打ち切り【TL】歯医者(仮題)

男性側一人称視点/ヒロイン攻め

1


 おれは呼ばれるのを待っていた。少しやんちゃをして、殴られた歯が痛い。
「大丈夫ですか」
 隣に座っている瑛子(えいこ)さんが、おれの顔を覗き込む。燦々と降り注ぐ太陽が、潺(せせらぎ)に照りつけるような瞳を真正面から、逃げ場もなく受け止めてしまって、たじろぐ。
 おれは男だし、身長も体重もそれなりにある。だから多少の暴力には耐えられる。少なくとも、大切な友人を守るときくらいは耐えなければならないだろう。
「大丈夫ですよ、これくらい」
 本当におれは大丈夫だったのだけれども、瑛子さんは信じていないみたいだった。寄せられた眉が神経質そうだった。
「寒くはないですか」
 瑛子さんは自分が使っていた肩掛けを取ろうとしていた。柔らかそうな布地から瑛子さんの匂いがしそうで、断るのは惜しい。でも、おれは寒くなかったし、寒がりなのは瑛子さんだ。
 瑛子さんはおれに遠慮している。瑛子さんが困らされているストーカーと殴り合っただけだ。それは瑛子さんのためであるけれど、おれが怯えている瑛子さんを見たくなかったからで、瑛子さんのためだとか、誰のためだとか、そんなお為倒(ためごか)しをするつもりはない。
「鹿井(しかい)さ~ん。鹿井美鶴さ〜ん」
 診察室のドアが開いたので身構える。呼ばれたのはおれだった。
 椅子の座面に手をついて立ち上がる。足を痛めてしまったために運転もできず、こうして瑛子さんに付き添われている。情けない。殴り合うならば、瑛子さんに迷惑を掛けない範囲でするべきだった。
 喧嘩慣れしていたら、違っていたのだろうか。おれはそう、殴り合いに明け暮れているような生活は送っていなかった。
 立ち上がるのを、瑛子さんが手伝ってくれた。おれより小柄で、おれより華奢な身体に支えられて、情けなさに拍車がかかる。
 瑛子さんに杖を持たされ、彼女も診察室までついてくるつもりだったようだ。おれは思わず振り返る。
「ここまでで大丈夫ですよ」
 診察中、暇だろう。少なくとも待合室にはテレビもあるし、雑誌もある。これはおれの趣味だけれども、来院者観察だってできる。
「でも……」
 それにおれは知っている。診療中の様相がいかに滑稽か。歯科医も歯科衛生士も立派だ。おれはライトの金具や窓ガラスに映る治療中の自分の姿を見たことがある。とても、瑛子さんには見せられない。見せたくない。
 おれは瑛子さんの前ではかっこよく痛い。もう十分、情けない姿を晒しているけれど……
「待っていてください」
 1人でも、杖があれば歩けないことはない。介助が必要なほど大袈裟な怪我でもなかった。
 診察室に入るのに、まだ心配そうな瑛子さんに背を向けられずにいると、カウンターから受付の人が出てきた。青みがかった白いスクラブは、もしかすると歯科衛生士なのかもしれない。
 マスクをしているけれども、おっとりした目元が優しそうな女性で……おれは努めて彼女の目元に集中しなければならなかった。
「それじゃあ……」
「ああ……ハンカチ。使ってください」
 冷たい手に、ハンカチというには大判のタオルが握らされる。彼女らしい、淡い色味のかわいいタオルだった。
「ありがとうございます」
 瑛子さんは心からおれを心配しているようだった。歯を診てもらうだけなのに、大きな手術でもするみたいな反応だ。お互い、とっくの昔に成人しているのに、待合室に一人、残しておけなくなる。ここは歯科医で、明確な目的を持って来ている人ばかりだから、無いとは思うけれども、そんな無防備だと、ナンパのひとつでもされてしまいそうだ。
 瑛子さんは色白で、綺麗な髪をしていて、温かみのある面立ちと雰囲気をしているから……強引な男には格好の餌食なのだろう。ストーカーなんていい例だ。
 けれどもずっと瑛子さんを気にしてはいられなかった。おれは歯科衛生士らしき……女性に付き添われて、隅のデンタルチェアに案内される。
 徐ろに台に乗ると、前掛けをかけられ、椅子が倒れた。
 おれは瑛子さんから渡されたタオルを握った。柔らかい。新しいのだろうか。けれども新しいタオルというのは硬くなかったか。
 ただ洗剤を投入しただけではないのだろう。柔軟剤も使い、しっかり干して、きれいに畳んであるのだ。しがない男の一人暮らしとは違う。
 歯医者は苦手だ。
 口腔を晒していると、銀色の道具が舌を押しやる。ライトが顔の前に引っ張られ、左右の電球を連結する金属部分部に、情けなく口を開け広げているおれの無様な姿が映っていた。
 瑛子さんを置いてきて正解だった。
 頭頂部に柔らかいものが当たった。視界が翳る。おれをここまで案内した、あの歯科衛生士だ。真上にある柔和な目元が細まり、穏やかな口振りで説明される。目が合った気がした。特に理由のない気拙(きまず)さから、咄嗟に別のところを見た。歯医者というところは、口を開ける代わりに目を閉じていればいい。
 頭頂部が包まれるようだった。頭の形に沿うように、柔らかなものが当たっている。歯を治療される面倒臭さと不安が消え失せてしまう。身体中の痛みすら取り除かれたようだ。
 試しに、痛めた足に力を込めてみた。疼く。しかしおれの意識は、頭の天辺を包むクッションのようなものに吸い取られ、自分で作り出した痛みのことなんてすぐに忘れてしまった。


 おれの頭には、柔らかすぎるような物体がまだ乗っている気がしてならなかった。治療は終わっていて、診療代も払い、瑛子さんの車の後部座席に乗っているのに、まだ、氷嚢ほど温度は感じられなくて、水嚢よりも境界のはっきりしない感触が残っている。マシュマロに近いけれども、マシュマロほど固形のような感じもなくて、かといって溶けたマシュマロというほど粘度の高さは感じられなかった。それでいて、質量はあった気がする。
 おれは気を取られていた。その正体が知りたかったのもあるし、あの心地良さを忘れられないのもあった。
 あんなものは飲まない鎮痛剤だ。何らかのクッションだろうか。技術革新に感心する。
「美鶴さん……」
