真紅の禁戒 第1部
…人魚のお姫さまは、テントのむらさき色のたれまくを引きあけました。中では、美しい花嫁が、王子の胸に頭をもたせてねむっています。お姫さまは身をかがめて、王子の美しいひたいにキスをしました。空を見れば、夜あけの空が赤くそまって、だんだん明るくなってきました。お姫さまは、するどいナイフをじっと見つめました。それから、また目を王子にむけました。王子は夢のなかで、花嫁の名前を呼びました。ほかのことは、すっかり忘れて、王子の心は、ただただ花嫁のことでいっぱいだったのです。人魚のお姫さまの手の中で、ナイフがふるえました。
しかし、その瞬間、お姫さまは、それを遠くの波間に投げすてました。すると、ナイフの落ちたところが、まっかに光って、まるで血のしたたりが、水の中からふき出たように見えました。お姫さまは、なかばかすんできた目を開いて、もう一度王子を見つめました。と、船から身をおどらせて、海の中へ飛びこみました。自分のからだがとけて、あわになっていくのがわかりました。
──アンデルセン『人魚姫』の、以降を打ち切られたラスト
Ⅰ 薔薇貞節守護宣言
恋愛、禁止。
わが戒律。うら若き”我”と久遠と匿名に林立する”わたし”とを縛る、肉体と魂との不可視の契り。かの聖なるものにさずけられた至高のくるしみ。使命への一途なる貞節。いわく、わが意志による孤独の守護への同意。復唱しよう。恋愛、禁止。
わたしは祈ってもいるのだった、いつやそれ、淋しさと愛への渇望に磨きぬかれて、果ては睡る水晶どうように純化されんことを。さればそれ、わたしは微笑でもって、他者へあけわたすのみなのである、恰もこどもが綺麗な石を、愛するひとのてのひらへ、そっと手渡すようなきがるさで。
そう。わたしは、アイドル。ファンなるひとびとへの、奉仕の美である。
天上の音階を駆け昇る高貴なる妖婦にして、俗なる海の底に身をうずくまらせる聖女なる職業。わたし、この俗のきわみにのみ宿りえる聖性を、こころから愛している。他者をよろこばせ、娯しませたいという心の根本来の一途にして素朴な感情の迸りに従うこと、みずからをその”商品性”に徹しさせるひたむきな努力こそが、わたしの使命の第一条件なのである。
アイドルとは、仮面としてのガーリーなコスチュームに純粋へ剥がれて往こうとする魂を蔽い、ファンにすらそれを売淫することを拒む、あまりにもピュアにしてコケティッシュな、瑕だらけの生のうごきをいう言葉だ。
*
齢、二十二。扨て、どこから語りはじめよう。
わがidolとの邂逅──それから、語りはじめようか。
少女時代──いまでもそうであるけれど、わたしには一日一日が、ただ生存にせいいっぱいであった、当時、なにがわたしにそうさせているかすら解らず、おそらくや、この世界の空気のようなものがわたしの躰には合っていないのではないかという自己憐憫めいた訝りが、「この推測は果して真であるか偽であるか、この苦しみは善か悪か、この感情は美であるか醜か」、そう、絶え間なくわたしに問いかけていたのだった。
正しく、美しい、善い世界。
誤っている、醜い、悪いわたし。
色彩の異なり、罅割れ浮きあがり乖離してゆく、わたしに対立する世界と、疎外者としてのわたし。世界より迫る”リフジン”という名の敵との、死への渇望必至の闘い。そんな二元的な世界観を現実に適応する為にもったのが、少女時代のわたし。いまにもわが身を呑みこもうとする死の誘惑からひっしで躰をひきはなすうごきに、わたしは疲れ果てていたのだった。
病んでいる。そう想ってもらって、かまわない。わたしはわが病状の報告を、いまここでつまびらかにする意思はない。わが病の報告をするのならば──シモーヌ・ヴェイユの真白と、シャルル・ボオドレールの漆黒を偏愛しており、その色彩は、自己無化という意味において互いが上と下という矛盾をもちながらも、色彩学の通例どおりにおなじものだと想っている。”青”へ往かんとし、”真紅”を吐きだしたいという妄念に苛まれ、”黒”の病める少女衣装に身を包み、そして、”ましろ”の美をなによりも怖れる。それで、いったん説明を終えよう。
高校生になるまで友達なんていなかった、ダンゴムシ、それくらいだった。かれ等、よわくて惨めったらしく、リフジンに押しつぶされる弱者さながらに住処は石の下、些細なことでうずくまるように丸まって、やはり、わたしのファンの男のひとに似ている。握手会で、ほんのすこし怒ったふりをしたらあたふたして平謝りする、わがいとおしきファンたち。愛らしい、そうも想うのだ。けれどもわたし、こういう男を恋愛対象にはみられない。優しくても、勿論よわさをもっていてもいいけれど、背をおおいかぶさるような巨きな愛と信頼に身をゆだね、心と心に結われてみたい。
そんな少女であったわたし、テレビを見ていて、ひとりの女性アイドルが目にはいる。ヘアスタイルは当時に限ってはアイドルらしくしていたものの、その吐き捨てるような口調、まるでアイドルとは想えないようなぼそぼそと籠った低音の、まったく媚を偽装る気の伝わらない、しかし、暗みの籠る色香が鋭く迸るようなそれであった。まるで暴力の兆、銀の音立て硬くかたく薫るよう。
「清楚な女子は染まってない? 莫迦じゃないですか、そんなの男性の願望の投影ですよ。わたしの考えでは、清楚っていうのは、無疵のものにいう言葉ではないですよ」
その言葉に、透明に焦がれ、だんだん汚れて往くみずからを責めていたわたし、息をのんだ。
そのアイドル、その荒んだ言葉に反し、淋しいほどに透徹した眸をして、こういったのだった。
「清楚とは、瑕を負いつづけて、磨き剥いてゆくものです。不純を引き離し、削ぎ落して立ち現れるもの、それが純粋です」
水樹晶。
“プラトニック・スキャンダル”という、元々地下で活動していた女性アイドルグループの、人気最高メンバーにしてイメージ最低──褒めている──の問題児。
どこか暗みが輝いていたような二〇一〇年代後半を、まるでアイコンとして象徴されるようなアイドルの一人。不器用、失言多し、態度悪し、社会不適合者、生きる力がよわそう、あふれでる教室の外れ者感、アングラでしか生きられない異端者がまちがえて表で光を浴びてしまい、きっと睨みつけるも滲み出る人見知りオーラ、それが後光と射すような凄まじい場違い感、その割に我がつよく、空気は読めるのか読めないのか、思い遣りはあるのかないのか判断不能──この辺り、ファンは買いかぶりすぎであるかもしれない──、発言は基本的にマイノリティな価値観による攻撃的なそれ、きらわれることを恐れない衒学性、根は優しくて繊細だけれど誤解されやすい──これは主にファンがいう──、そんなイメージで売っていた彼女、いつの時代も一定数存在する、生きづらさを抱えた病める少年少女たちに、カリスマ的人気を誇ったメジャーアイドルであった。国民的アイドルであったか否か。支持率・好感度という尺度をもってすればおそらくそうとはいえないであろうが、しかし、露出の頻度やカリスマとしての周囲の持ち上げ方は、はやファンのわたしからみても過剰といえるほどであったかもしれない。
「あれはセックス・ピストルズのシド・ヴィシャスの人気に似ているんですよ」
とあるアイドル評論家が、そう書いているのを読んだ。
「自分自身でしかいられない、いわば、パーソナリティをつくれない。社会的な人格を構築できないんです。そうじゃないかもしれないけれど──シドもそうじゃなかったしね──すくなくとも、そういうブランドイメージをもっている。歌もダンスも下手でしょう、ただ、正直なパフォーマンスをするでしょう。あのひとはあのひとでありつづけることで商品価値が宿って、一種のイタいとみなされるひとたちに勇気を与えるんです。まあ、パンクではあると思いますよ。引退したらパンクバンドを結成して、作曲も楽器もできない下手くそボーカルで食っていけるんじゃないですか」
引退したら──わたしはこの言葉のつづきを、はや、読むことができない。
当時のプロフィール。まだ、グループにいた頃のもの──彼女、メジャーデビューして一年で脱退したのだ。
名前:水樹晶
身長:162センチ
好きなアーティスト:JSバッハ、ワーグナー、フォーレ、シド・バレット(かれがいた時のピンクフロイド)、ニルヴァーナ、ブラック・フラッグ、Pファンク、灰野敬二、ヤニス・クセナキス、ジョン・ケージ、ジャニス・ジョプリン、ビル・エヴァンス、キース・ジャレット、Ms.Machine
尊敬する人物:いない
仲のいいメンバー:いない
好きなファッションスタイル:皮膚の外側に興味ない
将来の夢:ない 生き抜けたらいいな
五年後のあなたはなにしてる?: アイドルはやってない
ファンに一言:応援してくれてありがとう 表以外で関わらないで
学校に一人はいそうな、ぽつんと机に座り、ヘッドフォンをつけ周囲を拒絶した印象の、教室に馴染めない、しかし内に淋しさと過剰な自意識を抱えた少女が、その熱情を劣等感と炎と膨れる自意識込みで迸らせたような、そんなキャラクター。思春期の自尊心、劣等感、淋しさ、怖れ、そんなものが複雑に混合し、罅割れ揺れる玻璃青花のように不安定な印象の、きんと蠱惑めくあやうさを帯び、けだし此方へ刃先を向ける、銀の硬質な香気を散らす言葉たち。それが至極クールにみえたのは、彼女が、美しかったからだろうか──しかしファン以外からは、しばしばルックスを非難されていた、たしかに芸能界のなかでは、とりわけ綺麗な顔立ちをしているわけではなかった。
否。否。否。ルックスなんかじゃない、水樹晶は、ステージの上で、どこまでも格好よかったのだ。primitiveな、いわく人性の根源よりわき昇る幼稚な衝動──「インチキに埋れて生き損なってんじゃねえよ!」とでもいいたげな、破壊的で率直なパフォーマンス、たしかにアイドルというより、パンクロッカーみたいだった。しかしその売り方、大人のプロデュースによるものであり、彼女はそれを拒絶し、ソロアイドルになったというのが定説である。
