たぁとあおいの○休み
当初の予定では休日の半日か一日を描いた短い文章、前作の「あるバーのお話」ぐらいの文字数で収めるつもりでしたが、書いている本人もわけがわからないまま長い作品となりました。
そもそも青春や恋愛にまつわるような作品を自分が書くことになるとは思ってもいませんでしたが、思い付いたので書かせて頂きました。
面白くは無いかもしれませんが、読んで頂ければ嬉しいです。
第一話
「たぁ、待っててくれたんだ」
「いや、今週は掃除当番だから。今終わったところだ」
「そうなんだ。帰ろ」
そう言って男子の手を取って引っ張るのは関根あおい、そのあおいに引っ張られている「たぁ」と呼ばれるのは田原爽真だ。
二人は家も近所であり、それこそ生後数か月からの付き合いで幼稚園、小学校、中学校と一緒で高校も自宅から一番近いという理由だけで最寄りの公立高校を選んだ。最寄りと言っても路線バスに揺られて約三十分は必要な距離だ。
正門の近くに「高校前」のバス停があり、既に帰宅部の生徒達でバス停は埋まりつつあった。勿論、徒歩や自転車で通学する生徒の方が多く、あおいや爽真のようにバス通学している生徒は全校で言えば半数にも満たない。
「たぁ、今日、うちにおいで」
いつものようにあおいが爽真を誘う。幼い時からお互いの家を行き来しており、小学校から今に至るまで放課後は必ずどちらかの家で宿題したり、遊んだりしていた。
関根あおいは黒髪ロングで容姿も良く、性格も明るくて誰からも好かれており、男女を問わず人気も高い。
一方の田原爽真はあおいよりも身長はやや高いぐらい、あおいほど人気があるわけでも無く、同級生と程よく付き合っているという感じだ。
あおいが爽真のことを「たぁ」と呼ぶのは幼い頃に「田原」が上手く発音できずに「たぁ」と言っていたことに由来する。当然、今は普通に発音できるのだが、あおいは相変わらず爽真のことを「たぁ」と呼び続けるし、爽真の方もそれが当たり前になっていて気にしたこともなかった。但し、他の人があおいを真似て「たぁ」と自分のことを呼ぶのは嫌がっていた。
高校に入るとあおいの真似をして爽真のことを「たぁ」と呼ぶ女子もいたが、爽真は露骨に嫌な顔をして無視している。
あおいと爽真を知る人達、同じ地域で生まれ育って早ければ幼稚園から一緒、小学校や中学校も同じで自宅から一番近いという理由で同じ高校へ進学した生徒も多い。
二人が通った小学校、中学校は一学年で二クラスしかないような土地であり、同級生どころか先輩、後輩、果ては教師に用務員まで二人が交際しているのを知っていた。それでも爽真は自分からあおいとの関係を語ろうとはしなかった。口が堅いのか、話すのが億劫なのか、生まれ持っての性分なのか、答えは誰にもわからないが、兎に角、爽真はあおいと交際している事を率先して話さない。
あおいが爽真から離れず、二人が交際しているのは一目瞭然なのだが、それでも爽真は語ろうとしなかった。
その代わりなのだろうか、あおいは二人が交際していることを隠すこと無く話しているし、それについては爽真も否定はしないし、あおいを止めることも無かった。
あおいも爽真との関係をなんでもかんでも話すわけではなく、どちらかというと意図的に爽真とべたべたすることで周囲に付き合っていることをアピールしている。
そう言う事もあって同じ中学校から一緒に進学してきた面々は間違っても爽真を「たぁ」とは呼ばないし、あおいの真似をして爽真を「たぁ」と呼ぶ人が有れば止めに入るほどだった。
話を放課後のバス停へ戻そう。
「そう言えば、二人って付き合って何年になるの?」
何かと聴かれる質問だ。今はあおいの同級生が聴いてきた。爽真は毎回答えるのに困ってしまう。幸いにして今は真横にあおいが居る。代わりに答えてくれることを期待している。
爽真の期待通りにあおいが「幼稚園の時からだよ」と屈託の無い笑顔を見せて答えます。
「長いねぇ」
同級生は感心した様子を見せる。
「うん。長いよ」
あおいは応じます。真横にいる爽真は「そんなになるんか」と口にします。
「うん、だって、幼稚園の時に初めて誕生日プレゼント貰ったし、それから、毎年誕生日と、クリスマスとプレゼントくれるでしょ。ホワイトデーも必ず、だし」
「ホワイトデーも、毎年?」
同級生が聞き返してくる。
「うん。毎年チョコを貰うから……」
思わず爽真が答えていた。
幼稚園の時、誕生日にプレゼントを渡すとか、そういう行事があったのでそれ以来、爽真はあおいへ誕生日にプレゼントを渡すようになった。その頃、爽真自身はあおいに対して異性として意識していたのか、それとも近所に住む友達として捉えていたのか、定かでは無いし、覚えてもいない。当初は贈るプレゼントを母親に選んで貰っていたが、いつの間にか自分で選ぶようになっていた。
別の女子が「二人は喧嘩とか、したことあるの?」と質問してくる。
あおいは即座に首を横に振る。
「喧嘩とか、ないんだ」
同級生らは驚いているが、あおいは「無いよ」と答えている。あおいの横にいて話を聞いていた爽真も驚いている。喧嘩したことが「無い」と答えているあおいを見ていると却って周りから嘘だと思われないか、その点が爽真は心配になった。
「だって……たぁ、優しいんだもん」
あおいは一人で惚気ている。横に立って聞いていた爽真は恥ずかしくなったが、あおいを止めることもできず、黙って聞いている以外、何もできなかった。
小学五年か六年か、爽真もはっきり覚えていないが、一度だけあおいを本当に泣かしたことがある。
その日は土曜日か日曜日で小学校は休み、爽真は若干体調がすぐれず、時間を気にすることなくゆっくり寝ているつもりであった。しかし、いつも通りにあおいが朝から田原家を訪ねて来た。
いつから始まった習慣なのか、もはや誰も覚えてはいないが、土曜日や日曜日などの休日になるとあおいは朝八時頃、遅くとも九時には田原家を訪ねてくる。それも玄関からでは無く、何故か毎回台所の横にある勝手口から入ってくる。勿論、勝手口にも鍵があり、内側から施錠されているし、あおいが合鍵を持っているわけでも無い。しかし、例え休日であっても土曜日や日曜日でも田原家では朝七時以降には誰かが起きて朝食を摂っていることをあおいは長年の経験から知っており、玄関のインターホンを鳴らすより、勝手口の戸を叩いた方が早いとわかっている。そして爽真の家族に挨拶をしてから爽真の部屋へと向かう。そして爽真を叩き起こすというのがあおいにとって休日の始まりだった。
