【TL】ジャメヴへ道連れ
記憶喪失ヒロイン/実姉ガチ恋美男子/ヤンデレ美青年/四肢切断→義手義足/独自世界観/強姦/監禁/暴力
1
天之渦靉靆(てんのうずあいたい)家は権勢家(けんせいか)だ。たいへんな名家なのだ。しかしこの家の八重という娘は恥知らずだった。心中し、自ら命を絶ち、自殺者循環輪廻律令法、通称「自輪法」で以て蘇った落魄者(らくはくしゃ)なのだ。
心中のために自ら命を絶ったこの娘は、恥なのだ。自輪法で蘇った輪者は、恥なのだ。
◇
八重には弟がいる。だが他人だった。血は繋がっているけれども、彼女にとって、弟は他人だった。ひとつに、歳が離れているのもある。もうひとつに、彼女には弟を弟と認識するだけの記憶が欠けていた。自輪法のためだ。
今日は一族会議だ。天之渦靉靆家一同が会す。けれども八重は大広間の前を掃いていた。輪者は出られない。
下働きたちの話では、弟の婚約者がこの会議で纏まるのだという。
「八重さん!」
障子が両側から開け放たれる。背の高い痩せぎすの女が現れ、癇癪の気を帯びた声を響かせる。普段よりも一際厳(いかめ)しい。
「はい……」
八重は縁側の女を見上げた。神経質げな眉根の皺が濃くなる。
「もうすぐ会議がはじまります。そこはもういいわ」
「承知しました」
相輪者は世に放たれ、世のため人のため、滅私奉公する身である。ところがこの峻厳な出で立ちの女は輪者となった娘を天之渦靉靆家に呼び戻した。親子の情はおそらくある。けれども八重は、その情というものを覚えていなかった。
中庭に移り、箒を丿乀(へつほつ)やっていた。会議の支度を終えた下働きたちが廊下を行き来する様が見える。鉢の中を泳ぐ金魚のようで、八重はこの光景が好きだった。
「こんにちは」
顔を上げる。焦げ茶色の髪を巾で包んだ若い男が立っていた。脇には野草の入った笊(ざる)を抱えている。涙堂を膨らませ、莞爾(かんじ)として表情こそ爽やかだが、前掛けを草の汁と土で汚している。野草採りの千羽哉(ちはや)だ。野草採りだけでなく、外の仕事を主に任されている。
「こんにちは、千羽哉様」
彼は微苦笑を浮かべる。
八重は天之渦靉靆家の長女だ。相手は下働きだ。けれども彼女は輪者だ。輪者は、囹圄(れいぎょ)の方様がお与えになった泰平の世と、その下にある権利と自由の身を拒んだ傲岸無知の強欲の罪人だ。世のため人のために尽くし己の罪を清めなければならない生き物なのだ。輪者の天之渦靉靆家の長女と下働きとは、どちらが目上で目下なのか、彼女には自身の立ち位置が分からない。
「糸鶴花(しづか)様のお相手が決まりますね」
「そうですね……」
立ち位置が分からない八重は、他の下働きとの関わり方も分からない。彼等彼女等の心遣いをどのように受け止めるべきか。
彼女は俯いた。
「……美味しい葉が採れたんです。天麩羅にしてお届けしますね」
「は、はい……」
千羽哉は人懐こい気質のようだ。会うたびに声をかけられ、雑談を交わす。気の優しい人間に違いない。
「あの……」
「はい」
「以前、御守紐を編んでいると、お話したのですけれど……」
「ええ、憶えていますよ」
彼は上面だけで会話をしているわけではないようだ。気軽さもあれば聡明さもある。
「あ、あの……それで、出来上がったら、お渡しするってお話したのですけれど……」
「憶えています」
八重はおそるおそる、千羽哉の目を見上げた。
「出来上がったので差し上げます。その、要らなかったら、自分で使いますから……」
八重は懐から組紐を取り出す。淡い紫色と緋色の糸で編まれている。弟の糸鶴花の腕の太さを借りて長さを決めた。
「頂戴します」
眇められた目元が眩しい。八重は目を逸らした。
「どうぞ……」
「片手が塞がっているので、縛っていただけますか」
千羽哉の白い腕が目の前に伸びた。弟のことは、周りが弟だと言っている。弟も姉として接している。そのためか弟に対しては覚えない緊張が八重の指先を震わせる。
「ふふ……大丈夫ですか」
「き、緊張してしまって。ごめんなさい……」
編むときほど細かい作業ではないというのに、紐を結ぶほうが彼女には難しく感じられた。紐の端にもう片方の端を巻き、引っ張る。弟の腕に合わせた長さは千羽哉の腕にも合っていた。
「嬉しいです。ありがとうございます。この組紐を眺めて元気をもらいますね」
彼は笑った。眩しさに、八重は顔を背ける。
「そんな、大したものではありませんよ……」
優しい彼にむしろ元気付けられてさえいる。騒がしくするのは苦手だが、人と話すことが大嫌いなわけではなかった。しかし彼女は家族とも、下働きとも、どう接していいのか模索中なのだ。そして試行回数が圧倒的に少ない彼女には手応えが得られないままでいる。
「だって、八重お嬢様が作ってくださ――」
「姉さん!」
小鳥の囀りを遅れて耳が拾った。縁側を駆ける者の姿が竹林の奥に見えた。
千羽哉が先に捕捉した。彼の視線の先を辿る。浅朱色の羽織を身に纏った弟が立っている。まったく似合っていない。借り物を着せられているようだ。浮いて見えた。
「姉さん」
どれだけ弟が絶世の美男子と崇め奉られようとも、似合わないものはある。囹圄の方様から賜(たま)わった緞子(どんす)は弟の髪色にも血色にも合っていない。華霊鬢鳥(かりょうびんか)の尾羽根、鵺の被毛、麒麟の鬣(たてがみ)を使っているという話だが、似合わないこともあるようだ。
「姉さんも出席するべきです」
弟の糸鶴花は昏い瞳を一度、千羽哉に向けた。母譲りの神経質げながら凛々しさのある眉を寄せてから、八重を捉えた。