「けっきょく、わたしはソロになっても、アイドルにしかなれませんでした」
この”アイドル”という職業への侮蔑を連想させる発言は、当時インターネットで話題、そして問題視された。
そう。彼女はアイドル、大人たちにしっかり商品として加工され、メディアにいいようにわるいように印象操作され、水樹は、そのイメージと自意識との──そしておそらくや、”彼女固有の理想”との──乖離にくるしんで、たびたびインタビューで死にたい気持を暗示するようになり、さすれば”メンヘラ”、”構ってちゃん”だと揶揄され、そうして、あたかも律義に約束を果たすように、丁寧に死の縁へ寝返りを打ち、死の欲望にいっせいにたたみこまれるように舞い墜ちて、投身自殺を果たした。
*
ブログタイトル:ご報告
遺書
わたし、不良なんかじゃありません。
スクールカースト底辺の、英雄なんかじゃありません。
インチキを告発するホールデン少年さながらの、ナードなロックスターでもありません。
ただ、幾ら工夫し無理に装っても社会にぜったい馴染めない、純粋な愛と正直なやさしさに憧れる、ひとりの、病的に内気で臆病なエゴイストでしかないのです。嘘をつきたくない、正直に生きたい、(優しくなりたい)、これはほんとうだけれども、わたしがそれを歌うたび、ファンはわたしの闇と怒りだけをみて高揚喝采し、それ以外のひとびと、それこそがインチキだと罵るときがある、たしかにいい齢をしたわたしのそれには幼児めいた不気味さが籠るのは自覚しているけれども、わたしには、その自他より為される批判に耐えうる、靭い神経がないのです。
生きているだけで、神経が痛い。
いうなれば、自殺の理由はまさにそれ。痛くて、いたくて、耐えられないので、死ぬことにします。逃げ。弱さ。甘え。どうか、それ等だけでわたしの死を片づけてください。どうぞ、全的に軽蔑してください。それだけが、わたしからのお願いです。
わたし、シモーヌ・ヴェイユみたいに、勁く、優しく、かよわく、美しく、さながら、紗の砂はらはらと零れるがように、しんとしずかなましろの寝台に横臥わるがように、死にたかったな。美と善の落す翳の重なる領域に、うっすらと月光を浴びて、かのひとの捧げ花のような骸、幾らかのそれを星のようにほの青く反映さえして、屹度横臥してあったのありましょう。剥ぎ落されたましろい光。まっさらに剥かれた音楽。そが闇へ閉ざされんとするまっくらな死は、はや、めざめの黎明をさながら月影から真の月が昇るがように、上澄とし浮ばせたようであったことでしょう。…
お父さん。
お母さん。
そして、弟よ。
けっして、断じてあなたたちにわたしの死の責任があると想わないでください。ひとの人格をかたちづくるのは産まれもっての気質と環境との相互関係に宿る相性にもあるとわたしはかんがえている、意思によるものは自我のうごきであると想うけれどもそれの存在の有無・全貌のうごきいわくわたしには不可解、たといわたし自身にだって、わが身がここまで苦しむわけを明瞭に識ることはできないのです。唯、ひとには各々の不可視の苦痛があり、それは他者にはけっして理解できず癒すことすら不可能であり、わたしに生れついたわたし固有のそれは、すべて抱え込むにはまるでわたしに向いていなかった、そういうことではないかしら。信じて。わたしは、あなたたちに、せいいっぱい愛されていました。愛されていました。こんなにも愛されても死をえらぶ内気な性格に閉ざされたわたしはもしや、受けた愛を自覚するシステムをフィジカルにもたないのかもしれません。
さようなら。
わたし、アイドルですらなかったようでありました。
傀儡としてわたしの翳を売淫しただけの、人間になるまえの何か、よく解らない、肉と観念の混合と乖離の、肉塊の付着した一つの神経であったようでありました。
──水樹晶公式ブログ、最終更新日の日記全文
*
もっとも彼女の遺志を裏切った者等、それはファンなのであった。
ファンはこの自死を、嘗ての夭折したロックスターのそれ等と重ね合わせ、どこまでも、どこまでも純粋な生と死であったと祀り上げたのだった。死後につくられたファンサイトは、「宗教のにおいしかしない」「ファンの書き込みが病んでいる」からとして、一部では「閲覧注意」とされている。
一度だけ読んだことがあるのだけれど、ファンの男性たちの、まるで死美人の裸体を淫らなる意欲で舐めまわすような視線で「美少女アイドル・水樹晶の悲愴な死」という美麗にすぎるまでに装飾し塗りたくられた観念を眺めまわし弄るその眼差は、おなじファンであるわたしをして、劇しい嫌悪の感情へと駆らしめた。
もしほんとうに水樹を愛するのなら、その生き方を信じるのなら──現実を、塗るな。その本性まで、いたみながら、剥け。
「純粋さとは、穢れをじっとみつめうる力である」
かのシモーヌ・ヴェイユのあらわした、世にも美しく硬質で強靭、それの促す生のうごきにおいて脆くも柔らかい領域をむきだしにするような箴言を大切にしていたのは、水樹晶、嗚そのひとであったのに。
*
わたしは水樹に、”晶ちゃん”に、誤解によって命を救われていたのだった、「病んでるひとの味方をする病んでるひと」という評価をしばしば受けていた彼女が与えたイメージ、いわく、「社会不適合者でも、死にたい気持をもっていても、そのひとらしく頑張っていたらかっこいい! 訳アリ人間の必死で生きる姿って可憐じゃん! 病んでるのって個性じゃん! わたしの生きたい生き方を生きていい、わたしの闘いたい闘いを闘っていい、わたしの愛するうごきでわたしの愛したいものためにうごいていいんだ!」という印象に、自殺を延期されてもらっていたのだった。励まされていたのだった。水樹のおかげ、水樹のおかげでわたしは生き抜き、シモーヌを知って、虚無を起点と踏み虚ろに赫う城へ腕ふり立ちあがる勇気、わたしの”わたし”を生きようと走る或いは佇む勇気がえられ、そうして、くるしみたい苦しみをくるしめる歓び、まるでわが肌と神経でいたみを伴い知ったのだった。
然し、水樹の自殺を知って数日後の話、死んだように睡り学校をさぼっていた十七歳のわたしは、真夜中、あたかもなにかに操作されたように脚をうごかし、無思考のまま、部屋のベランダからわが身を突き落としていた。その後しばらく記憶はない、気づいたらベッド、しばらく経てば精神病院の閉鎖病棟。そして、まるで故郷を喪った憐れなるエルフといっても信じてしまうような、浮世ばなれしてふしぎな淋しさをただよわせた患者たちや、やたらとひとあたりの柔らかい医師と話す日々を経て、二つの診断名がついた。わたしはこれ等の精神医学用語を、けっして、文学の主題にしない。人間を洞察するうえでの素材としない。そのひとを見よ。そのひとを大切にしたいのならば、そのひとに出逢う迄、なにひとつ決めつけるなかれ。わたしよ、佇め。俟て。
三か月後、退院。
わたしは高校を辞め、十八と偽ってコンセプトカフェで働き貧しかった家に金をいれながら、亦アイドルオーディションへの交通費などを調達できなかった為に、十八になれば短期で身売に自己を投じたりしながら(誰にもいわなかった)、地下アイドルの面接を受けつづけた。
「アイドルなんてさ、」
と、当時の友人がいったことをおぼえている。
彼女、わたしが辞めた高校の同級生で、社会で活躍する向上心をもちだしていて、だんだん、わたしとは話が合わなくなってきていたのだった。何故って自殺未遂以来、わたしははや、下降したいとしか欲求しなかったから。ある種の、退行への欲求。堕落だ、堕落。重力に従い墜落して往きながら、理不尽に背を圧しつけられて、そのなかで、魂の鎌首をぐいともちあげ、まるで翔べない翼はためかせて天へと昇る筋力を鍛えあげる、そして、全我の重量を掛け蒼穹見据え、どうにか、美と善の落す翳の重なる処、あかるめようとしていたのだから。嗚、水樹晶。かのひとのように。
わたしは、水樹のうごきを、模倣しようとしていた。
「商品じゃん。大人にいいように利用されていうこと聞いて、男ウケのいい嘘のパッケージ貼られて、若さと性を売るだけでしょ。商品になりたいの? 若さと性的魅力を消費されたいの? わたしは価値あるものを作り出す側になりたいけどね」
「商品?」
わたしはふだん大人しい、気弱だ、しかし、激情を抱え込んだ、いわゆる、情緒の安定しない人間である。ある起爆剤を踏まれれば、たたみこむように不可解な反駁を打つ攻撃的な臆病者だ。
十八歳。武装様式は”地雷系”、いつや爆発いたします。
「わたしは、商品でいい。純粋な商品性に徹したい。ひとを喜ばせたい、娯しませたい、これは、人性より迸る素直な気持になりえるの。おぼえてる? わたしたちの愛情のはじまりは、だいすきなひと──それは多くの場合親であるけれど──喜ばせて、喜んでいる顔がみたいという、一途なそれではなかったかしら? わたしは、感情と行為、現象をすべて優しい光で一途に透したい、それは不可能であるけれど、それがわたしのめざす生き方なの。そのためにうごくこと、うごきつづけること、それをしつづけることだけがわたしを自殺からひきはなし、その躰こそがわたしは人生に負けていないのだという証明になるの。
わたしはほかのひとびとと同様に、たくさんの悪を享けた、暴力を受けた、理不尽なそれだった、わたしが一途な優しさを行使できなくなったのが、わたしは不幸であるという証拠なのかもしれない。悪を受ける。だからこそそれを他者へ投げつけたいという欲望をもった、けれどもそれでは悪は連鎖する。連鎖するでしょう? 悪を享けて、理不尽な暴力を受けて、そのうごきによって水晶を瑕に磨いて、引き離して、純粋さって闘いだ、無疵のそれなんかじゃない、その光の水晶を他者へ一途なる音楽に徹して明けわたし、さっとこの世から消えること。それが、わたしの夢なんです。不可能と知るから、わたしはこれをするんです。商品、上等です。使ってください、どうぞ、わたしを使用してください。魂だけはけっして売らないけれど、肉に属すものであればなんだって売りましょう。そんな、気持です」