 後部座席を覗く瑛子さんは、少し怒っているように見えた。吊り上がり気味の眉といい、「へ」の字に曲げられたピンク色の唇といい、強められた口調といい、おれが何か粗相をしたらしい。タオルを汚したことだろうか。
「あ、あの……タオル、洗って返しますね……」
 瑛子さんはぷいと顔を背けて、上半身を後部座席に入れた。シートベルトまで締めてくれるらしい。お弁当をほぼ毎日手作りしていたり、お裁縫が得意だったり、家庭的な人だとは思っていたけれども、尽くすタイプのようだ。
 こういうところがやっぱり誤解を生んでしまう。それでそれは、絶対に瑛子さんが悪いのではなくて、勘違いする男たちが悪い。おれも"人の振り見て我が振り直せ"といったところだ。
 シートベルトを固定するのに、おれはシートと瑛子さんの細い身体に挟まれた。彼女の服の襟元から肌が見えて、咄嗟に見ようとしてしまっていた。意識を以って、目を逸らす。甲斐甲斐しく世話をしてくれている相手に失礼だ。彼女たちはグラビアアイドルではないのだから。
「閉めますね」
 瑛子さんの声音は、来たときと打って変わって冷たかった。吐き捨てるようだった。
 一体、おれは何をしてしまったのだろう。一体、どんな粗相をしてしまったというのか。思い当たるのはやはりタオルだった。ただ貸しただけで、まさか使われるとは思っていなかったのか。
「あ、あの……タオル………やっぱり、買って返します……」
「今、運転中です」
 瑛子さんの運転歴は長いし、来るときは話しながら運転していた。そう入り組んだ道でもないと思ったが、それはおれの主観だ。
「す、すみません……」
「わざわざ買っていただかなくて結構です。貰い物ですし」
 素っ気ない態度にあまり威圧感はなく、何となく怒り慣れていない感じを受けたけれど、しかし、だからこそ、怒り慣れていない人を怒らせてしまった何かがおれにはあって、おれ自身、そのことに思い当たらないことが怖かった。
 詳しく事情を訊きたいところだったが、おれは送迎してもらっている身だ。自分の所為だからと、支払いまですると言い出していたくらい、義理堅い人なのだ。強くは出られない。安全運転をしてもらわなければ困る。
 悶々としているうちにおれの家に着いた。父と二人暮らしのはずが、父親は海外出張に行ってしまったため、今は実質、一人暮らし。父がいたとて、情けなくて頼れはしない。
「今日は本当に、ありがとうございました。貴重なお時間を——」
 瑛子さんは上目遣いを見せる。口元を尖らせて、眉を寄せている。何か言いたいことがあるのかと、おれは言葉を切った。けれどお互い、黙ってしまった。
「え……あの………」
「お父様、いらっしゃらないんですよね」
「ええ……まぁ、はい……」
 おせちのCMの黒豆みたいに艶々した目が泳ぐ。おれから逃げているみたいだった。
「わたしの所為ですから、おうちのこと、手伝わせてください」 
「えっ! いや、いいですよ。そんな、悪いです。それに瑛子さんの所為ではありませんし……」
 瑛子さんはさらに俯いて、上目遣いの角度を深くする。
「さっきの、歯医者さんの人……」
「さっきの歯医者さんの人?」
 呟くような声量を何とか聞き取ったところで、瑛子さんはまた怒った顔をする。
「とりあえず、玄関までは送らせてください」 
 怒った喋り方も変わらなかった。おれの腕を取る。なんだか強引で、却って歩きづらい。さらには……
 腕を取られたとき、歯医者で頭に触れた摩訶不思議な感触が、今度はおれの腕に現れた。この正体をおれは知ってしまった。
 おれの腕は瑛子さんの胸に埋まっている。瑛子さんは無防備に、おれの腕を掴んで、ショルダーバッグのベルトみたいに、胸に食い込ませていた。
 否、瑛子さんは優しいのだ。義理堅いがゆえに尽くすタイプなのだ。邪な目で見るのは失礼だ。
「美鶴さん……」
「な、なんですか」
 正直なところ、歩きづらかった。けれども彼女の義理を通そうとする心遣いが嬉しかった。
 嬉しさとは別に、腕を引かれるのとは異質の歩きづらさも、おれの身体に顕れていた。彼女はグラビアアイドルではない。生身で接している人間だ。頭では分かっている。しかしながら、おれは健康的なまだまだ若者といえる年頃の男だ。女性の肉感というものに、抗いがたい魅力を覚えてしまうのも、無理のない話だと思うのだ。
「歯医者さんにいた人、綺麗でしたね」
 瑛子さんはもう怒ってはいなかった。けれども気持ちが沈んでいるようだった。
「え?」
「美鶴さんを案内してくれていた歯科衛生士さんですよ」
 何を以って綺麗というのかおれには分からなかった。顔立ちのことをいうならばマスクをしていたし、化粧についてはおれにはまったく分からないことで、スクラブとマスクと、穏やかそうな目元しか印象になかった。

 ……

 …………

 ……………

 それから大きな胸だ。
 おれは腕にある不思議な感触に集中してしまった。
「あ、あの……」
 窺い見た瑛子さんの表情は不安げで、おれは言葉を詰まらせた。おれが彼女の胸に腕を押し付けているからに違いない。腕を引いたが、彼女はおれを介助するつもりらしく、放してはくれなかった。何故。
 おれは肌に伝わる蒟蒻よりも柔らかい感触を忘れなければならなかった。地球温暖化と人々の便利な暮らしはどう折り合いをつければいいのだろう。紛争地帯の飢餓はどう食い止めればいいのだろう。田舎の過疎化、少子高齢化。グローバリゼーション、コングロマリット、コミットメント、アジェンダイシューファシリテート……
 玄関で立ち止まる。鍵を挿す。瑛子さんにお礼を言おうとしたとき、目が合った。おれの視線を鷲掴むような、強い力を感じる。
「わたしがおうちにお邪魔するの、嫌ですか」
「え……? いいえ! お疲れですよね、すみません。散らかっていますが、寛いでいってください」
 おれとしては、瑛子さんも早く帰りたいものだと思っていた。瑛子さんは怒っているし、悲しんでもいるようで、今は情緒が不安定なようだった。ストーカーに狙われていたのだから無理もない。まだ、解放されたことに慣れていないのだろう。誰かといたいのは仕方がないことだ。 
「美鶴さん……」
 腕に胸が当たる!
