太陽を抱いた夏
「ひいろは、あたしがまもるんだから!」
もうずっと、あの時の言葉に生かされ続けている。
うだるように暑い、幼かった夏の日のこと。怖くて立ちすくみ、わんわんと泣いているわたしの目の前に、音もなく颯爽と現れた短い髪の女の子。
その子は怯むことなく恐れることなく、大きな声でいとも簡単にそう言ってのけたのだった。対峙していた子どもたちの、豆鉄砲を食らったような驚きの表情が目に浮かぶ。その場で間違いなく、彼女は輝きを放つ閃光そのものだった。
小さく丸まった背中が、誰よりも強く気高く見えて本当にかっこよかった。庇われた後は、しばらく雷鳴に打たれたみたいに心がどうしようもなく震えていたことを、何年経っても覚えている。
わたしはその日、世界で一番美しい太陽に出会った。それは天を仰いで見るお日様よりも何倍も眩しくて、真っ直ぐに揺らぐことのない光だった。
父親の三度目の転勤により、うちの家族はまたもや街を移り住むことになった。中央都市の密集したベッドタウンを出て、通称・花の街と呼ばれる花都李あとりにやってきたのは、今から約二十年ほど前の話だ。
坂の上にある住宅地で一番安い一軒家を借りて、家族三人での新生活は順風満帆に始まった。借家だというのにフルリノベーションされた奥行きのある平屋は、備え付けの庭も含めて住み心地がとてもよかった。母はのびのびとしたこの街での暮らしをたいそう気に入ったらしく、今までの環境ではできなかったと嘆いていた園芸に精を出し始めた。花を大切に慈しむこの街では、あちこちに植物が咲き誇っており、四季折々の色鮮やかな風景はいつも母の心を潤してくれているようだった。一方、職場で半ば出向の形を取った父はといえばは、会社の事業が軌道に乗り始めたことで新部署の責任者を任されることになった。花と人を通じて環境問題に挑む仕事はやりがいがあるらしく、以前とは別人みたいに穏やかに過ごせているようだった。
将来は永住かな。夢を描いた未来も夫婦の間では話題に上がり、度々食卓で聞かされていたわたしはこの幸せがずっと続けばいいと、合わせてなんとなく微笑み返すのが当たり前になっていた。
パパとママが嬉しいなら、わたしもきっと嬉しい。だから園で起きていたことについては、自分からめったに語ることはなかったように思う。たとえば転園したてで新入りは歓迎されなかったのか、わたしがもれなく男子たちの標的になってしまったことなどがいい例だ。どうやら園での暗黙のルールというものは、どんな地域のどの小さいコミュニティの中にも必ず存在するらしい。前の園でも小さな世界でカーストまがいのものは根付いていたぐらいだから、振り返って考えてみればあれはいじめにすら当てはまらない、些細な問題に過ぎなかったのだろう。
でも、それでも嬉しかった。慣れない土地で居場所のなかった自分が初めて受け入れられたと思った。ここにいてもいいんだとそう言われているような気さえして、それだけでも救いを感じていた。結局あの日、守ってもらった後でろくな会話はできなかったけれど、振り絞った精一杯のありがとうは、騒ぎを聞きつけて駆けつけた先生たちによってかき消されてしまったけれど。
あの子の、名前を知りたい。
思いは日々募るばかりだった。そのどれもが本人に届くことはなかったが、風の噂で彼女の名前がユリちゃんなのだということを聞いた時は、喜びが溢れてたまらなかった。ユリちゃん、ユリちゃん。いつかの時間に図鑑で眺めたことを思い出す。汚れのない純白に包まれた美しい花の名前。確かめるように小さく呟くと、ほんのり暗く閉ざしかけていた心の奥底がぴかっと光って、鮮やかなまでに色づいていくのがわかった。
どうしてわたしの名前を知っていたのだろう。一緒の園で過ごしているから当たり前に全員の名前を覚えていて、末端でわたしがたまたま当てはまっただけかもしれない。大体ひまわり組とあじさい組の間には少し距離があって、交流があまりあるわけでもない。いろんな考えが、夏の空に浮かぶ雲みたいにふわふわと浮かんでは消えていって、思いは尽きることがなかった。
勇気が出ないまま園では声をかけられない代わりに、ぼんやり自分の頭だけで想像をしながら、わたしはユリちゃんについての印象を描いていった。仲良くなれたらいいな。お友達になりたいな。願いは静かに流れ続けて、星のようにいくつも消えた。このまま手を伸ばさなければ、掴むことのできない夢で終わってしまうかもしれない。
