【TL】迷かの蝶、漏り来ての月
意固地奴隷美丈夫/横柄男/Sさせられヒロイン/SM/擬似男同性愛的暴力あり/アジアン世界観/その他未定
1
ダ・パユンはニ家で働いていた。ニ家の女主人の幼い娘の遊び相手になって半年が経つ。
雇い主の娘の手を引き、パユンは街に出ていた。出見世の焼きたての温かい菓子が食いたいのだという。
出見世通りで甘餅を買い、雇い主の娘ニ・タルビョルに与える。
「小さく千切って、よく噛んで食べてくださいね」
小さな手を拭き、白く濁った瞳を覗き込む。タルビョルは盲(めしい)だった。
「うん」
生殖とは模倣を生み出すためにあるのではないのか。しかしタルビョルは、この子の母親の苛烈な気性は受け継がなかったようだ。否、その気性の幼体が、成長途上の肉体のなかに眠っているのかもしれない。
タルビョルを脇にパユンは通りを眺めていた。すると向かいの路地から身形(みなり)のいい人物が現れた。背が高く、肩幅は広く、華のある男だった。綺羅びやか布は官吏を思わせる。後ろに2人侍(はべ)らせている。
官吏らしき男の死角で、出見世通りを子供が走っている。
「あ」
衝突が起きた。子供は手にした菓子を金糸と銀糸の煌めく衣に塗りたくり、地面に尻をついて泣き出した。
「何をする!」
官吏らしき男の従者が前に出た。しかし子供は嗚咽して要領を得ない。
「やめておけ」
上等な風采の男は従者を制すると、子供の前で膝を折る。
「こちらが悪かった。以後気を付ける。君も気を付け給(たま)え」
彼は片方の袖に手を入れ、金子(きんす)を取り出すと、子供に差し出した。
◇
タルビョルは屋敷に教師を呼び、字の読み書きや加減乗除を教わっている。その時間、パユンは時間を持て余す。
女主人フェンガネリが「弟が犬を飼った」と話していた。動物は好きだった。
パユンは屋敷の裏の納屋に向かった。窓から覗けば犬が見えるかもしれない。何色の、どういう形の犬なのか。彼女は空想を膨らませた。そして柔らかな毛を抱く想像に耽った。フェンガネリの弟というのは飽き性で、怠惰な気性の持主だった。いずれは犬の世話が回ってくれば、彼女は嬉しかった。
納屋は屋敷から離れ、林のなかにあった。
木々がざわめきのなかに物音が混ざっている。
納屋から聞こえる。鎖の音だ。犬の動き回る音に違いない。活発な犬なのだろう。タルビョルの好い友になる図像がパユンの脳裏に映じられていた。
林を吹き抜ける風が心地良い。
納屋に着くと、早速窓を覗いた。しかし鎖の音が聞こえなくなっている。気配を悟り、警戒しているというのか。人懐こい犬ではないのだろうか。
パユンが格子の奥に捉えたものは犬ではなかった。犬はいない。代わりに人がいる。納屋の柱に鎖で繋がれている。蹲(うずくま)っている。上半身は裸だった。角張った肉付きは男性のようだ。
彼女は息を呑む。
鎖に繋がれた人間が動く。目が合った気がした。研いだばかりの刃物のような眼差しを受けた気がした。
窓から目を逸らす。
女主人フェンガネリは、弟が犬を飼ったと言っていた。そしてパユンが関心を示すと、その犬は納屋にいると嗤っていた。ニ邸にある納屋を、パユンはここしか知らない。
犬はどこへ消えたのか。
納屋の扉に回った。
犬はいない。人間がいる。鎖の音は何だったのか。野盗が忍び込み、雨風を凌いでいるというのか。けれども外側から閂(かんぬき)が下りている。
パユンはもう一度、納屋を覗いた。鎖に繋がれているらしき人物は、すでに彼女に気付いているようだった。格子と格子の狭間から鋭い視線に射られている。今度は落ち着いて観察することができた。犬はいない。人間がいる。曝された上半身には赤い模様が刻まれている。汚れでも入墨でもない。生傷だ。長い髪が乱れ、顔の大半を覆っている。
まったく見覚えのない男だが、ニ家の雇われ人は出入りが激しい。半年間、タルビョルと遊んでいただけのパユンが全員を全員覚えているわけではなかったし、会っているわけでもなかった。どうせ、犬と遊んでできた傷に違いない。閂が勝手に閉まり、途方に暮れているのだろう。
「あ………あの………」
反応はない。
「……大丈夫ですか」
やはり反応はなかった。
「犬を知りませんか。この納屋にいたはずなんですけれど……」
威圧的な上目遣いが返ってきているだけだった。パユンはたじろぐ。犬はいない。人間はいる。けれどもその人間はニ家の者ではないようだった。或いは捕らえられた野盗で、処断を待っているのではなかろうか。
とても呑気な態度で臨んでいいものではなかった。
屋敷に戻ろうとしたとき、鎖に繋がれた人間は、咳き込みはじめた。手拭いを咬まされているようだ。しかし喉から濁った音を漏らし、腹を波打たせている。
パユンは跳び上がり、納屋の出入り口に回ると、閂を上げてしまった。窓は空いているというのに、蘞(えぐ)みと塩気の混ざり合った異様な匂いがこもっている。
しかし匂いの正体を解明している間はなかった。鎖に繋がれた男は上体を枷の嵌まった腕で支え、見えない拳に腹を殴られている。パユンは布製の轡(くつわ)を外した。直後に床に叩きつけられた胃酸よりも、細く畳んだ手拭いに染みついた赤い汚れに意識を取られた。
この男は何者なのだ。
