前編

「夢香、結婚するんだあ」
 煙草を蒸しながら、夢香はそう言った。
 僕のアパートのベランダは、喫煙所と化していた。
 彼女は、いわゆる幼馴染というもので、よく僕のアパートに転がり込んでは、煙草を蒸している。
「へえ、そうなんだ」
 朝方。暑さが尾を引く。
 僕はベランダの柵にもたれたまま、息を吸った。
「それだけ」
 と、ベランダにしゃがみ込み、夢香。
「それ以外、なくね」
 僕は言った。
「てか、何人目の彼氏だよ、そいつ」
「ええ、わかんないや。でも、今までの中で一番いい人。夢香に優しくしてくれるの」
 二ッ、と夢香は笑った。
 朝日が、頭頂部だけ黒くなった金髪を、明るく染めた。
 赤い額が、気になった。

 夢香は、クラスの中では比較的目立たない、否全く目立たない人間だった。
 勉強も運動も苦手で、時々学校を休んでいた。
 それでもよく彼女のことを覚えていたのは、家が近所だったからだろう。
 よくプリントを渡しに行っては、ニッとする彼女の顔を見た。くりっとした子犬のような瞳が、見つめている。
「そうちゃん、今日も来てくれたんだ」
 夢香はいつも、わざわざ玄関先まで来てくれた。
 ボサボサの長い前髪が、印象的だった。
「ついでに、ゲームしていかない?ポチモンの新作、やってる」
 夢香は笑った。
 人のことを言えないが、僕も友達の少ない方であった。親が転勤の多い職種なだけあって、十歳になってようやく、この土地に落ち着いた。だから、心を開ける友人がまだいなかった。

 夢香は度々、僕を遊びに誘うようになった。二人でポチモンのゲームをやるだけでなく、自転車でこっそり隣町まで飛び出したこともある。
「夢香ね、お父さんもお母さんも帰りが遅いから、寂しいの」
 隣町の丘の上。夕日が差すベンチに座り、夢香は口を開いた。
「勉強も運動もダメだから、学校行ってもつまんないし、みんなにバカにされるし。でもそうちゃんだけは、夢香に優しくしてくれるから、好き」
 夢香は、二つに縛った髪を揺らして、そう言った。
「僕も……。友達がいなくて寂しかった。夢ちゃんがそうやって誘ってくれて、僕も嬉しいよ」
 僕もなんだか嬉しくなって、そう言ったのを覚えている。


 成績不良と出席率不足。その二つで夢香は、中学生で学生を終えた。
 僕は幸い、頭の作りが一般人であったことから、一般的な高校に入り、一般的な道筋を辿っていた。
 僕が高校生になっても、夢香は頻繁に遊びに来た。やることがないのであろう。僕の持っている漫画を読んでは、なんの気無しに感想を述べていた。
 僕はというと、文字通りの高校生活をーー夢香の存在を除けばーー送っていた。

 高校三年の夏だっただろう。

 僕は、初めて恋をした。

 遅いだろう、という人もいるかもしれない。しかし、常に夢香がいることで、恋愛とは、というものに発展しなかった。
 彼女は麻美という。初めは特別好きであったわけではなかった。
 だが、麻美が、他の男子と話していたりするのを見ると、胸がちくっと痛むのだ。
 それを友人に話すと、友人が笑って言う。
「爽太、それ、恋だよ」
 衝撃だった。全てが、ひっくり返ったようだった。

 そこからの僕は早かった。麻美に告白し、呆気なくOK。晴れて付き合うことになる。
 僕はそれがとにかく嬉しくて、家に上がり込む夢香にも嬉々として話した。
「ふーん。夢香いらない子じゃん、邪魔な子だね」
 夢香は完全にそっぽを向いた。
 いやいや、付き合ってるつもりでもなかったし。勝手に上がり込むのは夢香の方だろう。
「なんでそうなるんだよ」
 僕は棘のある返しをする。
「だって夢香だけの、そうちゃんじゃなくなったもん。そうちゃんは夢香のだよ」
 は。
「別に夢香の爽太になってたわけじゃないし、そもそも付き合ってもいないだろ」
 僕は早口に捲し立てる。
「そもそも夢香は僕のこと好きなの」
 いじらしく、僕は聞いた。
「別に、好きとかそう言うのじゃない、と思う」
 夢香は読んでいた漫画を、ぶっきらぼうに置いた。
「帰る」
と、一言残して。