「隣の家のユリちゃんとはもうお友達になれた?」
驚いたのはそれから数日後のことだった。引っ越してきた当日に挨拶を済ませてそれっきりだった隣の家との親交は、ある日を境に母親同士が意気投合したことで活発になったらしい。何気なく問いかける母の口から出た名前に、わたしの鼓動はどんどん早くなっていく。思いがけぬチャンスは、あっさりと向こうからやってきたというわけだ。
我が家である北美家の隣に並ぶ、敷地内に大きい菜園がある立派な戸建ての家。洗練されたデザインで飾られている犀川家と書かれた表札。そこに住んでいるのは、仲睦まじい五人の家族だという。温厚で子ども思いの両親と、元気で個性溢れる三人の男の子。そして兄たちに負けず劣らずと生まれた、玉のように愛らしい末娘。彼らもまた外から来た家族であり、花の街での豊かな暮らしが気に入っているそうだ。
初めて聞かされるたくさんの情報が真新しい気持ちで頭の中に流れ込む。ユリちゃんはあんなにしっかりしていたのに末っ子だった。その事実に驚きを隠せなくて、またひとつ彼女への興味が湧いていた。
話はあれよあれよという間に進んだ。時間の許す限り、休日ともなれば二家族はお互いの家で食事会をよく開いた。母たちが台所で料理作りに没頭している中、父たちは中庭で昼からワインを開けるのがお決まりの流れ。残された子どもたちは各々が、食事までの時間を自由に過ごしていることが多かった。
初めて犀川家で食事会があった日も、女の子たちで遊んでなさいと大人に言われ、ユリちゃんの部屋に通された。面と向かって顔を会わせるのはこれが二回目。だけど彼女をいざ目の当たりにすると、どうすればいいのかわからない。もどかしさは焦りに変わり、喉が渇いて張り付いたまま、言葉はうまく出てこなかった。それなのにユリちゃんは、わたしが言いたかったことを悟ったみたいで、何も言わずに笑ってみせた。戸惑っているこちらをよそに彼女は言葉を続ける。
「ひいろは、ともだちできた?」
「え?」
「しんぱいしてたんだ。だいじょうぶかなって」
「……」
「だめだよ。いつまでもないてちゃ」
「……うん、ありがとう」
願いを込めてかろうじて発した五文字が、今度こそ彼女に届けばいい。深く頷いて、わたしはユリちゃんの一言一言を味わうように飲み込んだ。
「いっぱいわらってて、そしたらかなしくなんてないから」
曇りのない、透き通った琥珀色の瞳に、じっと見つめられる。柔らかくすらすらと、小さな口元から紡がれる魔法の呪文にも思える言葉たちは、無垢で清らかな優しさに満ちていた。声にならない気持ちが、わたしの心の内で並々と注がれていく。
「……もうなかないよ。ぜったい、なかない。だからユリちゃん、わたしとともだちになってくれる?」
震える声で、ようやく一番言いたかったことを彼女に伝えることができた。子どもながらに一生分の勇気を使ったかもしれない。なんだか泣きそうだ。こらえきれないわたしは涙がこぼれないように、唇をゆっくり噛みしめていた。
揺るがない眼差しが持つ強烈なまばゆさにあてられて、顔がくしゃくしゃになっていた。こんな顔をあのユリちゃんに見られていると思うと恥ずかしい。
不意にか細い腕が首元に伸びてくる。その瞬間、嬉々として感情を露わにしたユリちゃんがわたしを抱きしめたのだと分かった。ぎゅっと引き寄せられた身体が、こそばゆくも熱っぽくもある。足をバタバタさせてスリッパが脱げるのも気にせずに、彼女は小さく飛び跳ねていた。
満足したのか腕を離し、間を取ってこちらを凝視し直したユリちゃんは、とびきりの笑顔を浮かべては高らかに声を上げた。
「うん、もちろん!」
こうして再び交わされた約束は、今度こそ確かなものとしてわたしたちの間に刻まれることとなった。何年後かに聞いた話によれば、面識がそこまでなかったのにどうしてわたしのことを覚えていたのかについては「ママがね、ずっと楽しみにしてたの。毎日聞いてたら、だんだん忘れられなくなって」と彼女の口から語られることで、すとんと腑に落ちた。
───お隣さんのところに、ユリと同じ年の女の子がいるんだって。
───ほら。あれが日彩ちゃんだよ。話しかけてみる?
