【TL】迷かの蝶、漏り来ての月

意固地奴隷美丈夫/横柄男/Sさせられヒロイン/SM/擬似男同性愛的暴力あり/アジアン世界観/その他未定

1

 ダ・パユンはニ家で働いていた。ニ家の女主人の幼い娘の遊び相手になって半年が経つ。
 雇い主の娘の手を引き、パユンは街に出ていた。出見世の焼きたての温かい菓子が食いたいのだという。
 出見世通りで甘餅を買い、雇い主の娘ニ・タルビョルに与える。
「小さく千切って、よく噛んで食べてくださいね」
 小さな手を拭き、白く濁った瞳を覗き込む。タルビョルは盲(めしい)だった。
「うん」
 生殖とは模倣を生み出すためにあるのではないのか。しかしタルビョルは、この子の母親の苛烈な気性は受け継がなかったようだ。否、その気性の幼体が、成長途上の肉体のなかに眠っているのかもしれない。
 タルビョルを脇にパユンは通りを眺めていた。すると向かいの路地から身形(みなり)のいい人物が現れた。背が高く、肩幅は広く、華のある男だった。綺羅びやか布は官吏を思わせる。後ろに2人侍(はべ)らせている。
 官吏らしき男の死角で、出見世通りを子供が走っている。
「あ」
 衝突が起きた。子供は手にした菓子を金糸と銀糸の煌めく衣に塗りたくり、地面に尻をついて泣き出した。
「何をする!」
 官吏らしき男の従者が前に出た。しかし子供は嗚咽して要領を得ない。
「やめておけ」
 上等な風采の男は従者を制すると、子供の前で膝を折る。
「こちらが悪かった。以後気を付ける。君も気を付け給(たま)え」
 彼は片方の袖に手を入れ、金子(きんす)を取り出すと、子供に差し出した。



 タルビョルは屋敷に教師を呼び、字の読み書きや加減乗除を教わっている。その時間、パユンは時間を持て余す。
 女主人フェンガネリが「弟が犬を飼った」と話していた。動物は好きだった。
パユンは屋敷の裏の納屋に向かった。窓から覗けば犬が見えるかもしれない。何色の、どういう形の犬なのか。彼女は空想を膨らませた。そして柔らかな毛を抱く想像に耽った。フェンガネリの弟というのは飽き性で、怠惰な気性の持主だった。いずれは犬の世話が回ってくれば、彼女は嬉しかった。
 納屋は屋敷から離れ、林のなかにあった。
 木々がざわめきのなかに物音が混ざっている。
 納屋から聞こえる。鎖の音だ。犬の動き回る音に違いない。活発な犬なのだろう。タルビョルの好い友になる図像がパユンの脳裏に映じられていた。
 林を吹き抜ける風が心地良い。
 納屋に着くと、早速窓を覗いた。しかし鎖の音が聞こえなくなっている。気配を悟り、警戒しているというのか。人懐こい犬ではないのだろうか。
 パユンが格子の奥に捉えたものは犬ではなかった。犬はいない。代わりに人がいる。納屋の柱に鎖で繋がれている。蹲(うずくま)っている。上半身は裸だった。角張った肉付きは男性のようだ。
 彼女は息を呑む。
 鎖に繋がれた人間が動く。目が合った気がした。研いだばかりの刃物のような眼差しを受けた気がした。
 窓から目を逸らす。
 女主人フェンガネリは、弟が犬を飼ったと言っていた。そしてパユンが関心を示すと、その犬は納屋にいると嗤っていた。ニ邸にある納屋を、パユンはここしか知らない。
 犬はどこへ消えたのか。
 納屋の扉に回った。
 犬はいない。人間がいる。鎖の音は何だったのか。野盗が忍び込み、雨風を凌いでいるというのか。けれども外側から閂(かんぬき)が下りている。
 パユンはもう一度、納屋を覗いた。鎖に繋がれているらしき人物は、すでに彼女に気付いているようだった。格子と格子の狭間から鋭い視線に射られている。今度は落ち着いて観察することができた。犬はいない。人間がいる。曝された上半身には赤い模様が刻まれている。汚れでも入墨でもない。生傷だ。長い髪が乱れ、顔の大半を覆っている。
 まったく見覚えのない男だが、ニ家の雇われ人は出入りが激しい。半年間、タルビョルと遊んでいただけのパユンが全員を全員覚えているわけではなかったし、会っているわけでもなかった。どうせ、犬と遊んでできた傷に違いない。閂が勝手に閉まり、途方に暮れているのだろう。
「あ………あの………」
 反応はない。
「……大丈夫ですか」
 やはり反応はなかった。
「犬を知りませんか。この納屋にいたはずなんですけれど……」
 威圧的な上目遣いが返ってきているだけだった。パユンはたじろぐ。犬はいない。人間はいる。けれどもその人間はニ家の者ではないようだった。或いは捕らえられた野盗で、処断を待っているのではなかろうか。
 とても呑気な態度で臨んでいいものではなかった。
 屋敷に戻ろうとしたとき、鎖に繋がれた人間は、咳き込みはじめた。手拭いを咬まされているようだ。しかし喉から濁った音を漏らし、腹を波打たせている。
 パユンは跳び上がり、納屋の出入り口に回ると、閂を上げてしまった。窓は空いているというのに、蘞(えぐ)みと塩気の混ざり合った異様な匂いがこもっている。
 しかし匂いの正体を解明している間はなかった。鎖に繋がれた男は上体を枷の嵌まった腕で支え、見えない拳に腹を殴られている。パユンは布製の轡(くつわ)を外した。直後に床に叩きつけられた胃酸よりも、細く畳んだ手拭いに染みついた赤い汚れに意識を取られた。
 この男は何者なのだ。
 背を打って胃から物を吐き出す男を、彼女は睨んでしまった。手枷と首枷だけでなく、片足にも鉄球の生(な)った鎖を伸ばしている。厳密な拘束だ。野盗では済まないのではないか。
 満足に胃汁を吐き出せたらしい男はパユンを見上げた。散乱した髪から透ける反抗的な瞳は己の悪行を少しも悔いてはいないようだった。
 背の高い、肩幅のある男だ。腹回りは引き締まり、日頃から鍛えていたのが分かる。身体中に傷があり、色の白さのために余計に目立って見えた。
 しかし、肩で息をしているが警戒は怠らない。悪戯でもすれば、その瞬間に鎖を引き千切り、喉笛に噛みつかれてしまいそうな危うさがある。
 パユンは後退って、後ろ手に納屋の扉を開けた。床の上の胃液の匂いが彼女の鼻を刺す。



 水を一杯持っていた。彼女は自身の足が何故またこの納屋へ帰ってきてしまったのか分からなかった。どうせ野盗だ。処断される。それは死罪だ。一杯の水を与えるだけ無に帰す。地を血に染めるためだけの水なのか。
 けれども力強い目遣いが脳裏から離れない。胃酸の匂いも、雑木林の緑の香りは掻き消してくれない。蘞(えぐ)みと塩気の入り交ざった生臭さもまた、庭に並ぶ洗濯物の香りでは掻き消えない。
 閂を上げる手が慄えた。彼女は敢えて物音を立てた。扉を開ける。
 納屋の奥で、鎖に繋がれた男は蹲ったままだった。しかし壁際に移っていた。胃液はそのまま、異臭を放っている。何も食べていないようだった。腹を空かしたあまり、盗みに走ったか。けれどもパユンを睨む眼に衰えはない。
「水を持ってきました……」
 彼女は一口、水を飲んで見せる。近付くのは恐ろしかった。胃液の傍に器を置く。そして徐ろに後退った。だが、男は体勢を変えることもなく彼女を睨み続ける。
 異様な匂いが混ざり合い、パユンもまた吐気を催しそうだ。睨まれ、見詰める。視線を逸らせば、獲って食われるのだろう。
 後退り続け、背を打つ。この隙を突いて、獰猛な目付きの男に食われるのだ。しかし鎖と枷がそれを許さない。否、繋がれた男にまるで動く意思がない。


