06 その先の向こうに… ①
これは携帯電話の無い時代の物語です。
章分けしました。
01
木曜日のお昼。
カコ、ナオ、ユウコの三人は、四つの机をくっ付けて作ったテーブルの上にお弁当を広げていた。
今日はカコのクラスである207の教室が集会場となっていた。
暖かな日差しの中、三人は楽しそうに笑いながら、尽きることの無い話に夢中になっていた。
その時、あるきっかけがあったのだろうか?
カコの頭の中に、ジンジがある質問をしてきた光景が浮かんできた。
それは、仲間と一緒に学校から帰っている途中のことだった。
*
「どうしてこうも毎日話すことがあるんだ?」
あの時わたしはジンジの横で
「そうだよね、何でなんだろうね……」と返していた。
ジンジは次の言葉を待っていたようだったけど、わたしは何も言わずにそのまま歩いた。
するとジンジは仕方なさそうに、そのままわたしの横を歩いたんだと思う。
それからしばらくして、今度はわたしの方からジンジに声を掛けていた。
「苦しくない?」
ジンジはわたしに顔を向けると、何が?と訊いてきた。
不思議そうな顔をしている。
「このまま何も喋らなくて、ずっとこうして歩いていることだよ」とわたしは訊き返した。
するとジンジは
「いいや全然」と今度はこっちを見ずに、前を向いたまま答えていた。
それでわたしは……「わたしも」と返事をしたんだった。
それからまた無言の時間が続き
「で……?」とジンジが言った。
「でって?」
「なんでそんなに話すことがあるんだって訊いたじゃんかよ」
わたしは首を傾げ
「そうだったね……、なんでだろうね」と一度言って
「三人と一緒だとそれが自然なの。自然に言葉が出てくるの、だから何故(なんで)そんなに話すことがあるんだって訊かれても、ほんとは分からないんだよね」と返したんだった。
ジンジはそれ以上訊こうとはしなかった。
そしてそのまま、仲間たちと一緒に二人で歩いた。
……と我に帰り、何故、今、そんなことを思い出したのだろう?と、何気に配られた牛乳に手を伸ばすと
「牛乳とご飯は合わないよね」とジンジに訊いてみたことを思い出していた。
「合わないとは思うけど飲むと腹が膨れるから、それと牛乳飲むと背が伸びるって言うじゃん」
そんな答えが返ってきたような気がする。
で……わたしは今、何故急にそんなことを考えているんだろうと思っていると
「ねぇ」とユウコの声が耳に飛び込んできた。
*
「なにボ~としてんの?」
ナオの声もする。
「ごめん、ちょっと考えごとしてた」とカコは、少しうろたえた。
「何かちょっと今、夢見がちな顔してたよ」とユウコが言う。
夢、夢ねぇ……?
実際、夢を観ている時の顔ってどんな顔なんだろう?と考えていたら、急にあることを思い出していた。
ユウコに〝夢〟って言われるまですっかり忘れていて、それが今頭の中にはっきりと浮かんできたのである。
「そうだ、ねぇ聞いて、昨夜(ゆうべ)さぁ変な夢を観たんだよ」
「変な夢?」
インゲンを摘んでいたナオの箸が止まった。
「ジンジの夢じゃないの、何かちょっと恥ずかしいような……」
ユウコが茶化しながら卵焼きを頬張った。
「そんなんじゃ無いよ。夢に出て来たのはジンジじゃ無くてユウコだったんだから」
「えっ、わたし?」
自分の名前が出てきたものだから、ユウコは驚いていた。
「うん、ユウコなの」
そう言ったカコは、ご飯と牛乳の会話を思い出しながら牛乳を口に運んだ。
「で、どんな夢だったの?」
ナオは摘まんだままだったインゲンを、やっと口に運んだ。
「それがさぁ、とっても変な夢だったんだ……」と言った後、カコはしばらく間を置いた。
「勿体ぶらずに早く話してよ」
ユウコが急かす。
自分が夢に出てきたものだから、早くその中身が聞きたくてしょうがないのだ。
ナオも、口を動かしながら身を乗り出していた。
02
深夜……
霧のように細かい雨が降っている。
じめじめとした陰鬱な雨である。
そんな雨の中、宮崎中学校前バス停ベンチの横に、ユウコが右手に傘を差して立っていた。
旭東通りを行き交う車は皆無で、ましてやこんな夜更けの雨の中、出歩く者など居るはずも無く、辺りは静まりかえっていた。
ユウコは、誰かとの待ち合わせをしているのでは無く、迎えの車を待っている訳でも無く、バスを待っていた。
運行時間はとうに終わっているはずなのに、それでもユウコはバスを待っているのである。
時々、昭和町交差点がある東の方に向かって、顔を上げる仕草を見せていた。
交差点に変化が無いのが分かると落胆した表情になり、目の前の地面に視線を落とした。
ユウコのそんな行為が何度も続いていた。
宮崎中学校前バス停から見える今夜の昭和町交差点は、墨を流したような漆黒の闇で、一切の光を拒絶しているかのようだった。
そんなところから、バスは本当に現れるのだろうか?