───ユリはうちで女の子ひとりだから、日彩ちゃんと仲良くなれるといいね。
会える距離にいたのに簡単に会いにこなかったのは、彼女もまた勇気を持てなかったからだそうだ。しかしだんだんと膨らんでいった思いが飽和して、弾けそうになった時。あの一瞬のできごとがユリちゃんの勇気すらも引き出して、それまで遠慮し合って混ざることのなかったふたりを思わぬ形で繋げてくれた。
出会いは偶然に見えて必然だったのかもしれない。わたしたちはいつの間にか途方もない引力で惹かれ合っていた。大人になるにつれて運命なんてものはめっきり信じなくなっても、譲れない運命が訪れる人生があってもいいと思った。
季節は何度も巡り、時は足早に流れていった。
気づけば花都李の地に暮らし始めて十年以上の月日が過ぎた。元はといえば転勤族だった父の仕事は、すっかり花都李なしには成り立たなくなっていた。わたしが幼い頃に理想を語り合い、両親ふたりで笑っていた話がまさか現実になるとは。それだけ魅力的で離れがたい街なのだと、慣れ親しんだ環境やそこで暮らす人々、何よりいつも側にいて見守ってくれる花々を見ていて感じることが多くなっていった。
十年が経ったとて、ユリちゃんとわたしの関係性はつつがなく続いていた。仲良しごっこの延長線だった「ともだち」という響きが、成長するにつれて「親友」に変わっていったのはちょうどこの頃だったはずだ。
親友。そう一口に言っても、形式張って何かが変わるということはほとんどなかったように思う。遊び半分にふたりで単語を呟いてみては格好をつけて、きゃーきゃー笑っていられるぐらいには穏やかで平和な日々を共に過ごしていた。
ところが、そのうち多感で繊細な少女時代は、静かにわたしたちの中で種を蒔き、いい塩梅で心に根を張り、そして花を咲かせた。対等にある関係性の中でも、崇拝や憧憬に似た一途な思いがわたしの中から消えることはなかった。だからこそ、知れば知るほどにユリちゃんという人は限りなく等身大で生きる、ただの普通の女の子に過ぎなかった。曲がったことが大嫌い。ヒーローとヴィランだったら、どちらかといえばヒーローの方が好き。弱気を助け強きを挫く。正義感の強いユリちゃんがただ真っ直ぐに、心のままに行動を起こすことは素晴らしい。けれど同級生たちからは、その頃から情け容赦なしで、無慈悲な冷たい高嶺の花として一歩距離を置かれてしまうようになっていた。
原因を考えた時に、もしかすると感情の表現が下手だったんだのではないか。言葉のあやがも少しだけ、きつくなってしまっていたのかも。そんなことをありったけ、紙に書き出した。でも彼女をずっと隣で見てきたわたしはそうは思えなくて、書き出したことをすべて黒いマジックで塗りつぶしてしまう。優しさなんだ。優しさからくる、ありったけの正義だ。なんで、なんでそれが分からないんだろう。だって、最後にはユリちゃんはいつも正しいのに。正しいことを濁さずに言える強い人で、自分を犠牲にしては誰かを守れる人だった。なのに他人は、助けてもらった時の恩さえ忘れてユリちゃんに言い知れぬ恐怖感を抱く。彼女自身が誰かに対してそうであるなら、何を言っても傷つかないと思って言いたいことを目の前で平気で言う。
中学校の頃は、適当に聞き流せていたことも、よりいっそう教養を覚えて繊細になったわたしたちの耳には刺さりやすくなる。ユリちゃんはあの渦中で何を考えていたのか分からなかったが、彼女から大人びた気高さは消えて、ついにはすっかり萎縮して淑やかになってしまった。収まるところに収まった。それが彼女の望むことならそれでよかったんだ。そう思えば思うほど、この十年で健気に築き上げてきたわたしの理想像は、いつしかハリボテの虚像に変わり果てていた。
目を醒ませと言われている気分で、心酔していた自分に問何度も何度も、問いかけた。きっとこれでよかった。これがよかった。それにすがり続けても、時は留まることを知らない。もういい加減、自分の足で歩かなければならない時が来ている。