背を打って胃から物を吐き出す男を、彼女は睨んでしまった。手枷と首枷だけでなく、片足にも鉄球の生(な)った鎖を伸ばしている。厳密な拘束だ。野盗では済まないのではないか。
満足に胃汁を吐き出せたらしい男はパユンを見上げた。散乱した髪から透ける反抗的な瞳は己の悪行を少しも悔いてはいないようだった。
背の高い、肩幅のある男だ。腹回りは引き締まり、日頃から鍛えていたのが分かる。身体中に傷があり、色の白さのために余計に目立って見えた。
しかし、肩で息をしているが警戒は怠らない。悪戯でもすれば、その瞬間に鎖を引き千切り、喉笛に噛みつかれてしまいそうな危うさがある。
パユンは後退って、後ろ手に納屋の扉を開けた。床の上の胃液の匂いが彼女の鼻を刺す。
水を一杯持っていた。彼女は自身の足が何故またこの納屋へ帰ってきてしまったのか分からなかった。どうせ野盗だ。処断される。それは死罪だ。一杯の水を与えるだけ無に帰す。地を血に染めるためだけの水なのか。
けれども力強い目遣いが脳裏から離れない。胃酸の匂いも、雑木林の緑の香りは掻き消してくれない。蘞(えぐ)みと塩気の入り交ざった生臭さもまた、庭に並ぶ洗濯物の香りでは掻き消えない。
閂を上げる手が慄えた。彼女は敢えて物音を立てた。扉を開ける。
納屋の奥で、鎖に繋がれた男は蹲ったままだった。しかし壁際に移っていた。胃液はそのまま、異臭を放っている。何も食べていないようだった。腹を空かしたあまり、盗みに走ったか。けれどもパユンを睨む眼に衰えはない。
「水を持ってきました……」
彼女は一口、水を飲んで見せる。近付くのは恐ろしかった。胃液の傍に器を置く。そして徐ろに後退った。だが、男は体勢を変えることもなく彼女を睨み続ける。
異様な匂いが混ざり合い、パユンもまた吐気を催しそうだ。睨まれ、見詰める。視線を逸らせば、獲って食われるのだろう。
後退り続け、背を打つ。この隙を突いて、獰猛な目付きの男に食われるのだ。しかし鎖と枷がそれを許さない。否、繋がれた男にまるで動く意思がない。
屋敷の庭に戻ると、パユンは身体に小さな白い玉を投げつけられていることに気付いた。次から次へと、パユンに当たる。小石よりも小さく、軽い。淡い色を帯びたそれは彼女の足元に転がっている。
軌道の先を捉えると、屋敷の2階の窓からだった。女主人フェンガネリの弟が投げつけている。霰菓子だ。
「犬、見てきたんか?」
女主人の弟ウバクは口角を吊り上げ、八重歯を見せた。何も知らない者は美男子だ、男前だと言って持て囃すが、所詮はニ家の長男への忖度だ。確かに実際、端麗な顔立ちをしているかもしれない。だがその笑みを見た途端、陰険な面構えに掌を返す。
「あ………い、いいえ………」
ウバクは霰菓子を宙に放り、口で受け取った。
「懐かなくってな。ちょっと躾けてやったら拗ねやがる」
「そ、そうですか。どちらにいるんですか……」
犬に対する関心は今はもうすでに磨り切れていた。
「納屋だよ、納屋。さっき水運んでたろ。恍(とぼ)けんな」
爪先から寒気がした。
「納屋には、犬は………おりませんでした」
「なるほど。忠誠心のないのは犬じゃないってか」
「そ、そうではなく……!」
「まぁ、今は躾直後であんな態度だが、そのうち忠犬になるさ」
「あれは野盗ではないのですか」
「おやおや、野盗だと思って水を恵んでやったのかね、パユンくん。それは困るな~」
涼しげな目元が2階からパユンを舐め回している。
「轡、外してあげたの? 轡も外さず水だけ置いてきた? 意地悪すぎんか」
八重歯がパユンを嗤っている。
「ああ、でも、轡外しちゃってたなら、今頃舌噛み切って死んでたりして。あ~あ、パユンちゃんの所為だ。あれ、高かったんだけど。自決しちゃってたら、パユンちゃんのお給金から天引きな?」
パユンは自害の可能性をまったく考慮していなかった。だがあの眼光を思い出してみると、そうするだけの衝動性を秘めていた。
彼女は納屋へと引き返した。閂を放り、扉を開ける。舌を噛み千切り、床を血塗れにした死骸がそこに横たわっているはずだった。けれども鎖に繋がれた男は相変わらず蹲り、顔を覆う長い髪の隙間から睥睨を向けるのみ。生きていた。胃酸も水もそのままだ。匂いも留まっている。轡にされていた手拭いも落ちている。血が染み込んでいる。
男を見遣る。もう一度轡を咬まされてくれそうにはなかった。パユンが観察するように、男もまたパユンを監視していた。
「ごめんなさい。わたし、あなたのこと、捕まった野盗か何かだとばかり……」
口を塞ぐものは取り除いたというのに、男は返事もしない。否、返事はしている。その眼はパユンを放さない。
「わ、わたしはダ・パユンと申します……」
おそるおそる一歩を踏み出す。男の眦が鋒(きっさき)と化す。足を止める。
彼女は果たして人間を相手にしているのだろうか。言葉も文化もまったく違う、言葉や文化というものさえ持っていない者と相対している心地になった。
「……喋れ、ないんですか………?」
轡は取った。だが、男は睨むばかりで声を発さない。頑強な肉体を持ちながら、健常の身ではないのか。
「…………失せろ」
息切れに紛れた嗄声(させい)は、林のざわめきと聞き間違ったようにも思える。