小鳥が囀る。しかし鶯張りの床板が軋んだのではない。生きた鳥が中庭に集まり、庭石にはトカゲが姿を現した。八重と千羽哉の間にアゲハチョウが舞う。
「わたしは参加できませんわ」
「貴方もこの家の人間です。出席する義務があります」
冷ややかな目に見下されている。弟のはずだが、脅威のようでもある。
「奥方様のお許しを得ておりませんし……」
「奥方様ではありません、母上です。姉さんは当主の決定よりも母上の意思を尊重なさるのですか」
八重は目を泳がせる。
「わたしは出られません。清浄な場所ですもの。奥方様の……"母上"を尊重してくださいな……」
糸鶴花は彼女の奥にいる千羽哉を睨んだ。
「俺の結婚は姉さんも無関係ではないのですよ」
関係上、確かに無関係ではない。義妹ができる。だが形式だ。
「そうですけれど……」
「俺の結婚相手の決定の場です。姉さんにも同席してほしいという弟の願いを叶えてはもらえないのですか」
弟は輪者の姉であろうとも姉弟としての関係を維持しようと努めているようだった。彼は屡々、出掛けるにも、茶を飲むにも八重を誘った。千羽哉に渡した御守紐の制作にも協力していた。
「分かりました。出席いたします」
八重は野草採りを振り返った。
「いってらっしゃいませ」
彼は頭を下げる。
弟の口添えによって参加が認められ、会議は恙(つつが)なくく終了した。
弟の婚約者と挙式の日取りが決まった。一方的な決定だったが天之渦靉靆家の申し入れを拒むことのできる家はない。
八重は真っ直ぐ自室に帰った。会議のあとの食事会は断ってしまった。
彼女は一人でいるのが好きだった。輪者になる前の自身がどのような暮らしをし、どのように母や弟と接していたのかも記憶になかった。言葉は憶えているようだが、忘れているものもあるのかもしれない。
組紐を編む。耳掻きのような小さな返(かえし)のある棒を繰った。
「姉さん」
襖が叩かれる。
「はい……」
襖が開き、弟が現れる。会議のときと同様の愛想のない不機嫌げな面構えに、暗い色味の着流しが似合っている。
「入っていいか」
「どうぞ。お茶を淹れてきます」
組紐と編み棒を置く。立ち上がりかけたところを弟が制した。
彼は傍に来ると、腰を下ろした。そして八重の置いた組紐を見る。
「作業を続けてくれ」
八重は当主を前に躊躇った。しかし腰を下ろしたきり、何も言わない。室内を見回すと八重を見詰めた。
彼女は編み途中の組紐を手に取るが集中できなかった。
軈(やが)て弟は寝転がった。暫くは自身の腕を枕にしていたが、そのうち畳を這い、頭を八重の膝に乗せた。
「ど、どうかなさったのですか」
弟もまた人は苦手なようだった。おそらくは輪者になる前も、八重は人との関わり合いをそう好みはしなかったのだろう。血の繋がった弟がそう示唆している。
そういう弟が自ら触れ合いを求めている。何かあったに違いない。
「何でもない」
組紐は編めなかった。目を閉じた弟の美貌を見下ろす。天之渦靉靆家奥方に似ている。顔立ちの線は細いが、眉や目元に逞しさがある。
「この前の編み物はどうした」
「千羽哉様にお渡ししました」
「貴方はこの家の長女で、あいつは下働きだ。関わり合うのは好きにすればいいが、"様"は要らない」
彼女の微苦笑を浮かべた。この若き当主は誉れ高き天之渦靉靆家に輪者が出たと認めたくないのだろう。
「姉さんは」
「はあ」
「俺が結婚することをどう思う?」
「おめでたいことだと思います」
「姉さん」
「はあ」
「俺も姉さんの組紐がほしい」
薄い目蓋が持ち上がり、折り重なる。黒い目が真っ直ぐに八重を貫く。
「承知しました。すぐに編みます」
手慰みに編んでいたものを畳の上に置くと、弟の手が伸びた。手が重なる。
若くして天之渦靉靆家の当主になった弟は、他に甘える相手がいないのだろう。頼もしくも、哀れな子供なのだ。
「それは?」
「編んでいないと落ち着かないものですから……」
「誰のものでもないのなら、それがほしい」
「これは作りが粗くて……」
「いい。姉さんのものがほしい」
結婚が決まり、神経質な気質がさらに研ぎ澄まされているのだろう。
弟の手が徐々に汗ばんでいる。
指と指の狭間に、彼の指が割り入った。いつにも増して人懐こい。余程会議で疲れたのだろう。
八重の指が強張った。
「姉さん」
「はい……」
「姉さんが忘れる前からこうしてた……驚いたか」
「いいえ……お疲れだったのですね」
弟の薄い唇が綻ぶ。彼は目蓋を下ろし、梅の実の曲線を携えた。
「姉さん」
「はい……」
「もし母さんや結婚相手に嫌なことをされたら俺に言え」
「ありがとうございます」
寝息が聞こえた。気を張っていたようだ。仲の良い姉弟だったのだろう。何故、このような弟がいて自死を選んだのか彼女には見当がつかない。
八重は膝を抜こうとした。膝掛けを取るのに手を伸ばすだけでは届かなかった。
「……悪い」
「座布団を持ってきます。首を痛めてしまいますから」
「姉さんがいい」
弟は寝返りをうって八重の膝を押さえつけた。
「風邪をひいてしまいます」
「姉さん……」
八重は弟を畳に添えて立とうとしたが、尚も弟は八重を押さえつけようとする。
「あ、」
爪先が畳に引っ掛かる。身体が均衡を崩す。真下にいる天之渦靉靆家の当主を潰すわけにはいかない。
しかし弟も俊敏に動いた。彼は起き上がると八重を抱き寄せる。そして片腕で着地した。
襖が爆ぜた。
「八重お嬢様!」
千羽哉だった。踏み込んだ足が止まる。
「姉さんは無事だ。問題ない」
真上から見た弟の眼差しは冷え切っていた。声も凍てついている。威厳を守るために必死なのだろう。当主は孤独なのだ。