しかしそれでも、ユウコはバスを待っていたのである。
どれほどの時間が過ぎていったのだろう?
傘を打つ雨音に混じって、ブルルっという機械音が交差点の方から響いてきた。
それは、重く不器用なディーゼルエンジンの音だった。
ユウコが顔を上げる。
交差点が微かに明るくなっていた。
やがて、女子校方面から右折してきたバスが姿を現し、二つの光点であるヘッドライトの灯りがユウコに向かってやってきた。
不思議なバスだった。
バスは運転席だけが明るく、社内は真っ暗なのである。
やがて……
バスはユウコの待つ宮崎中学校前バス停で停車した。
ユウコは運転席横の乗降口へ歩み寄った。
しかし、乗降扉は一向に開く気配を見せなかった。
ユウコは、ドア向こうの運転席に視線をやった。
帽子を目深に被った伏し目がちの運転手は、前を向いたままジッとしている。
わたしに気付いてないのかしら?
ユウコは、さらに一歩前に出てドアを叩いてみようと手を上げた。
すると突然、バスが動き出していた。
ユウコは、慌てて飛びすさった。
何このバス、回送なの?
バスはユウコを無視して、ゆっくりと動き初めていた。
もう乗れない。
諦めたユウコは、仕方なく次のバスを待とうと思った。
そして何気なく車内に目を向けると、暗いその中に人影を見付けた。
もう何? お客さん乗ってるじゃない!
乗車拒否バス! と毒突きながら動き出したバスを睨んでいると、中の人影が窓に寄って来た。
そして、ユウコはその人影を見て目を疑った。
*
「そのバスに乗っていたのがわたしだったの」
「カコが乗ってたの?」
ユウコは素っ頓狂な声を上げていた。
「うん、わたし」
「それでカコは、どうしてそんな薄気味悪いバスに乗ってたの?」とナオ。
カコは首を振りながら……
「わたしね、窓からユウコを見てるの。そしてその自分の顔がとっても哀しそうで……」
「哀しそうな顔で?」
「わたし、ユウコに何かを伝えようとしてたのかも……」と言ってはみたものの半信半疑だ。
「何かとっても哀しいことがあって、それをユウコに伝えたかったのかもしれないね……」とナオ。
「そんなの嫌だよう」とカコは身震いした。
「でもよく聞いて。その哀しいことが誰に起こったの? カコ?それともわたし?」とユウコ。
「考えてもみなかった……」
「逆夢(さかゆめ)ってこともあるんじゃない」とナオ。
「そうか、そうだよね。逆夢なら大歓迎だよね。カコとわたしのどちらか、それとも両方にいいことが起こるってことよだね」
何でも良い方に考えのがユウコである。
そんなユウコを眺めていると……
そうだよね、くよくよしてもしようが無い、夢なんだもの……とカコも気持ちを切り替えることにした。
カコも暗い方に物事を考えるのは苦手な方なのだ。
「それだったらシンコとデート出来るかもしれないね」
「それじゃあカコだって……」とユウコが返す。
「はいはい、分かりました。二人ともよごさんしたね」
呆れたナオが、親指と人差し指で、パチパチと拍手を送った。
「そう、逆夢。きっとそうだよ……」
そうに違いない、とユウコは勝手に決めつけていた。
03
翌日の金曜日、昼食時間。
今日の三人は、ナオの教室に集まっていた。
明日は祝日で、土曜日曜と久しぶりの二連休だ。
三人は、何しようかなぁ~?と、それぞれの予定を言い合いながら楽しそうな会話をしているところに乙音がやって来た。
乙音はカコと同じクラスの女子である。
二月ほど前に転校してきて、隣のユウコのクラスに双子の兄の音也がいる。
乙音の動きは、どこかギクシャクしていた。