「そ、その………手当てしないと………手当てをさせてください。その……わたしもウバク様のもとで働いているものですから、きっと………」
女主人フェンガネリに雇われていようが、その弟のウバクに雇われていようが大差はない。ニ家に雇われている。ニ家に雇われた者ならば、仕事仲間というわけだ。
鎖が鳴った。繋がれた男はふらつきながらも身体を起こした。手当てに応じるつもりなのだ。
けれども鎖は甲高い音を立てた。鉄色の蛇は蜷局(とぐろ)を解き、獲物に躍りかかる。
パユンの視界は大きく揺れた。背中を強かに打つ。大きな陰が目の前に迫っている。泥を纏った顔に、激情を燃やした目玉が二つ嵌っている。
息を呑んだ。食い殺される。枷を鈍器に、頭を粉砕される。強靭な腕力で首を圧(へ)し折られるのか。
目を瞑った。直後に鈍い音があった。質量のあるものが叩きつけられる振動が床から伝わる。
目を開けると、鎖で繋がれた男は床に転がっていた。肩にピンが刺さっている。パユンは納屋の扉を見た。ウバクが吹き筒を下ろしていた。
「急所外したんだけど、死んだ? 脆ッ!」
ウバクは臆しもせず鎖の男に近付くと、足で転がした。仰向けにされた男の肩に生えた小さな鉄杭を踏む。
「ぁ、……、っぐ………、ぅ!」
男は暴れた。振り乱した髪から、顔が見えた。しかし泥が塗りたくられ、人相は分からない。
「ああ、生きてた? 痛いなぁ? 痛いだろ? 可哀想に」
ウバクは口角を吊り上げる。パユンは飛び起き、男主人に目を見張る。
「あ、あ、あ、ウバク様………な、何をなさって……」
「躾だよ、躾。人には金で教えなきゃいけない。犬にはエサで、奴隷には痛みで。だろ?」
男は唇を噛み締めていた。手枷が軋んでいる。矢の埋め込まれた肩からは血が細く流れていく。
「ど、奴隷………っ? 奴隷………って………」
「あれ? オレ、奴隷買ったって言わなかったっけ」
奴隷!
パユンは痛みに縮こまる男を凝らした。話に聞いたことはあるが、実際に見たことはなかった。奴隷とは、貴族の世界の話で、遠い地方の話だ。しかしニ家も権門勢家(けんもんせいけ)。奴隷がいてもおかしくはない。
「あ、あ、あ、で、でも、でも………」
「そんな驚くことかよ~? パユンちゃんが来る前にも男奴隷が何人かいたんだよ。でもタルビョルの目が見えないからって悪戯こいたやつがいてさ。連帯責任。みんな殺しちゃった♡」
ウバクは足で隷の泥まみれの顔を撫でた。パユンもまた、泥によって目鼻立ちの分からない男を見遣った。
「顔の好い奴隷はすぐ売れるんだと。だから泥塗りにして、縹緻(きりょう)は籤引きだって。醜男(ブサイク)だったら殺すって姉貴は言ってたけど、君はどうかな~?」
「て、手当てをしないと……」
「はぁ? 雑巾とかいちいち縫って洗って綺麗にするの? しねぇだろ」
「ウバク様……」
「まぁ、おままごとが趣味なら好きにしな? みんなの奴隷だからね。もちろん、パユンちゃんも使っていい」
ウバクは奴隷から足を退けると、落とし物を拾うかのように肉に刺さる鉄芯を抜いていった。血が噴く。
「ど、奴隷というのなら、肩が上がらなくなっては事なのでは………」
彼女の声は震え、舌が縺れていた。
「確かに! パユンちゃんは頭が良いなぁ。聞き分けもいいね」
冷たい掌がパユンの頭に乗った。
「いい奴隷商になるよ。資格とったら?
ハハハ!」
ウバクは哄笑し、帰っていく。
パユンの心臓は早鐘を打つ。自身の呼吸が耳障りだった。
「あなた………大丈夫なんですか」
奴隷だという男は唇に血を滲ませ、膝を曲げていた。拳は白くなって戦慄く。パユンは肩に触れた。その途端、振り払われる。手枷が彼女の前を薙ぎ、距離を作った。
「手当てをしなきゃいけませんよ……」
奴隷というのは、使い捨てで、何でも彼でも命じれば聞くのだという。しかしそのような人間が存在するのだろうか。それは人間なのだろうか。
目の前にいる生き物はパユンには人間に見えた。血は赤く、矢を刺すと血が流れ出る。皮膚が破れたならば、大きさ深さ相応の処置をするものなのだ。
顔に乗った泥が色を変えている。患部周辺も薄紅色に染まっている。
しかし男は起き上がり、鎖を引き摺って壁際へと戻っていく。
「……俺に構うな」
パユンは鎖の男を見ていた。壁に凭れ掛かり、徐々に腰を下ろしていく。しかし床と接する直前になって、彼は寝転んだ。
「具合が、悪いんですか……」
鎖の男の目蓋が降りる。
パユンは湯桶を持って納屋に入った。すでに外は暗くなっていた。
戸を叩き、中へ入る。手持ちの燈火にそう広くない室内は全貌を明らかにする。鎖の男は壁際に寝そべっていた。目蓋を上げる。しかし身を起こすこともなく、入ってきた人物を認めるや否や、ふたたび目を閉じた。
「や、やっぱり、放っておくのは……良くないと思って………」
勉学を終えたタルビョルと遊び、飯を食っている間も、この納屋に繋がれ、閉じ込められた男のことが頭から離れなかった。睨む気力も、手枷を振り回す体力も、もう無いようだった。
「いつから、ここにいたんですか」
応答もない。
パユンは湯桶に手拭いを浸した。勢いが失せたのはちょうどいい。水気を絞った手拭いを身体に当てる。
「……触るな」
