向日葵、酷暑の中で咲け
前編
ああ、また夏が来た。
私は、クーラーの効いた寝室から、一歩を踏み出す。ぬるい風が、首元を撫でた。
青のハイライト。緑のコントラスト。私は、それが輝くベランダへと、繰り出す。
蝉の大合唱を、浴びる。鼓膜を揺らす声量が、寝ぼけ頭の私を、覚醒させる。
私は、ベランダの椅子に腰掛けた。二つ並んだ、椅子の右側。ここが、私の定位置。
私は、ベランダに置きっぱなしにしていた、ライターで、タバコに火をつけようとする。しかし、ライターは熱を帯びており、なかなか火はつかない。
何度かレバーを押すと、小さな炎が点る。それにタバコを近づけて、火をつけた。
フーッ。息を吐く。副流煙は、夏の澄み渡った空に消えていく。
それをぼんやりと眺めていると、ベランダの扉が不意に開く。
「陽子、おはよう」
ボサボサの頭をかきながら、夫の和也。
「おはよう、和也。早いね」
と、私。和也は空いている席、つまりは定位置に座ると、これまた慣れた手つきで、スムーズにライターで点火する。
たなびく煙が二つ。
蝉たちの声は、夏の日差しと共に、私たちを包んでいた。
こんなことを言うと、親不孝、罰当たりと言われそうだ。が、夏が来たから、言わせて欲しいことがある。
私は、自分の名前が嫌いだ。
陽子。
夏生まれの私に、燦々と輝く世界を、太陽のようなおおらかさを。と、願って名付けられたと聞いている。だが、夏は私に試練と呪いをもたらすばかりだ。
少し語ろう。私が、夏が嫌いな理由を。
二二の夏。私は新卒で働き始めた。看護師として、社会人として初めて働くことをした。
人の命を預かるという、重圧と責任。私は、だった三ヶ月で、仕事に行けなくなった。
適応障害。
同期は、病に倒れることなく、懸命に勤務をしている。それなのに、私は。
悔しかった。もっと、頑張りたかった。
レッテルを貼られた私は、療養のために自主退職を提案された。そこで、新卒カードや職そのものを失ったのだ。
職を失った私は、何をするわけでもなく、ただ流れていく日々を、無意味に貪っていた。
そんな、一年が過ぎた二三の夏。
蝉時雨が泣き喚く頃。介護が必要だった愛犬のまめが死んだ。
家に篭りきりだった私は、晩年のまめの介護を行なっていた。認知症で寝たきりだった。
床ずれができたため、処置をした。痛み止めと流動食を飲ませた。オムツだって変えた。夜泣きがひどい時は添い寝もしていた。
まめは、愛された犬で、近所にある父方の祖父母の家に行っては、おやつをもらっているほどだ。
そんなまめのために、父方の祖母は線香とお経をあげた。
八歳の頃から、一緒だった。
心にぽっかりと、穴が空いた。
その数日後。長い入院生活を送っていた、父方の祖父が死んだ。
祖父はたいそう犬が好きで、まめを見ては、
「わしは、まめが死んだら連れてってもらうだ」
と、豪快に笑っていた。
祖父は豪快な人で、畑で採れた野菜をよくお裾分けしてくれた。通学路に畑があったため、私はよく軽トラックの荷台で、スイカやとうもろこしを、食べさせてもらっていた。
「陽子はよく頑張っとる」
と言っては、ゴツゴツの大きな手で頭を撫でた。
そんな祖父は、一年前に脳梗塞で倒れた。残存機能が少なく、寝たきりになってしまった。そこから、一年。
面会謝絶の病院の中で、静かに息を引き取った。
まさか、本当にまめが連れていくなんて。
祖父の棺を見た時に、ああ、この人は頑張ったんだな、と思うと涙が溢れて止まらなかった。
棺の中には、好きな銘柄の煙草や、メッセージ、折り鶴が散りばめられていた。
私は、葬儀の始まる前に、祖父と同じ銘柄の煙草を買った。
初めての煙草。ライターで不器用ながら火をつける。
息を吐く。咽せた。
涙が出た。
祖父は家のこと、畑のこと、一生懸命で楽しそうだった。社交的なそんな人が、一年も入院していた。私は、何もできなかった。
悔しかった。
あの大きくていかつい、祖父の手は、三時間で灰になった。
看護師の知識として、私は何かできたのではないか。
一口煙草を吸う。煙が喉を焼いた。また目から汁が溢れる。
余談だが、私はこの祖父の死をきっかけに、最期の場所づくりをしたいと、老人ホームで勤務するようになる。貪欲に、経験と知識を培っていた。
後編
その数日後だった、と思う。
当時五年付き合っていた彼氏から、突然連絡がきた。普段は電話しない人なのに、珍しい。
私は、電話をとる。
「ごめん、別れて欲しい」
は。
どういうこと。心がぐるぐるした。夏の日差しで、目眩を起こす。
「だって陽子、重いから。もう付き合いきれない」
五年一緒にいたのに、これか。
私は、何も言えなかった。数秒の沈黙の後、なんとか戦慄く唇を開く。
「いやだ」