いつものように爽真を叩き起こそうとするあおい、抵抗する爽真、無理にベッドから引っ張り出そうとするあおいに対し、爽真はついにキレてしまって枕から何から手に触れた物を投げ付けて部屋から追い出していた。
あおいは自分がどの様にして家へ戻ったか、覚えてもいなかった。兎に角、人生で初めて爽真が怖いと感じた日でもあった。
そして迎えた月曜日の朝、いつも通りの時間に玄関を出たあおいだが、いるはずの爽真が居ない。慌てて田原家の玄関前まで行ってみるが、爽真の姿が見えない。
小学校の方向へと早歩きで進んでみると爽真と快徒の姿が見えた。ホッとしたのも束の間、声を掛けても爽真は振り返りもしない。急いで爽真に追い付いてもう一度声を掛けても無視される。小学校に着くまでの間、幾度か声を掛けたが、爽真に無視され続けた。
「快徒……、どうしよう……」
快徒に助けて貰おうとしたが、快徒も困惑しているだけで返事すらしなかった。そもそも兄があおいを無視すること自体、始めてみる姿だった。
あおいにしても爽真に無視されたことが始めてだったからどの様に対応して良いかわからないし、その日一日を何とも言えない表情で過ごした。
そして迎えた放課後、帰宅しようとしたら既に爽真は正門を出ていた。
あおいは走っていた。
「待ってぇー」
走って追い付いたが、無視され続けた。
翌日も朝から帰宅するまで無視されてしまい、あおいは日頃の元気を失ってしまう。一日中表情は暗いし、同級生たちも心配して声を掛けるし、女子の中には「田原君と喧嘩でもしたの?」と図星を突いてくる子も居たが、あおいは自分に原因があると信じて疑っていないしから首を横に振って否定することしかできなかった。
そして水曜日、小学校まで来たまでは良かったが、爽真から無視され続けていることに耐えられず、朝礼が始まる前にあおいは泣き出してしまった。
同級生の中には何もできずにオロオロする子、とりあえず職員室へ担任を呼びに行く子、隣の教室にいる爽真を呼びに行く子、頑張ってなだめすかす子と分かれた。しかし、そもそもの原因が爽真にあるから呼ばれた爽真は困惑するだけで何もできなかったし、爽真の姿を見たあおいは火に油を注いだように泣き声が大きくなるだけで誰にも止めることができなかった。
担任が教室へ駆け付けて来たが、あおいに話を聞こうに泣くだけで会話が成り立たない。
困り果てた担任は「具合が悪いのだろう」とあおいを保健室へ連れて行く。
保健室の先生も泣き止まないあおいに困ってしまい、「家族に迎えに来て貰いましょう」と担任へ提案、あおいの自宅へ連絡する。あおいの両親は仕事へ出ており、祖母が電話に出て「すぐに迎えに行きます」と返事する。
あおいの祖父が軽トラに乗って迎えに来るが、泣くだけで祖父の問い掛けにもほとんど応じない。
帰宅して祖父母も改めて問い掛けるが、それでも状況は変わらない。この数日、あおいの元気が無く、食事も喉を通っていないのは知っていたが、原因がどこに有るのか、病院へ連れて行って診察して貰った方がよいのか、判断に困っていた。
祖父母はあれこれ言葉をかけてようやくあおいから週末に爽真の機嫌を損ねてしまい、無視され続けて「どうしていいかわからない……」と回答を得る。祖父が「一緒に爽真君に謝ろう」と提案して一旦はあおいを落ち着かせた。
下校時間、祖父は自宅の門前で爽真が通るのを待ち構え、爽真の姿を見付けるや否や有無を言わさず自宅へ連れ込み、客間へ通してお茶菓子などを出して「あおいのことを許して貰えないだろうか」と頭を下げた。
実を言うと爽真にしても引っ込みがつかなくなっていたのであおいの祖父が間に入ってくれたことでホッとしていたが、この事は誰にも言わず、生涯隠しておこうと決めていた。
翌木曜日、ようやく以前のように二人並んで通学したのだが、お互いに相手を意識して会話が出来無いままだった。それは下校時も同じで翌金曜日もそのままだった。
そして迎えた土曜日の朝、今まで通り朝から爽真の部屋へ行きたいと思う一方、また爽真の機嫌を損ねるのではないか、その不安もあって玄関で立ち尽くして動けないあおいが居た。
あおいの両親と祖父母が「出かけるか、部屋へ戻るか」を選ぶよう、あおいに言うのだが、あおいは玄関に立ち尽くしたまま時間だけが過ぎていく。
一方、爽真も土曜日の朝に訪ねてこないあおいが心配になったのか、十一時と言う中途半端な時間になって関根家を訪問した。
爽真が関根家のインターホンを鳴らすと間髪入れずにあおいが玄関の戸を開ける。
お互いその場で固まってしまい、しばらく動けなかったが、ようやくあおいが爽真を自室へと案内したのは数分後のことであった。
この日、爽真は関根家で昼食と夕食をご馳走になっている。
あおいと爽真の関係が元に戻るのにはなお数日が必要であったが、いつの間にか元へと戻っていた。
そしてこれ以降、あおいは休日の朝、爽真を叩き起こすことは無くなった。
ちなみに翌日曜日の朝、あおいはいつもどおりに爽真の部屋を訪ね、寝ている爽真を起こさぬよう、本棚から漫画や小説を取り出し、部屋の隅にちょこんと座って爽真が起きるまで物音一つ立てずに過ごしていた。
あの日、たまたま爽真の具合が悪かったと言うことにあおいは気が付いていなかったし、爽真もそれをあおいには何故か伝えようとはしなかった。
それから二か月ほど経ったある土曜日、いつものように八時過ぎには爽真の部屋に入ったあおい、ぐっすり眠っている爽真の寝顔を見てふと思った。
「ベッドへ潜り込んでも、気付かれないのでは?」
また爽真の機嫌を損ねるかもしれない。そう思う一方で数年ぶりに爽真と並んで寝てみたいという謎の誘惑が湧いてきて抑えられなかった。
思えば幼稚園でのお昼寝の時間、必ずあおいと爽真は並んで寝ていたし、小学校に入ってからも低学年の頃は夏休みとか、なにかと一緒にお昼寝をしていたことを思い出す。
猫のように音を立てず、とてもゆっくり、ゆっくりと爽真のベッドへ上がり、爽真の横に寝てみる。
幸いにして爽真はベッドの右半分へ体を寄せて寝ていた。それであおいはベッドの左半分へ寝転んでみる。そして身体を小さくしながら爽真の寝顔を見る。
