『悪魔にとってありがたくない客』
『嘆く独身者倶楽部』と『満足せる愚か者』の続編です。語り手はオーウェン。気楽に、割と気の向くままに書いてみました。CATが好きな人は、満足せる〜は読まないでコッチだけのほうがいいかも。オーウェンはいい奴です。今後、チャプターを追加するかもしれないし、しれないかも。12までいきましたが、もうちょい書きたいな。
001. 悪魔にとってありがたくない客
親愛なる妹、ソフィへ
そちらの調子はどうだい、きっといつも通り、冷静で心優しいいつもの君だね。君が住み込みの小間使いになると聞いた時には、耳を疑ったものだけど。君がお嬢さんと気が合って何よりだよ、あまり笑わせすぎてお体に負担をかけさせてはいけないよ、君の皮肉はほんとに、うまい。理不尽に強い人しか、君は切らないよね。それがまた、うまいんで、僕は時々、思い出し笑いをしてしまうんだ。それで、ルイス氏に聞かれる。今日は倶楽部の誰のヘマを見たんだって。それで、君のお得意の皮肉をひとつ、ルイス氏に教える。ルイス氏はいたくお気に召す。君の妹さんを雇いたいもんだ、だってさ。彼は最近、自分が随分優しくなってしまったことを気に病んでいるんだ。僕を専属タイピストして雇って、給仕を引退させた事なんかも含めてね。コットンテイル、君と一緒だ、皮肉が上手い人は賢くて優しい。
僕がルイス氏を尊敬するのは、その寛大さもなのだけど、やはり作家だ。話を作るのがとてもうまい。ルイス氏の口述の間の愚痴に混ぜて、話してくれた『でっちあげ話』を書くよ。ルイス氏に、これは妹に書き送っていいですかと聞いたら、タイプの練習になるなら好きにしていい、ただしこれはあくまでも作り話だと断っていたよ。
「お前さんを雇う少し前の話だ。あの、中年チェルビーノが持ってきた赤っぽいキャビネットがあるだろう。あれな、悪魔がついているんだ。ガストン・ルルーだったか、ああいうキャビネットだかタンスだかの悪魔に魂を売って、賭けに負けられなくなった男の話を書いていた。金を賭けた賭けには負けず、魂の賭けには負けた。おや、ガストン・ルルーを知らんのか、いかんな、明日貸してやるから読むんだ。あれを知らんようでは作家はできん。亅
子供のいないルイス氏は、僕を弟子にするつもりようだ。僕には作家は到底無理なんだが、いつかルイス氏の伝記は書かないといけないとは思っているよ。ルイス氏は作家だけれど、僕は彼の語り口が好きだな。皮肉で、投げるような話し方なのに、声か抑揚か、つい聞き入ってしまう。朗読してもらったら、きっと多くの人が彼の本を読みたくなると思うよ。
『俺はその時、宇宙スフィンクスの話の冒頭を書いていた。しかし、腕が痛くてタイプは進まないし、手書きは他人が読める文字じゃない。せめて他人が判読できる文字が書ける程度には、肩や腱鞘炎を治したい、と思ってな。キャビネットの前に真夜中に行ってみた。真っ暗な真夜中の談話室は、いつもより広くみえるな。それに静かで寒々しい。実際、普段人がいないと室温は落ちるからな。そうだ、寝る場所は黒騎士の部屋を貸してもらった。ところが、流石あいつの隠し部屋だ。気味の悪い品がたくさんあって、興味深いが、落ち着かない。寝るには向かんな。なかなか寝付けず落ち着かない気分のまま、ふらふら談話室に行ってみたんだ。
それで、真夜中にキャビネットの前に行ってみたんだが。なんのことはない、暗闇の中、頼りのない懐中電灯を持った俺が映ったんだ。チェルビーノが言ったような、ダ・ヴィンチのヨハネも、ビアズリーのサロメもいない。暗い懐中電灯
の黄色っぽい光で浮かび上がる、ただの俺だ。目のギョロついた、巻き毛のジジイだ。ちょっとがっかりしたな。俺は若い頃はそれなりだったので、その面影と再びまみえるかと少し期待していたんだが、ただのジジイだ。それで俺がなあんだ、つまらん、と呟いた。すると、鏡の俺はこういったんだ。
『お前か、俺のなかに哀れなワニを突っ込んだのは。』
『知らんな、ドリアンじゃないか。』
『ドリアン…あいつはなんなんだ。俺を誘惑しやがった。普通は逆だろう、悪魔を誘惑するなんてふざけている。』
『気にするな、ああいうやつなんだ。』
『黒騎士には死神がついているし、ロバートは悩みがあったら聞くよ、なんて言う。お前が連れている若者に至っては俺を無視する。』
『すまんなあ、そういう倶楽部なんだ。』
『で、お前は何の用だ。』
『俺の腕は、治らんものかな。』
『五十肩だか六十肩だか、そんなものは人間同士で解決してくれ。俺は医者じゃない。』
『医者は酒と煙草を控えろというんだ。』
『腕に酒と煙草は関係ないんじゃないか。』
『俺もそう思うんだがね。まずは健康、だそうだ。やめるかね。』
『いや、やめるな。悪魔が悪癖をやめさせたとなっちゃかなわんな…仕方ない。では、何を差し出せる。』
『寿命の半分。』
『それは若者向けの提案だ。ジジイの寿命は要らん。』
『魂?』
『お前のは、とっくに他の誰かが持ってるだろう。』
『よくわかったな。でも、他に何もないぞ。』
『お前は作家だろう、才能は?』
『俺にあると思うか?』
『…やはり酒と煙草をやめろ。』
『そこをなんとか。』
『じゃ、無理だ。』
そこで、俺は宇宙スフィンクスの構想を一通り披露した。悪魔は気に入ったようだった。続きを聞きたがった。それで、俺は提案した。お前もこの話に登場させたらどうだろう、でも、書き留められないから、俺が死んだら発想のままで消えるなあ、だが心配するな、録音してやる、と。猫スフィンクス宇宙人にお前は恋をするんだ。それで、契約を持ちかける。そう言うと、悪魔は呆れた顔をしてーー俺の顔で呆れた顔をするんだ、見ものだったとよ。とにかく、渋々提案を呑んだ。
『これは契約じゃない。助言だ。だから、俺のことは一切書くな、録音もするな。絶対に、猫宇宙人に恋をしたり契約を持ちかける悪魔としては書くな。そうだ、お前のところの給仕に、タイプができる若いのがいる。それを雇え。』
そんな事を言うものだから、俺はお前さんを雇ったんだ。悪魔は、可哀想に、この倶楽部じゃあなーー何しろ皆、満足した愚か者か、契約をしたいわけじゃないし、したい奴は引き換えられるものを持たない。悪魔からしたらありがたくない連中だ。哀れなもんだね。』
ルイス氏は、そう言って楽しげに笑ったよ。僕は、ルイス氏の魂が誰が持ってるのか気になっている。奥さんかな。奥さんの話は、あまりしないんだ。最近、よく倶楽部にいるのは、何か関係しているのかな。
おや、相当に書いてしまったね、もうすぐインクテープが切れてしまう。またね。
ーー君の兄、オーウェン・パーセルより
002. 彼の書斎の塵になりたい
親愛なる妹、ソフィへ
そうなのだね、お嬢さんのお加減がいいのは大変素晴らしい事だよ。君が近くにいて気持ちを明るくしているからだね。これは断言するんだが、コットンテイル、君は場の空気を明るく保つ能力がある。倶楽部の人達が考えるような霊的な何かというわけじゃない、もちろん、神のご加護はあるんだろうが、それは万人に平等なものから、この場合あたらない。君が部屋にいるだけで、何かこう、全てはうまくいく、といった確信が生まれる何か、自信のようなものが全員に生じるんだ。だから父さんはまた歩けるようになったし、母さんのパイは評判になった。倶楽部の人々に一度君を会わせたいと時々思うのだけれど、そろって君に首ったけになっても恐ろしいからね。でも、今のところ、倶楽部の中でも目をかけてくれる『満足しているお馬鹿さんの会』だったかな、その会の人たちはだいたい、自己充足的な瞑想だか迷走の中にいて安全かもしれないね。ところで、自己充足的な満足の中にいる人を、倶楽部員ではない人の中でも見つけたよ。
僕は時々、ルイス氏が作品の推敲をしている時なんかは手が空くんだ。それで、給仕の仕事で手を出しても感じが悪くない事を手伝ったりしている。元々は自分がしていた仕事だから、とはいえ、途中でアルマンさんが辞めたり代筆係も兼業したりで、割と僕の給仕やその他の仕事は一人前ではないので、まあ、修行の続きかな。元同僚たちは心配しているよ、中置半端なままでルイス氏が死んだらどうするんだって。まあ、その時はその時だ、それに、彼は元気だしね。
そうそう、それで、先日、ルイス氏の『鏡の悪魔に作品登場を断られた話』(だったのだろう、あれは)を覚えているかな。あれは全くの創作だろうと思っていたら、どうやら違うらしいんだ。元、なのか現、なのか、とにかく同僚のジミーに聞いたんだが、あのキャビネットは従業員の間でも評判らしいんだ。幽霊が憑いてるだとか、異次元に繋がっているだとか。僕は、きちんと来歴を調べればマジックを考えた人々や、その前の時代の品だったら詐欺師のものだったんじゃないかと考えているんだが。なんにせよ、僕は、噂は信じないものの事物を擬人化する人間の性かな、この赤みがかったキャビネットに妙に恩義を感じてね。時々、艶に手形が付いていたりすると拭いたりしている。昨日もそうしていたんだが、ふと振り返ると、ジミーが肩を震わせながら近付いてくるんだ。
「どうした?」
僕は、具合でも悪いのかと思って尋ねる。彼は吹き出す。それから、小声でまくし立てる。
「お前、どうやってるか知らないけど、やめてくれ。」
「何を?」
「さっきから鏡から百面相したり、倶楽部の方々の物真似してるだろう。」
「何を言ってるんだ?」
そう笑って僕はジミーに向き直る。ジミーは奇妙な顔をする。
「おや…お前はこっちを向いたよな、でも…鏡の中でもこっちを向いてる。」
「へえ。」
僕は振り返って鏡を見る。何のことはない、いつもの僕だ。
「ジミー、大丈夫かい?」
「あ、ああ…なんか、光の加減かな。あるいは、仕掛けがあるのかも。」
「それはありそうだね。マジックみたいに。」
「なあ、これ、時々…サー・ルイス・アルジャーノン・リーが話しかけてるよな。」
「うん。でも、他の人もね。ところで、なんでいつも君はルイス氏だけはフルネームなんだい?」
僕はそう言って彼のほうを向いたが、その時は遠くの席の誰かが何かを探す様子に気付いたらしく、「ああ、そうかな?」とだけ言って、ジミーはそちらの方へ行ってしまった。残された僕はキャビネットに百面相をしてみた。異常なし。
特に奇妙な事はなかったので、扉を開いて中から鏡の裏を見てみたが、特に仕掛けはなさそうだった。ただ、古い塗料で円環に文字が書いてあった。僕は、ドアを閉める段になって、円環に、小さいワニの剥製の鼻が当たることに気がついた。それが当たる部分塗料が一部剥がれ、ワニの鼻の頭が汚れている。僕は、生きてもいないワニが可哀想になって、それを抱き上げて飾り棚の上に移動させたよ。なんだか、誰も愛着を持っている様子もないし、今度、ちゃんとした場所を作ってやってもいいか聞いてみるよ。仔ワニの剥製って、何故か帝国主義的だよね。勿論、科学的知見ってやつに役には立つけど。可哀想なのは同じだ。
それで、夜なのだけど、ルイス氏は早々に帰り、ジミーも担当の時間が終わって、パブに寄ったんだけど。彼は、以前と違って、何かこう、言いたげなんだ。あまり口をきいてくれない。
「ジミー、なんだい、僕が嫌いになったのかい」
「違うんだ。」
「君がだんまりだと、僕は君が僕に怒っているんじゃないかと思う。」
「なんで。」
「女の子がデートしてくれなくなる前にこうなる。」
「やめてくれよ、俺はアルマンさんじゃないぞ。」
アルマンさんは面倒見が良かった、片目の悪い先輩だったんだが、どうも僕の前に辞めた同性の人に横恋慕して、その二人ともがやめてしまった。アルマンさんの話をすると他の倶楽部員まで話が飛びそうなので、本題に戻すよ。
「俺はアルマンさんじゃないぞーーだだ、サー・ルイス・アルジャーノン・リーの書斎の塵になりたいくらい、彼が好きだ。」
「アルマンさんじゃないか。」
「そういうんじゃない。彼の作品と、その語り口と、奥さんと仲がいいところとか、君を弟子にしているところとか。でも、やっぱり作品が好きだ。」
「じゃあ、君は僕に嫉妬しているのかい?」
「難しいんだが、していない。僕は君の立場は欲しくない。そんなプレッシャーには耐えられない。今の立場で、ぶっきらぼうにコーヒーね、と言われるとその場で跳ね上がりたいくらい嬉しい。でも、君が最新作を一番最初に聞いていると思うと、妬ましくて殴りたくなる。でも、サー・ルイスが推敲していない文章を知るのは堕落する感じがする。」
「君って変わってるな。」
「そうかな。ずっと、子供の頃から好きなんだ。僕からしたら、今の仕事は夢のようだよ。」
「はは、満足せる…なんだっけ、愚か者だったかな。君も立派な倶楽部員だ。」
「誰にも言うなよ、誤解も嫌だし、サー・ルイスに気取られるも嫌だ。僕は彼の書斎の埃!」
「はは、そんな恋もあるんだね。」
「恋じゃない、断じて恋じゃない。強いて言うなら宗教だ。サー・ルイス・アルジャーノン・リーが描く世界教だね。」
そんな事を言い出す頃には彼は少し酔っていた。けれど、幸せそうではあったよ。
僕は、それほどまでに誰かの作品や世界に夢中になったことはないけれど、サー・ルイスの宇宙スフィンクスの話は確かに面白いよ。コットンテイル、君は読んだことがあるかい?僕は彼の存在すら、倶楽部に勤めだすまで知らなかったよ。僕が読めそうな、短いものがあったら教えておくれ。
ーー君の兄、オーウェン・パーセルより
003. 中空に語りかける
親愛なる妹、ソフィ・コットンテイルへ
ルイス氏の小品を教えてくれてありがとう。弁解がましくてなんだけど、ジミーには聞けないよ。ちょっと聞いたらルイス氏の著作の目録を渡される気がする。ジミーにはオススメなんてないんだ。全てがオススメなんだから。
それで、なんだったかな、今日はインクテープの心配はないから、たくさん書くつもりだ。というのは、ルイス氏が、「とにかく俺が話すのと同じくらい速く打てるようになってくれ」と言って、練習用にインクテープを沢山くれたんだ。あとは、もう少し、文体を口語から文語に直せだってさ。だけど、僕はルイス氏の語るそのままを書いているつもりなんだけど。語りと文章を書く文体は違うものなのかな。では、タイプライターと手書きでは?朝と夜では?僕にはよくわからない。なるほど、ジミーが僕の立場にはなりたくないというのもわかるよ。お世話になっている人をがっかりさせるのもつらければ、崇拝している人を失望させるのもつらい。僕は作家にはなれないと思うんだ。スフィンクス型宇宙人の話は血湧き肉躍る。そして僕には絶対そんな物語は思いつかないし、書けない。でも、いつかルイス氏の伝記は書きたいよ。もし、ジミーが書かなければね。それとも、ジミーに口述してもらって、それを僕がタイプすればいいのかもしれない。あるいは、ジミーにタイプを教えるかな。彼が書いて、僕が彼の偏りを抑える。時々、やはり給仕の仕事も続けた方が良かったのかもしれないと思うんだ。しかし、こうやって迷うのも贅沢だよね。
こんな事を書き始めては、僕の毎日には書くような面白いことは何もないんだろうと君に思われるね。でも、倶楽部には面白い人がたくさんいるよ。それに、僕としては現実とは認めがたいことだけれど、幽霊やヴァンパイアみたいな人もいる。幽霊はレディ・レノアと呼ばれていて、皆の冗談なのか、『お人好しのロバート』ことロバート・アシュクロフト氏の妄想に皆、付き合っているかのどちらかだろうと思う。レディ・レノアの正式な『あだ名』は『三度目のレノア』。三度目に結婚した人に殺されたかなんだかだそうで、この倶楽部にしては思いやりのないあだ名だと思う。
このレディ・レノアは僕には見えないし、何を言っているかは聞こえない。ただ、彼女がいるとされる椅子には誰も座らないし、皆、彼女がそこにいるかのように話しかけたり、返事をしたりする。その真ん中に無線機でもおいてあったら納得するんだが。レディ・レノアはよく、『善人ロバート』と『若づくりドリアン』と、最近は例のチェストの前にいるよ。時々、タイポさんやレディ・ミネルヴァもそこに混ざる。先日は少し不気味だった。タイポさんはいなくて、僕はドリアン氏にキャビネットの前に呼ばれた。
「君は、この悪魔が見えないんだって?」
「見えませんね」
「レノアも?」
「見えません。」
「彼女が話したいんだって。」
「認識できない相手と、どう話すんですか。」
「彼女、最近、憑依を覚えたんだ。犠牲者はロバートだ。どうかな、ロバートに憑依したレノアと話すかい?」
ロバート氏はいつもうっすら微笑んでいる、もの静かで優しい人だ。優しいし、心配性だと書いたら、君はころころとした可愛らしい人を思い浮かべるだろう。その反対を想像してほしい。背は高め、眉間には縦皺が走り、髪は黒っぽく長めに残してある。ほほ笑んでいないときは、悪役が舞台袖で控えているような迫力がある。彼はシェイクスピア役者なので、そのせいかもしれない。
「それは、ロバートさんが舞台俳優ってことを差し引いて考えろって事ですか。」
「ふむ、困ったね、レディ・レノア、ロバート・アシュクロフト君。この若者は僕らを信用していないようだ。」
「それでも私は構わないよ。ねえ、レディ・レノア。あなたは、どうしたいかい?」
ロバート氏は空のソファへ、格調高い訛りで優しく問い掛ける。そして、中空に目を留めて沈黙し、笑顔で何度か頷く。ドリアン氏はおかしそうに笑う。僕は蚊帳の外のようで、給仕だった頃の感覚に戻る。レディ・レノアは僕がここに勤めだす前からいたし、そういえばアルマンさんは「あの人は苦手だ」と言っていた。その頃、僕は、きっと僕がまだ出会っていない倶楽部員の女性がいるんだろうと思っていたよ。アルマンさんには僕を担ぐ理由はない。だから、僕は判断は保留にして、視覚的に確認できない女性がいる前提でそこにたたずんでいた。
「レディ・レノアは、君に自分が、マクベスのようなおじさんだと思われたくないそうだ。珍しいね、レノア。」
最後の呼びかけは例によって中空に向かってなされる。
「あはは、オーウェン、君、いくつだい?」
「22です。」
「ああ、では、レノア嬢が亡くなった年に近いんだね。可哀想に。」
「でも、皆さん、200歳くらいって仰っていませんでした?」
「亡くなったのはーーええ、そんなに?19歳で、夫はいたけど恋はした事がないそうだ。可哀想に。ーーそんなことはないさ、僕だってーー」
例によって最後は中空に向かって楽しげに放たれる。僕は、なんとなく、僕と君の会話をほかの人が見ていたらこんな風かな、と思ったよ。いや、年齢不詳の美男子が見えない女性と話しているという、視覚的に異様な光景ではないよ。ただ、ドリアン氏の口調が、妹と話す兄のようだったって事だ。そして、尻込みする妹を勇気づける兄のように、優しくドリアンは囁きかける。
「大丈夫だよ、彼が気にすると思うかい?」
そこには、時々耳にする肺の底に香りでも仕込んだかと思わせる甘ったるさはない。ドリアン氏は意外と身内には誠実な様子だ。そして、突然、優しく見守っていたロバート氏が仰け反った。次いで、全身が痙攣しだしたので、僕は慌ててハンカチ取り出し咥えさせようと歩み寄る。だが、すぐにロバート氏は身を起こし頭を降って、唇をとがらせて、肩でため息をつく。そして、口元に手を当て、指で髭をなぞる。
「ーー髭までーーいやじゃのーー」
ロバート氏は、先ほどまでゆったりと広げていた腕を、胴にピタリとつけ、肩を小さくしている。そして、膝を閉じ、笑いを抑えて視線を上に投げたドリアン氏に眉をひそめてみせる。濃い額の皺の左右にも溝が生じ、僕はそのひと睨みはやはりマクベス、と感心する。僕が呆気にとられているのに気が付くと、ロバート氏は背をすっと伸ばし、膝を前で揃えて僕に向けて首を傾げる。僕をチラと見て、目を膝の上で揃えた手の上に落とし、それから上目遣いでこちらを見て言う。
「ーーパーセルどの、でいらしたかの?そなた、悪魔の呪符に何をなすったーー?」
「呪符?」
「ーーおぬしが触ってから、悪魔が別人になってしもうたのじゃーー」
「ええと、あの、そりゃ、指紋は拭きましたが。」
「ーーううん、違うのじゃ。そちが鰐なるものを取り出だすのをみたぞーーあれは生贄か?」
そう言って、また小首を傾ける。これがうら若い姫君であったらとても可愛らしかったろうなと思ったよ。そして、ロバート氏の演技力には舌を巻いた。だが、僕は何も知らない。
「あれは昔からあるものと聞いておりますが。誰かが冗談で無理やり突っ込んだものでしょうね、扉に当たってかわいそうだったのであちらの棚に移しました。」
言いながら、僕はキャビネットの裏の書き付けの一部がワニについていたことを思い出した。
「呪符とは、扉の裏側にあった魔法陣みたいなものでしょうか?ワニの鼻に絵の具が擦れていましたね。」
「ーーおお、それじゃーーでは、鰐を戻せば途切れた呪文がもどるかのーー」
「鼻の絵の具は拭いてしまったので、無理だと思います。」
「ーーなんと!おおーー我が分身にはもう、会えぬというのかーー」
レディ・レノアが乗り移った演技を続けるロバート氏は、まるで目眩でも抑えるように額に手を当て目頭を抑えて、小さく泣き出した。
「ああ、すみません。」
僕は、よくわからないながらも仕方なく謝罪した。ドリアン氏がロバート氏に歩み寄って、頭を撫でてやる。そのあとさりげなく僕がテーブルに置いたままにしていたハンカチで手を拭っていたけれど。ロバート氏の髪は整髪料が多めについている様子だったからね。
