奇妙な散歩

奇妙な散歩

「さんぽ、行ってくる」
 私の言葉に、キッチンにいる妻は「はい」と返事をした。明らかに、否定を滲ませた声色たった。戸惑っていると、とってつけたような「気を付けて」が飛んできた。
 玄関のドアを開けると、蝉の声が耳に届いてくる。その音は蝉特有の刺すような響きではなく、弱々しく、鼓膜を撫でるようであった。11月か、と私は思う。5月に始まり、今でも続く猛暑。もはや、猛暑、という言葉を不適切にすら感じる。常暑、という言葉はどうか。どう読めばいいかわからないが。
 それでも、11月に入ると朝晩には涼を感じられ、すると途端に──少なくとも私の感覚では〝途端に〟なのだが──、蝉の声を聞くようになった。その声は、本来鳴くべき時期を失ってしまったためか、やはり元気がなかった。
 自宅の駐車場を出、近所の公園に向かう。すでに、額に汗が滲んでいる。昨夜の雨の影響で、道路にはところどころに水たまりがあった。嫌な予感を感じる間もなく、ぷーん、と蚊が耳元で不快な音を立て始める。ときおり無意味に腕を叩きながら、私は歩を進めた。
「送り迎えは、できるよね」
 二日前の記憶が蘇る。こんな記憶のために、散歩しているわけではないのだが。
「……うん。たぶん」と私は言った。
「じゃ、仕事行ってくるから」と妻が言った。
 その日は38度の熱が出た。仕事は37度を越えれば休める。私は医療職だから、むしろ休まなければならない。だが、保育園の送迎には、そのような規定はもちろんない。眩暈を覚えながら、重い身体でなんとか子どもを送った。自宅に戻る途中、サイドミラーを道路反射鏡のポールに軽く擦った。
「はあ」
 あえて声に出し、記憶を遮った。どうせ何かが浮かんでくるなら、もっと楽しいことを浮かべたかった。腕が痒い。くるぶしまで痒い。
 公園に入り、松林に入る。日陰の道を歩くと、心がやっと落ち着いてきた。が、すぐに子どもの姿が浮かんでくる。今、子どもは妻に介助され朝食を摂っている。せめて食べ終わるころには戻らなければ。少しだけ、歩く速度を速める。周囲には誰の姿もなく、私が落ち葉を踏みつける音しか聞こえてこない。
「はああああああああああああああああああ」
 昔流行ったウォーキングトレーナーのように、手を広げ、長く息を吐きながら歩いてみる。なんだかもう、どうでもよくなっていた。するすると、むだな思考が追い出されていく。なるほどたしかに、これは流行るわけだ、と思いながら吐き続けた。
 が、息を吐いたあとは、吸わなければならない。吸えば、また何かが浮かんできてしまう。
「ああああぁぁぁぁ」
 それならば、と私は思った。吐いて吐いて、吐き続けてしまえばいい。体内の空気をすべて吐き、思考を吐き、内臓を吐き、すべてすべて、吐くことができるのなら。私は、消えることが。……視界がぼやける。そうだ、もう少し。人類の歴史で、自らの意志で、吐き続けることで死んだ人間などいないだろう。眩暈と微かな優越が重なる。もはや吐いているのか、ただ、息を止めているのかわからない。
 息を吸った。当然のように。そんな自分に、嫌悪と安堵を抱きながら。だが、吸いながら、今までになかった観念が、酸欠の頭を覆うように、浮かんだ。
 寄生。
 吸って、吐いて、大きく吸いながら、私は腕をかきむしった。蚊は人間に寄生している、と思う。ぼんやりと思いながら、思考が広がっていく。脳内に酸素が回り始める。
〝蚊は人間に寄生している〟
〝子どもは親に寄生している〟
〝私は、誰に寄生している?〟
〝人間は、何に寄生を……?〟
 身体を屈め、膝に手をつき、呼吸を続ける。目の前を通り過ぎる老人が、訝しげに私を見ている、と思って視線を上げたが、そもそも老人などいなかった。脳が勝手に想像していた。どうでもいい。呼吸を続ける。汗が地面に落ち続ける。落ち葉が汗を吸収し続ける。呼吸を続ける。続ける。私は身体を起こした。
〝人間は、地球に寄生している。寄生し続けている。太古の昔から、ずっと、ずっと〟
 公園から出、自宅に戻る。門扉を開け、玄関のドアノブに手をかけたとき、ざく、と音がした。足元で、蝉の死骸が潰れていた。家の中から、子どもの「ぱぱぁ!」の声がした。

奇妙な散歩

奇妙な散歩

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  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-01-20

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