パユンは手を引いた。
「ごめんなさい」
所詮は自己陶酔に過ぎないのだ。良心に従ったとて、それが相手のためになるとは限らない。この男がどういう経緯で奴隷になったのか、パユンは知らない。自由を奪われた人間の気持ちなど、到底理解できるものではなかった。
「軟膏はここに置いていきます」
パユンは外套の留具を外した。
「この辺りの夜は冷えますから」
素肌を曝した上半身に、上着を掛ける。
「何が目的だ?」
「……え?」
林から聞こえる夜鳥の囀りではなかった。
「奴隷の世話を焼いて、何が目的だ」
鎖に繋がれた男は目蓋を閉ざしていた。
「目的……?」
夜鳥が鳴いている。深い吐息がその後を追っていた。
「監視なら必要ない」
「監視……」
「"おままごと"の趣味か」
パユンは弱っている男を見下ろした。生きるか死ぬか、奴隷か人間か、その境界にいる者にとって一時的な手当てなど、ただの児戯なのだ。
「はい」
「他を当たれ」
奴隷というものへの接し方をパユンは知らない。
「……そうします」
燈火だけ持ってパユンは踵を返す。
「……さっきは脅かしてすまなかった」
戸を開けたとき、嗄れた夜鳥の囀りが聞こえた。
屋敷に戻ると、赤ら顔のウバクが玄関で待ち構えていた。酒瓶を下げている。
「そんなに犬欲しいなら買ってやろうか?」
酒臭さがパユンの鼻を刺す。
「いいえ……」
「いいぜ、遠慮すんなよ。買ってやるよ。それともオレ様が一夜限り、パユン嬢の舐め犬を務めさせていただきましょうかね?」
ウバクは彼女の行く手を阻む。
「犬はどうだった?」
「犬はおりませんでした」
「まぁ、そのうちきゃんこらきゃんこら四つ這いで、3回回ってワンと鳴くようになる」
パユンは酒気に浮かれた男主人の目を見た。この男は酔っていない。酒臭く、赤ら顔だが、酔っていない。
「あれは人間でした」
「種族はな。しかし人間といえども、男もいれば女もいる。両輪もいれば片輪もいる。肌が白いのもいれば黄色いのもいる。善良なのもいれば、極悪なのもいる。よって名族もいれば、奴隷もいる。違うか」
「けれど……」
「月と太陽を、我々は星とは呼んでやらない。何故だ? 圧倒的な差があるからだ。薔薇と雑草。我々は大葉子(おおばこ)とは呼んでやらない。圧倒的な差があるからだ。だろ?」
ウバクは玄関に飾られていた花瓶から薔薇の1輪を抜き取ると、花を彼女の眼交(まなか)いに突き出した。
「名前を知らないからです」
「あれの名前は、なんだったかな。忘れた。ユギとかいったかな」
ウバクは鼻を鳴らす。
「あの人を、どうなさるおつもりなんですか」
庭番はいる。木樵もいる。炊事班も洗濯班も風呂当番もいる。修繕屋も呼べば来る。金銭の支払いは発生するが人手は足りている。懐かないと言っている奴隷を従わせるより早く事が済み、確実な仕上がりを期待できるはずだ。
「何って、そんなの決まってるだろ。遊び相手だよ」
パユンの眉根に皺が寄る。
「どなたのですか」
「ハハッ! タルビョルのだと思った? タルビョルに男奴隷は近付けねぇよ、さっき言ったろ」
皺は消えた。しかし疑問は消えない。
「オレ様と、姉貴の」
女主人もこの男主人も、遊び相手を欲する年頃ではない。だが、独り身は寂しいのだろうか。女主人フェンガネリのほうは出戻りだ。
「たまにはパユンちゃんも遊んでやるといい。将来の婿のためにな、手練手管には長けておいたほうがいいぜ」
「ど、どういうことですか……」
「ハ……ハハ……閨(ねや)だよ、閨。男の性を知れよって言ってんの」
ウバクは酒瓶を呷るやいな、酒気を吐いて、パユンに嗅がせた。彼女の鼻粘膜が灼けていく。
「処女だろ?」
「……人に話すことではありません」
「いや、処女でいいって。可愛い姪っ子の遊び相手だぜ? 擦れっ枯らしの尻軽女じゃ困らぃな」
ウバクの腕が、パユンの肩に回る。酒臭さと、異性というものに、彼女の身体は強張った。
「あの奴隷に押し倒されて、そのまま犯されたかった?」
「……は?」
「オレ様、悪ぃコトしちゃったかなって思ってたんだよ。縹緻はあれじゃ分からんが、なかなかいい肉置(カラダ)してただろ? ああいうのに無理矢理抱かれて孕まされるのが女の悦びってもんだろうが、え?」
「そ、そうは……、思いません……」
この男には苛烈な姉と盲目の姪以外に、妹も一人いる。彼女たちにも同じことを言うつもりなのだろうか。
「ああ、そう? じゃあパユンちゃんは、オレに感謝はしなきゃいけないってコトだよな。ハハ、オレ様、恩人じゃん。感謝は? なぁ、感謝しろよ?」
「助けてくださってありがとうございます」
「そうだよ。ちゃんと誠心誠意、感謝を示さないと」
肩に乗った手が彼女の胸の上に滑り落ちる。
「あの……」
「オレ様がいなかったら、今頃は無理矢理にオス犬の汚ぇ臭(くっさ)いモノぶち込まれて、メス犬の仲間入りさせれてたんじゃねぇの?」
パユンの乳房が鷲掴みにされる。
「お酒の飲み過ぎです、ウバク様……」
ウバクの掌を剥がし、身体を引き離そうとしたが、男主人は腕に力を入れる。
「一発ヤらせろよ」
酒気が耳を撫で、頬を掠める。
「ウバク様……」
「お給金はずむぜぇ……?」
「お、お酒の飲み過ぎです……」