「爽真、気持ちよさそうに寝てる」
それだけであおいは嬉しくなったのだが、ベッドの温度が心地よくてそのまま目を閉じてしまった。
どれぐらいの時間が経っただろうか。
爽真がようやく目を覚ます。
目の前にあおいの顔があった。驚いて声が出そうになったが、無意識に出そうになった声を飲み込んでいた。
「あおい……」
声を掛けてみたが、あおいは小さな寝息を立てて眠っていた。しかも楽しい夢で見ているのか、にんまりとした笑顔である。
仕方が無いからあおいを起こさず、爽真は一階にあるトイレへと向かう。両親も快徒も外出中のようで家の中から物音が一切聞こえない。
喉を潤したので部屋へ戻ってもう一回寝ようとか、そう思っていたらあおいがベッドの上でちょこんと座っていた。
「寝てた?」
爽真はわざとらしく聞いてみる。それに対してあおいは首を横に振るが、明らかに笑いをかみ殺していた。
これ以降、爽真のベッドへあおいが潜り込むこと、しばしばとなった。
さて、バスを降りた二人、まっすぐあおいの家へ向かう。
爽真の自宅は平成の初期に建てられた中古住宅をリフォームしたものであり、両親が結婚して新居を探していたときに偶然見付けて購入、少しだけリフォームして住むようになった。
一方、あおいの家は明治末から大正の始め頃に建てられた木造家屋であり、結構どっしりとした造りで部屋数もある。
関根家は田畑も持っており、自宅で使用する米と野菜ぐらいは育てていて野菜が余れば田原家へもお裾分けされる。
あおいは両親、祖父母との三世代同居である。
祖父母は毎日田畑の手入れなどで一日を過ごしているが、祖父は議員の経験もあるし、今も地域のまとめ役として何かと忙しい日々を送っている。
いつものように爽真は客間へ通され、あおいの祖母からお茶を出されて縁側に腰掛けてのんびりお茶を飲んでいる。
自室で着替えを終えたあおいは音も立てずに近付いてきて爽真の横へ腰掛けてお煎餅を頬張り始める。
「それにしても……」
登下校のバスは片道三十分、そのバスの中でも話しているだろうし、休み時間も話しているはずだ。それでもなお話し続けている二人を見て祖母は話題が尽きない物だと感心していた。
二人が宿題やらなんやらを始めたのは帰宅して約一時間後のことだった。
多分、二人が話している内容は同じ事の繰り返しなのかも知れません、が……。
第二話
中学校へ入学してすぐの健康診断で爽真の視力がまた落ちていた。
「なんか、合ってないような気はしてたんだよ」
帰り道、爽真は眼鏡を買い換えるか、少し悩んでいると話す。
「合わない眼鏡だと、さらに悪くなるって聞いたよ。早めに買い換えようよ」
あおいは提案する。
「うん。土曜日、昼からでも行くよ」
爽真の言葉を聞いて既にあおいは一緒に行く気満々だった。この時、爽真は「あおい、付いてくるんだろうなぁ」ぐらいにしか思っていない。
そして迎えた土曜日、八時過ぎに田原家のインターホンが鳴る。爽真の両親も状況から考えてあおいが来たと理解はしていた。
普段は部屋着で訪ねてくるあおいが余所行きの服を身にまとっている。爽真の外出に付いてくる気満々だと両親は改めて思った。
しかし、この時間、爽真はまだ寝ているし、いつものようにあおいは爽真の部屋に入り、爽真が目を覚ますのを気長に待つこととなりそうだ。そう思っていたらベッドサイドに置かれていた時計がアラーム音を鳴らす。
「珍しい」
爽真が休日にアラームをセットするなんて今まで片手で数えられるぐらいしかないだろう。そして今、爽真はアラーム音を消そうとしているが、爽真よりも先にあおいが止めていた。
爽真は自分が止めたわけでもないのにアラーム音が止まったから気になって周囲を見回す。当然のようにあおいが立っている。しばらくボーッとしていた爽真が「今日、午後からって言わなかったか?」と言えば
「アラーム止めに来たの」とあおいは冗談で返す。
眠そうな表情で爽真はベッドを出て「朝飯食ったら、行くか?」と話ながら部屋を出て行こうとするが、あおいは爽真にピッタリ引っ付いて一階へ向かう。
居間では爽真の父親がくつろいでいる。
「飯食ったら、眼鏡屋行ってくるよ」
爽真の言葉を聞いて「車、だそうか、暇だし」と父親が提案してくる。爽真は路線バスで行くつもりだったが、「どうする?」とあおいへ投げ掛けると「うんうん」とあおいは頷いている。当然、爽真の父親も葵の反応を見ているから「どっこいしょ」と腰を上げる。
爽真は台所に置いてあった食パンを一枚咥えると自室へ戻り、着替えて一階へ降りると父親とあおいが台所でコーヒーを楽しんでいたが、その会話を聞いていると完全に嫁と舅のそれであった。
駅前のショッピングセンターまで送って貰い、爽真とあおいのコンビはショッピングセンター内にある眼鏡店へ直行するが、父親は「用事がある」と言いだして「終わったら、電話してくれ」と言い残して帰宅してしまった。
「忙しいんだったら、気ぃ使わなくても良いのに、なぁ……」
「でも、バス代は浮いたよ」
「それも、そうか。あとでフードコートでも行くか」
あおいは頷く。
小学一年の時から眼鏡を使っている爽真、初めての眼鏡を購入して以来、同じ眼鏡店を利用しているから店員さんも爽真を常連さんとして扱ってくれている。
眼鏡店で視力を今一度検査した結果、新しい眼鏡を購入することと決まった。
そうは言っても爽真の視力に合わせたレンズを造るところから始まるわけで新しい眼鏡を受け取れるのは後日と言うことになる。
爽真が店員と眼鏡に関してあれこれ打ち合わせをしている間、あおいは爽真の横にいて一緒に話を聞いていた。
二人が二十歳ぐらいだったら若い夫婦とみられたかもしれないが、残念ながらまだ中学校へ入学したばかりの若いカップルだ。
新しい眼鏡の受け取り予定日も決まり、あおいと爽真は眼鏡店を出て「フードコート、行くか」と爽真が提案するのであおいは頷いて引っ付いていくが、丁度昼時と言うこともあってフードコートには既に列ができていた。
「どうする?」
爽真の問いに「コンビニ?」とあおいは提案してみる。駅前だからコンビニは幾つかあるし、菓子パンか何かを買って空腹を満たすことはできるし、三時のおやつで改めてボリュームのある物を食べれば済むだろう。