 屋敷の庭に戻ると、パユンは身体に小さな白い玉を投げつけられていることに気付いた。次から次へと、パユンに当たる。小石よりも小さく、軽い。淡い色を帯びたそれは彼女の足元に転がっている。
 軌道の先を捉えると、屋敷の2階の窓からだった。女主人フェンガネリの弟が投げつけている。霰菓子だ。
「犬、見てきたんか?」
 女主人の弟ウバクは口角を吊り上げ、八重歯を見せた。何も知らない者は美男子だ、男前だと言って持て囃すが、所詮はニ家の長男への忖度だ。確かに実際、端麗な顔立ちをしているかもしれない。だがその笑みを見た途端、陰険な面構えに掌を返す。
「あ………い、いいえ………」
 ウバクは霰菓子を宙に放り、口で受け取った。
「懐かなくってな。ちょっと躾けてやったら拗ねやがる」
「そ、そうですか。どちらにいるんですか……」
 犬に対する関心は今はもうすでに磨り切れていた。
「納屋だよ、納屋。さっき水運んでたろ。恍(とぼ)けんな」
 爪先から寒気がした。
「納屋には、犬は………おりませんでした」
「なるほど。忠誠心のないのは犬じゃないってか」
「そ、そうではなく……!」
「まぁ、今は躾直後であんな態度だが、そのうち忠犬になるさ」
「あれは野盗ではないのですか」
「おやおや、野盗だと思って水を恵んでやったのかね、パユンくん。それは困るな~」
 涼しげな目元が2階からパユンを舐め回している。
「轡、外してあげたの? 轡も外さず水だけ置いてきた? 意地悪すぎんか」
 八重歯がパユンを嗤っている。
「ああ、でも、轡外しちゃってたなら、今頃舌噛み切って死んでたりして。あ~あ、パユンちゃんの所為だ。あれ、高かったんだけど。自決しちゃってたら、パユンちゃんのお給金から天引きな?」
 パユンは自害の可能性をまったく考慮していなかった。だがあの眼光を思い出してみると、そうするだけの衝動性を秘めていた。
 彼女は納屋へと引き返した。閂を放り、扉を開ける。舌を噛み千切り、床を血塗れにした死骸がそこに横たわっているはずだった。けれども鎖に繋がれた男は相変わらず蹲り、顔を覆う長い髪の隙間から睥睨を向けるのみ。生きていた。胃酸も水もそのままだ。匂いも留まっている。轡にされていた手拭いも落ちている。血が染み込んでいる。
 男を見遣る。もう一度轡を咬まされてくれそうにはなかった。パユンが観察するように、男もまたパユンを監視していた。
「ごめんなさい。わたし、あなたのこと、捕まった野盗か何かだとばかり……」
 口を塞ぐものは取り除いたというのに、男は返事もしない。否、返事はしている。その眼はパユンを放さない。
「わ、わたしはダ・パユンと申します……」
 おそるおそる一歩を踏み出す。男の眦が鋒(きっさき)と化す。足を止める。
 彼女は果たして人間を相手にしているのだろうか。言葉も文化もまったく違う、言葉や文化というものさえ持っていない者と相対している心地になった。
「……喋れ、ないんですか………?」
 轡は取った。だが、男は睨むばかりで声を発さない。頑強な肉体を持ちながら、健常の身ではないのか。
「…………失せろ」
 息切れに紛れた嗄声(させい)は、林のざわめきと聞き間違ったようにも思える。
「そ、その………手当てしないと………手当てをさせてください。その……わたしもウバク様のもとで働いているものですから、きっと………」
 女主人フェンガネリに雇われていようが、その弟のウバクに雇われていようが大差はない。ニ家に雇われている。ニ家に雇われた者ならば、仕事仲間というわけだ。
 鎖が鳴った。繋がれた男はふらつきながらも身体を起こした。手当てに応じるつもりなのだ。
 けれども鎖は甲高い音を立てた。鉄色の蛇は蜷局(とぐろ)を解き、獲物に躍りかかる。
 パユンの視界は大きく揺れた。背中を強かに打つ。大きな陰が目の前に迫っている。泥を纏った顔に、激情を燃やした目玉が二つ嵌っている。
 息を呑んだ。食い殺される。枷を鈍器に、頭を粉砕される。強靭な腕力で首を圧(へ)し折られるのか。
 目を瞑った。直後に鈍い音があった。質量のあるものが叩きつけられる振動が床から伝わる。
 目を開けると、鎖で繋がれた男は床に転がっていた。肩にピンが刺さっている。パユンは納屋の扉を見た。ウバクが吹き筒を下ろしていた。
「急所外したんだけど、死んだ? 脆ッ!」
 ウバクは臆しもせず鎖の男に近付くと、足で転がした。仰向けにされた男の肩に生えた小さな鉄杭を踏む。
「ぁ、……、っぐ………、ぅ!」
 男は暴れた。振り乱した髪から、顔が見えた。しかし泥が塗りたくられ、人相は分からない。
「ああ、生きてた? 痛いなぁ? 痛いだろ? 可哀想に」
 ウバクは口角を吊り上げる。パユンは飛び起き、男主人に目を見張る。
「あ、あ、あ、ウバク様………な、何をなさって……」
「躾だよ、躾。人には金で教えなきゃいけない。犬にはエサで、奴隷には痛みで。だろ?」
 男は唇を噛み締めていた。手枷が軋んでいる。矢の埋め込まれた肩からは血が細く流れていく。
「ど、奴隷………っ? 奴隷………って………」
「あれ? オレ、奴隷買ったって言わなかったっけ」
 奴隷!
 パユンは痛みに縮こまる男を凝らした。話に聞いたことはあるが、実際に見たことはなかった。奴隷とは、貴族の世界の話で、遠い地方の話だ。しかしニ家も権門勢家(けんもんせいけ)。奴隷がいてもおかしくはない。
「あ、あ、あ、で、でも、でも………」
「そんな驚くことかよ~? パユンちゃんが来る前にも男奴隷が何人かいたんだよ。でもタルビョルの目が見えないからって悪戯こいたやつがいてさ。連帯責任。みんな殺しちゃった♡」
 ウバクは足で隷の泥まみれの顔を撫でた。パユンもまた、泥によって目鼻立ちの分からない男を見遣った。
「顔の好い奴隷はすぐ売れるんだと。だから泥塗りにして、縹緻(きりょう)は籤引きだって。醜男(ブサイク)だったら殺すって姉貴は言ってたけど、君はどうかな~?」
「て、手当てをしないと……」
「はぁ? 雑巾とかいちいち縫って洗って綺麗にするの? しねぇだろ」
「ウバク様……」
「まぁ、おままごとが趣味なら好きにしな? みんなの奴隷だからね。もちろん、パユンちゃんも使っていい」
 ウバクは奴隷から足を退けると、落とし物を拾うかのように肉に刺さる鉄芯を抜いていった。血が噴く。
「ど、奴隷というのなら、肩が上がらなくなっては事なのでは………」
 彼女の声は震え、舌が縺れていた。
「確かに! パユンちゃんは頭が良いなぁ。聞き分けもいいね」
 冷たい掌がパユンの頭に乗った。
「いい奴隷商になるよ。資格とったら?
ハハハ!」
 ウバクは哄笑し、帰っていく。
 パユンの心臓は早鐘を打つ。自身の呼吸が耳障りだった。
「あなた………大丈夫なんですか」
 奴隷だという男は唇に血を滲ませ、膝を曲げていた。拳は白くなって戦慄く。パユンは肩に触れた。その途端、振り払われる。手枷が彼女の前を薙ぎ、距離を作った。
「手当てをしなきゃいけませんよ……」
 奴隷というのは、使い捨てで、何でも彼でも命じれば聞くのだという。しかしそのような人間が存在するのだろうか。それは人間なのだろうか。
 目の前にいる生き物はパユンには人間に見えた。血は赤く、矢を刺すと血が流れ出る。皮膚が破れたならば、大きさ深さ相応の処置をするものなのだ。
 顔に乗った泥が色を変えている。患部周辺も薄紅色に染まっている。
 しかし男は起き上がり、鎖を引き摺って壁際へと戻っていく。
「……俺に構うな」
 パユンは鎖の男を見ていた。壁に凭れ掛かり、徐々に腰を下ろしていく。しかし床と接する直前になって、彼は寝転んだ。
「具合が、悪いんですか……」
 鎖の男の目蓋が降りる。

 パユンは湯桶を持って納屋に入った。すでに外は暗くなっていた。
 戸を叩き、中へ入る。手持ちの燈火にそう広くない室内は全貌を明らかにする。鎖の男は壁際に寝そべっていた。目蓋を上げる。しかし身を起こすこともなく、入ってきた人物を認めるや否や、ふたたび目を閉じた。
「や、やっぱり、放っておくのは……良くないと思って………」
 勉学を終えたタルビョルと遊び、飯を食っている間も、この納屋に繋がれ、閉じ込められた男のことが頭から離れなかった。睨む気力も、手枷を振り回す体力も、もう無いようだった。
「いつから、ここにいたんですか」
 応答もない。
 パユンは湯桶に手拭いを浸した。勢いが失せたのはちょうどいい。水気を絞った手拭いを身体に当てる。
「……触るな」
 パユンは手を引いた。
「ごめんなさい」
 所詮は自己陶酔に過ぎないのだ。良心に従ったとて、それが相手のためになるとは限らない。この男がどういう経緯で奴隷になったのか、パユンは知らない。自由を奪われた人間の気持ちなど、到底理解できるものではなかった。
「軟膏はここに置いていきます」
 パユンは外套の留具を外した。
「この辺りの夜は冷えますから」
 素肌を曝した上半身に、上着を掛ける。
「何が目的だ?」
「……え?」
 林から聞こえる夜鳥の囀りではなかった。
「奴隷の世話を焼いて、何が目的だ」
 鎖に繋がれた男は目蓋を閉ざしていた。
「目的……?」
 夜鳥が鳴いている。深い吐息がその後を追っていた。
「監視なら必要ない」
「監視……」
「"おままごと"の趣味か」
 パユンは弱っている男を見下ろした。生きるか死ぬか、奴隷か人間か、その境界にいる者にとって一時的な手当てなど、ただの児戯なのだ。
「はい」
「他を当たれ」
 奴隷というものへの接し方をパユンは知らない。
「……そうします」
 燈火だけ持ってパユンは踵を返す。
「……さっきは脅かしてすまなかった」
 戸を開けたとき、嗄れた夜鳥の囀りが聞こえた。