彼女はこちらを見もせずにストローをくわえたまま静止し、「ふーん」とだけいうと、
「うん、それがナオちゃんの夢なんだね。全然否定する気ないよ。いろんな生き方あるよね。多様性の時代だもん。でも自分のこと不幸って喚くのはみっともないよ、与えられたもので幸福なんだって自覚して、その配られたカードで、せいぜい芸能界で成功できるよう頑張んなさいね。まあ、わたしは河原乞食なんて御免だけど」
わたしたちは、亦と会わなかった。
*
十八歳と七か月、漸く、地下アイドルグループの面接の選考を通った。ここまで掛かった理由の推測であるが、どうやらわたし、ある程度の猫かぶりくらいはできるけれど──それ、後ろめたくもあるけれど──容姿の魅力に、乏しいらしい。構わない。アイプチ。やや濃いめのノーズシャドウ。とるにたらない。わたしは、憧憬のうごきを身振と模していたいだけ。神殿は蒼穹であり、あるいは現実の理不尽という冷然非情の風景。理想と現実──それはあたかも、双頭の女神ともいえるだろう。教会は、書物と水樹晶グッズに溢れたわが部屋のオタク領域──死者の記憶の一群が刻まれている、厳粛なめざめる墓場。
レッスン。ほどほどの、厳しさ。会社に従属させようとする意思は伝わるが、運動のレベルとして大したことはない。従順な練習生として育て上げようとする一方で、幾分ぎこちのない、一種愛らしいうごきでデビューさせようとする事務所の意図を感じる。ここに拘りはない。どちらでも、構わない──いや、わたしは運動神経がわるいから、助かったのかもしれない。
そのデビューを目指すグループのコンセプトは「アッパー&ダウナー→クラッシュ」、曲調はハードコア・パンクとグランジ・ロック、サイケデリック・ミュージックのミックスを基調とし、しかしメロディはポップでメロディアスなそれを志向、衣装のデザインに少女らしさはみいだされるものの、破けていたりどぎついペイズリー柄だったりしていて、いわく”病みカワ”以外は部屋着の学校ジャージしか所有しないわたしには、よくわからない感じである。しかしこのコンセプト、もしやわたしに、世にも調和するそれであるかもしれない。
そう。年齢のそれでなく”概念”の意味における”少女”、わたしいわく”概念-少女”とは、劇しく炎ゆる激情と蒼ざめた憂鬱を抱えこみ、その混濁の挙句、何らかのものを閃光と貫き破壊せんとする危険な存在。して、パブロ・ピカソがそういったように、産まれもっての芸術家である筈だ。裏切らない。わたしの心から墜ちた領域にあるわたしの根、心に睡る水晶の領域、いわく、”わたし”をけっして裏切らない。その貞節をさえ守護すれば、わたしたちはみな芸術家であり、その決意とうごきとを殺さないかぎり、少女は”少女”として、勁く勁くなりえるのである。果てに素直な心情に従って、澄む光のいきれを毀せるようになるならば、はや、詩人的といってもいいかもしれない。
ところで、”少女”なる言葉を解体し、幻想・理想をモデルに縫い合わせ再構築して、さればそれ、虚数として追究してみよう。何故虚数と云えるかというに、それは実在しない概念であるが確かに宿ると信じられるにあたいすると判断されることにくわえて、聖性という、赫う城へ到達するという不可能への推論を投げるために目的のための道具として必要とする、天上に浮ぶ金属質の豊穣かな砂漠ともいうべく概念であるから。そして、虚数は実在しない。しかし、在る。不在として、たしかに、在る。それはふしぎに、”愛”という概念の存在性と一致するように推測される。
扨て、”少女”という身体的状態・心理的状態を成立するためには前提として、高貴性というものを必要とする。異論に関心はない。しかしその高貴性というのは身分や社会的価値等外部から与えられたそれでなく、ただ産れもったそれを守り抜こうと、心身ともにズタズタになっている状態をいう。純粋さを守護し、汚れつづけるそれを瑕に磨いていく狂おしい勇敢なうごきをしつづけられている、これが、概念的な意味における”少女”の条件である。”少女”の魂から高貴が香気と昇るという性質は、もしそのひとが”少女”であるならば、屹度本能的に識っているであろう。湧きあがる無辜ともみまがわれる激情は、他者の善性を信じ抜きたいという甘ったれたそれであり、ごくごく自然に、愛という不可解きわまる狂気的な名辞に美しい夢をもつ。恋愛と愛を区別することを全身全霊で拒み、愛を実現し立証する恋愛の他いっさいのそれを恋愛だと認めず、その余りを嫌悪、のみならず唾棄さえする──ここに、”少女”特有の冷酷性・残酷性がみいだしえる。「ほんとうに大切なことは目にみえない」、当然きわまるものとして、”少女性”はこの意味をすっと心の根から理解する。
primitiveにしてfictionnal──わたしたちは、そうでありたいのです。其処まで底まで根まで墜落、”我”を匿名と久遠の林立させうるかもしれぬ”わたし”へと、一途に堕として往きたいのです。
“紗”の音を立て砂と抛り、”希”みをいだき、真直ぐに、真剣に堕落して往く所存である。
このうごき、このうごきに血とともにかよう光と音楽の共同舞踏(舞踊)、それ果たして、高貴でなくてなんであろうか? 有機に宿りえる高貴とは、優しさに出発した勇気のうごき、そこより薫る鮮血と純化された体液の深紅なる香気をいうのである。
聖性、血と綾織り肉駆ける
これは、うごきつづけるということを使命とするわたしにとり光であり、けだしわたしを刻み撥ねさせる音楽である。わたしにとりうごきつづけるということは、わたしを自殺の誘惑から跳躍させつづけるということだ。そのほかに、わたしを自殺からひき離す方法はいまのところ発見されていない。光と音楽の共同舞踏、乃至共同舞踊。すなわち美しい夢、換言すれば、”詩”がそれにほかならぬ。
労働者に必要なものは、パンでもバターでもなく詩である。
──シモーヌ・ヴェイユ
少女とは、わが魂を天上のうつしみとして翳とわが胸に抱き、けがれることを怖れ、そうして、既にしてけがれた部分をどこまでも嫌悪する。剥ぎ落そう、剥ぎ落そうと四苦八苦する。純粋。優しさ。頸さ。闘い。素直に生きて、優しくて、愛らしい戦士に、たとえば、魔法少女のようなものになってみたいのです。そのためであるならば、何処までも、どこまでも戦い抜くのがわたしたちだ。
*
【概念-少女的倫理学。誤りの例】
・Xをしなければならぬ、と外的なものから要請されている。故に、それをしなければならぬ。
──不可。わたしは、”わたし”に従うから。わたしの倫理は、わたしだけのものだ。
・Xをわたしはしたい。故に、それをする。
──不可。”わたし”ではないわたしの意欲に、従いたくもないから。
【概念少女の倫理学。唯一の正答】
・Xを”わたし”はしたい。そのために、社会との折合を吟味し、その社会的義務から逃げることなく、前提として注意ぶかい思索とくるしみを重ねた。従って、それをしなければならぬ。──同意。
Ⅱ 戦闘同意手続終了
戦闘、同意。
その戦闘を開始するには、先ず手続を経ねばならない。
以下、【同意書】。
・世界に在る鋼の巨人、「理不尽」に従属しながらも、わが美と善を抱き決してそれから手を離さないうごき、理不尽に斃れ、頸元をそれにぐっと圧しつけられながらも、魂の鎌首を全身全霊で挙げて、美をみすえ、善くうごきつづけるというくるしみをひきうけ、もしそれができなかったとき、絶対に自己を赦さず批判の鞭を与えて亦おなじうごきにもどり、そして、それを絶えずしつづけることができますか?──同意。
・肉の裡に火を炎やし、その肉をうごかすに伴って、現実へ波のように「わたしはこう生きたい」という詩を打ち寄せ、そのたびに社会との折合を吟味して、社会貢献をしながら変えられるところは変え、創意工夫しつづけるという、勇気ある有機のうごきをしつづけることができますか?──同意。
・それが果して有意味であるか、みずからを良い方向へ導くか、まるで不可解の混沌のなかで生を台無しにする覚悟でそれに賭けんとする、脱落と墜落と失墜のうごきをできますか? 投げやりに愛する対象としての不可解へ、幻の絶対的な城へ腕を振り跳びつづけることに同意できますか?──同意。
・自殺しないことを約束しますか?──同意。
これ等のうごきは、芸能界という理不尽きわまる環境で、世にも稀なほど充実していて、わたし、この環境にこころから感謝を捧げる者である。
*
ところで、遅ればせながらも自己紹介。
わたし、その名を「鈴木なお」、公私ともに愛称は「なおちゃん」で、みずからによってつけられた芸名、我ながら少女趣味的潔癖の薫るようなそれ、「紗希なお」であります。この苗字は水樹の遺書にある失望の”紗”の砂と、そこへとび立たんとする”希”望からとったそれなのです。わたしはこんな自分の趣味を、透明なものへの憧れのみられる病める感性のようなものを、如何にも愛らしいものだと想っている。
サイトのプロフィールに書かれてある座右の銘は、「きちんと生きて、きちんと傷つく」。今更の、自己紹介である。
つまりは、創と記す如く丁寧に、概念-少女的倫理に照らし浄く正しく、然るべく疵を負っていかねばならぬ、そう戒めている人間がわたしだということである。傷負わぬ頑丈な防衛を背に負うのが大人であるのなら、わたし、大人になる気はさらさらない。わたしは、神経をまっさらへ剥きたい、”悪”をまるで肌に徹していたみへ純化して、神経の隅々までそれを感受して、踏み外したひとの偽の悪い本性に、まるで世界をはじめて訝しげに眺める落ちてきた幼児のように愕き、慄き、傷つき、されば一度死にぞこなったわたし、その背にましろの”snow costume”──澄む淋しさと見紛うほどに、清む死を照りかえすそれ──さっと羽織るように負って、ひとのこころの風景の、切なくも林立する透徹した美を夢みなければいけない。エミリ・ディキンソン、わたし、貴女が好きなの。ご存知?
