宵越しのカレーは持たない
1
笹川匠は、今日もカレーを作る。彼女の佐倉美桜が、今日遊びに来る。デニムのエプロンを着ると、カレーの仕込みに入る。
料理が好きで、実家にいた頃からよく作った。特に、カレーにはこだわりがあった。母親の作るカレーも好きだが、自分でスパイスから作るカレーは、自慢の一品だ。
匠の冷蔵庫のドアには、カレー用のスパイスが、所狭しと貼り付けられている。
冷蔵庫に貼られた小物入れを手にし、丁寧にブレンドしていく。
カレーを煮込む。その間に、玄関のインターホンを押す音が、耳の中に飛び込む。
「はあい」
匠は、呑気にインターホンに語りかける。
「美桜だよ、来たよ」
と、彼女のかわいらしい声が答える。匠は、心を躍らせながらドアを開ける。
「美桜、いらっしゃい」
「今日もカレー作ってるの、嬉しい」
玄関にも、スパイスの香りが広がっているようで、美桜は嬉しそうにそう言った。
「うん、今日も作ったから、食べてくれるかい」
「うん」
長い茶髪を翻すと、美桜は匠の家へ上がる。
匠は、ミントグリーンの皿に米飯を盛る。そこに、事前に仕込んでおいた、フライした野菜、サラダを乗せる。丸い米飯の脇に、スパイスカレーを流し込む。
まるでカフェのような一品。
「匠、本当に料理が上手だよね」
美桜は、ダイニングテーブルに着く。
「ありがとう、そう言ってくれると嬉しいよ」
そう言って、匠もダイニングテーブルに着く。スマートフォンを構え、料理の写真を撮った。
「今日もSNSに上げるの」
と、美桜。
「もちろん」
匠は、自作料理を写真メインのSNSにアップロードすることを欠かさなかった。
スマートフォンを伏せておくと、
「さあ、美桜。食べようか」
と、声をかける。
「いつもありがとう、いただきます」
美桜はスプーンをとると、カレーを食べ始めた。
料理後の皿洗いは、美桜がいつも積極的に行ってくれる。その間に、匠はドリップバックでコーヒーを淹れる。
「今日も美味しかったよ」
美桜は皿を洗いながら、そう言う。
「ありがとう。今日は成功だったね」
「実家のカレーより美味しいかも」
美桜は言いながら、苦笑する。
「それは、スパイスカレーだからね」
「私、匠のカレー好きだよ」
コーヒーの香りが立つ。
皿洗いを終えた美桜と、コーヒーを淹れ終えた匠は、再びダイニングテーブルに着く。
「実家の夕飯がカレーの時って、次の日余ったカレー食べがちだよね」
美桜は、コーヒーに角砂糖を落としながら、言う。
「でも、匠は翌日にカレーを持ち越さないよね」
匠は、淹れたてのブラックコーヒーを口にする。
「出来立てが一番だよ。スパイスの香りが変質しちゃうしね。それに、翌日のカレーって、痛むのが怖いからさ」
と、匠。
「匠は繊細だね。私は翌日のカレー、結構好きだよ」
美桜は角砂糖を溶かしたコーヒーを飲んだ。
2
匠と美桜は、同じ大学に通い、学ぶ仲だった。
同じ専攻にいて、たまたまグループワークで一緒になった。それだけだったが、匠は美桜から目を離せずにいた。
一目ぼれ、とも呼ぶべきか。明るい茶髪、控えめなネイル、大ぶりのさくらんぼのピアスが印象的な彼女。
授業の合間、席を立つ美桜に、
「あの」
と、思わず声をかける。美桜は、耳に髪をかけながら、振り返る。
「はあい、なに」
美桜は微笑む。天使だと思った。
「少し、話しませんか」
時刻は、昼休憩を指していた。
「いいよ、食堂行きながら、話そうか」
美桜は快諾する。匠も席を立つと、二人で食堂へ向かった。
食堂の券売機で、匠はカレーを注文する。
「私もまねっこしよ」
と、横で美桜もカレーを購入していた。それに、だし巻き卵も追加で購入する。
カレーが出来上がるまでの間。二人は対面して机に座っていた。
「笹川君は、このあたりの人なの」
この大学は、全国から生徒が集まる。
「地元はA県だよ」
匠はお冷を飲みながら、言う。
「え、私も一緒」
美桜は、嬉しそうにそう言う。
カレーができる。二人で受け取り口に行く。
野菜がたくさん入った、家庭的なカレー。
「うん、これも美味しい」
匠は、じゃがいもを頬張りながら、言う。
「実家に来たみたい。美味しい」
美桜は、人参を頬張る。
「笹川君は、趣味とかあるの」
と、美桜は話を振る。
「自慢できるほどではないけど、料理を少し」