「それより、お前は下働きだ。立場を弁(わきま)えろ」
空気が張り詰める。寒風のような粗さが肌を擦っていくようだった。
八重は千羽哉の持っていた皿を見た。緑色を透かした天麩羅が乗っていた。中庭での話を思い出す。
「わたしが呼んだのです」
弟の腕に縋りついた。
「八重お嬢様……」
「…………………そうか」
弟は徐ろに立ち上がる。そして千羽哉の脇を通っていった。
「そういうことならすまなかった」
後姿が消えていく。
千羽哉も主を見届けてから八重に戻ってきた。
「八重お嬢様……庇ってくださってありがとうございます」
「いいえ……けれど、千羽哉様……弟のこと、悪く思わないでくださいませね。意地が悪いというわけではないのです」
「よく承知しています」
焦げ茶色の目と目が合う。
「……天麩羅を試作したんです。八重お嬢様に召し上がってほしくて……」
「いただきます」
千羽哉の強張っていた頬が緩んだ。
弟が明日、結婚する。
八重は中庭を掃いていた。屋敷は騒々しく、下働きたちは慌ただしい。
「八重お嬢様、おはようございます」
脇に山盛りの草を抱えている。
「おはようございます」
襷(たすき)掛けされた袖から伸びる土汚れまみれの腕を組紐が彩っている。
「明日の婚礼料理です。楽しみにしていてください」
八重は頷いた。
+
自室の襖が横に飛んだ。そして柱にぶつかり、跳ね返った。足音も一言もなかったために、縫い物をしていた八重は息を呑む。
「姉さん!」
怒声によって4畳の部屋が揺れた。弟は自身の肺を破るのも厭わないような声量が、まだ室内に残っている。
「は、はい……」
驚きのあまり呼吸が乱れ、頭は真っ白になった。
「俺の挙式に出ないだと! どういうことだッ!」
弟の眉は吊り上がり、目は血走り、唇には血が滲んでいる。
「奥が……母上が、それでも構わないって……」
「そう言われたのか」
肩を力強く掴まれ彼女は狼狽えた。弟と目と目を合わせた途端、逃げられなくなった。
「ち、違いますけれど、でも、清浄な場に、わたしは……」
「何度も言わせないでくれ! 貴方はこの家の長女だ。卑屈になることは俺が許さない」
歯軋りが聞こえた。鋭い目が潤んでいる。
「ごめんなさい……」
「貴方は堂々としていていい。貴方は俺の姉だ。姉さん……そんな莫迦な真似をして、俺の顔に泥を塗るな」
弟の眉尻が落ちる。肩を掴んでいた力が抜けた。彼は膝を下ろし、背に腕を回す。
「俺の姉さん……」
八重の視界は翳った。弟の胸元に塞がれていた。
「ごめんなさい、糸鶴花さん」
「分かればいい。分からない連中がいるのなら俺が分からせる」
姉想いの優しい弟だ。天之渦靉靆家を担う重圧に、姉の存在がさらに重荷となって圧(の)しかかっている。
「母上には、俺から話をつけてくる」
弟はそう言って部屋を出ていったが、天之渦靉靆家奥方には自ら説明するのが不肖の娘なりの礼儀のように思われた。
下働きを捕まえ、天之渦靉靆家の奥方に取り次いでもらうと、奥方は反対もせず、喜びもしなかった。ただ報告を報告として受け取るだけだった。
ところがその夜に、下働きに呼び出され、行ってみると、分家の何人かが待っていた。当主の婚儀の出席を遠慮してほしいというのが彼等の用件だった。清浄な場であり、慶賀すべき式である。輪者の存在は水を差すことになり、不吉である。よって天之渦靉靆家の長女であろうとも、弟のために辞退してほしいというのが言い分であった。そしてそれは八重にとっても正しい意見であった。間違いのひとつも見当たらないのである。弟がどう思ったとしても、嫁はどう思うのか。
八重は弟の意向を話した上で、糸鶴花には当日まで言わないことで決着した。
+
千羽哉は首を傾げた。
「どうかなさったんですか」
麗らかな眼に覗き込まれ、八重は後退った。
「あ、いいえ……考えごとをしていて……ごめんなさい」
「糸鶴花様のご結婚ですからね。緊張もしますよ。私(わたくし)のほうこそ失礼でした」
淑(しと)やかな無邪気さが眩しい。
「わたし、式には出ないことになったんです」
「えっ」
「誤解しないでくださいませ。糸鶴花様は出るようおっしゃられたんです。奥方様もどちらでも良いとおっしゃられました。けれど、よくよく考えると、お相手のことを考えていないことに気付いて……だから千羽哉のお料理は楽しみではありますけれど、いただけないのです。せっかくのお料理を無駄にしてしまうのは気が咎めるので今、申し上げてしまいます」
八重は俯いた。
「糸鶴花様はそれをご存知なんですか」
「いいえ。式直前まで言わないよう口止めしてあります。弟もああ見えていっぱいいっぱいのようですから、余計なことに手間を取らせることもありませんし……」
「そうですか……そういうことなら八重お嬢様のお部屋までお持ちします。八重お嬢様に是非とも召し上がっていただきたく、腕を振るうつもりですから」
涙袋を膨らませ、細められた目元の奥の輝きが瑞々しい。
近くを通った下働きが八重を呼んだ。弟が探している。同時に廊下を駆ける気配があった。床下の鶯が囀っている。
「姉さん!」
はしたないことだ。弟の声が中庭に染み渡っていく。
「姉さん」
糸鶴花は八重の見える位置で屈んだ。当主を継ぐ前の荊小僧(ばらがき)のような挙措(きょそ)に品はない。一度千羽哉を睨んでから姉を捉える。
「衣装合わせは終わっているのか」
「はい。3日前に」
弟の不機嫌げな美貌が滲む。
「明日、本当に……出てくれるんだろう?」
弟の手が八重の手を掴んだ。
「ええ、もちろん。弟の婚礼ですもの」