舌舐めずりが聞こえる。実際、冷たく濡れたものが彼女の頬を逆撫でる。大蛇に巻き付かれている。すでに胴体は肩まで蜷局のなかにいる。
「お酒の、飲み過ぎ………ですから………」
男主人は八重歯の奥で嗤っている。
「ハハっ! オレ様に抱いてもらおうなんざ100年早ぇよ、芋女」
雨音が聞こえた。パユンは布団から出ると、障子を開けた。やはり雨が降っている。庭石が月明かりに染まっている。
彼女は上着を身に纏うと傘を差し、納屋へ向かった。中へは入らなかった。格子状の窓の外側に木戸がある。固くなっていた。戸が軋む。何度か揺すると閉まった。
奥で鎖がきん、と鳴った。
2
◇
タルビョルが、パユンを見つけるなり、駆けてきた。そして抱きついた。この娘は盲目だ。視覚によって見つけたのではない。
「パユンお姉ちゃん」
小さな手が震えている。硬さのある髪を撫でた。侍女が櫛を入れたらしい毛はまだ寝癖のほうが勝っている。
「おはようございます、タルビョルお嬢様」
朗らかな朝のはずだ。しかしタルビョルは凍えたように震え続け、パユンを放さない。
「パユンお姉ちゃん」
パユンはタルビョルの白く濁った瞳を覗き込んだ。
「どこか具合が良くないんですか」
タルビョルは首を振る。
「変な匂いがするの」
「変な匂い?」
タルビョルに手を取られる。そう強くはない子供の力で、パユンを引いていく。
「何か腐った匂いですか」
「違う……」
パユンは鼻を鳴らす。けれども異様な匂いはない。麗らかな朝の匂いだ。
タルビョルに連れられ、使用人用玄関を出ると、ニ家の人々の出入りする緋色門のある大庭へ回った。緋色門に通じる外構階段の下に人が転がっている。
「何があるの……?」
パユンはタルビョルのその問いに答えられなかった。背中一面が真っ赤に染まっている。皮膚が破壊されている。両手足は縛られ、宛(さなが)ら芋虫のようだった。
「何か死んでるの?」
死んでいるのか生きているのか、一目では分からなかった。
「パユンお姉ちゃん」
「――死んではおりません」
「――死んでるよ」
タルビョルと同時にパユンは緋色門を見上げた。屋敷の窓が開き、ウバクが顔を覗かせている。
「社会的に死んでるんだよ。"社会的に"って分かるか、タルビョル。"他の人から見ると死んでるのと変わらないよな"ってことだ」
「わ、分からないよ……パユンお姉ちゃん、死んでるの……?」
パユンは地面に転がっている奴隷男を眺めた。足の裏は泥と土に汚れている。
「パユンちゃんの好きな"おままごと"してあげなよ」
パユンはタルビョルの手を取った。
「パユンお姉ちゃん、何……?
「タルビョルお嬢様。お部屋に戻りましょう」
しかしウバクは八重歯を輝かせる。
「パユン。やんごとなきオレたちの玄関前に死骸が置きっぱなしなのは困るぜ~。ご主人様代理として命ずる。後片付けしてよ。生きてたら納屋に戻して、死んでたら燃やしといて」
タルビョルがパユンの腰にしがみつく。
「何があるの? 何が死んでるの……?」
奴隷だと言えばよかった。しかしウバクの話では、この少女は奴隷に傷付けられている。
「野良犬です」
「野良犬……?」
「ええ。だからタルビョルお嬢様、怖がることはありません。お部屋に戻りましょう」
パユンは使用人用玄関へ送り、タルビョルを近くにいた他の使用人へ任せた。そして奴隷のもとへ戻ると、彼女は生死不明の躯体を見下ろした。皮膚の消えた真っ赤な背中が輝いている。
「あの……」
おそるおそる、肩に触れた。過酷な環境に身を置かれていたはずだが、その肌には張りがある。死んだばかりか。肌を辿り、首筋に向かう。
「……触るな」
まだ生きている。パユンは手を引っ込める。
「歩けますか」
活きた屍は起き上がる。しかし足が開かず、立てはしない。
「情けは無用」
首輪の鎖をじゃらつかせ、奴隷男はパユンを睨む。これはそういう目付きのようなのだ。とても背中を血塗れにしている人間の眼差しではなかったが、そういう目付きならば仕方がない。
「仕事です」
彼女に大柄な奴隷男を抱き抱えて運ぶ膂力はない。思案に耽っていると、男は毛虫よろしく身体を折り曲げて、膝と胴で歩き出す。
パユンは溜息を吐いた。そして第一案を採択した。彼女はまた蔵へ向かい、荷車を牽(ひ)いた。鎖を引き摺る毛虫は赤い光沢を揺らして這っている。
「乗ってください」
長い髪の奥で、泥だらけの顔が彼女を窺っている。
「……乗ってください。これが情けだなんて思われるのは心外です。仕事でなかったなら、あなたに近付くことなんてありません」
男の目が泳いだ。しかし乗ろうとはしなかった。腰を折り、膝で身体を押して這い進んでいく。荷車を牽いて後を追う。亀のほうが速いのではないか。
奴隷男は途中で動きを止めた。とうとう死んだのだろうか。パユンは泥の剥げかけた顔を覗いた。白ずんでいた汚れは汗で色を濃くし、髪もまた煌めきを携えている。
「疲れましたか」
男はパユンを一睨みして、伸縮運動を再開した。
「ユギというお名前なんですか」
反応はない。だがそのつもりで訊ねた。しかし数度伸び縮みを繰り返すと、奴隷は止まった。
「違う」
一言吐いて、また這う。
時間をかけて納屋へ辿り着き、パユンは閂(かんぬき)を上げて戸を開いた。奴隷男は中へと入っていく。逃亡の意思は無いようだ。