されば美をみすえ、善くうごく。
憧れへ、迸るままに”舞踊”する。
心の底から一途に歌い、現実という仮の主人へ弓を吹き、理不尽を舞踊り、いつや、月夜に”舞踏”する。
わたしの仕事は、アイドルである。足場なくファンに求められる虚像を演じ、ファンの喜びを増やし、悲しみを減らす職業だ。
わたしは愛玩の道具である──と云うとぞっとする程自虐めくけれど、しかし、わたしのような疎外感を所有した人間にとって、自己と観念的な憧れを繋ぐ媒介となる”世間”なるものと、どうにか関係するための道具というのが何らかの仮面に自己を合わせることであるとわたしは考えていて、その虚栄性・演技性のようなものは殆どの職業、乃至社会生活に必要とされるといえないだろうか。花。そうともいえる。職業とは、そのひとと社会を仲介させるある種媒介道具だ。わたしは職務にわたしの心身のシステムを合わせ思考と体質を最適化させる気はさらさらないが、だからこそその違和を銀に締め、背骨にわななかせ、その背骨を銀の倫理の硬質な芯へと変容させ、労働なるものを全力でやるつもりだ。
わたし、その猫かぶりな仮面をさいごのさいごに不合理と砕き割り飛翔させるうごき、それが「愛のうごき」ではないかしらと、そう疑っている者だ。
わたしはわたしを実験台とするこの生き方を、この拙くも過剰な文体に折りたたんだ、炎ゆるように慎ましき内面戦争の叙事としての小説を、そのような結末にしなければならないという、義務を負っている者である。
聴いて。
セックスなんかの話じゃない。わたしの推測では、愛のうごきとは、もしそれがあるとするならば、”わたし”により、すべての装飾と肉を脱がせ、対象へ全的に投げだすというそれである。
わたしへの注意。わたしの純粋への悲願はわたしのみに適用させねばならず、いうなればみずからを王国へ変容させる作業でもあるが、その純粋への意欲をもし集団へ適用させるならば、わたしはどこまでも国家主義的となりえるであろう。従って、わたしは孤独でありつづけなければいけない。孤独でありつづけなければいけない。わが孤独少女王国に、この純粋への志向を閉じ込めるのだ。
わたしは、みずからを、王国へ装飾しようとする。女王様は、燦り耀く”月硝子城”。
すべてを脱ぎ肉からも脱獄した人間がそれでもなお人間であるということ、それを立証する為に、わたしは、死ぬ迄を生きる。ひとの善心を信じるために、死にたいほどのくるしみに抵抗する。わたしの信仰を信じるに値するとみなすために、わたしは生き抜く。わたしが生き切ろうとするのは、生きることそのものが祈りであるからだ。
わたしを世間と関係させるものは演技であり、仮面であり、それは淋しいことであるかもしれないけれど、しかし、わたしがこれまでしていたことと何ら変わりはない筈である。ということは、実はわたし、アイドルが性に合っているのかもしれない。
*
アイドルの仕事とは、表面を美しく磨き、愛してくれるひとびとの喜びへの奉仕に徹し、自己を「商品」に剥いて往けばいくほど逆説的にその生き方が商品性から離れて往くという点において、ある種の芸術家のそれに、よく似ているよう。
「名声なぞ欲しくない、俺は大衆に迎合しない」とうそぶく、孤高の思想家ぶった堅物のそれよりも、みずからを戯画と示した芸術家の、内奥の領域を瑕つけ磨きぬかれた商品を、わたしは愛する。
何故といい、けだしそれこそが天へ投げ放って銀の瞼を剥がし、仮の神なるものを引き摺りおろしえる作物であるから。
ボオドレール。わたしはカイン。カインに奉仕しようとするカイン。仮の神へ弓噴く背徳の俗悪人。即ち、わたしはアイドル。ファンなるひとびとへの、奉仕の美。
*
デビューお披露目に遡ろう。
2020年7月6日。夕暮。
クリスマスイブを誕生日とするわたしは、まだ十八歳。其処は地下劇場であった。
ややしか高さのないステージに、別のアイドルグループを推す男性たちが百人程度、なんだか壁は煤けていて、男性たちの熱っぽい体臭がステージの裏にまでむっと香り、如何にも地下の偏見どおりといおうか、アングラな領域だという感じがした。わたしは”俗悪-美”を愛好しているので、むしろこの雰囲気は望ましい。抑々わたしはなぜかしら、体臭というものの嫌悪をもたない。肉と心は、べつの問題だという古くさい考え方で生きているからであろうか。
わたしたちは二番目だった。既にデビューしている一番目のグループがステージに上がり、観衆がわっと歓声をあげる。ここに立ち歓声を浴びた人間というものは、忘れることの不能な強烈な歓びをえるらしい。脳内からドーパミンが迸るのであろう。わたしはなるたけ心のうごきを脳内物質で推測するよう気をつけている、それは心というものがきわめて100%に近く化学物質であると捉えているからであり、そして、残りのミクロ単位の「肉体ではない領域」をいつや発見するためである──じつはわたしはそれを、心の底では無いと思っている──。
わたしは前述の歓びをえてはならぬ。従って、わたしはそれから”わたし”を守護するために、銀を注ぎこまれた背骨をきっと立たせ、ひとの背にレリイフと構築されその聖性を表面に月影と浮ばせた突起、世にも美しい線を意識してその場にいるありとある人間と意識のなかで林立、そして、着せられた奇妙奇天烈にして悪趣味きわまりない衣装に躰を防御し、悉くを撥ねかえす決意にふたたび身をかためた。
「ドキドキするね」
と、ひと懐っこく愛嬌があるが幾分マイペースが過ぎてわたしを時々辟易とさせるメンバー──彼女のアイドル的パーソナリティは、大方これを活かすべきだと想われる、普段からかわいいところがある──、小河春子先輩が、緊張のしすぎによる笑みを浮べながら、わたしに話しかけてくる。
やや悪いようにいってしまったけれど、わたしを除いて三人のメンバーのなかで、わたしに「話してて楽しい」と感じさせてくれるのは、小河春子のみである。
「はい、わたしステージに上がるの初めてです。春子さんも、やっぱり緊張するんですね」
と、ふだんの習慣どおりに嘘をつかないように注意しながら、なるべく本心と言葉を通らせるように、しかし、相手への失礼のないように軌道を修正させて話す。わたしの平常の会話は、きわめて理念的であると想う。
小河春子は、以前別のアイドルグループで活動していたために、年下ではあるが先輩である。従って、彼女に対しては敬語で話すのが礼儀となる。
「するよー。久々だし、なんか膝破けすぎだし。やだなあ」
小河のスキニーには、ダメージが幾らなんでも入りすぎている。それにピンクと黒のストライプのカットソー──然り、少女的というよりも、女児的なものを想起させる──、黒髪は眉までの前髪をそろえたツインテール。小柄で童顔だが体型のバランスのいい彼女に、よく似合っている。
翻ってわたしの衣装はわたしを美しく装飾するには、わたしの骨格ストレートというものを理解していない。イエローベース春の肌の色にも合っていない。不服。わたしには自分はファッションセンスがあると自負することはけっしてできないが、ふだんわたしの美意識と独自研究によりアレンジされた「病みカワ(兵器としてのそれはむろん嫌悪の対象であるけれども、わたしは「地雷」という言葉の暗みの火花散るセンシティブな字面・音韻をどちらかといえば愛好しているほうである、が、”系”で括ることは概念少女的倫理に反しているため、よっぽど自虐的反抗をしたいとき以外は”病みカワ”という言葉を使用することにしている、わたしはふだん無口なほうであるが部屋で書き殴る文章においては小河の何倍も喋りすぎていて、これは屡々ブログの書き方に指摘されてきたわたしの性格の傾向でもあろう、だがわたし自身より湧く正直な気質がありとある方向より射す自意識に揺らめき、この横にぶれていきながら劇しいグラフをえがくような文体を迸らせるのであるためわたしはこれに従うほかはなく、されば…自制)」を愛好しているために、「わたしには似合っていない」と殆どいいきれるのである。
一文で服装を表現する。使用済みの古びた真赤な風船をむりに膨らませて、素肌の脚が木のように突き出ているみたい。
「そろそろステージです」
扉が開け放たれた。わたしは愛していない男たちに躰を投げだすように跳びこみ、そして”わたし”を何ひとつ明け渡さない決意に、心の貞節を硬く固めた。…
*
二階堂奥歯、『八本脚の蝶』。
その夜。わたしは高揚と自尊心向上を毀し、恰も浄化させるようにこれを真夜中に読み耽った。「精神の浄化」という、不潔きわまりない概念を嗤いながら。わたしの自意識は、まるでいつもわたしの四方八方を鏡面で覆うように、外側にある。
わたしはこの書物を、水樹晶のブログで知った。危険な悪書。けだしそれであった。というのも彼女の言葉は、ある意味においてわたしを殺したのだから。はや以前のわたしにはもどりえない迄にわが身を砕き、破壊した。わたしはけだしそれ故にこの書物に惹かれたのだった、絶世の殺意がこもり、ともすれば真白な爪で鋭く読者を剥ぎ殺すような言葉を、わたしは欲する。