「ごめんよ、でも、残念だな。僕も僕に似た悪魔が恋しいよ。」
「ええと、まあ、鏡ですからね。いつでも、映りませんか?」
「中身が、違うんだ。」
「はあ。」
「チェルビーノが持ってきた時、あそこには、魂を映す悪魔がいたんだ。割と偉い奴。今いるのは、いたずら好きのゴブリンでね。」
この辺りで、僕はもう前提とされている設定を追いきれなくなってきたので、「はあ」とだけ答える。
「ーーなぜじゃーーなぜわらわが真摯にあろうとするといつもーーいつもーー」
「まあ、ええと、すみません。僕にできる事があればーー」
「ないわ。そなたのような自由な若い男なぞ、わらわのような追いやられた哀れな女のためにできる事など何一つないわ。自由も操も命も声も奪われ、世界の辺境でこうして哀れに時を過ごすわらわを、そなたは見ることも聞くこともかなわぬではないか。そして、わらわはおぬしのように時を過ごしてきたのじゃ、これでも安穏で無為なーー無意味な在り方で過ごしておるのじゃ。わらわは、初めて、わらわ如き悲劇など喜劇と知ったのにーーあの鏡の悪魔を戻してくれーー」
僕は、声の低いロバート氏の上ずった声の語気に驚く。
「レノア?」
ドリアンが驚いたように顔をこわばらせてロバート氏の顔を覗き込む。レディ・レノアが憑依したロバート氏は背筋を伸ばし、怒ったように僕を見つめる。唇が震え始め、その瞳から涙が溢れ始める。
「ええい、そなたにはーー見えぬのじゃ、わらわにも見えていなかったのじゃ、ここに映る悪魔が見せるまでーーこの世の中には寝床さえ与えられずに奴隷のように働いて床で眠る少女がいるのじゃ、薪を拾っていただけで戯れに撃ち殺された乙女もーーわらわは、生あるうちにはそんな者どもをみて見ぬふりをしてきたのじゃ。初めて、ほかの誰かことを考え始めたのにーー」
レノアの憑依したロバートは大きな手で顔を覆い泣き崩れる。驚いたようにドリアンが肩に手を置いたのをレノアは手で払う。しばらくは彼は泣き続け、キャビネットに目をやり、駆け寄り、膝をつく。
「いま一度、あのーーあの場所をみたいのじゃーー助けを呼んでやりたいのじゃーー戻ってこい、悪魔めがーー」
そう言ってレノアさんはさめざめと泣き、キャビネットの扉を開け、膝を付いたまま欠けた魔法陣を見上げる。それが、どちらかというとしっかりとした体格の中年男性であるのに、僕はぼんやりとマグダラのマリアの絵を思い出す。僕とドリアンは、どうしていいのかわからずに立ち尽くす。
「ああ!レノア!駄目だと言ったでしょう!」
そう声をあげたのは、ちょうど部屋に足を踏み入れたらしいミネルヴァだった。ミネルヴァの腕から大きな猫が飛び降り、彼女はこちらへ駆け寄る。
「この鏡は心の闇をうつすの、だめよ、あなたのように繊細な人が覗いてはーー」
「じゃが、わらわはーーなにかしてやりたいーー」
「言ったでしょう、それは過去か現在か、本当かも嘘かも分からない、届かない場所なの。あなたはあなたの時を精一杯生きたの!今はできる事などないの、世界を良くするしかないの。でも、それは私たちの仕事なのよ…」
ミネルヴァがレノア/ロバートを抱きしめ、抱きしめられたレノアは大粒の涙を流す。髭と長めに残してあった髪はそれに濡れて顔に貼り付いている。ミネルヴァの後に続いた「エコー」ことマーガレット・ワイル氏と、その秘書ミリーさんが、ハンカチやらティシューやらを差し出す。だが、途端に、ロバートはロバートに戻ったようだ。きょとんとしている。少しぼうっとした様子のロバート・アシュクロフト氏は、ソファに導かれ、ミリーさんと僕は、レノアさんが実在しているかいないかはわからない。もしかしたら、ロバート氏の別の人格なのかもしれない。『お人好しのロバート』さんなのだから、十分にあり得る話だと思う。一方で、ミネルヴァさん、マーガレットさん、それにドリアンさんはキャビネットの前でまた何もない空間を囲んで優しい言葉をかけていた。それを、僕は、なんとも言えない気分で見ていたよ。
いつの間にか、ジミーが僕の後ろにきて、片付けるふりをしながら声をかける。
「どうしたの?」
ささやき声に近いジミーの声は、先ほどのロバート氏の声とは随分違う。
「うん、さっきのは聞こえた?」
「聞こえたも何も。ずっと聞いてはいたんだけど、途中で呼ばれちゃって。君、レノアさんが見えないのか。不幸な奴。」
「君には見えるのか?」
「うん。最初は天使かと思ったよ。僕のベアトリーチェだ。」
「誰だい、それ?」
「説明が難しいよ…『新生』を読んでくれ…」
僕はジミーを隅に連れて行ってもう少し聞きたかったんだが、あちらでまた、ジミーを呼ぶ人がいたので、遠慮したよ。
向き直ると、キャビネットの前から女性たちは離れて、温室の方へ行くところだった。キャビネットの前では、鼻をかむロバート氏とドリアン氏が残った。僕が近付くと、ドリアン氏が笑ってソファを手で示した。ドリアン氏は少し、そしてロバート氏はとても疲れた様子だった。はじめに、ドリアン氏が口を開いた。
「レノアが、あんなに追い詰められていたなんて。てっきり、アルマンの恋愛沙汰をお喋りしているんだろうと思っていたのに。」
「ええと、何を、彼女は話したんですか。」
ロバート氏はティシューで鼻周りを拭き、僕が概要を話す間、心をいためた様子で聞いていた。
「そうでしたか…」
「でも、君は不気味なほど乙女だったよ。」
ドリアン氏がわざと明るく言い、それから、紙巻き煙草に火をつけた。一息深く吸い、吐き出し、こう言った。
「僕がちゃんと見ていてあげなかったせいだ。あれは悪魔だし、悪魔は悪魔なんだ。オーウェン君、ワニを拭いてくれてありがとう。チェルビーノがなんと言おうと、あれは安全なものじゃなかった。少なくとも、レノアにとっては。」
「僕には、なんにも見えません。レノアさんも、悪魔も。だから、一体なんのことやら…」
「彼女は、優しいんだ。だから、守ってあげないと。せっかく、戦争中も情報を伏せてたのに。僕が馬鹿だった。」
ドリアン氏が、少し反省したように言った。ロバート氏は、先ほどとは打って変わって手足を長く伸ばし座り直す。
「彼女は生前に十分大変だったそうですからね。しかし、何故、悪魔はそんなものをみせたのでしょうね。」
「さあ。意地が悪いんだろう。」
僕たちはそれから、しばらく大人しく座っていた。ドリアン氏が、床から拾ったティシューを鏡に投げはじめた頃、ジミーが箒を持ってやってきた。
「やあ、ジミー。君にはレノアは、見えるのかい?」
「はい。天使のように美しい方です。」
「だよね。でも、それを本人は言わない方がいい。」
「ええ、知ってます。」
済ました顔でジミーは言う。ドリアン氏は呆れた顔をして煙を吐き出す。
「君、ルイス氏を崇拝していて、レノアも崇拝して、なんというか…それでいいのか?」
ジミーは箒でロバート氏の鼻水が染み込んだティシューを掻き集めると、もう一枚ロバート氏が差し出したものも塵取りに掃き込んで背を伸ばす。
「ああ、それは…だって、僕には崇めることしかできない。代わりに差し出すものが、ないんです。でも、崇拝できるって、ありがたいと思いませんか?」
ドリアン氏はわかったようなわからないような顔をし、ロバート氏はにっこりとほほ笑んだ。
「私も、シェイクスピアの台詞を覚える時にはそう思います。」
「ひゃあ、そんなすごい事じゃないんです。」
少し照れた笑顔でジミーは言うと、また、あちらで呼ばれて行ってしまったよ。僕は、ジミーは偉いと思うよ。彼だって若くて健康で、けして見目が悪いというわけではない。なのに、とても謙虚だ。そして、どこか、楽しそうだ。やはり僕よりも作家に向いているのではないかな。君はどう思うかな。
さて、思ったよりもこれを打つのに時間がかかったよ。でも、今回のことは、君にも知らせたくって。レノアさんは、君やお嬢さんと近い年齢で亡くなったんだね。君から見て、もしもレノアさんが存在するとしたら、どう思うのだろう。
ーー君の兄、オーウェン・パーセルより
004. アルマンさんのご近所
親愛なる妹、ソフィ・コットンテイルへ
なるほど、君のレノアさんへの評価は納得だよ。結局、優しい世界に囲いこまれているうちは自由になれない、か。その囲い込みから外れた時に、あっという間に犠牲者になってしまった。そして、死して時が経ち、犠牲者である事からもようやく一歩出たところで、僕がワニを拭いた。不運というか、でも、悪魔に本来彼女が関わるはずのなかった悲劇についてばかりを尋ねるのは、そうだね、彼女には善いことではない。君の言うとおりだと、僕も思う。そして、どうしてわかったんだい、彼女がそこに辿り着いたのは、どうやらアルマンさんの情報を聞いたところからだったらしいんだ。そして、話はアルマンさんに戻る。だが、まずはレノアさんと、タイポさんだ。
僕はその日は、ルイス氏が旅行へ行ってしまったので暇だった。実物のスフィンクスを見て、「これじゃないな」と言いたいらしい。それで、手持ち無沙汰気味に給仕の仕事のさらに下のような事をしてみたり、例のキャビネット掃除をしたり、裏の魔法陣のようなものを描き写したりしていた。気が付くと、キャビネットの鏡に人影がうつっていた。僕は瞬間、噂に聞く例の悪魔かと期待したのだけれど、違った。
「やあ、調子はどう?」
短いゆるい巻き毛のタイポさんが笑顔で語りかける。それでも控えめな笑いなのは、まだ神経の共同運動が出るそうだからだそうだ。僕たちは見慣れているから、今更気にしないでくれてもいいのだけれどね。
「実は、こんなことがありましてね。」
そう言って、僕は先日のレノアさんの事を話したよ。僕としては、レノアさんは実在する/しないの間にいる、とまで話して、タイポさんがちらと空のソファ目をやるのを見て、ああ、いるのだな、と考える。
「でも、実在してくれたほうがいいんです。でなきゃ、ジミーまで含めて僕を担いでいることになる。この倶楽部の人たちはそこまで回りくどく意地悪な筈がない。」
「そうだね、そう思ってくれるとありがたいよ。ねえ、レディ・レノア。」
タイポさんはそう言って、普段はドリアンさんが座るソファに腰掛ける。僕はその隣に座ろうとして、止められて、反対側に移る。
「それで、レディ・レノア、どうしたんですか。」
タイポさんは僕が座らなかったソファに話しかけ、しばらく黙り、僕のほうをむいて、「アルマンを探して欲しいんだって。」と言う。それから、立って、キャビネットへ向かう。
「その前に、これを直してみよう。いや、僕も、まだ、前の悪魔に会いたいしーーそれに、なんだいこいつは、意地悪だね。」
何か不快な事でも僕には見えない下級悪魔がしていたのか、タイポさんは追い払う仕草をしてから、キャビネットの扉を開ける。そして、鏡の裏側の魔法陣のようなものを調べ、胸ポケットから小さなノートを取り出し、見比べながらページを繰る。ついでにいうと、タイポさんは倶楽部に来るときはきちんとした、上流階級らしい上着を着ているよ。君が見たことのある、あのひどい上着じゃない。
「ああ、これかな…」
「あったんですか」
「うん。似たのがあるってだけだけど。」
そう言ってタイポさんは、僕と、おそらくはレノアさんを手招きで呼ぶ。僕らは並んで立っていたか、おそらくはぶつかったかで、少し冷たい風が左の手の甲に当たった気がする。僕は、それに気付いた自分に驚いて腕組みをし、タイポさんが示すノートとキャビネットの裏を見比べる。左の頬がひんやりする。タイポさんが笑い出す。
「どうしたんですか」
「ふたり、おなじポーズで見ているものだから。なんだか、かわいいね。」
僕は、それをなんと奇妙な会話だろうと考える。あちらの方ではジミーが見ている。僕は、これ以上ジミーの崇拝する対象に近づいてはいけないと、一歩退く。レノアさんという人がいてもいなくても、ジミーを僕は尊重できる。
「それで、直せそうでしょうか?」
「たとえ図があってたとしても、インクが…何かの血みたいだし、ちょっとなあ…」
タイポさんが言うと、僕の中を冷たいものが通り抜け、生贄という単語が思い浮かぶ。肝を冷やした僕がタイポさんに顔を向けると、タイポさんは中空に向けてノートを差し出し、ここが読めないんだ、一番下だ、と言う。どうやら、達筆すぎる昔の書体を、レノアさんに解読してもらっているようだ。それから、何度か頷き、首を傾げ、宙を見上げ、僕に視線を投げる。
「レディ・レノアは、アルマンの近所にいる筈の不幸な子供を助けたいそうなんだ。どこにいるのかも、正確には、わからないそうなんだけど…行ってみようか。」
「ええ、でも、彼の行き先は知りませんよ。ジョルジュさんは最近見ないし。」
「僕が知ってるんだ。ああ、違うんだよ、レノア、僕は、彼にはそういう興味はないよ。」
「どういう興味ですか。」
「レノアさんが喜ぶタイプの興味。僕は、なんだろう、彼に何か指針を示して欲しかったのだと思う。生きる中での葛藤とか。」
「はあ。」
そんな会話のあと、僕らは人々が仕事を終える時間を見計らって街へ出た。タイポさんは、タイポさんは倶楽部向けの上着を、もう少し僕ら向きの上着に着替えて出てきたよ。最近、彼は、僕が16の頃に着てたやつ、あれと、もう一つ、それと同じサイズで僕が買ってきたやつと、普通に見える上着を二つ、倶楽部に置いているんだ。新しい上着は、それでも紳士風ではあるんだけど、嫌味はない、と、僕は思う。まあ、紳士服店の店員さんがそう言っていたのだけどね。ああ、これはね、別にタイポさんが頼んだ事ではなくて、ルイスさんが取材でやらせた事なんだ。スフィンクスの使者の為にこっそりと猫省職員が上着を買うシーン用らしくてね。でも、この話は別の時にするよ。
僕と、タイポさんと、おそらくはレノアさんは、地下鉄を少し危ない界隈で降り、暫く歩いた。どういうわけだか、そういう界隈の空気は少し電気が流れている感覚がある。そして、建物が空を妙に意識させる。あの感覚は不思議だ。そして、夕刻の空は晴れているのにもう灰色がかって夜のように感じる。タイポさんが行ったり立ち止まったりする中、次第に建物同士の間隔が狭くなり、街はますます暗くなっていったよ。そして、タイポさんが階段をおり、半地下の扉を叩く。しばらくして、小さく扉が開く。呆れたような声と、懐かしい外国語の悪態が続き、アルマンさんが小さく扉をあける。
「またあんたか!来るなと言ったろう。こんな時間に。危ないぞ!」
呆れながら叱るのはアルマンさんのお得意で、僕は嬉しくなって、つい、前に出たよ。
「アルマンさん!お久しぶりです!」
「オーウェン・パーセル!なんで君まで!」
驚いた様子のアルマンさんは、それから、僕の隣、ひんやりする側に顔を向ける、一瞬鼻白む。
「レディ・レノアまで…あなた、出歩けるんですね。」
それから、少し扉から身を乗り出し、左右と上を確認し、渋々といった様子で僕らを通す。
「ここにも、ご近所ってもんがあるんでね…」
部屋の中は片付いていて、ものが少ない。奥に不釣り合いな大きな一人掛けソファが見える以外には、これと言って目立つものはない。電灯は点いていても、薄暗い。
「パーセル、相変わらずでかいな。頭に気をつけて。」
言われて上を見ると、ドアの上に、青いきれいなビーズがぶら下げてある。タイポさんが、それを見上げてわずかに微笑んで目尻のシワに陰が刻まれる。最近、少し動きが回復してきたと言っていたから、それもあるのかな。いつもより、自然に見えたよ。
「身につけないんですか。」
「さすがにそれは少し抵抗がある。」
「なんだい、レノアーーああ、そうなの?」
「なんですか。」
「レノアさんは、貴方を探していたんです、それでーーこの目がいつも、それを阻んだそうで。」
「はは、あんたがくれた呪符なのに。邪悪な視線を避ける、だっけ?そりゃ結構な事だーーえ、どうしたんでーー子供?知らんが、誰の?ーー知らない?この辺の?巻き毛で腰くらいの背?目の色は?」
ここのアルマンさんの顔色や声のトーンの変化の具合を正確に書き留められるほど、僕は文章がうまくないんだ。だけど、アルマンさんの薄暗い部屋で、彼の軽蔑とも嫌悪ともしれぬ表情が同情にほどかれ、それから真剣に質問を並べるまでが、僕の正面で繰り広げられた。きっと僕の目の前に回り込んだレノアさんが、先日ロバート氏の身体を使って表現したような思い詰めた様子で、アルマンさんに訴えたのだろう、僕はアルマンさんが、おそらくは取り乱したレノアさんに対峙するのを、正面から見ることになった。アルマンさんの顔は強張り、前かがみで僕には見えない女性から情報を聞き出し、最後に、「それを見たのはいつ?」と聞く。タイポさんは、3人のなかで僕だけがレノアさんを見ることも聞くこともできないと気付き、僕に傍らに寄って小声で解説してくれる。
「レノアさんは、1週間前にこの近所で…狭い場所に…監禁されている子供を見たと言っている。痩せて、病気で、不潔で…可哀想に…」
それ以上の事をタイポさんは言わなかったが、少し青ざめているように感じた。おそらく、レノアさんはそれ以上の何か「ひどい」事を言っていて、タイポさんは繰り返す気になれなかったのだろう。
「それで、あんた、こんなところまで来たのか。ああ、どうりで…」
アルマンさんがそう言う辺りで、僕は部屋の中に目を走らせていた。テーブルの上には、端に寄せて置かれた灰皿と水が入ったグラス。自動車の機構についての本が数冊積んである。そして、隅に汚れた布が干してある。機械油のような黒っぽい油がついている。そういえば、アルマンさんは髪を綺麗に撫でつけてはいないし、ゆったりとした木綿シャツの下は濃紺のデニムだ。仕事を変えたのかもしれない。
「メラニーの所の子かもしれない。」
僕の推測とは無関係に、アルマンさんは手で大きめ一人掛けソファを手で示して、おそらくはレノアさんを座らせる。それから僕とタイポさんの両方を少し首を動かして見比べ、タイポさんにはテーブル横の椅子を手で示して、座らせる。
「あんたら二人はここで待っていてください。幽霊と紳士を連れ歩くのは面倒だ。パーセル、君は来てくれ。ただ、もう少し髪を崩して、そうだな、それでいい。」
そう言って、戸口へ向かう。僕はどこへ向かうのかよく分からなかったし、髪は朝に散歩する時のように風を少し通して、なんだか少し落ち着かない気分だったよ。それに、朝はいつも小鳥やたまにトカゲやヘビ出食わしてうれしいのだけれど、夕刻の街で可哀想な子供を訪ねるのはあまり気持ちがいいものではないね。僕らは夕刻が夜に変わるなかを、足早に歩いた。
「パーセル、きちんと教え終わらない内に、辞めてしまって、済まなかったな。」
沈黙に耐えかねたのか、アルマンさんが言い出す。
「ああ、大丈夫です。ジョーンズさんが教えてくれたし。それに、僕、今は代筆屋なんです。それより、自動車関係なんですか、お仕事は。きれい好きなのに意外です。」
「よくわかったな。」
「本があったんで。」
「そうか。とんだ探偵だな。なんだい、代筆屋って。」
それで僕は、一通り、タイポさんのことやルイスさんの事を話したよ。その間、アルマンさんは時々、相槌をうったり、質問を挟んだりする。そして、視界を補うように微妙に左右に顔を動かして歩く。
「ルイス氏はやはり奇妙な人だな。」
「みんな変じゃないですか、あの倶楽部は。」
「そうだったな。」
「戻らないんですか。」
「ああ。人間より機械の方がわかりやすい。」
そこまで話した時、先ほど出てきたのと似たような半地下の部屋続く階段行き着く。アルマンさんはゆっくり確認しながら数段降り、最後の段は抜かして地面に飛ぶ。
「メラニー。」
アルマンさんが扉に向かって呼びかけるが、返事はない。
「メラニー!」
もう一度、今度は大声で呼びかける。
「てめえか!」
中から、怒気に満ちた声がして四角い顔の男性が飛び出し、アルマンさんの胸ぐらを掴む。僕が身構えるが、アルマンが「ノーマン!」と呼ぶのと同じくらいのタイミングで、彼は動きを止める。
「あ、ああ、アルマンか…」
「一体どうしたんだ?」
「お前こそ何を?メラニーなら居ないぞ、男と逃げた!可哀想に、スーを地下室に放り込んだままで…」
「スー?それが子供の名前か?どんな子だ?生きているのか?」
「ああ、スーザンだ、可哀想に、なんも食わせてもらってなかったんだ!ちっぽけでよ…俺んとこの母ちゃんがさっき抱っこして、帰ってったさ。もう大丈夫だ、多分な。だけど、ぐったりしててな…」
「ノーマン、君の家はどこだ。いい医者を知ってる。それに、多分幾らか出してくれそうな人もいる。」
「本当か?痩せっぽち一人の食い扶持くらい稼げるけど、いい医者はな、高いからな。」
「大丈夫だ。」
僕は、幽霊のレノアさんや没落貴族のタイポさんがいくら出せるかはわからなかったけど、最悪ルイスさんも頼れるだろうと思う。
それから、ノーマンさんは僕を胡散臭そうな目で上から下まで見聞し、あいつはなんだと聞き、アルマンさんは新聞記者だと適当な事を言い、僕をタイポさんとレノアさんの元へ走らせた。
「後で家で医者を送る先を教えるから、待っているように。」
アルマンさんは、昔と同じ、仕事を教える口調で言う。僕は、「うちは男ばかりだから、母ちゃんが一目惚れしちまってな」というノーマンさんの声を背中で聞きながら、もと来た道を辿って戻った。辺りはすっかり暗くなり、僕はいつの間にか抜けた緊張感を取り戻す事なく、アルマンさんの部屋まで辿り着いたよ。
「レノアさん!タイポさん!」