「あ、あ、あの……」
「歯科衛生士さん、可愛らしかったですね」
「え? いや、あの……マスクしてましたし……」
 瑛子さんは俯いてしまった。おれは返事を間違ったらしい。
「と、とりあえず、上がってください」
 挿した鍵がすべて入らない。おれは焦っていた。何度も突き挿そうとして、弾き返される。
「逆です」
 冷たい手が、おれの抜き挿しする手を覆う。柔らかい感触が腕を包む。もう隠せない。下腹部に血が集まっていく。体温が上がった気がする。身体中の傷が熱くなる。
「わっ!」
 おれは鍵を落としてしまった。瑛子さんは戸惑った目を向けて、鍵を拾ってくれた。彼女のしなやかな手が銀色の鍵を握って、鍵穴に通す。
 おれは捻られた細い手首を見詰めてしまった。おれが掴んだら折れそうだ。
「開けますね」
  彼女は律儀に一言断ってから玄関扉を開いた。それからおれを通す。ご丁寧に玄関扉を閉めて、中へ入ってきた。
「お邪魔します」
「冷蔵庫に飲み物があると思うので、テキトーにしてください。何のおもてなしもできませんから」
「わたしは美鶴さんのお手伝いをしに来たんです。何か飲みますか」
 瑛子さんはもう怒ってはいないようだったけれども緊張している感じがあった。彼女の尽くしたい気持ちを満たさないことには、彼女は帰らないようだ。
「あ、じゃあ、冷蔵庫にお茶の缶あるので、それを持ってきてください」
「冷蔵庫、お開けしますね」
 これが女子の世界なのだろうか。まめだ。リビングに隣接したキッチンへと回る瑛子さんの姿を目で追っていた。上面はそれで、内心では、腕に残る柔らかな感触を思い出していた。そして味わってもいた。
「着替えますか」
 瑛子さんは緑色の缶を2つ持って戻ってきた。おれはぼーっとしていた。妄想を逞しくしていた。
「へ?」
 おれの首に肌触りのい布が当たる。よくある普通のタオルだったが、爽やかな甘い匂いがするし、よくあるタオルの生地なのに、おれの知るタオルより柔らかい。
「汗をかいたでしょう。風邪を引いてしまいますよ」
「え? あ、はぁ……」
 タオルに気を取られ、瑛子さんの声を聞いているのに精一杯で、ろくに聞いてもいなかった。
「脱いでください。お着替えは、どちらに?」
「2階のおれの部屋なんですが……」
「お部屋に取りに行ってもいいですか」
「構いませんが、悪いですよ……」
「待っていてください」
 瑛子さんはおれをソファーに突き飛ばした。突き飛ばしたつもりはないのだろうけれども、おれは突き飛ばされた心地だった。ソファーが軋み、尻がバウンドする。
 おれは中学時代と高校時代に一度付き合ったことがあるくらいで、両方とも長続きしなかったし、今思えば浅い関係だった。交際経験はあれども、あまり異性と深く関わったことはないともいえる。
 おれは女を知らないのか、将又(はたまた)、瑛子さんを知らないのか。
 繊細ながら爽やかな甘い香りが、毎日長い時間を過ごすリビングに漂っている。
 瑛子さんはすぐに戻ってきた。渋い緑色の軽いパンツと、水色のシャツを手にしている。
「ああ、ありがとうございます……」
 女性の前で脱ぐのは躊躇われたし、瑛子さんも嫌がるだろう、どこか別室に移るだろう、少なくとも背を向けるだろうと高を括っていたが、彼女はおれを見ている。無の表情というにはまだ愛想の残っている、きょとんとした目が、おれを観察している。
「あ……あの、着替え、ますよ……?」
「ええ。どうぞ。汗を拭きますね。背中が濡れているようですから……」
 彼女は驚きもしなかった。タオルを手に構えている。背を向けるべきはおれだったのか。
 彼女に背を向け、シャツを捲る。肘も痛めていることを忘れていた。折れてはいないが、湿布を張ってある。
「痛っ……」
「だ、大丈夫ですか。ごめんなさい、気が利きませんでした」
 瑛子さんはおれの正面に回ってきて、汗ばんだシャツを捲り上げた。上半身裸を曝す。痣だらけの姿を見られるのはなんだか気恥ずかしい。
 瑛子さんの纏う雰囲気も変わってしまった。
「そんなに、怪我をしていたんですか」
「怪我というか痣ですね。すぐ治りますよ。あっはっは。喧嘩が弱くて、情けない」
 瑛子さんは首を振った。下唇を咥えるような仕草は拗ねた子供を思わせる。
「ごめんなさい……わたしの所為で……」
「瑛子さんの所為じゃありませんよ。加害者が悪いんです」
 瑛子さんがおれの裸を見詰めている。痣を数えているのだろうか。相手が瑛子さんで、おれ一人だけ脱いでいるのはやはり恥ずかしい。それでいて、瑛子さんに値踏みされている気がして、下腹が熱くなる。腫れたところはもう腫れて、あとは治るのを待つだけなのき、また新しいところが腫れそうだ。それはすぐ治まるけれど。針も使わず治すこともできる。
「それでも……」
「気にしないでください。ぼくは瑛子さんを守れて満足していますよ。ぼくはそんな自分が好きなんです。つまり自分のため。瑛子さんのことは二の次ですから、気にすることはないんです」
 視界が暗くなった。高校時代、男子校にありがちなノリで顔面ケーキをされたときに似た感触に襲われる。けれども温かい。顔にまとわりつくクリームもなかった。柔らかい。あまりにも柔らかい。湿気を帯びて、甘い香りがする。その裏に隠れているものが汗の匂いだとは分かるのに、とてもおれみたいなむさい男の汗とは異質の香りがする。
 瑛子さんの胸だ……
 おれは何が起きたのか分からなかった。どういう理由で、おれは瑛子さんの胸に顔面を埋めているのか。
 息は吸えた。けれども吐けない。息を吐けば、この柔らかさを失ってしまうような気がした。
 おれは困惑している。それは事実だ。本音だ。しかしながら、同時に、顔面の減り込んでいるこの柔らかさを惜しんでいる。
 中学時代は水泳部で、高校時代は何となく吹奏楽でトランペットを吹いていたけれども、限界はある。苦しい。
「あの歯科衛生士さんのお胸のほうが、大きい………ですか」
 息を吐いた。瑛子さんの着ている服に、おれの体温が染み渡る。
「へ? いや……ぁ、もご、」
 唇にも柔らかなものが当たる。柔らかいが、布越しに凹凸を感じた。ブラジャーだ。おれは喋った途端に息を吸ってしまった。瑛子さんの汗と洗剤の匂いが、脳髄を鑢(やすり)がけしていく。
「大きいお胸のほうが、好き………ですか?」
 おれは夢をみているのだろうか。おれは正気か? おれは気が狂っている? 