穢してください、利用してどうぞ。
毀してください、壊して、いいよ。
その悉く、わたしの”わたし”は撥ねかえすから。
わたしはあなたの発情材じゃない。
あなたたちの伸ばされた腕を含む、ともすれば奴隷のようにわたしたちを堕とす「現実の理不尽」、それこそが”わたし”を炎やす発火材である。盛りのついた不幸こそ、わたしをうごかす原動力。炎えあがってやるのです。つよく。冷たく。硬く。青々と。
低潔に、なりたいのです。
低潔に、なりたいのです。
わたしが縛られ嬲られ躰を利用され尽くしてみたいというのと、われわれを性的に搾取しようとする男性の欲望を是認しないということは、けっして矛盾しないのである。なぜってわたしに、躰なんていらなかったのだから。躰があるということが、不気味きわまりないのだから。躰と魂の関係、それ、いわく不穏。
次なる読書。
ポーリーヌ・レアージュ、『O嬢の物語』。
レッスンしていきましょう。今宵は、以上。おやすみなさい。
*
しかし眠れなかった、わたしは昔からぐっすり眠ることができないのだけれども、今宵は、さらに目が覚めていたのだった。
わたしは恋愛をしてはいけない人間であると、ずっと、ずっとそう想いこんでいた。
わたしには恋愛の資格がないのだ、わたしはひとを愛しえないし、わたしはひとから愛を受けるにあたいしない。こんな意識は病める自意識を所有するうら若きひとびとが往々にしてもちやすいものであり、勿論われわれは恋愛をしえる人間に成長しえるし、或いはその病める精神の領域の治療を、自己によってだってすることができる。
わたしは読書を好むほうであり、この問題を理念的な働きでもって克服するために、古典恋愛小説等でさまざまな恋愛を追求するにことかぎらず、愛についての(いくぶん胡散くさい)思想書、愛しえる人間とは如何なる人間かというような新しい研究の論文、「生き辛さを克服する本」のような平易なものも含めれば、幾百冊かくらいは読んできたと想う、そして、次のくるしい言葉がわたしの眼前にどぎつく明瞭とさせる働きを齎したのが、それ等の読書経験・思考経験であるにすぎなかったのだった、わたしは次の言葉を突き付けられるたびに身を折るようなせつなさに苛まれる、そのために幾度も、いくどもわが身を変えよう、考え方を代えようとこころみたのだけれども、しかし、そのぐらつく情緒の点のうごきですらも、わたしのこのまるで戒律めいた公理のような言葉を、厳然として屹立させることを促すのみなのだった。
つぎの言葉というのは、これである。
わたしにとっての「ひとと愛し合いえる生き方」は、わたしにとっての「わたしじしんの生きたい生き方」と対立・相克し、それ等は、絶対に両立しえない。
すべては、ここに尽きる。
幸福を与え合う生き方というものを、みずから不幸に佇み不幸面する決意をしたエゴイストに、できるわけがないのだ。
わたしの恋愛論を披歴する心算であるけれども、どうか、これを”純粋性”による言葉ではなく、根源の幼稚性より昇る叫び、或いは、それが余りに観念的な表現にすぎるのならば、「歌」として読んでほしい。お希い。お希いだよ。
純粋だね──だなんて、わたしは、絶対に云われたくない。純粋、そして愛という言葉は、わたしにとって、抱えるだけでも耐えかねる程に、重いのだから。
わたしは”恋愛”というものを、なによりも特別で他と隔てられた恋人という対象を信じ、真剣に大切にし合う関係それのみにおいて適用できる、きわめて厳密な状態のみを指す、きわめて限定的な名辞であると考えている。
神秘と高貴の領域が馥郁と洩らす、ある種人間にとって最高度の情念の発露にして、最底辺の魂を揺らし合う素朴な関係を云う言葉だと考えている。
愛の和訳。「御大切」。
サン・テグジュペリという、平凡きわまることしか書いていない小説家(これは小説家としての最高のつよみである)の言葉。「ほんとうに大切なことは、目にみえない」「愛するとは、お互いを見つめあうことではない。おなじ方向を向くことだ」
殆ど俗説。愛すると信じるは、おなじこと。
これ等の言葉はわたしにとって至極当然のものであり、このほかである筈もない。
なぜと云いわたしは、それを当然であると内的に判断するからである。そうではないかもしれない、けれども、そうであってほしい。悲願。唯、根拠はそれだけだ。
わたしには人間にとっての──飽くまで人間の中だけの──絶対的な道徳観念が、すべての人間のこころにじつは組み込まれているような、そして、それは人間にははっきりと捉えられるくらいに突き詰めたり辿り着くことはできない、けれども其処へ向かおうとすることはできるような、其処の風景を刹那だけ幻視することはできるような、其処で響く音楽を聴くことはできるような、そんな気がしている。そして、広義におけるそれであろうと、愛というものは、やはり、善いものになりえると想う。くわえて、善いものへ導き、誘い込み、軌道を整わせ、化学変化させないと、ほんとうは、”愛”とは云えないと想う。
真紅の情念と青の理念と綾織る、美と善の落す翳の重なる処、其処に、愛の影が陰翳されているような、其処より昇るamethystのためいきこそが愛と呼ばれうる、そんな予感がわたしにある。
不合理性。わたしはこれ等を軽蔑するひとびとは、けっきょく、真実には辿り着けないのではないかと、倨傲にも、無謀にも、考えているのだ。
すくなくとも、恋人を大切にしなければ、その関係性に対し”恋愛関係”という名辞を与えることを、わたしにはできない。
そのほかの恋愛を、わたしは、殆ど搾取と支配と性愛諸々への欲心による、たかが重力に従われて為される、とりわけ悪いものではないがけっして神秘と高貴の領域にない、たとえば食欲のままに食べすぎている様子とそうとおくはない領域にあるものではないかと、なかば本気で疑っている。
恋愛関係という、非法的な約束。その関係における、不倫行為。わたしは他者のそれ等に関心はないが、ぜったいに、是認できない。
ひとを、大切にする。
わたしはこの主題によって、生涯を台無しにしてきたといっても過言ではないと想う。他者を大切にできないわたしを批判することを、他者を大切にするといううごきをすることに多大な思考を費やし多大な実践をしてもなにひとつこれという心・行為がわたしじしんに発見されえないわたしを批判することを、ほかの何よりも優先させてきたと、わたしは一種自恃をもって云うことができる。わたしの唯一の劣等感こそ「他者を大切にできないこと」であり、換言すればわたしはわたしの理想、”つよくてやさしいひと”の逆なのである。
ひとを、愛せない。
年齢-少女期、こんな悲劇のヒロインぶったインチキのべったり貼りつく言葉で自己をいくぶん見紛っていたけれども、注意ぶかくわたしじしんをみつめるならば、「わたしは他者を大切にできない」というのが正確にちかい言い方なのではと、現在は考えている。
そして、わたしはついに、「自己無化」というおそるべき主題と邂逅したのだった、否、これ迄のわたしのIDOLへわたしじしんによって名付けられたあらゆる余剰な名辞、「純粋な愛」「無償の愛」「自己犠牲」「滅びの美学」、そのような偽りの名辞をいたみをともなって貼っては削り、いちどは恐るおそる「アガペー」と名付けひとには不可能であると泣きながら決定し貼ってはふたたび劇しい力で爪により削り、ようやく、「かのような生と死のうごきとは、”自己無化”という名辞を与えられないことはないのではないか」と、渋々と、注意ぶかく、この名辞のまっしろな怖ろしさに慄きながら、わたしは判断して了ったのだった。
わたしは、自己を抛る生き方を、志向する。
自己を抛る生き方というのは、すくなくとも自己と他者との関係性において成立する「大切にする」という行為を、自分自身に適用することは不可能な状態へ自己を追い込むということではないだろうか。
そして、わたしは自己を愛するようにしか他者を愛しえない種族であると思う。それが人間というものなのか、そうでは特殊な人種のみの性質なのか、わたしには判断する資格がないのだけれども。なぜってわたしは、わたし以外に試しに代わってみることはできないのだから(嗚、わたしの生涯の悩みの一つは、これ)。
即ち、わたしにとり「恋人という対象を大切にする」というのが”恋愛”という関係を成立させる条件であるならば、わたしがわたしじしんとして生きつづけるかぎり、わたしは絶対的に恋愛不能者であることがここで明らかになる。
したがって、“自己無化へ向かう”という生き方を自己に課したわたしは、恋愛不能者でありつづけなければならないのだと結論させざるをえないのである。
2020年、7月7日、午前三時。
スコット・フィッツジェラルドいわく、魂の真暗闇の時刻。
恋愛、禁止──同意。