弟の望む返答をしたというのに、彼はより不安を抱いたようだった。
「明日着る物を姉さんに選んでほしい」
カラスアゲハの翅のような目は八重から逸れた。彼女の後ろを見ていた。
「いいか」
「失礼します」
背後で千羽哉の去っていく気配があった。
「承知しました。箒を片付けてから伺います」
「すまない。姉さんがいないと、何もできない。俺は」
弟の冷たい手が八重の頬を撫でる。掌で撫で、指の背で撫で、手の甲で撫でる。
「姉さん」
箒を片付ける隙などない。弟の手は八重を放さなかった。耳をなぞり、頤(おとがい)を辿り、顎を掬う。
「俺がどういう女と結ばれたとしても、姉さんより好い女ではないのだろうな」
結婚すれば生活が変わる。血の繋がらない女が同じ屋根の下に加わる。気を揉んでいるのだ。弟は嫁に来る女とそう親しくないようだった。神経質なこの少年が姉を離れ、妻に甘えた姿を曝け出せるのはいつになるのだろう。
「何をおっしゃいます」
「明日……俺から一番近い席にいてほしい」
八重は息を呑んだ。
「承知しました。糸鶴花様の仰せのとおりに……」
「弟に"様"はよせ」
闇夜を閉じ込めた眸子(ぼうし)を見上げる。
八重の顎を撫でていた指が彼女の唇に触れた。紅を塗るように端から端へ這っていく。
「糸鶴花様……」
「こら」
「……糸鶴花さん」
伏せった睫毛に潜む光が揺蕩う。
「箒を片付けに行くのだろう」
「直ちに」
八重は箒を握り、裏庭の納屋に向かった。掃除用具入れはそのなかにある。
納屋の戸に指をかけると、視界の端に千羽哉が見えた。ふと彼のほうを向いた。爽やかな微笑はない。思い詰めた表情で下を向いている。
「八重お嬢様」
「どうかなさったのですか」
「口煩い小言だと思っていただいて構いませんが、」
弟を待たせていることも忘れ、悠長な態度でいる千羽哉を待った。
「八重お嬢様と糸鶴花様のやり取りは、少し……その………姉と弟の域を超えているような気がして……」
千羽哉は唇を噛んだ。
「まあ……」
八重は思わず口を覆った。
姉と弟の真っ当な関わり方を知らない。弟の求めるまま接するのが年長者の務めではないのか。
「差し出がましいことを申しました」
「以前のわたしも、そうでしたか」
千羽哉は口角を吊り上げる。
「いいえ」
「……お恥ずかしい話です。教えてくださってありがとうございます。今後、気を付けます」
八重は頭を下げた。
「八重お嬢様」
千羽哉の足は急いているようだった。
「悪く思わないでくださいまし。糸鶴花様の婚礼が終えてから申し上げるつもりでおりましたが、はしたなくも気持ちを抑えつけておくことができなくなってしまったのです」
彼は八重の前に立つと、箒を握る手を上から押さえた。冷たい掌は微かな水気を帯びていた。手を洗ったばかりのようだ。石鹸の匂いが立ちのぼる。
八重は戸惑う。
「糸鶴花様とのことなら、善処いたしますわ……」
「そのことではありません。身分の違いは重々承知のうえで、私(わたくし)は――」
「おやめなさい!」
金切り声が裏庭に谺(こだま)する。竹林を突つきに来ていた小鳥たちが一斉に飛び立った。
「千羽哉。何を考えているの」
顔色の悪い長身痩躯の女は天之渦靉靆家の奥方だ。
千羽哉は悪怯れる様子もなく、凛として奥方に身体を向けた。
「見張っていらしったのですか」
「糸鶴花に貴郎(あなた)も呼ぶよう言われたのですよ」
「わざわざ奥方様 直々(じきじき)に呼んでくださるとは恐縮です」
天之渦靉靆家奥方は千羽哉を睨む。
「八重さん」
「はあ」
「この際ですから、八重さんの輪者になる前の身の上についてお話しますわ。千羽哉、貴郎も来なさい」
弟にも呼ばれている。足が惑う。
「八重お嬢様はこの後、糸鶴花様と衣装合わせがございます」
「まあ。いつから貴郎は八重さんの付き人になったのです」
「命じてくだされば今からでも」
「あの子には自分で決めるよう申し付けておきます」
奥方は踵を返す。千羽哉に微笑を向けられ、八重は急いで箒を返すと後を追う。
芍薬のごとき後姿が振り向く。
「距離が近くてよ!」
裂帛の叱責が中庭を抜けていく。
「いいですか、千羽哉。いくら輪者といえども八重さんは天之渦靉靆家の長女なのですよ。輪者だからといって見縊られては困ります。身分が違うのです。勘違いしないで。それに八重さん。貴方は確かに輪者ですが、天之渦靉靆家に呼び戻された以上は、この家の長女なのです。貴方が卑屈になって、隙を見せるから下働きたちも混乱するのです。千羽哉の勘違いは彼だけの咎ではありませんよ」
「奥方様。僭越ではございますが、それは違います。八重お嬢様には何の落ち度もございません。私が勝手に思い上がり、勝手に勘違いをしたのでございます」
「千羽哉。貴郎は薬師(くすし)としても料理人としても、剣術師範としてもたいへん優秀です。それは認めないほうが愚かというものでしょう。けれど多少劣っていても、代わりはいるのよ」
表玄関へ向かう途中で奥方は下働きを呼び止め、糸鶴花へ伝言を託した。
2
心中なのだという。八重が輪者になったのは心中のためだという。しかし、思い出すことは何ひとつない。
「心中ということは、その相手も輪者ということですか」
千羽哉(ちはや)が訊ねた。どういう経緯で八重が輪者となったのか、彼も知らないようだった。
芍薬と紛う後姿は茶を3人分淹れたきり、千羽哉のほうも八重のほうも向こうとはしない。
「相手の男は八重さんが殺めました」
殺害したといわれても、やはり八重には実感がない。相手の名前どころか顔すら憶えていなかった。