カコは、表情が強張っている乙音を見上げた。
「乙音ちゃん、なぁに?」
緊張をほぐしてやろうと、やさしくゆっくり声を掛ける。
「三人、お話し、ある、違う、お話し、じゃなくて、お願い、ある」
乙音が言葉を区切って話すのは、いつもの事である。
「お願いがあるの?」
うん、と乙音は身体をくねらせた。
「今日、放課後、三人、お時間、あるか?」
「部活が終わったら帰るだけだから、その後だったら大丈夫だと思うけど……」
水泳部のユウコが、バレー部のカコとナオを順番に見ながら言う。
「わたしは大丈夫だよ。放課後は特に用事はないよ」とカコ。
わたしも、とナオ。
「うん、良かった」
乙音の表情は、ホッとしたものに変わっていた。
「じゃあ、今日、放課後、わたしの、お家、来て」
「乙音ちゃんの家へ?」
ナオが訊き返した。
「お母さん、三人、会いたい、言ってる」
「乙音ちゃんのお母さんが?」とユウコ。
「お母さん、どうしても、会いたい、言ってる、三人、招待、お茶でも、どう?」と不安そうな乙音。
緊張の度合いが、また少しだけ上がってきたようである。
「大丈夫だよ。しっかり招待されちゃうよ!」
ユウコは笑った。
「決まりだね! 部活が終わったら乙音ちゃんのお家に、三人で伺うことにするから」とナオ。
「じゃあ、よろしく、お願い」
ニッコリと、乙音は大きく頷いた。
おばさんが、ナオとユウコに会いたいなんて、何か特別な話でもあるのかな?
と思いながら、カコは笑顔の乙音を見ていた。
「わたし、いつも、お母さん、三人、話、する、だから、一度、会いたい、言ってる」
「嬉しい、あの洋風のオシャレなお家だよね」とユウコ。
今から期待で胸が膨らんでいるようだ。
「わたしもユウコも初めてだよ。カコとジンジだけ行ったことがあるって、ちょっと羨ましかったんだ」
ナオも笑っている。
「じゃあ、放課後、お家、待ってる」
乙音はペコリと頭を下げ、そそくさと教室から出て行った。
04
入間おばさんは、玄関口を掃除していた手を止めると、三人に笑顔を送った。
「いらっしゃい、待ってましたよ」と一度空を見上げた後「もう、こんばんわ……かな?」と言うおばさん「こんにちわ」とカコはおばさんに二人を紹介した。
ナオとユウコは、緊張した面持ちで少しばかりぎこちなく、それでも丁寧に挨拶をした。
「あなた達のことは、乙音から何度も聞かされているのよ。会うのが初めてじゃないみたい」
おばさんは塵取りと箒を脇に片付けると家の中に向かって
「乙音ぇ~、カコさんたちが来たわよ」と声を掛けた。
するとすぐに
「は~い」と元気な返事があった。
「さあ、上がってちょうだい。鞄は玄関の横に置いてもらってかまわないから」
三人は鞄を玄関横に並べて置き、用意されてたスリッパを履いてリビングへ向かった。
「わぁ、素敵……」
ナオとユウコは、部屋の中を見回しながら驚きの声を上げていた。
15畳ほどの広さのリビングの中央には、木の素材を生かした一枚板の低いテーブルと、それに併せた二人掛けの椅子が一脚と、その反対と横に一人用の椅子が三脚置いてあった。
計五人分の席が用意されている。
壁は無地の白一色となっており、外国の風景を切り取ったモノクロの写真が、さまざまな大きさの額縁に納められて飾られている。
その壁側には、これも木の素材を生かした腰くらいの高さの飾り棚(サイドボード)が設置されていた。
ボードの上には、さまざまな大きさの植物の鉢が所々にあり、その間にディスプレイとしての食器や人形などの小物が置いてあった。