「そう言えば……」
鉄道で一駅先に新しいラーメン屋さんが開店していると話すが、爽真は「この時間だから、混んでるだろうなぁ」と答えて「あとで、行ってみるか?」と付け加える。
「うん」
あおいもまだ行ったことが無かったから今日のデートコースに加えることができて喜んでいる。
コンビニでおにぎり、サンドウィッチ、飲み物を買って駐車場の片隅にあるベンチへ腰掛けて食べることとなった。
「ねぇ、たぁ」
「ん?」
「そう言えばなんだけど、今の眼鏡はどうするの?捨てちゃうの?」
「気に入ってるから、新しい眼鏡が来たら、これも同じ度に換えてもらおうと、思ってるんだ。予備がないと不安だし」
「そうなんだ……」
あおいは何か言いたいが、それを抑えているようだ。爽真は「今更隠し事をするような間柄でもあるまいし……」と思いながらあおいの顔を見る。
「眼鏡、捨てるんなら、貰おうかなって、思ったの」
爽真、キョトンとしている。あおいの視力が落ちたとか、その様な話は聞いていないし、捨てる眼鏡を欲しいとか言い出す理由が思い当たらなかった。
「あ……あのね、伊達眼鏡、欲しいな、て……」
少しだけ照れているあおいを見て「なんで?」と爽真は思っていると「眼鏡、欲しくなった……」とポツリと言う。
眼鏡店で店員と爽真が話しているのを横に座って聞いていたら「眼鏡、欲しいなぁ」と思った。単純に爽真が不要になった眼鏡を処分するならば引き取って伊達眼鏡としてあおいは自分のファッションアイテムに加えようと考えていた。
「でも、度が入っているから、レンズ、交換しないと目が悪くなるよ」
「そうだね」
「探せば、伊達眼鏡って売ってないか、服の量販店とか」
爽真は自身が眼鏡必須の身であるからか、伊達眼鏡が欲しいというあおいの気持ちは理解できなかった。
「今から伊達眼鏡、探しに行こうか?時間はあるし」
眼鏡店へ行くという目的を果たした以上、ここからの時間は自由である。しかし、あおいは首を横に振る。
あおいは爽真が使い終えた眼鏡を自身の伊達眼鏡として再利用したかったのである。
この後、一駅移動して最近開店したとか言うラーメン屋さんへ行き、幸いにして並ぶことなく美味しいラーメンを味わって満足したから帰ることとした。
爽真は父親をショッピングセンターまで迎えに来て貰おうとしたが、あおいが「バスで帰ろうよ」と言うからのんびりと路線バスに揺られて帰路についた。
バスを降りてから「お茶でも飲もうよ」とあおいが爽真を自宅へ招こうとするが、逆に爽真が「気になることあるし」と言ってあおいを連れて自宅へ帰る。
「早いなぁ」
車庫で洗車していた爽真の父親がちょっと驚いていた。
洗車中に「迎えに来て」と言われた車体半分だけピカピカな状態でも迎えに行ったのでしょうか?
爽真は自分の部屋へ入ると机の引き出しやクローゼットの奥などへ手を突っ込んで何かを探している。
「あった、あった」
爽真、目当ての物を見付けられて嬉しそうだが、あおいは爽真が何を見付けたのか、まだわからない。
爽真が手に持っていたのは古ぼけた眼鏡ケース、中を開けると眼鏡が一つ入っていた。
爽真の記憶だと小学四年生か五年生ぐらいまで使っていた眼鏡だ。ケースから眼鏡を取り出してあおいにかけてみる。爽真がぼやけて見える。即、眼鏡を外しながら「これ、度の入ってないレンズに換えて貰ったら、まだまだ使えると思うよ」と眼鏡をケースに入れながら爽真は話す。
こうして爽真の古い眼鏡はあおいの伊達眼鏡として再利用されることとなった。
後日、爽真と一緒に眼鏡店を再訪したあおいはレンズの交換を依頼し、レンズの交換が終わって眼鏡が手元へ戻ってきた時、あおいが珍しく子供みたいにはしゃいでいた。そしてこの伊達眼鏡、学校へ行く時に使うことはなかったが、オフの時、特に爽真と会う時は忘れること無く身に付けていた。
そして大学へ進学するとこの伊達眼鏡、あおいにとっては名実共にファッションアイテムとして活躍することになる。大学ならば服装も自由だし、受講に際して伊達眼鏡禁止という校則もない。
しかし、伊達眼鏡を使い始めの頃は眼鏡をかけたまま顔を洗ったり、眼鏡を置いた場所を忘れて探し回ったが、実は目の前にあったりと結構ドジな一面をみせたあおいでもあった。
それからまた数年を経て爽真が眼鏡を買い換える時、またもあおいは爽真が処分しようとした眼鏡を譲ってもらい、度の入ってないレンズへ交換して自分の伊達眼鏡として使うようになった。
この時、眼鏡店の店員から「視力が落ちたら、是非、当店で眼鏡を購入して下さい」と言われたあおいだったが、幸いにしてあおいの視力はなかなか落ちるはなかった。
お盆。
あおいと爽真が住む地域では小学校の校庭を利用した盆踊りが毎年開催される。あおいの祖父母に言わせると随分と昔から行われており、百年ぐらいの歴史があるらしい。
残念ながら花火が打ち上がるような派手な事は無いが、校庭の中央に櫓が組まれ、大きな和太鼓が櫓に載せられて日が暮れると盆踊りが始まる。
この小学校に通学する児童とその保護者、勤務する教職員、近所の人達がこの盆踊りに集まってくる。
専門的な露天商などはほぼ皆無でP.T.A.の皆さんが焼きそばやかき氷、ジュースを販売する。また近所の商店会が協力して屋台を出している。精肉店が焼き鳥や唐揚げの屋台を出し、鮮魚店がいかの姿焼きと言ったところだろうか。
また近所のスーパーマーケットやコンビニエンスストアなども屋台を設置してお菓子や飲み物を売ったりしている。
スピーカーからはいわゆる各種の「音頭」が流れてくるが、全て昭和の頃の曲ばかりで最近の流行りは全く入っていない。しかし、低学年や幼稚園児は櫓の周りを走り回っているし、大人もまじめに踊ろうと言う人が少ないようだ。
もう一つ、あおいと爽真が住んで居る地域の自治会が主催する夏祭りがある。こちらは公民館と隣接する公園が会場となり、必ず小学校の盆踊りより一日か二日は前後して開催される。
こちらの夏祭りは櫓を組むこともないし、小さな音量で音頭が流れることはあっても踊る人はほぼ皆無だ。
自治会婦人部の皆さんはおにぎりを握ったり、手作りのお菓子を焼いたり、朝から準備で大忙しである。