 屋敷に戻ると、赤ら顔のウバクが玄関で待ち構えていた。酒瓶を下げている。
「そんなに犬欲しいなら買ってやろうか?」
 酒臭さがパユンの鼻を刺す。
「いいえ……」
「いいぜ、遠慮すんなよ。買ってやるよ。それともオレ様が一夜限り、パユン嬢の舐め犬を務めさせていただきましょうかね?」
 ウバクは彼女の行く手を阻む。
「犬はどうだった?」
「犬はおりませんでした」
「まぁ、そのうちきゃんこらきゃんこら四つ這いで、3回回ってワンと鳴くようになる」
 パユンは酒気に浮かれた男主人の目を見た。この男は酔っていない。酒臭く、赤ら顔だが、酔っていない。
「あれは人間でした」
「種族はな。しかし人間といえども、男もいれば女もいる。両輪もいれば片輪もいる。肌が白いのもいれば黄色いのもいる。善良なのもいれば、極悪なのもいる。よって名族もいれば、奴隷もいる。違うか」
「けれど……」
「月と太陽を、我々は星とは呼んでやらない。何故だ? 圧倒的な差があるからだ。薔薇と雑草。我々は大葉子(おおばこ)とは呼んでやらない。圧倒的な差があるからだ。だろ?」
 ウバクは玄関に飾られていた花瓶から薔薇の1輪を抜き取ると、花を彼女の眼交(まなか)いに突き出した。
「名前を知らないからです」
「あれの名前は、なんだったかな。忘れた。ユギとかいったかな」
 ウバクは鼻を鳴らす。
「あの人を、どうなさるおつもりなんですか」
 庭番はいる。木樵もいる。炊事班も洗濯班も風呂当番もいる。修繕屋も呼べば来る。金銭の支払いは発生するが人手は足りている。懐かないと言っている奴隷を従わせるより早く事が済み、確実な仕上がりを期待できるはずだ。
「何って、そんなの決まってるだろ。遊び相手だよ」
 パユンの眉根に皺が寄る。
「どなたのですか」
「ハハッ! タルビョルのだと思った? タルビョルに男奴隷は近付けねぇよ、さっき言ったろ」
 皺は消えた。しかし疑問は消えない。
「オレ様と、姉貴の」
 女主人もこの男主人も、遊び相手を欲する年頃ではない。だが、独り身は寂しいのだろうか。女主人フェンガネリのほうは出戻りだ。
「たまにはパユンちゃんも遊んでやるといい。将来の婿のためにな、手練手管には長けておいたほうがいいぜ」
「ど、どういうことですか……」
「ハ……ハハ……閨(ねや)だよ、閨。男の性を知れよって言ってんの」
 ウバクは酒瓶を呷るやいな、酒気を吐いて、パユンに嗅がせた。彼女の鼻粘膜が灼けていく。
「処女だろ?」
「……人に話すことではありません」
「いや、処女でいいって。可愛い姪っ子の遊び相手だぜ? 擦れっ枯らしの尻軽女じゃ困らぃな」
 ウバクの腕が、パユンの肩に回る。酒臭さと、異性というものに、彼女の身体は強張った。
「あの奴隷に押し倒されて、そのまま犯されたかった?」
「……は?」
「オレ様、悪ぃコトしちゃったかなって思ってたんだよ。縹緻はあれじゃ分からんが、なかなかいい肉置(カラダ)してただろ? ああいうのに無理矢理抱かれて孕まされるのが女の悦びってもんだろうが、え?」
「そ、そうは……、思いません……」
 この男には苛烈な姉と盲目の姪以外に、妹も一人いる。彼女たちにも同じことを言うつもりなのだろうか。
「ああ、そう? じゃあパユンちゃんは、オレに感謝はしなきゃいけないってコトだよな。ハハ、オレ様、恩人じゃん。感謝は? なぁ、感謝しろよ?」
「助けてくださってありがとうございます」
「そうだよ。ちゃんと誠心誠意、感謝を示さないと」
 肩に乗った手が彼女の胸の上に滑り落ちる。
「あの……」
「オレ様がいなかったら、今頃は無理矢理にオス犬の汚ぇ臭(くっさ)いモノぶち込まれて、メス犬の仲間入りさせれてたんじゃねぇの?」
 パユンの乳房が鷲掴みにされる。
「お酒の飲み過ぎです、ウバク様……」
 ウバクの掌を剥がし、身体を引き離そうとしたが、男主人は腕に力を入れる。
「一発ヤらせろよ」
 酒気が耳を撫で、頬を掠める。
「ウバク様……」
「お給金はずむぜぇ……?」
「お、お酒の飲み過ぎです……」
 舌舐めずりが聞こえる。実際、冷たく濡れたものが彼女の頬を逆撫でる。大蛇に巻き付かれている。すでに胴体は肩まで蜷局のなかにいる。
「お酒の、飲み過ぎ………ですから………」
 男主人は八重歯の奥で嗤っている。
「ハハっ! オレ様に抱いてもらおうなんざ100年早ぇよ、芋女」


 雨音が聞こえた。パユンは布団から出ると、障子を開けた。やはり雨が降っている。庭石が月明かりに染まっている。
 彼女は上着を身に纏うと傘を差し、納屋へ向かった。中へは入らなかった。格子状の窓の外側に木戸がある。固くなっていた。戸が軋む。何度か揺すると閉まった。
 奥で鎖がきん、と鳴った。

