車窓
1
その日は、土砂降りの雨が降っていた。
私は、父の運転する車の助手席で、俯いていた。ラジオだけが、呑気に笑いながら話している。
父は前を向いたまま、黙りこくっている。
濡れた髪が、冷たい。化粧だって、ズルズルに溶けている。
「父さん、ごめん」
私は、流れ出る涙を止められず、呟く。
「別に。そういう時もあるよ」
父は、前を向いたままそう言った。
先ほど、出かけた先のカフェで、彼氏から別れを告げられた。
帰る足がないから、父に迎えに来てもらった。それだけ。
雨粒は、車窓にぶつかってレースをしている。
街並みは、次第にのどかな住宅地になる。
私は、無言のまま、歪む市街地を眺めていた。
父は、大層、車の好きな人だ。
若い頃には、スポーツカーを運転していたと、自慢げに語っている。事実、私が小さい頃は、赤のスポーツカーに乗っていた気もする。
父は運転することが趣味で、私たち家族を、様々なところへ連れて行った。そんなドライブの最中、見える窓の景色が、私は好きだった。
まるで、ひみつ道具のような、そう、どこでもドアを開けたときのような景色の移り変わりを見ていると、手軽に非日常感を体験したようだった。
旅行だけでなく、習い事や部活の送迎も、父が率先して行ってくれていた。
私と、二つ年下の妹、未希の送迎は、父の仕事だ。その頃には、自転車を乗せられるように、と、スポーツカーを手放し、白のミニバンを運転するようになっていた。
しかし、思春期に差し掛かると、私は父の背中を見ることが嫌いになっていった。別に、特段父と喧嘩したとか、そういった思い出はない。
ただ、漠然と父のことが苦手になっていた。一家の大黒柱として勤続する父の背中は、恐ろしいほど大きく見えて、それが苦手意識となっていたのだろう。
私は、父の運転する車の車窓を見ることも、何にも感じなくなっていった。鈍麻。
そんな父を嫌う自分が、嫌いだった。
2
私は高校を卒業し、そのまま就職した。
公務員試験に合格した私は、父と同じ、公務員になった。父は仕事をやめたことは一切ない。私もきっと仕事を続けるだろうな。そんな甘い思考で勤務を始めた。
仕事というものは、想像していたよりずっと過酷だ。責任がまるで違う。やるべきことが、たくさん降ってきて、それをこなせなければ残業。
新卒で慣れない中、とにかくがむしゃらに働いた。
そんな五月。休日に、父からドライブの提案があった。私はゆっくり休みたい気分だったが、父の提案に乗ることとする。
あの日と同じ、白のミニバンの助手席に乗り込む。父はアクセルをゆっくり踏む。
今日は隣の県に、海鮮丼を食べに行くらしい。車に乗ってから、そう言われた。
無言。父は、どちらかと言えば話す方ではない。そんな父が、
「沙希、仕事はどうだ?」
と、まっすぐ前を見たままそう言うから、私は心臓が口から出そうになる。
「どうって、まあまあ」
と、裏返る。
「大変だろ、公務員」
父は、ハンドルを握ってそう言う。
「うん、思ったより」
私は、車窓を眺める。高速道路の上。木々がテンポよく視界に入る。
「ねえ、父さん」
と、私は窓の外に視野を持ちながら。
「父さんは、なんで仕事を続けられているの?」
ぼんやりと、そう口にする。パーキングエリアの看板に向かって、父はハンドルをゆっくり切った。
「家族がいたからな。辞めたくても、家族のために頑張らないと」
思わず、父の顔を見た。その顔は、幼い頃感じた、あのぬくもりのある顔だった。
こんな優しい横顔、この人はできるのか。
父を嫌っていた事実が、ちくりと胸を刺した。
一年。実家暮らしの私は、貯金がみるみる増えていった。勤続も、できていた。
一年頑張ったから、そろそろご褒美でもいいでしょう。
車が欲しかった。私の住んでいる地域は田舎だから、車が無いと生活が成り立たないのも、私が車が欲しい理由の一つだ。
私は、近所の車屋に行って、パンフレットをもらう。
一人だし、軽自動車で十分だよね。そう思って、ピンクの軽自動車を注文する。
もちろん、父には相談した。
「好きなの選びな。運転の練習は、つきあってやるよ」
と、父は新聞から顔を上げて、そう言った。その目は、私より新車を喜んでいるようで、少しおかしかった。
ゴールデンウイークを過ぎた頃。ピンクの軽自動車を納車した。
思ったより内装が可愛くて、私はお気に入りのぬいぐるみを飾る。父は、私より先に、助手席に乗り込むものだから、私も慌てて運転席に座る。
助手席より、視界は開けており、アクセルを踏むと、街並みが加速する。
始めは、どれくらいアクセルとブレーキを踏めばいいかわからず、急発進、急ブレーキを繰り返していた。それでも父は、私の横で教官を務めてくれている。
まっすぐ前を見ていた父は、車窓を堪能していた。
「子供の自転車練習に付き合ってるくらいの、そんな気持ちだよ」
そう窓を開けながら、父は言っていた。
3
車の運転に慣れた頃。私には彼氏ができた。
マッチングアプリで知り合った、公務員の彼氏だった。私は、父の運転する車で、その話をする。
