ノウミソカギ
鍵屋の夢を見た。それは近所の商店街の鍵屋ではなく、物語に出てくるような怪しげな鍵屋だった。夢の中の私が鍵屋に入って行くのを私は三人称視点から見ていた。
「いらっしゃい。お嬢ちゃんはどんな鍵がお望みだね」
「私の脳みそにぴったりの鍵をくださいな。最近物忘れがひどくって」
「へえ、若いのに」
「そうなの。若いのに」
それは現実の私の悩みであった。現実の私は常にひどく頭がぼんやりとしているのだ。最近で頭がすっきりするときなんて一瞬もないのであった。『若年性認知症』が頭によぎるが、私はまだ二十代も前半だから、早すぎると思う。私はまだ、私を 認識して 生きていきたい気持ちがあった。
「それじゃあこの鍵をお嬢ちゃんにあげよう。お代は要らないからね」
鍵屋は夢の中の私に一本の古びた鍵を渡した。
「これは私の脳みその鍵ですか?」
「違うよ。違うけれども、もしかしたらこれでなにかひらくかと思ってね」
鍵屋がニヤリと笑った。夢の中の私は首を傾げながらも古びた鍵を受け取っていた。錆びついた鍵である。私は貰えるものは何でも受け取ってしまうフシがあった。十も年上の旦那さんを貰ったのもそれの一環か。一環という言葉は失礼か。でも、令和ではビックリの見合い婚を受け入れるくらいに私は、受け身だ。だからなんだという話だが。
夢の中の私は受け取った鍵を頭に差し込んだ。誰かに何か教わったわけでもないのに私の知らない行動を取る夢の中の私に、私は感心した。私って、教わっていないことも出来るのか。教わったこと以外は何にもできないと、思っていたのに。これはお母さんにもお義母さんにも言われたからそうだ。だからびっくりした。
ガチャリ、と音が聞こえた。
「おい、何で起きてないんだ。もう俺行く時間なんだけど」
旦那の良信さんだ。スーツ姿の不機嫌な良信さんが眠っている私を揺さぶっていた。
「あら、大変。いま何時?」
「七時五十五分だよ、ばか。早く起きろ。俺は行くからな。母さんが怒ってたから早く居間に行けよ」
「うーん」
頭がぼうっとする。早く死にたかった。
「早く死にたいってのは違うか」
お嫁に来てから、いやその前から。指図されることや怒られることが多くてそのたびに死にたいと思っていたけれど、違うよな。頭がぼうっとするってのは、夢で解決したんだった。その瞬間、私は良信さんの首を両手で掴んでいた。
良信さんが喘ぎ声をあげる。やめろと、濁点付きの声で言っているけれど、あんただって私の濁点付きの『やめて』にいつも応じてくれないじゃないか。
私だけ苦しいのは違うよな。良信さんもいっつも仕事で不機嫌になるのだから、頭の酸欠で体調不良で仕事をお休みになるくらいがちょうどいいや。
非力に、抵抗できないように育てられた私が、良信さんを殺せないのは知っている。やり返されるかもしれないことも知っているけれど。私は今までいつでも死にたかったんだから殺されたってどうでもいいよな。
良信さんの脳みその酸素が少なっていくほどに、私の脳みそに空気が入っていくように感じた。
良信さんの真っ赤な顔が可愛らしかった。
私は良信さんの首を絞め続けたまま、白い泡の出ているお口にキスをすると、ベッドに投げ捨てた。
リビングにはお義母さんがいた。
「あら、良信はどうしたの? 人の家でぐーたら寝ているあなたを起こしに行ったみたいだけど」
お義母さんは別に悪い人じゃないと思うけれど、この言い方が最っ高に不愉快である。『人の家』って。あんたは都合のいいときだけ「お嫁に来たのだからもうここはあなたのお家なんですよ」などと言って。ぐーたらという言い方だって不要だろうが。
もしお義母さんが良い人だったら「気持ちよさそうに寝ていたけれど、もう起きる時間だったからあなたを起こしに行かせたの」と言うだろう。
「良信さん、ちょっと服が乱れたみたいだったから直すそうです」
「あなた、お嫁さんなんだからそれくらいしてあげなさいよ」
お義母さんはお義母さんの代わりを探しているのだろうか。
逃げ出したくなった。私は、良信さんのお母さんではないのだ。お義母さんが死んだら、もう良信さんのお母さんはこの世から居なくなるってこと、受け入れてほしいよな。
逃げ出したくなったんなら逃げ出すが勝ちである。そうか、そうか。結婚という不自由の契約をしたとて、この不愉快な箱にいる必要は本当の本当のところないのだな。
そうだった。私にこの家に留まらなくたっていいのだ。そのために生まれてきたわけじゃないって、思うのだ。私は私のことをしなくっちゃ。
専業主婦が何だよ。留まる必要は無かった。私は何でもできるって少しだけ思えた。現実なんて怖くないって思いたかった。それよりも、私自身の頭がはっきりするのだ。アイツの首を絞めて良かった。逃げてきてよかったな。
お義母さんは足が悪いから私に追いつけないや。
朝八時の空は気持ちの良い青であった。いつもゴミ捨ての時にしか外に出られない時間帯である。異臭のしない空気は美味しいのだった。
すごく高い指輪は、薬指からすぐに取ることが出来た。嫁に来た当初よりずいぶん痩せたからだ。
さて、お金も持っていないし、実家もどうせ「帰りなさい。あなたはもう嫁に出しました」とか言うだろうから頼れないし。結婚指輪って貰うべきだ。こういう時に質に出せるから。
クツクツと笑いながら、見知らぬ土地を歩く。嫁に来てから、商店街の他には行ったことがなかった。
ダンナが起き上がる前にどこまで行けるか楽しみだ。
大通りに他県ナンバーの軽自動車が停まっていた。思い切って運転手に声をかけると、今からその遠くの県まで帰るということであった。助手席に乗せてもらえないか頼んでみると、理由も聞かずに乗せてくれた。運転手が私の顔を見ながらニヤリと笑う。
「お嬢ちゃんの話を道中聞かせてくれんならいいよ。まずは名前から教えてよ」
了
ノウミソカギ