ツキノツバサ ~イチ~
ツキノツバサ ~イチ~
死というものを、感じて。
それは、いわゆる走馬灯というものなのかもしれない。
あるいは、命が終わる直前にだけ現れるという、幻覚なのかもしれない。
けれども今の私にとっては、それがすべて……
ただ。
それだけを。
思って、望んで、願って……
世界中のあらゆるものが私という存在を歓迎し、祝福し、慈しみ、愛してくれていると信じていた頃、私の体は病魔に侵され始めた。あれから数十年という長い月日が過ぎたが、病魔は飽きることなく、私の体を蝕み続けていた。
最初は果敢に戦い続けた。投薬によって引き起こされる、つらく厳しい副作用に涙しながら、体中を駆け巡る激痛にも耐えてきた。
思考能力も怪しくなり、時々精神的な安定を失いながらも、それでもずっと耐え続けてきた。
きっと、いつか、必ず……
快方に向かうはずだからと。そう思い、そう願い、そう祈ってきた。
しかし、病状は一進一退を繰り返すばかりであった。投薬後は少し回復の兆しを見せ、その時には希望というもの、生きるということに対する執着を可能な限りこの体に集めてはいたが、しばらく過ぎるとまた症状が悪化する、そういう繰り返しだった。出口の見えない暗がりに放り込まれているかのような状況は、やがて私という存在の根底をも破壊し尽くしてしまった。
どうして、なぜ、私だけこんなことに……
人としての喜び、幸せの一片さえも手にすることができず、私にできたことは「自己憐憫」という甘い殻の中に閉じこもり、それを他人に見せて憐れんでもらうことだけだった。
憐れみは、言い換えれば他人が私に見せる興味というものだろう。そう、私は自分という存在を誰かに認めてほしかっただけだった。
それでも、その根本が「憐れみ」である以上、そうした状況もいずれは日常の一つのピースに成り果ててしまう。
やがて早い段階で他人は興味を失ってしまう、もしくはそうした状況が当たり前となってしまうのだ。
結局そうした行為は全く意味がなかった。そのことを理解した時、私という存在には、結局のところその程度の価値しかなかったのだと思い知るだけだった。
当然、自死という選択をしたことも一度や二度ではない。
どうして自分の命の在り方を、自分で決めてはならないのか……
どうして生の限界に対するひとつの選択が、誤りであると言い切れるのか……
そうしたことを阻まれた後の処置は、実に単純明快なものだった。薬によって思考を低下させる方法により、私の行動と思考の両方を絶つという方法だ。
それからというもの、無駄に投薬量が増えてしまい、日々朦朧としながらも途切れることのない漠然とした意識の内側で、私はぼんやりと問い続けていた。
なぜなのか、と……
どうしてなのか、と……
これはきっと、人という存在が社会という枠組みでしか生きられず、またその社会という未成熟な構造なしに生存できない存在だからなのだろう。
そのことに気づいたとき、私はすべてに対しての興味を失い、執着を手放すことにした。
それからは一切の事象に対して心を動かさず、感動も苦悩も、喜怒哀楽という人間が持ち得るすべてを棄てようとした。
ただただ、自分の中に閉じこもることを選び、苦痛に耐えながら生きていた。
私は、こうして生きてきた。
悲しみと、虚無感、絶望と諦めを、そっと心の奥底に沈め、浮かんでくるたびにまた沈めての繰り返し……
私は今まで、生きてきた。
病室のベッドの上で、十数年という時間の間、顧みられることのない自分という存在の全てを呪いながら……
今まで、私は生きてきた。
ただ、ただ、生きていただけだ。
いや、死ぬことすら、できなかった。
そんな私にもたった一つだけ、かけがえのないものがあった。
それは、天空に輝く美しい月の姿を見ること。
それは私が一つだけ望んだもの。
それは私が一つだけ信じたもの。
それは私が、たった一つ、愛したもの。
何がきっかけだったのか、今では思い出すこともできない。ただ何気なく見上げた、夜空に煌めく月の姿がとても綺麗だったということだけは、鮮明に覚えている。
蒼白く冷たい輝きを放ちながらも、その奥底に宿る優しさのような温かさを感じ取っていた。
そして彼女を見ている間は、体の痛みが薄れていたように思える。
月は、こんな私を、生存する価値などない私を、一切拒んだりはしなかった。