中編

 その日を境に、夢香はぱったりうちへ遊びに来なくなった。
 僕は大学へ進学した。バイトも始めた。
 忙しく充実する日々に、夢香の存在は朧気になっていく。

 充実した生活にかまけていたら、遠方へ進学した麻美から、突然の電話。
「ごめん、爽太。別れて欲しい」
「どうしてだよ」
 衝撃。
 僕は、それを押さえ込む蓋を持っていなかった。
「好きな人ができた」
 なんだよそれ。
 ありがちな展開。遠距離など、物理的に打ち砕けるものもなく。
「僕はまだ麻美のことが好きだ」
 僕は、食い下がれなかった。
「そういうとこ、重い。最高にダサいよ」
 麻美は冷たくそう言うと、電話を切った。
 初めての失恋。たとえ子供のごっこ遊びだったとしても、僕にとってはかけがえのない、時間だった。
 呆然。
 僕は、苦い思いを噛み締めながら、がむしゃらに学問とアルバイトに励んだ。
 再び夢香に出会うまでは。

 僕は大学を卒業し、就職した。それを機に、独り立ちしたくて、片田舎から、都市の方へ引っ越しをした。
 僕は忙しいながらに、慌ただしい毎日を送っていた。
 冬の凍える空気が耳を刺す日。
 駅中は人で溢れていた。一方、駅の裏は治安が悪い、とはよく聞く話だ。
 僕の家は、駅の裏を通らなければならない。
 クリスマスというのに、駅の裏は立ち尽くす女性と、ホームレスの老人がまばらに見られる。
 僕はそれを横目に歩く。
 正面を見ていないから、誰かにぶつかった。
「すみません」
 と、僕。相手の女性は立ち止まってじっと僕を見ていた。蛍光ピンクに染めた髪が、夜空に目立った。
「そう……ちゃん」
「え」
 二つに結った髪が揺れた。前髪は、眉上で切り揃えられている。くりっと丸い、子犬ような目元で、ようやく誰だか判別がついた。
「あ……夢香」
 ニッと、彼女ーー夢香ーーは笑う。
「久しぶりだね、前みたいにおうちにあげてよ」

 安売りのローストレッグ。常備された缶ビール。少し奮発したローストビーフ。
「漫画、ないの」
 と、夢香。
「実家に置いてきた」
 と、僕。
「でもさ」
 と、ビールを流し込んで僕は口を開く。
「なんであそこにいたのさ」
 夢香は漫画がないとわかると、くたびれたスマートフォンを触り始めた。
「ぴと喧嘩した」
 ぴ……彼氏のことか。
 僕は考え込んで、そう思うことにした。
「ゆうくんは、普段は優しいんだよ。だけどね、夢香がご飯ちょっと、作るのが遅くて、殴られた」
 夢香は顔を上げない。
 長くて桃色の爪が、画面をスワイプする。
「へえ。災難だったね」
 僕はそれを片目に、ビールを飲んだ。
「ゆうくんの家に住んでるんだけど、夢香、喧嘩すると友達の家に泊まりに行ったりするの」
 と、夢香は続ける。
「でもね、友達もみんな離れちゃった」
「どこで知り合うのさ。夢香は友達少ないよね」
「ううん、SNSかな」
 少し図星だったのか、夢香は苦笑いをする。
「あと仕事仲間のお家に泊めてもらったりもしてた」
 夢香は顔を上げた。
 その顔には、右眼ら辺に大きなあざがあった。
「夢香、それ」
 僕は息を呑んだ。
「ああ、これだよ。ゆうくんに」
 夢香はニッと笑った。
「だから、今日、そうちゃんに泊めてもらいたいの。夢香からの、お願い」
 悪戯だった。
 僕は、断れなかった。
「……いいよ。泊まって行きなよ。行く場所、無いんだろ」
 そう言った。