「あの歯科衛生士さん、お胸、大きかったですもんね……」
 大きかった。けれども瑛子さんだって……
 柔らかさがおれを潰す。身体中の痛みが引いていく。けれども焦りは消えない。現状が呑み込めないままでは溺れられない。
「ちょ、ちょ、ちょ……瑛子さん……」
 蒸れた匂いがおれの腫れ物を撫でていくようだ。酒臭さなんてひとつも混ざっていないのに、飲んだときのようなふらつきを覚えた。
「美鶴さん……お胸だけでも、いいから……お胸だけでもいい………お願い……」
 弱りきった声が頭上から聞こえる。おれが何かしたというの?
「わたし……あのね………」
 今にも泣きそうな瑛子さんを放っておけない。おれは巨大なタピオカでできた海から顔を出すかのように、柔らかなものからの脱出を試みた。
「美鶴さん……わたし……」
 おれを見下ろしていた、よく潤んだ目はゼラチン多めのコーヒーゼリーに似ていた。てらてら照り輝いているところとか。
「どうしたんですか、瑛子さん。なんだか様子が……」
 精神面に異常を来していると思う。しかしそれは仕方のないことで、咎めることではない。瑛子さんの責任でもない。けれど、おれの考えがどうであれ、直球な言葉はときに人を傷付ける。
「美鶴さん、美鶴さん……許してください……許してください。さっきの歯科衛生士さんに、わたし、ヤキモチを焼いてしまったんです。焦ってしまって……」
「ヤキモチ?」
 瑛子さんが嫉妬している。何故。女性は胸の大きい女性に嫉妬するものなのだろうか。そうだとして、おれには瑛子さんとあの歯科衛生士のどちらの胸が大きいかなんて分からなかった。比べるほど見ていられない。セクシャルハラスメントだし、本人にも失礼だ。
「瑛子さんには瑛子さんの良さがありますよ。嫉妬なんて、そんな……」
 当たり障りのない言葉を、今の彼女は欲しているに違いない。今は、どうしても、恐怖や不安から解放されて間もない。
 でも、瑛子さんの表情は晴れない。むしろ深刻そうでさえある。
「美鶴さん、わたし……あの………あの………」
 おれは瑛子さんの言葉を待った。それしかできないから。遮ってしまえば、彼女はまた言う覚悟を決めなければいけなくなる。
「わたし、美鶴さんのこと………頭から離れないんです」
 瑛子さんは自分の額を手の甲で拭った。
「それは仕方のないことですよ。怖い思い、したんですから」
 その場にいて、味方として認識したおれに親近感が湧くのは仕方がないといえる。おれの傍なら安心で安全だと無意識のうちに覚えたのだろう。他意はない。瑛子さんは少し天然だ。それも分からずに勘違いするほうが悪い。あのストーカーみたいに。
「違、くて………わたし………美鶴さん!」
 瑛子さんはおれの手を取って、胸に当てた。
「え!」
「これがわたしの、気持ちで……」
 瑛子さんは顔を真っ赤に染めて、おれはそれを見上げていたら、彼女の目から何か落ちて、コンタクトレンズかと思って掬い上げたら、おれの指に触れて消えていった。
 え? 泣いてる?
「あの、ごめんなさ、………あの……」
「泣いてるんですか」
 どう見ても泣いてる。いちいち訊くことでもない。涙流してるの、見て分からないのか?
「ごめんなさい」
 瑛子さんは目元を拭った。そして顔を隠してしまった。
「美鶴さんの気持ち考えなかったです。美鶴さんはこんなことで喜ぶ人じゃないのに……助けてくれた美鶴さんに酷いことをしてごめんなさい。泣いちゃって……困らせるつもりはなくて、本当に……美鶴さんに恩返ししたかったのに……」
 瑛子さんは気が動転していると思う。それか錯乱している。
「ま、まぁ、その……なんというか……」
 おれは立ち上がった。ちょっと捻った足首が痛むけれども、鎮痛剤を飲むほどではない。
 お互い悪いことにしてしまえば相殺(そうさい)できるなんて都合の良い考えで、瑛子さんの両肩を掴んだ。肘を上げるのは実はちょっと痛い。
「お、落ち着きましょう。ぼくは別に何とも思っていませんから……そう、だからつまり、悪いふうに受け取っていませんので、泣かないでください」
 そう言われても、涙なんて勝手に溢れるから瑛子さんは謝っているのに。
「酷いことをしてごめんなさい……」
 瑛子さんの頬を涙が落ちていく。静かに落ちていく。青空に飛行機雲ができていくように。おれはそれを見詰めてしまった。どさくさに紛れて、落ちていくところまで見ていた。大きな膨らみを作る胸に染みを作る。
「酷いことって、なんですか」
 おれは耳が拾った言葉で、雑に返事をしていた。今し方顔面を押し付けていた豊満な膨らみから、目が離せないでいた。
「無理強いしたことです……」
「何をですか?」
「そ、その………」
 瑛子さんは丸めた手を、胸に置いた。豊満な丸みが柔らかそうに撓(たわ)む。破裂しそうだ。それか重さに耐えられず、捥(も)げて、落ちてしまいそうだ。熟れた果実が落ちるみたいに。そしてアスファルトに叩きつけられて、熟しすぎた果肉は飛散する。
「その気のない美鶴さんを……あの………えーっと……」
「その気とは?」
 おれはもはや、まともに話も聞いていなかった。おれの精神は、視界の大きな割合を占める丸みに囚われていた。手を握り締める。人を殴った骨の痛みはまだ残っているが、力むと、それとはまた別の痛みが関節で燻り、肘にも響く。
「む、………胸を、さ……触らせたことです。本当に、ごめんなさい。こんなの、セクハラなのに……恩を仇で返して、申し訳なかったです……」
 視界が眩しく感じられた。おれが触れてしまった大きな膨らみ以外、白飛びして見える気がした。
「セクハラって、セクハラかどうか、この場合、ぼくが決めるんですよね。別に構いませんよ。その気だってあります。ぼくも人並みには、大きな胸、好きですから……」
 気障(きざ)だ、おれは。
「本当ですか……?」
 不安げな目に少しの活気が戻ったようだ。
「本当です」
 おれの下腹部(カラダ)がばか正直に証明している。
「美鶴さん……胸だけでも、いいですから……」
 瑛子さんは小さくなって、おれの胸に張り付いた。
「胸だけでいいですから、わたしを見てください……」
 瑛子さんは背伸びをした。顎に、彼女の唇が当たる。どういうことだ。

2 未完


 瑛子さんはさらに爪先立ちをして、おれの顎にキスする。これ、おれが下を向いたら口にする気なのだろうかとふと好奇心が湧いて、試しに顔を下に向けたら、瑛子さんはおれの唇にキスした。
 柔らかくて、チョコレートを溶かしたときのようななめらかさがあった。瑛子さんとのキスは呆気なかった。なんだか、ペットの犬猫の扱われ方に似ている。
 おれは初めてではないけれども、瑛子さんとは初めてで、そもそもそういう関係ではなかったし、何の雰囲気もない。
 瑛子さんはというと、もう背伸びをやめていた。おれには頭頂部しか見えない。唇を押さえていて、もしかしておれとキスするつもりなんかなくて、偶々の事故だったのだろうか。
「すみません。洗面所、あっちです。大事にはお互いの気持ちだと思うので……こんなのはただの物理的な接触です。忘れましょう。ぼくも忘れます」
 洗ってどうにかなる話ではないのだろうな。おれは気持ちの問題で片付けられるけれど、女性はそうもいかないみたいだ。これは汚(よご)れの話ではなくて、おそらくは穢れの話になるのだと思う。好奇心で悪いことをしてしまった。瑛子さんの行動は謎だけれども、おれが下を向くなんて思わなかったんだろうな。
「それが美鶴さんの答えなんですね」
 ハープの音色みたいな瑛子さんの声が少し低くなった。見た目よりは確かに低めな落ち着いた声をしているとは思ったけれども、いつもに増して。
「ぼくの答え?」
 濡れた目で睨まれて、訳が分からない。
「わたしは、事故だと思いたくないです。美鶴さんの唇の感触……ずっと覚えていてもいいですか」
 おれはとりあえず中学時代、高校時代と成績は上位のほうだったし、大学の成績も悪くなかった。けれども瑛子さんの言っていることが理解できないのは、おれが理系野郎の夜郎自大だからか? 
