記憶の中の名づけられなかった感情

記憶の中の名づけられなかった感情

プロローグ

プロローグ

彼女を最後に見たのは、三月だった。

季節外れの雪が降っていて、
バス停にある小さな時計塔は、十九時を少し回ったところを指していた。

たまたま、同じバスだった。
混んでもいなくて、空いてもいない、
話しかけようと思えばできた距離。

けれど、何もしなかった。

バスが停まり、彼女が先に降りる。
数秒遅れて、俺も降りる。

同じバス停。

街灯は少なく、雪に反射した光だけがやけに明るかった。
神社の前を通る道で、
彼女は少し先を歩き、俺は十メートルほど後ろを歩いた。

追いつくことも、声をかけることもできたはずなのに、足は自然と、その距離を保っていた。

雪を踏む音だけが、静かに続く。

何も話さないまま、
彼女は角を曲がり、その背中を横目に、自宅へ続く反対側の道を進む。

追いかけなかったわけでも、
避けたわけでもない。

ただ、帰る場所が違った。

それだけで、
彼女はあっけなく、視界の外へと消えていった。

告白も、別れの言葉もない。
特別な出来事は、ひとつもない。

それなのに、なぜかその夜だけが、妙に記憶に残っている。

しんしんと降る雪と、白く浮かぶ息の冷たさ、街灯の色、そして何も言わなかったという事実だけが。

——それが、最後だったと知るのは、
もう少し先の話になる。

1.思い出

四十歳の浅井 涼一は、リビングの窓から差し込む冬の光に目を細めながら、ふと思い出していた。

幼稚園の頃から高校まで一緒だった、美都 陽菜——
あの少女のことを。

隣で家族が笑い、膝の上の息子が静かに眠る。
この生活に不満はない。
だけど、時折、心の奥であの頃の景色がざわめき、淡く胸を掠めるのだ。

小学校時代、俺はたぶん調子に乗っていた。
運動部に入っていて、休み時間はだいたい校庭にいて、
名前を呼ばれれば振り返るのが当たり前みたいな立ち位置だった。
その延長みたいな感覚で、陽菜にもよくちょっかいを出していた。
あの頃、距離を測るなんて発想もなかった。
話すのも当たり前で、隣にいるのが自然で、
けれど陽菜に対する特別な感情には、幼いながら気が付いていた。

中学になり、少し変わった。
というより、変わらざるを得なかった。
昨日まで笑って話していた相手が、
今日は何事もなかったように誰かを外に押し出す。
部活の中でも、教室でも、それは当たり前みたいに起きていた。
このまま同じ場所にいたら、
いずれ自分も、あちら側か、こちら側かに分けられる気がして。
だから俺は、少し距離を取った。
目立たず、勉学に向かい、部活も文科系を選んだ。
陽菜と話す機会も、自然と減った。

高校に入った俺は、少しだけ自分を変えようとした。
中学の終わりまで溜め込んだ運動不足と、
同時に、どこかに置き忘れてきた自信を取り戻したくて、
テニス部を選んだ。

そして、そこに陽菜がいた。
同じ高校に進んだのも偶然なら、
同じ部を選んだのも、きっと偶然だった。

胸の奥で、長いあいだ眠っていた何かが静かに動いた。
それでも、こちらから声をかけることはできなかった。
中学時代の三年間で作りあげた虚像。
「静かなやつ」という自分を、陽菜は知っている。
そこから一歩でも踏み出したら、
その行動全部が、何か企んでいるように見える気がした。

急に話しかけたら、
急に近づいたら、
好意も、下心も、区別されないまま
一緒くたにされる気がして。

卒業式の日、結局俺は何も言えなかった。
何も言うつもりがなかった、が正しい。
陽菜にとって、俺はただの幼馴染だったと思う。
俺にとっては、一方的な片思いの相手。
名前も形も持たないまま、
ただ確かにそこにあったものを噛みしめながら、
あの雪の夜、バス停で、言葉を交わさずに道を分けた。


その一年後、陽菜は事故でこの世を去った。
手も、言葉も、時間さえも届かず、何もできなかった。

長い長い初恋の結末。

それでも今、四十歳になった自分を見つめながら思う。
あの頃の自分の胸に生まれた恋心——
それは、今の家庭や日常とは別に、静かに心の奥底で流れ続けているのだと。
窓の外、冬の光が淡く差し込む。
その光の中で、陽菜の笑顔が一瞬、確かに蘇った気がした。

2.再会?

