジでいただく。薄茶を点てる。湯は各自の水筒の湯。
椅子の座り方、立ち方、茶碗の持ち方、挨拶、心配り。
「お先に」
「今、一服いかがですか?」
お代わりする人もいないだろうに必ず聞く。
3回目はひとりずつ点てて、ひとりずついただく。少人数だけど心地よい緊張感。
早速Amazonでセットを取り寄せ、子どもたちがきたときにやってみた。
小4の孫 (女の子)は好奇心旺盛で、やりたがる。先生に教わった通りに教えた。パパに一服。目を見て「どうぞ」
じいちゃんに一服。おばちゃんにも一服。
恒例にしようか。
飽きっぽいから続くかな?
【お題】 修行の成果
589 しつこい
『運命』と君は言うけど、
あれは、4つの音のモチーフが、曲のあちこちでしつこく、もといダイナミックに繰り返されているの……(AIによる概要)
『運命』という通称は、彼の秘書アントン・シンドラーの、
「冒頭の4つの音は何を示すのか」
という質問に対し、
「このように運命は扉をたたく」
と彼が答えたことに由来するとされる。
しかし、これは信憑性に問題があるようだ。
彼の弟子だったカール・チェルニーはこの冒頭について、
「彼がプラーター公園を散歩中に聞いたキアオジという鳥の鳴き声から発想を得た」
と述べている。
ずいぶん前だけど、この冒頭のスケッチが彼の祖父のものだった、みたいなニュースを聞いた記憶があるのだけれど。
「おじいさんのをパクった、もといオマージュ、リスペクト……なのね。と思ったけれどどうなのかしら?」
【お題】 『運命』と君は言うけど
掌編集 59