だって私、まだあなたのことが好きだから。
電話越しに、彼は大きなため息をついた。
そして、電話を切られる。
え。
理解が追いつかない。嫌だ嫌だ。私は結婚したいまで考えていたのに。
私は彼にチャットを飛ばす。返信は全くなかった。それどころか、既読すらつかない。ブロックされてるようだ。
終わった。
私は何人失えばいいの。
私は部屋の中で、声を上げて、親に怒られるほど声を上げて泣いた。
そんな痛みを抱えながらも、一年が過ぎようとしていた。時々、あの時、あの人の顔を思い出しては、苦しい思いをしていた。
そんな二五になる歳の夏。今年の夏も猛暑を奮っていると、テレビでやっていた。
仕事が軌道に乗ってきている。煙草を炎天下で吸うには、少し苦しい季節だった。
昼休憩で煙草に火をつけた私は、スマホの通知を確認する。
母から、チャットが来ていた。
「おじいちゃんが、亡くなりました」
灰が落ちた。スローモーションで。
鼓動が早まる。血の気が引く。
母方の祖父の急逝。
私は理解ができずにいた。が、仕事を同僚に任せると、私は片道一時間、車を飛ばした。
着いた時には、母方の祖父は、自宅で静かに眠っていた。
「お酒の飲み過ぎだって」
と、母。
つい先日、私は祖父母の元へ行って、話していた。
「陽子は、仕事頑張っとるかあ」
と、大きな声で笑顔だった。
私は、社会人として祖父ともっとお話ししたかったのに。
私は、玄関から出ると、煙草に火をつける。
雨が降り始めるのだろう。湿気で煙草の火は、なかなかつかなかった。
長々と語ってしまった。以上が、私が夏を嫌いな理由だ。
夏は、私から全てを奪っていく。それが、大変憎たらしくて、たまらない。
夏になると、あの死に顔が。気持ちが。感覚が、不意に頭をよぎる。
生命力の蝉の声も、高い空も、大きな入道雲も。呪いに感じていた。胸が、きゅっと締め付けられる。息ができなくなる。
煙草の本数は、増えた。
そんな憔悴した、二六の夏。私は彼と出会った。
彼は、コンビニで煙草を吸っていた。
私は灰皿の前に来て、ライターを切らしていることに気がついた。
灰皿の前でモタモタしていると、彼は私にライターを差し出した。
「ライター、お貸ししますよ」
と、声をかけられて、ドキッとする。
それが、彼、和也との出会いだった。
私は、あの日の銘柄の煙草を吸いながら、和也と話す。
虫除けの電灯は、ばちばちと音と火花を飛ばしている。
「陽子さんは、なんでそんなに渋い銘柄の煙草を、吸っているの」
と、子犬のような目線で、和也。
「死んだじいちゃんが、吸ってたの」
表情筋は、サボタージュを決め込む。
「女の子がそんな煙草は珍しいね。俺のも吸ってみない」
と、和也は一本、私に手渡す。
「ありがとう」
祖父の煙草の火を消す。もう残りも少なかったからいいだろう。
和也の煙草は、メンソールが効いていて、爽やかな香りがした。
これは癖になる。
「陽子さん、よかったら連絡先交換しない。またお話ししようよ」
と、和也はスマホを取り出す。私も、ぜひそうしたかった。
連絡先を交換する。
夏のせいだろう、ドキドキする。手に汗が滲む。
「また連絡するね」
彼はそう言うと、車に乗り込んで帰って行った。
彼は、まめな人で、よく連絡をくれた。
今日は何食べたよ、今日はこれをしたよ。
そんな何事でもない、些細な連絡が嬉しかった。
私がうまく行っていない時は、アドバイスは後回しに、共感をしてくれる。
月に一、二回は一緒にご飯を食べたりもした。
いつしか私は、和也と同じ銘柄の煙草を、吸うようになった。
ここから先は、私の人生は、文字通りとんとん拍子に進んでいく。
コンビニで、和也と出会った晩夏には、私たちは交際を開始した。
とても暑い、二七の夏に、一緒に住むようになった。忙しくも、充実した毎日を過ごしている。
目まぐるしい日々は、あっという間に過ぎる。
次第に、苦しかったあの気持ちは、浄化されていく。
気づけば、また夏が訪れていた。
二八の夏。私と和也は、籍を入れた。
新しい人生のスタートだった。
亡き者の顔も、高く青い空で、微笑んでいるように見えた。
新しい人生のスタート。
和也と私の横を、温かな風が過ぎ去って行った。蝉は祝福の時雨を鳴らす。
あの日、ライターを無くしたのも。あのコンビニで、煙草を吸ったのも。あの夏は、祖父たちや愛犬からの、贈り物なのかもしれない。
巡り合わせ。
そんな空想は、和也に言えずにいた。
夏は、私から奪っていくものが多かった。だが、新しい風を、巡り合わせを。私に幸せを少しずつ、もたらしてくれている。
来年の夏は、どんな夏になるのだろう。
眩し過ぎるほどの、生命のコントラストに、私は目を細めた。
向日葵、酷暑の中で咲け