2.再会?

目が覚めた瞬間、浅井 涼一は立っていた。
しかし、そこは自宅の寝室ではなかった。

見慣れた、冬の朝の田舎のバス停。
空気は冷たく、乾いた風が頬をかすめる。
そして、目の前には——美都 陽菜がバスを待っていた。

その数歩後ろに立っている。
夢なのか——頭が混乱して、体が硬直する。

「……え、なんだこれ……」

足元の感触、制服の生地、整髪料も使わない長めに伸びた髪に触れる風。
すべてが、あのころの感覚。
四十歳としての記憶はそのままなのに、目の前の景色はあまりにも高校時代そのまま。

遠くからバスのエンジン音が近づく。
陽菜はそそくさとバスに乗り込んでいく。

その後を流れるように追って乗車する。
そして、ふとバスのガラス越しに映った自分の姿を見て、息が止まった。
制服に身を包んだ自分——高校生の浅井 涼一が、そこにいたのだ。

「……な、どうなってる……?」

わけがわからないまま、心臓の高鳴りと共に、涼一は通い慣れた学校への道を歩き出した。
目の前の世界は確かにあの頃のまま。
だが、意識の奥底には、四十歳としての自分がしっかり存在していた——。

——学校。
教室のざわめきに圧倒されながら、浅井涼一は机の前で立ち尽くしていた。
制服、そして周りの声——すべてが懐かしいはずなのに、どこか現実味がなかった。

「……いや、落ち着け。冷静に考えろ……」

頭の中は四十歳、身体は多分十六歳。
どこか現実感が薄い中、しかし考えははっきりしていた。

——話さなきゃ、陽菜の未来を変えるために。
そんな気持ちといったところであろう。

涼一は、席の間を通り、陽菜の前まで歩み寄る。

「あの……陽菜……さん? ちょっと、話があるんだけど……いいかな」
自分から話しかけたのは小学校以来だったか、名前の呼び方にぎこちなさを覚える。

ざわめきは小さく止まった。
友達の視線がちらりと向く。

心臓は特別高鳴っていない。
ただ、淡々と、やるべきこととして口を開いただけだ。

陽菜は少し眉をひそめ、警戒するように立ち上がる。
「え、なに……?」
でも、ほんの少しだけ動揺しているような、そんな表情が見えた。

涼一は小さく首を振って、廊下へと誘導する。
教室のざわめきが、扉一枚隔てただけで少し遠くなる。
踊り場で立ち止まった陽菜は、少し顔を背けて言った。

「……それで?」

声は短く、様子見の色が濃い。
涼一は一度、言葉を探してから口を開いた。

「陽菜……さん」

呼び方がぎこちない。
それだけで、彼女が少しだけ身構えるのが分かった。

「実は俺、その……中身が今の俺じゃないっていうか」

何を言っているんだ、と自分でも思う。
けれど止められない。

「二十年後くらいの俺に、なってしまってるっていうか……」

一拍。
二拍。

陽菜が、ゆっくりこちらに顔を向ける。

「……は?」

眉がわずかに寄る。
疑問符だけで出来た顔だった。

涼一は、逃げ道を探さずに続ける。

「つまり、その……
 中身が、四十歳のおっさんなんだ」

沈黙。

それから、陽菜は小さく笑った。
反射的に出たような、間を埋めるための笑い。

「……あ、そ、そうなんだ……」

声は軽い。
でも、一歩だけ距離が増える。

「ごめん」

言いながら、視線を逸らす。

「もう、行くね……」

「あ、ちょっと!」

思わず伸ばした声に、陽菜は振り返らない。

「授業始まるよ」

それだけ言って、教室の方へ戻っていく。

涼一は、その背中を見送ったまま立ち尽くす。

——だよな。

信じるとか、理解するとか、
そういう段階ですらない。

廊下の向こうで、また日常の音が戻ってくる。
それでも、何かが確実にズレた感覚だけが残っていた。

昼休み。
涼一は鞄の中を覗き、そっと閉めた。
——弁当、忘れてきてる。

正確には、忘れてきたのは「十六歳のほうの自分」なのだが。

財布を開く。
小銭が数枚と、折り目のついた千円札。

「……パンとコーヒーだな」

少ない小遣いだった過去の自分のためなのか、家庭内での節約思考がそうさせたのかは定かではない。
さっきの件もあって、教室に居座る気にはなれず、購買でパンと缶コーヒーを買うと、校舎裏のベンチに腰を下ろす。