そう言ってドアノブを捻った僕の顔は輝いていたに違いないよ。ところが、鍵がかかっている。それから、驚いたような顔でタイポさんが扉を開けてくれる。僕は笑顔で報告する。
「子供は無事でしたよ!保護されていました!」
「それはよかった…そして、君はレノアが見えるようになったの?」
「いえ?でも、心配していたんでしょう?」
それでタイポさんは笑う。いつもの、顔の右を手で押さえての笑いではあるが、ちらと中空にも目をやってホッとした様子だ。
「でも、お医者さんがいるようなんです。アルマンさんが、タイポさんに頼めって。」
「勿論だけど…では、どこかで電話を借りないとね。」
そう言って、タイポさんは少しためらう。アルマンさんの部屋に電話なんてあるわけはないし、タイポさんが外をうろつくのもどこか危なっかしい。僕が強盗だったら、真っ先に狙うと思う。勝てそうだからね。それで、仕方がないので、僕がまた赤い公衆電話を探して歩き、お医者様にひとまずはアルマンさんの家までご足労願った。それからは、ノーマンさんの家まで案内したりひとまず倶楽部に戻って休んだりと、あまり細々書いても面白くはないかな。スーザンという子供は危ないところで助けられ、徐々に回復している。ただ、慢性的に世話を放棄されていたみたいだね、ノーマンさんご一家の元で幸せになるといいんだが。
ああ、そうだ、子供は結局、では、レノアさんの骨折りは無駄骨だったのかと言うと、そうでもないんだ。彼女は、僕がワニを拭く前から、その子供を何度か見せられて探していたらしくてね。アルマンさんの家の辺りまで行ってみたりしていたそうだ。それで、その辺り幽霊の噂が立つ。ノーマンさんは、疾走したメラニーではないかと家まで行ってみる。メラニー死体でもあるのでは、と覗いた狭い地下に閉じ込められた子供を見つける。こういう流れだ。メラニーは、夫を戦争で亡くしてから少しおかしくなった女性だそうで、何故子供を閉じ込めて消えたのかはわからない。だけど、これは不愉快だからあまり書かないよ。まあ、レノアさんは、いるいかいないかは、わからないけれど、状況から考えると、実在しているのかもしれない。何故、僕には見えないのだろうね。ジミーに聞いたら、知らない画家が描いたオフィーリアに似ているそうだ。それから、映画女優の、結核で死ぬ映画に出ている人にも面影があるそうだ。もう少し、幸せそうなイメージはないものかな。
ーー君の兄、オーウェン・パーセル
005. 洗練された粗暴
親愛なるソフィへ
驚いたよ、お嬢さん一緒にイタリア語を習っているのだってね。きっと、クリスマスを温かいイタリアで過ごしたら、お嬢さんのお体もすっかり良くなることと思うよ。しかし、あちらは政治が少し不安定だとも聞くよ、僕は少しそこは気になる。いずれにせよ、寒い季節にお嬢さんは南国、君は僕らと我が家でまた怪談の朗読かな。母さんが、懐かしい本を見つけたと言っていたよ。そうそう、それも舞台がイタリアだったと思うよ。決闘で亡くなった伯父の遺体を探しに行く話らしいんだ。1950年代の今ならちゃんと警察が保管しているんだろうけど、ヴィクトリア朝ではね。どんなおどろおどろしい話なんだろう。
ああ、そうなんだ、僕は僕が視認できないところにレノアさんを、一応、いるらしいとして行動しているよ。もしもいないのであってもそういう芝居を楽しむ倶楽部だし、万一、本当にいたら、いないように振る舞うのは失礼だから。とはいえ、見かけないものだから、そこにいても挨拶のしようはないし、たまたま同じ空間にいても気が付かないもので結果的に無視している事になってしまう。これは、考えものだね。
こんな事を考え始めたのは、勿論、先日彼女の嘆きがきっかけで子供がひとり救われたからというのもあるんだけど、それからもう一つ、悪魔に約束したからでもあるんだ。別に、君が心配するような取引はしていないよ。ただ、面白い経験をさせてもらったから、お礼がしたくって。1チャプター、彼について書くつもりでいるんだ。
そうだ、ルイス氏と黒騎士さんが旅から戻って、僕にお土産をくれた話はしていないよね。骨董品との触れ込みのついた、たぶん工芸品のレターオープナーをくれたよ。君といつも手紙のやりとりをしている事を知っているからね。彼らは僕に聡明な妹がいることを知っているんだ、君の方が早くタイプを覚えた事をタイポさんが黙っていたので、僕が申告しておいたよ。言わなくてもいいことを、とジミーやサムには言われるけど、なんだろうね、自分より優秀な妹がいるということは、僕の場合は、自分で自分の優秀さを証明しないといけないと焦らなくて済む分、楽で嬉しいよ。
ルイス氏にもらったレターオープナーは、黒っぽい石を薄く削ったもので、持ち手の方は二股に分かれて控えめにカールしている。中央にヒエログリフで何やら書いてあるけれど読みようはない。それは心持ちひんやりしていて、手にしているとだんだん体温が移って暖かくなる。僕は、ちょうど黒騎士さんと砂漠の薔薇について話していて、手許をみずにすっとそれを勢いよく動かしてしまった。そして、封筒の隅に据えた指先を切ってしまった。
「いてっ」
「おや。」
黒騎士さんは呆れたように笑ってハンカチを取り出してくれたんだが、僕はちょっと思いついて、それを断ってキャビネットの扉を開けた。先日、ポケットから、先日タイポさんのノートから描き写した魔法陣のページを左手で開いて、扉の裏の魔法陣で欠けたところを補うように、僕の指先の血を塗ってみた。
「よく思いつくな。」
黒騎士さんが笑い、僕は、何か変化はないかキャビネットの扉を閉めて、鏡を覗き込む。僕が映っている。
「なんだ、変わらないですね。」
そう言って振り返ると、倶楽部が、倶楽部ではなくなっていた。薄暗い、壁の赤い部屋に変わり、窓の向こうは夜だ。あちらでジャズのバンドが妖艶なメロディを奏で、広い室内はタバコや別のものの煙とアルコールの匂いで満ちている。怪しげな出で立ちの男女が絡み合うテーブルやカウンターの間を、しっぽの生えた給仕が行き来している。黒騎士さんが座っていた辺りは闇に沈んでいるが、どうやらVIP席のようで、赤黒い革張りのソファに白や黒の太腿とハイヒールそれに、スーツのズボンが見える。その奥でガタンと大きな音がして、赤いドレスの女性と灰色がかったスーツの男性が席を立ち、しっぽの生えた給仕達はさらに茶色のカーディガンの男性を引き摺りだし、二人一組で男性を抱えて何処かへ消える。
「おう、そこの若いの。オーウェンだろ?ここへきなよ。」
低いざらついた声が闇の中から親しげに僕の名を呼ぶ。その野太い声は奥にどこか艶があり、断れない魅力があった。僕が暗闇に目を凝らしながら赤黒い革張りのソファの隅に寄ると、驚いたことに、そこには巨大なゴリラがいた。ゴリラだよ、君もターザンの挿絵で見たろう、あの、類人猿だ。だが、彼は挿絵のように裸ではなくて、高そうな深い紫のスーツを着ていた。そして、黒い毛はつややかに光り、広い鼻の上には金縁の眼鏡をかけていた。
「お前だな、消したり書いたり。」
「はあ、いけませんでしたか。」
ゴリラ氏は、彼の手のサイズに合った大きなグラスで茶色い液体、おそらくはスコッチを飲むと、こちらを見下ろして尊大に笑った。
「いけなくはない。俺は暇だからな。」
「あなたは、タイポさんやレノアさんが言っていた悪魔ですか?そうは見えない。」
僕は、彼を見あげながら聞く。僕は、そういえば思春期以降、人を見上げた事がほとんどない事に思い至る。
「なぜだ?」
「あなたが、お洒落なゴリラだからです。そういう、洗練された粗暴は、彼等が話していた悪魔じゃない。」
僕がそういうと、ゴリラ氏は意外そうに眉に当たる部分を上げ、それから豪快に笑った。笑い終わると、まだ彼機嫌のいい調子で言う。
「俺が、お洒落か。」
「洗練され、垢抜けた粗暴ですね。ダンディです。でも僕は、格好のいいゴリラではなく、僕が魔法陣を消してしまった悪魔さんを探しているんです。」
「しかし、お前が書いたのは俺を呼ぶ魔法陣だ。それに、あいつは忙しい、偉いからな。俺も偉いが、俺は暇だ。お前は気に入った。どうだ、何かひとつ、望みをかなえてやろう。何か言え。」
「いや、渡せるものはないんです。」
「お前の気の利いたお世辞で十分だ。『垢抜けた粗暴』! 最高だ、気に入った。俺の二つ名にしてもいい。どうだ、願いを言え。ひとつ目は、タダだ。俺は気前がいいからな。次からは、お題を頂く。」
僕は、代金は僕がなんとなく口にし、彼が気に入った言葉ではないかと思った。だとしたら、タダというわけではない。だが、結局は悪魔だから、そういう話術なのだろう。
「では、世界平和。」
「そういうの自分たちでやれ、俺たちでは無理だよ。」
「悪魔なのに?」
「悪魔だからだ。」
「では、子供がいじめられない世界も、病気がない世界も、無理ですか?」
「俺は悪魔だ。そういう事は職務範囲外なんだ。お前だって、給仕なのに『母ちゃん思い出のスープ』なんて注文されても困るだろう?」
「なるほど。」
「俺の得意なことはな。」
そう言ってゴリラは綺麗に磨かれた黒い爪を光らせ、あちらのソファでスーツの男性のネクタイを外している、露出の多い若い女性を示す。若い女性はこちらをちらと振り返って、艷麗な笑みをよこす。ゴリラ氏はそれに手で挨拶を送ると、僕に解説する。
「俺の得意なことは、例えば、ああいう事だ。あの男は娘の友達に本気で狂って今や家庭も会社も失った。それをお代に、俺はそのお友達をくれてやったのさ、1日な。」
「それは、とんだことですね。」
「だろう?」
悪魔のゴリラ氏は、テーブルの上のナッツをひとつ、器用に口へ運ぶ。彼の目は、バーのあちらこちらで繰り広げられる小さなやりとりをくまなく見渡している。あちらでは何やら金品を取引する者がおり、向こうの隅では男性が刺されたようだ。白いシャツに赤い色が広がる。
「しかし、それはあなたがいなくても起こりうることではないですか。」
僕が言うと、ゴリラ氏は太い首をかしげて言う。
「まあ、そうかもな。なんにせよ、家族と会社を失えば次は酒と煙草と貧困で、その内に俺のところに魂が転がり込む。簡単だろ。最近は俺が仕事をしなくても勝手に転がりこんでくる奴が多いんだよ。だから暇だ。俺の名前は『強欲』だ。どうだ、お前もああいう女が欲しいか。欲しいだろ?」
そう言ってゴリラ氏はゴリラ氏の向こうに座っていたらしい、赤いドレスの女性をひょいと抱き上げてテーブルに乗せる。女性は僕に真っ赤な唇で笑いかける。白い歯が眩しい。彼女は引き締まった太腿をあらわにしながらまたゴリラ氏の膝に滑り降り、そこから、また向こうの闇に消える。
「どうだ、美しいだろう?彼女が欲しくはないか?」
なるほど、美しい女性ではあったが、親しみはわかなかった。
「僕はまだ家庭を持てるほど、しっかりしていないので。」
言いながら、僕は、ゴリラ氏のゴリラ氏のつややかな毛並みを見る。女性が滑り降りる時、さりげなくその毛並みをなでたのを見ていたので、触り心地が気になった。僕は本物のゴリラは見たことがない。だから、お金持ちの御婦人が着る毛皮のコートのような毛並みがゴリラ本来のものであるのか、彼が悪魔であるからそうなのか、わからない。
「では、金か。」
言うとゴリラは、マジシャンがカードでやるように何もないところから札束を広げ、手のひらから数枚の金貨を落とす。金は確かに欲しい。しかし、これを貰うと誇りに傷がつく気がする。
「まずは自分で稼いでみたいんで。」
ゴリラ氏は札束を投げ、呆れたように言う。
「他に何かないのか。」
僕には思いつかない。それで、ほかの人の願いはどんなだったろうかと考える。せっかくの機会なので、逃すのも勿体ない。
「じゃあ、タイポさんの顔を治すとか、ルイス氏の五十肩を治すとか…」
そういいながらも、好奇心のほうが先立ってゴリラ氏を見ていた。太い首にきちんとした白い襟、緑のネクタイ、ダイヤのタイピン。つい、こんな胸板や毛皮があったら格好いいだろうな、と思って、ゴリラになりたいと言ってみようかと思ったんだが、人間社会で生きていけなくなるのでやめたよ。あれは、悪魔ならではのお洒落だ。
「他人の願いを頼むのは駄目だ、そんな事をしたら天使に持ってかれちまう。お前に自分の欲望はないのか。」
「ないことはないんですが、現実離れしちゃう事は願えるけど、現実から離れたくないし。現実のことは、やっぱり、自分で獲得しないと意味ないんで。」
「は!呆れたもんだ。」
ゴリラ氏は笑って、まやもやスコッチ的な何かを飲み、あちらから歩み寄るオラウータン的な男に挨拶する。このオラウータンは赤毛ではなく黄ばんだ白髪で、ゴリラ氏に比べると高級感というか、威厳はなかった。
「なんだ、『強欲』、人間なんか相手にして。」
「こいつ、面白いんだ。」
「はん。面白いってのは、他人の土地を巡って喧嘩をさせることだ。見ろよ。」
黄ばんだオラウータンは、手にしていた太ったデディベアと、中年女性の操り人形をテーブルの上に投げた。二つの可愛くない人形はテーブル上の空き瓶や皿を手に取り、それでお互いを殴り始める。ナッツの殻や食べかけのチーズが飛び散り、僕はかつての給仕の本能がそれを片付けたいと欲するが、我慢する。ゴリラ氏は、呆れた様子で、「おいおい、勘弁してくれ」と言って席を立った。
「行くぞ。」
「どこへ?」
「お前はもう帰れ。送っていってやる。」
ゴリラ氏が子猫のようにひょいと僕をつまみ上げ、緞帳のようなカーテンで区切られたをいくつかの部屋をくぐり抜ける。その間に、ここには書けないような部屋もあったし、どこがどう欲望と関係するのかわからない部屋もあった。
「あっ」
僕が声をあげてもゴリラ氏は止まらなかったが、僕は、その中の一つの部屋でアルマンさんを見た。憂鬱そうに、ぼんやりと、ビリヤード台にもたれていた。そこには、他にも数人の男女がいて、赤い照明は彼らをドラマチックな影絵のように見せていた。だが、一見ドラマチックなようで、彼らはお互いに没交渉であるせいか、ドラマはなかった。
「知り合いがいたんですが。」
「ああ、あいつらか。別に俺たちが提供する欲望ではないんだがな。あっちから追い出されて
行き場がなさそうなんで、置いてやってる。認知されない欲望は、転がしやすいしな。」
僕にはゴリラ氏の言う意味があまり分からなかったけれど、どこか哀れむような響きがあったよ。なので、こう言ってみた。
「可哀想に思うんですね。」
「ああ。お前たちが、食用の牛を可哀想に思う程度にはな。俺は優しいんだ。」
いいながらゴリラ氏は、ひときわ豪華な装飾の緞帳の前で僕を降ろした。美しい刺繍の男女が叫びながらの支える幾何学模様と文字。よく見ると、魔法陣のようだった。
「ああ、正解の魔法陣を教えてください。」
「俺も知らないんだ。」
「同僚なのに?」
「お前は、ジミーの家の鍵を持ってるか?」
「なるほど。」
「ここからは一人で行きな。あばよ。」
「ここから?どこへ続くんです?」
「ここより危険で不快な場所、人間の世界だ。」
そして、急に目の前が明るくなり、心配そうなジミー、ルイス氏、ドリアンさんの顔が見えた。
僕が起き上がると、ルイス氏が心配そうに尋ねる。
「大丈夫か?」
「ええ。ゴリラの悪魔に会いました。そういう呪いかかったレターオープナーでしたか?」
「いや、あれは骨董品じゃないぞ。市場のおやじの手作りの民芸品だ…ただ、きれいだったから買ったんだが。さては、幻覚剤が付着していたかな。」
「幻覚剤?」
「ああ、土産物屋だからな。コッソリ売ってるし、オヤジも使っている。」
「買ったんですか。」
「それより、ゴリラか?蛇でもサソリでもなく?」
「ゴリラでしたね。」
そういうわけで、今、倶楽部キャビネットはゴリラの悪魔のいる、あれは地獄なのかな、そういう場所に繋がっているみたいだよ。僕は、願い事をしなくて損をしたのかな。でも、本物のゴリラは見てみたくなったよ。動物園にいるかな。また、書くよ。
ーー君の兄、オーウェン・パーセル
006. ささいな、小さな事が
親愛なる妹、ソフィ・コットンテイルへ
大丈夫だよ、心配ありがとう、その後は残念ながらゴリラの悪魔には会っていないよ。そうだね、小さい頃に観た映画の影響かもしれない。でも、あの映画ではゴリラはお洒落ではなかったよね。ゴリラ悪魔は、夢か幻覚なのだろうけれど、どちらにしても楽しい経験だった。それだけで充分だよ。
ところで、お嬢様の旅行へ同行なんて、素晴らしい名誉だね!グランド・ツアーなんて時代遅れ、なんて言う奴には言わせておけばいいよ。羨ましいだけなんだ。君は大陸を見るんだ、戦後だからって関係ない。あれもこれも、残っている。正直に言おう、僕だって妬ましいくらい羨ましくて、叫びたいほど君のために嬉しいよ。ただ、心配なのは、大陸のお偉い殿方を君たちが行く先々で射落として、大陸にも「嘆く独身者倶楽部」ができてしまうかもしれないってことかな。そうなったら、僕もそこで働けるかな。でも、言葉が難しそうだね。是非とも、様子を教えておくれ。
こちらは相変わらずだよ。ルイス氏の書くスフィンクス型宇宙人は、ついに地球人レオナルドを秘密の作戦に送り出した。剥製の仔ワニには棚の段を確保したよ。喫茶室のキャビネットも相変わらずだ。ドリアンさんは、時々楽しそうに鏡の悪魔と会話している。ドリアンさんは、「今回の悪魔は美人だけど好みじゃない、でも話していて楽しい」そうだ。多分、その悪魔はゴリラじゃない。ゴリラに対する一般的な褒め言葉は、「美人」ではないからだ。僕は、ゴリラはやはり僕個人の幻覚だったろうと考えているよ。
実は、あの鏡の裏の魔法陣をいっそ綺麗に拭き取ってしまったらどうだろうかと考えているんだ。悪魔がいるにしろ、いないにしろ、それが場の中心にいるのは、安全じゃないと思う。レノアさんが本当にいるとすれば、彼女に及ぼした影響も大きかった筈だ。ああいうのは、健全ではない。何かがそこにあることで誰かが追い詰められるのは、よくないよね。とはいえ、結果、一人の子供は救えたので、すべてがよくなかったわけではない。でも、健康的じゃない。勿論、勝手に消したりはしないよ。だって、もしも、万が一、悪魔がいたとしても、タイポさんや、もしかしたらドリアンさんも、突然消えたら、それはそれでショックをうけてしまうだろうから。
最近はタイポさんはあまり倶楽部には来ないんだ、時々、あまり向いていない仕事で忙しくなる時期があるそうで、最近もそうなのかな。でも、土曜の午後に、パブで会ったよ。僕がゴリラの悪魔の話をすると、興味津々で聞いてくれた。眼鏡のかたちはどんなか、ナッツはピスタチオか、美女はずっとゴリラの向こうにいたのか、等々。それから、ちょっと疲れたようにこう言ったよ。
「ゴリラかぁ。粗暴じゃあ困るなあ、もう、僕の顔を持っていった悪魔には会えないだろうか。」
「会いたいんですか?」
「僕もわからない。ゴリラ氏には会ってみたい気もする、もしも、怖くないなら。」
「怖くはありましたよ、大きいし。賢そうだったし。」
「ほめているように聞こえるよ。」
「確かに、少し格好いいと思いました。」
「そんな。」
タイポさんは、そう言って片手で顔を押さえて笑った。
「ソフィさんも手紙を貰って随分驚いただろうね。ゴリラは、」
それから、タイポさんは、ゴリラはそれで、と言ったまま、突然、止まってしまった。それから数秒、上の空になった。目が泳いで、ゴリラはそれで、まだ、と言って言葉を切った。よその誰かが言った関係のない言葉に、ああ、そうだね、と返した。僕の声がその関係のない誰かの声に似ていたかもしもしれない。あるいは、その視線の先に誰かいるのかもと思って振り返ったけれど、誰もいない。僕が周囲を見回したのに気付いたのか、気づかないのか、タイポさんは、ああ、ごめんと言って、暫く黙った。少し目が潤み、何かを言いかけ、黙り、煙が目に染みるって、本当だね、とわらった。誰かつけたラジオから、そういう歌詞の歌が流れていた。
「この曲のせいですか。」
「あ、いや。うん。いやだな、格好悪い。」
「はあ。」
「この1曲前の歌も懐かしくてね。突然来たよ。どうでもいい、ささいな、小さな事が、誰かを思い出させたりしてね。僕は今の自分も、子供や屋敷に残ってくれた人たちにも満足しているのにね。美化された過去がふと蘇ると、足元をすくわれる。」
そう言って、タイポさんは参った、といったように頭を軽く振る。
「すくわれるって、あの、悪魔にですか」
「いや…うん。もっと昔の、結婚していた頃とも違う、ずっと、若い頃の。あの頃とはすべてが、随分変わったからね。それが懐かしくて。いいんだ、それよりゴリラの話は、ルイス氏にはしたのかい?」
そういう頃には、タイポさんはいつもの感じに戻っていたよ。しかし、タイポさんは、中年なのに時々、老人のようだ。僕は、結婚していた頃のことでもない、というのが気になったよ。それに、アルマンさんも、彼が恋した僕の前任の人を思い出すからと、倶楽部を辞めた。歌や場所や、具体的な事物に、感情が固着するのだろうね。そういう現象を何と言うのだろう。
そんな話を、ルイス氏と黒騎士氏にしてみたよ。そうしたら、ルイス氏は、タイポさんが懐かしいと言った曲のレコードをかけてくれたよ。
A cigarette that bears a lipstick's traces,
An airline ticket to romantic places;
And still my heart has wings...