輪者に記憶はない。八重だけが特別、母や弟のことを憶えていないのではなかったのだ。
「けれど誰の目にも心中が目的であることは明らかでした。或いは自輪法が適用されて、輪者として生きているのかも分かりませんね」
天之渦靉靆(てんのうずあいたい)家奥方の汀(みぎわ)は茶を啜る。
「千羽哉」
「はい」
「そういう理由ですから、八重さんをまた色恋の業沼に巻き込むのはおやめなさい。八重さん、貴方はこのまま独り身でいてもらいます。それが相手方への償いというものです。記憶にはないのでしょうけれど……」
「承知しました」
八重には記憶がない。だからこそ、人を殺めていないという証人が、自身のなかにもいないのだった。けれども実感がなければ、罪悪感も抱けない。
畳が擦れる。千羽哉が膝を進めた。
「奥方様。しかしそれでは、八重お嬢様の仕合わせは……」
「仕合わせ? それは輪者になる前のお話です。輪者に仕合わせはありません。囹圄(れいぎょ)の方様のお治(おさ)めする世を自ら捨てるなど、国家への反逆です。また"生まれ変わった"ことを感謝こそすれ、仕合わせではないと申すとは何事です」
汀奥方は千羽哉を睨む。
「私(わたくし)の仕合わせに、八重お嬢様が必要なのです」
「貴郎はよく働いてくれています。天之渦靉靆家ほどの家柄でなくとも、貴郎の働きに相応しい家のご令嬢を紹介するのは吝(やぶさ)かではありませし、難しいことでありません。ですからどうか、八重さんを誑(たぶら)かすのだけはやめてちょうだい。娘が心中を企て、人を殺し、輪者となって記憶もなく目の前に現れる母親の気持ちが貴郎に分かって?」
八重は千羽哉の横顔を見詰めた。焦げ茶色の瞳に喜びはない。彼はただ、力無く口を開いている。
「何故、八重お嬢様は心中を選んだのです。今、この場で奥方様が認めてさえくださるのなら、私には心中を提案する理由がひとつもございません。二度と繰り返されることはないはずなのです」
「心中する理由なんて私に分かるものですか!」
八重は膝を凝らしていた。彼女は自身の話をされているというのに、彼女の知らないまったく違う人物の話をされている気がしてならなかった。この場に居る必要はないのではないか。
「八重さん、貴女は糸鶴花(しづか)を手伝っておあげなさい」
「はい、奥方様」
「八重さん。私は貴女をこの腹から産んだ母親です。そのような態度が周囲を惑わすのですよ」
「申し訳ございません、母上」
八重は頭を下げ、部屋を出た。
糸鶴花は平生(へいぜい)から不機嫌そうな面構えをしていたが、侍女に着替えさせられている彼は、よりいっそう、不機嫌な表情を浮かべていた。
「遅参いたしました。申し訳ございません」
障子を開ける前と同じ口上で詫びると、弟はもともとの不機嫌げな面構えに戻った。
「明日の婚儀のことで、何か言われたのですか」
「いいえ。糸鶴花様が結婚なさった後のことを、奥――母上とお話していたのです」
弟の眉間に深い皺が刻まれた。冷淡な印象を与える目は吊り上がり、唇が歪む。
「千羽哉の姿もあったそうですね」
「はい。千羽哉様も一緒です」
「"様"は要らない。何故、千羽哉が一緒なのですか」
「……偶々一緒にいたものですから………」
「偶々一緒にいて、母上が千羽哉も共に来るよう命じたのですか」
八重は目を逸らした。逸らした先に、糸鶴花を待つ侍女たちの姿を認めた。着せることも脱がせることもできず、手が止まっている。
「糸鶴花さ――糸鶴花、とりあえず今は、お召し物を決めてしまわないと……」
「そうですね。失礼しました」
弟は両腕を上げた。綺羅びやかな布が肩から滑り落ちていく。
「こういったことは俺は不得手ですし、侍女たちも俺が相手では遠慮することでしょう。姉さんの忌憚ない意見を聞かせてください。俺は姉さんのくれた組紐を着けるつもりでおりますから、それに合う色で……」
千羽哉の言葉が耳に残っている。甘やかすことは弟にとって好くないことだ。また弟が輪者の姉に媚び諂(へつら)い、機嫌を取っていることも家にとって健やかではないのだろう。
「婚礼の場にわたしの組紐は不相応ですし、お相手の方にも悪いですわ」
「俺はそうは思いません」
「お相手のいることです。その方と円満な未来(さき)を願っての式なのですよ。気に入ってくださったのはとても嬉しいけれど、相応しくありません。姉はそう思います」
弟の面立ちを飾る拗ねた表情が打ち砕かれ、角張りを失った目が八重を捉える。
「分かりました。明日は外します。姉さんも、近くにいてくれるのでしょうね」
「もちろんです」
明日は慌ただしい。弟も緊張しているだろう。姉の在不在に気を回している余裕もないだろう。
八重は紐を編んでいた。すでに指が勝手に動いている。
人殺しだった己の過去が、ふと彼女の項に水滴を垂らす。実感はない。ゆえに罪悪感もない。殺された相手の顔も名前も憶えていない。だが、殺人者だったというのだ。ならば、天之渦靉靆家の当主と仲睦まじくあるのは、家名に泥を塗っているも同然ではなかろうか。
「姉さん」
襖の奥で弟の声がした。行き交う紐が止まる。まるで試されている。
弟は行儀がいいのだ。気品も風格も当主に相応しい。襖を開けもせず待っている。それを毀すことがあれば、それは輪者を傍に置いていることだ。
「姉さん……? 具合が悪いのか」
千羽哉の言葉が耳の裏で波紋を描く。
「今は忙しいわ」
「忙しい? 明日のことか。手伝えることがあるのなら手伝おう。今日は時間を割いてもらって悪かった」
「糸鶴花さん。もうここに来てはいけないわ」
千羽哉の言葉が耳に轟いている。姉と弟との接し方が八重には分からない。
