シュレーディンガーカクテル
1
決められたレールの上を歩くのが好きだ
スマートフォンから黒電話の音がする。
「ジリリリリ」の「ジ」が聞こえた瞬間に、目が覚めるよりも早く身体が勝手に反応し、ヨスミの指はスマホに伸びた。
毎朝決められた時間に起き、毎朝同じように伸びをし、ベッドから降り洗面所へ。
口をゆすぎキッチンへ。冷蔵庫から炭酸水を取り出しコップに半分注ぐ。
流しの前で飲み干すとそのままコップを軽くすすいでひっくり返す。持ち運んでテーブルまで持って行ったりはしない。その場で飲んで洗った方が効率的だからだ。
朝のルーティンに線を引くとしたら、僕の通る動線は常に同じで、そこに濃い色が引かれるだろう。
決して普段と違う行動はとらない。
たまにはトマトジュースを飲んでみようとも、コップを持ったままリビングに行こうともならない。
効率的に考えられた道筋、その上を歩く。その安心感が何よりも心地良い。
炭酸水で半分目覚めた身体をシャワーで完全に目覚めさせる。
濡れた髪を乾かしながらテレビをつける。
さして興味もない情報番組を流しながら身支度を始める。
冷蔵庫から栄養ゼリーを取り出す。中段右端に奥まで並んだ栄養ゼリーを必ず一番奥から取る。
買ってきた栄養ゼリーを手前から奥に押し込み、取る時は一番奥から取るようにする。そうすることで消費期限が近いものから順番に取ることが出来る。
始めの内は補充が少なくなってきた栄養ゼリーをわざわざ手前に持ってきて、新しいものを奥に置くようにしていた。
だけど奥から取り出した方が効率的だと気が付いた。ここはスーパーでもコンビニでもない。この商品を取るのは自分しかいない。
買ってきたストックを奥に押し込む瞬間、自分が効率的に作業出来ていると実感する。
この細かい効率化の積み重ねが僕は好きだ。
ビタミンとエネルギー、二種の栄養ゼリーを摂取すると、朝の情報番組の中では今日の占いが始まっていた。
占いは全く信じていないが、この時間に歯を磨くのも朝のルーティンの一つになっている。
「ごめんなさ~い、今日の12位はしし座のあなた」
最下位になってたとしたって感情は一切動かない。自分の占いの順位が何位だったかなんて、YouTube Shortsで見た動画のように、家を出る頃にはもう覚えていない。
「ラッキーアイテムは折り畳み傘!」
そう言えば午後から雨の予報だったな。
占いには興味ないが、天気予報を思い出させてくれたことは有益な情報となった。
見たものが情報として返ってきた。この事実に満足して、僕は折り畳み傘を持って家を出た。
2
将棋好きの父の影響で「四角」と書いて「ヨスミ」と呼ぶ、変わった名前をつけられた。
幼い頃に「お父さんがつけたのよ。将棋が好きだから」と聞かせられたが、何故将棋好きな父が「四角」とつけたのか、その理由までは分からない。
物心つく前はその名前が変わってるなんて思ってなかったから聞くこともなかったし、物心がついてからはそれを聞くことに特に意味がないと判断していたので、今も別に聞こうとも思わない。
これは将棋好きの父の影響なのかは分からないが、いつの頃からか世の中は得か得じゃないか、価値があるのか無いのかが全てだと思うようになった。
幼い頃から将棋を教えられて一緒に打っていたけど、どうしても好きになることが出来なかった。
負けるのが嫌な訳じゃない。手を抜かれてるのが透けて見えるのが嫌な訳でもない。
更に言うと将棋自体を嫌いな訳でもない。その証拠に、詰将棋にはのめり込むように熱中した。
まさか父もこうなるとは思わなかっただろう。
父は一緒に打ちたがったが、僕はそれを拒否して詰将棋ばかりをやっていた。
詰将棋には答えがある。駒をその通りに動かすことで、答えまでたどり着くことが出来る。
対人相手だとそうはいかない。自分が思うように動かしたくても、相手が予想した場所に打ってくれない限りは思う答えには辿りつけない。
勝つか負けるかではなく、こちらが不利になる、有利になる場所に置かれるかでもない。
自分の思考とは違う場所に置かれること自体が嫌だったんだろうなと、大人になって自己分析が出来るようになってからようやく理解することが出来た。
占いの結果はすっかり忘れていたが、その日はついてなかった。
予め入っていた約束が先方の都合で急遽延期になり、他の抱えている仕事も同じように相手方との都合が丁度合わずに、全ての仕事が今日中には片付けられないことが判明した。
おかげでいつもよりも1時間も早く会社を出ることとなった。
いつもよりも早く帰れるのだからラッキーだと思う人もいるかもしれない。
だけど残された仕事が後ろにずれただけで結局大変な思いをするのは自分だし、予定通りに行動したい自分にとっては会社を出るのが早くても遅くてもそれは気にくわないことだった。
更についてないことにその日は水曜日だった。