わたしの魂から、蕾の儘の”期待”という前のめりなよろこびが、劇しくも静謐ないたみによって、剥がれる音がした。俗悪な音楽、乾きざらついたましろの風景──悲痛によって欲しいものを奪われ削がれたようなわたしの顔が、わたしの眼前に赫々とした。欲しかった。欲しかったのだ。わたしは、恋愛が、欲しかった。なによりも愛され、愛してみたかった。断念。失念。こんなものがわたしをつよくやさしい人間に導くだなんて、どこにも保証はない。ただ、賭ける。一生涯を。それだけであった。
生涯とは一刹那であり、それがやがて無に侍り直されるという意味において、それは永遠という全体と一致するのではないだろうか。
わたしは暗みの眸を吸われるように凶暴な瞳孔のみひらいた貌で、ベッドのうえ、唯、閉ざされた自己愛と独善の飛沫のようなかわいた涙ばかりが流れることをのみ、それをこの決意による吐血だとし、自己に赦した。
自罰志向。わたしはこのある種与えられたネガティブな性情を、克服するのではなく、利用してポジティブな感情・行為を構築しようとしているのだろう。なぜわたしがそれを選ぶか。きっと、この性情は治療できるものではないと、たとい治療できたって、その方法はわたしの生きたい生き方を歪めるんだからしたくない──と、諦めているからではないかしら。
ねえ。わたし、獲得を放棄したの。だから、もう、手くびなんていらない。
*
シモーヌ、わたしを赦さないで。
なぜってわたしは、これを破ったのだから。
Ⅲ 少女戦闘粗相報告
わたしはわたしをこのむひとびとに、「生きろ」と強要してきたのだった、「堕ちてでも生きようとする」という命の孕む俗悪な美しさを、まるで謳いあげてきたのがわがアイドル活動でなければならぬとわたしは戒めてきたのだった、恰も、独善で殴るように、弓を吹くが如く凶暴な気持で、喉から劇薬のこもる爆弾を投げ放つように──生きろ、と。わたしはそんな自己の不潔さ、誤り、悪性にきもちわるさで慄きながら、だからこそその苦痛をも背負い、為そうとしていたのだ。
つよさ。
唯、それを賛美しつづけてきたつもりだ。
だが、わたしは「死にたがりやで内気で臆病だけど、急に破天荒になる情緒不安定・社会不適合者アイドル」として、「かわいそうだね? かわいそうだね?」と、精神の意味をふくめ疵をいとおしげに舐められるように消費されつづけたのだった、それはたしかにわが身が負うべき責任であるけれども、わたしに勇気づけられる者なぞすくなくとも暫くはだれひとりといなかったのではないかという訝りは、わたしに現実の厳しさを実際に歩いてみて肌で感じさせたのであり、それはわたしの生の目的には、ある種適った結果であることだろう。
ところで、なにかをてのひらによって獲得することを断念しようとする人間にとり、”てくび”という観念には、恰も月光に射し貫かれ透明性へ純化させるというような詩的イマージュを託される。これが自傷への欲心と直接的に結びつきえる詩的推論であるか否か、わたしには判断の資格をもちえないのだけれども。
デビュー直後にはじめたSNSのDM欄は、「パパ活どうですか?」というお誘いで埋まり、その数は数十程度のフォロワーをうわまわりもしていて、頻繁にpenis──わたしが何故斯く名詞でこの肉体の一領域を書いたのかを察してほしい──の画像が刃のように抛りなげられ、それの所有者達は、いわゆる”捨て垢”と呼ばれる足のつかないアカウントを使用していたのだった、わたしは性欲を撲りつけるようにぶつける無礼な態度そのものよりも、その卑怯性にこそ苛立ちをおぼえたのだった。堂々とマイナンバーカードを差しだし写真を撮らせ、「性行為をしてください」と直接頼みこむならば、まだこのような嫌悪は生れえなかったであろう──名誉のために加筆。それでもわたしはしない。
わたしは身売りをしていたけれども、それをしえたのは──グレーではあるものの──その行為が法的な関係にのっとり法人を介して行われる皮膚と粘膜のレンタルビジネスに過ぎないと、そう解釈していたからである。労働におけるそれと個々を介して行われる非法的な売春には、明らかな差異がある。法人を介す性行為を交わすわたしと客とは、魂の意味に限定すれば、冷たい蔽いを辷らせるのみの関係であったのである。そうであるから、わたしはそれに耐えられたのだ。
人格の、モノ化。わたしはその着想をなによりも追究し、恰も肉のみにおけるうごきによって模倣する所存であるけれども、その仮面と食い入ろうとするもけっして融合することのない肉体の下では、それをなによりも拒絶しつづける決意だ。わたしにとり、”仮面”とは肉体質で花のような柔質性をもって外界へうでをのばす職業的パーソナリティに近いものであるけれども、”肉体”とは、恰も銀製のそれのように硬質な拒絶性を所有していなければいけないわが本質的性格へあるという自恃へわが身を誘導させねばならない──不可能(泣き笑い)。そのような義務を自己に強いること──これは飽くまでわたしの志向する生を身体へ投影された観念的なイマージュであり、実際にそのような人間が存在しえるかどうか、まだわたしには判断しえないのだけれども。
わたしは現場に入ってそこから離れる迄の労働時間のほかでは、ぜったいに、アイドルをしなかった。断言する。自負である。抑々、それはわたしという肉体的器官の構造上不可能であったのだった、なぜと云い、わたしの過剰な自意識は至るところから不可視の消費という視線が刺さっている自己が在るという意識をするだけで、肉を裂きたくなる程狂いそうにもなるのだから。
わたしがアイドルという労働に肉体を対峙させた際、それに促される精神が産み落としたのはけだし”失念”であった。わたしたちの甘えた期待を撥ねかえす、現実の理不尽という壁の冷然硬質性の。わたしたちの意志をいっさい考慮せずに、不可視の領域からこつぜんと一方的に飛来し精神にべったりと張りつく、”他者”という肉体のいとおしくも生温かい粘着質性への。
これを求めていたのだ──と、わたしは、恰も戦士が打ち震えるが如くの気持であった。
人間社会でわたしという一人間が生きるという現実がこれであるならば、そのなかで生きることがわたしという一人間にとって苦痛であるというのがこの現実であるならば、わたしは、神経のすみずみに迄そのいたみを奔らせたい、現実という硬質な理不尽から発せられる暴力を、わが肌で丁寧に几帳面に被りたい。なぜって、それが現実なのだから。それはわたしの、罰せられたいというある種宿命的な淋しい悲願と、手を結びえるのだから。そのなかでみつかる人間の良心というものを、細心な注意力によって捜しだし、恐るおそる峻別・推測しながら、それ等が何処かに在るという神話を、とわに信じていたい。
そう。わたしは自己を善くみまがい、その内ではファンの殆どを軽蔑し、一部を憎んでさえいたのだった。
軽蔑。嗚。唯これをのみ、わたしは軽蔑しなければいけなかったのに。
されどわたしがここまで性的対象として舐め腐った態度をとられるのも、デビューお披露目の際のわたしのパフォーマンスがおおきな原因の一つでもあるだろう。それはわたしが負わねばいけない責任であると、いささか不服ではあるけれど認めざるをえまい。
というのも、わたしはデビューステージで「処女ですかー?」と客に煽られ、躁がしき激情が迸り激昂して、その場で上着を脱ぎかれへ力一杯投げつけて、下着のようなインナーだけの姿をさらし、「キサマ黙れや! 阿婆擦れビッチやけどなんか文句あるんかオイ! 女舐めてんじゃねえよ、クラすぞてめえ!」と怒鳴り散らしたのだ。
ちなみにこの挿話は動画込みで「修羅アイドル、紗希なお。出身は福岡県」とあまりに差別的な情報が(たしかに「クラす」はわたしの出身地の方言である)ネットで投稿・拡散され、グループがすこしネット界隈で露出しはじめた頃にこれに関する投稿がふたたび話題となって何万という「いいね」が付き(いわゆる、当時の言い方で”万バズ”)、それは伝説になり、わたしたちがのちに売れた原因の一つとして説明できるという推測が、おおくのファンによって考察されている。
*
デビューお披露目への遡りを、再び行う。
「はじめましてー!わたしたち、本日デビューのアイドルグループ!」
と、「やさぐれピュア喫煙キャラ」としてのパーソナリティーを確立させるため奮闘しているリーダーの橋本が声をかけ(彼女は女性ファンがおおく、わたしに羨みを感じさせる)、わたしたちは四人揃って、
「サイケデリック・ロンリーガールズです!」
と、自己紹介。
この、まったくもってネーミングセンスの欠けた、キッチュともいえぬ単なる俗悪でしかない名称は、メジャーデビュー直前に当然改名された。
されどわたしにとっては、けっこう気に入っている名称でもあるのだった。「サイケデリック」とはドラッグをやった際の幻惑を示す形容詞であるために、「不合理的」というむりな訳もできないことはないけれども、その後の「ロンリー」という孤独を指す言葉の響きは、いわずもがな「論理」という作業性の高い孤独な思考の路と音韻が結びついていて(ここは異論をみとめる)、如何にもわたしの已むにやまれぬ意欲を指すのに相応しい言葉であると思われる。不合理で孤独な散文詩人、観念的論理少女──わたしは、其処へゆこうとする、概念-少女である。