庭に面する大きな窓には、アースカラーをベースとした綿のベージュのカーテンが窓の左右にきちんをまとめられている。
部屋全体にぬくもりと居心地の良さがあり、そこで過ごす時間が楽しくてしょうがないと思える空間となっていた。
カコも最初は、洋風で素敵リビングだと思っていたのだが、おばさんの職業が陰陽師だと知った今では、和と洋のアンバランスさが、落ち着いた調和を醸(かも)し出しているのではなかと思うようになっていた。
カコは二人に囁いた。
「ね、素敵なリビングでしょう?」
「まるで雑誌や映画で観るようなお部屋みたい……」
ユウコの呟きに、ナオも頷いていた。
三人が動かずに部屋の中を眺めていると、
「さぁ、そんな入り口の所にボ~と立ってないで、座って、座って」と促されてしまった。
三人は、おばさんに薦められるまま、中央の椅子に腰掛けた。
二人掛けにはナオとユウコ。
テーブルに向かって右がナオ、左がユウコだ。
ナオの右の種類の違う椅子にはカコが座った。
右におばさん、左にナオとユウコを見る場所だ。
座ってからもしばらくの間、ナオとユウコが珍しそうに部屋を見回しているさまを、おばさんとカコは可笑しそうに見ていた。
「三人とも良く来てくれたわね。急に呼んじゃって大丈夫だったかしら?」
「いいえ、大丈夫です」とカコ。
「とんでもないです。こんな素敵なお家に招待されて、こちらこそお礼を言いたいくらいです」
とナオが言うと
「そうですよ。ほんとに嬉しいです。ありがとうございます」
ユウコの声は、緊張で擦れてしまっていた。
「そう言ってくれると、おばさんも嬉しいわ、ありがとう」
二人は「とんでもないです」とまた頭を下げたところに……
「いらっしゃい、紅茶、お持ち、しました」
四組の紅茶セットをトレイの上に乗せて、乙音がリビングの奥のキッチンから現れた。
かしこまった言い方と、トレイを運ぶ危なっかしさに、三人は思わず吹き出しそうになってしまった。
「みなさん、どうぞ、わたし、淹れた、紅茶、ゆっくり、召し上がれ、ください」
乙音は四人の前に紅茶を並べ終わると、おばさんの横に座った。
「今日はどうしてもわたしが淹れるってきかなくて……、乙音はちょっと不器用な所があるから、失敗してるかも……。最初の一口はちょっと用心して召し上がってちょうだい」と笑った。
「そんなこと、無い」
乙音が口を尖らせる。
「そんなこと、無い、いただきま~す」
三人は乙音の口まねをして笑いながら、カップを口に運んだ。
最初の一口に、ユウコから自然に言葉が漏れていた。
「おいしい」
「ほんとだ。乙音ちゃん、とってもおいしく淹れてあるわよ。ありがとう」
ナオも目を丸くしている。
「ほんと、嬉しい」
乙音はわざわざ立ち上がって胸を張った。
「うん、とってもおいしい。おばさんが淹れたのに負けないくらいおいしいよ」
カコも、おいしさに頬が緩んでいる。
えへへ、えへへ、と乙音は何度も何度も頭を掻いて喜んだ。
「あれ、でも乙音ちゃんの分は?」
ナオが、乙音の前に紅茶が置いてないことを不思議に思ったのだ。
「ポット、四人分、だから、わたし、後で、飲む」
「乙音ちゃんは、〈猫舌〉なんだよね」
カコが意味ありげに声を掛ける。
「そう、だから、熱い、苦手」
「でも、紅茶は冷めてもおいしい飲み物なんだよね」とユウコ。
「そう、だからコーヒーと違ってカップが薄くても良いんだよね」
ナオが補足していた。
コーヒーカップは保温重視のため、分厚く縦長で飲み口が狭くなっている。