誰もいない。
風だけが通り抜ける。

パンを半分ほど食べたところで、
ふと空を見上げた。

青空だった。
雲も少ない、どうでもいいくらい普通の昼。

その拍子に、思い出してしまう。

——葬式の日。

あの日も、天気は悪くなかった。

式場で、陽菜の母親が泣き崩れていた。
声というより、体全体で崩れるような泣き方だった。

知らせを聞いたのは東京の大学に進学した年の夏だった。

——陽菜が交通事故で亡くなった。

告別式のあと、家の前で立ち尽くしていた男。
陽菜の彼氏だと、後から聞いた。

玄関先で、周囲も気にせず号泣していた。
あのときの顔は、今でも妙に鮮明だ。

事故の詳細は、もっと後になってから知った。
原形をとどめていなかったこと。
家族には、できる限り整えた姿で対面させたこと。

知りたくなかった、というほどでもない。
ただ、知ってしまった、という感覚だった。

涼一はパンの袋を畳み、膝の上に置く。

——俺は、何をやっているんだ。

二十年も経って。
今さらこんな場所で、
こんな時間に、こんな記憶を引っ張り出している。

ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。

陽菜が、まだ生きている、この時間。

たぶん——

涼一は立ち上がり、
空になったパン袋をゴミ箱に捨てた。
午後の授業が、もうすぐ始まる。


——帰り道。

空気は澄んでいる。
夕方のバス通りは静かで、エンジン音だけが間延びして響いていた。

数歩前を歩く陽菜。
距離は、覚えがありすぎるほど、同じ。

——またか。

胸の奥が、じわじわと嫌な熱を持つ。
この距離。
声をかけない自分。
何もしないまま終わる流れ。

神社の前を通り過ぎようとしていたとき、
考える前に、体が動いていた。

涼一は走った。

「えっ——」

陽菜の前に回り込む形で、急停止する。
陽菜は驚いて足を止め、目を見開く。

「なに……?」

警戒と困惑が混じった声。

涼一は一度、息を吸って、吐く。
もう順序も前置きもどうでもよかった。

「朝の続きだけど」

一拍も置かずに言う。

「単刀直入に言うけど」
「高校卒業したあと、君は事故で死ぬ」

完全に空気が止まる。

「……はぁぁ?」

陽菜の声が一段低くなる。

「ちょっと待って。
なにそれ。普通に怖いんだけど」

一歩、後ずさる。

涼一はそれを追わない。
でも、視線だけは逸らさない。

「頭おかしいやつだと思ってもらってもいい」

早口になる。

「明日から無視してくれてもいいし、
クラスでネタにしてもいい」

陽菜の眉が、完全に寄る。

「でも——」

言葉が、少しだけ詰まる。

「このことは、忘れないでほしい」

声が落ちる。
拳が、知らないうちに握られていた。

「……頼むから」

最後は、ほとんど願いだった。

沈黙。

風が吹いて、神社の木が鳴る。

陽菜はしばらく黙ったまま、涼一を見る。
怖がっているのか。
引いているのか。
それでも、完全に切り捨てる目ではない。

「……浅井さ」

ゆっくり口を開く。

「それ、本気で言ってる?」

「一応、本気のつもり……なんだけどな」

状況を客観視した途端、急に恥ずかしさが込み上げて、言葉の調子が崩れる。

陽菜はため息をつく。

「……今日変だよ」

そう言いながら、手元の携帯電話をいじりつつ続ける。

「正直、まったく信じてないよ?」

「……それでいい」

少し間。

「でも……」

「そこまで必死な涼ちゃん、初めて見たかも」

緊張が少しほどけたように陽菜は笑った。
いや——この空気に耐えきれず彼女の方が折れたようにも見えなくない。

ただそれよりも、幼い頃呼ばれていた呼び方に、胸の奥がざわついた。