「何故」
襖越しの声が地を這う。
「お相手の方はきっと寂しくなります。生まれ育った家を出てくるのですから」
「……それなら破談にする。俺は姉さんと居られればそれでいい」
「世継ぎはどうするのですか。当主なら、家のことを考えないといけませんし……」
「母上に何か言われたのか」
「いいえ……」
「この襖を外しても構わない。姉さんの部屋を俺の部屋に移しても……姉さんと居られないのなら、俺がこの家を守る理由はない」
八重は立ち上がった。そして襖を開けた。すべて開けずとも隙間から潤んだ眼が覗けた。
「姉さんがいないのは嫌だ」
襖を開ききった途端、弟の腕が伸びた。八重を掴むと、膝から崩れ落ちる。
「姉さんに拒まれるのは我慢ならない」
八重は後退りかけたが、弟から離れることができなかった。
「千羽哉とどうにかなるのか? だからそんなこと言うのか、姉さん……今日、千羽哉が呼ばれたのも……」
弟は勘が鋭い。だが見透かしているわけではないようだ。
「千羽哉さ――んは関係ないです。わたしはどこにも嫁がせないと今日、奥――母上もおっしゃっていました」
「………どうして嫁ぐ嫁がないの話が出た?」
「は………話の流れです」
弟は立ち上がった。そして八重を掴む手にいっそう力を込めた。
「千羽哉に求婚されたのか」
「されていません……」
潤んだ目が沸き立っている。煮溢れが噴き出てきそうだった。
「姉さん……独りにしないでくれ……俺を独りにしないで……」
八重の手を引き、彼は自身の頬に当てた。
輪者であるということは、自殺をしたということだ。弟は一度、姉との死別を味わっているのだ。
「ごめんなさい、糸鶴花さん。酷いことを言ったわ」
千羽哉の注意が頭の中で鳴り響いている。
弟の腕が八重に絡みつく。そして引き寄せ、胸板に押し込める。
「明日もよろしく頼む。くだらないことを言ってすまなかった」
◇
本邸から聴こえる音楽が、快晴に谺(こだま)する。すでに喧騒も鎮まっている。朝は中庭の小鳥たちすべてを追い出すような慌ただしさだった。
八重は車輪葛籠(キャリーバッグ)を転がしていた。
偶然、廊下を通りかかった下働きを呼び止め、千羽哉の居場所を訊ねた。これで8人目だ。誰も彼の居場所を知らない。しかし今日はいつにも増して忙しいのだ。他人のことに感(かま)けてなどいられない。
「千羽哉様にご挨拶をしたいのですけれど、どこにいらっしゃるか、ご存知ですか」
下働きは、座敷牢だと言った。
「まぁ。座敷牢に……」
八重は礼を言うと、座敷牢に向かった。場所は知っていた。中庭の竹藪の、鹿威しの裏に入口がある。石畳から錆びた把手が生えている。上に開ける。石階段が地下へ伸びている。視界が悪い。八重は裾と足元を気にしながら階段を降りた。肌寒く、黴臭い。
地下だが、明かりが見えた。しかし空間に対して、光が弱いようだった。階段を降りると通路が伸び、左手に格子がある。
「八重お嬢様……?」
格子を境に石畳は床材に変わっていた。隅は色を変え、藺草(いぐさ)は朽ちている。
「千羽哉様、こんなところに……」
彼は姿勢を正す。顔色は悪くない。肌艶も悪くない。外に居た千羽哉をそのまま檻に放り込んだような風体(ふうてい)だ。
「ここにいては冷えます」
八重は自ら編んだ襟巻きを取ると、格子の隙間から手渡した。しかし相手は受け取ろうとしない。
「どこかへ行かれるのですか」
珍しいこともあるものだ、と彼は続けた。
輪者は家の恥だ。天之渦靉靆家の恥を、八重自身が見せびらかす必要はない。彼女は今まで、家の敷地から出ないようにしていた。組紐を買いに行くのさえ、下働きに頼んでいた。
「尼寺へ行きます。大叔父様が勧めてくださいました」
栗を思わせる目が見開かれた。
「奥方様たちはご存知なんですか……?」
八重は首を振る。
「奥方様と糸鶴花様には秘密にするという話でした。下働きの方たちにも告げていません。けれど、千羽哉様には好くしていただきましたから、最後にご挨拶をと……」
「それでは、奥方様たちはいつ知るのです」
「大叔父様が話してくださると思います。なんだか糸鶴花様のご婚礼に水を差すようですけれど……、糸鶴花様も新たな生活が始まりますもの。ちょうどいいのかもしれません」
義妹となる娘を八重は知らない。だが嫁いだ先に輪者の小姑がいるのは気の毒だ。
「嫌です、八重お嬢様。尼寺へは行かないでください」
「もう荷物も纏めました。着るものも売ったので、お嫁さんの家財道具に充ててもらうつもりです。今までありがとうございました、千羽哉様。わたしの憶えが悪くって、きっと長い間なのでしょう。ですが今のわたしには短い間でしたけれど、好くしてくれて嬉しかったです。いつも話しかけてくださって……」
春にはテントウムシを、雨にはカタツムリを、夏にはセミの脱殻を見つけるたび、八重はその場所を教えられた。物珍しさはないけれども、彼女は生活の瑞々しさというものを感じるのだった。ただ、それを表現する器用さを持てなかった。
「八重お嬢様、行かないでくださいまし。寂しいです」
「そうおっしゃられると別れがつらくなってしまいます。けれどこれが家にとっても、わたしにとっても最善の道なのです」
長いこと千羽哉の顔を見ていられなかった。格子に背を向ける。
「この牢で三晚過ごせと奥方様から言い付けられました。また放り出されたとき、私は八重お嬢様にもう一度、求婚するつもりでいるのです。そうしてまたこの檻に入ります。私は何度でも求婚します。奥方様に反対されようと、八重お嬢様がお断りなさろうと、私は……」
「そろそろ行きます。お身体に気を付けてくださいませ」
