映画『終点のあの子』レビュー
本作の中心にあるのは誰かから特別視されたいという渇望です。中島セナさん演じる朱里以外の全員がその渇きに喘いでいる。主人公である希代子も《こちら》側の人間。認められたいのに、認められない悔しさを見ないようにして、学校生活を送っている。
そんな蓋をした彼女の自意識を感知せんとばかりに、本作のカメラは冒頭から希代子の後ろ姿をずっと追い続けます。登校するために歩く街、電車に乗るために下りる階段、教室移動のために歩く廊下と日常を映す様々なカットで《希代子》の姿がただただ記録されていく。そこには物語の素材となるものが沢山映っているのに、そのどれもが何一つ語り出さないのは、彼女が主人公であろうとしないから。架空視点としてのカメラと共に、希代子はスクリーンの中で死んだように生きます。
そこに颯爽と登場する朱里は圧倒的な個の持ち主で、華があって、物語を始動させる力を持っています。けれどその走り出し方が余りにも性急であるために、画面の中のどの要素とも噛み合っていかない。違和感ありまくりの食い違い方は、希代子が通う中高一貫校に朱里が転校生として姿を現した時にピークを迎えます。教室という小さな箱にぎゅっと押し込められた存在感に、周囲の歯車たちがぎいぎいと鳴り出す。『終点のあの子』はこうしてその幕を開けます。
本作のストーリーラインを構図として書き出せば①朱里という個性と、②それ以外の皆んな=没個性を両極に置いて、その狭間を揺れ動く希代子の愚かしくも切実な願いが描かれていきます。無色透明な自分より、色鮮やかな《誰か》になりたいという本音が剥き出しになって叫ばれる。
スクールカーストの力学に大きく左右される相関図も、どの人物の視点で紐解くかによってストーリーの実感が大きく変わる代物となっており、最後には誰もが《希代子》で《朱里》になる一般性を獲得する羽目に。誰が、何を我慢すれば「ああいう事」にならずに済んだのか。その答えが全く見えないままに希代子が辿り着く《終点》は、かつて朱里が辿り着いた場所でもあり、そこで見るもの、感じるものの全てがやはり同じにはならずにすれ違っていきます。
劇中、最も優しい時間が流れるのは希代子と朱里が二人っきりでいるシーンで、そのどれもが美的に優れた珠玉のカットで作られており、交わされる会話も、交わる視線も、かけがえのない親密さに満ち溢れていました。そこにある感動を観客として知ったからこそ、二人が迎える終わりはひどく悲しく、苦しいものになります。
感覚を鈍らせて、割り切ることを覚えた頭の中で思い出すあの頃の《私》は幸せだったとは到底思えないのに、スクリーンの向こうにある対岸を背景にして、川幅に収まるように歩く二人の姿が見失わせる遠近感を目の当たりにすると「ああ、幸せだったのかも」と思えて止まなくなる。ぶ厚く被った大人面の上から、思いっ切りぶん殴られたようなこの痛みが本作に覚える一番の感動でした。
「並ばなきゃ買えない高級品のやつより、どこでも買えそうなメロンパンの方が美味しいよね。」
①値段という客観的指標と、②《私》の好みという主観的な価値判断が混在するこの台詞を私は何度も咀嚼しています。社会的動物としての人間がここでは綺麗に引き裂かれる。その怖さと気持ち良さが希代子に最も近付けるように思えるからです。
教室という箱が無くなった後でも、社会という器が私たちを待っている。そこで生まれるすれ違いは、けれど決して当たり前のようには生まれるものではありません。そこで裏返っている想いにこそ《あの子》が腰を落ち着けて、待っているのなら。走り出すのに十分な理由がそこにはあると言えるでしょう。
単純にビジュアルに注目するだけでも見応えのある作品なのに、本編では感受性が嵐のように吹き荒れる。そのギャップにとことん打ちのめされました。本当に素晴らしい一作です。私の中では本作の當真あみさんがベスト・オブ・當真あみ。興味がある方は是非。胸を張ってお勧めします。
映画『終点のあの子』レビュー