 言っていることの意味は理解できる。単語、主語、述語。けれどもそう発した意図が分からない。それではまるで……いやいや、どうして。瑛子さんは少し不思議な人なのだ。きっと、おれ以外にもそんな物言いをして、混乱と誤解をさせたに違いない。それでも妄想を暴走させて、瑛子さんやその周り人に迷惑をかけるほうが悪い。
「それはぼくが口を出すことではありませんね」
「気持ち悪く、ないですか」
「瑛子さんならいいですよ。他の人だったら分からないですけれど」
 瑛子さんの眉が下がる。
「初めてなんです……初めてのキスで……」
「そ、そうだったんですか。悪いことをしました。それは、忘れられないですよね……」
 女性は"初めて"というものに執着するらしい。おれのファーストキスの相手なんて保育園時代で、光景は覚えているが名前も顔も忘れた相手だ。
 おれの胸に置かれた手に力が籠もっていた。肌に爪が立つ。瑛子さんはまた背伸びをして、おれは力が加えられるまま腰を落とし、彼女のキスを受ける。
 こういうのは、された側の気持ちの問題だ。快・不快の直感的判断はおれにも備わっていて、おれが嫌ではなかっただけのこと。
「瑛子さん」
 けれども女性はどうだろう?
 積もり積もっていたらしき怒りは露ほども見せず、急に別れを告げてきた中学時代のカノジョとか、高校時代の友人の話を聞くに、女性は後から掌を返す。理由も告げず。おれ等愚鈍な男たちの奇行に、黙って愛想を尽かしていく。判断が後からなのだ。
 瑛子さんを引き離すと、また泣きそうな眼差しを向けられて、おれが何か酷いことをしているみたいだった。
「あとでぼくのこと、気持ち悪くなるかもしれませんよ」
 瑛子さんはおれの腕の無事なところを掴むと、おれをソファーに押し倒した。体格差も体重差も大きい。半分は、おれが押し倒されにいった。何をされるのか興味があった。大したことはない、なんて、ナメた気持ちがあったのも事実だった。
「大丈夫ですか」
 返事はなかった。ただ気に入らなそうに眉を顰める瑛子さんが視界いっぱいに広がった。髪がおれの頬に当たって、揺れるたびに男物のシャンプーとは違う甘い匂いがした。柑橘やミント系の匂いではなくて、花やいちごをイメージする香りだ。
 唇に柔らかなものが触れて、おれの頭は脳味噌を消して、代わりに綿菓子を詰めたみたいに軽くなる。慣れてしまっていたけれど、おれは自身の筋肉や骨や、髪を重く感じていたのかもしれない。
 瑛子さんの体重が重なり、おれの胸元には重量と質量のあるスライムが広がっていくようだった。
 あ、多幸感ってこれだ……なんて思った。お酒でもたばこでも手に入らなくて、多分いけない薬でも得られそうにない。
「瑛子さん」
 唇の感触が離れた。
「甘えてもいいですか……」
 とても、甘えたがっている人間の声音には思えなかったけれども、瑛子さんになら煮るなり焼くなりされてみてもいい気がした。やはりおれは彼女を甘く見ているのだろうか。小さな肩も、細い手首も、華奢な腰も、おれの気が変わればいつだって立場を逆転できる。"気が変わる"といわず、おれの主義・思想が変われば。
「どうぞ」
 おれは笑って見せた。甘えるのなら強い男がいいだろう。
「ごめんなさい……」
 瑛子さんの唇にまた塞がれて、これは瑛子さんが甘えているのか、おれが甘えているのか分からない。啄むような接触はどこか幼い。
 瑛子さん、慣れてないんだな……
 欲をかいて、もどかしくなって、おれからねだってしまった。瑛子さんの口紅のワックスみたいな味がした。
 瑛子さんはおれの髪を撫でて、汗かいたのに汚くないのかな、とか、おれのこと犬とかみたいに思ってるのかな、とか、考えていたら、冷たくて濡れたものが入ってきて、一旦思考が真っ白になった。それはおそらく舌だった。
 瑛子さんならおれは構わないけれども、瑛子さんのほうは一時の判断で、とんでもないことをしているのではないかなんて考えてしまった。
 瑛子さんの舌はおれの口の中に入ってきたはいいけれども、本当に入ってきただけだった。おれの口の中には美味しいおやつなんて隠れていないのに。
 瑛子さんはおれの口をトランポリンか何かだとでも思っているみたいだ。少し遊んで帰っていく。
「ごめんなさい……」
「瑛子さんはこういうキス、したことあるんですか」
 瑛子さんは首を振った。意外性は特にない。
「でも、されたことはあります……」
 伏せた睫毛が光って見えた。下がった眉といい、消え入りそうな声といい、また泣いてしまいそうだ。もう困らないように……引いては瑛子さんが泣かないように、おれは殴り殴られ、蹴り蹴られしたんだけどな……
 訊かなくても分かった。相手はあのストーカー野郎だ。可哀想な瑛子さん。上書きが欲しいのなら、叶えるのが男だろうがよ。
「ぼくが相手でもいいんですか」
 瑛子さんは首を落とすような頷き方をする。
「じゃあ、失礼します。嫌になったら叩いてください。この辺には痣、ありせんから」
 瑛子さんのとろんとした目がさらに熱っぽくなった。おれから攻めるという話でまとまったと思ったけれども、なんだかその眼差しはおれをその濡れた目で煮て食べてしまいそうな危うさを帯びている。唇もそうだった。多分おれがピンク色の口紅を舐め取ってしまったのに、塗る必要がなかったくらい赤く色付いて見えた。
 待たせるわけにもいかず、彼女の唇を吸う。砂糖とも違う甘い味がした。それは舌で感じたものではないような気がした。そう思い込まされているような、曖昧な甘さ。
 唇の奥へと進む。瑞々しい葡萄の皮を剥いたときの弾力に似ていた。
 瑛子さんが身動(みじろ)いで、彼女のなかに入っている生々しさを感じる。
 おれのほうが体温が高くて、瑛子さんとは大きな差があるようで、彼女の口の中は冷たく思えた。そのためか、あまり深いキスをしているような認識はなかった。おれに乗る瑛子さんの身体は湿気を帯びながらも熱く感じられたけれど。
