短編集 Ⅴ
落日の再会
エレベーターに乗り込んできたあなたと目が合った。
長い歳月が流れていたがすぐにわかった。
こんな早朝に来るのは……
4階で私は降りた。横を通る時に声かけた。5階のスタッフに。
「お願いします」
「お願いします」
声が返る。
よろしくお願いします。頑張りましょう、という意味なのかよくわからない。
彼は気が付いた。閉まった扉が再び開き言った。私の名前。
「ヨ・リ・コ……さん?」
⭐︎
二十歳の頃に付き合った。
彼は私に夢中になった。
うるさいくらい電話をかけてきた。
10歳年上の彼は優雅な独身。
何度も見合いさせられ断っていた。30までに結婚させるつもりだ、と。
当時、ダンス教室に通っていた。
入社した年の忘年会。華やかな席で大卒の同期の女が上司に誘われて踊っていた。私も誘われたが断った。踊れません、と。
ダンスは憧れだった。駅前のダンス教室に通った。個人レッスンは高かった。高かったが楽しかった。毎日のように通った。
やがて仲間ができた。何人かで食事に。男も女も。男性は妻帯者もいた。ダンスホールに行った。華やかな場所。誘われて踊る。初心者なのに言われた。
「身が軽いからリードしやすい」
心地よい言葉……
上手な男だった。ダンスも口も。ロカさんと呼ばれていた。ロカ?
帰りが遅くなるとロカさんが送ってくれた。方向が同じ10歳上の男は、小学校も中学校も、高校まで同じだった。
「どこに住んでたの?」
「竹の湯のそばよ」
「銭湯いってたの?」
それは、自宅に風呂がなかったの? という質問だ。
「そうよ。貧乏だったの。悪い?」
酔っていたから言ってしまった。
「団地が当たって越したの」
都営団地。コンプレックス。母は言った。公団に住む者は都営を笑い、建売に住む者は団地を笑う。さらにその上のものは……
ロカさんはわざわざ電車を降り送ってくれた。15分歩く。酒が入っていた私は甘えた。腕を組んだ。密着してダンスもしたのだ。抵抗はなかった。
名を聞かれた。嫌いな名前。
「頼子。頼朝の頼子。父が付けたの。悪い?」
父は酔うと言った。初恋の女の名だと。誰にでも初恋はあるのか? 私には……恋焦がれた人はいなかった。
「セイチョウの小説にあったな」
セイチョウ? 読んでいなかった。
「知らないわよ。バカだもの。悪い?」
「そればかりだな」
「悪い? あなたはどうしてロカさんなの?」
わからないのか? とは聞かれなかった。ロカさんは丁寧に説明してくれた。無知の連続。
「知らないわ。聞いたこともない。バカだもの」
「悪い?」
ロカさんが代わりに言った。普段なら決して言わないことを思いきり暴露した。
ロカさんは本をたくさん読んでいた。詳しい。文学、推理小説、私に合わせて『ぼっこちゃん』まで。
団地の前で別れる。窓から覗くと手を振り、タクシーを拾い帰って行った。かわいげのない女だと思われたに違いない。さよなら。これっきり……
しかし、誘われふたりで会うようになった。10歳上だ。ダンス仲間の話では裕福らしい。隣の駅の近くに家がある。親の経営する店は支店がいくつも。長男。跡継ぎ。
楽しい人だった。博学だった。脚本家になりたかったらしい。
映画に誘われた。観たい映画があった。ロカさんは吹き出した。当時話題になったベルサイユのばらの映画化。吹き出したが付き合ってくれた。主人公が自分の裸を見る場面が恥ずかしかった。男と映画なんて初めてだった。
付き合った。付き合ったが恋愛対象ではない。年が離れすぎていた。家が、学歴が、乗っている車が……大学にも車にも無知だったが釣り合いが取れない相手であることはわかっていた。食べているものも着ている服も。
青春を謳歌してきた男だった。テニスにスキーにゴルフ、海外旅行。
もう身を固めないと……見合いした、と平気で言った。私も平気だ。それより見合いしたホテルは行ったこともない豪華なホテル……
食事はいつも素敵な店。ワイン、果実酒。ロカさんは少し酔うと言った。
「君、かわいいね」
初めて言われた。トイレに行き鏡を見た。薄化粧の華奢な女が映っていた。
「かわいいね、君」
何度も言われた。誰にでも言うのだろうか? 手に入れるまで。3度に1度は金を出した。私が払った。12時前には送られた。釣り合いの取れない団地の前まで。ロカさんが帰るのはどんな家?