そんな感覚を覚える年じゃないはずなのに。

「……じゃあね」

陽菜はそう言って、横を通り過ぎる。

数歩進んで、立ち止まる。

「まぁ……」

小さく息を吐いて。

「未来から来たおじさんの予言?ってことで覚えとく」

それだけ残して、歩いていった。

涼一はその背中を見送りながら、しばらくその場に立っていた。

信じてもらえたわけじゃない。
何かが解決したわけでもない。

ただ、今日はよくしゃべったな、と思った。
陽菜と過ごした十数年を会話数で割ったら、たぶん五年分くらいは、今日まとめて喋ってしまった。

歩き出してから、少し遅れて気づく。
胸の奥が、わずかに軽い。

理由はわからないし、深く考える気力もない。
それでも、さっきよりは、足取りが重くなかった。

3.現実と幻想

目を開けたとき、天井は見慣れた色をしていた。

「自宅の天井だ」と一瞬でわかる、あの感じ。

浅井 涼一は、呼吸を整えながらしばらく動かなかった。
夢だったのか。
そう片づけるには、感触が生々しすぎる。

制服の重さも、冷えた空気も、陽菜との会話も。

キッチンから生活音がする。
家族の気配が、きちんとここにある。

涼一はゆっくり起き上がり、リビングに出た。
テーブルの上には、読みかけの新聞と、子どもの落書き。
昨日の続きの、何事もない日常。

それを確認してから、ようやく玄関に向かった。

郵便受けに、白い封筒が一通。

広告に紛れて、少しだけ主張している。
差出人を見て、同窓会の案内だと、すぐにわかった。

封筒は開けなかった。
急ぐ理由も、今すぐ知る必要もなかった。

ただ、玄関の棚に置く。

胸の奥に、わずかな違和感が残る。

陽菜が来るかどうか。
そんなことは、考えなかった。
考えないようにした、の方が近い。

涼一はリビングに戻り、ソファに腰を下ろす。
いつもの時間が、また動き出す。
それでも、どこかでなにかが引っかかっていた。

あの距離。
あの呼び方。
そして——今日は、よくしゃべったな、という感覚。

涼一は、何もなかったように立ち上がる。

現実は、ちゃんとここにある。
家族も、時間も、人生も。

それなのに——
どこかで、また続きを待っている自分がいることだけは、否定できなかった。

4.再び

4.再び

再び目が覚めて、最初に気づいたのは空気の匂いだった。
春よりも重く、夏ほど騒がしくない。
制服の袖はもう長く、吐く息は白くならない。

——時間が、進んでいる。
いや、過去であることは確かなのだが、陽菜と会話したあの日から季節がだいぶ過ぎているようだった。

校舎の裏から聞こえてくる乾いた音で、それを確信した。

テニスコート。

ラケットを握った瞬間、手が一拍遅れて動く。
振ろうとして、間に合わない。
身体がどうこうじゃない。
感覚が、まるで噛み合っていなかった。

「浅井、今の何だよ」

「フォーム忘れた?」

必死に合わせようとするほど、ズレる。
足は動くのに、判断が遅れる。
頭の中だけ、別の時間にいるみたいだった。

「……いや、きついな」

ぽろっと、言葉が漏れた。

「二十年ぶりか……さすがに感覚戻らん」

一瞬の静寂。

次の瞬間、爆発したみたいに笑いが起きる。

「は?」

「二十年?」

「お前いくつだよ!」

「引退したプロ気分か」

涼一は遅れて、ああしまったと思う。
けれど、今さら取り繕う気力もなくて、

「はは……まぁ、そんな感じだな」

自分でもよくわからないまま、笑って流した。

ラリーが再開される。
誰も気にしていない。
冗談として消費されて、終わるはずだった。

——はずなのに。

ふと、視線を感じた。

コート脇。