一方、男性の皆さんも朝から準備に忙しい。但し、多くの人が朝から缶ビール片手に持っており、準備が終わった頃には酔いが回って眠っている人もいたりする。陽が沈む前から公園ではバーベキューが始まる。
小学校での盆踊りも公民館での夏祭りも進学や就職で地元を離れた人達を迎えて旧交を温めるのが主な目的となっており、盆踊りや夏祭りは皆が楽しむための名目と化している。
毎年盆踊りと夏祭りの日程が続くからあおいは浴衣を二枚持っている。年によっては夏祭りの翌日が盆踊りとか、当たり前のようになっているし、浴衣が一枚だけだと洗濯が間に合わないとの理由を付けて最低二枚は揃えて貰っている。本当は毎年買い換えたいというのがあおいの本音だが、浴衣は簡単には傷まないから買い換えには至らない。
あおいにしてみれば毎夏、爽真から「似合っている」や「かわいい」と言って貰えれば充分、例えその浴衣が一昨年に購入した物でも構わなかったし、何よりも大事なのは爽真がエスコートしてくれることだった。
小学六年生の時だったか、サイズが合わなくなったので一枚だけ浴衣を買い換えることがあった。それまでは母親と二人で買いに行っていたのだが、あおいはふと思った。
「爽真に選んで貰ったら、どうなるのだろう?」
そう思って爽真を連れて行くことにした。しかし、爽真もこういう時は真面目に選ぶ人でショッピングセンター内に設けられた浴衣売り場で一つ一つ丁寧に見て選ぼうとする。あおいに似合いそうな浴衣を数枚選び、その中からさらに絞り込むのに一時間以上を要した。あおいは爽真に似合う浴衣を探し始めるして結局、その日には決めることができず、翌日に「もう一回朝から選びに行こう」とか、二人で勝手に決めていて言うこととなる。あおいの母親はうんざりしてしまい、帰宅してから二度とこの二人と買い物には行かないと宣言している。
仕方が無いから翌日は祖母が同行することになり、二人は一枚ずつ新しい浴衣を購入している。
しかし、実は爽真、浴衣は動きづらくて本当は得意ではない。それでもあおいが選んでくれたこともあって年に一回は着る様にしていたが、あおいと出かける時はポロシャツや開襟シャツで出かけることの方が多いし、それであおいが不満を言うことも無い。
あおいは浴衣を着る機会が年に二回しかないのはおかしい、お祭りが無くても着るべきと思って夏休みの間は極力着る様にしている。そうすれば浴衣も少しずつ傷んでいき、買い換えることができると考えていたのだが、浴衣の生地は案外丈夫で中々買い換えるには至らなかった。
毎年、盆踊りと夏祭りが終わった後、爽真は必ずあおいの自宅へ招かれて線香花火やロケット花火を楽しんだり、遅い時間まであおいと遊んだりした後、そのまま関根家で泊まっていくのが恒例となっていた。
快徒は駅前で開催される夏祭りへ行くのが夏の楽しみとなっているし、夏祭りと言えば快徒の場合、そちらを指す。
同級生や友人知人を誘って路線バスに乗って出かけるのだが、駅前の夏祭りが開催されている三日間、駅前通りは昼から渋滞となるし、人も溢れていて歩くのも一苦労だ。それでも専門の露店も多数出店されるし、夏祭りに合わせて幾つかのイベントも行われる。それらを夜遅くまで見て歩くのが快徒らの楽しみとなっている。
一方、兄とあおいは一度か二度、駅前の夏祭りへ行ったようだが、人混みに辟易したのか、「二度と行かない」と言っている。兄の性格を考えたら人を押しのけてまで前へ進むような人ではない。
そして兄が行かないからあおいも行こうとしない。 「たまには兄のことを忘れて、一人か、他の友達と遊びに行けばいいのに」
快徒はそう思う時がある。
二人は中学、高校と変わらず帰宅部だが、高校に入学してから人付き合いが増えたのか、時々帰宅が遅い時がある。同級生らと駅前にあるファストフード店やショッピングセンターのフードコートへ行き、軽食を摂りながら世間話に花を咲かせたり、カラオケ店に行って熱唱していたりするらしい。こういう時も必ず二人一組で同級生らの誘いに応じている。同級生らも二人が交際していると知っているから爽真のみ、あおいのみという誘い方はしないようだ。
それでも時には女子のみ、男子のみで行動した良いのではないか、そう思う快徒だった。
第三話
快徒はあおいが苦手である。
好き嫌いではなく苦手なのだ。
なにせ朝から晩まで兄に引っ付いて離れない。休日ともなれば朝から訪ねて来て兄の部屋に入り浸っている。
快徒が物心ついた時には既にあおいは居て当たり前の存在だったし、幼い頃には実の姉だと信じていた時期もあった。そして快徒が気が付いた時には既に兄とあおいは常に一緒だった。
快徒は持って生まれた性分なのか、兎に角身体を動かすのが好きだった。快徒がいる時は兄とあおいは一緒に身体を動かして遊んでくれるのだが、快徒がいないと二人で本を読んだり、絵を描いたりして時間を過ごしている。特に幼い時は二人っきりでおままごともするなど、大人しい遊びばかりである。
小学生の低学年あたりになると近所の子どもたちで公園に集まって野球やサッカーの真似事をしたりして遊ぶのだが、そういう時、兄はボールが眼鏡に当たるのが嫌なのだろう、本当に人数あわせでその場に居ると言った感じでほとんど活躍しない。一方であおいは野球ならばヒットを打ってくれるし、サッカーならばシュートを決めてくれる。だから快徒は実はあおいは身体を動かすのが好きで「もしかするとあおいが兄に合わしているのでは?」と思ったりもする。
いつから始まったのか快徒にはわからないのだが、あおいはいつも兄にピッタリ引っ付いて離れない。幼い頃は兄と一緒に関根家へ遊びに行ったり、泊めて貰ったりもしていたし、あおいが田原家へ遊びに来てそのまま泊まることも頻繁だった。しかし、子供心にあおいの目的が兄で有ることに気が付いたから徐々に二人とは遊ばなくなっていった。入れ替わるように同級生らと遊ぶようになったし、遊び相手に不自由することは無かった。一緒に遊ばなくなった分、兄との会話は減ったが、仲が悪くなったわけでは無いし、むしろ程よい距離が保てているような気がしていた。
快徒が関根家へ行っても粗略に扱われているわけではないが、徐々に関根家を訪ねる事自体が減っていった。
ある日、母親に頼まれた快徒は関根家へ兄を呼びに行ったのだが、兄は関根家の客間であおいの膝枕で心地良さそうに眠っていた。そして膝を貸しているあおいから無言の圧を受けた快徒は黙って帰宅して母親に状態を伝えた。