それでもそれは、私の勝手な勘違い。
それでもそれは、私のただの思い込み。
これもまた一種の自己憐憫であることは分かっていた。
それでも、けれども……
私は彼女に縋ることで、それが私なりにできるただ一つの方法として、自分自身が生きながらえる糧にしていたのだ。
それからの私は、毎晩月を見つめて過ごした。
日々満ち欠けで姿を変える月は、その姿は一つとして同じではなく、いろいろな表情を見せてくれていた。
その姿に共通して感じていたのは、濃紺の夜の帳を纏い、星の煌めきを散りばめた、妖しくも美しい女性の面影。
きっとそれは、私がなりたかった一つの理想なのだろう。無意識下で望み、欲しがり、夢見ながら、決して手にすることができなかった美しさ。
多くのものに愛され、多くのものを照らし出す彼女。ただいつも、いつまでも、そこに在り続け、凛とした姿で天空に佇むその姿に、私は心から惹かれていた。
いつからなのだろうか、私はその日の出来事や自分の思い、些細な妄想のすべてを、彼女に話し続けていた。
彼女が決して返事をしてくれないことは承知していたし、それがどんなに無意味なことなのか、私にも嫌というほど分かっていた。
けれども、そんなことはどうでもよかった。
こんな私という存在が縋れるのは、彼女しかいなかった。
縋るということは、こうしたことなのだろう。
こんな私でも、彼女はいつもそこに、そばに、私の心に寄り添ってくれていた。
私には無いもの、今の私では手にすることができず、それを望むことすら許されなかった、私が欲していたすべてのものを持つ彼女。
私にとっては真逆の存在。
それでいて、こんな私ですら持つことが許された、数少ない「光」というべき存在。彼女は私の中の「闇」を照らし続ける存在。
彼女は私にとっての生きる意味であり、私の唯一の存在理由となっていた。
私はあの月を、見つめていた。
あの虚空に在り続ける彼女を、いつも見つめていた。
いつも、愛していた。
そうすることで私は生きてきた。
今まで、生き続けてきた。
しかしそれも、もう終わろうとしている。
私の命は、今は微かな残り火のようなものだった。
意識の混濁。アラームの音が、ひどく遠くで鳴っている。
駆け込んできた主治医が、私の名を呼び、何かを必死に告げている。その姿は滑稽なほど慌ただしく、どこか現実味を欠いていた。
彼にとっては「生かすこと」が命題なのだろう。だが私にとっては、それはもう、何の意味も持たない。私を縛る社会の枠組みも、医療という名の鎖も、今の私を繋ぎ止めるにはあまりに脆すぎた。
ああ、ついに、やっと……
ようやく、私にも訪れたのだ。死というものが。
歓喜にも似た安堵が、胸を満たす。
痛みは霧散し、光が消える。
かすかに聞こえる、現実の喧騒。けれども、私には水の底から聞こえるような、醜く歪んだものでしかなかった。
私は深い闇へと落ちていった。
とぷんと、音を立てて。
ふと目覚めたような感覚。視界に広がる景色は、いつか訪れたことがあるような懐かしい場所。
降り注ぐ光は優しく暖かく、空気は安らぐ香りに満ちている。見えない薄衣に包まれているかのような心地よさ。
ふと、優しい香りを運ぶ風を感じて目を向けると、そこには一人の女性が佇んでいた。
ほっそりとした佇まいに、輝く月と同じ色の長い髪。そして星が散りばめられたような、濃紺の瞳。
彼女は私を見て、微笑んでいる。
――あいにきたよ(……やっとあえたね……)
響く声。艶やかで凛としたその声は、優しく吹き抜ける一陣の風のように、私の中に入り込んでくる。
――わたしのこと、わかる?(……わかるはずよね?……)
もちろん、彼女が誰なのかはすぐに分かった。
私が望み、愛した彼女。
天に輝く、憧れ続けた月。
儚げでありながらも凛としたその存在は、幻ではなく、圧倒的な存在感を持って私の前に佇んでいた。
――いつもわたしに、はなしかけてくれていたでしょう?(……わたし、ちゃんとぜんぶきいていたのよ……)
そう、私はいつも彼女に呼びかけていた。
もし会えたなら、話がしたかった。
私の話を、想いを、聴いてほしかった。
なぜ私は、こういう人生しか得られなかったのか、と。
なぜ私だけが、こんな目に遭わなければならなかったのか、と。
私は、どうしてこうなってしまっても、存在し続けていたのか、と。