八重は石階段を上っていった。車輪葛籠の把手を握り、門へと向かう。
目の前でぼとりと影が落ちた。咲き頃を終えた椿の花のようだった。女のまろやかな線はないが、男にしては小柄だった。けれども子供のしなやかさもない。
頭巾と揃いの装束は暗い色味で、肌に沿うよう巻かれている。口覆によって、青い瞳が目立つ。左目の下に印が刻まれていた。鏡を見るたびに出会う印が、鏡無しにそこにある。この青い瞳の持主は輪者だ。
「糸鶴花様の命により、八重お嬢様を連れ戻しに参りました」
小柄だが、声はすでに成長期を終えている。子供の甲高さはない。
「糸鶴花様が何かおっしゃっていたのですか」
「八重お嬢様に申し上げることはございません」
「城下へ出掛けます。糸鶴花様にもそうお伝えくださいな」
「明日の朝まで、八重お嬢様がこの門を出ることは許されません」
「糸鶴花様がそうおっしゃったの?」
一瞬でも目を逸らせば見逃すような首肯があった。
「けれど大叔父様との約束なのです。糸鶴花様よりお偉いのですよ」
「拙(せつ)は糸鶴花様に仕えている身でございます。糸鶴花様でないのなら従う義理はございません」
「困ります……」
「八重お嬢様はお通ししません」
珍しい色味の目が空の色を取り入れ、輝く。縄を構え、剣呑(けんのん)な雰囲気を纏う。
「で、でも、わたしが糸鶴花様といては、糸鶴花様は不仕合せになってしまいます。糸鶴花様にお仕えになっているのなら、貴方だって困るのではないですか」
「拙は糸鶴花様の命に従うだけ……」
「わたしが部屋に戻らないと、貴方が糸鶴花様に怒られてしまうのですね」
彼はまた椿の花よろしく首肯した。
「では部屋に戻ります」
八重は踵を返した。裏門がある。車輪葛籠を真反対の方角へ転がす。
弟は鬼畜生ではない。裏門から出たならば、青い瞳の小柄な人物が咎められることもないだろう。
決意が揺らぐ前に屋敷を出なければならない。天之渦靉靆家の人々は下働きを含め、みな、好くしてくれた。八重にはそう思えた。屋敷の外の輪者というものの扱いは、天之渦靉靆奥方からよくよく聞いていた。そのために外に出るには立ち居振る舞いに気を付けなければならなかった。家名という盾を持って出歩かなければならなかった。
輪者は穢れで、恥なのだ。人類皆々への裏切りであり、囹圄の方様への不敬なのだ。御国への叛逆なのだ。
しかし八重は汗水垂らさずとも飯が食えたし、着るにも困らなかった。むしろ鮮やかで綺羅びやかな衣は身が一つでは足らないほど持っていた。街に出て、追い出されることもなければ、買い物を拒否されることもなかった。
すべて天之渦靉靆家の人々の努力の賜物だ。若い弟が家名を背負って立っているためだ。
輪者が彼等に報うことができるとすれば、それは円満に家を出ることだ。そして彼等が死後、囹圄の方様の御手(みて)の上で健やかな眠りに就けるよう、祈り、唱え、拝むことだけだ。無力な輪者畜生ができることといえば、それくらいのものなのだ。
中庭を抜け、裏庭を抜け、竹藪を通り抜ける。
表は築地塀(ついじべい)だったが、裏は土壁になっていた。背の低い戸がひとつ設けられている。
弟に仕えていると言っていた輪者は怒られてしまうのだろうか。弟は輪者であっても姉であるために好くしていたのかもしれない。
八重は自分以外の輪者を初めて見た。天之渦靉靆家奥方の話では、身元引受を拒否された輪者は色街か、白鍬黒鋤灰鎌組に送られ、一生を終えられることもなく潰れていくのだ。
足取りが重くなる。
戸に手を掛けた途端、首の後ろに小さな痛みがあった。木の棘が刺さったのか。虫の刺しどころが悪かったのか。
視界に靄がかかった。身体から力が抜けていく。膝から力が抜け、彼女は崩れ落ちていく。地面との衝突がないことだけは、目を閉じた後も分かっていた。
口の中に蛞蝓(かつゆ)がいる。八重は焦った。天然の洗浄水が頬の内側カラ湧き出る。口水ごと吐き出そうとした。しかし吐き出せなかった。何よりも彼女は吐き出すために身体を起こすことさえもできなかった。勢いは咳となって口の中の奇妙な生き物を吹き飛ばしたようだ。
「起きたか、姉さん」
目は動く。しかし寝返りがうてない。かろうじて首が回せた。弟がいる。座った弟に見下ろされている。
「どうして……俺の式に来てくれなかった……?」
弟の目は井戸の底のようだった。
「待っていたのに……」
彼は八重の視界から外れた。間を置かず戻ってくる。小瓶を手にしていた。木栓を取ると、口に運ぶ。
まさか、彼は姉が約束を破ったために毒薬を呑んで自害しようとでもいうのか。
八重の身体は動けない。弟の服毒を止めることもできない。
弟は瓶から口を離すと、腕で八重の身体を跨いだ。そして顔を近付けた。顔に汚れでもついていたか。それとも弟は今更になって輪者の姉の下目蓋に刻まれた印が気になったのか。違う。冷えた視線の向かう先はそこではない。
弟が近付く。焦点が合わせられないほど近い距離にいる。
鼻先がぶつかっている気がした。靄と化した弟は小首を傾げ、尚も近付く。
とうとう触れた。唇が、唇に触れている。
八重は目を剥いた。だが戸惑うのは早とちりだ。鳥も親鳥が雛鳥と嘴を交わしている。
液体が口内に流れ込む。溺れることを恐れた身体は彼女の意思も汲まずに得体の知れない汁を飲んでしまった。葛湯ほどの粘度はないが、水とも違う舌触りだった。甘苦い風味が鼻を抜ける。
噎せる。弟の姿が輪郭を取り戻す。
「今夜、妻に飲ませるよう言われた薬だ。妻に飲ませていいのなら、姉さんに飲ませてもいいということだ……」