仕事帰りにいつも寄るスーパー、18時に上がるパートのおばさんは、最後の仕事として総菜に値引きシールを貼りパートを終える。
値引きシールが貼られるのをがっついて待っていると思われるのは恥ずかしいので、僕は18時を少し過ぎた頃にスーパーに入店し、何食わぬ顔で値引きシールの貼られた総菜を手に取る。それがいつもの仕事帰りのルーティンだ。
ただパートのおばさんが休みの水曜日だけは、いつもよりも遅い時間に社員と思われるおじさんが面倒くさそうに値引きシールを貼りにくる。
それが大体18時半くらい。だから水曜日だけは19時前にスーパーに立ち寄る必要があった。
別に値引きシールが貼られたものを買わなくては生きていけない程に余裕のない生活を送っている訳ではない。
最初から値引きシールをめがけてパートの動きをチェックしていた訳でもない。
数か月毎日通うことで、自然と店員の動きも把握できるようになった。
そして、同じ商品があと10分そこらで割引になることを知った時に、自分の価値観はそれを得だと判断してしまった。
そうなってしまうと、どうしても定価で買うことに抵抗が出る。かといって閉店間際に半額シールが貼られるまで待つ方が得かというと、自分の時間を天秤にかけた時に家でゆっくりする時間の方が得になる。そう考えるようになってしまった僕は、夕方の1度目の値引きシールが貼られた総菜しか買うことが出来なくなった。
僕は損得でしか物事を考えることが出来ない。
いつもよりも早く会社を出ることになり、いつもよりも遅くスーパーにいかないといけない。
別にいけない訳ではない。ただ、決められたレールを歩きたい人間にとって、普段と違う行動を取ることにどうしても抵抗が出てしまう。
どうしたものかと考えて、駅の裏手側に以前会社の人と食べに行った定食屋があったのを思い出した。
一度行った事のある定食屋なら、入るのにそこまでの抵抗はない。
滅多に出ない北口側の階段を降りる。こちらは商業施設が並ぶ南側とは違い、住宅が並ぶ静かなエリアだ。
人気のない小路を歩いている時、腕にポツリと冷たいものが当たるのを感じた。
そう言えば今日は雨予報だったな。
鞄から折りたたみ傘を取り出そうとして、今朝見た占いが12位だったことを思い出した。
その日の占いの結果を夕方に思い出したことなんて今まで一度も無かった。
ただ、こうして雨を回避出来てるのだから、やはり占いはあてにならない。
いや、それはラッキーアイテムが折り畳み傘だったお蔭なのだから、占いがあてになったともいえるのか。
そんな不毛で無意味なことを考えながら、折り畳み傘を取り出すために足を止め下を向いた時、目線の先に看板が光ってるのが目に入った。
その看板は小路の奥、行き止まりだと思っていた場所にあった。
その看板は小さく、見つからなくてもいいとでも言いたげな佇まいでただ置いてあった。
気になり近寄ると、紫色のネオンで光っているその看板は直角三角形の形状で真ん中に『Bar』とだけ書かれていた。
よく見ると行き止まりだと思った小路にはその場所にまで行かないと分からないくらいに狭い路地が突き当りから右に見えていて、看板のbarはおそらくその先にあるのだろうと推測出来た。
普段だったら立ち寄ろうなんて気には決してならないんだけど、何故かどうしても気になった。
その看板が何処かでみたような形をしていたからなのかもしれない。
ばれないように身を隠すように謙虚に置かれているその看板を、見つけてやったという高揚感があったのかもしれない。
傘を差したら通れないほどに細い細い路地を、僕はゆっくりと進んでいった。
ポツリ、ポツリと振り始めた雨が、少しずつ頬を濡らしていった。
3
そのbarは路地の行き止まりにあった。
小さな一軒家を改築したようなその店には、暑く重そうな木の扉に『坂道』と書かれたプレートが掲げられていた。
ここまで来たのはいいものの、やはり初めての店に入るのは抵抗がある。
扉の前で店に入るか悩んでる間に、雨が次第に強くなっているのを感じた。
強い雨に背中を押されるように、意を決して扉を開けた。
扉を開けると目の前に大きなカウンターテーブルが飛び込んできた。
店内は薄暗く、店の左側には4人ほどが座れるテーブル席が一つ、2人が座れるテーブル席が一つ。奥まで伸びるカウンターには椅子が6個置いてある。
右側には壁一面に大きく立派な棚があり、そこに幾種類のウイスキーや、カクテルの元になるであろうリキュール等が陳列されていた。
まだ時間も早いからか、それともいつものことなのか、店内は閑散としていて、カウンターの奥ではバーテンが作業をしていた。
barの処方も分からぬまま入口に立ち尽くしていると、バーテンに「…どうぞ」と小さな声で言われ、僕は慌ててカウンターの奥の席に座った。
女性だったのか。
薄暗い店内で分からなかったが、「どうぞ」の声が女性だったことに少しの驚きを覚えた。
シュレーディンガーカクテル