あの時も、今も、彼女は答えを与えてくれないと分かっていた。ただ私は、彼女に話を聴いてほしかったのだ。
私という存在が、確かに生き続けていたということを知ってほしかった。
私という存在を、認めてほしかった。
ぐるぐると、様々な感情が私の中を駆け巡る。
叶いそうな望み……
願っていた祈り……
私の中から何かが溢れ出してくるのを感じてはいたが、その正体もわからず、そして声すら出すことができなかった。
今の私には、彼女を見つめ続けることしかできなかった。
――いつもわたしを、みていてくれたでしょう?(……わたしも、みていたよ……)
そう、私はいつも彼女だけを見ていた。
その飾り気のない、純粋な美しさに惹かれて、孤高の空に輝く気高さに憧れて……
冷たくも優しい彼女の眼差しを求めることで、私は自身の「生」を感じていた。
――いままでも、これからも。わたしをあいしてくれるでしょう?(……私もあいしてるよ……)
彼女の言葉が、私に染み込んでくる。
ああ、私の望みが叶ったのだ。
私が願い、一番欲しかった言葉を、彼女にかけてもらえた。
彼女が私という些細な存在を、知っていてくれたのだ。
まるで、夢のような……
生命体としての私は、すでに死を迎えているのだろう。もしかしたら、これも走馬灯という幻覚なのかもしれない。
けれども、もう恐れる必要はなかった。私は、もう生きなくてよくなったのだ。
不平等で不確かな、「生」という呪縛からの永遠の決別。長く待ち望んだ瞬間が、ようやく訪れた。
思いもよらず、涙が頬を伝う。
とうの昔に枯れ果てたと思っていた涙。嬉しい涙なのか悲しい涙なのかは、私には分からなかった。
ただ、溢れ出す涙とともに、心の奥底に押し込めていた感情の塊が流れ落ちていく気がしていた。
心が、解き放たれていくのを感じながら……
涙は、はらはらとこぼれて、雫となっていた。
――もうだいじょうぶ。こわくないよ(……もう、平気よね……)
彼女は柔らかく暖かな手で私の髪を優しく撫で、細い指で涙を拭う。
その微笑みで私を満たし、心地よい声で私を癒やしながら。
――わたしが、あなたののぞみを、かなえるからね(……それは私の望みでもあるの……)
私が望んだこと……
――わたしは、あなたのねがいを、かなえにきたの(……私の願いも、叶うのよ……)
私が願ったこと……
彼女の美しい顔が、ゆっくりと近づいてくる。
そっと重なる、唇。
柔らかな温もり。
彼女からの贈り物、初めての口づけ。
ああ……
もう、これだけで……
これだけで、私にも生まれてきた意味があったのだと、そう信じたかった。
――これでもう、へいきよね?(……もうこれで、怖いものはないのよ……)
唇が離れ、頬を包んでいた手が離れる。彼女は少し、いたずらっぽく微笑んだ。
漏れる吐息。涙はもう、止まっていた。
やがてほのかな光が彼女を包み込む。次の瞬間、彼女の背には翼が伸びていた。
優しく淡く輝く、二枚の翼。
それは、いつも夜空で見上げていた、あの月の輝きと同じ色。濃紺の帳を照らし、私を導いてくれた光の色。
私の心を照らし続けてくれていた、光。
――さあ、いきましょう(……あなたとわたし、ふたりでひとつよ……)
ゆっくりと差し出されたその手を、私は迷わず握り返した。
ふと背中に重みを感じて触れると、そこには翼があった。彼女と同じ、優しく蒼銀色に輝く、二枚の翼。
――あなたがあいした、わたしのところへ(……あの虚空に輝く、私の所へ……)
それは、私を呪縛から解き放つ、唯一のもの。
――わたしとともに、いきましょう(……これから共に……)
私が手にした、たった一つの、願いの結晶。
――そう、いっしょにいきましょう(……そう、いきましょう……)
自然と笑みがこぼれる。
私にも、まだ笑うことができた。
私にも、喜びという感情が残っていた。
私でも、こんな感情を持っていてもよかったのだ。
彼女に手を引かれ、空に舞い上がる。
淡く輝く蒼銀の翼は音もなく羽ばたき、光を散らして空を昇る。
濃紺の夜空に輝く月、あの天空へ向かって。
『私と一つになって、いつまでも、生きましょう』
目指すは、あの輝く月。
『さあ、一緒に、一つとなって生きていきましょう』
やがて私は、愛した存在と――ひとつへと溶けていった。
私の名はルーディア。
天空に輝く双子月。
その片翼、蒼銀のルーディア。
ツキノツバサ ~イチ~