2


 タルビョルが、パユンを見つけるなり、駆けてきた。そして抱きついた。この娘は盲目だ。視覚によって見つけたのではない。
「パユンお姉ちゃん」
 小さな手が震えている。硬さのある髪を撫でた。侍女が櫛を入れたらしい毛はまだ寝癖のほうが勝っている。
「おはようございます、タルビョルお嬢様」
 朗らかな朝のはずだ。しかしタルビョルは凍えたように震え続け、パユンを放さない。
「パユンお姉ちゃん」
 パユンはタルビョルの白く濁った瞳を覗き込んだ。
「どこか具合が良くないんですか」
 タルビョルは首を振る。
「変な匂いがするの」
「変な匂い?」
タルビョルに手を取られる。そう強くはない子供の力で、パユンを引いていく。
「何か腐った匂いですか」
「違う……」
 パユンは鼻を鳴らす。けれども異様な匂いはない。麗らかな朝の匂いだ。
 タルビョルに連れられ、使用人用玄関を出ると、ニ家の人々の出入りする緋色門のある大庭へ回った。緋色門に通じる外構階段の下に人が転がっている。
「何があるの……?」
 パユンはタルビョルのその問いに答えられなかった。背中一面が真っ赤に染まっている。皮膚が破壊されている。両手足は縛られ、宛(さなが)ら芋虫のようだった。
「何か死んでるの?」
 死んでいるのか生きているのか、一目では分からなかった。
「パユンお姉ちゃん」
「――死んではおりません」
「――死んでるよ」
 タルビョルと同時にパユンは緋色門を見上げた。屋敷の窓が開き、ウバクが顔を覗かせている。
「社会的に死んでるんだよ。"社会的に"って分かるか、タルビョル。"他の人から見ると死んでるのと変わらないよな"ってことだ」
「わ、分からないよ……パユンお姉ちゃん、死んでるの……?」
 パユンは地面に転がっている奴隷男を眺めた。足の裏は泥と土に汚れている。
「パユンちゃんの好きな"おままごと"してあげなよ」
 パユンはタルビョルの手を取った。
「パユンお姉ちゃん、何……? 
「タルビョルお嬢様。お部屋に戻りましょう」
 しかしウバクは八重歯を輝かせる。
「パユン。やんごとなきオレたちの玄関前に死骸が置きっぱなしなのは困るぜ~。ご主人様代理として命ずる。後片付けしてよ。生きてたら納屋に戻して、死んでたら燃やしといて」
 タルビョルがパユンの腰にしがみつく。
「何があるの? 何が死んでるの……?」
 奴隷だと言えばよかった。しかしウバクの話では、この少女は奴隷に傷付けられている。
「野良犬です」
「野良犬……?」
「ええ。だからタルビョルお嬢様、怖がることはありません。お部屋に戻りましょう」
 パユンは使用人用玄関へ送り、タルビョルを近くにいた他の使用人へ任せた。そして奴隷のもとへ戻ると、彼女は生死不明の躯体を見下ろした。皮膚の消えた真っ赤な背中が輝いている。
「あの……」
 おそるおそる、肩に触れた。過酷な環境に身を置かれていたはずだが、その肌には張りがある。死んだばかりか。肌を辿り、首筋に向かう。
「……触るな」
 まだ生きている。パユンは手を引っ込める。
「歩けますか」
 活きた屍は起き上がる。しかし足が開かず、立てはしない。
「情けは無用」
 首輪の鎖をじゃらつかせ、奴隷男はパユンを睨む。これはそういう目付きのようなのだ。とても背中を血塗れにしている人間の眼差しではなかったが、そういう目付きならば仕方がない。
「仕事です」
 彼女に大柄な奴隷男を抱き抱えて運ぶ膂力はない。思案に耽っていると、男は毛虫よろしく身体を折り曲げて、膝と胴で歩き出す。
 パユンは溜息を吐いた。そして第一案を採択した。彼女はまた蔵へ向かい、荷車を牽(ひ)いた。鎖を引き摺る毛虫は赤い光沢を揺らして這っている。
「乗ってください」
 長い髪の奥で、泥だらけの顔が彼女を窺っている。
「……乗ってください。これが情けだなんて思われるのは心外です。仕事でなかったなら、あなたに近付くことなんてありません」
 男の目が泳いだ。しかし乗ろうとはしなかった。腰を折り、膝で身体を押して這い進んでいく。荷車を牽いて後を追う。亀のほうが速いのではないか。
 奴隷男は途中で動きを止めた。とうとう死んだのだろうか。パユンは泥の剥げかけた顔を覗いた。白ずんでいた汚れは汗で色を濃くし、髪もまた煌めきを携えている。
「疲れましたか」
 男はパユンを一睨みして、伸縮運動を再開した。
「ユギというお名前なんですか」
 反応はない。だがそのつもりで訊ねた。しかし数度伸び縮みを繰り返すと、奴隷は止まった。
「違う」
 一言吐いて、また這う。
 時間をかけて納屋へ辿り着き、パユンは閂(かんぬき)を上げて戸を開いた。奴隷男は中へと入っていく。逃亡の意思は無いようだ。
 男は壁際まで進むと横になった。穿いていたものの膝は破れ、擦れて血の滲む膝頭が見えた。睨んでばかりいた目は瞑られ、肩で息をしている。肌は汗で濡れていた。
「鎖を繋ぎます」
 反応はない。だが想定していることだ。奴隷男は枯れかけの迎陽花(げいようか)よろしく頭を垂れ、汗と土と雨に絡まった髪が床を掃いている。否、寧ろ汚している。
 男主人が命じたとおり、この男を納屋に戻した。仕事は終わりだ。
 パユンは鎖を繋ぐと、納屋を出ようとした。
 浅い呼吸が室内に沁み渡っている。林が風に踊る声がどこか遠い。

 彼女は納屋に戻っていた。手には水の器があった。
 閂を上げ、中に入る。奴隷男は俯せの体勢から頭を擡(もた)げた。燃えるような目から勢いが失せていく。
「水をどうぞ」
 奴隷男は顔を背けた。
「器も無限にあるわけではありませんから……」
 パユンは隅に転がって割れている陶器を見遣った。以前持ち込んだ湯呑だ。
「置いて帰るわけにもいかなくて」
 奴隷男の目の埋火(うずみび)がふたたび盛りを迎えた。その眼差しで湯呑を砕いてしまいそうだった。
「その様子ではご自分で飲めませんね」
 パユンは近付いた。一歩、一歩踏み締める。
 また奴隷男に襲われたら、どうなるのだろう。ウバクの言うとおりになってしまうのか。そしてそのとき、ウバクの言うとおりに、身体は己も知らない感覚に呑まれてしまうのか。
「……持ち帰れ」
 奴隷男は横面を曝した。
「同情なんて要らない」 
「どうせわたしは、"おままごと"が好きな女です。奴隷の他に、誰が付き合ってくれるのです」
 男の眼光が揺らいでいる。
「水をどうぞ」
 奴隷の傍で屈むと、口元に湯呑を寄せる。男の瘡蓋だらけの唇が縁を噛んだ。パユンはゆっくりと傾けた。
 喉の軋りが聞こえる。水は大柄な肉体へ消えていく。背中を覆う乾いた血も潤っていくようだった。
 器はすぐさま空になる。
「もう一杯、飲みますか」
 奴隷男の目がパユンから逃げる。
「……要らない」
「そうですか」
 パユンは空の湯呑を握って立ち上がる。
「あ………ありがとう。美味かった」
 彼女は目を見開いた。そして奴隷男を睨んだ。だがあれほど人を睥睨していた男は横面を曝しているのだった。
「こちらこそ、"おままごと"に付き合ってくださってありがとうございました。他を当たれずすみません」



 女主人が呼んでいると、パユンの部屋に遣いがよこされた。女主人フェンガネリから呼び出されたということは、タルビョルの件に違いない。
 パユンはニ家の屋敷に通じる渡り廊下を駆け、女主人の部屋に向かった。
「フェンガネリ姐旦那様、パユンです」
 障子を叩く。甘い香りが漏れ出ている。
「ああ、パユン? 入りなさいよ」
「失礼します」
 目に痛いほど華美な部屋だった。壁は深紅に塗られ、照明は薄紅色を帯びて見える。香が焚かれ、目と鼻に滲みる。
 フェンガネリは高御座(たかみくら)とばかりの装飾のなかで椅子の上に座っていた。ウバクの骨を削ぎ、髪を伸ばして整えさせたような、そのまま同じ面構えの女だ。肉感はあるが肥えてはいない。
 タルビョルの近況について問われるのだろう。あの少女に奴隷男を見せてしまった。盲(めしい)のあの娘に奴隷男は見えてはいないはずだが、嗅ぎ取っていた。母親として、一度傷を負った娘の心情を慮っているに違いない。詰問は必然だ。
 パユンは畳の上に頭を伏しながら、身体を冷たくしていた。
「あの奴隷、今、どうしてるの?」
「え……?」
 顔を上げる。女主人の紅蝋で彩られた唇が吊り上がる。弟と違って八重歯はない。
「あの奴隷。昼間に躾けたんだけど、死んじゃった?」
 長い爪が持つ獣毛の生えた扇子が開かれ、女主人の口元を隠す。
「いいえ……生きております」
「ああ、そう。そろそろ自分の立場ってものを弁えたと思うんだけど」
 パユンは奴隷男の燃え滾る目を思い出した。飲まず食わずでも、まだ何も捨てようとはしていない。鎖と枷が動きを封じているだけだ。
「まだ……まったく」
「へぇ……いいじゃない。気に入ったわ。男連中に輪姦(マワ)させてもダメ、鞭打ちの刑に遭わせてもダメ……今度は何して躾ようかしら? 何がいいと思う、パユン」
「わたしには、まったく……見当もつきません」
 扇子が軋る。
「決めた。舐め犬にさせるわ。お風呂入れておいて。あんな汚いのじゃ、病気になっちゃうわ」
「わたしが……ですか」
「そうよ。え、何? アナタ以外ここに誰がいるのよ? あたしに奴隷を洗えって?」
「そ、そうではなく……男性同士のほうが……」
「ウブな小娘ねぇ。男だと思うからいけないのよ。あれは牡犬よ。何を躊躇うことがあるの?」
「しかし……」
「洗いなさい。ついでに女になってきたらいいわ。あの牡犬に女にしてもらってきなさい。何、気にしなくていいわ。未来のお婿さんも、牡犬が相手じゃあ別に問題にもしないわよ。縦(よ)しんば問題にするような男なら、婿に相応しくないわ」
「ですが……」
「やりなさい、パユン」
 フェンガネリは鍵束を投げて寄越す。
「承知しました」
 パユンは雇い主の部屋を出る。すぐには動けなかった。障子を背に茫と立ち尽くしていた。意固地な奴隷を納屋から出し、裸に剥いて身を清めよることが容易くないことは容易に想像できる。しかし雇い主の指示だ。
 パユンは納屋に向かった。閂を上げる。扉を開くと、奴隷男は窓を見上げていた。外が恋しいのならちょうどいい。
「湯浴みの時間です」
 声をかけると男は目蓋を持ち上げる。重げだった。人相が分からないほど塗りつけられた泥のせいではなかろうか。
 棘の抜けた目がゆっくりとパユンを射抜く。
「哀れみか」
「哀れみではありません」
 奴隷男に近付く。しかし男はただ見ているだけだった。
「"おままごと"か」
「給料付きの、です」
 足枷を繋ぐ錠を外した。奴隷男はパユンの手元を見ているだけだった。彼女は泥に覆われた目を見詰めた。奴隷男は首を傾げる。丸い眼差しが、彼女な嫌になった。
「歩けますね」
「……逃げ出したらどうするつもりなんだ」
「そのときは、そのときです」
 女主人は嘲笑して赦すだろう。男主人は暴言を浴びせ赦すだろう。或いは狂喜して処すだろう。
「君は俺に殺されるかも知れなかった」
 奴隷男は意固地だが、洞察力には長けているようだ。パユンに過った危惧と疑問を読み取れるらしい。
「使用人の一人が殺されたところで何だというのです」
 人の形をしたものを「奴隷」と名付けた途端に好き放題できる連中だ。「使用人」が「奴隷」に殺されたところで、また別の「使用人」を雇えば事は済む。
 奴隷男の鎖を壁から外し、掌に巻き付ける。いくら飲まず食わずの怪我人といえども、圧倒的体格差がある。この奴隷男には意地しか守るものがないのだ。その意地のために鎖をパユンの首に巻きつけ、骨ごと折り砕くこともできよう。
 奴隷男が動く。鎖が撓(たわ)む。飛びかかるつもりなのだ。手枷を鈍器に頭を搗(か)ち割るつもりなのだ。パユンの身体が跳ねる。彼女の反応を、鋭利な眼が観察していた。
「死が怖いか」
 パユンは泥の中の眸子(ぼうし)を凝らす。見詰め合っていることにも気付かなかった。
 鎖が手元で小さく鳴った。呼応するように、林で鳥の羽撃(はばた)きが聞こえた。奴隷男から目を離していた。
「今生きているのが答えでは」
 もう一度、鋭い目に返る。
「わたしを殺して逃げますか」
 奴隷男の眉間に皺が寄る。
「女子供には手を出すなと教えられた」
 パユンは鎖を引っ張った。

