子どものために
TVドアフォンのモニターに、中年の夫婦が映っている。
チャイムが鳴り、すでに20秒ほど経っているが、ぼくは応答するのをためらっている。ぴーんぽーん。もう一度、チャイムが鳴る。心なしか、その音にも苛立ちが含んでいるように思う。
「……どちら様ですか?」
なるべく落ち着いた声で、ぼくは言う。だが、自らの声に抗うように、鼓動はとくとくと不穏な音を立てている。
「どちら様、ではないですよ。わかるでしょ、そんなもん」
質問にすぐ答えないタイプの人間、とぼくは思う。何事にもすぐ分類わけしたがる人間を、ぼくは嫌っているのに。
「……キョウヤくんの、ご両親ですか?」
キョウヤくんとこの家で話をしたのは、二週間前になる。ちょうど、ぼくが自宅でカウンセリングのようなことを始めて、一年が経ったときだった。自宅でこんなことするもんじゃない、といまさらながら思った。
「そうだ。……もう、要件はわかるな?」
外は、霧のような雨が降っている。二人とも、傘をさしていない。
「……ひとまず、なかにどうぞ」
言いたくもないことを、ぼくは言ってしまう。したくもないことを、ぼくはしてしまう。誰かに流されて。流されることは、楽だし、気持ちいいから。
「……いや、ここでいい。すぐに終わるから」
さっきから、父親しか話していない。母親もモニターに映っているが、せわしなく身体を動かし、ときどき見切れている。夫婦の関係性を想像しようとし、うんざりしてやめた。
「聞いてるか」
「……はい」
「その、返事を一拍遅らせるの、やめてくれ」
「……すいません」
「……まあいい。あのな、キョウヤに、変な気を起こさせないでくれ。おれが言いたいのは、それだけだ」
キョウヤくんは、野球の練習に行きたくない、と相談を受けた。ぼくはそもそも、カウンセリングの資格をもっていない。しがない理学療法士だ。以前担当した患者に「あなたに話をすると、すごく落ち着くわ。カウンセリングでもしてみたら」と言われ、仕事の休日を使って興味本位で始めた。もちろん、お金もとっていない。キョウヤくんがどうしてこのカウンセリング(のようなもの)を知って家に来たのかは、わからない。
「練習に行きたくないって親に伝えるもの練習だなんて、ばかげたことを言うな。ほんとうに行かなくなってしまったではないか」
何も言えない。モニター越しだから、相手からはぼくの表情もわからない。
「……あのな。おれは、いや、親ってのはな、子どものためを思って、野球に行かせてるんだ。もちろん、子どもの気持ちを優先してな。でもな、そりゃあたまには練習をさぼりたい日だってある。そうだろ? それを、すぐに『行かない』って選択をしてしまうのは……。あんたによって子どもがそう選択してしまった責任は、どうとってくれる」
ぼくの頭はぼんやりとしていた。言っていることは理解できる。だが、相手の言葉のなかで、「子どものために」が不快に脳にこびりつき、思考することを拒ませている。
「……あんたは勘違いしてる。徹底的に、圧倒的に、勘違いしてる。あんたは、何を言う資格もない。これは、親と子の問題なんだ。部外者が──」
「もうやめてよ!」
キョウヤくんの声。ぼくは驚く。どこにいたのか。モニターの死角になっていたのか。
「もう……やめてよ。よくわかんないよ。わかんないけど、なんか変だよ」
地面を擦る音が、微かに聞こえる。キョウヤくんが、右足で擦る音。見えなくてもわかる。ぼくと一緒に話していたとき、ソファに座りながらずっとそうしていたから。
「ぼくは、自分で決めたんだ。練習に行かないって。もちろん、ぼくはこの人に相談したし、その影響はきっと受けてる。でも、自分で決めたんだ。自分のために、決めたんだ。……お父さんこそ、勘違いしてる。『子どものために』って、ほんとうに、ぼくのためなの? それなら、なんで、練習に行かないことが悪いことだって、言い切れるの?」
「悪いとは言っていない」
「同じことだよ! ……もう嫌だよ。お父さんは『子どものために』って言葉を使って、自分を守りたいだけなんだ。お母さんだって──」
「キョウヤ!」
両親の声が重なる。いま初めて母親の声を聞いたと、ぼんやり思った。そして、ぼくはキョウヤくんに自分の名も名乗っていなかったことに、そのとき気づいた。
*
TVドアフォンのモニターに、一人の少年が映っている。
ぼくは大きくため息をつき、応答する。
「また、来たのかい?」
少年は歯茎を見せつけるようにして、笑っている。
子どものために