本当は自慢できるくらいだった。でも、気恥ずかしくて、そう言った。
「へえ、すごい。私は食べることが好きだよ」
と、美桜。
「ねえ、今度笹川君の手料理食べたいな」
美桜はだし巻き卵を口に入れる。
「え」
唐突過ぎる美桜の提案に、一瞬詰まる。
「ごめん、早速厚かましいよね」
その空白に、美桜は視線を逸らす。
「いや」
びっくりしただけだ。匠は息を吸い込む。
「いいよ、ぜひ」
と、返すことができた。
その後も、グループワークや授業で、美桜と一緒に過ごす。美桜の明るい笑顔が、印象的だった。やや内気な匠にとって、憧れの存在であった。
蝉時雨が降り注ぐ。授業の昼休憩中。
「佐倉さん」
と、匠は美桜を呼ぶ。
「なあに」
と、美桜。二人で食堂に向かうことが日課だった。
「カレー、作ってきたんだけど、食べるかい」
匠は、保冷バッグを片手に、言う。
「えっ、いいの」
美桜の声が、裏返る。
「もちろん」
食堂に着くと、電子レンジでカレーを温める。手作りのナンまである。
スパイスの香りが、鼻をくすぐる。温められたタッパーのカレーを、美桜に差し出す。
「口に合うかはわからないけど」
と、付け加える。
席に着くと、美桜は早速スプーンを滑らせる。
口へ運ぶ。ピンクのリップを塗った口唇が、カレーを包む。
「どう、かな」
匠は、それを見守る。
美桜は、何も言わない。咀嚼する。飲み込む。
「美味しい、すごい。今まで食べたことないよ、こんなカレー」
飲み込むと同時に、子どもの様にはしゃぐ。
「スパイス調合から作っているからね。同じ味にはなかなかならなくて。今日は成功だったみたいだね」
匠はそれを見届けると、自分も一口食べた。
「へえ、すごいね。スパイスから作っているんだ」
そう言いながら、食べ進める美桜。
人に、食べてもらうこと、美味しいと言ってもらえること。それが、匠の胸を熱くした。
「また作るよ」
と、自然と口角が上がった。
その後、匠は、二食分の弁当を作ることが増えた。美桜と一緒に食べる食事が、美味しくてたまらなかった。
和洋中何でも作る。作れてしまう。手の込んだものから、手軽なものまで。
それを、美桜が「おいしい」と平らげる姿が、好きだった。その笑顔が、脳裏に焼き付いて離れなくなる頃。
ああ、今、俺は恋をしているのか。
男子高校生でもあるまいに。
弁当を食べながら、そんなことを考えてしまう。
「笹川君、顔が怖いよ」
と、覗き込む美桜。
「ああ、ごめん」
眼球裏に、素直になりたい。それは、自分にも素直に生きることになるから。
息を吸う。箸を置く。
「佐倉さん」
匠は、美桜をしっかりと捉えた。
「これからも美味しいご飯を作るから、俺と一緒にいて欲しい」
美桜は箸を片方、落とした。
「え、それって」
「うん、告白。結構心拍も限界」
美桜の問いに、暴れだす心臓を抱えながら。
「女の子が告白するときの決め台詞みたいだね」
と、美桜は大きく笑う。その目には、うっすら涙を湛える程に。
「いいよ、付き合おう。笹川君といると楽しそう」
ひとしきり笑い終わると、美桜はそう言う。
「笹川君、いや、匠、よろしくね」
美桜はそう言って、右手を差し出した。
「佐倉さん、いや、美桜、よろしく」
と、その手を取った。
3
大学の授業が進む。美桜と匠は、一緒にいる時間が、長くなる。
外気は凍てつくようになった。
「寒いね」
マフラーを巻いた美桜。
「カレーが食べたい」
と、付け加える。
匠は、そんな美桜と手を繋いで歩く。
「いいね、カレー」
匠は空を仰ぐ。冬型の気圧配置で、今日か明日で雪が降る予報だ。
「うちでカレー、食べない。出来立ては美味しいよ」
と、呟くように匠。
「匠の家に行っていいの」
美桜は、匠の顔を見る。
「いいよ」
匠は、その美桜の顔を見た。頭一つ分の身長差を、見下ろす形になった。
「やったあ、美味しいの、期待してるよ」
美桜は、嬉しそうに微笑んだ。
授業終わり。
匠は、家でカレーの準備をする。大概の調味料は揃っているため、肉と野菜だけ買ってきた。
包丁が、リズムを刻む。コンロは、ホワイトノイズ。
日が暮れるのが、早くなった。そう思いながら、カーテンを閉める。と、同時にインターホンが鳴る。
「美桜ですよ」
と、お茶らけた美桜の声がして、玄関のドアを開けた。
「いらっしゃい」