「そうちゃんありがとう。シャワー、気持ちよかったよ」
 半ば強引に転がり込んだ夢香は、図々しくもシャワーまで浴びている。僕は、ベランダで煙草を吸っていると、風呂から上がったようだ。夢香はスキップをしながらワンルームへ戻る。
 着ている灰色のスウェットは、僕のものだ。小柄で華奢な夢香には、いささかオーバーサイズだった。
「そうちゃんも煙草吸うんだ。横で吸っていいかな」
 と、僕の断りなく横にちょこんと座る。
 女性がターゲットの、ピンクとホワイトの小さな小箱から、これまたスリムな煙草を取り出すと、豹柄のライターで火をつけた。
 僕はというと、ずいぶんタール数の多い煙草を蒸して、柵にもたれて夢香を見やった。
「寒いね」
 半分髪の濡れた夢香は、これまた口角を上げて言う。
「そりゃあ、冬だもん」
 と、目も配らせず僕。
「夢香も吸うんだな」
 一呼吸置くと、僕はそう呟く。
「仕事の人たちみんな吸ってたからね。待合で、先輩に教えてもらったんだ」
 たくさんの煙を吐きながら、夢香。
「夢香は、仕事は何をしているの」
 僕は、ようやく夢香を見た。頭頂部まで染められたピンクの髪が、眩しかった。
「フーゾク。ソープってやつ、やってるよ」
 おおかた予想はついていたが。驚きはしなかった。オーバーサイズのスウェットから覗く谷間に、少しバツが悪くなる。
「稼げるの」
「まあまあね。でも夢香、頭悪いからそれしかできないの」
 最終学歴が中学卒業の人間を取る企業など、確かに無いだろう。
 僕は煙草の火を消すと、もう片手に持っていたビールを飲み干した。

 その日を境に、夢香は時々……、否、まあまあな頻度で僕の家を訪ねるようになった。
「たあくんと喧嘩した」
 から始まり、来るたび喧嘩する男の名前が違った。
 夢香はよく顔や体にあざを作ってきては、僕の家で泣いていた。と思えば、すぐにころりと甘えてくる。
「夢香はもっと男を見る目を持つべきだよ」
 僕はベランダで、夢香を見下ろす。
「ええ、だってみんなすごい人なんだよ。夢香が悪いんだよ」
 そう、ニッと笑って返すだけだった。
「夢香、喧嘩は嫌いじゃないの。その間だけは、夢香のこと見ててくれるから。でも、殴られるのは嫌い。だから逃げるの」
 ずいぶんと葉を残して、夢香は煙草の火を消した。今日の爪の色は、ライトブルーでハートのシールが貼られていた。
「そうちゃんは殴らないし、家へあげてくれるから好き」
 好き、と言われて少しドキッとしたのは気のせいだろうか。
 夢香の好きは、小学生の頃に言われた好きと変わらない響きだった。

 春も真っ只中。この時期になると、夜も暑く、僕はTシャツをきて眠るようになっていた。
 夢香はいつもと変わらずシャワーを無断で借りると、頭頂部が黒くなった桃髪を、タオルドライする。
 これまた無断で、僕のTシャツとハーフパンツを借りては、
「ただいまあ。シャワー気持ちよかったあ」
 と、呑気に出てくる。
 そこで、僕は息を呑んだ。
 夢香の体の、至る所に傷がある。
 それは、男から殴られたものだけでは無いのは明白だった。
 左前腕には、夥しいほどの切り傷。新旧混ざったそれ。太腿には、煙草を押し付けた跡。
 そして、ニッと笑う顔の不和。
「なに、そうちゃん見惚れてるの。たかいよ」
 と、夢香。隠そうとせず。
「どうしたのさ、それ」
 僕は一歩たじろぐ。
「夢香が悪いんだよ。夢香が、夢香の思い通りに行かなかった時に、気づいたらやっちゃうんだよね」
 と、左腕を撫でながら。
「そうちゃんは、気にしなくていいよ」
 夢香は、いつもと違う笑い方をした。
「うん……、煙草吸ってくる」
 僕は逃げるように、ベランダへ飛び出した。
 夢香は、あんな人だっただろうか。
 小学生の頃は、自責をするような人間ではなかったと思う。否、している姿を見せなかっただけなのか。
 僕は息を吐いた。煙草に火をつける。
 灰が、生まれる。心許ない煙は、庇に当たって散っていった。
 灰が儚く床に落ちる頃、夢香もベランダへやってきた。
 夢香はいつも通りしゃがむと、青色の箱を取り出して、煙草を咥える。
「銘柄変えたんだ」
「うん。やすくんと一緒なの」
 また男の名前が違う。
「痛く無いの、それ」
 僕は、夢香の左腕を指差した。
「痛い時もあるよ。でも、全然気にならないかな」
 と、夢香。
 灰が、落ちる。
「なあ」
 僕は、紺色の箱からもう一本煙草を取り出して、火をつけた。ベランダの柵を背もたれにして、夢香の方に向き直った。
「もういい加減に」
 と、言おうとして、やめた。
 落ち着いた男を探しなよ。それは、僕の元から夢香が離れていく。
 僕のものになれよ。それは、僕が夢香の命を預かるには、あまりにも覚悟がなさすぎた。
 何も、言えなかった。
 果たして、僕は夢香をどうしたいのだろうか。
 夢香が僕の家に転がり込むようになって、僕は彼女を作らなくなった。
 夢香のものが多くて、彼女を作れないでいたと言っても、過言では無い。
 だからと言えど、夢香を手中に収めたいと言えば、それも違う話だ。
 鳥のように自由な夢香を見ることが、止まり木であることが、僕の望みなのかもしれない。
「どうしたの、そうちゃん」
 夢香は、不思議そうに僕の顔を見た。
「……やっぱいいや」
 僕は、そっぽを向いて煙草を消費することに専念した。