正直、小中学校までは何を考えずともなりゆきで同じ学校に行けることが、単純にいいと思っていた。とはいえ、高校となれば話はまったくの別物になってくる。親の教育に対する熱量にもよるが、大抵の子どもたちは将来の夢を見据えるために勉強に本腰を入れるし、そのために整った環境を求めて、四方八方に散らばってしまう。それによって仲間と離れることになっても、自分を優先させるためなら仕方ないと割り切ってしまう。
「日彩は進学のために友達を諦める人のこと、どう思う?」
「わたしは、なんとなく嫌だな。大切な人と離れてまで自分を追い詰めるっていうのは、少し苦しい」
投げかけられた質問に衝動のまま添えた一言を、ユリちゃんがうんともすんとも言わず静かに聞いていた時のことを思い出す。中三の冬で、同じ高校に行くことが決まっている時期にする話では到底なかったはずなのに、あえてその話を振ったのは、紛れもない意図があったからだろう。
かくいうわたしたちはどうなんだろう。
ユリちゃんはいわゆる才女というやつで、既に小学校の頃には頭角を現し始めていた。犀川の家系が研究者気質だと周知の事実になったのは、ここ十年では有名な話だ。むろん歳の離れた兄たち三人は一人も花都李には留まらず、誰もが中央都市の名門大学の門を叩くために上京していった。
花都李の街には唯一、植物学などに特化した総合大学として蓮なる教育機関がある。高校の進路室へ足を運んだ時、その機関の情報が乗っているパンフレットを見せてもらえる機会があった。目線を一緒の高さに落として内容を覗き込む。すると隣で曖昧に、揺蕩う波のように、ユリちゃんが「いいなあ」と消え入りそうな声で呟くのが、するりと耳に流れ込んだ。
彼女はひょっとすると、この街に残ってくれようとしているんだろうか? その途端にとめどなく溢れる安堵感。体中から重く、憂鬱な空気が抜けていく感覚。同時にこれでもかと得体の知れない何かが、わたしの首を強くきつく締めていった。息ができない、苦しい。心臓が、えぐられるように痛い。叶うことならば置いて行かないで。いつだってあなたはわたしのことを照らしてくれる光でいてほしい。ずっと、ずっと側にいてほしい。
大切に思えば思うほど、これからの彼女が歩もうとしている輝かしい未来を軽率に踏みにじってしまうような気さえする。これ以上、一緒にいては駄目だ。彼女の人生も幸せも、全部わたしが雁字搦めにして、台無しにしてしまう。思い描いた未来図があくまで妄想の範疇だとしても、少なからず近しいことは今後、起きてしまうんだと思うから。
その頃のわたしはというと、進路よりも何よりもまず、人付き合いで悩むことが増えていた。新しくなったクラスメイトたちが一概に悪いとは言わない。性格のいい子が多くて、話しやすいのも魅力の一つだ。だけど誰にでも優しくしていれば、分け隔てなく皆が仲良くしてくれると思っていただけに、時折起こる思春期特有のいざこざやぶつかり合いが苦痛でたまらなかった。次第に優しさの押し売りが鬱陶しいとまで言われるようになり、偽善者だのなんだのと独り歩きした悪評のおかげで、徐々に心が荒んでいった。
成長するにつれ段々と自覚して、直せるところは直してきたわけだが、生まれ持った性格というものはなかなか人の思うような完璧には程遠い。他にも癖のある人なんて世の中に溢れかえっているはずで、どうしてわたしだけが、いつもこんなことばかり言われるんだろう。
ありのままのわたしを全員が全員とも好きになってくれればいいのに。淡い期待を抱く時はいつも、ちょっとだけ邪で我儘な気持ちになる。その度に、これでいいのかと立ち止まって悩んできた。考えて考えて、頭を抱えて一人で思い詰めた。
限界だ。ふと気が滅入った時、決まって声をかけてくれるのは他でもないユリちゃんだった。そっと寄り添って、さり気なく懐に入るのが上手かった彼女は、最後に決まってこう言うのだった。
「人間って生まれた時に余計な知恵や感情ばっか植え付けられたせいか、存外頑固でまあ簡単には変わんないからさ。あたしは結局、自分がどうしたいかだと思う。何もかもに取り繕って万人に好かれる人間になるか、改善していきながらもできるだけありのままの自分を理解してくれる数少ない人に好かれるか。心の安寧は自分で手に入れる。あとは日彩が決めることだよ」