「はぁ……」
母親はため息をついただけでそれ以上、何も言わなかった。
快徒は一度だけ「あおいをどう思っているのか」と両親に尋ねたことがある。
父親は何一つ気にしていなかったが、母親にはいくつか気になっていることがあった。
一つには兎に角休日になると朝から訪ねてくるし、それもほとんど休むこと無く訪ねてくる。たまには一日を一人で過ごすことが出来無いのか、本当にそう思うし、実はうっとうしいと思う時もある。勿論、それをあおい本人には言えないし、あおいの家族に言うことも控えている。
今のあおいを見ているとまるで爽真狂、もしくは爽真教の熱狂的な信者にみえる。
休日の朝、爽真が遅くまで寝ていることはあおいも充分知っているはずなのだが、それでも休日の朝も七時半や八時と言った時間には訪ねてくる。
あおいは顔を合わせると毎回丁寧に挨拶するが、どこか芝居染みて見えてしまう時もある。
休日に訪ねてくる時は部屋着で冬はスウェット、もしくはパジャマで「寒い、寒い」と言いながら勝手口の戸を叩いてくる。そして爽真の部屋へと入っていって暖まっているし、時には爽真のベッドへ潜り込んで当然のように寝ている。
夏になるとキャミソールにミニスカという格好で訪ねてくる。いくら家が近い、家族同士も仲が良いとは言え、その服装は無いのではないか、その様に母は快徒へ語った。
あおいの両親も自分の娘が田原家へ迷惑をかけていることは重々承知しているのか、顔を見るたびに「娘が迷惑をかけまして……」と謝罪してくるし、何かと理由をつけては自宅の畑で採れた野菜などをお裾分けしてくれる。
快徒は兄にもあおいをどう見ているのか、尋ねたこともあるが、兄はまともに答えようとはしなかった。
ある時、快徒は同級生らにあおいの事を話すと「関根さんが婿養子として迎えたいのでは無いか、それが目的で離れないのでは無いか」と推理する。
「さすがにそれは無いだろう」
快徒は答えたが、「でも、快徒がいるから田原家は、快徒が継げば良いわけで、先輩が関根さんと結婚して関根さんの家を継いでも、快徒は困らんだろう」と同級生は言う。
「確かに……」
快徒も話を聞いていると妙に納得してしまう。あおいは一人っ子だし、兄を婿養子に迎える可能性もあるだろう。
「毎日一緒に居ることで、関根さんと一緒に居て当たり前、婿養子になって当たり前、そういうふうに思うように仕向けられている、一種の洗脳みたいな感じかなぁ」
同級生、結構怖いことを言うと快徒は思った。
お盆やお正月に関根家へ行くと関根家の親戚縁者が結構な人数集まっているし、後継者に困っているようとは思えない。今の時代、相続が男子に限られるとか、そう言う条件が付くとは思えないし、兄が婿養子に迎えられる可能性も「無い」とは言い切れない。しかし、大した理由では無く、漠然とした気持ちだけなのだが、快徒は兄に婿養子にはならず、田原爽真で居て欲しいと思っている。そうは言っても快徒はまだ十代、両親から相続する「重み」と言う物は漠然としか理解していないし、兄に全て任せたいと思っている。
あおいの成績は兄とほぼ同じか、兄より少し上かもしれない。交通の便が良ければ成績を重視する私立高校への進学も有り得たかもしれない。
それは兄も同じだが、二人とも最初から最寄りの公立高校への進学しか考えていなかったようだ。他の公立高校へ進学しようと思えば朝早いバスに乗ることになるし、帰宅する時間も遅くなるし、兄の性格はそう言う生活は嫌うことも知っている。
快徒らの地元では中学を卒業して寮のある高校へ進学したり、下宿やアパートを利用して進学する人も少なからず居る。大抵は成績が優秀であったり、例えば野球が好きなら遠方でも甲子園常連校へ進学するとか、そういう感じだ。
快徒も中学では部活動を頑張ったし、市内の練習試合などでは好成績を残したが、それでも県大会になると上位入賞にも届かなかいし、結局は兄やあおいと同じ近所の公立高校へと進学することとなった。
「仮に兄が男子高へ進学したらあおいはどうするのだろう?」
快徒は考えてみたことがある。兄が受験票を出す前に頑張って制止して一緒に通える共学校を勧めるだろう。それが正攻法だろう。
あおいが男装して男子高へ入学しようとする、そう言う一コマを快徒は想像していた。
髪を短くすれば案外、似合うかもしれない。
快徒なりに同級生や先輩、後輩の女子を見てきたつもりだが、そう言う女子達と比べてもあおいの容姿は平凡にしか見えない。快徒の中ではあおいに対して「姉フィルター」のような物がかかっていて公平とは言えないし、何よりもその挙動に理解できていないのだから容姿の善し悪し以前の問題でもあった。
ちなみに快徒があおいから頼られたのは一回だけ、小学生の時にあおいが爽真の機嫌を損ねて三日ぐらい無視された時だろうか。
あおいから「快徒、なんとかして……」とか何とか、言われたのは覚えている。しかし、快徒にしても兄から無視されたことはないし、兄弟喧嘩になっても大体はその日の内に仲直りしてきた。それゆえに今この状況で兄へどの様に声を掛けて良いのか、さっぱりわからなかった。
快徒が後で聞いた話に寄ればあおいの祖父母が兄に対して頭を下げたとのことだった。
あおいからみれば快徒は生まれた時から知っているし、名実共に弟のようにみてきた。
今は快徒から距離を置かれていることもなんとなく把握しているし、爽真の母親からもあまり好かれていないというのも肌で感じてはいるが、無理に機嫌をとる気もなかった。
その日、朝早くから田原家のインターホンが鳴った。丁度、部活のために出かける準備をしていた快徒が玄関の戸を開ける。そこには余所行きの服を身にまとったあおいが立っていた。
「おはよう、快徒」
快徒に挨拶をしてから二階へ通じる階段を見つめる。
「まだ、寝てるよ」
快徒はあおいに爽真の状態を伝える。
「おはようございます」
姿は見えないが、廊下の奥、台所にいるであろう爽真の両親へ挨拶しつつ、もう一度快徒を見る。
「おはよう」
関根家の両親が挨拶を返してくれる。
「遅くまで起きてたみたいだよ」
起こさない方が良いという快徒の注意だ。
トントントン。