 少なくて月二回、夢香は僕のアパートに転がり込む生活が続いている。その生活が、一年を迎えようとしていた。
 夢香の口から聞く、所謂彼氏の名前は、都度変化する。
 だが、僕らの関係は、なんら変わりがなかった。
「そうちゃん、聞いてよ。今日たろくんに」
 シャワーを勝手に浴びた夢香は、これまた勝手に僕のスウェットを着て、僕の横で煙草を蒸しながら、話し始める。
 夢香の左腕には、新しい切り傷が。伸びたスウェットの下、胸元には、煙草の火を押し付けた跡が。
 僕は、ビールを傾けた。
「なあ、夢香」
 僕は、ビールがないことを確認すると、口を開く。
「夢香は、どうしたいの」
 僕の問いに、夢香は目を丸くした。
「どうしたいの、って。寂しいの。幸せになりたいだけだよ」
 夢香は、少し考えると、そう答える。
「僕が幸せにする、って言ったらどうするのさ」
 僕は咄嗟に言ってしまった。口を塞いだ。遅かった。もう夢香に尋ねた後だった。
「夢香ね、きっと夢香がクズだから、周りの人を怒らせちゃうの。不幸にさせちゃうの」
 夢香は、視線を落とした。僕の灰皿で、煙草の火を消した。スリムタイプの、ポッキーみたいなその煙草の火を消して、オリーブ色の髪をかき上げた。
「そうちゃんのことが大事だから、そういうのは嫌。そうちゃんでも、夢香のこと幸せにできないよ」
 視線を合わせずして、夢香。
「……。そうか」
 夢香なりの、気遣いなのだろう。僕は何も言えなかった。
「でも、そうちゃんは夢香のことを思って言ってくれたんだよね。ありがとう。夢香、嬉しい」
 そう言うと、パッと顔を上げて、にいっと夢香は笑った。
「夢香ね、昔お母さんから教えてもらったの。優しくしてくれた人には、恩返しをしなさいって」
 夢香はそう言うと、僕の手から空き缶を奪った。空いた手で、僕の手を掴むと、室内に僕を引き摺り込む。
 缶をシンクに投げ込んだ夢香は、僕の前に居直る。そして、僕の薄い体を、優しく抱きしめた。
「あ、意外と大きいね。そうちゃん」
「なにするの」
 僕は、たじろぐ。
「お礼」
 夢香は、密着したまま、上目遣いに僕を見た。
 一呼吸おくと、夢香は僕のスウェットを脱いだ。
「待って、なにするのさ」
 色白の肌が顕になる。乳房には、無数の煙草の火。左腕には、赤いラインが。
 それ以外で言えば、不謹慎だが体を売っているだけある。やや痩せた体躯、豊満な胸。
「そうちゃんに、恩を返したいの」
 やや赤らめた頬。
「僕たちは、そんな関係ではないだろ」
「それとこれとは、別だよ」
 夢香は、僕の手を取ると、そっと胸に触れさせた。
「夢香のお礼の仕方は、これしかないの」
 温かい。柔らかい。
 夢香は、僕のベッドに誘う。
 僕の背を、トンと押した。
「夢香、上手だから。そうちゃんは夢香のこと、信じて」
 そう一言だけ添えると、夢香はシーリングのスイッチを切った。