These foolish things remind me of you.
生憎、僕にはyouがまだいない。君や、母さんや、友人や、時にはカワセミもyouといえばyouだけどね。ああ、でも、僕も、小さなポケットナイフを見ると、学校で好きだったマーガレット先生を思い出すな。厳しいおばさんの先生だったけど、何故か授業は面白かった。難しい綴りは手に覚えさせろ、そのためにたくさん繰り返して書け、と言われてね。だからポケットナイフでたくさん鉛筆を削った。それに、同じナイフでパチンコを作ったりリンゴに顔を彫ったりしたっけ。その頃の、関係のない思い出まで付いてくる。当時好きだったお菓子とかね。面白いね。君もマーガレット先生に習った事があったかな、コットンテイル?
それで、僕はしばらく、音楽や事物と感情の関係について考えていたんだ。そして、ある大切な事に気がついたよ。僕らは癖として、感情をなぜかいつも劣位に置きたがる。たとえば、誰かを感情的だと言った場合、それは大抵、悪口になる。しかし、僕らが生きていくうえで、唯一価値を生み出すものも感情なんじゃないかな。
ああ、そういえばタイポさんの若い頃の写真をみたよ、確かに可愛らしかった。子供の頃から、可愛らしくて、美術館で見せられたアドニスに似た感じだけど、そのまま大人になり、おじさんになった感じだね。それがちょっと恥ずかしかったと言っていたけれど、もうおじさんだし、おじさんはみんなおじさんだから大丈夫だと言ったら笑って黙ってしまった。安心してくれたのかな。そして、まだ大笑いするときは顔を隠すね。普段の左右差もあり、術後はいいようだけど、完全にはよくならない。なので、彼がおじさんであることはある種の救いなのかもしれない。僕は、タイポさんのあの若干頼りない顔を盗んだ悪魔が、病気でも悪魔でも、ゴリラでも、大差ないように思える。自分の一部を持っていってしまうんだから。だけど、そう言ったら、黒騎士さんにベアトリーチェとシャイロックを一緒にするなと言われてしまったよ。シャイロックを僕は知らなかったものだから、後で調べたのだけど。シャイロックは何も手に入れてないから、確かに一緒じゃないね。でも、黒騎士さんがそれをもって何を言わんとしていたかはわからない。
それと、これとがどうつながるのかはわからないけれど、僕は、やはり「強欲」と名のついたゴリラに少し、憧れている気がする。僕は、ベアトリーチェとシャイロックと悪魔の違いを知りたいし、いつか、小さな事で誰かを思い出して悲しくなるなり、嬉しくなるなりしてみたい。色々と知りたいし、レノアさんも見てみたい。それに、ああいう毛皮は、格好いいと思う。そして、グランド・ツアーに行くという君に少し嫉妬しているし、嫉妬するという感覚も新しくていい。奇妙だね、面白い。また、書くよ。
ーーゴリラになってみたい君の兄、オーウェン・パーセルより
007. ルイス氏の創作
親愛なる妹、ソフィ・コットンテイルへ
やあ、そんなに僕の「嫉妬」を気にしないでおくれよ、文字にするとちょっと強いね。違うんだ、羨ましいとは思うし、君の肩に乗って同じものを見て回る仔猿になりたいなとは思うけど、だからって君に成り代わりたいわけじゃない。お嬢さんの体調を常に気にしているのも大変だろう。それに、ちょっと、気になるね。ハンサムな若い坊さんに一目惚れとは。そういうのは、ろくな結末にならないという君の意見に僕も同一する。他に、ハンサムな若い適当な貴族の青年とか、お金持ちのアメリカ人とかはいないのかい?アメリカ人は気さくだというし、叶わぬ恋よりよほどいい。お嬢さんを「嘆く独身者倶楽部」会員にしてはいけない。
こちらは、ゴリラの幻影はやはり僕個人の妄想、つまり薬物で誘発された幻想だという結論に達しつつあるよ。そして、エジプトから帰還したルイス氏は少し、行き詰まっている。彼の言葉をそのまま借りると、「壮大すぎるインスピレーション源とかねてから醸成されつつあった物語の間で、選択と無理やりの創造というつまらない作業が嫌になった」そうなのだけれど、僕にはよくわからないよ。「語りきれる事は一部でしかなく、語られなかった事は消えるが、語ってしまえばそれはすべて別のものになる」そうだ。要は、もう少し思い出に浸っていたいのかな。それでも、話については始終話していて、思い出やアイディアが一番いい形で物語に落ち着く方法を試しているみたいだ。そして、次は、トルコへ行きたいという。
「あの国は猫を大事にする。そういう国の人々の話を聞き、視点を得て、それから猫を回収しないという結論にスフィンクスを至らせる道筋を示したい。」
いつものキャビネット前で、ルイス氏は腕組みをし、中空を見上げながらいう。僕はキャビネットの向こうでジミーが必要もないのに使っていない灰皿を拭き始めたのを見て、少し声を張り上げた。
「猫を回収しない!それじゃ、猫回収省のミシェルや秘密工作員のレオナルドの頑張りは無駄じゃないですか」
ルイス氏の方は、先ほどから立ち上がってソファと卓の周りを歩き回っている。思考を整理したいときによくそうやっているようだが、だいたい黒騎士さんに捕まって会話に終わる。だが、会話が終わるとスッキリした表情で瞑想を始め、それから口述を始めるので、最近はそういうルーティンなのかもしれない。ルイス氏は、キャビネットの向こうにいるジミーが見えているのかいないのか、少し離れた場所に座ってタイプライターの前にいる僕に聞こえるように声を張る。
「いや、彼等がやってきたこと全てが、地球猫の優位性を証明する。オーウェン、地球猫がしてきたことはなんだ?」
地球猫については、このSFには様々な日常的エピソードが含まれるんだ。仔猫がいかにして飼い猫の地位を手に入れるかから、どのようにして人間に自分の椅子を奪うかまで。口述をタイプしながら、これはSFだったのか、あるいはただの猫についての小説だったか分からなくなる瞬間が何度かあったのだけれど、そのたびにひっくり返されるんだ。面白いよ。
「地球猫がしたことは、昼寝と、対話の拒否と、餌を食べて飼い主の遺体を食べて、花瓶を落すことです。」
「飼い主を食う、ああ、サイコ猫のバターか。あれは、可哀想だったな。」
「聞き取って打ちながら、びっくりしましたよ。
突然の銃声、眼下5メートルの穴にゆっくりと落ちるハリー。愛する飼い主を慌てて後を追うバターの優雅な着地、陥没穴の底の平和な花畑。頭上に広がる青い空、横切る小鳥。激烈な痛み、血の匂い。ハリーの様子に心配そうに高くなくバター。助けを求め、どんなに鳴いても他の人間は来ず、穴の縁の緑は濃い。登ろうと爪をたてる穴の土の匂い、弱々しくバター名を呼ぶハリー、優しく擦り付ける額、そしてハリーの微笑んだ目から光が消える。その血まみれのシャツの、わずかに残った乾いた布の上に、いつものように香箱を組むバター、そしてだんだんに背中が冷たくなっていく。思い出してもつらいですね。」
僕が回想しながら語る間に、キャビネットの向こうでは、灰皿を何度も回して拭いていたジミーの動きが止まる。鼻を啜る音が聞こえる。
「なんだ、ジミー、泣いているのか」
どうやらとうにジミーに気づいていたルイス氏がジミーに声をかけると、ジミーは凍りついたよ。きっと、名前を認識されていたことに感動したのか、あるいは、ショックをうけたのだろうね。もし、ジミーがホコリ以上でいたくないのだとしたら。それはそれで可哀想なので、僕は助け舟をだす。
「あれは、可哀想でしたからね。」
「でも、バターはハリーを食うぞ。」
そのルイス氏の反論を聞く前に、ジミーは灰皿を
置き直して、おそらくは鼻をかみにどこかへ消える。
「ハリーは亡くなっていますからね。バターが飢え死ぬよりも、ちょっとかじって生き延びてくれたほうが、ハリーも喜びます。」
僕がそういうと、ルイス氏は少し驚いたように僕を見つめ、満足そうに、にやりとした。彼の笑い方は、そうなんだ、にやりとしている。
「それだ。人間は猫の下僕なんだ。人間は喜んでそうしている。そして、猫は猫なりに、下僕を愛している。だから、サイコ猫バターは、ハリー以降には人間を食うんだ。スフィンクス猫にそれをわからせなきゃいかん。」
「スフィンクス猫の下僕は愛がなさそうですもんね。」
「そうか?ロボットに愛はないのか?」
「ない方が今までのスフィンクス猫の地球猫への理解に納得がいきます。」
「ふむ。確かにそうだな。だが、そういう前提では考えていなかった。」
ルイス氏はついに立ち止まって腕組をはじめる。眼鏡を軽くおしあげ、僕にか自分にか、独白と言ってもいい調子で語る。
「そうだ、スフィンクス宇宙人は高度な文明の中にいる。しかし、地球猫は素朴な人間とともにある、つまり、地球猫はナチュラリストなんだろう。哲学か、あるいは宗教的対立の末に地球に降りた。いや、あるいは、棄民政策の犠牲者か?おやいや、スフィンクス猫はそういったことはしない。やはり、ロボットよりも原始的な生き物を飼いたいと地球に降りたんだな。」
僕は、その言葉が終わるのを待って、いつでもタイプできるように身構えた。おもむろにルイス氏はかたりはじめる。
「巨大な黄金のスフィンクスは、目の前の小さな裸猿たちを睨めつけて、喉の奥を震わせる。こいつらを跳ね除けて猫アークを発射しようと思えばできないことはない。既にパワーはオンだ。だがーー猫スフィンクスには疑念がよぎる。あの幼児化した地球猫を我が惑星へ連れ帰る事が、本当の意味での救済になるのだろうか。
『どうなさいました?』
白銀のオベリスクが青い光を振りまきながら尋ねる。
『うむ…我が友よ、この赤子たちをーー連れ帰る事に倫理的な逡巡を感じるのだ。』
だが、その深き対話を、裸の猿たちが素早く取り囲む。彼らは一様に、金属の球という火薬を動力とした射的体を発射する装置を前肢に抱えてこちらに向けている。黄金スフィンクスは、深い緑の中の闇の瞳孔をロボットに向けて語りかける。
『友よ、あの時、地球猫の発したにゃあという音が、自分には出せない。あの、すべての警戒を解き、怒りを無効化し、諦念と従順を呼び覚ます響き。そう、それは地球植民地化におけるもっとも有効な武器のひとつであった筈だろう。事態を平和的に解決するために、君にその再現を頼めないだろうか。』
それで、白銀のロボットは、体に『微笑』との文字を表示させ、そこに立体の仔猫の映像を写し出し、愛くるしい鳴き声で鳴かせる。だが、それはかえって裸猿を興奮させてしまったようだ。
『あんた達に猫は渡さない!彼らは、俺達の神なんだ!』
裸猿が叫ぶ。巨大な猫アークは、だが、発射に向けてその流線型の機体をわずかに震わせている。機体下部には鮮やかな緑の光が見える。裸猿達は絶望的な雄叫びあげてそちらへ走り出す。さあ、ここで場面切り替えかな。」
「もう少し引っ張りませんか。」
「戦うか、戦わないか。それが問題だ。」
「もう一度だ、我が友よ、もう一度ーー」
僕が知っている唯一のシェイクスピアをぶつけてみると、ルイス氏は笑いだし、それから、少しばかり反重力装置に人間が捕らえられる様子を描き出し、オベリスクに砂が入り込んで不調をきたし、スフィンクス型宇宙人が生涯で初めての動揺を経験するまでを語りきった。
「では、やはり猫は回収ですか?」
「これから、猫回収省の不正を暴いて、ハヤブサの頭の宇宙人を憤慨させ、最終会議を行う。だが、そこを人間が襲撃する。猫の人間への愛着を描かねばならんが、猫がそこまで執着するかどうか。」
「会議にゴリラ頭も混ぜられませんか。」
「猿は人間だけでいい。」
それから、ジミーを呼んでコーヒーを頼み、それからソファに腰掛けて目をつぶる。時々、人さし指で小さく中空を示す。きっと彼の脳内では戦闘が行われ、偉大なるスフィンクスが親友の白銀オベリスクと共に、今後の方針について対話を交わしている。
そう思いながら、僕は君への手紙を書いていたんだけど。突然、ルイス氏がまた口述を始めてね。
「ルイーズは真っ暗な砂漠をもう3時間もぶっ飛ばしていた。危険、立ち入り禁止の看板を数え切れないほど無視した。古い中古のシボレーは出だしこそガタツキはするが、あとはずっと安定して進んでくれる。遠くに、光の層が見える。
『あった。もうすぐだよ、エール。』
ルイーズは、車のなかで唯一新品に見えるペットキャリアーに優しいダミ声をかけてアクセルを踏み込む。もうすぐだ。
検問を青いボロシボレーが突破し、数度の威嚇射撃を無視して軍用基地の中を爆走する頃、スフィンクス宇宙人アイレンは深い思索のなかにいた。この情動の原因は、ロボットの不調によるものだ。ロボットは代替可能な筈だ。なのに何故この情動は生じた。
そこへ、何かが衝突し金属がひしゃげる音がする。青い、裸猿の乗り物が転がってくる。アイレンは目を開ける。年をとった裸猿の雌が、ひしゃげた青い乗り物から出てくる。
『あんたが』
年取った裸猿は箱型のものを乗り物から引き摺り出す。そして、箱を床に置き、丁寧に、中身を取り出す。一匹の老猫だ。灰色の毛に艶はなく、動きは緩慢で生気はない。
『あんたが、猫を天国に連れて行ってくれる猫神さまかい?あたしのエールを、頼みたいんだ。仔猫から育てた。猫回収省から隠したのは、あいつらを信用してなかったからでーーお願いだ、エールの腎臓もう長くないんだ。猫神様のところなら、猫の病気も簡単に治るんだろう?』
老女は泣きながら何度も老猫にキスをする。アイレンは哀れに感じて、病猫用のポッドを代用オベリスクに排出させる。病猫用ポッドは中が半液体で、地球猫でも不快感なくくつろげるように体温と同じ温度に調整されている。エールは、そこに足を踏み入れると、満足げに鳴いても身を丸める。だが、透明な蓋が閉まり、ルイーズが一歩退いてその顔が見えなくなると、途端にパニックに陥りめちゃくちゃに蓋を引っ掻き始める。
『おや、どうしたのでしょうね。』
いいながら、代用オベリスクはポッドに鎮静成分を噴出させ、エールは眠ってしまった。駆け寄って慰めていたルイーズは大粒の涙をポッドの上に落とす。
『いいんだよ、お眠り。長生きさせてもらうんだよ。』
だが、アイレンの思考は晴れない。エールは行きたくないのだ。
『羽蟲ロボに腎臓だけ手当させなさい。ルイーズと、その乗り物も改善しなさい。私は、少し、考える。』
いうと、アイレンはまた、深淵の対話を始める。内面化した親友オベリスクと。
どうだ、これで、猫を回収しない糸口にはなるんじゃないか?」
ルイス氏は、珍しく嬉しそうにいうと、またもやジミーの名前を呼んで、コーヒーを頼んだ。ジミーは、若干青ざめて、震える手でソーサーをささえながらテーブルに置く。
「はい、どうもね。」
ごきげんなルイス氏はジミーを見上げもせずにいうが、ジミーはパニックに陥ったのだろうね、スプーンを落として慌てて取り替えに行ったよ。
勿論、このままの文章がそのまま本になるわけじゃない。ルイス氏は、何度も書き直して、足して引いて、と、絵を描くみたいに話すを作るみたいだから。そりゃあ、肩にもくるよね。「全体にいいわけじゃない。時々、とても良くて、他は良くなかったりする」とご本人は話しているけれど。ジミーはどう思うのかな。君はどう思う?教えておくれ。
ーー君の兄、オーウェン・パーセルより
008. 悪態について
親愛なる妹、ソフィアへ
やあ、コットンテイル。僕は今、少し反省しているんだ。いや、具体的に何か悪いことをしたわけじゃないんだが。いや、したかな。いつだったか、倶楽部に猫を夫変身した姿だと思っている、ミネルヴァさんというきれいな初老の夫人がいると書いたろう。あの人の秘書が、この間、倶楽部に鳥を2羽、連れてきたんだ。鮮やかな緑のやつと、頭飾りのある白いやつ。これが、口が悪いのなんの、ずっと罵りあっている。
「グァ、この、スカポンタン!」
「おだまり、このカルパッチョ!」
「キュルッ!ヘタクソ!」
聞くに耐えない。けれど、つい、笑ってしまう。つまり、僕は、彼らを楽しみすぎだという理由でミネルヴァさんに叱られたので、反省しているんだ。でも、倶楽部の温室に置かれた鳥籠から、その罵倒はひっきりなしに聞こえてくる。こんなのを飼っている秘書の人は、きっとさぞかし口が悪いのだろうと思ったのだけれど、そうでもないんだ。
「やあ、キング・ヨハン・クラウザー、お久しぶりです。」
ミネルヴァさんの連れの猫に、穏やかに声をかける細身の男性がいて、それがあの2羽の飼い主だ。
「どうもすみません、明日は家に姉が子供たちを連れてくるので…悪影響だと言われまして。少し置かせていただいています。」
「ああ、それは…面白いんですけどね。」
「彼らにとっては悪態は悪態ではなく、歌なので…とはいえ、皆さん、面白がって追加で色々と教えてしまうので、バリエーションは豊富です。ーーええ、そうですね、レノアさん。確かに、『このタケノコの皮が』と言われたときには、それがどうして悪口になるのか頭をひねりましたよ。」
この穏やかで満ち足りた雰囲気の男性は、意外なことにレノアさんが見えるらしい。そして、僕も当然、レノアさんが認知できると思っているようで、そのように振る舞う。
彼はしばし僕の隣のソファへ顔を向け眉を上げ、頷く。
「はあ、そんな言い回しもあるのですか、大変興味深いですね。」
「すみません、どんな言い回しでしょう?」
僕は、あまりレノアさんが見えないし聞こえないということを明かしたくないのだけれど、この時ばかりは気になって聞いてしまったよ。しかし、フランシスさん、とこの秘書の人は言うのだけれど、フランシスさんは驚いた表情で中空を見つめ、半ば口を開けて頷き、それから、少し考えてから、微笑む。
「申し訳ありません、レノアさんの時代に女性の間で流行った悪態だそうで。ただ、その、御婦人のデリケートな事に関わる悪態なので、私の口からは申し上げにくいのです。」
それで、僕は赤面してしまって。そうすると、少し気まずそうなフランシスさんも困ったような顔になる。それから、これは気のせいかもしれないし、遠くの誰かの声だったかもしれないし、インコたちの声だったかもしれないんだけど。いや、聞こえたわけでもないんだ。ただ、僕にはわかったと言ったらいいのかな。レノアさんが、大笑いしていた、ように感じたんだ。奇妙だろう。でも、僕が本当にそう感じなかったら、わざわざ妹に、どうやらデリケートだったらしいと知って赤面したことなんて書かないよ。それに、フランシスさんも、途中で申し訳なさそうに眉を寄せながらも笑いはじめた。それで、僕も仕方ないので笑ったよ。そこにいるかいないかもわからない存在と一緒に笑うって、なんだかいいものだなと思う。
そこへ、ふらりと黒騎士とロバートさんが現れる。シェイクスピアと悪態についての議論をしていて、議題は、「シェイクスピアが使った悪態は彼の発明か、それとも当時の巷の流行か」だったようだけど、どうやって証明するのだろうね。黒騎士さんは次々に違う人間に憑依する「死神」と恋仲の元スパイ、ロバートさんは似たようなもので、毎回ヒロイン役の劇中の人格に恋する厄介な人だ。二人とも、僕よりも年長ではあるけれどもシェイクスピアの時代の人ではない。そこで、彼らは「証言者のいる時代の悪態」に目を付けたようだ。だが、レノアさんは、聞くところによると若い女性らしいので、二人は最大限の配慮を払って尋ねる。しかし、レノアさんは何か彼らが予想外の事を言ったらしく、二人は「それは…すごい!」と言ったあとは絶句してしまった。僕は、どうしてもそれが聞きたかったけれどそういうわけにもいかないので、いっそ2羽のインコをこっそり連れてこようかとすら思ったよ。どうやら、ヨハンもレノアさんが見えるようだし、動物に見えて聞けるのなら、インコにも聞けるのではないかと思って。それで、僕は席を立ったわけなのだけれど。思い返せば、インコに2人が絶句するような悪態を覚えさせては、ますますフランシスさんが困ってしまうね。でも、それで良かったんだ。
温室に入ると、さらに大きな叫びが聞こえる。
「赦すまじ!赦すまじ!」
「このニンニクめ!」
「ルプス・イン・ファーブラ!ヘタクソ!」
「遅い!おいしいねえ!遅い!」
そんな風に叫びながらも、ちょくちょく、種の違うインコ同士でも仲がいいのか、羽繕いしあっている。鮮やかな緑の方はちょくちょく食べ物関連が入る。白い方はヘタクソが多いので、きっと何か芸を見せる人々の元にいたのかもしれない。近付いて見ると思いの外、鳥籠は大きい。持ち上げられないことはないが、こっそりと持ち込むには目立つ。それに、うるさい。少し離れて立っても、耳がカルパッチョになりそうなくらいだ。さすが、おそらくは、ジャングルで鳴き交わしているだけある。僕が近づいたせいか、2羽は興奮した様子で毛を逆立てる。緑のインコの目は分かりやすく瞳孔が縮み、まるで僕が嫌いみたいだ。
「カルパッチョ!カルパッチョ!」
「フィッシュ・アンド・チップス!」
僕はカルパッチョに対抗して、僕が好きなものを教える。
「グア!プシュ!」
「違うよ、チップス!」
「プス!プッツォーネ!」
それで僕は苦笑しながら目をあげる。そして、温室の外に、腕を組んだ人影がいる。金の髪が風に揺れ、顔は逆光でよく見えないが、ドリアンさんだ。それで、僕は温室から外に出る。彼は久しぶりだ。ここしばらく倶楽部に現れなかったので、てっきりルイス氏や黒騎士さんとエジプト旅行に行っているのかと思っていたのだが、帰国したルイス氏は違うという。
「ジジイ2人なら、服装を地味にすれば割と安全だ。だが、美男子はいけない。ドリアンといけば金を払わなくても良い酒を出してもらえる事は認めるが、危険にもなる。」
ルイス氏の軽口に、黒騎士氏は「おれはジジイかつ美男子なんだがね」と呟いていた。確かに、二人とも素敵な老紳士だ。そんなことを思い出しながら表に駆け出して、僕は声をかける。