匠は、ベージュのエプロン姿で招く。
キッチンからは、スパイスの香りが立っている。
「美味しそうな香りがするね」
と、美桜はコートを脱いで言う。
「もうすぐ出来るからね」
と、匠。
「すごいね、冷蔵庫の小物入れ。これ、全部スパイスなの」
美桜はキッチンに入ると、冷蔵庫に張り付いた小物入れを眺める。
「そう、全部スパイス。今日はマイルドにしたよ」
匠は、フライパンを振る。
ダイニングテーブルには、すでにサラダが用意されている。
「サラダの脇の、このドレッシングは」
美桜はキッチンから出て、ドレッシングを指さす。
「インドカレー屋さん風のドレッシング。作ったよ」
「すごい、匠、何でも作れるんだね」
そう言われ、匠は、自慢げに笑顔を作る。
しばらくすると。
「美桜、できたよ」
匠は、ダイニングテーブルに着いた美桜の前に、ミントグリーンの皿を運ぶ。
「今日はカフェプレート風だよ」
カップ状に盛られた米飯。それに、カレーが泉を作る。
「美味しそう」
美桜は、身を乗り出す。匠は、スマートフォンでそれを撮影する。
「その写真、どうするの」
と、美桜。
「SNSにアップするんだよ。写真メインのね」
匠は、そう言ってスマートフォンを伏せる。
「私もやってるよ、よかったら繋がろうよ」
美桜は、スプーンを手にしながら、そう言う。
「いいよ、ぜひ」
そう返事をして、食事を開始した。
スパイスカレーは、複雑だが芳醇な香りを孕んでいる。一口食べれば、虜になる。
日本にいながら、異世界情緒に触れられる。それに、没頭できる。
だから、スパイスカレーを作ることがやめられなかった。
「出来立ては、やっぱり美味しいね」
スパイスカレーに陶酔している匠を、美桜が引き戻す。
「うん、今日も成功だね」
と、匠は頷いた。
食事後。「招いてもらったから」と、美桜は皿を洗う。
それを、食後のコーヒーを淹れながら、匠。有機栽培でできた豆の、ドリップバックで丁寧にコーヒーを淹れる。
皿を洗い終えると、美桜はスマートフォンを触る。
「SNS、繋がろうよ」
と、二次元コードを、匠に見せた。匠はそれを読み込み、フォローボタンを押す。
「えへへ、ありがとう」
と、美桜もフォローバックをする。匠のタイムラインを眺める。
「どの料理も、美味しそうだね」
美桜はコーヒーを受け取ると、角砂糖をコーヒーに沈める。
「美桜のリクエストがあれば、なんでも作るよ」
匠は、出来立てのコーヒーを飲んだ。
4
二人の生活は、ふわりと続く。
時々、美桜は匠の家に来て、食事を共にした。
大学生活も終盤になった冬。美桜と匠は、食堂で一緒に昼食を食べている。
「もうすぐ大学生も終わりかあ」
美桜は、匠の弁当を食べながら、言う。
「もう社会人だね」
匠は、美桜の横顔を見る。
「ねえ、美桜。提案があるんだけど」
と、美桜に投げかける。
「なあに」
と、美桜。卵焼きを口へ運ぶ。
「大学卒業したら、一緒に住もうよ」
匠も、卵焼きを咀嚼しながら言う。
「いいの。めっちゃ嬉しいよ、それ」
美桜は目を見開く。声が、上ずった。
「美桜と毎日一緒にいられたら、それ以上のことは無いよ」
匠は、口角を上げる。
「じゃあ、新年度に向けて家を探さないと、だね」
美桜は、嬉しそうにそう言った。
桜が舞う。
美桜と匠は、同じ屋根の下で暮らし始めた。
今月が誕生日の美桜に、ケーキを焼いた。泣いて喜んでくれる美桜が、愛おしかった。
互いに、社会人という新しい形で生活を再形成させていく。
多忙だが、料理作りは欠かさない匠。皿洗いをする美桜。
この生活が、いつまでも続くと思っていた。思いたかった。
仕事に追われていたら、もう夏を超えていた。
特に大きな出来事もないことに、不思議すら覚える。
「美桜、ただいま」
匠は、玄関を開けた。美桜は風呂上がりのようで、スマートフォンを触りながら、ソファに座っていた。
「おかえり」
美桜は顔を上げずにそう言う。
最近、美桜の様子がおかしい。帰りが遅いことが多くなった。挨拶をしても素っ気ない。シャンプーの匂いも、変わった気がする。
「美桜、何かあったの」
匠はスーツを脱ぐと、そう声をかける。
「何も」
と、視線が合わず、美桜。
「あ、そうだ」
美桜は、スマートフォンから顔を上げるが、視線は絡まない。
「今週の土日、私いないから」