 瑛子さんの口のなかは静かで、鎮座している彼女の舌を小突いてみた。猫ほどではないが、粗い質感を舌先に感じる。
 瑛子さんの舌が動いて、おれは持ち上げるために彼女の妙に力んでいるような堅さと重さのあるこの濡れた筋肉を掘り起こした。おれの口の中もよりいっそう濡れてきて、剥き出しの感覚器同士が擦れ合っている感じが強くある。
「ぁ………ん、ふ………、」
 瑛子さんの身体がおれの身体にさらに密着する。彼女の頭を支えるおれの口にも重みが増した。
 ディープキスはおれも初めてだった。けれども、今は便利な時代なもので、映像機器があり、それは携帯化されているも同然だった。卑猥な映像くらい、おれも観る。実戦経験はなくても、見様見真似で試すことはできるはずだ。
 持ち上げた瑛子さんの舌に絡みにいく。喧嘩中のオスのキリンが長い首をぶつけ合うような、そんなふうな光景になっているのだろう。
 でも、瑛子さんが逃げた。おれは絡みつくのをやめ、舌の全体重で彼女の舌に圧(の)しかかる。おれたちは人間社会を生きているけれども、おれたちの舌は野生動物みたいに熾烈な求愛行動と交尾をする定めなのだろう。
「ん………っ、」
 瑛子さんの漏らす吐息が、おれをさらに野生時代へ戻す。本能に刻まれていたみたいだ。「野生性(ワイルドさ)」というものが文明に駆逐されたとて、身体の芯の片隅にメモ書きされているもののようだ。家で本を読んでいようが、画面越しの異性のために着飾ろうが、ご立派な主義・思想を唱えていようが、腹は減る。眼前で、好みの女性がいたなら、おれの瞳孔は開ききって、陰茎は血を集めてくいくものなのだ。
「ぁ………ふ………み、ちゅる、さ………」
 瑛子さんに呼ばれるのは嫌いではないけれども、余裕があるのは男の沽券に関わらないか? 
 瑛子さんの舌に巻き付いた。彼女の口の中は甘くて力が抜ける。眠気に似た怠さがあるのに、それが気持ち良くもある。熱くなっているのがいけない。
 もはや虫の求愛とほぼ変わらない行動パターンだった。外へ誘い出して、空気に触れた彼女の舌はすぐに冷たくなった。ミミズやナメクジの交尾みたいに縺れ合って、おれは自分の身体がどこからどこまでなのか分からなくなっていた。溶けてしまって融合している気さえする。
 眠気を覚えながら、必死に舌を絡めていると、とうとう胸を叩かれた。愛想を尽かされたのかもしれない。どうする。
 おれから離れる瑛子さんの目も眠そうだった。疲労の眠気ではなくて、アルコールで酔ったときの眠気のように見えた。
「は………ぁんっ……、美鶴さん………」
 口紅の落ちた唇は糸を引いていたけれども、ピンク色の舌が舐め取りにかかっていた。1秒にも満たない再会なのに、おれと摩りあった証拠なんてひとつも残していなかった。おれもまた、瑛子さんに絡みついた感触なんてすぐに忘れた。
「だめでしたか」
 瑛子さんはおれの胸に顔を伏せた。腕の骨と重みを感じる。生きている感じがした。おれも、彼女も。目に見えるだけの平面的な存在なのではなかった。
「息が…………できなくて…………」
「鼻から吸うといいですよ。次は」
 おれは粋がった。あっさりと、何の未練もなく立ち去れる男が「強(い)い男」なのだと信じているから。
「もう1回、してみてもいいですか……? そ、その……美鶴さんがお嫌じゃなかったら……」
 瑛子さんの声は消え入っていく。それでもおれという人間は都合の良いことばかりよく聞き取れるものだ。
「ぼくは構いませんが……瑛子さんはいいんですか」
 瑛子さんは躊躇っているように見えた。頷くのにも迷いが見える。
「やめておきましょう。後悔しますよ。そうしたらぼく、嫌われちゃうな」
 瑛子さんは今度は勢いよく首を振る。
「嫌いません! 嫌ったりなんかしません。わたし……」
 つややかな肌に皺が寄っていた。眉根に。何か言いたいことがあるようだけれども言葉が出てこないらしく、首を伸ばしておれにキスする。意外とアグレッシブなところもあるのか。
 何度もおれの唇をトランポリン扱いして、冷たく舌を捩じ込む。挿れるだけではキスではないと学んだのか、おれの口の中を混ぜはじめた。一生懸命に、おれの舌を掻き混ぜようとするのが可愛らしくて、おれも協力した。洗濯機の真似事(まねっこ)をしたいのかと思ったけれど、瑛子さんはおれの口を枕にしているみたいにおれの身体に寝そべる。もう回る気はないのか、おれは簡単に瑛子さんの舌を拾えた。口の中でお姫様抱っこしているみたいだ。
「ぁ………ん」
 瑛子さんはぷるぷる震えて腕だけ立ち上がろうとしていた。
「大丈夫ですか?」
 持ち上がった瑛子さんの唇から多分、おれの涎が糸を引いていて、すぐに千切れておれの顎に落ちた。
「気持ち良くて……」
 泣きそうな声と、ぼんやりした酔っ払いっぽい目がセクシーで、寝るまで忘れられないかもな、なんて思った。寝ても忘れられないかもね。腕が少し痛いから激しい運動、できないのにな。
 人間はテレパシーとか読心術とかなくてよかった。今、失礼(エッチ)なこと考えているのが伝わってしまう。
「気持ちよかったなら、よかったです」
 瑛子さんはおれから目を逸らした。けれどもその視線はまだおれを見ている。おれの裸を。痣を見ているのかな。
「すみません、女性の前で、こんなかっこう……今、何か着ます」
「そ、その……綺麗で……」
「き、きれい? 痣だらけですよ」
「はい……でも………」
 一瞬、耳を疑った。鍛えてはいるけれども、おれの骨格では筋肉はつきづらいらしくて、普通の生活では逆三角形は作れないらしい。それに今は青痣だらけ。綺麗とは言い難いけれども……もしかして瑛子さんってサディストなのだろうか。
「あ、ありがとうございます。人それぞれ、好みがありますもんね……あっはっは」
 着替えるという意思は伝えたはずだが、瑛子さんはおれから降りない。おれに馬乗りになっている。
「あ、あの……」