「ドリアンさん!」
僕の声が思いの外大きく響きドリアンさんは驚いた顔でこちらを向く。
「やあ。君の声は彼等に負けず劣らずだね!」
「そうですか?」
僕が言うと、ドリアンさんはおかしそうに笑ったよ。
「自覚がないんだねえ。」
自覚はないよ、ねえ、コットンテイル、僕の声は大きいかい?僕が何か言うよりは先に、ドリアンさんが尋ねる。
「ねえ、愉快な彼らは、一体何?」
「フランシスさんの所の口の悪いインコ達です。」
「いいねえ、楽しくて。仲が良さそうだ。」
ドリアンさんは心持ち疲れた様子だったが、インコ達を笑顔で見つめていた。インコ達は、僕が離れてしばらくすると落ち着いたのか、今は「ガーリック」と小さく、とはいえ外までは聞こえる音量で言うだけだ。そして、白いインコが緑のインコを毛繕いしている。
「仲がいいんだね。」
少し羨ましそうドリアンさんは言う。
「僕ね。あんな感じの、異母兄弟がいたんだ。別に口は悪くなかったけど、悪態合戦はしたよね。一緒に悪ふざけしたり、喧嘩したり、おやつを盗んだり。」
ドリアンさんは、こちらをみるわけでもなく、ずっとガラス越しのインコか、もっと遠いものを見ている。そして、半ばは自分自身に語るように言う。
「彼も割と長生きしたんだけど、やっぱり、僕ほどじゃなかったなあ。ちゃんとおじいさんなったし。君くらい背があったのに、いつの間にか僕くらいに縮んだ。でも、ずっと、悪ふざけに付き合ってくれた。教会で賛美歌を歌う時、さりげなく下品に捻った歌詞を歌ったりね。」
「なんだか楽しそうですね。僕には妹しかいないので。」
「妹!妹も君みたいにでかいのかい?」
それで、ソフィ、君は普通サイズだと思うと言おうとしたんだけど、話題が変わってしまったよ。
「おや、お二人、お揃いで。」
ドリアンさんが言うので振り返ると、そこには先ほどレノアさんの悪態に絶句していた二人とルイス氏がいる。
「ドリアン!もう大丈夫なのか?」
「大丈夫も何も…なんでエジプト行き、誘ってくれないの。」
「あの事故の後じゃ行きたくないだろうかと思ったんだ。」
「事故?あいつら、事故って言ってたのかい?まったく。あれは、諜報活動の失敗だよ、ちなみに僕のせいじゃない。」
それで4人は何やら物騒で楽しそうな事を話し始める雰囲気だったのだけれど、突然、ルイス氏が「うわっ」と声を上げる。
「どうした?」
「なんかの糞だ!クソっ…」
そういうと、ルイス氏は片足で跳ねて手近な草むらへ行き、そこで靴底を擦り付ける。ロバート氏はハンカチを貸そうとして断られて、ルイス氏はさらに悪態を重ねつつこの惨劇を大袈裟に描写する。そして笑いを抑えることもしない黒騎士氏を、優しいロバート氏と対照して大袈裟に批難する。その様子が却って事態を喜劇化し、気まずさを抑える。僕ら全員が笑い、ルイス氏まで苦笑する。
「クソっ…」
「本物の、だね。」
ドリアンさんは楽しそうに言い、僕に手で合図しながら温室に向かう。
「ルイス、何か持ってきてあげるよ。」
ところが、温室から喫茶室に入っても、ドリアンさんはちり紙を探したり誰かを呼んだりする気配はない。まっすぐにフランシスさんの方へ向かう。
「ねえ、フランシス。あの鳥達、どこからもらってきたんだい?」
「ごきげんよう、ドリアン様。そうですね、白い方は近所の猫おばさんからいただきました。猫が咥えて持って来たとかで。」
「へえ、よく無事だったね!」
「本当にそうですよ。失神していたので暴れなかったせいかもしれません。緑の方は直接にお会いしたことはないのですが、どちらかのトラットリアの方が飼っていらしたとか。ミネルヴァ様から預かりました。」
「ええ?あの喋りぶりからすると、厨房で、とかかい?」
「さあ、私も詳しくはうかがっていないもので…」
「ねえ、あの鳥達、好き?」
「ええ。それなりに、大切ですよ。うるさくはありますが。」
「そうか。ちょっとうんざりしてたりしたら、僕に、くれない?」
突然のドリアン氏の申し入れに、フランシスさんは驚いたようにしばし言葉を止める。座ったまま、笑顔でソファにもたれているドリアンさんの顔を見上げ、真意を探るが、あまり答えは見つからなかったようだ。素直に尋ねる。
「彼らは独特で、それなりに世話も要りますが、本当に?」
「うん。大丈夫、僕のところ、金も人も余ってるから。それに、盗聴器があるらしいんで、それ向けにもいいんだ。」
「はあ。」
「きっと、聞いてる連中は僕の所にガラの悪い二人組が住み始めたと思うだろうし、彼ら、楽しいだろう?心底の罵倒じゃない、それがいい。だけど、うるさい。いなくなるとさみしいかな?」
一向にドリアンさんが靴を拭けるものを探す気配がないので、ドリアンさんの強引な様子が気になりながらも、僕は裏に回って雑巾や洗剤を調達する。途中、ジミー君に出会う。
「何してるんだ?」
「外でルイスさんが何かのフンを踏んでしまってさ。君、行きたくないだろ。」
「難しい事を聞くなよ。行きたいけどいきたくないけどいきたい気もする。」
「いいよ、僕が一式持っていくから。君、あとから替えのスリッパ持っていきなよ。」
「恩に着るよ。ああ、ウエスならその下に場所が変わったよ。ところで」
「なんだい?」
「サー・ルイス・アルジャーノン・リーは、フンを踏んだ時は、なんと悪態をついたんだい?」
「クソが、だよ」
「だって、クソじゃないの」
ジミー嬉しそうに笑って、スリッパよりも先に済ませなければならない仕事へ戻っていったよ。
ジミーとの会話を終えて戻ると、どうやら、ドリアン氏はインコ2羽を「借りる」話をフランシス氏とつけたらしく、嬉しそうに握手を交わしていた。
「マスカルツォーネ!マスカルポーネ!」
温室から叫びが聞こえ、ドリアンさんはそれに声を張って尋ねる。
「どっちだーい?」
先ほど、声が大きいと言われた僕は、室内なので遠慮して声を抑えて聞く。
「何が違うんですか。」
「何がって?」
僕が二つの語を繰り返せなかったので、フランシスさんが助け舟を出す。
「マスカルツォーネとマスカルポーネの差です。私も気になっていました。」
「悪口と、おいしいチーズの違いだよ。」
笑いながらドリアンさんは答える。その笑顔は気のせいかもしれないけれど、温室の外で見たときよりも、ちゃんと気持ちが入っていた気がするよ。そして、レノアさん彼を誘ったのだろう、軽く僕とフランシスさんに目で挨拶すると、誰かを伴うように彼は温室の方へ向かったよ。
「それはちょっとインコに教えるのははしたないのでは?」
ドリアンさんは、温室に向かいながらそう言う。僕は、まだ手に布や洗剤を持ったまま、フランシスさんに聞いてみたよ。
「かすんですか?」
「ええ。正直、少しさみしいような、ホッとしたような、不思議な感じですね。」
「元気ですもんねえ。」
「ええ。とても。私はいいんですが、最近来たフクロウがとても気にするようだったので。」
「フクロウ?」
「猫おばさんの猫が。大丈夫、傷は浅かったので、すぐに野生に返せると思います。」
フランシスさんは少し困ったように笑ったよ。
罵倒について長々と書いてしまったね。君も割と舌鋒は鋭いけど、さすがにカルパッチョとは言わないだろうね。君やお嬢さんは、最近はどういう罵倒をするんだろう。教えてくれたら、誰かに頼んでレノアさんにも教えてみたいな。
ーー君の兄、オーウェン・パーセル
009. 青いガーディニア
親愛なる妹、ソフィ・コットンテイルへ
やあ、なるほど、お嬢さんと君は、乙女が知っているべきじゃない恐るべき悪態を使っているのだね。君が指定した書物の指定されたページを倶楽部の図書室で調べて見てみたよ。なんてことだ!後ろに誰かいないか、振り返って確かめてしまったよ。倶楽部にもあるのだから、それなりにきちんとした本だとは思うけれど、驚いたね。あまりお嬢さんには君の驚くべき知識を伝えすぎない方がいいかもしれない、だって、親御さんが心配してしまう!僕が心配するのはその1点だけだよ、悪態と天職を秤にかけるのはこわいよ。でも、賢い君のことだ、判断は僕よりうまいかもしれない。
僕は、告白すると、判断を間違えてね。どこから書こうか。そうだね、やはり悪態からいこうかと思う。
「くそ、駄目だ。よし、ドリアンの家に行こう。」
と、宇宙猫とは別の原稿に行き詰まったルイス氏が言ったんだ。ルイス氏は宇宙猫は書き下ろしで長編として出す予定なんだけど、ジミー君によるとたまに短編を馴染みの雑誌に出すことがある。ところが、今はルイス氏の脳内はスフィンクス猫アイリンと病気猫エールで一杯だ。
「俺は行かないぞ、あのインコがいる。」
「だから行くんじゃないか。」
黒騎士さんに断られて、ルイス氏は僕を選んだというわけなんだ。
「ニコラスさんと行くんじゃダメなんですか。」
「彼には店がある。平日は離れられん。」
それで、僕はルイス氏の格好いい車に乗せてもらって、街の高級住宅地へ向かったよ。ドリアンさんの家は、高級住宅地のなかでも、公園に接したところにあり、その公園よりも鬱蒼とした緑の庭に囲まれた屋敷だ。大きな車寄せがある。車寄せで車を降りると、詰め所から目つきの鋭い従者が出てきて、ルイス氏から鍵を受け取ると何処かへ停めに行った。ルイス氏は呼び鈴を押すとスピーカーに向かってなにやら話し、中から体格のいい従僕が扉を開ける。彼はきっと従僕が本業ではない体格で、背は僕と同じくらいだが、幅は倍くらいある。おそらく、国家的秘密に関わるドリアンさんのボディガードも兼ねているんだろう。従僕がルイス氏に礼をし、僕をじろりと上から下まで見回す。通されたホールは広く、ルイス氏は従僕をそこに残るように言って、勝手知ったる様子で奥に進む。
「彼は案内も仕事の内じゃないんですか。」
「そうだ。だからホラ、慌てて上司かドリアンを探しに行ったろう。ほら、いくぞ。」
ルイス氏は周囲を見回す僕を振り返らず、広い応接室に入る。その家は、僕の印象では、倶楽部と変わらないほど広い。そして、物があまり多くない。窓から入る光に、ほこりが照らされている。静かだ。
「カルパッチョ!」
談話室に隣接したサンルームから、例のインコの鳴き声が聞こえる。
「おお!あいつだ、あの派手な箒め、いや…」
ルイス氏はインコ達の為にとっておきの悪態を考えてきているらしく、胸ポケットから手帳を取り出して少し離して持ち、内容を確認してから嬉しそうにサンルーム向かう。僕は、どうやらプライベートな会合なのだろうと察して、ルイス氏とインコ達を彼らだけにすることにした。そして、この広い家の中を探検することにした。先ほどの従僕を見つけて、彼の仕事内容についても聞いてみたかった。
あまりものの多くない室内は、それでも豪華で品はいい。ベージュの壁紙に暗い色のニスの木の梁や窓枠、真ん中に椅子とテーブル。次の部屋は、大きな柄のある壁紙、僕はこの柄名前を知らないけれど、柄ではない所は緑っぽい。金の髪をリボンで束ねたような柄の壁紙の部屋もあったよ。そんな怪談がなかったかな?あるいは、あれは、カーテンの話だったかな。いつか、真冬に暖炉の前で読んだね。
この部屋は、少しだけ、他の部屋より物が多かった。いや、かなり、多かった。マントルピースの上にも壁にも様々な絵や飾りがあり、大きな柱時計があり、蓄音機があり、ラジオも地球儀もフラスコも鉄道模型も気球の模型もカジキのミイラも海老と蟹と大きな甲虫や蝶の標本もあった。かと思うと、あちらの壁にはガーゴイルと、グリーンマンと、ガーゴイルような顔だがもう少し可愛げのある獅子の像もあった。まるで博物館のような部屋だった。そして、なんというかな。だらしなかった。テーブルの上にクッキーが出しっぱなしになっていて、こともあろうか、食べかけのクッキーが直に、つややかな低卓の天板の上に乗っている。隣にはカトラリーとグラス、怪しげな瓶がいくつか並び、これはカラフルでラベルは外国語だ。文字の形にも見たことがないものがある。そして、長椅子の上には脱いだ形そのままのカーディガン、絨毯の上には緑の羽。きっと、ドリアンさんがここでインコと歓談したのだろう。ソファに近づくと、カーディガンの近くの足元に、何かの袋が見える。赤っぽい色が見える。僕は、なんだろうかと、毛足の長い絨毯に足を踏み入れて長椅子のところへ行き、白いカーディガンは避けて、腰を下ろして袋を取り上げる。赤っぽい色は、袋に描いてあるオウムの絵だった。インコにビスケットをあげていたのか!僕は、笑いながらその袋を空けてみる。ビスケットが、テーブルの上のクッキーとは違うものだと確認して、少し安心する。
「さすがに、心配しすぎだったかな。」
そう一人で呟いて、僕は微笑みなら、低い卓のうえにあったグラスを手に取った。そこには濃厚な茶色液体が半分ほど残っていて、きっとこれを飲みながら長椅子で寝て、翌朝起きて、カーディガンを脱ぎ捨てて着替えに行ったのだろう考えた。そして、テーブルの上の見事な細工の彫られたガラスのカラフェを見て、同じように繊細な切れ目の模様で飾られたグラスを、手のひらの中で傾けて見る。ずっしりと重く、水晶のように透明だ。そして、このガラスの内側でねっとりと残る、この、きっとスコッチだろう、どんな香りだろう、と鼻に近づける。華やかなフルーツの香りだ。僕は目を閉じていた。ああ、いい香りだな。置きっぱなしだったから、アルコール抜けているのかな。なんだか、うるさいな。そう思って、目を開ける。ジャズの、乱暴とすら言える演奏が聞こえる。目を開ける。青い壁紙の部屋は消え、赤い壁紙の、渋いジャズバーにいた。
スポットライトの下で、演奏がソロに道を譲る。黒人のトランペット奏者が、魂をかきむしるような切ないメロディを奏で、しばらくは遠くにいるようなメロディ、それが音量が上がりドラムが盛り上げ、ついに渾身の高音の叫びが黄金の楽器を通して空気を震わせる。その額の汗、頬と肩の動き、音に、僕はつい立ち上がって拍手を送る。
「ヒュー!」
僕の声に被せて、後ろからも声が響く。
「フゥー!!」
僕の後ろにも感動をつい声にしてしまった人がいる様子だ。野太い歓声と拍手が送られる。それから、また、演奏は皆で合わせたものにかわり、やがて、最後の盛り上がりとともに皆でタイミングを合わえて終わり、そこからは拍手の嵐だ。僕は、しばらくは夢中で手を叩き、奏者達が水を飲んだりお互いを褒め称えたり、一礼をして下がるまでを満喫する。やがて、興奮は落ち着き、そこで初めて違和感を覚え、周囲を見回した。観客は、いつの間にかほとんど姿を消していた。闇が残る。僕と、僕が座っていた椅子と、先ほど歓声を上げた客と、彼の椅子とテーブルだけが残る。そして、そのもう一人の客は、勿論、彼だ。僕の悪魔、ゴリラ氏だ。
「素晴らしかったな…!!」
「いらしてたんですか。」
「うん、俺、彼の演奏好きなんだ。残念ながらまだ生きてるし、四つ辻にも行かないらしいから、地獄にはこないだろうなあ。まあ、かけな。」
ゴリラ氏は、赤い一人掛けのソファにどっかと腰を下ろす。今日は、青いスーツにネクタイはなく、胸元にはスーツと同じ青い花を挿している。気付けば、僕は彼と低いテーブル挟んで同じようなソファに座っていた。ゴリラは、もの惜しげに、空になったステージの方をちらりと見やる。
「あんな演奏ができりゃ、そりゃ、辻に用はないよな…」
「辻ってなんですか」
「知らないのか?四つ辻で魂を売ると、超絶技巧で演奏ができるようになるんだ。同僚がやってる。」
「では、ゴリラさんも、その方に何かを売ったらどうでしょう?ああいう演奏ができるようになるかもしれませんよ。」
「…その発想はなかったな。」
ゴリラ氏は、しばらくはそれで言葉を切った。僕はテーブルの上を観察してみた。前回とは違ってナッツも灰皿もグラスもなかった。そして、ゴリラ氏の青いスーツは、赤い縦縞の艶っぽいソファとは調和しなかった。ゴリラ氏は相変わらず高級毛皮の艶と磨かれた爪で、スーツの胸の花からはいい香りが流れている。お洒落は崩れてはいなかったが、ネクタイもメガネも今日はしていないにもかかわらず豪放さがなく、どこか沈んだ印象だ。
「まあ、ゴリラさんにトランペットは少し小さいかもしれませんね。」
「いや、そうなんだ。俺は楽器ができんのだ。この体格だからな、どんな楽器も小さすぎる。それに、悪魔全般、楽器はやらん。天使時代を思い出すから。」
「超絶技巧を授ける事ができるのに?」
「それはあれだ、ダメだから、他人にやらせるんだ。ついでに、魂も手にはいるしな。」
「ああ、本当は自分でできるのに、言い出した意地でやらないけど、他人をうまくする努力なら大丈夫ってやつですね。なんだか、分かります。」
僕は、最近腕の調子が戻った様子のルイス氏を思い出しながら言う。しばらくタイプライターに触らず、作品の書き下しを僕に任せていたので、酷使されていた腕や手が癒えて、痛みが取れた様子だ。文字も読める程度にまで回復している。だが、彼は断固としてタイプライターの前には座らない。
「ルイスか?早く新作を書き上げさせろよ、読者は待ってるんだ。」
「伝えておきます。ゴリラさんも、ファンなんですね。」
「伝えちゃダメだ。なんだか、まずい気がする。」
僕は、ゴリラ氏のためらいがちなその言葉を、意外だなと思った。これでは、ゴリラ氏の『洗練された粗暴』の『粗暴』部分がない。大胆不敵さや、傲慢さが足りない。何かがおかしい。きっとゴリラ氏は悩んでいるんだ。だが、先ほどの「ヒュー!!」のタイミングは完璧だったし、声の野太さは充分に粗暴でもあり、あの場の音楽体験の一部だった。もしかしたら、その超絶技巧を売るという四つ辻の同僚に片思いをしているのかもしれないし、人間が悪魔以上に強欲なせいかもしれない。そうだ、超絶技巧を買わなくてもあんな演奏ができる人間がいるように、悪魔にそそのかされる間でもない、もっとずっと強欲な人間が増えたのだろう。それは事実だ。だとすれば、彼は暇すぎて憂鬱なのだ。
「そのスーツ、お似合いですね。」
「おお、そうか?ありがとよ。」
「青がいい。born to be blueって感じです。」
「よせやい、俺はあんな甘い声の兄ちゃんじゃないぞ。」
ゴリラ氏は苦笑する。苦笑でも、笑顔にはできた。真っ白で幅の広い前歯に、埋め込まれたダイヤがきらりと光った。あれをするのは、ちょっと痛そうだ。それに、毎日ちゃんと歯磨きして歯の健康を維持していないと、ダイヤの輝きは似合わない。
「なんだ、何を見ている。」
「前歯です。僕も歯磨きを頑張ります。ああ、歯の妖精は、お知り合いですか。」
「なんでそう思うんだ?」
「歯とお金を換えてくれるんで、魂と成功と同じ商法かなと。」
「ははは。なるほど。」
それは僕は純粋に知りたかっただけなのだけど、どういうわけかゴリラ氏には面白かったらしくて、今回はもう少し明るく笑ってくれたよ。僕は、ふと、こういう時、あの元気なインコたちがいてくれたらなあ、と思ったよ。彼らは騒がしくて愉快だからね。
「そうだ、ゴリラさん、とっておきの悪態ってありますか。」
「悪態?」
ゴリラ氏が片眉を上げて聞き返した時だった。
「グァ!カルパッチョ!」
どこからともなく、僕が思い返していたインコの『悪態』が響いた。
「カルパッチョは料理だ…」
ゴリラ氏が苦笑して、呟く。次いで、また、聞こえる。
「キュィ!マスカルツォーネ!ヘタクソ!」
「グァ、このタケノコ!!」
ゴリラ氏は「タケノコ…?」と不思議そうに呟く。
「オーウェン!!大丈夫か?オーウェン!!」
ドリアンさんの声が聞こえて、頬に軽く叩く手のひらを感じる。ゴリラ氏は、どういうわけか呆れた顔をして言う。
「なんだ、もう帰っちまうのか。じゃあ頼みがある…」
「オーウェン、起きろ!!」
ドリアンさんが、僕の頬をパタパタと叩いている。薄く目を開けると、向こうに、大きな鳥籠を台に乗せてやってきた従僕、執事に伴われて部屋に入ってくるルイス氏が見える。
再びまぶたが落ち、ゴリラ氏が何かを僕に見せる。レコードだ。だが、題字が読めない。再び僕は、頬に刺激を感じる。
「オーウェン、起きてるんだろ?目を開けないと、人工呼吸するよ。」
ドリアン氏がいたずらっぽく言うので、僕は仕方なく目を開ける。身を起こして見ると、ルイス氏も心配そうに僕をのぞき込んでいた。
「君、テーブルのカクテル飲んだの?あれは耐性ないと危険だよ、死ななくてよかったよ。」
ドリアンさんが少し怒ったように、しかし、声は冗談っぽく、強いて明るくして言う。それが冗談ではないと知れるのは、彼の顔が青褪めていて、頬にまだ触れている指先が冷えて震えていたからだ。
「いや、嗅いだだけです。」
「それだけで?」
言いながら、ドリアンさんは僕の頬に手をやって親指で頬を撫で、それを這わせて額に手を当て、目を覗き込む。僕は、子供の頃、僕や君が風邪をひいたときの母さんを思いだしたよ。
「ドリアン、俺の弟子を触りすぎだぞ。」
「おや、失礼。でも、彼は僕になびくタイプじゃないから。」
「そんなのは俺にはわからんが、レノアが大喜びしているんでな。」
「レノア!!遊びに来てくれたの?」
ドリアンさんが嬉しそうに声をあげる。僕は、レノアさんが一緒に来ているとは知らなかったので、慌てて周囲を見回す。しかし、見回しても、僕にはどうせ彼女は見えないのだよね。でも、僕が見回すと、今までは静かだったラジオから、ジャズの演奏が流れてきた。それは、僕がゴリラ氏と聴いた演奏とは、違うような、似ているような。しかし、この曲もトランペットが中心だ。
「あれ、この曲は…」
(…ザザ…わらわも…ザザ…しらんのじゃ…ザザ…)
僕は凍りついた。ラジオの声は、若い女性の声だ。話し方は、ロバートさん乗り移ったときの、レノアさんだ。レノアさんの声が聞こえた!!