 男性用大浴場まで大柄な躯体を連れてきたはいいが、パユンは何から手を付けていいのか分からなかった。ニ家の使用人の風呂場だというのに、立派な造りで、広さも十分ある。利用者はいなかった。裾を捲くったパユンは湯殿の傍で奴隷男を膝立ちにさせていた。粗末な穿物が濡れ、泥が溶けていた。
 まずは裸に剥かなければならない。しかし両手の枷のために、自らの手でそうさせることはできない。
 刺々しさの失せた上目遣いから彼女は逃げた。それは威嚇ではない。侮りだ。鎖と枷が嵌められているからといって、大した支障はないということだ。パユンは飽くまでも格下であると、そう告げている。
 男を知らないのか。生娘め――
 言われていないことを、彼女は感じ取る。
「湯浴みの時間だそうだな?」
 そうだ。奴隷男を観察する時間ではない。
 パユンは眉を顰めた。そして袖を捲り、奴隷男の腰で結ばれた紐に手を伸ばした。
 しかし、その小さな縛(いましめ)を解くことはできなかった。紐の先を引くだけでよかったはずだ。けれども彼女は大浴場の戸が開く音に気を取られてしまったのだ。
「ダメじゃん、生娘(オンナノコ)が男湯に入ってきちゃ……」
 八重歯が湯気の奥で光っていた。
 ここは大浴場だ。湯浴みをし、身を清め、安らぐ場所である。だが誰一人として全裸の者はいない。
 ウバクは両手で裾を持ち上げながら、水溜りを踏みつけ、傍にやってくる
「失礼しました。しかし……」
 女性用大浴場に奴隷男を引き入れるわけにもいかない。
 すべてを嘲笑っているかのような吊り気味の目がパユンを見下ろす。ウバクは上唇に舌を這わせると、裾を落とした。足を開く。撥水床の水溜りが形を変える。
「男女逆だったら大問題だよー? 男女平等 蹴撃(キック)~!」
 次の瞬間、目の前に立っていたウバクとの間に距離ができていた。ウバクが後退した様子はなかった。ただ身体を半回転させ、足を置いているのが見えた。パユンも後退ったわけではなかった。しかし手を伸ばしても届かない距離が空いていた。
 胸元に霰菓子を当てられたような軽い気配を覚えただけだった。彼女は足が床を掴んでいないことを知った。
 落ちる。
 耳が消え失せた。けれども全身が熱と浮遊感に包まれとき、彼女は何が起きたのか理解した。ウバクの熟達した武技は、痛みも大した衝撃もなかったのだ。
 聴覚の閉ざされた音を聞く。
何が起きたのか、彼女は理解しただけだ。彼女は自身の有様については、まだ理解に至っていなかった。
 湯殿に放り込まれたパユンは熱と重みの中でも浮遊感に抗った。けれども前後上下の感覚を失いながら、下降の恐怖に彼女の忙しない挙動は激しさを増す。
 湯殿であることも忘れた。横殴りに起きた大波がさらにパユンを焦らせた。
 身体が浮いた。首の前方に強い圧迫があった。彼女は頭から湯面に上がる。
「は……っ!」
 耳は音を取り戻した。波飛沫が頬を打つ。空気が鼻を突き抜け、粘膜に滲みる。局所的な圧迫に襲われた首を押さえ、咳き込んだ。
「随分優秀なお犬様に躾けたじゃん、パユンちゃん」
 曇った目で、両手を打ち鳴らすウバクを睨む。そして脇に立つずぶ濡れの男に気付く。一瞬、パユンには、それが本で見たことのある海ノ怪(け)に見えた。長い髪で顔を隠し、泥水を滴らせ、霞を纏う様はまさに怪奇の生き物だったのだ。
「あなた……」
 それは奴隷男だった。身体から泥が溶けている。豊かな筋肉は小さな湯の玉をつけながら、溝に沿って水の筋を垂らしている。
 湯から引き上げたのはこの濡れ怪物だったのだ。
 パユンの手は顔を覆う水草を掻き分けた。泥の薄らいだ肌が見える。
 鋭い眼差しに迎えられる。真っ直ぐな鼻梁が神経質な獰猛さを帯びていた。理知的な形の額が正面を向き、精悍(せいかん)な顔立ちが露わになる。
 パユンは息を呑んだ。口に残った湯も飲んでしまった。
 泥を塗られておくべき縹緻(きりょう)だ。不吉な感じのする面構えだ。古典の美姫は泥を被り、肥溜めで衣を焚き、難を逃れた。パユンは幼い頃に読んだ文学のその意味を、今、知った。
「血が混じってるよ、パユンちゃん……月のものなんぢゃね」
 男主人のウバクが口を挟まなければ、彼女は波紋の中に立つ怪魔の類いとも神仙の類いとも判じられない者から目を放せなかっただろう。
「汚(きったな)~い。ちゃんと掃除しておきなよ? パユンちゃん」
 眼球の自由の利くようになったパユンは、奴隷男に視線を戻す。泥と血が波紋に棚引いている。
「出ましょう」
 首輪から伸びた鎖を掴み、湯殿から引き上げる。四方を囲う段差を跨いだ。
 ウバクが立ち塞がっている。
 パユンは平生(へいぜい)よりも一際色濃い嗜虐的な眼差しを浴びた。
「飼犬と飼猫が仲良いのは結構だけど、ご主人様を忘れちゃいけないよー?」
 男主人は口角を吊り上げる。八重歯を見せるのは威嚇だろうか。
「猫や犬を飼っていらっしゃったのですか。申し訳ありませんが、把握しておりませんでした」
「ハハっ!」
 高らかな笑い声が響く。パユンの後方で湯飛沫が上がった。彼女が捉えたものは捻った腰を正面に戻し、足を置く猛者の姿だった。
 パユンの掌に鎖はなかった。摩擦の残影を握っているのみだった。彼女は振り返る。奴隷男と姿が消え、小さな湖に怒涛が起きている。
「何を!」
 男主人に吐き捨て、パユンは自ら湯に潜る。腕を左右に振り回す。何気ない生活は軽やかだ。しかし湯のなかでは重い。軈(やが)て指先が首輪に触れた。水の力を借りて大男を釣った。
 パユンは釣果よりも先に、ウバクの顔色を伺った。飼猫の成果を褒める飼主はすでに立ち去ったようだった。湯の弾ける音ばかりが聞こえる。
「あなた、大丈夫……?」
 パユンは泥の流れ落ち、髪をすべて後ろへ張り付けた奴隷男の顔から目を側めた。先程よりも明確に容貌が分かる。目付きに相応しい怜悧な面立ちに彼女は気圧(けお)された。月は首が痛むほど見上げ、花は息の詰まるほど見下ろす。奴等が恥じらうことも、奴等に恥じる入る理(ことわり)もない。しかし花と月の間に飄然と佇む秀麗な男を前に、パユンは冷静であっても落ち着いていられなかった。
「助けは別に必要なかった」
 水の滴り落ちていく音が小さくなっていく。
「あの………そうですか……」
 泥の下の素顔がパユンから言葉を奪っていた。奴隷男は人だった。犬ではなかった。顔がある。そしてその顔の冷たい艶(あで)やかさに、思考を失っていた。醜悪な男ならば、多少の憐れみが湧いたのだろう。けれどもパユンの胸にあるのは不安だった。天弓、夜這い星、烏猫。見た目の良いものこそ凶兆なのだ。
「だが、礼は言おう」
「はあ………わたしこそ、助けていただいて……」
 奴隷男の枷の付いた手がパユンの胸に触れた。彼女はやっと、睥睨を携えて奴隷男を捉えた。
「痛みは?」
 長い指の背が胸元とも首元ともいえない箇所を這う。
「はい……?」
「蹴られていた」
 ウバクのような好奇心に満ち満ちた手付きではなかった。
「はあ………」
「骨が折れているかもしれない」
「どこも痛くはありませんが」
 パユンは無骨な手を避けると、湯に染み出ている血を一瞥する。
「今は目に見えた怪我を……どうにかしないと」
 奴隷男は鎖に従った。この後、女主人に玩具にされるなど、知りもしないのだろう。
 パユンは座らせた奴隷男の熟しきった柘榴然とした背中を見詰めた。一度は固まった血がふたたびぬっちゃりねっちゃり照っている。
 水汲みに湯を掬い、肩から流す。皮膚の消えた背には滲みるはずだ。
 奴隷男が振り向いた。しかし何も言わず、尖った鼻先は正面に戻る。
 パユンは手巾を濡らし、石鹸を揉んだ。泡を立て、隆々とした筋肉に添わる。
 聡慧(そうけい)な影と凶猛げな輝きを併せ持った眸子が、泡の塊を一瞥する。彼女には批難がましく感じられた。そしてまた戻っていく。
「いつも蹴られているのか」
 泡を塗りたくる手が止まった。
「……いいえ」
 暴力といえる暴力は、初めてだった。殴られたことや、蹴られたことは今までなかった。
「俺は奴隷だ。俺に気を遣うな」
 パユンは止めていた手を動かした。泡を塗りつける。盲目の令嬢のために、肌に匂いを擦り込むのがニ家の勤め人の仕来りなのだ。
「……奴隷なら、……態度が偉そうです」