話の中に出てきた……友達と夜中までカラオケができる部屋。母親が料理の腕を振るうキッチン。カウンターに並んでいる何種類ものコーヒー豆。奮発したオーディオセット、何を聴くの? クラシック? ジャズ? モモエ……え? モモエを聴くために買ったの?
「ファンクラブに入ってるんだ」
4キロ太った。当たり前だ。カロリーオーバー。食通の男と付き合っていたころは食べ過ぎていた。それも夜遅く。
誘われた。毎日のように。毎日のように食事し酒を飲んだ。ニットのワンピースがきつくなった。
「太った?」
ロカさんが聞いた。悪気があったわけではないのだろう。少し痩せてるのも少し太っているのも好きだと言われた。
「足、意外に太いんだね」
悪気はない。女に言うことではないが。
傷ついた。真実を言われてひどくうろたえた。
次に会ったときに言った。
「少し、距離置かない?」
痩せるまで。元の体型に戻るまで。4キロ痩せるまで。ロカさんは考えていた。理由は聞かなかった。10歳年上の跡取り息子には距離も時間もなかったのだろう。
すぐに電話がかかってくると思ったが……なかった。都合よかったのだ。釣り合いが取れる相手ではなかったのだから。
ロカさんがいなくなると私にはなにもなかった。ダンスもやめた。
会社の飲み会。飲みすぎて電話した。ロカさんは迎えにきてくれた。しょうがないな、と言いながら。高級車で送られた。それだけだ。
また飲みすぎた。送ってくれたのは今の夫だ。酔った私は夫の部屋に行き電話した。
「よろしくって言ってよ。頼子をよろしくって……」
夫は呆れただろう。
翌日電話がかかってきた。落ち着いたかい? 謝る私にロカさんが言った。結婚する。見合いした。私が聞いたのは相手の年齢だけだった。私と同じ歳? 家柄、学歴はしょうがないと思っていた。年齢はショックだった。
別れた理由。簡単だ。付き合っていると太るから。恋をしていたわけではない。
⭐︎
「君にもらったレコード、すり切れるまで聴いたよ」
「?」
「誕生日にくれただろ。マーラーの5番」
私は頭を下げてユニットのドアを開けた。
半世紀近く前、振ったのは私のほう。
解放された彼は幸せではなかったようだ。
101歳の母親が亡くなり、1年もしないうちに、脳梗塞を起こした徳冨さんは隣のユニットに入居してきた。
知り合いの娘
「H高の入学式にいかないか?」
父が僕を誘った。
「来賓?」
「いや、知り合いの娘が新入生代表で挨拶をする」
知り合いの娘?
詳しいことは言わなかったが予感はあった。自分の娘の入学式にはいかないくせに……
父とふたりで出かけたことはないが、母校を訪れるのを断る理由もない。
近くのパーキングに車を停め歩いた。
H高。
回想した。10年前が蘇る。父も思い出しているのだろうか? 高校時代のことを?