あおいはいつものように階段を昇り、爽真の部屋へと入っていく。爽真の学習机には教科書とノートが散乱している。どうやら夜遅くまで宿題を片付けていたが、途中で嫌気がさしたのか、睡魔に負けたのか、ベッドに入ってしまったようだ。こういう時、無理に叩き起こすとさすがの爽真でもブチ切れるというか、あおいが謝罪を繰り返しても許してはくれないだろう。それを百も承知の上であおいは寝ている爽真の耳元へ唇を寄せて「おはよう、たぁ」と囁いてみる。当然、爽真は夢の中、あおいの囁きは届いていないようだ。
爽真の寝顔を見て時間を過ごすのも良いが、それで爽真が起きるまで待つのはちょっと退屈だ。
「さて、どうしよう」
いつものように爽真のベッドへ潜り込み、爽真が起こしてくれるまで一緒に寝るというのも悪くないが、生憎今日は余所行きの服を着ている。服を脱いで下着だけでベッドへ潜り込むこともできるし、仮にそれを実行したら爽真は呆れて何も言わないか、軽く注意ぐらいで済むだろう。しかし、今日は休日で爽真の父親が在宅している。さすがにあおいが下着姿で爽真のベッドに潜り込んでいたら怒るだろうし、それが正常な大人の反応だろう。
あおいが次の行動を考えていると爽真の母親が二階へと上がってきて爽真の部屋を覗き、「起こそうか」と声を掛けてくれる。それに対してあおいは無言で首を横に振る。
結局、あおいは一度帰宅して自分も宿題を爽真の部屋へと持ち込むことにした。遠回りして近所の商店で飲み物やら菓子パン、ポテチなどなど買って爽真の部屋へと戻り、爽真の学習机で宿題を始める。爽真は寝返りを打つことも無く、よく眠っている。
小学生の時だったか、寝ている爽真を無理に起こして機嫌を損ねられて数日、まともに口をきいて貰えなかったことがあった。さすがに悲しくなったあおいは両親に頼み込んで爽真にわびて貰ったが、それでもなお数日は自分から爽真へ声を掛けることが怖かったあおいだった。
物音が聞こえて振り返る。爽真が目を覚ましたようだが、まだあおいがいることには気付いていないようだ。
「たぁ……」
囁くように声を掛けてみる。爽真の頭が声がした方向へと動く。「居たのか」と言いたげな表情、「おはよう」と声を掛けながら眼鏡を手渡すあおい、黙って眼鏡を受け取りながらあおいが余所行きの服をまとっていることに「どうした?」と尋ねたい爽真、「駅の方に行きたいなって、思ってたんだけど……」とばつが悪そうな表情で答える。
「昨日、言ってたか?」
受け取った眼鏡をかけつつ問い掛ける爽真、「思い付いたの、今朝……」ともう一回ばつが悪そうに答えるあおい、爽真の視線が机の上に置かれているペットボトルへ向いていることに気付き、「寝起きで喉渇いているんだろうなぁ」と思って既にあおいが半分ほど飲んでいるが、構わず手渡すと爽真も気にせず一気に飲み干してしまう。足りないと思ってあおいはトートバッグからもう一本同じ飲み物を出すが、爽真は興味を示さない。菓子パンを出してみる。受け取って袋を開けて食べ始めるが、口をもぐもぐさせながら「今から行くか?」と尋ねてくる。
あおいの表情がぱぁっと明るくなる。
「観たい映画あるし」
駅前のショッピングセンターにあるささやかな映画館、あおいは早速スマホで上映時間を調べる。爽真が観たいと思う映画の上映時間を見付けてスマホの画面を爽真に見せる。
「今、何時だ?」
爽真、現在時刻を把握していなかった。急いで爽真のスマホを手渡す。
「もう、こんな時間かぁ……」
「何時に寝たの?」
「三時か、四時か……」
爽真自身、はっきり覚えていないようだ。
爽真が部屋を出ていくのであおいは後を追う。台所へ行くと爽真の父親がカップ麺を食べていた。
「……おはよう」
爽真、若干呆れたような表情で父親を見ている。
「起きたか、あおいちゃん、ずっと待ってたぞ」
あおいは爽真の後ろで照れ臭そうに笑う。
「映画、観てくるよ」
「今からか?」
「帰り、遅くなるかも」
「あんまり遅くなるなよ」
「うん」
そう言うと爽真は着替えるために一旦部屋へ戻り、その間あおいは爽真の父親とコーヒーを飲んで世間話を楽しんでいた。
着替えを終えた爽真が台所へ行くと二人でコーヒーを飲んでいるのは良いが、会話の内容は誰がどう聞いても嫁と舅のそれだった。
玄関を出てからショルダーバッグの中身を確認する爽真、「あ、財布……」とショルダーバッグの中をまさぐっていると「テテ~ン」と何故かあおいのトートバッグから何故か爽真の財布が出てくる。次に「スマホ……」と爽真が言えば「テテ~ン」とトートバッグからスマホが出てくる。いつもの悪戯で爽真も慣れているから何も言わないが、それでもいつの間に財布とスマホがトートバッグへ入れられているのか、それは謎だった。
今、あおいが使っているトートバッグは爽真がクリスマスのプレゼントで贈ったものだ。あおいには少し大きいと思うほどの大容量なトートバッグだが、当人は気に入ったようで公私を問わず、どこへ行くにも持ち歩いている。
あおいは通学にボストンバッグを用いているが、少しでも荷物が増えるとトートバッグの出番となる。例えば体育の授業があれば体操服をトートバッグに入れて持ち運ぶといった感じだ。御陰で僅か数年でトートバッグは小さなすり切れが幾つか目に入るようになった。
爽真は「近い内に、新しいトートバッグを買って、贈ろう」と思った。
バス停に行くと数人が待っている。近所の人が居たので挨拶したりしているうちにバスが来る。
映画の上映時間まで時間に余裕があったからショッピングセンターの中でウィンドウショッピングを楽しんだり、フードコートで軽食を摂ったりして時間を潰した。
それにしても他に行くところが無いのか、中学や高校の同級生や先輩と幾度となく出会ってしまう。あおいと爽真が付き合っていることは誰もが知っていることだから隠すことも無いのだが、意外な二人が付き合っているのを見付けてしまうことも度々だったりする。
爽真が観たい映画の内容はいわゆる男子が好きな映画であり、あおいにしてみればほぼほぼ興味が無い。Lサイズのポップコーンを爽真とシェアしてとりあえず鑑賞しているが、内容は入ってこない。あおいが観たい映画の時は爽真が似たような感じでとりあえずポップコーンを頬張りながら一緒に鑑賞しているし、ほぼほぼ内容は頭に入っていない。