3


 奴隷男と身を清め、傷に包帯を巻いていく。軟膏も当布もすぐさま淡い朱色に染まった。しかし止血剤など持っていない。自然に止まるだろう。現に湯に浸かるまでは止まっていた。
 広い背中を眺めていると、パユンは全身に微かな粟立ちを感じた。そして鼻が跳ねた。
「………っくしゅん」
 肘に噛みつき、音を殺す。
 温順にしていた奴隷男が横面を見せた。パユンもその挙措(きょそ)に反応する。流された目と視線が搗(か)ち合う。
 彼女は鼻を鳴らした。
 濡れた服のままでは女主人の前に出られない。しかし着替えに戻る間もない。布巾で大まかに水気を拭き取り、鎖を引く。
 この前街で見た牛牽きの姿がパユンの中に甦った。あれは売人だったのか、将又(はたまた)、これから牛を売りにいく者だったのか。
 鎖が張る。掌に鉄の感触が刻まれた。振り返る。奴隷男は奴隷の自覚もなさそうに堂々と立っている。泥化粧を落とした精悍な面立ちを前にパユンは怯んだ。言葉を変わすのも煩わしい。鎖を揺らす。しかし奴隷男は凛として佇む。鞭打ちも絶食も恐れていない。
 パユンはもう一度、鎖を揺らす。けれども奴隷男は微動だにしない。動かないだけだった。彼女を引っ張ろうともせず、竪立している。
「なんですか……」
 パユンは眉間に皺を寄せた。一度だけ、尖鋭な双眸を瞥見し、すぐさま逸らした。
「どこへ行く」
 彼女はその問いによって、今立っている廊下が、緋色門へ通じる場所であることに気付いた。
「フェンガネリ様のお部屋です」
 奴隷男の目蓋が眼球を削るように持ち上がる。背を打たれる苦しみを思い出したのか。
「失礼のないように」
 言う必要はなかった。身体が知っているはずだ。皮膚の消え失せた背中がよく理解しているはずなのだ。
 女主人の部屋に辿り着き、障子を叩く。平生(へいぜい)ならば粘こい甘い香りが鼻腔に入ってくるはずだが、パユンの嗅覚は働くのをやめていた。石鹸と血と泥の匂いに嫌気が差しているのだろう。
「フェンガネリ姐旦那様、奴隷をお連れしました」
『ああ……パユン。入りなさいな。奴隷もね……』
 障子を開く。女主人は煙管を吹かしていた。パユンの鼻は匂いは拒んだけれども
、喉はそうではなかったらしい。香と煙に擽(くすぐ)られ、彼女は湧き起こる咳の衝動を呑み込んだ。
「遅かったじゃなぁい」
「申し訳ございません」
「まぁ、いいわ」
 女主人は入ってきた奴隷男のほうへ関心を移したようだ。
「泥の似合うなかなかの縹緻(きりょう)好しねぇ……醜かったら、とっとと売り飛ばす気でいたけど、その必要もないみたい」
 弟によく似た眼がパユンを射す。パユンは身を縮めた。
「わたくしはこれにて失礼いたします……」
 服も髪も大して乾いていなかった。主人の部屋を濡らす前に戻ろうとした。当然、女主人も部屋が汚れることを厭うはずなのだ。
「待ちなさいよ、パユン。なんであんたも濡れてんのよ」
 紅蝋の引かれた唇が歪む。八重歯がなくとも姉弟でよく似ていた。
「湯殿に落ちてしまいまして……」
「蹴り落とされた」
 奴隷男が口を挟んだ。女主人の目が徐ろに奴隷男を掴む。
「誰に」
 女主人は焦らすようにゆっくりとパユンに振り向く。その間、パユンは奴隷男を睨む。
「足を滑らせただけでございます」
「ああ、そう。なぁんだ、期待しちゃった。てっきり、本当に女になってきちゃったのかと思った……」
 パユンは笑みを繕う。だが引き攣っていた。
「でも合格。本当に味見しちゃってたら、殺してたかも」
 女主人はまた奴隷に向いた。
「奴隷のクセに対等に口を利こうとしたわね。まだ自分の立場が分からない?」
 高御座(たかみくら)のごとき装飾の座椅子の裏に手を伸ばし、女主人は鞭を取った。
「おぼこ娘には目の毒ねぇ。パユン、いいわ、下がりなさい」
 パユンは手にした鎖を巻いた。頭上で空気を切り裂く音がした。そして鈍く鳴る。
 耳に次々と泥団子を投げつけられているかのようだ。
「……っ、」
 奴隷男の息を詰めているのが聞こえる。二の腕に赤い筋が這う。パユンは丸めた鎖の持ち手を女主人に渡すことも忘れ、大きな赤 蚯蚓(みみず)を凝視していた。黒い驟雨が降り注ぎ、鮮やかな蚯蚓を落としていく。
「許しを乞いなさいよ。奴隷の分際で、対等に口を利いてごめんなさいって、言ってごらんなさい」
 奴隷男は唇を噛み、枷に嵌った拳を震わせていた。肩は怒り、脚は今にも獲物に飛びかからんとする猫のようだった。
 パユンは女主人と奴隷男を順に見遣る。室内に漂う空気は壁となって、彼女の身体を左右前後から挟み潰す。
「あ、あ、あ、姐旦那様………」
 見えない壁に押し潰れ、消えかける。だが彼女は持ち堪えた。
「あら、パユン……まだいたの? あたしが舐め狗に舐め回されてるところ、観たかった?」
「申し訳ございません。絆綱(きづな)を渡しておりませんでしたので……」
 奴隷男が隣で深い息を吸う。洗ったばかりの肌に汗が浮かんでいる。
「ありがとう、パユン。ここからは大人の時間よ。下がりなさい、おぼこ娘」
 パユンは辞儀をして部屋を出た。障子を閉めても、泥団子はまだ耳に当たる。
 奴隷男は、打ち据えられるのが仕事だ。これから一生の義務なのだ。使用人は家風に慣れるのが仕事だ。
「………けほっ………」
 胸の内側が痒い。


