結びの日
前編
春は、麗らかな光で、僕を照らしている。
僕は、普段着ないスーツの袖に、腕を通した。慣れない手つきで、純白のネクタイを結ぶ。
似合わないな。
鏡を見て、苦笑する。僕は、ぎこちない笑顔を作った。それもまた、似合わなくて、また僕は苦笑になる。
僕は今から、初恋の相手の結婚式へ、向かう。
電車で一時間。景色は、徐々に都心へと変化していく。
低い建物は、高い建物に。
閑静な町は、煌びやかな街に。
目的の駅で、降りる。そこからは、徒歩で街を歩いた。
高いビル群を縫って、歩く。
別に、結婚式への出席が初めてではない。無論、嫌なわけでもない。
同級生。後輩。兄弟。従兄弟。
三〇歳にもなると、周りの人が結婚するのは当たり前だ。もちろん、とても喜ばしい事実だ。
だけど、今回だけは特別だ。
不慣れな革靴の中で、足が震えていた。
いい顔、作れるかな。
僕は、歩いた。
式場は、格式高そうなホテルで、身が引き締まる思いだった。高い天井では、シャンデリアが輝いている。
受付は、あの子の友達だろう。水色のドレスで、愛想の良い笑顔を浮かべている。
横は、新郎の友達だろう。柔らかな所作が、印象的だった。
受付を済ませる。周りを見ると、知らない人ばかりだった。当たり前か。
僕は、ウェルカムドリンクをもらうと、目を閉じた。
あの子と出会ったのは、もう一五年も前。
その夏。蝉が校庭で大合唱を奏でていた。とても暑い、そんな夏。
あの子は、階段下の物置で、ひっそりと泣いていた。
日の長い夕方。帰りを促すチャイムが、学校中に響いていた。
「どうしたの」
僕は、思わず。堪らず。声をかける。
その子は、その声に驚いて、小さな肩を揺らした。
うずくまるその子は、恐る恐る、振り返る。鎖骨あたりの三つ編みは、セーラー服の襟から、はらりと落ちる。
手元には、割れた眼鏡を握りしめている。
「誰」
あの子は、震える唇を開いた。
「僕は佐野。佐野陽太」
小さな声に呼応して、僕はしゃがんで言う。
「一年三組、元倉彩香……です」
あの子は、確かにそう名乗った。
「僕は三年七組」
僕は、明るい声になるように努める。
「で、こんなところで何してるの。もう帰らないと。怖い生活指導の先生、来ちゃうよ」
と、僕。
あの子は俯く。そうして、またポロポロと大粒の涙を溢した。
「眼鏡……壊されちゃった」
「誰かに、やられたの」
その涙を見ながら。
「私が悪いの。鈍臭くて、頭も悪いから」
なるほど。
僕は、学生服のポケットから、黒猫柄のハンカチを差し出す。
「一緒に帰ろう。話を、聞くよ」
あの子は、それを受け取る。それで涙を拭うと、小さく、小さく笑んだ。
帰り道。田んぼの畦道を、二人で歩いた。
あの子は、ポツリ、ポツリと話し始める。
クラスで浮いていること。
物をとられたり、隠されたり、壊されたりしていること。
誰も、助けてくれないこと。
途中、鼻を啜りながら、あの子は話す。
僕はそれをそれを静かに聞いていた。
一通り話し終えたのち。
「話してくれてありがとう」
僕は、あの子の一歩先へ行って、振り返る。
「ごめんね、僕には聞くことしかできない。でも、また話してよ」
あの子は、ぽかんとした顔をしている。でもそれは、一瞬で。
泣き腫らした、真っ赤な目で、
「ありがとう」
と、笑った。
その日から、僕らは階段下に、夕方になると集合していた。
あの子は、本当に勉強が苦手なようで、赤点のテスト用紙を見せては苦笑していた。
だから、時々僕はあの子に勉強を教えていた。
僕は、あの子の話をよく聞いた。
嬉しかったこと、悲しかったこと。
たくさんのことを話した。
生活指導の先生に叱られて帰ることもあった。それでも、僕らは笑い合っていた。
日没は、段々と早くなる。
帰りのチャイムも、三〇分早まった。
あの子の顔に、笑顔が多くなった。それが、僕は嬉しいと思った。
いつまでも、その笑顔を守りたいと思った。
季節は巡る。
あの子との時間も、巡る。
出会った頃は半袖だったセーラー服は、長袖の、黒いセーラー服に衣替えしていた。
今日は、全校生徒が、襟カバーを外していた。黒字に二本ラインの襟が、印象的だった。