投げやりな言葉。
「最近ずっと出かけてるよね、土日」
「別にいいでしょ」
匠の言及を交わす。
匠はため息をつくと、無言で浴室に向かう。
日曜。美桜のいない家で、カレーを作る。
スパイスを調合する。味がしっくりこない。
美桜は、食事中もスマートフォンばかりで、美味しいと言う回数が減った。あの笑顔はどこへ消えたのか。
一人で食べるカレーは、味気ない。カレーはたくさんできてしまう。普段二人分で作っていたから、その勢いで作れば、余ってしまうのも当然だろう。
余ったカレーを取っておくのは、少々気が引ける。それでも、もしかしたら美桜が帰ってこれば、食べるかもしれない。
そう思って、タッパーにカレーいれて、冷蔵庫に保管した。
深夜0時を過ぎても、なかなか美桜は帰ってこない。
メッセージを送るが、返信はなかった。
これ以上起きていたら、明日の仕事に支障が出る。
就寝準備を整えると、玄関の開く音がする。
「美桜、おかえり。遅かったね」
匠は玄関へ向かう。
「やだ、まだ寝ていなかったの」
美桜は真っ赤な顔をして、言う。煙草の匂いがした。それに、知らない名前のつけられない匂いまで。
「誰と会ってたの」
匠の眠気は吹き飛ぶ。
「別に誰でも良いじゃん」
「すぐそうやってはぐらかす」
美桜は靴を脱ぐ。明らかに不機嫌だった。
「お酒、飲んできたんだね」
「だから何」
美桜はスマートフォンを見た。
「最近どうしたのさ」
と、匠はそのスマートフォンを取り上げる。
「ちょっと、やめてよ」
美桜は取り返そうとするが、酒のせいで鈍足だった。
メッセージアプリには、知らない男の名前。親し気な文章。今日、ありがとうという文面。
「浮気なの」
匠の表情筋が、凍り付く。
「匠、めんどくさいもん」
美桜はスマートフォンを奪取すると、画面に目を落とした。
「一緒に住んじゃったから一緒にいるだけ。それ以外は、私の自由でしょ」
美桜の首筋には発赤がいくつもあった。
「ああそう」
匠は大きなため息をつく。
「美桜は、どうしたいの」
「そうやって人にすぐ委ねる。めんどくさいよ」
美桜はソファに座る。
それを、匠は何も言わず、ただ見ている。
「歓迎会で仲良くなったの。さっぱりしていて、リードしてくれる」
長い爪が、スマートフォンを叩く音が聞こえる。
「だんまりとか男らしくないよ」
これは、俺から言えと言うことか。怒りより、呆れの方が大きかった。
俺たちの四年は、こんなものか。
「わかったよ、美桜。別れよう」
手が、震えた。涙が、落ちそうだった。
「あっそう。じゃあ、私出ていくから、適当にやって」
その声は、少し怒りを孕んでいた。
「止めてくれないんだね」
と、美桜は付け加える。
そんな義理は無い。美桜のことは、まだ好きだ。だけど、上手くやれる自信はない。
「最後に、カレー、食べてくかい」
匠は、喉から声を絞り出す。
「いらない。だって、まずいもん」
美桜はそう言うと、再び、玄関を開けた。
立ち尽くした。
別れた。
面倒くさかったのか、俺は。
涙が、止めどなく溢れてきた。
心の中が、ぐしゃぐしゃになって、黒いクレヨンで塗りつぶしたようで、気持ちが悪かった。
別れ際の、美桜の横顔が忘れられない。
俺は、何て言えばよかった。
浮気をやめろと。そう言えばよかったのか。
否、別れた方が、もう互いのためだ。
夏の蒸し暑い気温が身体を纏う。
美桜。
一人しかいないその広い部屋で、膝から崩れ落ちた。
翌日。
匠は、仕事を休んだ。胸が痛い。
もうすぐ昼をさす日差しは、窓から燦燦と降り注いでいた。
ぼさぼさの頭を掻きながら、冷蔵庫を開ける。
昨日作ったカレーが入っていた。
「いらない。だって、まずいもん」
そう言われたことが、悲しくてたまらない。
あの笑顔で食べていた美桜は、どこへ行ってしまったのか。
宵越しのカレーを、電子レンジで温める。スパイスの香りがする。
二脚ある椅子の一つに、腰をかけた。カレーは、体の内側から、温めてくる。
「うまいじゃん」
少し、塩っぽいけど。それは、きっと目から大粒の何かが零れ落ちてくるからだろう。
「うまい」
宵越しのカレーも悪くない。
「うまい」
もっと俺が、上手くやっていればよかったのか。
それとも。
「うまいよ」
誰に言うわけでもなく。
匠はカレーを貪っていた。
宵越しのカレーは持たない