男は壁際まで進むと横になった。穿いていたものの膝は破れ、擦れて血の滲む膝頭が見えた。睨んでばかりいた目は瞑られ、肩で息をしている。肌は汗で濡れていた。
「鎖を繋ぎます」
反応はない。だが想定していることだ。奴隷男は枯れかけの迎陽花(げいようか)よろしく頭を垂れ、汗と土と雨に絡まった髪が床を掃いている。否、寧ろ汚している。
男主人が命じたとおり、この男を納屋に戻した。仕事は終わりだ。
パユンは鎖を繋ぐと、納屋を出ようとした。
浅い呼吸が室内に沁み渡っている。林が風に踊る声がどこか遠い。
彼女は納屋に戻っていた。手には水の器があった。
閂を上げ、中に入る。奴隷男は俯せの体勢から頭を擡(もた)げた。燃えるような目から勢いが失せていく。
「水をどうぞ」
奴隷男は顔を背けた。
「器も無限にあるわけではありませんから……」
パユンは隅に転がって割れている陶器を見遣った。以前持ち込んだ湯呑だ。
「置いて帰るわけにもいかなくて」
奴隷男の目の埋火(うずみび)がふたたび盛りを迎えた。その眼差しで湯呑を砕いてしまいそうだった。
「その様子ではご自分で飲めませんね」
パユンは近付いた。一歩、一歩踏み締める。
また奴隷男に襲われたら、どうなるのだろう。ウバクの言うとおりになってしまうのか。そしてそのとき、ウバクの言うとおりに、身体は己も知らない感覚に呑まれてしまうのか。
「……持ち帰れ」
奴隷男は横面を曝した。
「同情なんて要らない」
「どうせわたしは、"おままごと"が好きな女です。奴隷の他に、誰が付き合ってくれるのです」
男の眼光が揺らいでいる。
「水をどうぞ」
奴隷の傍で屈むと、口元に湯呑を寄せる。男の瘡蓋だらけの唇が縁を噛んだ。パユンはゆっくりと傾けた。
喉の軋りが聞こえる。水は大柄な肉体へ消えていく。背中を覆う乾いた血も潤っていくようだった。
器はすぐさま空になる。
「もう一杯、飲みますか」
奴隷男の目がパユンから逃げる。
「……要らない」
「そうですか」
パユンは空の湯呑を握って立ち上がる。
「あ………ありがとう。美味かった」
彼女は目を見開いた。そして奴隷男を睨んだ。だがあれほど人を睥睨していた男は横面を曝しているのだった。
「こちらこそ、"おままごと"に付き合ってくださってありがとうございました。他を当たれずすみません」
女主人が呼んでいると、パユンの部屋に遣いがよこされた。女主人フェンガネリから呼び出されたということは、タルビョルの件に違いない。
パユンはニ家の屋敷に通じる渡り廊下を駆け、女主人の部屋に向かった。
「フェンガネリ姐旦那様、パユンです」
障子を叩く。甘い香りが漏れ出ている。
「ああ、パユン? 入りなさいよ」
「失礼します」
目に痛いほど華美な部屋だった。壁は深紅に塗られ、照明は薄紅色を帯びて見える。香が焚かれ、目と鼻に滲みる。
フェンガネリは高御座(たかみくら)とばかりの装飾のなかで椅子の上に座っていた。ウバクの骨を削ぎ、髪を伸ばして整えさせたような、そのまま同じ面構えの女だ。肉感はあるが肥えてはいない。
タルビョルの近況について問われるのだろう。あの少女に奴隷男を見せてしまった。盲(めしい)のあの娘に奴隷男は見えてはいないはずだが、嗅ぎ取っていた。母親として、一度傷を負った娘の心情を慮っているに違いない。詰問は必然だ。
パユンは畳の上に頭を伏しながら、身体を冷たくしていた。
「あの奴隷、今、どうしてるの?」
「え……?」
顔を上げる。女主人の紅蝋で彩られた唇が吊り上がる。弟と違って八重歯はない。
「あの奴隷。昼間に躾けたんだけど、死んじゃった?」
長い爪が持つ獣毛の生えた扇子が開かれ、女主人の口元を隠す。
「いいえ……生きております」
「ああ、そう。そろそろ自分の立場ってものを弁えたと思うんだけど」
パユンは奴隷男の燃え滾る目を思い出した。飲まず食わずでも、まだ何も捨てようとはしていない。鎖と枷が動きを封じているだけだ。
「まだ……まったく」
「へぇ……いいじゃない。気に入ったわ。男連中に輪姦(マワ)させてもダメ、鞭打ちの刑に遭わせてもダメ……今度は何して躾ようかしら? 何がいいと思う、パユン」
「わたしには、まったく……見当もつきません」
扇子が軋る。
「決めた。舐め犬にさせるわ。お風呂入れておいて。あんな汚いのじゃ、病気になっちゃうわ」
「わたしが……ですか」
「そうよ。え、何? アナタ以外ここに誰がいるのよ? あたしに奴隷を洗えって?」
「そ、そうではなく……男性同士のほうが……」
「ウブな小娘ねぇ。男だと思うからいけないのよ。あれは牡犬よ。何を躊躇うことがあるの?」
「しかし……」
「洗いなさい。ついでに女になってきたらいいわ。あの牡犬に女にしてもらってきなさい。何、気にしなくていいわ。未来のお婿さんも、牡犬が相手じゃあ別に問題にもしないわよ。縦(よ)しんば問題にするような男なら、婿に相応しくないわ」
「ですが……」
「やりなさい、パユン」
フェンガネリは鍵束を投げて寄越す。
「承知しました」
パユンは雇い主の部屋を出る。すぐには動けなかった。障子を背に茫と立ち尽くしていた。意固地な奴隷を納屋から出し、裸に剥いて身を清めよることが容易くないことは容易に想像できる。しかし雇い主の指示だ。