逆にティーカップは香りや色を楽しめるために、薄くて飲み口が広い形状をしている。
「二人とも良く知ってるわね。おばさん感心しちゃった」
ありがとうございます、と恐縮する二人だった。
「だから、後で、冷めた、紅茶、いただく」と乙音は舌を出して惚(とぼ)けていた。
それを受けてカコが、どこか意味ありげに
「そうだ。そういえばユベールの姿が見えないですね」と言った。
「ユベールって?」
ナオが眺めていたカップから目を上げた。
「ユベールはこの家で飼ってる猫ちゃんだよ」とリビングを見回し始めた。
「そう、猫」と乙音。
「何処にいるの。見たい、見たい」とユウコがはしゃいだ声をあげた。
「何処に居るんですか?」
ナオは、おばさんに訊ねた。
「どこか、その辺に居るんじゃないかしらねぇ」
おばさんはニコニコしている。
二人は探し始めた。
「何処なの?」「猫ちゃん何処に隠れているのぉ~」と辺りに声を掛ける。
すると、二人が腰掛けている椅子の下から、ミャウっと啼(な)く声が聞こえてきた。
「見付けた! こんなとこにいた」
ユウコが床に膝を突いて椅子の下を覗き込むと、限りなく鼠色に近い黒い猫の瞳が光っていた。
椅子の下の影に同化しているかのようだった。
「かわい~い」
ユウコが触れようと手を伸ばした。
するとユベールは、ユウコの手をすり抜けると、カコの足下へ一目散に駆け寄り、足首に首や身体を擦り付けていた。
「カコには甘えるんだね」とユウコは不満そうだ。
「ねぇ、どうやったらこっちに来てくれるの」
「簡単だよ。膝を叩いて名前を呼んであげるだけで跳んでくるから」
そうなの? それだけでいいの? ユウコは半信半疑である。
「くすぐったいから、早く呼んであげて――」
カコは足をモジモジさせている。
「ユベール。こっちおいで……」
ユウコより先にナオが膝を叩いていた。
すると、呼びかけに反応したユベールは身体を起こしてナオを見上げ、背中を丸めて狙いをつけて、カコの足下から一気にジャンプしていた。
狙い違わず、ユベールはナオの膝の上に優雅に着地していた。
音を立てずに、その様はまるで重さの無い羽毛のようだった。
着地するや否や、ユベールはナオの膝の上で丸くなっていた。
「あっ、ナオずるい」
ユウコはナオの膝に乗ったユベールに手を伸ばした。
背中の柔らかな毛並みがユウコの指の間でサワサワと踊った。
ナオは人差し指を曲げて、ユベールの喉に這わせた。
ナオの指の先に、ゴロゴロと小さな雷のような振動が伝わってきた。
「生まれたばっかりみたいに小さいのね」とナオ。
「それでも、れっきとした成獣なんだよ」
カコは、二人にあやされているユベールの気持よさそうな表情を見ながら言った。
人の姿をしているときは杓子定規なのに、猫だと甘えん坊になるんだから……とそのギャップが可笑しかった。
「え、これでもう大人なの?」
「そうだよ。ね、ユベール」
カコの言葉を理解したかのように、ユベールはミャウと一声啼いた。
*
それから三人は、学校のことや、クラスメイトのことや、部活のこと、そして乙音の学校での失敗のこと……など色々なことを、わいわいガヤガヤとおばさんに話して聞かせた。
乙音は何故メロンパンと魚肉ソーセージのお弁当ばかりなのかと、二人が訊く場面もあった。
おばさんは笑いながら、さぁねぇ~どうしてかしらねぇ~としか言わなかったし、乙音もしどろもどろになってしまって、結局その答えに行き着くことは無かった。
その日、五人の楽しい会話は、いつまでも尽きることが無かった。
05