 時刻はすでに、2時を回っていた。
 明日も仕事だ。それなのに、僕は。
 僕は、半分意識が飛んだまま、のそり、と、起き上がる。それに呼応するように、夢香も起きてくる。
 夢香は、乱れたオリーブのロングヘアをかきあげると、僕を見つめていた。
 僕は、これまたのそりとスウェットを着直した。
「煙草吸ってくる」
 僕は、夢香の顔を見てそう言う。が、直視はできずにいた。
 あの夢のような微睡の時間が、頭をよぎる。
「あ、夢香も行く」
 夢香は布団を蹴り上げると、僕と同じようにスウェットを着直した。
 冬の夜空。隣人たちは寝静まり、電気一つついていなかった。
 今年の冬は例年より寒いらしく、今夜は雪がちらちらと、舞っていた。
「夢香」
 息を吐くように、僕は名前を呼んだ。
「そうちゃん、どしたの」
 夢香は煙草に火をつけた。
「夢香の中では、これが普通なの」
 僕は、空を眺めながら尋ねる。白い煙が、庇に吸い込まれる。
「うん。そうだよ。みんなこうすると、喜んでくれるの」
 夢香は、自慢げに言う。
「みんな家に泊まらせてくれるし、みんな優しくしてくれる」
 僕はその、あっけらかんとした物言いに、虫の居所が悪くなる。
「夢香は、もっと自分のこと大切にした方がいいよ」
 煙と共に、僕はそう吐いた。
「だって夢香、馬鹿だからわかんないもん。これ以外、わかんない」
 夢香は、強気にそう言う。
「それで男たちから酷い目に遭わされてるじゃあないか。本末転倒だろ」
 声を、荒げてしまう。深夜のベランダに、僕の声が響いた。
「わかんない、わかんかいよ。みんないい人だもん、わかんない」
 夢香も、呼応してベランダに声を響かせる。
 夢香は、鼻を啜らせた。煙草の灰が、落ちた。
「夢香の幸せは、みんなが幸せになること。それなら、夢香はなんだってするし、みんな幸せにする」
 涙声。
 夢香はそれだけ言うと、煙草の火を消した。
 夢香は、スッと僕を見据えた。僕の、動揺する目を、捉えた。
「夢香は、みんないい人だと信じてるよ」
 そう言いながら、目から溢れる一雫を、小さな手で拭っていた。

後編

 その日から、夢香はパッタリと僕の家へ来なくなった。
 まるで、高校生の時みたいだな。
 僕はビールを片手に一人、部屋の中を見やった。
 夢香の置いていった物たちが、僕を見つめていた。
 化粧水、乳液、化粧品、僕から奪ったスウェット。
 主人が来ない物たちを、僕はどうしても触れることができなかった。
 僕はベランダに出る。重たい煙草の火をつけた。ベランダの室外機の上に、夢香が最後に吸っていた、細い煙草の箱と、豹柄のライターが置いてある。
 僕は、ビールと煙草を交互に摂取する。
「夢香は、みんないい人だと信じてるよ」
 最後に夢香が話した言葉。
 僕は、あの無邪気で純粋な瞳で、そんなことが言えるのだろうか。
「僕は」
 ベランダから、土手の桜が見えた。
 春の香りがする。
「そんなこと、言えないよ」
 そこにいた、誰かに向けて、僕はそう静かに呟いた。

 夢香が転がり込む、そんな日常を忘れかけていた。
 桜はとうに散り、新緑が芽吹いた。
 そこから日は長くなり、僕は夏を感じていた。

 そんな夜の短い日。僕は、普段通りの生活をしていた。
 普段通りに仕事に行き、普段通りに帰ってきた。
 はずだった。
 僕は、いつものようにビールと煙草を調達して、帰路についていた。
 今日も疲れたな。
 僕は家へ向かう。家の前に誰かが蹲っていた。
 誰だ。
 僕の足音に、蹲る金髪が、顔を上げた。
「あ、そうちゃん」
 夢香。
 金髪になった夢香は、嬉しそうに声を上げる。
「なんで、お前、ここに」
 再会は、動揺。
「ちょっといい報告しにきたの」
 夢香は、駆け寄る。
「あと、そうちゃんに会いたくなった」
 夢香は、上目遣いに言う。
「あげてよ」
 僕は、断れなかった。