パユンは納屋に向かった。閂を上げる。扉を開くと、奴隷男は窓を見上げていた。外が恋しいのならちょうどいい。
「湯浴みの時間です」
声をかけると男は目蓋を持ち上げる。重げだった。人相が分からないほど塗りつけられた泥のせいではなかろうか。
棘の抜けた目がゆっくりとパユンを射抜く。
「哀れみか」
「哀れみではありません」
奴隷男に近付く。しかし男はただ見ているだけだった。
「"おままごと"か」
「給料付きの、です」
足枷を繋ぐ錠を外した。奴隷男はパユンの手元を見ているだけだった。彼女は泥に覆われた目を見詰めた。奴隷男は首を傾げる。丸い眼差しが、彼女な嫌になった。
「歩けますね」
「……逃げ出したらどうするつもりなんだ」
「そのときは、そのときです」
女主人は嘲笑して赦すだろう。男主人は暴言を浴びせ赦すだろう。或いは狂喜して処すだろう。
「君は俺に殺されるかも知れなかった」
奴隷男は意固地だが、洞察力には長けているようだ。パユンに過った危惧と疑問を読み取れるらしい。
「使用人の一人が殺されたところで何だというのです」
人の形をしたものを「奴隷」と名付けた途端に好き放題できる連中だ。「使用人」が「奴隷」に殺されたところで、また別の「使用人」を雇えば事は済む。
奴隷男の鎖を壁から外し、掌に巻き付ける。いくら飲まず食わずの怪我人といえども、圧倒的体格差がある。この奴隷男には意地しか守るものがないのだ。その意地のために鎖をパユンの首に巻きつけ、骨ごと折り砕くこともできよう。
奴隷男が動く。鎖が撓(たわ)む。飛びかかるつもりなのだ。手枷を鈍器に頭を搗(か)ち割るつもりなのだ。パユンの身体が跳ねる。彼女の反応を、鋭利な眼が観察していた。
「死が怖いか」
パユンは泥の中の眸子(ぼうし)を凝らす。見詰め合っていることにも気付かなかった。
鎖が手元で小さく鳴った。呼応するように、林で鳥の羽撃(はばた)きが聞こえた。奴隷男から目を離していた。
「今生きているのが答えでは」
もう一度、鋭い目に返る。
「わたしを殺して逃げますか」
奴隷男の眉間に皺が寄る。
「女子供には手を出すなと教えられた」
パユンは鎖を引っ張った。
男性用大浴場まで大柄な躯体を連れてきたはいいが、パユンは何から手を付けていいのか分からなかった。ニ家の使用人の風呂場だというのに、立派な造りで、広さも十分ある。利用者はいなかった。裾を捲くったパユンは湯殿の傍で奴隷男を膝立ちにさせていた。粗末な穿物が濡れ、泥が溶けていた。
まずは裸に剥かなければならない。しかし両手の枷のために、自らの手でそうさせることはできない。
刺々しさの失せた上目遣いから彼女は逃げた。それは威嚇ではない。侮りだ。鎖と枷が嵌められているからといって、大した支障はないということだ。パユンは飽くまでも格下であると、そう告げている。
男を知らないのか。生娘め――
言われていないことを、彼女は感じ取る。
「湯浴みの時間だそうだな?」
そうだ。奴隷男を観察する時間ではない。
パユンは眉を顰めた。そして袖を捲り、奴隷男の腰で結ばれた紐に手を伸ばした。
しかし、その小さな縛(いましめ)を解くことはできなかった。紐の先を引くだけでよかったはずだ。けれども彼女は大浴場の戸が開く音に気を取られてしまったのだ。
「ダメじゃん、生娘(オンナノコ)が男湯に入ってきちゃ……」
八重歯が湯気の奥で光っていた。
ここは大浴場だ。湯浴みをし、身を清め、安らぐ場所である。だが誰一人として全裸の者はいない。
ウバクは両手で裾を持ち上げながら、水溜りを踏みつけ、傍にやってくる
「失礼しました。しかし……」
女性用大浴場に奴隷男を引き入れるわけにもいかない。
すべてを嘲笑っているかのような吊り気味の目がパユンを見下ろす。ウバクは上唇に舌を這わせると、裾を落とした。足を開く。撥水床の水溜りが形を変える。
「男女逆だったら大問題だよー? 男女平等 蹴撃(キック)~!」
次の瞬間、目の前に立っていたウバクとの間に距離ができていた。ウバクが後退した様子はなかった。ただ身体を半回転させ、足を置いているのが見えた。パユンも後退ったわけではなかった。しかし手を伸ばしても届かない距離が空いていた。
胸元に霰菓子を当てられたような軽い気配を覚えただけだった。彼女は足が床を掴んでいないことを知った。
落ちる。
耳が消え失せた。けれども全身が熱と浮遊感に包まれとき、彼女は何が起きたのか理解した。ウバクの熟達した武技は、痛みも大した衝撃もなかったのだ。
聴覚の閉ざされた音を聞く。
何が起きたのか、彼女は理解しただけだ。彼女は自身の有様については、まだ理解に至っていなかった。
湯殿に放り込まれたパユンは熱と重みの中でも浮遊感に抗った。けれども前後上下の感覚を失いながら、下降の恐怖に彼女の忙しない挙動は激しさを増す。
湯殿であることも忘れた。横殴りに起きた大波がさらにパユンを焦らせた。
身体が浮いた。首の前方に強い圧迫があった。彼女は頭から湯面に上がる。
「は……っ!」
耳は音を取り戻した。波飛沫が頬を打つ。空気が鼻を突き抜け、粘膜に滲みる。局所的な圧迫に襲われた首を押さえ、咳き込んだ。