 使用人たちが大浴場を利用するまで、まだ時間がある。彼等は今夜、湯浴みが遅れるだろう。
 パユンは協力を募る気も湧かないまま、ひたすらに湯を流し、湯殿を洗い、水汲みに出る。
 使用人たちの入浴に、熱い湯は間に合わなかった。だが温い湯は間に合った。奴隷の泥と血の混じった湯は、もうそこにはない。
 湯薬を溶くと、乳白色が広がっていった。盲目の令嬢の標となる香りも、今や鼻を通り抜けることなく、大浴場に戻っていく。
 パユンは疲れてしまった。身体が重い。水汲みが肩と脚を痛めつける。彼女は自室に戻り、ようやく水気を含んだ服から解放された。
 全身が息を吸い、吐く。しかしまだ身体は重苦しかった。一晩眠れば、すべて忘れるのだろう。
 パユンは着替えると、綿詰め布団を被って横になった。盲目の小さな友人のことがふと頭を過ったが、粘土のような渦がその幼い姿を呑み込んでいってしまった。
 形を失っていても、彼女の身体は時折跳ねた。肺が痒かった。喉を直接日照りに当てているかのような灼熱感に襲われる。だが彼女の目は覚めず、寒さに蹲(うずくま)り、肺を弾ませるばかりだった。
 障子が開いたことに気付けもしない。彼女は安らかな泥遊びに夢中になっていた。
「パユンちゃ~ん……」
 主人が来訪しているというのに、不躾な使用人は惰眠を貪っている。
 男主人は腕を組み、硬枕に据わる無礼者を見下ろしていた。乾いた咳が室内に染み渡る。
 彼は口角を吊り上げた。そして八重歯を見せた。綿詰め布団を摘み上げる。寝腐っている身体が縮んだ。ウバクは、燕虫の蛹を破いたときのことを思い出した。宙を縦横無尽に飛び回る華美な翅は、中に入っていなかった。溶けた乾酪が詰まっていた。粘こく糸を引いて、芋虫の姿も燕虫の姿も消していた。
 ウバクの薄い唇は引き裂けるほど大きな弧を描く。目が消える。


 パユンは重苦しさと暑さのために身悶えた。逃れようと身動(みじろ)げば、忽(たちま)ち寒くなる。寒さが胸の内側の痒さと、喉の日照りを呼ぶ。
 奴隷男の仕業に違いなかった。奴隷男が仕返しを企んでいるのだ。女主人にも男主人にも立ち向かう肝がないために、使用人で鬱憤を晴らそうとしている。
 けれどもパユンは抗えなかった。咳が彼女の躯体を揺らす。
 奴隷男は恨んでいるはずだ。パユンの脳裏に鞭が飛び交う。隆々とした筋肉を抉り、パユンの頬には肉片が飛沫を上げる。
 奴隷は打ち据えられるのが仕事なのだ。主人に仕え、死ぬのが勤めなのだ。
 彼女の眼前が真っ赤に染まる。蚯蚓が顔面を蠢く。
 パユンの目蓋が剥かれる。暗い部屋と、異様に重い綿詰め布団があるだけだった。
 胸の鼓動は早く、痛みさえ感じられた。呼吸がついていかない。罅割れた地面のような喉はすぐには平坦に戻らず、呼吸を整えようものなら咳が口を塞ぐ。
「おはよぉ!」
 パユンは飛び起きた。暗い部屋を目に入れておきながら、その目の前を真っ白にしていた。
「温(あった)めに来てあげたよォ」
 安らかな泥沼はない。石の下の奇虫怪虫の跋扈する巣窟にいる。腕に蜈蚣(むかで)が這っている。胴には蛇が、脚には蜘蛛の巣が巻き付いている……!
 悲鳴は旱魃(かんばつ)を起こした喉が吸い取っていった。
「ご主人様の前で、鼾(いびき)かいて、腹出して寝てていいのかな」
 パユンは自身の肌を辿った。布がない。汗ばんだ掌が腕を擦る。胸布と腰巻があるだけだ。
「ウバク様………」
 パユンは暗闇の中の人影を見据えた。男主人の手が、彼女の首を掴む。彼女の喉笛は片手に収まっていた。拇(おやゆび)が小さな首玉を転がす。
「ぁう……、うぅ……」
「奴隷男の"味"はどうだった? よかった?」
 彼女の耳はもう一度湯殿に沈められた。全身を巡ることのできなくなった血潮が行場を失い、迷っている。閉塞と灼熱の疼きに男主人の囁きがぶつかる。
「ぅ………ぐぐ………、っ」
 喉で砂埃が巻いていた。肺が痒い。しかし払い除けられない。パユンは男主人の腕に縋りついた。首で蜷局を作る蛇は剥がれない。爪を立てる。男主人が男主人であることも忘れた。自身の腕は重かった。奴隷の代わりに枷を嵌めたのか。
「下賤な男の抱擁しか知らないなんて、可哀想だなぁ!」
 濁りを帯びた声が障子を突き破る。パユンの身体が凍りついた。一瞬の出来事だった。男主人は胸布を引き裂き、腰巻を千切ってしまった。そして彼女にそれを悟らせるより早く、両腕を五指で結ぶと硬枕に押し付ける。布の剥ぎ取られた腰に、身に覚えのない湿度と重みが圧(の)しかかる。
「野鼠が入り込んだんだよ、パユンちゃん。野鼠って、分かる? 可愛い鼠ちゃんなんだ。あんまりに可愛いから……米粒をくれてやったのに……食べないんだよね。パユンちゃん、野鼠の目的は何だと思う?」
 男主人の手が、パユンの胸の膨らみを鷲掴みにした。
「ああ……っ!」
 容赦のない力任せな握り方が、彼女の肌から汗を奪い去っていった。
「明日みんなに自慢しなよ、パユンちゃん……きっと羨ましがるよ」
 パユンは首を振る。頭が重い。鼻も耳も重い。湿気を吸った背中も重い。
「なんでさ。嬉しいでしょ――」
 両腕の縛(いまし)めが解かれた。しかしパユンに自由はない。男主人は彼女を解放したのではなかった。女体の柔らかな感触を堪能したかったのだ。
「――でっかいおっぱいしてるパユンちゃんには分からないか」
 搗(つ)きたての餅を捥(も)ぐ要領で、男主人はパユンの胸に指を立てる。
「は………ぅう………っ」
 身体が重かった。苦しい。浮き沈む胸も腹も鉄板のようだ。
「色気がないよ。もっと、"あん……♡"って鳴かなきゃ……」
 嬌声の代わりに咳が出る。肺が跳ね、呼吸が荒くなる。首が据わらず、頭が転がった。
「かわいそー」
 彼女はまた、ふたたび、もう一度、大浴場の湯殿に蹴り落とされたのかもしれない。前後も左右も上下も分からなくなっていた。水面に添わる葉よろしく、蒸れた褥(しとね)を揺曳(ようえい)する。
 この男主人が漁色家(ぎょしょくか)であることは、猫が魚を好物にしていることよりもよく知られていることだ。使用人の乳房の柔らかさなど、疾(と)うに飽きていたのだろう。横暴な掌はパユンの腿を撫ではじめた。
 湯を沸かすため、何度も水汲みに奔走した腿を労ってくださっているのだ。とても畏れ多いことだ。パユンは男主人の手を捕まえた。
「ウバク様………っ」
 とても武術の強豪とは思えない節榑(ふしくれ)立った手はパユンの汗ばんだ手から逃げていく。
「弱っちい、弱っちい、パユンちゃん」
 地を踏み締めすぎて強張った腿が割り開かれた。
 糠の詰まったような頭の中に、一瞬、パユンは、朗らかな故郷の風景を思い描いた。緑豊かな山間部の棚田を。彼女は直後に訪れる災難を知っていたのかもしれない。逃げ場を用意したというのに、泡のごとく弾けてしまった。彼女は身体を下から真っ二つに裂かれる痛みに、仰け反らなければならなかった。真夏の濁り水を漂う棒振り虫のように、彼女は褥の上でのたくった。視界不良だというのに視界は明滅し、咳ではない大きな衝動が声もなく口から漏れる。
 今日一日で滲み出た倍の量の汗が一気に吹き出て身体中を覆った。
 腹を破られたようだ。
 破られた腹から空気が抜けている。それでいて肺は痒かった。けれども咳をする力が湧かない。
「うぅぅ……!」
 パユンは唇を噛んだ。しかし呻き声が漏れた。下肢から体内を叩かれ、彼女は隙間風を鳴らしているのだった。
「やったね、パユンちゃん。女になれたね」
 投げ出した手に、生温かな蜘蛛が乗った。
「あ………ぁあ………、ご無体な………」
「"ご無体"なもんか。パユンちゃんみたいな芋娘がニ家の棒をその身に受けるのはさ……誇りだろ?」
 突き刺さった凶器が、同意を求めて彼女をさらに刺す。鈍痛がパユンの意識を飛ばそうとした。けれども、男主人は頬を擦り寄せ、彼女を暗い部屋に引き留めるのだった。
「う、ぅう……っ、」
 呻き声が喉を焼き、咳を急かす。 
「パユンちゃんの中は熱(あっつ)いね。肚(はら)の中で何を考えているのかな……」
 腹に埋まった鋒(きっさき)が臓物を滅多刺しにする。暑さと寒さが爪先から脳天までを往復し、駆け巡り、逃げては追って、追っては逃げていた。
 巨大な蜾蠃(すがる)はパユンめがけ、腰を球体のように転がした。尻針が彼女の内側を破壊していく。一度毒汁を噴射するのではまだ足らなかったようだ。二度も三度も、獲物が一切の声も呻きも出さなくなるまで、徹底的に刺し続けた。
 パユンの意識はまだあった。毒針に苛まれながらも、彼女の目は開き、褥を揺蕩(たゆた)っていた。