桜の蕾が膨らむ今日。卒業式を迎える。僕は、この中学校から卒業する。
校長の、長い演説を聞きながら、僕はぼんやりと考え事をしてしまう。
卒業したら、もうあの子と会えなくなるのか。
階段下で、笑い合うこともできないのか。
胸が締め付けられる。
嫌だな。
僕以外の人と、あの子はこんな話をするのかな。
いつか、僕以外人と一緒にいることがあるのかな。
手に汗をかいた。
嫌だな。
僕は。これは。一体。
ああ。
きっと、あの子を独占したいんだ。
それって。なんていう感情だっけ。
でも、伝えなきゃ。
校長の長すぎる演説が終わる頃。僕は決意を固めた。
後編
僕は、卒業証書を片手に、階段下へ向かう。
そこに、あの子は立っていた。
「佐野先輩、おめでとうございます」
と、花のような笑顔。
「ありがとう」
照れくさい。
「それで、さ」
僕は、真っ直ぐと、前に立つあの子を見た。
「あの」
言葉が出ない。結局、感情の正解はわからなかった。だけど。
きっと、この言葉がぴったりなのだろう。
「僕と、付き合ってくれませんか」
言う。
沈黙。
あの子は、きょとんとした顔で、僕を見つめていた。左右のおさげが、印象的だった。
「僕が、君を守る、から」
どもりながら、言葉にする。正直、卒業式よりも緊張している。
「佐野先輩、ありがとうございます」
と、沈黙を破ったのは、あの子。
「でも」
と、すかさず続ける。
「先輩は優しくて、素敵な人です。だけど、そんな風には見てなくて。私、恋愛とかわからなくて」
俯きがちに、あの子は言う。
「だから、ごめんなさい」
ああ。そうか。
心の中で、緊張が解けていく。
言えてホッとした自分と、落胆した自分がいる。
「先輩」
と、あの子は顔を上げた。
「これからも、先輩と話はしたいです。わがままだけど、このままの関係で、いたいです」
あの子は、セーラー服の胸ポケットから学生手帳を出す。
「先輩の電話番号、教えてください」
あの子の手は、震えていた。あの日と同じ、涙を湛えた目をしている。
思いをぶつけ合う。そんな痛みを感じた。
僕は、学生手帳に電話番号を書いて渡す。
「絶対、電話します」
あの子は、嬉しそうに手帳を握りしめた。
僕らは、互いの進む道を、歩き続けた。
時々、あの子から電話が来る。
その度に、卒業式の日のことを思い出した。
学校でつまずいた時。
家族について悩んだ時。
失恋した時。
僕は、あの子の良き理解者になりたかった。
そんな去年のある日。あの日のように蝉の鳴く、日が長い夕方だった。
「先輩、きいて」
と、あの子からの電話。僕らはとっくに携帯を所持していて、携帯の番号を交換していた。
「どうしたのさ」
僕は、アパートのベランダで、生ぬるい夏の風を感じていた。
「私、結婚するの」
嬉しそうな声色で、あの子。
僕は、もうあの子のことで揺るがされることはないと思っていた。
「よかったね。おめでとう」
僕も嬉しい。はずだった。後輩の結婚がめでたくない先輩は、いないはずだ。
「これも、先輩がたくさん相談に乗ってくれて、励ましてくれたおかげだよ。ありがとう」
と、あの子。
「僕は聞くだけしかできなかったけど」
と、僕。
「それだけで十分だよ。話を聞いてくれて、本当に嬉しかった」
ほんの少しの棘を感じながら、心の底から僕はあの子を祝っていた。
僕は、目を開けた。
親しい先輩だから。
そう言って招待してくれた、結婚式。
チャペルは自然光で優しく光る。ステンドグラスは、美しく輝いていた。
新郎が入場する。話でしか聞いたことのないその人は、タキシードを着こなしていた。すらっと伸びた背筋がら印象に残った。
程なくして、新婦……あの子が父親のエスコートで入場する。
純白の、美しいウェディングドレス。長い髪は、凛と結われている。そこに小さなティアラが、きらりと光った。
息を呑む。目頭が、熱くなった。
この横顔は、もう、あの日階段下で泣いていたあの子ではなかった。
堂々とカーペットを歩く姿を見て、その幸せそうな横顔を見て。
それがなんだか、とても嬉しくて、寂しさもあって。
僕は、一筋の涙を流してしまった。
おめでとう、彩香。
僕は一同に揃って、誓い合う二人を見つめていた。
結びの日