ボール拾いをしていた陽菜が、こちらを見ていた。

軽い表情じゃない。
驚きとも、警戒ともつかない、妙に静かな目。

視線が合った。

一拍。

涼一が何か言う前に、陽菜はすっと目を逸らす。
何事もなかったように、転がってきたボールを拾い上げる。

それだけ。

なのに、胸の奥に小さな引っかかりが残る。

——気づいたか。
——それとも、気のせいか。

陽菜は何も言わない。
近づいてもこない。

ボールがまた飛んでくる。

涼一は一歩遅れて、ラケットを振った。

——やっぱり、二十年のブランクはきついな。


部活が終わって、校門を出る。
夕方の空はもう冷えていて、昼間の名残だけが薄く残っていた。

数歩前を歩く陽菜。
距離は、相変わらずだ。

近すぎず、遠すぎず。
話しかけようと思えばできるけど、しなくても不自然じゃない距離。

同じバス停。
同じ時刻。
同じ帰り道。

——変わらない。

はずだった。

バスを降りる。
順番も、いつもとほとんど同じ。

陽菜が先。
少し遅れて、俺。

街灯がぽつぽつと灯り始めていて、昼と夜の境目みたいな空気だった。
神社へ続く道に入ると、人通りは一気に減る。

雪はない。
でも、あの夜を思い出させるくらい、静かだった。

陽菜が、ふっと歩く速度を落とす。

ほんの少し。
意識しなければ気づかない程度。

距離が、自然に縮まる。

「……ねえ」

前を向いたまま、陽菜が言う。

心臓が、わずかに跳ねる。

「今日さ」

間を置く。
探るみたいな、間。

「ひょっとして——」

そこで、ちらっとだけ振り返る。
目が合うほどじゃない、横目。

「おじさんの方?」

一瞬、意味を測りかねる。

冗談みたいな言い方。

涼一は、すぐに答えられなかった。

否定するのは簡単だった。
でも、そのどれもが、妙に嘘くさく感じてしまう。

「……なんで、そう思った」

問い返すと、陽菜は肩をすくめる。

「なんとなく」

あっさりした言い方。
けれど、足は止めない。

「今日のテニスとか」
「あと……雰囲気?」

今度はちゃんと、こちらを見る。

昼間コート脇で見せた、あの目。
驚きとも警戒ともつかない、静かな視線。

「なんか落ち着いてる感じ?」

涼一は、息を整える。

夜風が、制服の隙間を抜ける。

「……もしそうだったら?」

自分でも驚くくらい、落ち着いた声が出た。

陽菜は、少しだけ考える。

本当に、少しだけ。

それから、ふっと笑った。
「その返し、やっぱ、そうだ」

軽く。
でも、突き放す感じでもなく。
「いつもの浅井だったら、目も合わせてくれないはずだし」

まるであの頃の心を見透かされていたような言動に、ぎくりとする。

また前を向いて、歩き出す。
距離は、さっきより少しだけ近い。

追いかけたわけでも、
追いついたわけでもない。

ただ、同じ速度になった。

神社の鳥居を過ぎたあたりで、陽菜が足を止めた。

「ねえ」

今度は、ちゃんとこっちを見る。

「ひとつ聞いていい?」

「……?」

「なんでさ」

言葉を選ぶみたいに、少しだけ視線が泳ぐ。

「もし本当に“おじさんの浅井”だったとして」
「なんで、私なの?」

「え?」
胸の奥が、静かに締まる。

「あの時なんで真っ先に私に未来のこと教えてくれたのかなって」

「ほら、私なんかほっといて、もっと他にやろうと思うこといっぱいあると思うんだけど」

しばらく、言葉が出てこなかった。

確かに、その通りだった。

もし本当に、当時の自分と意識が入れ替わっているのだとしたら。
やれること、考えるられることは、他にいくらでも思いつく。

それなのに。
どうして、真っ先に浮かんだのが陽菜だったのか。