僕の様子にまた心配になったのか、ルイス氏とドリアンさんが僕の目の前で手を振ったり呼びかけたりする。
「今、レノアさんの声が聞こえましたよね?」
「そりゃあ、喋ったのだもの、聞こえるよ。」
「いや、そうじゃなくですね。」
僕が説明しようとすると、再びインコが食品名を叫ぶ。
「Bruschetta!」
「そんな曲があるのか?」
「イタリア歌謡かな?」
(…サー…ザザ…わらわは…Blue gardeniaの方が好きじゃ…)
「ブルーガーディニア?どんな曲です?」
(…ザッ…花の歌じゃ…ザッ…)
「歌えます?」
(…ザザ…新しい歌ゆえ…ザッ…うまく…えぬかもしれ…が…)
そして、僕はレノアさんが歌うのを聞いたんだ。
"I lived for an hour
What more can I tell
Love bloomed like a flower
Then the petals fell
Blue gardenia
Thrown to a passing breeze
But rest in my book
Of memories"
僕は、目覚め際にゴリラ氏が見せたレコードがどれだったのかは見損ねたけど、そして、見た演奏はトランペットだったけど。たぶん、この曲だったんじゃないかと思うんだ。Blue Gardenia / 作詞:Bob Russell・Lester Lee(1953)だよ、素敵な曲だね。彼のスーツは青かったし、胸元に刺していた青い花は、多分、ガーディニアなんだ。もしかしたら、ゴリラ氏は、天使だった頃が恋しいんじゃないかな。君はどう思う?
ーー君の兄、オーウェン・パーセルより
010. いくつかの文学作品を使った宇宙的陰謀
親愛なる妹、ソフィ・コットンテイルへ
そうなんだ、ついにレノアさんの声が聞けたんだ。それで、僕は、今日は彼女が居そうだなと思うときはいつも、倶楽部のラジオを勝手につけている。周波数は安定しなくて、電源を入れてから少し待って、真空管具合が安定してからダイヤルを回して探す感じだ。でも、僕とレノアさんは、あまり直接の会話はしていないね、理由は分からない。僕が構えてしまっているのかな。ラジオよりは人間的な理由の気がする。レノアさんは傷つきやすい人らしいから、繊細さに欠ける僕よりロバート氏やミネルヴァさんを間に挟んだ方が安全かな、と思う。
そして、なんと、君のお嬢さんの心を奪った坊さんが、君にもちょっかいをかけてきた、と言うのかい?しかも、同じ会堂にいた若い女性にも目配せをしていたとは。それはひどい。しかも、坊さんというからにはおじさんに違いあるまいと思っていたら、ミケランジェロのダビデの容姿とは。若いじゃないか。僕は別に坊さんが奥さんを望んでも坊さんが同士で裏で恋愛していたって構わないけれど、若い女性を騙して泣かせるのはよろしくないね。それで君が一幕演じて懲らしめようというのもよくわかる。しかし、ルイス氏に脚本を依頼するのは、どうだろう。これは宇宙規模のホラーを書かれてしまう、と思ったので、まずはロバートさんに相談してみたよ。まあ、彼がたまたま倶楽部にいたってこともあるのだけど。ロバートさんは格調高くこういったよ。
「それは許し難きことですな。しかし、あまり性急にするのもーーなに、うら若き乙女の手を取って見つめながらキス、ですか。うむ、しかし、もしもそういう習慣がある地方もあるかもしれませんので、そういった地方の出身であったりしたら、不幸なすれ違いかもしれないが、いかがでしょう?」
確かに僕もロバートさんの、文化的差異への配慮には頷けるところだ。しかし、僕は君が手紙に書いてくれた通りに反論したよ。
「敬虔な信徒たるおばあさん達には、そういう事はしないそうです。」
それで、ロバートさんは額の縦皺を深めて言う。
「ふむ、誘惑と誤解されかねない行為は人妻にはしない、という事ですな。それは、地方の習慣というわけではなさそうだ…けしからん…かもしれんですな…」
そこへ、ラジオに雑音が混じり、レノアさんの声がする。
(…ザザ…乙女には…ザ…わかるのじゃ…欲望の視線が…)
「そんなものですか」
(…それ…ザ…は…そうじゃ…)
そんな風に、3人で話しているところへ、ドリアンさんと大きな猫を抱いたミネルヴァさんがやってくる。
「ごきげんよう、皆様。
ああ!ロバートさん。先日の『十二夜』は素晴らしかったわ。でも、何故、オーシーノ公爵と執事マルヴォーリオを一人二役でやろうと?」
「あの劇は若い人たちが中心の喜劇ですので。予算を抑えようか、とも。いや、なんとも愚かな思いつきではありましたが、つい興が乗って…」
「そんな!かえってあれが素晴らしいって評判ですわよ。」
そんな会話の間中、僕は登場人物がいまいちよくわからないので、じっと耳を傾けてあとで調べようかと考える。そこへ、ラジオからレノアさんの声がする。
(…ザ…オーウェン殿がぽかんと…しておるのじゃ…どなたか…筋書きを教え…やってたもれ…)
それで、ミネルヴァさんがロバート氏に熱心にオーシーノ公爵と執事マルヴォーリオの一人二役が素晴らしかった理由を語っている間に、手持ち無沙汰になったルイス氏が僕に聞く。
「なんだ、オーウェンは『十二夜』の舞台は見たことはないか。」
「あると思いますか?」
「ないだろうな。あっても、お前は恋愛ものでは寝て、ヘンリー4世だったら途中はなんとか起きているタイプだ。では、まあ、そこに座りなさい。ジミー、お前も暇だろう、キャビネットから黒板を出してそこに座りなさい。」
ルイス氏の指示でジミーは顔面蒼白になってキャビネットに収納されていた小型の黒板を取り出す。ジミーはルイス氏を神のように崇拝しているので、存在を認識されると緊張するようだ。黒板を渡してしまうと、僕の座ったソファの肘掛けに所在なさげにもたれる。そうして、ルイス氏は僕らに『十二夜』の話を教授する。黒板に卓に置いて、図をかいてくれたよ。
「メインの話は単純で、オーシーノがオリヴィアに恋文を送るが、オリヴィアは手紙を持ってきた小姓に惚れる。小姓はオーシーノに恋をしている。小姓は女の子。後で女の子の兄が出現してハッピーエンド。」
4つの丸と矢印が描かれた右半分の画面を、ルイス氏がハートで囲む。
「単純じゃなさそうです。兄はどこから沸いたのでしょう。」
だが、ルイス氏はハートごと大きなバツを書いて、その部分を線で囲ってしまう。ジミーはなぜか残念そうな溜息をつく。
「そこのメインはロバートはやってないから忘れていい。ここに、情熱的なオーシーノって公爵がいて、恋文をもらうオリヴィアって女の子がいる。そして、屋敷にはマルヴォーリオって執事がいる。このマルヴォーリオがお高く止まった嫌なやつなので、使用人皆で恋の罠にかけるって話だ。」
オーシーノの部分の線とバツだけ指で消し、そこから線を引っ張って「ロバート」と書く。そして、もう1本線を引いて、マルヴォーリオ、と書く。
「罠にかけるって、可哀想ですね。」
僕が素直な感想を言うと、ルイス氏は意外そうな顔で僕を見る。
「そうか?」
「ええ。アルマンさんの事があったので。不幸なすれ違いは、やっぱり不幸です。」
僕が言うと、ジミーも僅かに頷く。卓に置いてあるラジオからも声がする。
(…そうじゃの…わらわが…忠告してやればよかったかもしれんの…)
ルイス氏にはレノアさんが見えるので、どうもラジオ前に立っているらしいレノアさんを見上げてルイス氏は言う。
「レノアは応援が過ぎただけだ、あの頃は君まで浮かれていたからな…でも焚き付けもしなかった。忠告も何も、そういう時、人は自分の見たいものしか見れんものだ。レノアが落ち込むことはない。おい、皆、そんな深刻な顔をするな。マルヴォーリオ役にアルマンを思い浮かべるから同情するんだ。ロバートだったら、嫌なやつをうまく演じるだろう。それから、どうだ、君の妹を誘惑した坊さんなら。」
ああ、と、僕は妙に納得した声をあげてしまったよ。そうなんだ、ルイス氏には、特に依頼するでもなく、ちらと君の手紙の話はしていたんだ。
「確かに、あの坊さんは、タケノコの皮ですね。」
僕がそういうと、ルイス氏はにやりとわらい、その目が宇宙的な邪悪をはらんで光った。だから、まだ脚本の依頼はしていなかったんだが。ルイス氏楽しそうだったので、ここはもう、止める必要はなかった。
「さて、病身のお嬢さんと、世話係兼学友の妹さん…さて。これは、『牡丹燈籠』をアレンジするか。」
すると、少しノイズがうるさかったラジオの音が、急にはっきりする。
(…それはドリアンがはなしていた東洋の怪談じゃの…?幽霊と侍女が、騎士を呪い殺す話じゃ。はて、坊主だったか…坊主といえば、わらわは…『クラリモンド』も好きじゃて、入れられるかの?…)
「『クラリモンド』!耽美な吸血鬼話か。難しいが…やってみるか。」
それで、ルイス氏は楽しそうに僕にタイプライターを持ってくるように言いつける。僕がタイプライターを持って戻ってくると、ジミーはソファを別に確保して、ちゃっかりラジオを自分の膝のうえに置いていたよ。まあ、タイプライターを置く場所を広くしてくれたのもあるけれど、レノアさんは声をはっきりさせたいときにはラジオに寄るのではと思う。だから、ラジオに寄るという事はジミー寄るということだ。しかし、ジミーは青褪めて緊張の面持ちで背筋を伸ばしているし、目は泳いでいる。だから、もしかしたら、ジミー自らではなく、ルイス氏がジミーラジオを持たせたのかもしれない。とにかく、ルイス氏は語り始める。
「『恋を知ってるかとお聞きになるのですね?ある、ええ、あります。しかも、二人の…いえ、わたしの話はよほど変わっていて、しかも怖ろしい話です。』
この導入は『クラリモンド』からだ。そうだな…クラリモンドへの一目惚れシーンはカット…オーウェンの妹さんにところの坊さんは、本とは違って犠牲者じゃないからな。で、どうするかな、お嬢さんと君の妹さん、ソフィさんか?ソフィは、夜に出歩けるかな?」
「難しいと思います。」
「では、昼間だな。毎日、お嬢さんとソフィさんが、坊さんを尋ねる。もう告解を聞ける立場かな?なに、分からない?では、告解でなくてもいいんだ。手紙だな。手紙…そう、マルヴォーリオも手紙で騙されるからな。よし、この坊さんに、マルヴォーリオ方式で恥をかかせよう。毎日、坊さんのもとを訪れ、手紙を渡すんだ。お嬢さんからの手紙だけでいいが、ソフィさんが何かつけ足してもいい。」
(…ザザ…わらわは…坊さんがおばあさんを誘惑せぬとのことが気に食わぬ…おばあさんもかつては乙女じゃ…)
「では、おばあさんを誘惑したことにすればいい。おばあさん宛に、恋文を出させるんだ。」
「おばあさん相手には、書かないでしょう。」
「お嬢さんの、坊さんが把握していない名前、たとえばミドルネームかなんかだという事にして、適当なおばあさんの名前を名乗るんだ。たとえば、レノアが好きな『クラリモンド』だ。これはフィクションだから、お嬢さんが『あなたをお慕いする罪深きクラリモンドより』として手紙を書く。この、クラリモンドって名前の代わりに、適当な、おばあさんの名前を書いておく。そうすると、おばあさんの名前宛に坊さんは返事を書くからな。『なぜそんなひどい誓いをしてしまったの、恋をしないなんて。お可哀そうに!』から始めて、幾度か手紙をやり取りするんだ。それを適当な信心深いおばあさんを見つけて、全部そちらへ流す。おばあさんには、ちゃんと事情を話すんだぞ、本気にしてしまってはご迷惑だからな。それで、坊さんには、『わたくしと共に参りましょう』までを書いて、駆け落ちのために落ち合う場所を指定する。そこへ、おばあさんが現れる。旦那さんを伴っていれば最高だな。あるいは、君の妹とお嬢さんとおばあさんと3人鉢合わせにして責め立てるか…どれがいいかな?」
「全員でどうでしょうね。」
「では、それがいい。オーウェン、では、今の話を簡潔に要約して、手紙にしなさい。それを妹さんに送ってあげるんだ。いや、セリフは書かない、テオフィル・ゴーティエの『クラリモンド』を参考にして恋文を書くといい。そういうのは当事者が書いたほうがリアリティがでるからな。ああ、お嬢さんに、『お可哀そうに!』と繰り返して言わせるのもわすれないでな。『クラリモンド』では、彼女が繰り返しそう言って、坊さんを籠絡するんだ。」
それで、僕はここまでを、実はそこに用意したタイプライター書いているんだ。目の前にまだ黒板があるし、ジミーは多分、そのあたりにいるであろうレノアさんをチラチラと盗み見ている。頬は上気しているのに額は真っ青だ。そして、ルイス氏は、先ほどやってきた黒騎士氏とエコー女史と話しながらどこかへ行ってしまった。さて、どうしようね?僕は『クラリモンド』を知らないから、一度本を探してみないといけない。その前に、ジミーを現実に引き戻さないとね。神と仰ぐ作家の授業を受けて、天使と慕う幽霊を側で盗み見て、感情がついてきていないようだよ。
「ジミー、『クラリモンド』って本を探しに行かないかい?」
「え?あ、ああ、なんだい?」
まだ、半分上の空だ。そういう経験って、少しうらやましいな。では、また書くよ。
ーー君の兄、オーウェン・パーセルより
011. 留置所から鉛筆書きで
親愛なる妹、ソフィへ
やあ、ソフィ、今日は珍しく手書きだ!しかも、ペンではなく鉛筆だ。何故だと思う?僕は今、留置場にいるんだ。こんな事を書いていたら、怒られそうだな。同房というのかな、同じ部屋には、駅で素っ裸でタップダンスを踊った自称芸術家と、缶詰8個を万引きした男、そして酔っぱらって寝ている大きな男がいる。最後の彼は縦にも横にも大きくて、僕はゴリアテさんと勝手に名付けた。アルコールが体内を通過した後に放つ、素晴らしい香りを放っているので、僕を含めた3人は房の反対側にいる。僕らの距離は必然的に近くなり、心理的距離も近くなる。それで、僕はつい、笑いながら聞いてしまったんだ。
「なんで缶詰、しかも8つもなんて。目立つんじゃないですか。」
だって、彼は缶詰を万引きしないと生きていけない程貧しそうに見えなかったんだ。勿論、そういう風に見える人だったら、聞かないよ。すると、彼は目深に被った帽子の下から、ムスッとこう答えた。
「財布を取りに戻るのが面倒だったんだ。」
逮捕される方が面倒なんじゃないかな、と思ったあたりで、僕の隣で毛布に身をくるまされた男性が言う。彼は明るい巻き毛に紙の葉っぱを絡ませた細身の男だよ。毛布は看守が「見苦しいから」と投げてくれたものだ。でも、壁は石だし、薄暗くて寒いからね。看守の思いやりだと、僕は思うね。とにかく、裸の上に毛布を巻いた彼はこう言った。
「その人の場合、令状は缶詰の窃盗じゃないと思いますよ。国家反逆罪だ。」
すると、缶詰氏は腕を組んだままこちらに苛立たしげな視線を投げる。
「いや、そんな証拠はないはずだ。俺はただの缶詰好きな市民だ。」
「よく言うや、このアナーキスト。」
「うるさい、露出狂に言われたくない。」
「アートです、アート。アナーキストに芸術の何が分かるんです。」
「真冬にはここに来ないくせに。季節を選んで脱ぐな。」
「冬が去り快適な季節を讃えるための踊りなんです。ま、生命の喜びはアナーキストにはわかりますまい。」
「黙れ変態。」
「小規模テロリスト。」
どうにも喧嘩が始まりそうだったので、僕も最初に質問した手前、止めに入った。
「ええと、缶詰が爆弾の材料になるんですか。」
「その缶詰がとんでもなく臭ければ、ね。彼、開封した大量のシュールストレミングを王宮に投げ込んだ過去があるんです、しかも複数回。」
生命の踊り氏の言い方がいかにも深刻そうだったので、僕は聞いてみる。
「シュールストレミングってなんです?」
それで、何故か二人とも呆れた顔で僕を見るんだ。シュールストレミングって、なんだい?