何があろうとその声は決して、優しさや同情だけを含んでいるわけではなかった。言動にはいつも固く通った芯のようなものがあって、一種の的を得ている答えが返ってくると、その都度これでいいんだという安心感を得ることができた。もちろんはたから見ればそれすらも一意見であって、真理には程遠いのかもしれない。それでも物事を自分なりに解釈しては咀嚼し、魔法の呪文のように唱えてくれる聡明な彼女の考え方が、共感できてもできなくてもわたしは心の底から大好きだった。
だからさよならを言うことにする。
大好きなままで、あどけない頃の子どもの時のきらめきを秘めたままで、純粋で真っ白なままで、できることならあなたにはずっと幸せでいてほしい。高校生になって色んな人の意見に左右されて、みんなの前では正しいことを言えなくなってしまっても、わたしの前ではまだしるべで居てくれようとする。ぶれることのないあなたでいようとしてくれる。
かけがえのない十数年間は、一瞬足りとも見逃せない輝きに溢れていて。そのおかげで廃れず腐らず、純粋に生きてこれた気がする。いつだって足元を、あなたが照らし続けてくれていたから。何も怖くなかったし、毎日が楽しくて仕方なかった。見つけてくれて、手を差し伸べてくれて、友達になってくれてありがとう。
照れくさくて言えなかったけど。ねえ、ユリちゃん。確かにこれは言い表せないほどの感情で彩られた恋だったし、紛れもない愛だったよ。
一つ残らず思いを手紙に書き連ねて、渡してやろうかとも思ったが、悔しさと寂しさが残ると思い自分の心の中だけで留めておいた。
バイバイ、ユリちゃん。
声にならない叫びが、夏の到来を告げる蝉たちの大合唱にかき消される。虚空に別れを言うには、とてもいい天気だった。そう思ったのもつかの間、頬に一筋流れた涙はあいにく拭ってやれそうになかった。
クラスが別で心底良かったと思う。一緒だったら逃げ場がなくて、この受験期に不登校になるところだった。心酔しきっていた熱量をぶつけるあてもなく、いよいよ迎えた高校三年生の初夏。家が忙しいだのバイトがあるだの勉強に集中したいだのと、散々な言い訳をつけて彼女についてのありとあらゆる情報と手段を遮断した。勉強は得意な方ではないが、不得意な方でもない。レベルで言うと努力をしてこなかったからか、一応中の中ぐらいではある。見込みがないわけじゃない。頑張ってみれば、案外なんとかなるかもしれない。
何も知らない母は、毎日のように付き合いのあった娘たちが急によそよそしくなったことに、不安を覚えているようだった。五、六年前まで毎度恒例で開かれていた宴は、犀川家の兄たちが皆家を出たことで、ほとんど開かれなくなってしまっていた。特に子どもたちが大きくなってからは、両親同士での晩酌などが主な親交の場らしいが、親たちの間で芽生えた、十数年経っても色褪せない友情みたいなものを心底羨ましく思った。
ユリちゃんから遠ざかるまで幾度となく繰り返した葛藤の中で、自分が出した結論にたどり着いた頃には、もうこの未来しか残っていないと決めていた。思考が極端すぎて視野はかなり狭かったと思う。彼女よりもうんと足りない頭で考えた、わたしの最善の選択肢。将来の夢なんて名乗れないほどに、しょうもないことかもしれない。人によってはなんで? と歪で遠回りな愛の昇華に疑問を呈する人もいるだろう。全部が終わったら、胸を張って会いに行けるだろうか。逸る気持ちをおさえながら、わたしは必死で勉強にのめり込んだ。
非番の日に限って、音が鳴り止まないでいる。
アラームを止めてスヌーズを止めて、それでもけたたましい着信音にわずかないらだちを覚えて、寝ぼけ半分で上げた左手で握ったスマホを、向かいにあるソファにゆるやかに投げ落とす。休みの日ぐらいゆっくり寝かせてほしい。機嫌を損ねながらもマットレスにシーツごと沈んでいく身体は、活動し始めることを心の底から嫌がっているようだった。