神社の境内を抜ける風の音を聞きながら、胸の奥でその問いを転がす。

——なんでだ。
そう自問しながらも、答えはなんとなく分かっていた。

「……多分」

涼一は視線を前に向けたまま、言う。

「初恋だったからだと思う」

陽菜が、ぴくりと動く気配がした。

「その人の未来をさ」
「なんとかできたらなって、ずっと思ってたのかもしれない」

声の調子は、驚くほど淡々としていた。
思いついたままを、そのまま口にしただけ、という感じで。

一拍。

二拍。

「……は?」

陽菜の声が、裏返る。

「ちょ、ちょっと待って」

足が止まる。

「今のって、いつの話?」
「初恋って、いつ?」
「……ていうか、それ私のこと?」

問いが一気に重なる。

「え、なに?」
「それって好き“だった”ってこと?」
「未来のおじさん視点?」

完全に処理が追いついていない顔だった。

涼一は、思わず小さく息を吐く。

「あー……」
涼一は困ったように頭をかく。

「いや……俺も、そこまで整理できてないけど、告白とかそういうんじゃなくて」
「気にしないでくれ」

「はぁ!?」


陽菜は言葉を失ったまま、数秒固まる。
「……気にするでしょ普通」

呟くように言って、視線を逸らす。
夕方の空気だけが、二人の間を流れ、しばらく沈黙が続いた。

そのまま、いつもの分かれ道。
お互い何も言わずに別々の方向へと別れた。
その先の会話がどの選択肢をとっても正しい答えにならない。
そう思ったのだ。

5.十八歳のある日

高校三年のある日の放課後。

”十八歳”の浅井は、体育館から校門へ向かう道を歩いていた。
特別なことは、何も考えていなかった。
ただ、いつも通りの部活終わりに部室へ戻る途中のこと。

植え込みの影で、足が止まる。

聞き覚えのある声。

陽菜だった。

隣クラスの男子と向き合って、困ったように笑っている。
距離はあったはずなのに、やけに近く見えた。

声は、出なかった。
出そうとも、思わなかった。

そのまま、視線を切る。
見なかったことにして、歩き出す。

⸻その日の帰り道。
あのバス停。
神社の前の道。

前を歩く陽菜は、何も言わない。
浅井も、何も言わない。

沈黙のまま、少し歩いたところで、
陽菜が足を緩める。

「ねえ」

声だけが、近づく。

「もしさ」
「私が誰かと付き合うってなったら、どう思う?」

陽菜は振り返らず問う。

さっき見た光景が、頭の奥に残っている。
答えを探そうとして、やめた。

「……いんじゃない?」

声は、自分のものじゃないみたいだった。

「なんで?」

理由なんて、なかった。
あっても、言葉にならなかった。

前を見る。

一拍。

「……やっぱ、過去形か」

小さく、独り言みたいに。

「……え?」
その言葉の意味はこの浅井にはわからない。

「ごめんね、変なこと聞いて」

陽菜はそれ以上何も言わず、また歩き出す。

少しだけ、また距離が開く。


⸻翌日。
教室のざわめきの中。

「ねえ、聞いた?」
「陽菜、大岩くんと付き合ったんだって」

言葉が、耳に残る。

ノートに視線を落とす。
文字は、頭に入らない。

何も失っていないはずなのに、
胸の奥だけが、少しだけ空いた。

6.最後の日

6.最後の日

最後に意識が切り替わったのは、
高校最後のあの日だった。

校内は卒業式特有のざわめきに包まれていた。
写真を撮る声、笑い声、名前を呼び合う声。
どれも懐かしくて、どれも変わっていない。

人の流れの向こうに、陽菜がいた。

隣には、別クラスのなんとなく見覚えがある爽やかな男子。
肩が近くて、距離が近くて、
自然に笑い合っている。
少しだけ、陽菜と目線が合う。
けれど、すぐにその目線は逸らされた。

