稚拙な対話
A:そうやって詩もどきを書いていて楽しいですか?
B:楽しくないですよ
A:じゃあなんで書いているんですか?
B:これまで散文ばかり書いてきて少し飽きてきたんです。それで気分転換に詩でも書こうと思って始めました。
A:そうなんですね。それで気分転換は実際できたんですか。
B:はい。散文を書いているときにはなかった何か癒されているような気分は味わえています。
A:散文にしても詩にしても文章を書くのが好きなんですね。どうしてですか。
B:根底には治癒のために書いていると自分では思っています。散文と詩では治癒のされ方が違うようです。そのあたりはまだ自分で言葉にできていません。
A:散文の方が論理性を要求されますね。また思考の流れを要求されるところもありますね。
B:そうですね。以前の詩でも書きましたが、詩の方が自閉的ではなく開かれた感じはあります。
A:開かれているとは、どのように開かれているのでしょうか。何が何に開かれているのか。そのあたりを具体的に聞かせてもらえるでしょうか。
B:あまりよくわかっていないのですが、自分の情念に近いところ、普段自分でも隠しているような心情や、自分でもなかなか踏み込めない心情を、少しずつ自分に対して、そして自分の外の世界に対して開いているような心持で書いているところはあります。
A:なにか言葉にすると陳腐ですね。結局、自分の内面と外面があるというようなことを話しているだけではないですか。
B:そうですね。自分の外側と内側。要は建前と本音と言ってしまってもいいのかもしれません。本当はたいしたことでもないのに、無理に言葉でややこしくしようとして、自分でも手に負えないような城を築いてしまう悪癖があるようなのです。
A:そんなことやめればいいじゃないですか。世の中にはもっと楽しいことがたくさんありますよ。これまでの蓄積が多すぎて、やめるにやめられないだけでしょう。さっさと手放したらどうですか。
B:それはその通りです。私はこれまでの自分の努力が無駄であることを認めたくないから、必死になってしがみついているのです。こんなことができるのも、まあ自分がそれなりに恵まれている立場にあるからです。しかし、だからといって、自分が抱えているものが、恵まれていない立場の人より劣っていると決めつけられるのは心外です。
A:裕福であることと、幸福であることは違う。月並みな真実ですね。すいません。一言でまとめすぎました。結局、人々が抱えている苦悩は、それぞれ違うのであって、誰が一番苦しんでいるか、などと論ずるのは不毛なのかもしれません。
B:楽しさや心地よさ、快さは皆で簡単に共有できるところはある。しかし、苦しさや痛みは皆で共有するのが難しいところはある。もちろん共有できる場合もありますが、苦しさや痛みが大多数で共有される場合は、何か政治的なものを感じさせる恐ろしさがあります。その話はおくとして、苦しさや痛みは、楽しさや心地よさに比べると独りで抱え込まなければいけないところがあるというのはおそらく正しいでしょう。一生抱えたまま、その人の中だけにとどまり誰にも知られずに消えていくことも珍しくないでしょう。人は自分の苦しさや痛みをなんとか他人に知らせよう、わからせようとして、色々と工夫をこらすことで、様々な作品ができるのかもしれません。
A:愛されない苦しみと、愛される苦しみは、同じ苦しみでもまったく違う。それに加えて愛する苦しみも世の中にはあります。これだけ考えても、人同士がわかりあうことは無理なのではないかと思えてきます。だから、せめて何か文章を書いたりすることで、その場しのぎでやり過ごしていると言えるのかもしれませんね。あなたもそうなのですか。
B:まあ、そんなところかもしれません。例えば、私の場合、愛されない苦しみと愛される苦しみなら理解できるところもあるのですが、愛する苦しみというものをほとんどわかっていないのかもしれません。
A:愛という言葉は、簡単に使われているようで、よくわからないものですね。愛と利他というものは近いところにあると思うのですが、利他というものが本当にありえるのかと思うと、疑わしくなるのです。愛は存在するのかと言われると心もとないところがあります。好意と利他は相反するものなのかもしれない。利他というものは厳しいものなのかもしれない。
B:産業革命が起こり、文明が進歩してこれまでの縦の関係が駆逐されて、人間社会は横並びになっていったので、それに伴い利他的なものも必要とされなくなっていったということなのかもしれません。
A:話が難しくなってきましたね。本当にあなたの言っていることが学術的に正しいかもわからないので、とりあえずこのあたりで中断しましょう。それにしても、愛されない苦しみと愛される苦しみは理解できるが、愛する苦しみは理解できないということは、結局これまでの人生があまりに受動的であり、主体性に欠けていたと言えるのではないですか。
B:そうですね。憎むや恨むといった行為に比べると、愛するという行為は、はるかに能動的であり、困難な行いのように思えます。憎しみや恨みは自分の中の深い情念とつながっている。情念に従えばいいだけなので、受動的なものだと言えます。しかし、愛するということは、情念との闘いを何度も経験して、ようやくほんの少しだけたどり着ける不確かなものなのかもしれない、
A:わかってもいないのに、あまり大それたことは言わない方がいいですよ。なんでも理屈の方が先行するのはあなたの悪いくせですね。言葉の厄介なところです。言葉が先に出てしまうと、その言葉が自分に感情を強いるようになる。言葉が先行して、次々に自分でも思ってもいなかった感情が湧き出てきて、なんだかわけがわからなくなる。まあ、そんなところかもしれません。
B:確かにそうですね。本当に言葉というものは面妖で、なんとも捉えがたいものです。あまり難しく言う必要もなくて、要は言霊というようなやつですね。しかし、そのように言葉が自分に思ってもいなかった感情を強いるということは、言葉はなにか人間には知ることのできない、違う世界から人間に備わってしまったと考えていいのでしょうか。
A:どうでしょう。確かにそのような考え方は魅力的ですが、あまり話を面白い方向に持っていこうとするのも考えものです。結局、楽しく考えているときに、あまりいいものは出てこないのではないでしょうか。考えるという行為には、どこか苦しみが伴わないといけないのではないでしょうか。考えるということは、そんなにスマートなものではなく、もっとのたうちまわることで初めて形になるのではないか。頭の中で言葉を並べるだけでは、考えているとは言えない。言葉を並べつつも、苦しみが必要になる。苦しみは現実との接点を持ったものであるから。
B:苦しみこそが、自分が現実の世界に存在していることを知らしめてくれる。結局、現実に生きているという実感がほしいから、人は自分から苦しみを求めようとしてしまう。そういうふうに言っておくと無難なのかもしれません。
稚拙な対話