彼は片側だけ口角を吊り上げ、鼻を鳴らす。
八重は首を擡(もた)げ、室内を見回した。そうだ、弟には妻がいるはずだ。今夜から、人が一人増える。義妹の侍女のために部屋を空けろと言われたのだ。
「………お嫁さんは………?」
喉粘膜同士が絡みつくようだった。嗄声(させい)を絞り出す。
「婚式が無事終わったと思っているのか」
「え……?」
「俺には姉さんがいればいい。妻なんて要らない……」
「お嫁さん……どこ、に………いるの……?」
「"お嫁さん"なんていない。俺は独り身だ」
八重は弟を見上げた。所在なくどこかを見ていた弟の瞳も八重を向いた。視線が搗ち合った途端に彼は笑む。
「姉さんが俺の妻になるか……?」
八重の脳裏には千羽哉の顔が浮かんだ。もし今ここに彼がいたならば、姉と弟の域を越えていると、また指摘されてしまうのだろう。冗談といえども、第三者には忌まわしい内容なのだ。
「あまり変な冗談は好くありません……」
日頃から弟を甘やかしていたのかもしれない。しかし若くして大きな家の名を背負わなければならない弟を甘やかして、何が悪いのか。けれども千羽哉の忠告もまた納得できるものだった。
「冗談……? 冗談なわけあるか」
弟の手が頬に触れた。氷と紛う冷たさに、彼女の身体が跳ねた。触れられたところが痺れ、熱を持つ。
「効いてきたか。千羽哉が煎じた妻酔い草だ」
身体が熱い。頬が火照る。四肢には力が入らず、違和感を振り払うこともできない。
「姉さんは俺の姉さんだ。俺も姉さんだけの弟。そうだろう?」
氷柱が唇をなぞっていく。接触したところから、血潮は石の下の虫たちのように蠢いて霧散していく。
「姉さん」
今度は何も口に含まず、弟を八重の唇に吸い付いた。弟は氷でできている。氷でできた弟を、熱い身体が溶かしてしまいそうだ。
彼は姉の上を跳ねる。子供のようだった。
「だめです……」
弟は何も口に含んでいなかったはずだ。けれども八重の口腔に生温かい物体が押し込まれた。
蛞蝓が戻ってきた。
「ん………っふ、」
甘苦い汁の次は、蛞蝓を送られた。けれども弟はいつ、家無し蝸牛(かぎゅう)を口に入れたのか。彼は口に入れていいものと、入れてはならないものも分からなくなったのか。
蛞蝓は1匹。大きく、熱く、しとどに濡れている。八重の舌に絡みつき、逃げることを赦さない。
姉弟で口吸いをすることは、果たして家族としての戯れで済むのだろうか。八重には分からなかった。弟との接し方が分からない。求めらるままに応じることこそ、姉としての人情のはずなのだ。けれども千羽哉の言葉が耳の奥で繰り返される。
痺れる肘を持ち上げる。
掌は弟の胸板に届いた。彼を拒むつもりで伸ばしたというのに、八重の手は、冷たいものに包まれてしまう。
「ぁ………ふ、ぅう……」
弟の放つ蛞蝓に、彼女の口の中は住処にされてしまった。新しい家の居座り心地を確かめている。舌床を突つき、上顎をなぞる。目にも耳にも靄がかかる。
これが姉弟として正しい遊びなのか、すでに考える能は彼女にはなかった。けれども腹の奥の鼓動は、弟に感じ取られてはならない気がした。しかし彼女の恐れとは反対に、肉体は弟を甘やかそうとしている。
「俺の姉さん……」
弟が離れていく。薄い唇から銀色の糸が伸びていた。
「八重」
八重は首を振った。弟の声は百足(むかで)となって彼女の背筋を張った。弟の音吐(おんと)は砂糖菓子のようだったはずだ。蕾は狂い咲き、蛹は瞬く間に蝶に羽化する、そういう響きを持っていたはずだ。
「俺の妻になってほしい」
気色の悪い冗談は冗談ではない。罵倒だ。侮辱だ。
「姉さんは俺の妻として、ずっとここにいるしかないんだ」
「ぁ………嫌………っ……」
弟の指先が頬を撫で、顎を落ち、首筋を擽る。背筋に寒風が吹き荒ぶ。肌は粟立ち、触れたところは湯を被ったように引き攣る。
「千羽哉にはもう触らせたのか」
振り注ぐ弟の視線が怖かった。千羽哉の言っていることを、彼女は今になってやっと理解した。姉を見詰める眼差しではなかった。姉と弟の域を、確かに越えている目だった。猫が虫を狙うときの目付きだった。粘こく光り、自我からの完全な支配を受けた目遣いだった。
「俺の姉さん……」
弟の頭が、八重の首元に埋まった。吐息が肌を掠める。
「あ、………あぁ、……!」
「姉さんのいい匂いがする。姉さん……姉さん! ずっとこうしたかった……姉さん……」
姉弟というのはこれほどまでに密着し、触れ合っていいものなのだろうか。氷が衿(えり)の中に入っていった。弟の手だった。八重の火照った身体がさらに熱を燃やす。
「初夜を姉さんと迎えられて、嬉しい……」
「へ、変な冗談は……」
悍(おぞ)ましい冗談は、天之渦靉靆家の品位を損ねる。とても輪者が言えることではない。しかし姉として弟を律する必要がある。
「本気だよ。姉さん……俺は本気。姉さんを相手に、こんなことになってる」
衿に潜んでいた手を引き抜き、弟は八重を自らの股ぐらに持っていった。肘が痺れる。力の入らず萎んだ指の背に体温が当たっている。 布は山芋を隠しているように膨らんでいる。
「ぁ………あっ、あ……、!」
逃げなければならない。弟は弟ではなくなってしまった。弟は八重の知る弟ではないのだ。何者かが弟のふりをしている。
勢いよく身を捻った。しかし下肢がついてこない。彼女は俯せになって肩から枕に落ちる。
「逃げたいのか、姉さん」
弟は肩を掴み、八重を仰向けに直すと、衿を左右に開いた。
「姉さん、好きだ。姉さんが好き。姉としてだけではなくて、世継ぎでなくても子を成す相手として……」
【TL】ジャメヴへ道連れ