——ああ。

胸の奥で、答え合わせが終わる。

わかっていた。
知っていた。
それでも、何度見ても少しだけ息が詰まる。

何も変わっていない光景。

高校三年の最後の日。
陽菜には、ちゃんと隣に立つ誰かがいる。
そして自分は、離れた場所からそれを見る側。

——なんで、またここに来たんだ。

答えは出ないまま、時間だけが進む。

部活仲間と、
クラスの友達と、
知っている顔、知っている別れの言葉を交わす。

「またな」
「元気でな」

全部、前にも言った気がする。

夕方。
いつものバス停。
いつもの帰り道。
またあの時のように雪が降ってきた。

陽菜は、数歩前を歩いている。
距離も、角度も、記憶とまったく同じ。

何も変わらない最後の帰り道。

胸の奥に残っていた“役目”みたいなものを思い出す。

——もう一度だけ。

声をかけようと、息を吸った、その瞬間。

陽菜が、ふいに立ち止まって振り返った。

「やっと来たか、おじさん」

驚くほど、あっさりした声だった。
どうやら気が付かれていたらしい。

浅井は一瞬目を見開いてから、苦笑する。

「……お待たせしました」

陽菜は肩をすくめる。

「なんとなく、今日はそんな気してた」

雪が、二人の間に落ちる。

余計な説明はしない。

「じゃあ」

一拍置いて、

「忘れるなよ。あのこと」

主語も言わない。

「あー……」
陽菜は、少しだけ目を細めてから言った。

「うん、ぜんぜん信じてないけどね」

それから、ふっと笑う。

「涼ちゃんはさ……」
少しだけ間を挟んで続ける。

「さっさと私のこと忘れちゃいなよ」

その言葉に、胸の奥が軽く叩かれる。

浅井は一瞬固まってから、思わず笑った。

「……なんだよ、それ」

「ふふふ」

二人は、少しだけ見つめ合う。

雪。
街灯。
白い息。

「じゃあ」
「また」
それは、二十年後を指した願いだったかもしれない。

そのまま、陽菜は角を曲がる。
俺は、その反対の道を行く。

振り返らない。
追いかけない。

ただ、帰る場所が違った。

けれど——
あの時とは、ほんの少し違う結末。

彼女はきっと、忘れない。
そして俺も、振り返らない。

雪を踏む音が、静かに遠ざかる。

エピローグ

エピローグ

田舎のバスは、本数が少なかった。

駅前から少し離れた停留所。
色あせた標識と、見覚えのある舗道。
同窓会の集合時間には、まだ余裕がある。

涼一は、ベンチに腰を下ろしたまま、空を見上げていた。
雪は降っていない。
それでも、空気だけが、あの頃とよく似ている。

ふと真横で、足音が止まる。

声がした。

「まだまだバス来ませんよ」
「……おじさん」

一拍。

涼一は、視線を足元に落とす。
心臓が一瞬弾んだ。
少しだけ口元を緩めて、息を吐く。

「そっちだって、もうおばさんだろ」

笑い混じりに、そう返す。

返事はない。
けれど、それで十分だった。

これは恋の物語ではない。
運命の話しでもない。

「ほんの少しの心残りが、少しだけ形を変えただけ」
ただ、それだけの話しだ。

終り

記憶の中の名づけられなかった感情

記憶の中の名づけられなかった感情

40歳になった浅井涼一は、ある日突然、高校時代の自分に戻る。 意識だけが現在のまま、身体は過去にある。 そこには、幼馴染の美都陽菜がいた。 かつて好きだったかもしれない人。 けれど、言葉にしないまま、時間だけが過ぎていった相手。 未来を変えようとしたわけではない。 何かを救おうとしたわけでもない。 ただ、言えなかったこと。 名前を与えられなかった感情。 それらが、もう一度だけ、彼を過去へ引き戻した。 交わらないまま、少しだけ近づき、 そして再び離れていく二人。 これは恋の物語ではない。 運命の話でもない。 ほんの少しの心残りが、 違う形でほどけていった、ただそれだけの話。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-01-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ
  2. 1.思い出
  3. 2.再会?
  4. 3.現実と幻想
  5. 4.再び
  6. 5.十八歳のある日
  7. 6.最後の日
  8. エピローグ