校舎は建て替えられていた。過ごした教室はもうない。
保護者席の後ろの方に座った。知っている教師はいない。式の流れは変わらない。新入生代表の挨拶。
会場がざわめいたあと静かになった。思わず座り直した。そうする者が多勢いた。正座して聞きたいくらいだ。
15歳の娘がライトを浴びた。映し出された異様な……顔。見るからに先天性の奇形だとわかる。何度か整形したのかもしれない。筋肉が未発達なのか、話している表情は凝視に……
見ているのが辛い。しかし見なければ失礼だ。
「金縷の衣は再び得べし、青春は得べからず……これは私の恩人が教えてくれました。青春とは無縁だと思っていた私に、顔を上げ前を向け強くなれ、と励まし叱ってくれました……」
よく通る声、天は魅力的な声を彼女に与えた。
あとはとてつもない努力のみ……
父の知り合いの娘……父は言わなかったが。僕の頬に涙が伝わる。悲しみの涙はコントロールできるが……感動した時の涙は抑えが効かない。
父にバレないよう汗を拭くふりをした。バレているだろうが。
彼女、望の挨拶は校長より来賓より、誰よりも素晴らしかった。惜しみない拍手。この高校生活、彼女は明るく過ごしていくだろう。
生徒達が教室に戻ったあと、父は彼女の母親に僕を紹介した。どういう知り合いなのかは話さない。1度聞いたが答えはなかった。2度聞く習慣は父との間にはない。彼女を強く育てた母親には誰もが敬意を払う。
父と話せないことを僕は義母に話す。どういう知り合いか聞いた。義母は珍しく言葉を濁した。
「娘と同じ歳なのに……あの子を見たらどんな悩みも吹き飛ぶわね」
夏、眼医者に通った。検査があるからバスで。学生には夏休みだ。
そのバスにあの娘が乗っていた。すぐに気付いた。混んだ車内。顔を隠さず堂々としていたが……子供が泣き出した。
怖いよー。
少女はマスクをし、サングラスをかけた。
「怖い思いさせてごめんね」
マスクには子供が喜ぶキャラクターが描いてあった。子供は泣き止んだが、少女は停留所で降りた。まだ駅ではないのに。
僕はあとを追いかけていた。少女は駅までの2停留所を歩いた。マスクを外した気配はない。傷ついているのだろう。生まれてから15年。数え切れないほどひどい扱いを受けたに違いない。彼女を見ればどんな不細工な顔だろうが感謝するだろう。
僕はあとをつけ改札口まで見送った。夏休みの部活だろうか?
3度、同じことが続いた。彼女も僕の存在に気が付いた。改札口で振り返る。11歳年下の、妹と同じ年の娘。薄幸とはいうまい。強い女だ。あの母親も。
もう眼医者に通うことはなくなった。仕事の帰り、僕は信じられないものを見た。彼女が停留所に座っていたのだ。僕の乗った停留所を彼女は覚えていたのだろう。
夏の夕方、僕は車で通り過ぎもう1度戻った。間違いなく彼女だ。間違うわけがない。目が合った。
ごく自然に彼女は乗ってきた。ごく自然に僕は車を走らせた。
「英幸さんでしょ? 三沢さんの息子さんの……幸子さんの息子さん」
「母を知っているの?」
「おかあさんは、私を助けて亡くなったのよ」
驚き声の出ない僕の横で彼女は話す。
田舎の海で出会ったふたりの母親。同郷の母親は娘と心中しようとしていた。
娘が生まれると父親は出ていった。母は身の上話を聞き励ました。しかし母親は娘を連れて海に入った。波がふたりを引き裂くと母親は助けを求めた。水泳の得意な僕の母が助けた。命と引き換えに。
ずいぶん遠くまで来てしまった。パーキングで休み飲み物を買った。背筋を伸ばし堂々と歩く娘を行き交う人が驚きを隠さない。僕は彼女の手を握った。父もそうしてきたのだろう。
外のベンチでコーヒーを飲んだ。夜のとばりが彼女を隠した。
「私を憎む?」
「……もう、母が生きていたことのほうが嘘のようだ……」
自然に僕は肩を抱いた。
「無条件で……許す。尊敬する。もっと早く会いたかった。君の力になりたかった」
「亜紀さんが子犬をくれた」
「義母が子犬を?」
「素敵なおかあさんね。おとうさんも」
「……僕は君の兄になるよ」
彼女は涙を流した。
「感情のないことの訓練はできているのに……」
夜のとばりが現実社会を遮断した。僕は母を感じた。
「母が……」
「幸子さん?」
「ああ。喜んでるよ。僕たちを見ている。ホントだよ。僕は霊感が強いんだ」
彼女を送った。小さな家に母娘は住んでいた。母親が出てきて家に上がった。ヨークシャーテリアが彼女を守っていた。居間の棚に母の写真があった。
望の記憶の最初から父はいた。父親だと思っていた。甘えさせてくれた。絶望して死にたいと言ったときに父は真実を語った。
最愛の女がおまえを助けて死んだのだ、と。
助けなければよかったのに、そうしたらこんなに苦しむことはなかった……
望が言うと父は怒って首を絞めた……
父は最初母娘を憎んだ。だが、娘の顔を見ると言葉を失った。
想像した。『幸子』はこの娘を見てどんな反応をしたのだろう?