「お前、アレを知らんのか。」
「知らない方がいいです、あれは生の喜びを絶ちます。」
「だが、旨いんだ。」
「それは…悔しいながらも、認めます。」
「それも生命の喜びだろ。」
「ふむ。」
何故か仲直りしていたよ。そして、缶詰好きなアナーキスト氏が僕に訊ねる。
「それで、お前はなんでここに入ってるんだ。見たところ好青年、坊っちゃん風、スポーツマン。」
「ああ、僕、人を殴ったんです。」
僕が言うと、アナーキスト氏はどこか嬉しそうに頷き、裸踊り氏は少し身を引く。
「ほう、いいな。事情次第じゃ、俺の仲間を…」
「鳥って好きですか?」
「鳥?…まあ、そこら辺にいるな。」
「僕、カワセミが好きなんです。でも、鴨もガンもシジュウカラもアオサギも、友達なんです。」
「…ああ。」
「この季節、生命の喜び氏が脱ぎたいように、鳥も繁殖するんです。ケステレルも、子育てをする。」
「ちょっと待て、ケステレルってなんだ。どんな武器だ。」
アナーキストさんに声を潜めて早口で聞く。
「鳥ですね。小型の猛禽類で割とかわいい。」
「なんだ。鳥は人は殴る理由にはならない。」
「このケステレルの子育て目当てで、公園には双眼鏡おじさんが沢山来るのです。いいんですが、少し多すぎるんですよね、おじさん。」
「だからって、おじさんを殴っちゃいかん。」
アナーキストさんはそれも早口だ。ごま塩ひげなので、彼もおじさんには含まれる。
「おじさんは殴りません。たいたいの双眼鏡おじさん達はいいんです、ちょっと人見知りか、あるいは語りたがりな方が多い。一般客と違ってゴミも捨てない。鳥の絵がうまいので、教えてほしいくらいです。ただ、交代で来てくれないかな。大人しい生き物は逃げてしまう。それに、おじさんを狙って、悪いやつらが来るのです。強盗まがいの不良ですね。それが、仲間にそそのかされたのか、いたずらにピストルでアオサギを撃とうとした。あの美しい大きな鳥を、ですよ!アオサギが、ぬっと、水から生えた草の間から姿を現す。神秘的な瞬間です。そこを狙うので、殴ったのです。」
ごま塩ひげのアナーキストさんはそこで何かいいたそうに口を開き、何も出てこない。そこでヌーディストさんが拾う。
「怪我は?」
「無事でした、スカンポの葉が散っただけです。」
それで、ヌーディストさんが、巻き毛の下で目を巡らせて、看守がいないのを確認してから言う。
「いいんじゃないですか。ねえ?」
「うむ、それは殴ってしかるべきだ。」
「ありがとうございます。それで、今時風の若者を殴ったわけです。長い上着と細いパンツ人たちですね。そうしたら、仲間もナイフをもってこう…」
「待て、あんた、テディ・ボーイズ達と喧嘩したのか?なんで無傷なんだ?まあ、デカいが…」
「ケガはしましたよ、ほら。」
そう言って僕は、ナイフを避けて転んで生垣に突っ込んでついた跡を見せる。灌木の枝は細いけど固くてね、もちろん、折れた小枝には悪かったけれど、僕の手にはトゲが刺さったし、腕にも無数の引っ掻き傷がついていた。僕は、殴る前にちゃんと上着を脱いで腕まくりしていたんだ。今、それは警官の人が預かってくれているよ。
「僕が散歩に行ったのは早朝ですからね。彼らは半分酔いつぶれていて、僕は腹が減っていて気が立っていたのです。」
「なんで今になってここに放り込まれたんだ?」
「ああ、僕を連れてきた警官が朝ご飯を買ってくれて、一緒に食べていたんですが、彼が行っちゃって。案内もないし、署長が、僕が制服待ちの新人じゃなくて容疑者だと気付くのに時間がかかったんです。」
そんな話をしながら、僕はごま塩ひげ氏にとってのアナーキズムとは何かと、ヌーディスト氏の芸術と気温についての関係への考察を交互に聞いていたんだけれど。ふと見ると、先ほどから鼾をかいて寝ている巨漢氏の影が、どうも、動いているような気がする。僕は、つい、2人の話を追うのを忘れて、それを観察し始めた。簡素な細いベンチの上で、驚くべきバランスで眠る巨漢氏。その体重を支える木造りの健気なベンチと、巨漢氏が冷たい床に落とす影。その影が、異様に黒い。薄暗い留置場の影だからとするにも無理があるくらい黒いし、石の質感も見えない。むいろ、つやつやしていて高級感がある。じっと見ていると、それは頭で、もちろん、おなじみの、ゴリラ氏だ。それで、僕はこの手紙を書くの止めて、ポケットにしまったよ。そう、これは釈放されから続きを書いているよ。起訴されていないかとひやひやさせてしまったかな?だとしたら、ごめん。
とにかく、ゴリラ氏はまるで、寝ている巨漢の男性の影のなかに階段があって、そこからこちらへ上がってきたかのように段階的に肩まで現した。そして、巨漢氏の隣で黒い指の腹で黒い鼻を庇い、少し顔を背ける。そしてうんざりした顔でハンカチを取り出して臭いを遮断し、巨漢氏のポケットから、財布のようなものをつまみ出した。そのまま、階段を上がりきって、辺りを見回し、僕に気付く。
僕はと言えば、ゴリラ氏が空色のエドワード朝風の上着を着ているのに驚く。今朝殴った数人の
若者が着ていたものと似たデザインだけれど、生地の肌理もツヤも違う。幅広の肩に合わせた襟の広さも格好いい。ゴリラ氏は、片手を軽く振って僕に挨拶する。僕は、少し詰めて木造りのベンチに空きを作る。その間、ごま塩氏と裸氏は、おしゃべりに夢中でゴリラ氏には気がつかない。ゴリラ氏は、僕のあけたスペースが気に食わなかったのか、自分の影からラベンダー色と白のダマスク柄のソファを引っ張り出して座る。
「お前には変な友達ばかりいるな。」
「さっき会ったばかりです。」
「どうせ黄色いの双眼鏡のじいさんみたいに友達になるんだろう。」
「彼は鳥の鳴き真似がうまいんですよ。」
「俺の上司の宿敵もお前みたいな奴だった。気を付けろよ。」
「悪魔にも上司なんでいるんですか、大変ですね。」
「まあな。」
「なんで、彼らはあなたに気付かないんでしょう。」
「人間の認知なんてそんなもんだ。自分の見たいものしか見えないのさ。で、お前はどうなんだ、俺の話は書いたのか。」
「妹への手紙に書いて送りました。」
「手紙!ささやかだな。だからレノアも見えるようにならないんだ。」
「そういうシステムなんですか。」
「多分な。俺は決めてない。」
「上着、格好いいですね。」
「ああ、これな…欲しいってやつが多いんでどんなものかなと思ってな。いいスタイルだ。だが、着ている連中が野卑だ。勿体ない。それでな、頼みがある。」
「僕なんかに?」
「お前は親切だろう。」
「そうでもないですよ。」
「アルマンを助けたくないのか。」
「仕方がないですね。」
僕が言うと、ゴリラ氏はニヤリと笑って愉快そうに指で僕を示しながら振った。そして、にこにことしながら先ほどの財布から、封の空けられた封筒と、その中身らしきものを取り出した。それを僕に差し出すので、僕はゴリラ氏が不思議な力で浮かせてこちらへ寄越すのかなと思って少し待っていた。けれど、一向にその気配がないので、取りに行く。文面が目にはいる。
『すまなかった。俺が君に与えた印象より、世界はずっとましだ。だから忘れてくれ。すまなかった。アルマン』
短い、それ以外は何も書いていない手紙だった。僕らの階級にしてはましな文字で、神経質そうに震えていた。何をやらかしたんだろうとは思ったけれど、僕はそれをたたんで封筒に入れる。
「それは、そのデカいのが盗んだ沢山の手紙の内の一つでな。あいつの商売は、私信を盗んでは脅迫に使うってものなんだが。せせこましい商売だ。筋肉の無駄だったな。」
「がっかりだなあ。ポストごと盗めそうな御仁ですもんね。でも、なんでご自分でアルマンさんに届けないんです。」
「あいつの所には青い目玉の護符があるんでな、俺は行けない。お前の友達のタイポがお節介をするから、俺は部屋には入れんのだ。」
「親切なんですね。」
「まあ、アルマンは、お得意様になりそうだからな。」
僕は最後に見たアルマンさんを思い出す。爪に油の黒が残っていて、でも手はきれいに洗っていて、勘違いしたノーマン氏にわりと簡単に胸ぐらをつかまれて、片目は少し曇っていた。「転がしやすい」という、いつかゴリラ氏が言っていた言葉が思い出されたよ。
「謝罪の手紙か。では、宛先に届けますよ。」
「いや、アルマンに返すんだ。あいつは投函した事を後悔していたからな。そういう取引だ。」
「取引?何を奪ったんです。」
「許される希望、だよ。無きにしもあらず程も、持ってなかったがな。俺は気前がいいから、それとファッションアドバイスで手を打った。」
「それ、アルマンさんの見立てですか?」
「うむ、もっとこう、古風でもいいなと思ったんだが。この色がな、現代的でいい。あとな、これは俺の仕業じゃない。」
「何の話です?」
「なあ、鳥好きの青年、どう思う?」
ごま塩氏が急に話しかけるので、僕は振り返る。
「ええと、なんでした?」
「俺のアナーキズムは、彼の自由な表現と割と近いのではないかと話しているんだが。どうだ、規則も権威もない社会はいいぞ。君も捕まらない。」
「パンツさえ履けば、いいんじゃないですか。でも、警察は要ります。」
僕が適当に答えてゴリラ氏に向き直る。すると、ゴリラ氏は、もう僕を見ていない。旧い知り合いに会ったかのように目を輝かせて、椅子から立ち上がるところだった。
「やあ、死神の姉さん。」
アナーキスト氏と裸氏声が聞こえなくなった。留置場のある部屋への入り口はいつの間にか開いていて、そこに黒騎士氏と、見たこともないような美しい女性が立っていた。空気が薄くなって、吸っても苦しいような気がした。僕は、珍しいのだけど、なんだか怖いような気がした。僕は驚いて彼女を見つめた。彼女と目が合い、僕は冷たい水をかけられたように寒くなる。彼女は僕に気付いて怪訝そうな顔をし、すうと消えた。
彼女が消えると、彼女よりも小さくて存在感の薄い、頬に痣のある青年が立っていた。グレーの、エドワーディアンの上着を着ていた。ピストルでアオサギを撃とうとした青年だ。よく見れば、まだ少年と言ってもいいくらいの雰囲気だ。彼は、乱れた髪型のまま、気まずいのか、首の後ろを手でかいたりあっちをみたりしている。黒騎士が、僕に声をかける。
「騒乱罪で捕まったと聞いてな。彼と、そのご友人もな。」
「あれ、他にも部屋があるんですか?」
「そうだ。で、オーウェン、お前は警官に朝飯を買わせたのか。」
「はい。いい方でした。」
「誰彼かまわず友達にするのはやめなさい。」
「なんでですか?」
それに答える代わりに、黒騎士氏は苦笑していたよ。そして、隣のグレーの上着の青年に声をかける。
「ほら、言うことがあるんだろう。」
「しゃ、釈放してくれて、ありがとう。」
「私にじゃない、彼に。」
「あ、はい。ごめんよ、俺、仕事をクビになってイライラしててさ…飲みすぎちまって。それで仲間には、上着があの鳥みたいだって言われて。引っ込みつかなくて。」
「君、自動車好き?」
「え?」
僕は、どうせアルマンさんの所に手紙を届けるなら、見習いもつけてみようと思ったんだ。アルマンさんは、教え方はうまかったからね。まあ、人を雇える立場なのかは分からないけど。
それから、君からの返信がなかなか来ないので、実はちょっと心配しているんだ。なに、きっと放蕩坊主を懲らしめるのに忙しいのだろうけれど。それとも、お嬢さんの具合が悪いのかな。あれこれと考えてしまうよ。実は、上着を返してこもっている時に、ちょっとした騒動があってね。あのゴリアテさん、亡くなっていたんだ。いつからだろう、最初は鼾をかいていたのに。それで、「黒騎士」氏のことも心配なんだ。黒騎士氏はずっと黒騎士なのだとわかっているし、恋人は死神なんだと聞いている。僕の知る限りでは彼の周りで死人が出たことはないし、彼女のせいじゃないのかもしれない。けれど、黒騎士さんのことが心配だよ。急かしてごめんよ、絵はがきくらいでいいんだ、元気かを教えておくれ。
ーー君の野鳥好きの兄、オーウェンより
012. 即興再現劇の代筆
こんにちは、ソフィさん。
タイポです、お久しぶりだね。オーウェンくんから、いつもソフィさんの近況を聞いているよ。そして、速達で2通の分厚い手紙が届いた事も――1通はまるまる、お叱りの手紙だったんだそうで、僕らは笑ってはいけないものの、笑いを堪えるのに必死だったよ。ああ、いや――正直を言ってしまえば、黒騎士とルイス氏は遠慮なく笑い、僕やロバート氏はにっこりしただけだよ。でも、あまりオーウェンくんを責めないでやってくれ、彼はアオサギを守りたかっただけなんだ。それに、ソフィさんのお叱りとは別に、彼は神様からもお叱りを受けたみたいなんだ。彼は、不良少年の仲間にナイフで襲われた時に、灌木に突っ込んだと書いたのかな?僕ら、オーウェンくんの隣に突っ込んだ少年の事も心配しているんだ。うん、ピストルの少年とは別の子でね、行方が分からない。ああ、ごめんね、前置きが長くなった。実は、彼らが突っ込んだのが運悪くブラックソーンだったみたいなんだ。ソフィさんは確か、鳥よりも植物に関心があると言ってたから、様子も分かるんじゃないかな。あの、刺さると後でひどく腫れて熱が出るやつだね。オーウェンくんが突っ込んだのは主に手のひらがブラックソーン、腕は他の灌木で、手首から先だけが酷く腫れている。ただ、少年、というか青年なのかな?若者、とかくとオーウェンくんも若者だし、とにかく、不良の方は全身、ブラックソーンの生垣に突っ込んだという。しかも、彼らの大切な上着は脱いでいたそうで、そうすると、相当な範囲を刺してしまったんじゃないかと思う。
おや、オーウェンくんがソフィさんの手紙の朗読を始めるようだ。いや、まだジミー君と話している。ジミーがお嬢さん役かな? 僕ら、少し、再現して遊ぼうじゃないかということになってね。レノアさんも、オーウェンくん以外には見えるから、レノアさんがソフィさんの役、何故ならソフィさんの動きはレノアさんが見えなくても兄のオーウェンくんの中で再現しやすいからーーそれで、お嬢さん役はミネルヴァさんに頼んで断られてジミー、なのだと思う。坊さん役はもちろんドリアンさん、ロバートさんは監督。僕は、書記だね。書記は、ルイス氏が「俺が若い女性手紙なんか書いたら逮捕される。タイポなら、似たようなもんだから問題ないだろう。何、面識がある?では決定だ」という事で僕が打つよ。観客は、なんだろうね、いつもの倶楽部の人々とーーオーウェンくんはどれくらいソフィさんに紹介しているのかな、フランシス氏とインコの話は書いたと聞いたけどーーフェアチャイルド夫妻や出身国不明のキミタロー氏、僕の恩人のフレッチャー氏やニコラス氏、見たこともないような大柄で帽子を目深に被った仕立てのいいスーツの男性、とにかく、思ったより大勢だ。内々のおふざけなので特に招待状は出していないのだけれど、なんとなく集まってざわざわしている。ああ、始まるかな。
『オーウェン兄様へ
ごきげんよう、ピーター・オーウェン・ザ・バニー、まだうさぎパイにはなっていらっしゃらないようでソフィ・コットンテイルは安心いたしましたわ。それで、素敵なルイス氏には是非とも丁寧にお礼をお伝え申し上げてね。天才・サー・ルイス・アルジャーノン・リー、ふつつかな兄です、気付かぬところとスペルミスは多いかと思いますが、何卒よろしくお願いいたします。
さて、ピーター、獲物は罠にかかったわ…ただ、予想していた結末とは、少し違うの。ずっとーーいえ、少し、違うの。』
ここでオーウェンくんは少し言葉を切る。実は、オーウェンくん自身、ここまでしかこの手紙は読んでいないんだ。おや、誰か観客が「ピーター!」と声をかけたよ。元の給仕仲間の誰かかな。オーウェンくんは鼻に皺を寄せて笑い、無言で読み進めるふりをする。お嬢さん役のジミーが不安そうに彼に視線を送ったあたりで、また読みを再開する。
『お嬢様と私は、毎日、お昼ご飯の時間の少し前に例のお坊さんーーと書くと奇妙ね、ファザー・マルコを訪ねるようにしたの。お腹が減る時間だから、いろいろと早く切り上げたい時間よ。でもちょっと切なくもなる時間でしょう?そこに、お嬢様の麗しい瞳での上目遣い、私の双方を愛おしむ聖母の微笑…ファザー・マルコがお昼近くになると、落ち着かなさげに庭を自分から逍遥するようになるまで、1週間もかからなかったと思うわ。』
おやまって、オーウェンくんが読むのをやめてしまったーージミーが可愛くないし、レノアさんの方ばかり見ているーーなるほど、ジミーは細身だけど背は高いし、レノアさんが演じるソフィさんの方がかわいいのは当たり前だ。おや、ロバートさんが出てきた、交代するのかな。
やあ、ミズ・コットンテイル。
チェルビーノ、いや、君にとってはタイポかな、彼が舞台に引っ張り出されたので私が代わりに打とう。ルイスだ、作家のジイさんくらいでいいなな。肩はおかげさまでだいぶいいんだ、君のお兄さんのお陰だ。年を取ると休養も仕事だ、だが、年寄りの長話より舞台だな。タイポはロバートが持ってきたカツラを被せればまだなんとかいける。だが、レノアに、黙っておれと言われたなーーレノアとカツラでほうれい線を隠したタイポとドリアンが並ぶと華がある。君の庭はさぞかし美しかったことだろう。ゲーテを魅了した南国の日差しよーーと、オーウェンがまた隅に戻った。
「ええと、タイポさん、意外とお似合いですね。ああ、怒らないで。では、お嬢様、ドリアーーじゃなくてファザー・マルコの隣にかけて。わかりました、黙って座っててください、こっちのラジオでレノアさんの声は拾います。」
『それでね、ファザー・マルコを誘い出すのはうまく行ったのよ、小腹を満たす小さなお菓子も持ってねーーコッソリ渡すの。そうすると、私たちに会ったあとは少し、満たされた気分になるの、でもまだ足りないって風に。』
うまいこと考えたもんだ!どこかでこのアイディアを使わせていただいてもいいだろうか?
『それいいのだけれど、おばあさんがーーこちらのおばあさんは皆、魅力的なのよ。それに、信心深いけれど、若者は歯牙にもかけないというかーー孫と同じなのよね。ファザー・マルコに手紙をもらって喜びそうな方は、なかなかいなかったわ。それで、しばらくは作戦は難航したわ、本当にーーファザー・マルコとお嬢様が駆け落ちしてしまうのではないかとひやひやしたのよ。でも、さすがお嬢様ね、よく見ている。お嬢様はこうおっしゃったの、ファザー・マルコはあたくしを見ているようで見ておりませんのよ、どなたか別の方を見ている。だから、すいと目を逸らすのーー今はただ、ご自分が乙女にとって魅力的であるかの確認するためにあたくしをご覧になっているーーかつて恋い焦がれた方にそのようにみられるのはおつらくないですか、と私はきいたのだけど。実は今、お嬢様は東方の王子に夢中でいらっしゃるので心配はないわ。お嬢様はまだ見目好い方を眺める事も嗜まれるお年頃だから、間近でファザー・マルコを見つめるのも楽しいそうよ。心配はいらなかったようね。』
ーータイポの泣き真似としれっとした表情が見ものだったよ。ただし、眼鏡をかけずに見たからね、かけていたら、オーウェン同様に吹き出したかな。
そして、ここで、なんと、お嬢さんの役を断ったミネルヴァが、フランシスを伴っていれば登場したよ。ミネルヴァは優雅に舞台、というか椅子で囲っただけのスペースを一周し、フランシスはヨハンと呼ばれる大きなメインクーンを抱いて後を追い、途中で役を最近よくみる楽器の専門家に場所を奪われる。
『しばらくして、偶然に庭に旦那様と散歩に出た御婦人にお会いしたの。それで、お二人に事情を話してーーもう、その頃には、私たちの関心は、ファザー・マルコが真実に求めているお方はどなたか、の方に移っていたのだけど。そうしたら、おばあさまいたくご心配なさってーーいろんな方面にね。そういう方が神の教えを説くこと、無用な誤解を招く言動をなさること、それにファザー・マルコの今生の使命が今ついている職業ではないのでは、幸せの機会を逃すのではないと。それで、私達はおばあさまのお名前を伺って、お手紙を出したの。その名前がなんとーー』
ーーオーウェンは驚いた顔をして、笑いだし、それから君の真似をすることも忘れて叫んだ。
「クラリッサ!クラリッサだってさ!」
それで、脚本を考えていた時に立ち会わなかった連中はぽかんとし、立ち会った連中はにやりとする。オーウェンはきっと君にも書き送ったろうから、君もにやりとした側だ。
『それで、私達はおばあさまのお名前を伺って、警告のお手紙を出したの。その名前がなんとクラリッサとおっしゃるの。クラリッサ様は、こうおっしゃったわ。もしもファザー・マルコがどなたかをお慕いしているなら、駆け落ち待ち合わせには来ないかもしれない。それなら、まず、秘密を握っていると思わせて、妙案があるからと呼び出すよのよ。あとは夫が締め上げるから、と。確かに、クラリッサ様の旦那様は、たくましい方だわ。』
それで、楽器の専門家は、ドリアンを殴る真似をし、ドリアンは大袈裟にのけぞり、レノアが止めに入る。あの楽器の専門家はレノアが見えるようだーーあるいは、もしかしたら、彼には普通の娘さんに見えているのかもしれない、何やら雑談している。
『それで、私達、ファザー・マルコを夜の11時にいつもの庭に呼び出したの。この日ばかりは、外出の許可を取ってーーでも、本当は許可なんて要らなかったのよ、だって、ご両親とも木陰に隠れていらしたのだもの。』
ーーエコー女史が、フランシスとミリー、これはエコー女史の秘書、を、木立に見立てたキャビネットの裏に回らせて覗かせる。
『それで、いよいよファザー・マルコはこっそりと僧坊を抜け出してやってくる。
ーーファザー・マルコ!
まずは、お嬢様が呼びかける。
ーーええと、いかがなすったのですか、こんな夜更けに?
ーーまあ、ひどい。あなたさまの秘密は握りました、ですから、人に知られたくなかったら駆け落ちーー』
ーーここで、ロバートに押されてタイポが慌ててドリアンにかけよってみせる。だが、オーウェンは朗読をやめる。
「そんな算段だったっけ?」
「うむ、そうですな…悪ふざけは時として脚本にしたがわぬものです。」
「そうですね。」
オーウェンは笑いながらまた手紙に視線を戻す。
『駆け落ちしていただけませんと、あたくしーーそう言ってお嬢様は見事な嘘泣きをなさったわ。私も騙されないように気をつけないとーーそして、私と、クラリッサ様も物陰、つまり園芸用品置き場の小屋の陰から姿を現したの。』
ーーこのあたりでオーウェンは笑いが止まらなくなった。それはひとつにはタイポの演技が奇妙に上手だったのと、ドリアンがくすくす笑うのと、ミネルヴァの手を引こうとしたフレッチャー氏、やっ思い出した、彼に大きな猫が飛びかかったのと、だいたいこんなところで、しばらくは舞台、というか椅子を並べて囲っただけのスペースだが、まあ、その辺りは騒然となった。
「ああ、フレッチャーさんが引っ掻かれた!」
「いや、ただのパンチでした、どうかお気になさらず…」
「でも、シャーって言ってますよ?ほら、おいで」
オーウェンが包帯巻いた手を庇いながら猫を抱き上げようとして逃げられる。さて、いつ再開するかな。
この猫なんだが、ヨハン・ザ・ケーニヒと呼ばれていてね、立派な猫なんだが。ミネルヴァやタイポなんかは、演奏家、ヴィクター・クライザーの変身したものだと信じている。このヴィクターは、ミネルヴァの夫だ。死んだとされているが、ミネルヴァ本人は夫が猫になったと信じている。しかし、この楽器の専門家、フレッチャー氏はミネルヴァに恋をしている。それで、こういった一幕の中でヨハンがフレッチャー氏を攻撃するのは、なかなか粋だとは思う。
おや、再開しそうだ。タイポが猫を抱いている。猫を捕まえるのを放棄したオーウェンと、彼の持った寄って手紙をのぞいていたロバートとドリアンが笑い合い、ロバートが椅子の囲いの外へ戻る。
「なんてことだ!ああ、違うんだ、違うんだ!」
ドリアンは大仰に叫んで泣き真似を始める。さすが、幾多の男女をほだしてきただけのことはある、若干真に迫っている。レノアが笑いを止められぬままに問う。
「どうしたのじゃ?」
古語をやめられないのは大目に見てやってくれ、レノアは大昔の幽霊なんだ。そして、ドリアンは笑い出しそうなのを我慢しているのだろう、肩が震えているが、まだ続ける。
「僕は、僕は…ああ…」
「どうした、俺の妻に手を出した言い訳は…」
「にゃー」
さすがに気まずくなったのか、フレッチャー氏は最後まで言えない。ドリアンはあちらを向いて笑いを隠そうと必死だ。
「はて、どうなすったのじゃ?」
エレガントなミネルヴァが、一生使うことはない年寄り口調で話しかける。ドリアンが笑いながら叫ぶ。これが、泣いているのか笑っているのか、どちらにせよ効果は劇的だ。
「僕はもう坊さんなんて嫌だ!どんなに他の娘誘惑してもクラリモンドは嫉妬どころか見向きもしない!辞めたい!辞めてクラリモンドプロポーズしたい!ああ、クラリモンド…!!」
おっと、ここでタイポが戻ってきた。猫は今度はオーウェンの膝の上にいる。では、ミズ・ソフィ・コットンテイル、また。帰国したら是非とも、倶楽部へ、いらしておくれ。
敬具
ーールイス・リー
ここからは、また僕が書くよ。タイポです。ルイス氏がこんなに自分でタイプするなんて久しぶりだ!何か変な事は書いてないかな、少し心配だ。
結局、ファザー・マルコには好きな人がいたんだね。僕は、ごめんね、君の大切なお嬢様を演じてしまったが…どうしてだろうね、どうも、ファザー・マルコが嫌いにはなれないよ。
それでね、今、ドリアンが笑いやめられなくなったので、オーウェン君がまた朗読を始めたよ。
『クラリモンド!なぜ、あの頃みたいにヤキモチを焼いてくれないんだ?なんだって、いつもロレンツォやパオロとばかり笑い合って…ごきげんようとしか言ってくれないんだい?僕がどんな女の子を誘惑したって、全然興味もない!君の周りには怖いおじさんがたくさんついているし、ボーイフレンドは二人もいるし、君のお父さんは老衰じゃない死体ばかり葬儀に持ってくる!もう嫌だ!