「随分優秀なお犬様に躾けたじゃん、パユンちゃん」
曇った目で、両手を打ち鳴らすウバクを睨む。そして脇に立つずぶ濡れの男に気付く。一瞬、パユンには、それが本で見たことのある海ノ怪(け)に見えた。長い髪で顔を隠し、泥水を滴らせ、霞を纏う様はまさに怪奇の生き物だったのだ。
「あなた……」
それは奴隷男だった。身体から泥が溶けている。豊かな筋肉は小さな湯の玉をつけながら、溝に沿って水の筋を垂らしている。
湯から引き上げたのはこの濡れ怪物だったのだ。
パユンの手は顔を覆う水草を掻き分けた。泥の薄らいだ肌が見える。
鋭い眼差しに迎えられる。真っ直ぐな鼻梁が神経質な獰猛さを帯びていた。理知的な形の額が正面を向き、精悍(せいかん)な顔立ちが露わになる。
パユンは息を呑んだ。口に残った湯も飲んでしまった。
泥を塗られておくべき縹緻(きりょう)だ。不吉な感じのする面構えだ。古典の美姫は泥を被り、肥溜めで衣を焚き、難を逃れた。パユンは幼い頃に読んだ文学のその意味を、今、知った。
「血が混じってるよ、パユンちゃん……月のものなんぢゃね」
男主人のウバクが口を挟まなければ、彼女は波紋の中に立つ怪魔の類いとも神仙の類いとも判じられない者から目を放せなかっただろう。
「汚(きったな)~い。ちゃんと掃除しておきなよ? パユンちゃん」
眼球の自由の利くようになったパユンは、奴隷男に視線を戻す。泥と血が波紋に棚引いている。
「出ましょう」
首輪から伸びた鎖を掴み、湯殿から引き上げる。四方を囲う段差を跨いだ。
ウバクが立ち塞がっている。
パユンは平生(へいぜい)よりも一際色濃い嗜虐的な眼差しを浴びた。
「飼犬と飼猫が仲良いのは結構だけど、ご主人様を忘れちゃいけないよー?」
男主人は口角を吊り上げる。八重歯を見せるのは威嚇だろうか。
「猫や犬を飼っていらっしゃったのですか。申し訳ありませんが、把握しておりませんでした」
「ハハっ!」
高らかな笑い声が響く。パユンの後方で湯飛沫が上がった。彼女が捉えたものは捻った腰を正面に戻し、足を置く猛者の姿だった。
パユンの掌に鎖はなかった。摩擦の残影を握っているのみだった。彼女は振り返る。奴隷男と姿が消え、小さな湖に怒涛が起きている。
「何を!」
男主人に吐き捨て、パユンは自ら湯に潜る。腕を左右に振り回す。何気ない生活は軽やかだ。しかし湯のなかでは重い。軈(やが)て指先が首輪に触れた。水の力を借りて大男を釣った。
パユンは釣果よりも先に、ウバクの顔色を伺った。飼猫の成果を褒める飼主はすでに立ち去ったようだった。湯の弾ける音ばかりが聞こえる。
「あなた、大丈夫……?」
パユンは泥の流れ落ち、髪をすべて後ろへ張り付けた奴隷男の顔から目を側めた。先程よりも明確に容貌が分かる。目付きに相応しい怜悧な面立ちに彼女は気圧(けお)された。月は首が痛むほど見上げ、花は息の詰まるほど見下ろす。奴等が恥じらうことも、奴等に恥じる入る理(ことわり)もない。しかし花と月の間に飄然と佇む秀麗な男を前に、パユンは冷静であっても落ち着いていられなかった。
「助けは別に必要なかった」
水の滴り落ちていく音が小さくなっていく。
「あの………そうですか……」
泥の下の素顔がパユンから言葉を奪っていた。奴隷男は人だった。犬ではなかった。顔がある。そしてその顔の冷たい艶(あで)やかさに、思考を失っていた。醜悪な男ならば、多少の憐れみが湧いたのだろう。けれどもパユンの胸にあるのは不安だった。天弓、夜這い星、烏猫。見た目の良いものこそ凶兆なのだ。
「だが、礼は言おう」
「はあ………わたしこそ、助けていただいて……」
奴隷男の枷の付いた手がパユンの胸に触れた。彼女はやっと、睥睨を携えて奴隷男を捉えた。
「痛みは?」
長い指の背が胸元とも首元ともいえない箇所を這う。
「はい……?」
「蹴られていた」
ウバクのような好奇心に満ち満ちた手付きではなかった。
「はあ………」
「骨が折れているかもしれない」
「どこも痛くはありませんが」
パユンは無骨な手を避けると、湯に染み出ている血を一瞥する。
「今は目に見えた怪我を……どうにかしないと」
奴隷男は鎖に従った。この後、女主人に玩具にされるなど、知りもしないのだろう。
パユンは座らせた奴隷男の熟しきった柘榴然とした背中を見詰めた。一度は固まった血がふたたびぬっちゃりねっちゃり照っている。
水汲みに湯を掬い、肩から流す。皮膚の消えた背には滲みるはずだ。
奴隷男が振り向いた。しかし何も言わず、尖った鼻先は正面に戻る。
パユンは手巾を濡らし、石鹸を揉んだ。泡を立て、隆々とした筋肉に添わる。
聡慧(そうけい)な影と凶猛げな輝きを併せ持った眸子が、泡の塊を一瞥する。彼女には批難がましく感じられた。そしてまた戻っていく。
「いつも蹴られているのか」
泡を塗りたくる手が止まった。
「……いいえ」
暴力といえる暴力は、初めてだった。殴られたことや、蹴られたことは今までなかった。
「俺は奴隷だ。俺に気を遣うな」
パユンは止めていた手を動かした。泡を塗りつける。盲目の令嬢のために、肌に匂いを擦り込むのがニ家の勤め人の仕来りなのだ。
「……奴隷なら、……態度が偉そうです」
【TL】迷かの蝶、漏り来ての月