人のことなどお構いなくしばらく鳴り続けた着信音の後、頼んでもないのに留守電を知らせる自動音声が流れた。操作せずとも再生する価値があると判断したスマホはスピーカーに切り替わり、音割れのするくぐもった音質でボイスメッセージを垂れ流してくれる。
「世の中ってばほんとにクソ!」
開口一番が世間への悪口とは、少しいかがなものだろう。聞こえないふりをしていたが、電話の向こうの相手がいつになく悪態をつくので、わたしはもぞもぞとベッドから這い出して身体を起こした。二、三度ストレッチをし、肩をぐるりと回したところで深呼吸する。
今日はなんとなく、話が長くなりそうだ。無意識にため息が漏れた直後、かけ直そうかどうしようか迷ってしまう。とそこに、スマホを起動したことで作動したリアルタイムシステムのオンライン表示をいち早く察知したのか、間髪入れずに再び電話がかかってくる。わたしはなるべくワンコールで出ようと、急いで画面をタップした。
「もしもし」
「ああ、やっと出た」
「あのねえ。こっちは貴重なお休みの日ですよ」
「だってあたし、日彩しか友達いないもん」
子どもみたいに画面の向こうで口を尖らせている様子を思い描く。面倒だ、なんて思ったことは本当は一度もない。あれから十数年、ましてや出会ってから数えて二十数年以上も経っていればなおさらだ。どんな時も、彼女のことを思わない日はなかった。心の中で別れを告げた後も、彼女だけが支えだった。
三十代も目前に差し掛かり、わたしたちは社会の歯車と化した、当たり障りのない大人になった。卒業してから数年が経ち、忙殺の毎日に慣れることに必死で、一旦これまでの人間関係をリセットするため、早々に連絡先を変えた。
これで決別できる。会いたくなったら、自分から探しに行けばいい。そう覚悟した矢先に訪れた実家でのこと。
母に促され庭に出ると、小さく屈んで静かに花を愛でる後ろ姿があった。初めて会った時から最後に仲違いするまでショートカットの印象が強く、髪がずいぶん長くなっていて、一瞬誰か分からなかった。目に映った久しぶりのユリちゃんに、十代の弾ける初々しさはなくなっていた。代わりに備わったのは、洗練された無垢とはまた違うけがれなき美しさ。
綺麗になったね。
再び会えた時の一言は、意識をせずとも口を衝いて出た。
実家で過ごした時間は、会えなかった間の時間を急速に埋めていった。まるで最近まで付き合いが毎日のようにあったかのように、わたしたちはお互いの近況について夜まで語り合い、すぐさま連絡先を交換した。ユリちゃんは、何をしているとかどこに住んでるとかは聞いてきたけど、なぜ自分の目の前から消えたのかについては、口を噤んでいた。触れてはいけないわけでもないのだが、簡単に踏み込まないところは大人になったからなのかそれとも、お得意の遠慮というやつか。
ユリちゃんは高校を卒業して、大学には行かずふらっと花都李を出たと言っていた。中央都市の中核を担う遊樂町で、なんと一時は下層部で有名な「イデア」という見世物小屋の主人に気に入られていたという。その気の強さを買われて雑用から一端の役者までひと通りやってみたが、結果的に植物の研究をしたくなって花都李に戻ってきたらしい。
一から学び直し二十代半ばで蓮に入学してから、数年。卒業した後でいくつかの会社を転々とし、今では花の成分で作る特効薬などを調合している製薬会社で、営業として働いている。
日々気苦労が耐えない綱渡りのような仕事ばかりをしているユリちゃんに、いつでも相談に乗るからと言った手前、どんな時でも通話を断ることはできなかった。思ったより早い再会で、物理的ではないにしろユリちゃんが側にいる生活がまた始まる。嬉しさは加速した。そして次こそはと、ある思いがぼんやり浮かぶ。全てはこの時のために。と思うのは、少し大げさだろうか。
「今日は一体何があったの」