 朝焼け。
 僕の部屋で、夢香は朝焼けを迎えた。
 僕らは、あの夜と同じように、脱ぎ散らかしたスウェットを着直すと、クシャクシャの頭のまま、ベランダで煙草を蒸す。
「夢香、結婚するんだあ」
 よかったな。額の傷を見ると、そうも言えないが。
「今までで一番優しい人」
 よかったな。また左腕に傷が増えているぞ。
「だから、ここにくるのはもう最後」
 よかったな。よかったな。よかったな。
 僕は、ぐちゃぐちゃで、上辺の言葉しか出てこなかった。
 僕だったら。
 僕だったら、もっと。
 否、夢香の中では、僕は土俵にすら上がっていない。
 夢香にとって、僕は何なのだろう。
「夢香にとって、僕は何」
 僕は、言葉を煙に隠した。
「一番大切な人」
 夢香は、朝焼けを見つめていた。
「じゃあ、旦那になる人は」
 夢香は、視線を動かさなかった。
「一番優しい人」
 夢香も、言葉を煙に隠す。
「バイバイ、そうちゃん」
 そう言うと、煙草の火を名残惜しそうに消した。

 今でもはっきり覚えている。夏も更けた頃だ。
 もう秋になろうと言うのに、記録的な暑さで、蝉がまだ鳴いていた。
 夕方のワイドショー。
 僕は何の気無しに、ビール片手にそれを見ていた。
 くだらないコメンテーターが、くだらないことを、テレビの向こうで話していた。
 そこで流れる、民間人の好きそうなニュース。
 僕はそれを見ながら、またか、と笑った。
 殺人事件のそれは、僕の興味を引くには十分だった。
 なにせ、隣町で起こったニュースだからだ。
 僕はビールを流し込む。煙草を吸いに行こうと立ち上がった刹那、僕の足が止まった。
 被害者は女性、容疑者は男性。
 同居している。
 女性は暴行を受け、その後死亡。
 男性は行方が知られていない。
 コメンテーターたちは、無関心にも楽しそうに、写真を眺めては、感想を言い合っていた。
 その写真は。
 見覚えのある顔だ。
 金髪でにっと笑う顔。
 そして。

 コメンテーターは、確かに、夢香の名前を口にした。

 僕は、ビール缶を落とした。カーペットに、シミが広がる。
「夢香」
 蝉が鳴く。
「夢香」
 生ぬるい風が、まとわりつく。
「夢香」
 そう呟くことが、精一杯だった。
 膝から崩れ落ちた。手の力が抜けた。体がガクガクと震える。
「夢香は、みんないい人だと信じてるよ」
 ああ言った夢香は、最期に何と言ったのだろう。
「一番優しい人」
 信じた夢香は、どんな思考で最期を迎えたのだろう。
 目から溢れる何かを、止められなかった。
 僕は、止めたくなかった。
「僕なら」
 幸せにできたのに。
 そう言いかけて、やめた。
 それは僕の傲慢だ。
 僕は、そのニュース項目を眺めきった。なにも、覚えていなかった。
 のろのろと、立ち上がると、何とかベランダに出た。
 夢香の煙草が、目に入る。お気に入りだった、ポッキーみたいな煙草。
 僕はそれを咥えると、豹柄のライターで火をつけた。細い煙草は、心元なく煙を揺らした。
 涙が、止まらなかった。

 あの時、僕が「行くな」と言ったら。

 あの時、僕が「やめなよ」と言ったら。

 あの時、僕が「幸せにする」と、強く、強く言えていれば。

 ああ、後悔先に立たずとは、このことを言うのだろう。
 僕は、笑った。
 覆水盆に返らずとも言えるだろう。
 もう何を言っても遅い。僕は、一人の人を見殺しにしたのだ。殺したのだ。
 僕は、最後の一口を吸った。
 この煙草の主は、もういない。
 僕の部屋へ転がり込むこともない。
 生ぬるい風を、僕は掴んでみた。

 しかし、掴めるものは、何もなかった。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-02-14

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  1. 前編
  2. 中編
  3. 後編