『幸子』は強い女だった。逆境には立ち向かっていった。『幸子』なら娘を隠すことなく希望を与え、強く育てただろう。
父は『幸子』の遺志を継いだ。自分の子供は義母に任せ、愛した女が命に変えて助けた娘を強く育てたのだ。並大抵ではなかっただろう。
おそらく『幸子』と心の中で話していたのだろう。自分の息子には向き合わなかったくせに……
僕はあなたの愛した女の息子だから、強い女の息子だから大丈夫だとでも思っていたのか?
部屋の隅にフラフープが置いてあった。
「おとうさんが買ってきてくれた。おとうさんは上手なのよ」
本もCDもたくさんあった。母が読んでいた小説、母が好きだった曲。
「柔道を教えてくれた。強くなれって。カラオケに連れていってくれた。思いきり歌うの。おとうさんは上手。それでも絶望したときは別荘に連れていってくれた。誰にも会わない。遮断するの。おとうさんと私だけ。それに……幸子さんの亡霊と。
おとうさんは、とことん付き合ってくれた。先に帰りたくなるのはいつも私の方だった」
海外出張は手術のためだった。毎年のように行われた手術に父は同行した。
急な出張も何度もあった。望を強くするために。
10年以上の父と望の物語が目に浮かぶ。
「学校にもしょっちゅう来てくれた。だから辛い思いはしなかったのよ。先生も保護者も生徒も、皆優しくしてくれた」
「母の話をした?」
「強い人だったと。たくましい人だったと。望は絶望の望じゃない。希望だって。同じ境遇の人に希望を与えろって。絶対、生まれてきてよかったと思わせてやるって。おとうさんに会えてよかった」
「もうすぐ母の命日だ。忘れていたが……」
「毎年お墓参りに行くの。おとうさんに引きずっていかれたわ。1年間なにをしたか、報告しろって」
僕を連れて行こうとはしなかったくせに……
怒りは湧いてこなかった。僕の顔を見なかった父、話をしなかった父。教えてもらったことはなにもない。勉強も柔道も歌も。
想像する。望との出会いから今までを。歳とともに増していったであろう苦悩と絶望。
絶望か希望か? 想像する。望を抱き上げた父を。手術の間、待っている父を。母の墓前でのふたりを。海を。
柔道を教える父、歌うふたり、子犬を世話するふたり、学校でのふたり、実の父娘よりも深く強い絆だ。
家に戻ると父は帰っていた。僕の口から次々に言葉が出た。
「望さんに偶然会って家まで送ってきた……ママの写真があった。フラフープも本もCDも」
義母がキッチンに消え父と息子をふたりだけにしてくれた。
「ひどいよ。パパは。僕と彩を放っておいて。あの子のためにどれだけのことをしたの? 僕も柔道を習いたかった。カラオケだって? 僕とはいったこともない。あの子のためにいくら使ったの?」
責めはしない。恨み言を言いたかった。今まで話さなかった分、言葉が出てきた。パパは答えられない。
「あの子の学校には行ったって? 彩の行事には行かないくせに。それがママの遺志? 彩には辛く当たれって? パパを捨てた女だよ。忘れたの? 僕たちを救ってくれたのは誰か?」
パパは答えられない。
「ママは喜んでいると思う? ママを死なせた親子だよ。ひどいよ。ひどすぎる。僕はいいよ。僕は一生分の愛を貰ってる。彩とおかあさんがかわいそうだ」
義母が割って入る。
「おかあさんは悔しくないの? パパはママと育ててたんだ。あの子を。彩ではなくあの子を育てたんだ」
「私も協力したのよ」
「パパが留守の言い訳作りにか?」
「もうふたりで土下座するしかないわね」
「やめてよ、おかあさん」
「パパの介護はあの子がやってくれるわよ。幸子さんがおじいさんをみたように。私も、彩もパパの下の世話なんてまっぴら」
「……そんなの、僕がやるよ。決まってるだろう? パパの面倒は僕が見る。ママがおじいちゃんを介護するのを僕は手伝ったんだ」
パパが僕を抱きしめた。何年ぶりだろう? 20年……ようやく僕はパパの息子に戻った。
「パパはすごいよ。僕は……誇りに思う。パパ、墓参りに行こうよ。望も一緒に。おかあさんは?」
「私の面倒もみてくれるんでしょうね?」
短編集 Ⅴ