「一人一人、自己紹介いたしまーす!」
と、高い声でかわいらしく云った直後、こつぜんとアンニュイな表情をかたちづくり、煙草をくわえる橋本。ハイライト。火をつけ、一服し、斜めから流し目をみせつけ、幾分エロティックなためいきのような声をからめて煙を吐きだす。数秒、無言。ファンは呆然、やや引いている模様である。
嗚。地下特有の雰囲気であった。
「あれ、なんだっけ? あ、橋本アーヤです、よろしく~」
不愛想で掠れている、地声よりもさらに低めの声。
わたしは当時彼女とは全く話が合わず交流が殆どなかったのだけれども、耳を真赤にさせて頑張っている橋本の姿に、わたしは人-性の可憐さを感じ、想わず茫然となった。
彼女の服装はオーバーサイズの白いノースリーブに、当時流行していた某セクシー系ブランドの部屋着の雰囲気がある起毛したホットパンツ。足元はドクターマーチンに黒の靴下。髪はあえてカールのかかったバサバサのアンニュイな黒髪ボブ、痩せていて関節がめだち骨が華奢、くわえて170近い長身の彼女がやると、部屋デートの雰囲気がある服装ながらも、どことなくロックな雰囲気である。
アーヤという名前は本名の綾からとっているが、この云い方は「2000年代の不良アイドルや歌姫のイメージでいこう」という完全に「Y2-K」の流行にのろうとした意欲で、プロデューサーに一方的につけられたのだった。「ダサ」、とかれがいなくなってから漏らしていたのを聞いたことがある。のちにブログで「ほんとは、ファンにはあやちゃんって呼ばれたいんだけどな~」と書いたところ、それを書いた彼女の真意や作為性は不明であるが、「キャラつくってるけど、ほんとうはピュアで甘えん坊なのがかわいい」と話題になり、ファン数を増やした。
「次!」と叫ぶ橋本。
小河春子がマイクをとる。
「はじめましてー!グループでかわいいを担当してます、小河こはるです!苺だいすきー!」
わかりやすいキャラ設定、文面だけでも伝わりやすい、発言のアイドル的なかわいらしさ。小柄、背丈に対して細長い手足、華奢、童顔、微睡む猫のそれのような垂れ眼の大きな眼、こぢんまりとした鼻と口許、いわゆる、美少女顔。「圧倒的ヴィジュアル」とも評されていた、アイドルとして完成された抜群のルックス。やはり以前もアイドルをやっていただけあって自己紹介は完璧であり、ファンは安心して歓声をあげている。アイドル活動中もつねに恋人が二人以上いつづけ、一瞬でも切らしたことがないことを、かれ等は知らない。
「次―!」
愛らしい声を出しながら、秋津澪にマイクを渡す。
歓声が、やや静まった。春子先輩の紹介時の観衆の火のような期待がやや翳り、とくに野次もなく、恰も澪の自己紹介を終えるのを待つようなアトモスフィアが、一波の緊張感を伴って淡く漲ったようだった。
「秋津みお。二十歳です。みんな、わたしたちのことよかったら応援してくださーい!」
綺麗な発音。礼儀正しき身振り。だが、それだけだった。覚えてもらうためのポジションのアピールすら、なかった。
歓声はあった。けれども、はじめてそこでまばらな拍手が起きたのだった、それは拍手という礼儀の音楽で時間を埋めないと、やや不穏な穴が穿たれるような予感を、ひとびと全体が察知したからではないかとわたしには訝られた。
秋津澪は、美しくない。
否。ほとんど、いまの流行の顔立ちに照合させると、かなり魅力に欠けていた。骨格こそ日本人女性の集合値的なそれであったし、努力して脂肪の乏しい体型を維持していたけれども、こうしてアイドルとしてステージに現れた際、先ずひとの受ける印象はルックスの魅力の乏しさであった。これはメジャーデビューしても尚彼女に付きまといつづけた評価であり、その後の言動の変容は、のちに物語ろうと予定している。
当時わたしは彼女と会話することはほとんどなかったが、ほかのメンバーと話している感じでいうと、かなり社会的性格を意識していると云おうか、なにか本性を晒すことを怖れているかのような緊張感がまわりへも伝わってくるような、おどおどとした礼儀正しいコミュニケーションをするひとであった。何故あの性格で、アイドルになろうと想ったのだろう──小河と橋本がひそひそとそう話しているのを耳にしたが、そんな疑問が出てもおかしくはないと、わたしにだって想われたのだった。
告白しよう。
わたしのような美への権力意志をつよくもっている人間にとって、彼女の容貌には軽蔑にあたいするという已むにやまれぬ直感がうごいたし、わたしはそれを概念-少女的倫理に照合させどうにか剥ごうとしていたのだけれども、それは至極難解なことであった。わたしはつぎのような安堵すらえていたのだった──秋津がいるおかげで、わたしは、グループでもっとも美しくないというポジションからのがれられた。嗚、よかった。
わたしの、美しくありたいと欲心は、優越への意志を起点とする。それのない自己の美への欲望は、ありえるのだろうか? それは美醜という権力構造でうえへ昇りたいという欲心であり、下を内心でなじりたいという欲心が裏にあるような気がして、わたしには人-性というものへの冷然な戦慄をおぼえる。というのも、美しくありたいと欲望する人間が醜い人間を全く軽蔑しないという心の状態を、わたしには想像ができないのだ。そして、このわが心になんらかのピラミッドをつくって自分の立ち位置を意識し、下への残酷な気持を所有するという性質を、果して人間はのがれうるのかと、つねづね自己に問いかけているのがわたしという病める概念-少女の本体である──概念-少女とは、”どうして?”という素朴な問と妥協的な関係を結ぶことはない。
わたしはそれをなべて放棄し自己を投げ棄てたいと志向する人間であるけれども、あきらかにわたしの内部にあるピラミッドの頂点には、『幸福の王子』の燕が燦爛としている。その山へ、青空というあっけらかんとした基督的な幸福の王子とは異なる冷然の王子の美しさが、おそろしく幼稚な眸の光を照らしながら、軽蔑するように降り被さっている。その青空という風景には、”共感”という曖昧模糊なる意味を孕む薄明の一切が欠けている。このあっけらかんとした陽気なくらみの印象は、恰もオディロン・ルドンの描いた「キュクロプス」のそれに酷似しているようだ。
わたしはこのような自己の矛盾に裂かれるような嫌悪を感じており、秋津澪を醜いと書くことは、わたしじしんの性質の醜さをけだしわが身に突きつける。この文章を書き残すのは、けっして読者への誠実さではないことをここに告白しておこう。わたしはわたしに対し、「わたしはみずからの悪を注視できている」という慰めを与えるためだけに、これを書いたのである。
かのシモーヌ・ヴェイユは、「純粋とは、穢れをじっとみつめうる力である」と書いた。されどわたしには、その視線とは自己を否定しきれない人間の弱さであり、「みつめて自覚しているからゆるされているんだ」という自己との対決における妥協にも容易に転じえるような気もする。従って、ヴェイユの言葉を信用するという条件を立てるならば、わたしがわが信念を守護しようとするならば、けっして自己を赦してはいけないと詩的に結論されるのである。
「次にいかせていただきます!」
ふしぎなくらいに過剰な敬語が、漸くわたしの順番をうながした。極度の緊張状態。火のように炎えるわたしの躰の疎外と、ひとびとという冷たい全体の対比を意識する。その間にある、肉体という絶対的な境を悲痛な迄に感じる。わたしは、大勢の視線が刺さっている自己を意識するだけで、その場から逃げだしそうなくらいにパニックになる気質を有している。
マイクをとる。
「あ、あ…」
冷汗が出て、うまく発語できない。喉に、なにかが絡まる。隠すべきわたしの本性的な叫び、それだろうか。本性。そんなものはわたしのかんがえでは無数にあるのだけれども、そのなべてをわたしには許容できないのだから、わたしの喉の中はいつも何かが犇き、醜い観念が蠢いている。
「えっと」
声がへんに掠れていることに、恐怖をおぼえた。最初の声が魅力的でなかったら、可愛くなかったら、このあとわたしを好きになってくれるひとなんて、ひとりもいないかもしれない。そんな不安な切迫がわたしを一種躁がしき高揚へとみちびいたが、その急激な加速を与えたわたしの感情の正体とは、けだし、そんな自分じしんへの怒りによるものなのだった。
殆ど、怒声であった。
「あああああ!紗希ナオです!透明になりたいです!よろしくおねがいします!」
けらけらと笑う客もいたし、あたたかい偽装り笑顔で拍手するひともいる。わたしたちグループのお披露目自己紹介は、あきらかに終末に向かって魅力が引き下がり、わたしの順番で歪に轢き縮んでいる。
「緊張しないで―!」
そう云ったひとがいて、
「あ、ありがとうございます」
と云ったが、おそらく、声がちいさすぎて隣の秋津にすらききとれなかったであろう。わたしはわなわなと震え、視線は泳ぎ、口許はだらしなく半開きであった。すなわちここで明らかになるのは、この状態でわたしの感受性が集中しているのは、わたしの躰の像であるということである。