映画が終わると遅い時間になっている。路線バスはまだ走っているが、本数は減る時間帯であり、駅前のバス停へ行っても次のバスまで時間がある。それを心配して爽真の父親が愛車で迎えに来てくれた。
帰りの車中、爽真は映画の感想を熱く語るが、あおいはひたすら聞き役に徹していた。
あおいを自宅に送ってから爽真父子は我が家へ戻ったが、翌朝また会うとわかっていても別れの挨拶がやたら長いのは何故だろうと爽真の父親はいつも思うのだった。
爽真は自分の学習机の上にあおいの教科書とノートが置かれたままなのに気付いたのは就寝直前のことだった。
第四話
高校二年の時、あおいは風邪になる。爽真は学校の帰りにあおいの家へ寄り、預かっていたプリント類、連絡事項を伝えに行く。爽真は関根家の玄関であおいの祖母にプリント類を手渡して帰るつもりだったが、弱々しい声で「……たぁ……」と爽真を呼ぶか細い声が聞こえてきた。
「失礼します」
爽真はあおいの祖母に一礼するとまずは洗面所へ行って手を洗い、それから二階へと上がっていくが、あおいの祖母は「爽真君、あおいは風邪なのよ……」と改めて訴えるが、今の爽真にその声は届かなかった。
爽真が階段を上がっていくと廊下で倒れているパジャマ姿のあおいがいた。おそらく爽真の声が聞こえて廊下へ出たが、そこで力尽きたのだろう。爽真の顔を見たあおいは嬉しそうに笑みを浮かべるが、風邪に冒されているのだからその笑みに力は入っていない。爽真があおいを抱き抱えて部屋へ戻すのかと思いきや、両足の脹ら脛を掴んでそのまま引きずって部屋へ入れ、布団へ寝かしつけてから爽真は一旦部屋を出て玄関まで戻り、あおいの祖母に手渡していたプリント類を受け取り、合わせて玄関に置いていた自身の鞄を持ってあおいの部屋へと戻った。
学校であおいの親友から預かった菓子パンを枕元に置く。
その親友、高校に入ってからあおいと出会って仲良くなったのだが、爽真が居ようと居まいとあおいに絡んでくるし、あおいも彼女に対しては自然体で接している。
その親友が言うにはあおいと爽真の関係が羨ましいし、理想のカップル像なのだ。そして今から「二人の結婚式には是非招待して欲しい」と言っている。
その親友が学校の購買であおいが何かと買っている菓子パンを購入、お見舞いとして爽真に預けた。
爽真は購買でスポーツ飲料を買っており、「飲むか?」と試しに聞いてみる。頷いているあおいを見て枕元にあるマグカップへスポーツ飲料を注ぎ、寝ていたあおいの上半身を起こしてその手にマグカップを持たせる。一口、二口とあおいはスポーツ飲料を飲んでいく。時間をかけて一リットルを飲み終え、安心したかのように寝入ってしまう。
爽真はあおいの寝顔を見つつ、あおいの本棚から小説を一冊取り出して軽く目を通し始める。あおいの本棚にある小説も漫画も最低一回は読んでいるからなんとなくページをめくっているに過ぎない。
あおいの祖母が部屋へ入ってきて爽真へ帰宅を促すが、爽真は「あと少しだけ……」と言ってあおいの側から離れなかった。
太陽も傾いて田原家もそろそろ夕食の時間となった時、「明日も来るから、ちゃんと寝とけよ」とあおいの耳元で囁いてから爽真はあおいの部屋を出た。この時、爽真は見ていないが、あおいは寝ているはずにも関わらず、一瞬だけ口元がニッと緩んでいた。
あおいが完治して登校を再開するまで爽真は毎日、学校帰りに関根家へ寄った。
幸い爽真に風邪がうつることもなかった。
小学六年生の時、爽真が風邪を患って学校を休むことになった。前日から体調が悪く、一旦は登校したものの給食も食べられず、早退することとなった。この時、爽真の母親は仕事で家にいなかったので爽真の母親が帰宅するまで関根家で預かることとなった。
あおいの祖父が自宅に居たので車で迎えに来てもらい、何故かあおいも付き添いという名目で一緒に帰宅した。
母親が仕事を抜けて帰宅し、爽真を病院へと連れて行った。二人が帰ってくるまでの間、学校から帰ってきた快徒は同級生らと遊んで過ごしていた。
幸いにして爽真は風邪と診断されたが、やや熱が高いし、完治するのに二日か三日はかかるだろうと医師に言われた。
翌朝、当然ながら快徒は一人で通学することになる。
一方、爽真が休むと聞いたあおいは「私も休む!たぁの看病をする」と言い出し、あおいの母親は困惑するしかなかった。
爽真の母親は仕事を休んで一日、爽真の看病をする段取りを組んでいたが、「私が看病しますから、おばさんはお仕事へ行って下さい」とあおいが言って玄関から上がろうとする。既に職場へは休暇の申請を出して了承も得ているし、何よりも爽真の体調が急変した時、あおいは車の運転も出来無いし、万が一救急車を呼ぶような事態になってもあおいが付き添い者として病院へ行くことも出来無い。仮に爽真の症状が悪化した時、母親でもうろたえて適切な対応ができるか、不安がある。
あおいの母親と祖母が田原家まで来て引きずって連れ帰るという、ちょっとした騒ぎとなった。
爽真は熱にうなされていてその様なことが起きているとは知らず、あとで母親から聴かされることとなった。
今までも爽真のことになると我を忘れるあおいだったが、思春期だから仕方が無いと両親も諦めていたし、爽真の両親もまたあおいを理解しているつもりだった。だが、さすがに今日のあおいを理解することはできなかった。
この日、あおいは母親から散々お説教を喰らうこととなり、小学校を休むこととなる。ちなみに母親のお説教を喰らいつつ、あおいの心は爽真の容体が気になって仕方が無かった。
あおいとしては爽真の機嫌を損ねて無視された事件から日が浅かったこともあり、ここで爽真の看病をすることで汚名挽回を図りたいとか、そう言う考えがあったのだが、周りの大人達がそれを理解することはなかった。
翌日、あおいは渋々小学校へ通ったが、一日授業の内容は頭に入ってこなかった。
夕方、プリント類や連絡事項を預かっていたあおいは爽真を訪ねる。幸い爽真の体調は落ち着いており、爽真の部屋へ通されて直接プリント類などを手渡すたことはできたが、爽真からは昨朝の玄関先で起きた一悶着に関して笑われ、いじられ、そして窘められた。
あおいは爽真が元気でいつも通りに接してくれるからホッとしていた。そして夕方まで爽真の部屋で過ごしていた。
たぁとあおいの○休み