 窓から入る光で目が覚めた。頭痛に顔を顰めて、パユンは上体を起こす。男主人がこの部屋に来たことは夢ではないようだ。乾布に朝露が落ちるように、パユンは理解した。鈍い痛みの籠もる腹を押さえた。
「……けほ………けほ、けほ………」
 肺の掻痒(そうよう)感が彼女の背を打つ。蹂躙に嘆くにも体力が要るようだ。彼女は咳を治めると、茫として壁を見詰めた。地合いに興味があったわけではない。喉に留まる毬栗は、何度試しても飲み下せない。
 暫くしてから、彼女は本当に目が覚めた。そして起き上がった。指先と耳の火照りに気付いてから、立ち止まる。盲目の少女に会える身体ではない。
 しかし寝具の中に籠もっているつもりもなかった。今にも障子が開き、何者かがやって来る気配が彼女の身体を叩く。けれども動けない。四肢は鉛のようで、胴は米俵のようだ。
 パユンは茫乎として壁を見詰めた。罅(ひび)や染み、虫を見つけたわけではなかった。行場もなく働く感覚を預けていた。

 す………すすす…………、ととと、……

 障子の奥に人気(ひとけ)があった。物音は静かでありながら、パユンの肌は過敏に拾う。
 心臓が胸を叩く。喉が灼ける。
「ド御仁(おんに)」
 柔らかな女の声がかかる。パユンの首を締めていた縄が解かれていくようだ。
「はい………」
 返事は掠れた。肺が頻りに収縮する。獣の息吹がどこからか聞こえた。壁が渦を作っている。
「タルビョルお嬢様がお呼びです」
 安堵があった。しかし安堵しきれてはいなかった。
「少し咳が出まして……タルビョルお嬢様はまだ幼いし、移すと悪いので……」
「分かりました。そうお伝えします」

 しかしパユンは結局、休むことはできなかった。女主人から呼び出しがあった。
 甘い香が部屋から漏れ出ている。パユンの粘膜という粘膜から水気を奪っていく。
「フェンガネリ姐旦那様、パユンです」
『入りなさい』
 女主人は朝だというのに目に痛い華美な身形で煙管を吹かしていた。部屋に入ってきたパユンを認めるなり、彼女の後方を顎で差す。振り返る。
 パユンは肝を潰した。両目を殴られた心地がした。藺草(いぐさ)を編んだ床が一面に赤黒く染まっている。その上に奴隷男が縛られている。昨日巻いた包帯は見るかげもなく、蚯蚓腫れと共に色をつけ、ただただ奴隷男の肉体に絡まっている。
「今日はお休みするんだってね? 昨晩はあたしの弟が激しかった?」
 パユンは口を閉じることを忘れ、首を軋ませながら女主人を見遣る。
「咳がありましたので、タルビョルお嬢様には近付きたくなかったのでございます……」
「ああ、そう。その奴隷(オモチャ)を片付けてほしかっただけなの。終わったら休んで」
「はい……」
「あたしは湯浴みしてくるわ。腰が痛いでしょ? ゆっくりでいいわよ」
 女主人は口の端を吊り上げる。化粧が乱れている。しんねりとした匂いを残して部屋を出ていく。
 パユンは奴隷男を振り返った。目を閉じている。投げ出された脚は無防備だった。気を失っているようだ。
 傍に寄ると、この奴隷男が夜の間に何をされたのかがその肌に刻まれていた。
 パユンは赤痣を撫でた。指先が慄える。目蓋が引き攣る。
「触るな!」
 怒声が響き渡る。パユンの肩は天井まで跳ねた。心臓もまた脳天を突き破った。詫びの言葉を繰り出す間もなかった。
 奴隷男は目を剥いてパユンを凝らす。己の谺(こだま)に衝撃を受けているようだった。
「………すまない」
 奴隷男は熱(いき)りたった躯体を汚れた畳に沈める。
 パユンは固唾を呑む。
「………いいえ。すぐ部屋を出なければならないので、協力してください」
 奴隷男の腕を一纏めに括っていた鎖を解く。
「君は大丈夫なのか」
「……何がですか」
 鎖を奴隷に繋ぎ直し、引っ張る。男は従った。蚯蚓腫れも赤痣も、背中の再出血も、大した影響はないようだった。
「乱暴をされたと聞いた………」
 パユンは鋭い眼差しを睨んだ。
「女は、その噂がたつだけで住処を失います」
「だから訊いている。女の身には些細な話ではないはずだ」
「………分かっているのなら訊かないで」
 パユンは奴隷男を牽いた。従順だった。納屋に放り込み、女主人の部屋の藺草床を洗う。だが彼女はまだ休まなかった。包帯と軟膏を衣嚢に、手巾と湯桶を持って納屋に戻る。
 奴隷男は俯せで丸まっていた。宛(さなが)ら猫のようだ。そしてその眼差しの俊敏ぶりも猫のようだ。
「背中の傷を手当てします。起き上がれますか」
 奴隷男は気怠げだったが、身体を起こした。包帯と藺草に擦れた背中は、瘡蓋を剥がし、新たに傷を作っている。
 湯桶に浮かした酒瓶を開け、潤んだ背中に流しかけた。一面を覆う傷が伸縮した。
 息を止めるのが聞こえた。平静を装っているが、痛覚は働いているようだった。
「少し残りました。飲みますか」
 酒瓶を差し出すと奴隷男が振り向く。薄い目蓋と長い睫毛持ち上がり、パユンを射す。昏い瞳に窶(やつ)れた女が映っている。弱い者を見る目だ。力尽くでどうにでもできる相手を見る目だ。
 パユンは顔を背けた。手巾を湯に浸し、絞る。水滴が湯面を叩いた。手巾を開き、折り畳む。掌に添え、傷に当てる。
 広い背中の筋肉が蠢いた。強靭げな肩が長い時間をかけて下がっていく。
 パユンは構わず、傷を拭く。繊維に血が染みていく。千切れた皮が纏わりつく。
 手巾を洗う湯面が朱色に変わる。
「湯を変えてきます」
「……これでいい」
「湯を変えてきます」
 パユンは納屋を出た。血に汚れた湯を茂みに捨てる。草木に穢れはない。自然に還るだけだ。人も奴隷も貴人も関係ない。
 屋敷に戻り、湯殿に桶を浸ける。水気が鼻の奥を擽る。肺が痒くなる。
「けほ………」
 咳を殺し、外に出る。緋色門の傍を通りかかったとき、服に小さな玉が当たった。霰菓子だ。雀が啄(ついば)み、飛んでいく。
「パユンちゃ~ん」
 桶のなかで湯が暴れる。
「は………、は…………、は…………」
「偉いじゃん、パユンちゃん……、休まなかったんだぁ?」
 物陰からウバクが現れる。霰菓子を宙に投げ、口で受け止める。 
「昨晩、手加減した甲斐があったよ、パユンちゃん」
 ウバクの足が一歩、一歩、土を踏み締める。
 パユンは後退っていた。
「どうしたの、パユンちゃん。今日はタルビョルのお世話も休んで、暇でしょ~?」
 三白眼が眇められ、湯桶を一瞥する。
「やっぱり暇なんだァ~?」
 男主人は姉によく似た笑みを浮かべた。
「あ、………あ………あ、あの………」
 声が出ない。昨晩の朧げながら明確な記憶が紙切れのように散らばって脳裏に過(よぎ)った。
「あ~そぼ……」
 三白眼が嗤っている。

【TL】迷かの蝶、漏り来ての月

【TL】迷かの蝶、漏り来ての月

意固地な奴隷男を虐めさせられたり、雇い主に虐められたりする女の話。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2026-03-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1
  2. 2
  3. 3