 瑛子さんの手がおれの腹を撫でていく。筋肉フェチで、腹筋が気になっているのがしれないけれど、その手つきはいやらしいビデオで観たマッサージを思わせる。それでもぎこちないのは遠慮があるからか。
「お腰のものが……」
 おれはやらかしていた。おれのカーゴパンツはテントを張っている。
「あ……ひっ……いや、気にしないでください。生理現象で、その……気持ち悪いですよね。でも全然、瑛子さんは関係ないですから。放っておけば治まりますし。いやはや、いやはや。ちゃんと毎日"健康管理"しておくのが男子の嗜みなのに、ずぼらでしたね。あはは……」
 瑛子さんに対するセクハラかな? でも仕方ない。利き手は本当に動かすと痛いし、利き手でないほうなら気が散るし。
「わたしのせい……ですよね」
「え?」
「あ、えっと……わたしを庇ってくださったから………お怪我で………そういう意味です。あの……」
「え! ち、違いますよ……」
 瑛子さんは何をそんなに慌てていたのか分からないけれども捲し立てる。
 怪我が理由で"健康管理"ができないのはあるけれども、我慢できないなら痛くてもやる。おれが淡白なだけだ。周りの話を聞いていてもそう思う。"そのため"だけに1時間も動画や画像を漁ったりなんてできない。
「嫌なら、おっしゃってください。わたし……その、美鶴さんのお手伝いをするために来たんですし………その、わたし……」
 瑛子さんの泣きそうな目がまた潤んだ。俯きがちなせいで上目遣いにも見えた。おれより低い体温が"ソレ"の近くで緊張していて、意識してしまう。
「え、瑛子さん……そんな……」
「もし美鶴さんが嫌でないのなら、やらせてください。美鶴さんにはお世話になったのですし、これくらいのこと……」
 さすがにソレと家事代行(これ)は違うんじゃないか? けれども彼女がそう言うなら……とはいえ、ただの友人関係でそんなことをさせるのは爛れてはいないだろうか。仕事でも家族でもない異性にやらせていいのか。
 おれのムスコはさらにテントを大きくしていて、瑛子さんに触られるのを待っている。
「美鶴さんのなら、わたしは構いませんから……」
「嫌ではないですよ。瑛子さんのような方が嫌なわけありません。ただ……今後のことを考えると……瑛子さんとはまだ好い関係でいたいですし……」
 瑛子さんの弱々しい表情に、ほんの一瞬だけ怒ったような歪みが起こった。
「触りたいんです」
 男ならはっきりしろ、煮え切らない態度が鬱陶しい。そう言っているように聞こえる。確かにおれは、瑛子さんに選択を丸投げしている。
「じゃ……じゃあ、お願いします……すみません、こんなこと……」
 直後、瑛子さんの手がおれのテントを鷲掴んだ。カーゴパンツのくしゃくしゃした生地の上から、嫋(たお)やかな力加減を感じる。
「思っていたよりも硬い……」
 それは独り言だったのか、おれに言っているのか、判断ができなかった。
「触るのは、は……初めてですか……」
 大事なところを揉まれているせいか、おれの心臓は慎重になっている気がした。それでいて身体は熱い。けれども汗は冷たく感じられる。
「はい……」
「すみません、やらせてしまって……」
 悲しげな目がおれを見る。
「もし男の人の——を、触ることがあるのなら…………その、み、美鶴さんのがいいです……」
 なんだか告白をされているみたいで、おれの正直な聞かん坊は瑛子さんの手の中にあるというのに、大きくなってしまう。
「あ……っ」
 瑛子さんはおれの穢らしいテントから手を放した。掌を見ている。まだ出してはいないけれども……
 嗅がれている……?
「く、臭かったですか……!」
 おれは瑛子さんの細い手首を掴んでいた。毎日洗ってはいるけれども、所詮は汗も脂も多い男の肉体(からだ)のことだ。自分の体臭なんて、自分では分からない。
 瑛子さんはおれの臭いペニスを掴んだ手に鼻を近付けた。
「ちょ……」
「洗剤の匂いがします」
「手を、洗ったほうが……」
「でも……まだ………"終わって"いませんし……」
 瑛子さんの手はおれの手をすり抜けて、情けないテントに戻った。
 小人がおれの股間を歩き回るように、おれの勃起したペニスを触っている。拙(つたな)い触り方だった。男がどうやって、毎晩まぬけなことをしているのか、彼女はもしかしたら知らないのかもしれない。
「瑛子さん、やり方……知ってるんですか」
「……」
 瑛子さんのよく濡れた目が下に転がる。
「見たことは、あるんですけれど、………やったことは………」
 見たことはある。見たことはある? 見たことはある、とは。何故、やったことはないのに見たことがあるのか。いやいや、動画や画像のことだろう。一体おれは何を想像したのか。
「ご、誤解しないでください。弟のを、たまたま、見てしまっただけで……その、よくは知らないんです。あの………こ、こうすれば、いいんですよね……?」
 顔も名前も知らない瑛子さんの弟に対する同情心は、おれの粗末なブツに巻き付く指によって掻き消えてしまった。
「そう、です……」
 瑛子さんは布の盛り上がりを熱心に見詰め、手を動かす。カーゴパンツの生地がスースー鳴っている。
 布越しの刺激でも、数日間処理していなかった身体には十分なご褒美といえた。しかも瑛子さんみたいな綺麗な人の手コキで。
 壁掛け時計とカーゴパンツの音がおれに喋らせようとするけれども、喋ることなんてない。瑛子さんはおれの惨めなモグラを扱くことに集中している。
「美鶴さん」
「は、はあ……」
 しゃかしゃか鳴っていたカーゴパンツが急に黙ると、反対に瑛子さんが顔を上げた。
「これ、おズボンの上からでいいんですか……?」
「普通は、素肌だと思うんですけど……さすがに……」
 瑛子さんは俯いた。まるで、直接触れと言ったも同然だ。
「だ、だから、だいじょ………ぶ………」
 瑛子さんの手が、カーゴパンツを脱がせにかかった。怪我はしているけれども、ほぼほぼ健康体の男と女。体格差は大きくて、嫌なら抵抗できる。弱味を握られているわけでもなくて……