父は、子供が手を離れたから、とシルバーが光るコンパクトSUVに車を買い替えていた。その新車の助手席に、座らせてもらう。
ミニバンと違う、スポーティな走りに、魅力を感じる。
「いい人なんだよ」
「俺に挨拶したら、いい人だって認めるぞ」
と、冗談交じりに、父は前を見て言う。
「ていうか、私の運転でもよかったんじゃない?」
と、助手席に乗った私。
「あんたの運転は、信用ならんからね」
父は、そう言って笑った。むくれる私を横目に。
六月。土砂降りの中。私は彼氏に別れを告げられる。喧嘩もしたことなんてなかった。ただ、
「思っていた人と違う」
それだけで、私はカフェに取り残されて、彼氏は帰った。
私は泣きながら父に連絡する。父は、いつもと変わらず、前だけ見て運転をしていた。
父の好きなラジオが、能天気に流れていた。
「そういう時もあるよ」
そう言ってくれた父の背中が、頼もしかった。
車窓は、曇天を映す。
私は、それからも変わらない日常を過ごしていた。
ピンクの軽自動車に乗り、出勤する。仕事をこなす。
父は、程なくして定年を迎えた。
「定年まで、公務員を勤め上げたんだね。すごいね」
助手席に座る私に、父は自慢げな顔をする。
「まあね」
と、一言だけ言った。
「次は車に乗る仕事がしたいな」
父はそう付け加える。
「まだ働くの?」
私は、思わず父の横顔を二度見した。
「まあね」
と言った父は、少し嬉しそうだった。
その日は珍しく、父の好きな松任谷由実の音楽がかかっていた。
大学を卒業した妹の未希が、大阪へ就職が決まった。
未希の荷物を、大阪までシルバーのSUVで運ぶ。
「未希、頑張ってね」
「姉ちゃんこそ」
大阪で荷下ろしをすると、私たちはグータッチをする。
「時々、帰っておいでよ」
「たぶんね」
未希は屈託のない笑顔を浮かべる。
父の運転する車から、大都会を眺めていた。
高速道路は、感傷を置き去りにする。
「沙希、寂しいの?」
と、無言の私に母は言う。
「まあね」
私は、それだけ答えると、車窓を眺めていた。走れど、まだ高いビルが続く。
ずっと一緒だった、未希。
私はまだ、実家でのんびり暮らしているというのに。
「未希なら大丈夫だよ」
と、父は前を見て言った。
車窓は段々、視界が開けて、低い建物に変わっていった。
4
その直後くらいだろう。私は、マッチングアプリで、真也という男性と出会った。
それからはとんとん拍子に進んでいく。誠実で、他者を理解しようとする真也に、惹かれていった。真也も、私のことを好きでいてくれるようで、私たちは交際を開始した。
真也は赤いコンパクトカーで、迎えに来てくれる。よくドライブに誘ってくれた。
夜の街は、星の様で美しかった。
「ドライブっていいよね」
と、真也。前を見るそのまなざしは、幼い頃に見た父のそれとよく似ていた。
「何も考えないようで、考えを整理するこの時間が、好きだよ」
真也はハンドルを切る。
助手席から、町の光を反射している。
真也と二人でいる時間が長くなった。私は真也のアパートへ頻繁に出入りする。
そのうちに、真剣に二人で結婚したいと思うようになった。
もちろん、真也は私の両親に挨拶をした。
「お父さん、お母さん、こんにちは。牧崎真也といいます」
父は、それを受け入れた。
真也の挨拶をきっかけに、人生のスピードについていけないほど、目まぐるしく変化していく。
真也の実家にも、挨拶をした。その後、一緒に住むようになる。両家顔合わせをし、入籍した。
一年かかった気がする。それでも、体感は一瞬だった。
入籍して少々経った頃。真也は、
「沙希、車をぼちぼち買い換えない?」
と、提案する。
「どうして?」
「いや、子供ができたら、軽自動車だと手狭かなあって」
真也は、将来を見据えていた。
「ミニバンとかどうかな、って」
と、真也。真也も大概車が好きで、赤いコンパクトカーにはこだわりを詰めている。
「ええっ、大きいよ。私に運転できるかな?」
ソファに座る私は、声が裏返る。
「大丈夫だよ」
それを見て、真也は笑っていた。
白いミニバンは、二か月後に納車された。そこまで乗っていた、愛車のお尻と、写真を撮った。
ピンクの軽自動車は、とうに十万キロを超える走行距離だが、ディーラーは買い取ってくれた。
よく頑張ったね。これからは、白いミニバンの車窓を楽しむよ。
一抹の寂しさを抱えながら、ミニバンの運転席に乗り込んだ。
ガソリンを入れ、町を走る。車窓は、軽自動車より圧倒的広く、町は私の目に飛び込んでくる。
「快適だね」
と、真也は前を見ている。
「すごい、走りも軽よりかろやか」
と、私も前を見て言う。
後日、私は真也と、私の両親を乗せてドライブをした。
父は、後部座席に乗って車窓を眺めていた。
「沙希がこんなでかい車に乗るなんてなあ」
と、感慨深そうに、呟いた。
「何となく慣れてきたよ」
私はハンドルを切る。
「立派になったな」
父はそう小さく呟いた。横の車窓を見る父は、今、どんなことを考えているんだろう。
私は、そんなことを思いながら、前だけ見ていた。
車窓