そう言ってすすり泣きを始めたファザー・マルコが、クラリッサさんに縋りつこうとしたので、あわててクラリッサさんの夫が抱きとめ…』
「ああ、ドリアンさん、フレッチャーさんを離してください、真似だけでいいんです。」
「にゃー」
「ヨハンさん、そんな事は言っちゃいけない。」
オーウェンくんは、ヨハンの言葉がわかるのかな。彼はヨハンの頭を撫でて、続きをよむ。
『どうも、ファザー・マルコは、いつも教会に来るマフィアのご令嬢に片思い中のようなの。小学校から何年か同級生で、その頃は何度かデートもしたそうよ。だけど、厄介なものね。クラリモンド嬢の名前は知らなかったけれど、よくお見かけする。高級車に何人かのボーイフレンド乗せて自分で運転する、赤い口紅の似合う気さくな方よ。ファザー・マルコは、どちらかというと、もう少し湿った雰囲気というか…美しいけれど、もっと耽美で湿った雰囲気の方なの。あっけらかんと銃撃戦をかいくぐるタイプではないわ。それで、私達はどんな言葉をかけてあげればいいのか分からなかったのだけれど。お嬢様が、こう言ったの。
ああ、もしかして、クラリモンド様は、ベルナルディ家のご令嬢だったかしら。
ベルナルディ、という名前で、クラリッサ様と旦那様、そしてファザー・マルコの動きが止まったわ。
ええ、そのようね、でも、ここでは彼女はクララで通っているし、私たちは何も言わないのよ。
クラリッサ様はそうおっしゃってから、ファザー・マルコに向き直る。
こちらの教会の教区だけ、事件が起きていないのは、別にあなたの上役、アントーニオ司教のお人柄だけじゃないのよ。あなたが見た目だけの神父でもいいの。ここを辞めちゃだめよ。そして、あの方はクララよ、本当の名前で呼んではだめ。
ファザー・マルコの教会は自然死ではない葬儀も多い教会ではあるけれど、平和ではある。もしかしたら、そういう事かもしれないわね。そして、お嬢様はベルナルディ家への表立たない協力を進めるので、そこは少し、穏やかにしておいたのだけれど。』
おや、いつの間にか、皆静かになってしまった。オーウェンくんの抱いたヨハンが、ふさふさの顎を上げて、にゃーと鳴く。静かに、堂々と、しかし音もなく床に降りる。俗に言う「天使が通った」瞬間だね。それから、オーウェンが何か言いかけて止まる。カツカツ、と音がするので、皆、振り返る。
「さあ!解散のお時間よ!」
真っ赤な女性物のスーツにカツラ、ほうきを機関銃のように構えたジミーが声をあげる。みれば、後ろにロバートさんと、清掃業者のマダムが数人、笑いを噛み殺しながら立っている。その向こうでは、一人のマダムがカーペットを巻き上げている。それで、ジミーのハイヒールの音が響いたのだろう。ジミーは声の調子を整えるように咳払いをして大きな声で言う。
「さあ、不自然な葬式を挙げてほしくなかったら、掃除の邪魔をしないで頂戴!解散!」
それでも皆が笑顔で彼を見つめ、次のセリフを待っているので、ジミーはしばらく固まる。マダムがジミーに何か耳打ちし、ジミーはカツラを取っていう。
「あの、皆様、定期清掃です…」
「ありがと、ジミーちゃん。皆さん、全部そのままで構いませんよ、お部屋だけ空けてくださいな。さあさ、どいて。動かないと撃ちますよ。」
マダムが、ジミーのほうきを奪って銃撃の真似をしてみせる。さあ、僕も移動しなくちゃ。今日は定期清掃の日だと忘れていたよ。
またね!
ーータイポ
013. ブラックソーンと死神
親愛なる妹、ソフィへ
やあ、ソフィ。自分でなかなか書けなくてごめんよ。タイポさん、ルイス氏のレポートは楽しんでもらえたようだね。それに、僕が左手で書き込んだコメントもね。そうか、ファザー・マルコは大人しくしているんだね。ところで、エコー女史が、クララさんが連れているボーイフレンドは、本当はボディーガードなんじゃないかと言っているのだけれど、どうなのだろう? 確かめるのも、少し危ないのかな。そろそろ、次の滞在先へ移る予定だったっけ?もしもあらかじめ住所がわかるようだったら教えておくれ。それから、君からのタイポさん、ルイス氏へのお礼の手紙は、ちゃんとそれぞれに届いていたよ。僕への手紙に同封してくれてもよかったのに、それぞれへ封書とは、一体何を書いたのだろう。二人とも、笑顔で読んでいたよ。きっとそれぞれへ違った楽しいエピソードを書いているのだろうなと思ったら、僕も知りたいような気がするよ。
そうそう、ブラックソーンと、死神ね。僕はもう大丈夫なんだ、まあ、そうだよね、こうしてタイプライターを打っているくらいなのだし。しかし、割と大変だったんだ。僕じゃなくて、僕をナイフで刺そうとした奴が、なんだけど。彼の名前は、紛らわしい事に『ジミー』なんだ。でも、倶楽部にも『ジミー』はいるから、これからはどちらも愛称の『ジミー』をやめて、ジェームズとジェレミーで呼び分けるよ。僕を刺そうとしてブラックソーンに突っ込んだのがジェームズ、倶楽部にいる控え目な詩人なのがジェレミー。
ところで、ジェレミーと言えば、ルイス氏を崇拝しレノアを敬愛する『ホコリ』くんなのだけれど、実は昔の倶楽部員の『鼻無しのシラノ』のファンでもあるんだ。レノアさんに捧げる詩を書いているそうだよ。けれど、「生前きっとうんざりするほど受け取っているから」と、贈りはしないそうだ。大変だね。
脇道にそれたね、それで、ジェームズの方なのだけど。軽傷の僕に比べて、彼は大変だった。なにしろ、上着無しでブラックソーン突っ込んだのだもの。ああ、でも、まずは例のテディ・ボーイズ、テッズのメンバーを書いておくよ。
僕が殴った数人の内、アオサギを撃とうとした子、彼がコリン。ナイフで僕を襲ってブラックソーンに突っ込んだのがリーダーのジェームズ。ジェームズをフォローするつもりで殴りかかってきたのがテリー、どさくさ紛れて一緒に逮捕されたのがミックかな?彼らの上着を守っていたのがサムソン、彼は上着を実家に持って帰ってきれいに枯れ草や泥を払ってから寝たそうだ。サムソンは実家の手伝いが仕事なので、その土曜日の朝は、前日に家を抜け出す前についた「熱っぽい」貫いた。ところが、可哀想なのがジェームズで、釈放される前から少し具合が悪かった。最近コリン、テリーと共同生活を始めた安下宿に帰ると、二日酔いだけでは説明のつかない悪寒に襲われてベッドに突っ伏した。テリーは、土曜日の朝の仕事をサボった言い訳をしに行くために退散。これはコリンのためのジェームズとテリーのサボタージュという言い訳をしたらしい。割と真面目だ。そして、ジェームズは一人で生死の境を彷徨う。と、ここで、ルイス氏ならしばらくは彼がどうなったかは明かさずに読者に気を持たせるんだろうけど、読者は君だし、君は結論に至らないの嫌いだから書いておくね。ジェームズは助かったよ。だけど、そこに至る過程は珍しいから書いておくよ。
僕らは、つまり、黒騎士氏とコリンと僕は、釈放されてからしばらく、時間をつぶしていたんだ。まだ土曜日の昼前だったもので、アルマンさんが家にいるか分からなかったからね。それで、黒騎士氏が時々、情報屋と会う時なんかに利用するという洒落たカフェの奥の席に行ったよ。そこで食べたクロック・ムッシュの美味しかったこと!そういえば、アルマンさんもクロック・ムッシュの国の出身だったと思うから、今度作り方を聞いてみよう。彼は、そういえば軽食なんかコックに頼まずに作れる物もあったし、評判が良かったな。なのに、車のほうがいいんだそうだ。
また脇道にそれてしまった。それで、このカフェまた、小綺麗で洒落ていて、それでいて僕やコリンみたいな野暮ったいのがいても違和感がないんだ。店内を太い梁や、ただ空間を区切るためだけに配された細い板が分けている。それを高い天井とダークな木のパネルや、天井近くにぐるりと張った鏡がつないでいた。店の入り口の、窓から緑が見える辺りには僕らのような肌触り優先のパンツを履いたおじさんが芋とソーセージを食べているし、あちらでは紳士がトーストと卵と会話を楽しんでいる。皆、それぞれに落ち着く場所があるらしく、くつろいでいる。あまり広大というわけでない店内が、広く明るく見えたよ。その僕らは、軽く昼食とった。
コリンは芋とソーセージ、僕は黒騎士氏が口にした聞き慣れない「クロック・ムッシュ」に「僕も」で注文し、それから料理が来るまでの間、軽いお説教の時間だった。
「君たちは物事を軽く考えすぎる。鳥は撃ったら死ぬし流れ弾で散歩の王族なんか死んだら君たちが死ぬし、君たちが死んだらそれぞれに悲しむ人がいるだろう。彼らの人生に影を落とすな。それでなくても、人は死ぬんだ。気を付けろ。」
僕は、その朝見た巨漢さんの死と、恐ろしい女性を思い出して素直に頷き、コリンは少し青ざめて手元のナプキンを見ていた。こういう場所の布ナプキンの使い方が分からないのかもしれない。僕は、それをとって、広げて折って、彼に差し出した。彼は少し腕を上げて身を守る構えをとったが、僕が身振りで示すと僕の膝の上を見て、渋々それを受け取った。それから、どういうわけか僕らよりも洒落た身のこなしの給仕が来て、踊りのようにして皿を置いていった。コリンはためらいがちに一番大きなフォークを掴んで、芋を頬張った。僕は、目の前に置かれたチーズとハムの芳香に、異国の金とクリスタルで彩られた大広間の幻想を見ながら、黒騎士氏のナイフとフォークさばきを真似しようと盗み見た。彼の的確なナイフさばきは、まるで剣術のようだったよ。それで、僕の五感のほとんどが圧倒されていたので、皿の上からチーズの天国が消えるまで、僕は隣席の異変には気付かなかった。黒騎士氏はその必要もないのに儀式のように口元を拭きながら、コリンを見ていた。コリンは、不器用に芋とソーセージを交互に頬張りながら、涙を流していた。時々、袖でそれを拭く。僕は、何か言おうかと口を開いたけれど、黒騎士氏が目で止めた。それで、僕は紅茶を飲みながら、泣いているコリンをみる。20歳になるかならないか、ヒゲも頼りない、ソバカスの頬に僕が殴った跡がある。上着を着ない、骨っぽい不安そうな肩。ああ、頑張ってたんだな、殴らなくても止められたかな、と僕は思った。コリンは君より少し下だったろうけれど、その頃の君みたいな自信もその裏付けもなかった。その心細さは、たぶん、最近忘れがちではあるけれど、僕だって似たようなものだった。
「さて、私は店主と少し話がある。」
「僕からも美味しかったとお伝えください。」
「気に入ったのか?」
「天国の食事です。」
黒騎士氏は少し笑いながら行ってしまった。僕はコリンと二人で残された。
「ごめんよ、もうちょっと上手く止めれば良かったね。」
「あんた、強いな。」
「そう?」
「俺は、売られるのか?」
「なんで?」
「そういう時、最初は優しいって聞いた。」
「別に、そうじゃなくても仲直りって、一緒にご飯食べないかい?」
「…知らねえよ。」
そう言ってコリンは右下に視線を流して唇を尖らせた。素直じゃない人は、嬉しい時、右下に視線を流すよね。君が言ってた通りだ。ルイス氏なんかは、ああ見えて素直だから、なかなかしないのだけど。
「君の上着かっこよかったね、どこいったの?」
「…サムソンが拾ってくれてると思う、そういう奴だから。」
それから、彼は、もう一度アオサギを撃とうとした事を謝った。そして、ぽつりぽつりと、仲間の事、仕事の事、小さい妹の事、家の事なんかを話してくれた。黒騎士氏は、なかなか帰ってこなかった。僕は、洗いざらい彼の状況を聞いてしまって、多分彼の家の事情がそれほど複雑でなかったらクビにはならなかったろうし、誰かが彼の虚勢を虚勢と見抜いてやっていれば、彼はもう少し楽だったろうと考えたよ。リーダーのジェームズ、補佐が得意なテリー、特技のないコリン。3人で住みはじめたのに、種々の事情で理由でコリンひとりがクビになってしまった。その時の焦りを想像すると僕までじっとり汗をかくような気がしたよ。
「大変だったんだな。でも、僕の友達を撃たないでくれよ。」
「友達?鳥が?」
「うん、まあ。」
ゴリラもいるよ、と言いたくなったけれど、それは我慢したよ。
「変わってんな、鳥が…」
コリンがそう言って笑おうとした時に、僕は何か嫌な感じを受けた。彼の反抗期の子供っぽい表情が消えて、時々黒騎士氏やドリアン氏がする、どこか、遠くから眺めるような顔になった。何か寒いような、息が詰まるような感じがした。僕はとっさに席を立って、コリンと距離を取った。立ち上がる時に椅子の背を握った手のひらに驚くような痛みを覚えたが、僕はコリンの顔から目を離さなかった。コリンはコリンではなく、その人は静かに微笑んで低い声で言った。
「逃げなくていい、君の時間じゃない。」
「今朝、黒騎士さんの隣にいた方ですか。」
「そうだ。」
「コリンを連れて行かないでください。」
「彼もまだだ。」
「黒騎士さんも連れて行かないで下さい。」
僕が言うと、コリンの中にいるその人は静かに笑い出した。
「なんだ、聞いていたのとは違うな。お前はちゃんと、欲深い。同時に無欲だ。」
「お願いです、彼はいい人だ。」
僕が懇願すると、その人はおかしくてたまらないという風に腕を組み唇に指を当てて、肩を軽く震わせて笑う。
「面白い奴。黒騎士はいずれ連れて行く。だが、まだ駆け引きが楽しい。だから、まだだ。とはいえ、君の時間がくる前に連れて行く。そうするとこうなる。」
そう言っての人はコリンの痩せた目元を指で撫でた。ソバカスの上の目元のクマが濃くなり、緑から黒になっていく。目は落ち窪み、瞼は後退し、まるでギョロ目の骸骨のように見えた。僕は声が出せなかった。今度は本当に、冷たい汗をかいていた。立ったまま凍りついた僕にその人は言ったよ
「私はお前に恩を売りたい。だから、教えてやろう。コリンの友達を連れて行ってもいいと言われている。私はどちらでもいい。だから、急げ、競争だ。」
そう言ってそれは楽しそうに笑って、コリンから、消えた。コリンが、苦しそうに大きく息を吸い込んだ。何が起こったのかはわかっていない。僕を警戒した目で見上げながら、テーブルの上のグラスをつかみ、首を傾げる。それを口に運びながら、怪訝そうに僕を見る。先生に悪戯が見つかったかを盗み見る子供みたいにチラとどこかへ視線を外して、困ったような様子になり、そして、やっと、ためらいがちに言う。
「あの、あんた、大丈夫かい?俺、なんか言ったかい?」
「あ、いや…ちょっと、トイレに…でも、君ひとり置いていくのもなあ、と…」
そこへ、黒騎士氏がゆったりと戻ってくる。驚いたことに、タイポさんを伴っている。
「チェルビーノ、ドクターは何を召し上がるんだ。」
「そのあだ名はもうやめて下さいよ。ドクターは生ハムのサンドイッチがいいそうです。やあ、オーウェン、手が変なんだって? なんで立ってるんだい、足も痛いの?」
「あ、えと」
「トイレだそうっす。」
「トイレならあっちだ。さっさと行きなさい、そこを真っすぐ行って左だ。」
それで、事もあろうに、僕は本当にトイレに向かってしまった。どうしていいのか、分からなかったんだ。コリンの友達が危ないとはどういうことだろう、さっき聞いた中の、誰だろう。コリンのご近所へいけばいいのだろうか。コリンと一緒にいけばいいのかな。それで、用を足し、手を洗い、手が少し腫れている事に気がついた。何か毒の植物でもあったのかな。ついでに、水道で顔を洗ってハンカチで拭いた辺りで、ブラックソーンのことに思い至る。
「お兄様は生き物ばかりで植物は見ていないから。ツタウルシとブラックソーンくらいは覚えておいて。特にブラックソーンはキレイだからって取っちゃダメよ、危ないんだから。」
君の言葉が思い出されたよ。ああ、あのナイフの子、茂みに突っ込んでいたっけ。たぶん、あれだ。僕が次に何をしようか考えはじめた頃、黒騎士氏がドアを開けて呆れた様子で言う。
「お前は、コリンの友達は放っておいていいのか。」
「よくないです。車と医者を貸してください。」
「運転できるのか。」
「できません。」
「どうするんだ。」
「コリンに場所は聞きます。あとは、助けて下さい。」
僕が言うと、黒騎士氏は笑い出した。理由は分からないけれど、なんだか生き生きしていたよ。
「おい、チェルビーノ!やはり午後いっぱいドクターにはお付き合い願わねばならんようだ、サンドイッチは包んでもらって、そのまま車に乗っていていただきなさい。何やってるんだ、オーウェン、行くぞ。」
そう言うと黒騎士氏は出て行ったので、僕も慌てて後を追った。
黒騎士氏の車は大きかったけれど、さすがに全員は乗れなかった。大きな車って、座席がふかふかだから大きいのだと思う。運転手さんの隣にコリン、コリンの後ろに僕、運転手さんの真後ろが黒騎士氏が座った。そして、後ろのタクシーに、「いちど前の車を尾行してくださいって言ってみたかったんだ」と言うタイポさん、確かアルマンさんのご近所でお世話になったお医者さんが乗って、車2台で向かったよ。僕は車内で、留置場でのジェームズの様子をコリンに聞いた。
「寒いって言ってた。あの人、意地を張るんだ。自分でできるって言ってトゲを取るのもさせないし。22だしね、そりゃ自分でなんとかできるだろうけど。」
ジェームズというのは肩幅の広い少し鼻の反った男だった気がするけれど、不良リーダーだけあって頑張り屋のようだ。
「治療させてくれるかなあ…」
「傷の切開くらいなら大丈夫そうなだな。だが…」
黒騎士氏は、その後を言い淀んだ。コリンが青ざめて早口で言う。
「そらそうさ!ジェームズはすごいんだ、なんだって自分でなんとかしちまうし我慢づよいんだ、きっと…」
「だろうな。だから、ちょっとな、可哀想なんだが」
黒騎士氏の言い方には何かしら含みがあった。しかし、僕らはその含みが、つい漏れてしまう笑いであることに気が付くまでにしばらくかかったよ。
大きな車が入れなくてタクシーもそれ以上進むのを拒否する裏路地の、若い男3人で暮らす安下宿、まあ、汚い、臭い。アルマンさんの片付いた部屋を知っている僕からすると、こうも変わるものかと思う。そして、青ざめたコリンが駆け込んで毛布を剥がすと、ガタガタ震えながら眠る、全身腫れ上がったジェームズがいた。
「ジェームズ!大丈夫か?」
コリンが声をかけると目が覚めたのだろう、薄目を空け、僕らに気がつくとそれでも起き上がって身構える。
「ジェームズ!落ち着け、大丈夫だから!」
コリンが何とかなだめて座らせ、僕らが敵ではない旨を説いて聞かせる。彼は、まるでダウン直前のボクサーみたいによろめきながら、腫れた顔で僕らを見定める。そして、しばらくは大人しく、僕やタイポさんがピンセットでトゲを取るのに任せていた。しかし、やがてドクターがカバンからツヤツヤと光る大きな注射器を取り出すと、僕らの静止から身をもぎ離そうと暴れ、黒騎士氏に一喝される。僕らは先ずは事情を説明し、彼に選ばせなければならなかった。お尻の筋肉への、抗生物質の注射か、敗血症による死かを。黒騎士氏がピストルを彼に向けていたのもあり、ジェームズにさほどの説得は要らなかった。素直に「どうにでもなれ」と筋肉注射を受け入れたよ。そこへ、「サボタージュとはいい度胸だ」と怒った雇い主が乱入し、ジェームズはタイポさんの話術で僕がブラックソーンの生垣に転落しそうだったのを助けた英雄に祭り上げられ、2人の解雇は免れた。コリンは、「お前は貨物を混ぜるからダメ」だそうだけど。妙な理由だね。それで、残念ながら、アルマンさんに彼を紹介するのは、次の週に回そうと言うことになったよ。僕らが帰る時、コリンはこう言った。
「テリー、わりいけど、この人たちにここの住所を書いてあげてくれないかな。俺、ジェームズ見てっから。」
頼まれたテリーは、ありがとよ、と言いながら、僕が差し出した手帳に住所を書き付けた。
「なあ、ちょっといいか。」
僕はテリーに呼ばれて表へ出た。
「さっきコリンに見せてた薬の説明な、俺にくれ。コリンは字が読めねえ。バカじゃないんだが、読めるフリをする。誰にも言うなよ、俺しか知らねえんだから。ジェームズの薬は俺が見る。」
色々と事情がありそうだね。ジェームズが屈辱に満ちた筋肉注射に耐える間、目に涙を浮かべて励ますコリンの顔が忘れられないよ。あの顔に、死神が憑いて喋ったなんて、信じられないくらいだ。それに、アオサギを撃とうとしたことも。死神は別としても、人には色んな顔があるんだね。だけど、きっと、彼はいい奴だよ。その後、もうすぐ1週間経つから、きっとジェームズの体調も回復しているだろうと思う。アルマンさんが助手を雇えるといいんだけど。実は、先にアルマンさんに確認を取ろうと思ってるんだ。それで、この手紙を投函したら、出掛けるつもりなんだ。
そうそう、帰りは、ドクターやタイポさんと一緒に黒騎士氏の車で送ってもらったのだけど。車の中で、ドクターは君の手もブラックソーンでしょうと笑って手当をしてくれたよ。僕がコリンやジェームズと知り合ったきっかけを話したら、ドクターは何かが面白かったらしくて、手帳から、キレイな黒い羽を取り出して、僕にくれたんだ。カラスの羽よりもとろりと黒くて、角度や方向が変わると青や紫に見える光沢が出る。面白い。ちょっと、ゴリラさんのスーツを思い出すよ。時々、妙な虫刺されで呼ばれるお客さんがくれたんだって。君に見せたいけれど、頂き物は送れないから、ここに下手くそな絵を描いて送るよ。
ーー君の兄、オーウェン・パーセルより
『悪魔にとってありがたくない客』
もはや『嘆く独身者倶楽部』の面影はないんですが、オーウェン視点で書くのは楽しかったです。