部活が終わるころから雲行きが怪しくなり、一度空が泣き出すと、それからは一気に本降りの雨となっていた。
いつもの仲間たちは、帰宅の途に付いていた。
イケピン、ポンタ、シンコ、ジンジ、の男子たちがかたまって先を歩いている。
ジンジは男子たちの最後尾だった。
その後ろを、カコ、ナオ、ユウコ、タカコ、そして後輩のヒカリが続いている。
*
「ちっ、降り出しやがった」
男は運転していた営業用軽自動車の中で独りごちると、ワイパーのスイッチを入れた。
それでも視界は良くならなかった。
雨脚が強すぎるからだ。
男はワイパーレバーを最速まで上げた。
「早く帰って、報告書を書かないと」
昨日までに出さなければならない報告書をまだ提出していない。
いくら何でも、上司は明日までは待ってはくれないだろう。
早く会社に戻って、上司が帰宅する前に提出しなければならない。
上司は、定時になると後は頼むと部下に任せてすぐに帰ってしまう男だからだ。
男は左の手首に巻いてある腕時計を見た。
「書く時間がねぇ」
男はアクセルを強く踏み込んでいた。
降りしきる大粒の雨の中、車のタイヤは水飛沫を派手に跳ね上げながら旭東通りを橘通り一丁目にある会社へと向かっていた。
*
昭和町交差点で、みんなが信号待ちをしている。
この時期ならまだ明るい時間帯なのだが、雨のせいで今日はいつもより極端に暗かった。
本降りの雨になるや否や、まるで電灯のスイッチを切ったかのように、黄昏時を飛び越え、日中から一気に夜に変わってしまったかのような暗さになっていた。
雨水がアスファルト道路の所々に大小さまざまな水溜まりを作り、それが川となっていた。
この時間帯の旭東通りの車の量は多い。
水飛沫を上げながら、何台ものトラックや常用車がみんなの目の前を行き交っている。
「こんな雨の中、スピードの出し過ぎなんだよ」と男子の誰かが吐き捨てた。
他のみんなも、そうだよな、危ねぇよ!と思いながら、猛スピードで通り過ぎる車を眺めている間に、信号は赤から青に変わっていた。
先頭に立っていたイケピンが「信号、変わったよ」と後ろで喋っている女子たちに聞こえるように振り返って傘を持ち上げた。
それが合図であったかのように、みんなが横断歩道を渡り始める。
男子たちの最後尾であるジンジのすぐ後ろは、女子たちの先頭のカコだった。
カコは背中を見せている。
信号待ちをしている間に、ナオたちに振り返ったのだ。
カコは後ろ向きのまま、横断歩道に一歩を踏み出していた。
「転ぶなよ」
ジンジの声に、カコは前に向き直った。
ナオ、ユウコ、タカコ、そして一番後ろのヒカリにもジンジの声は聞こえたようだ。
それぞれ、は~い、と返事があった。
ジンジは「車から水を掛けられんなよ」の台詞を追加して前を向いた。
*
一台の大型トラックが、橘通りの方からスピードを緩めることなく昭和町交差点へ進入し、横断歩道を渡っているみんなの横を、後ろから抜き去ろうとしている。
同時に、一ッ葉方面から来た軽自動車が、これもスピードを緩ることなく交差点に進入してきた。
前方からの軽自動車と後方からの大型トラックの両方は、交差点に差し掛かった所で擦れ違った。
擦れ違いざま、トラックの前輪が、アスファルトの窪みに貯まった雨水を高く跳ね上げていた。
その雨水が、軽自動車に降り注いでいた。
*
軽自動車を運転していた男は、フロントガラスに浴びせられた大量の雨水で、前方が全く見えなくなってしまったことに毒突いた。
「何だよ、この糞トラック、ちったぁ周りのことにも気きぃ使ってゆっくり運転しろや」