「……会社、一ヶ月持たなかった。ついはずみで、思ったこと言っちゃった。もういい大人なんだからさ、空気読まないと仕事できないよって言われるわけ。読んでないわけないじゃん。てか充分に読んでてあれなんですけども? だってどう考えても、あのプレゼンにはこの資料がマストなのに誰も何も分かってないの。あー、分かってないは言いすぎだね。正確に言うと上司の顔色伺って、思ってても言わないの。けどさあ、効率よく売上あげるためには、これが一番ベストなんだよ。曲がりなりにもあたしは、どの会社でも業績に貢献してるっていうのに。って、はー……ごめん。またやってしまった」
堰を切ったようにつらつらと、案の定予想していた言葉の羅列が返ってくる。入り始めの声は悲哀に満ちていたのに、抑えきれない憤りとやり切れなさで饒舌に舌が回っていた。ひとしきりまくし立てるとやっと我に返り、あからさまに彼女の声のトーンが落ちる。先程までの強気な印象を塗り潰すかのようにしおらしく、うなだれているのが分かった。
「ユリちゃんはえらいよ。少なくとも会社では、立場をわきまえて、本当に間違ってることだけを言って、ちゃんとコントロールできてるんだから。それに、ユリちゃんのいいところを一番よく分かってるのは、誰だと思ってるの?」
電話口で計画的に口角を上げつつ笑顔を作り込む。彼女がわたしの思惑について、絶対に不安を抱かないように。丁寧な対応を心がけて、慰めの言葉をかけてやる。
「……やっぱ日彩だけが心の頼りだよ」
ありがとうね。
自然と彼女の口からこぼれ落ちた欠片たちが、胸に深く突き刺さる。ああ。この言葉を聞くためだけに、わたしは今日も生きている。依存ほど歪んではないものの、確かに必要とされている安心感。それに感化されて、そこはかとない充足感で胸が満ちていく。
普段から話を聞いていると世間の風当たりは冷たく、ユリちゃんみたいな真っ直ぐに物申す人は職場をたらい回しされることが多いそうだ。ついこの間も、知らないうちに陰で氷の女って呼ばれてたんだって。と、自虐しながら電話口の向こうで苦笑いを浮かべているのが聞き取れた。
当たり前だ、傷ついていないわけがない。彼女だって時にはもろくて呆気なく壊れてしまいそうな、ただの女の子に変わりはない。時折、励ますように言い続けるのだ。たとえ世界中がユリちゃんのことを見抜けなくても、わたしだけは知っている。だから落ち込まないで。心配しないでって。
どんな時でもユリちゃんの味方だから。そう言い続けて、もう何年になるのか。かける言葉に嘘偽りは微塵もないが、そのすべてを素直な気持ちで受け答えができているかと問われれば嘘になる。ふっと湧いて出た心の奥底でずっと燃え上がっている炎が、今はまだ小さくても、いつか煮えたぎって大きくごうごうと燃え盛ってしまったら。わたしはその時、彼女のことをどうしたいと思うんだろう。
結果的に、少し頑張れば受験なんてものには、あっさり勝ってしまうことが分かった。心が蝕まれるすべての要素を断って臨んでいたこともあり、入学も、試験も、順調すぎるほどに乗り越えて、実を結んで花が開いた。
そうまでしてわたしが目指したかったもの。それは図らずも、警察官という物理的な肩書きだった。光の導きが永遠に続くと思っていたら所詮夢物語だったと頭で理解した時、わたしの心は粉々に砕けてしまった。だから生まれ変わって、精神的にも肉体的にも強くなりたかった。そして、その時代わりに生み落とされた感情の正体が、誰かを思ったり愛したりするということならば。培った力で、次はわたしが彼女を照らす光になる番だ。
世界中の人から思考回路が単純すぎて、馬鹿げていると言われてもいい。浅はかで滑稽だと笑われてもいい。でも彼女が長い間、わたしにそうしてくれたように。今度こそ臆することなく勇気と強さを振りかざして、わたしも心からあなたを守りたいと思ったから。
「ねえ見て。空がすごく綺麗だよ。そっちはどう?」
とっさに顔を上げた先で、窓の外に広がる夏らしい真っ青な空を見た。離れていても、空は繋がっているんだよ。そう教えてくれたのはユリちゃんだった。爽やかなこの空の美しさをあなたも見てくれているといいな。心に秘めた小さな願いがいつかあなたに届くことを願って。
耳に当てた画面の向こうで、希望に満ちた声が爽やかに響いている。わたしはその心地よさに胸を撫でおろしては、大きく深呼吸をした。
太陽を抱いた夏