 おれのカーゴパンツのみならず、草臥れたパンツごと瑛子さんの身体が下降する。清楚なお顔の目の前で、おれの赤黒いグロちんぽがぶるんと震えた。
 恥ずかしい半分、どこか微かに誇らしささえ感じているものを見せびらかしていることに、少なからず悦びがある。
「わぁ……」
「瑛子さん……」
 瑛子さんは目を細め、鼻を突き出し、火傷したミミズのような陰茎を嗅いでいた。瑛子さんがおれの臭いものを嗅いでいる。数日前まで、おれがエッチな動画を観ながら、恥ずかしいかっこうをして、手垢を塗り込んでいた情けないハニワを、瑛子さんが鼻を鳴らして嗅がれている。
「嗅がないでください……」
 きっとおれのイカ臭さに幻滅している。おれの恥垢を鼻から身体に入れて……
「入浴剤みたいな匂いがします……」
 寝言のような曖昧な声音だった。大の男のペニスから、入浴剤の匂いがするわけがない。
「いつも美鶴さんからする匂い……」
 瑛子さんは眠そうな目をしていたけれども、おれの悪臭ちんぽを握った。
「う、」
 瑛子さんの体温が冷たい。けれど確かな感触におれは興奮している。
「痛かったですか……?」
「だ、大丈夫です……久しぶりだったものですから……」
 瑛子さんの手の震えが、また妙な刺激だった。
「下手(ヘン)だったら、おっしゃってください……」
 労っているのは伝わる。けれどももどかしい。腰を突き上げたら、瑛子さんは驚くのだろうか。
 日頃どれだけかっこいい男でも、"処理"を前にしてはサルより悍(おぞ)ましい猿猴(エテ) 公だ。
 慣れていない手コキなら、おれのばかムスコも萎えてしまえばいいものを、性欲に正直に、この機会を惜しいとすら考えて、天井を向いている。
「あの……」
 瑛子さんは不安げだった。怖くなったのかもしれない。男の汚いちんぽなんて、誰でも触りたくない。況してやカレシでもないちんぽなんて、触るだけ自己肯定感(プライド)が擦り減る。
「やっぱり、下手……ですよね……」
「いきなり上手いほうが怖いですよ。でも、瑛子さんに………瑛子さんの気持ちが嬉しいので、気持ちいいですよ」
 おれは嘘つきだ。バカ正直ちんぽとおれの気持ちなんて連動していない。けれども、「瑛子さんにしてもらっているから気持ちいい」だなんてセクシャルハラスメント以外の何ものなのか。これは介護で、性風俗ではなくて、セクシャルハラスメントよりド直球なことをしているけれども、根幹は瑛子さんの厚意にある。それを忘れるな。
 どれだけ理性を保とうとしていても、愚直なマラはどこまでいっても愚直で、これという刺激が与えられなくなった途端、縮む。男の沽券に関わる。しかし続けていても、瑛子さんの手と厚意を煩わせるだけなのだ。
「もう大丈夫ですよ。こんなのは放っておけばどうにかなりますから」
 すでに放っておいて治まる域を越えたけれども、瑛子さんを帰したあとに、"励め"ばいい。
「わたしに色気がないせいですか」
 おれは驚いて、すぐには反応できなかった。瑛子さんの言葉を何度か反芻しなければ、返事のしようもなかった。これは介護だ。けれども瑛子さんは、まるで恋人関係みたいなことを言う。
「目を瞑っていらしてください」
 瑛子さんはハンカチを丸めるやいなや、おれの目元に押し当てた。布が擦れ合う音がして、おれはどうしていいのか分からなかった。
「瑛子さん」
 おれは顔を揺らしてタオルをずらす。すると、おれのカーゴパンツと同じ色のブラ——下着をつけた瑛子さんがいた。白い花の模様が野原みたいだ。色白の大きな胸が寄せ合わり、黒い線を引いたような谷間を作っている。おれはそれをまじまじと観察していたのではなかった。ただ一瞬の視覚情報に焼きついたのだ。
「あ! ……えっと! 脱衣所が……」
 目に焼き付け、刻み込まれたというのに、おれの欲望は底が知れなかった。眺めていたい気持ちと、眺めていていけない社会規範がおれを板挟みにする。雑誌の印刷が織り成す谷間ではなかった。今ここにしかない立体感と、光源と、肉眼でしか得られない解像度が、おれの目を通し、おれのふざけた陰茎を膨らませる。空腹で胃がぽこつくように、玉の辺りからは"出す"用意も感じさせられる。
 放置されたおれのソレは、早く"出したい"と汁(なみだ)をこぼしている有様で、はやくしなければ、おれは頭の中に焼きつけた大きな胸の寄り合わさった線で、触らずに、事を終わらせてしまうかもしれなかった。
 瑛子さんの前で。触らずに。いくら優しい瑛子さんでも、そんな滑稽なところを見れば、悪口のひとつも言いたくなるだろう。社交辞令の擁護さえ、してはくれないに決まっている。そしておそらく、おれは建前すら言えなくなった瑛子さんの冷めた眼差しと残酷な態度に、またしても触らずに出してしまうのだ。
 甘美(いや)な妄想をして、腰が動きそうになるのを堪える。深く息をする。目も、瑛子さんのほうへ吸い寄せられそうなのだ。
「あまり見ないでくださいね……」
「も、もちろん、もちろん……」
  脱衣所は廊下を出て右だと言いたかったが言葉が出なかった。どさくさに紛れてもう一目見れはしないかと期待している自分が嫌になる。
「太ってるので……」
 おれは顔を上げてしまった。太るというのは大抵、腹回りのことをいうと思うけれども、まるで太っている感じはなかった。腹回りはおれの二の腕ほどしかない。胸回りは大きく、腹回りは砂時計みたいに細まって、胸ほどではないが腰で少し広がるだけだ。
「見ないでください!」
「ああっ! ごめんなさい」
 おれはどうしていいのか分からず、身体を起こして、瑛子さんに背を向けた。

打ち切り【TL】歯医者(仮題)

打ち切り【TL】歯医者(仮題)

歯医者に行った記念。治療中に考えていた話。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2026-02-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1
  2. 2 未完