文句を言いながらも、男は自分が運転する車のスピードを緩めなかった。
ただ、握っていたハンドルに、少しばかり力を込めただけだった。
そして……
前方の視界が開けた瞬間、男は目の前に人の姿を捉えていた。
「やばい!」
悲鳴に近い叫びが、男の口から漏れていた。
男は瞬時に、人とは反対の方向へハンドルを切り、ブレーキペダルを蹴っていた。
同時に、男の手に後輪が流れる感覚が伝わってきた。
*
トラックの跳ね上げた雨水が、対向車の軽自動車に降り注ぐ光景をジンジは目の当たりにしていた。
すると急に、車の動きがおかしくなってしまったのに気付いた。
タイヤが妙な方向へ動いたかと思うと車体がブレ、フロントがジンジたちの方へ向きを変えていたのである。
先を歩くイケピンやシンコ、ポンタたちもその状況に直ぐに気付き、車を避けるように前へダッシュしていた。
逆にジンジは後方を振り返り、カコたちの方へ走っていた。
彼女たちは話に夢中で、前方の異変に気付いていなかった。
ジンジの大きな動きで、彼女たちにも〝何かが〟起こっていることに気付いた。
ジンジは、カコの胸を両手で突き飛ばした。
カコは後ろへ飛ばされた。
両足が宙に浮くほどの強さだった。
カコは、ナオとユウコに抱きかかえられるように受け止められていた。
さらによろけた三人を、タカコと最後尾のヒカリが踏ん張って支えていた。
次の瞬間……
ドンという音に四人が見たものは、ジンジが宙に舞っている姿だった。
*
ジンジは振り返るなり走った。
傘を投げ捨てて走った。
次の瞬間……
ユウコが口を開けて、言葉にならない声をあげていた。
声よりも早く、ジンジはカコの目の前にいた。
両手を伸ばして、カコの胸を強く、殴るように押していた。
カコはバランスを崩し、後ろへ飛ばされてナオとユウコにぶつかった。
ブレーキの音……
次に響いた衝撃音とともに、その目に映ったのは、ジンジが宙に舞う姿だった。
跳ね上げられたジンジの身体は、車のボンネットの上へ落ちた。
そしてまた跳ね上がると、アスファルトへ頭から落ちていた。
カコの、言葉とは言えない声が響いた。
*
ジンジが車に跳ねられた。
誰か救急車を呼んで。
男子たちのいくつもの叫び声が交差点内に響き渡った。
反対側の角の交番から、二人の警察官が笛を鳴らしながら飛び出し、交差点に進入してこようとする車を制止しながら走ってきた。
*
カコは仰向けに倒れているジンジの側へ駆け寄った。
ジンジの額は大きく割れ、紅く染まっていた。
それはこめかみを通って地面に流れ落ち、水溜りを紅く染め、そして広がってゆく――。
カコはジンジの頭を、ガラスの割れ物でも扱うかのように、膝の上に抱え込んだ。
ジンジが薄目を開けた。
カコが目の前にいて、無事であったことが分かると、唇の端を引き攣らせるようにして微笑んでいた。
そして、何かを言おうとして口を開くが、それは言葉になることは無く、そのままの形で動かなくなっていた。
大ぶつの雨が彼の顔を打ち、流れ出る鮮血をその場で瞬時に洗い流してゆく。
「だめ、だめ、だめ、だめだよう……」
カコは身体を折り曲げ、ジンジの頭を大粒の雨から守るように包み込んでいた。
②へ続く……
06 その先の向こうに… ①
前回の物語で、乙音と音也は居なくなってしまったはずでしたが、また登場してしまいました。スピンオフとして、二人の登場の物語を改めて書こうと考えています。それまでごめんなさいです。ご意見、ご感想、お待ちしています。
質問も、大歓迎いたします。
syamon_jinji@proton.me