そのタイミングだった。
「コミュ障キャラかわいい!処女ですかー?」
わたしのすべてのフィジカルを押し揺るがすような、青々とスモーキーな火が惑溺した。炎ゆる陰翳に翳された肌が──肉という境界線が──破れた。わたしはマイクを叩き落し、ぶくぶくと奇妙に膨れた上着を破るように脱ぎ男へ殺意のままに投げつけ、ほとんどキャミソールだけのような姿で怒りに貌を歪ませ、どっと昇る衝動に身をまかせ喉を膨らませた。それは歌だった。「わたしはそれを是認しない」という歌だった。…
*
「まあ、いいよ。そういうキャラでいけば?」
楽屋でプロデューサーに謝ると、そっけなくそう返された。
「やってしまったものは戻せないし、俺はけっこうおもしろいと思ったよ」
「ありがとうございます」
「そこで感謝するのはおかしいけどね」
「ナオちゃん、かっこよかったよー」
お気楽な表情と声色で、雰囲気をやわらげてくれる春子。彼女の何もかんがえてなさそうな言動は、わたしの感じる範囲では、ふしぎと周囲いったいの和を壊したことが一度もない。中庸な傍若無人ともいえるそのコミュニケーションにおける基本的態度は、おそらくや保守的な計算の賜物であり、いたましいほどに外界への感受性がつよすぎる故であるような気もする。賢い。それを、すごく感じる。彼女はまさに外にばかり視線をむけているようにわたしには感じられ、わたしのような惨めったらしい自意識との格闘を知ったならば、「なんでそんなことするの? みんなで笑えて楽しく生きられたら、それでいいじゃん」というような、まるでマノン・レスコーがするような軽蔑すらなき軽視を寄与してくれるのではないかと、当時はかってにも想像していた。
ひとにはそれぞれそのひと固有の痛みがあり、不可視のそれへ決定というかたちで裁いてはいけない。そう理念的にはかんがえていたのだけれども、そのときの彼女の印象は、まさに「頭の良さとコミュニケーション能力で、折に触れ計算だかく自由を獲得してきた、わたしのような観念的思考を全く必要としない、ほどよく自己中心的で愛されキャラの女の子」というものである。
橋本綾が、わたしの肩に手をかけて、声をかける。
「大丈夫? まあ、わかるよ」
わたしは彼女のほうを向いた。困ったような顔だけれども、目元の柔らかさが、わたしへのあたたかい感情を連想させる。
橋本は、人相がいい。造形は冷然な整い方をしているが、顔つきがやわらかく、やつれているようにみえる力のない表情のうごかしかたをするけれど、それがむしろクールに映しながらも、「内心は優しいんだろうな」とおもわせる雰囲気を醸し出す。動画のほうがかわいいよね、といわれるタイプである。
わたしは、わたし以外になってわたしを見ることが、すごく怖かった。パフォーマンス中のわたしを見て、ふと目元に降りる暗い翳りや、神経質な印象の口許の引き攣りが、わたしの性格の欠点を、暗示しているように感じて了う。うごきだって運動神経のわるさ丸出しだし、口はひらかれ眼元が疲れきり、息の荒いわたしなんて、可愛くもなんともない。顔を両手で覆いたくなるような切なさを、いつも感じる。はやく整形手術代を貯めてアイプチを卒業したかったし、されどそんなことで、わたしの精神的な問題からくる雰囲気は消えやしないだろう。
「アイドルって、可愛いと思われることが仕事だし、男性の”あの子可愛い”って感情にはだいたい性欲あるし、いまの立場なら、ある程度は受け容れなきゃ。でも気持ち悪いのはわかるよ、わたしだって腹が立った」
「そうですよね」
「でもさ、わたしはあの反応可愛いと思ったよ。テレビだと問題だけど、わたしたち超地下だし、アングラだし、まあ、大丈夫。大丈夫だよ」
そういって、はらりとうすい印象の笑みを浮べ、亦肩を叩いて、更衣室へ向った。
わたしは、橋本綾に、なりたかった。
自分のことばかり凝視して、そうでないなら在るかも判らぬ観念的世界ばかり視線を向けて、そのあいだにある他者との関係性への意識が希薄で、自責というかたちで良心の存在を確認した気になって、自分と自分が不断に会話しているわたしなんかとちがって、他者の切なさにさらりと気づいて、ふっと手をのばし、とりわけよろこびの報酬もえないまま消えて往く、橋本のような優しいひとになりたかった。人間観が独学的にすぎるわたしの目には、彼女は、もはや人間に可能な範囲で”利他的”にちかい人間に映ることも多かった。
秋津は、わたしに話しかけない。そっとしておこうというつもりだろうか。まだ、彼女がなにを考えているのか、まったくもって解らない。
「ねえねえ、なおちゃん。今度一緒に遊ぼう! 買い物行きたいな~」
「え? いいんですか?」
嬉しい。口許がにまにまと緩んでくるのを感じる。わたしは、地下アイドルの面接に受かったタイミングで、漸く上京した。まだ、東京に友達はいないし、地元にも、連絡を定期的にとりあう友達はいなくなった。
「ナオちゃんの私服大好きなんだぁ。病みカワかわいいよね! 一着そういうのもほしいなあ」
「絶対似合うとおもいます!春子先輩、ふりふりやリボン似合うし」
わたしは、わたしを褒められるより、服を褒められる方がうれしいタイプである。わたし自身には自信がないけれども、わりと、だいすきなお洋服たちを、自分のセンスでコーディネートし、頭でイメージした理想を具現化するセンスには自信がある。それがファッション的にハイレベルかどうかには関心はないし、他者にどう映るのかもいまいち気にしていないけれど、わたしは、わたしに愛される服装を表現できる。人工的に概念-少女装飾を施すことができる。ええ、ほんとうに。少女とは、飽くまでfictional な生き物であるのですから。
「じゃあ、行けそうな日わかったら、連絡するね」
*
これが間違いだった。
春子の男癖のわるさ、これはなんとなく間接的に知っていたのだけれども、わたしの「恋愛禁止」を守護するうえで、春子とかのような遊び方をしてはいけないと、きちんと察知するべきだったのだ。
Ⅳ 博愛少女批判詩論
植物を摘めない女の子──幼少期のわたしは、それだった。
植物に擬人的な痛覚を連想し、「なおちゃん、お花摘んでみなさい」と云われれば、「お花さん痛い痛いするよ」と泣きだすような子供だった。
花のようであれ、という客体を強いるような言葉に、美しくあることを求める言葉に、若者はしばしば反発する。フェミニストの多くは、女性に対するそれを断固是認しない。されどひとがひとのなかで生きるとは、一種おのれを、程々に中庸にバランスよく花にすることであると想う。他者と綾織られるためには、なんらかの花的な態度が必要であるとおもう。
ある種の倫理とは、花の美でもあると想う。
いまや、わたしは花を摘み、頬へこすりよせていとおしい気持にうっとりとし、つまりは搾取し、その植物の生命をいたみつけることに対し、最早罪の意識はない。それははや麻痺して了っている。友達のいなかった小学生時代、ダンゴムシと遊んでいたわたしは、一度蜘蛛の巣にひっかかった生きたバッタを泣きながら助けたことがある。バッタなんて触りたくなかった、わたしはあの顔が苦手で、殆ど恐怖症にちかい感情がある。視られているということを、極度な迄に突きつける顔だから。されどわたしは食べられて了う運命にあるバッタが可哀想で、それをゆびで摘まんで外したが、さすれば「蜘蛛さんが食べ物なくなっちゃう」と感じ、先ずは葉っぱをひっかけ、「牛さんじゃないし、葉っぱは食べないんじゃないかな」とかんがえた末、木の実の殻を割って、柔らかい中身を糸にひっかけて「これで大丈夫」とご満悦、亦、ダンゴムシたちと遊んだ。淡いちからで軽く触れ、かよわいかれ等が傷つかないように、細心の注意をしながら。当時、わたしはお肉が食べられなかった。動物さんが可哀想、理由はそれだけであった。
いま、わたしは花を踏める。我が生きているということで間接的にうまれうる、かぎりなく不可視にちかい他者たちのいたみの上で生き、食事し、睡眠をとるということに神経が耐えられる。バッタを外すことなんて何の意味もなく、この世のかずかずの暴力は夥しく、それは可逆的で複雑に綾織りグレーな現象であり、一つ一つの存在を否定しても仕方がないということを、理念的に、そして神経的に識っている。
嘗てのわたしの優しさは、けっして褒められるものではない。それを大人がもって了っていたら、むしろ足枷でなりえて、”大人の優しさ”の一つである社会的な他者貢献を、むしろ阻む感覚に転じえないのだから。たしかに、精神病院にはそんなひとが何人かいたのだった、”小鹿物語”に比喩させるならば、小鹿を撃ち殺せず、うずくまって自責しつづけ、気付くと心を病ませて了った、行動の悪を怖れる慎ましきひとたちが。
されどわたしは──人-性が産れもって孕む道徳に照合させれば、花を摘めない当時のわたしが一面的には正しかったのではないかという淋しい訝りに、身を折る夜がある。
*
四人、レッスン後に事務所で弁当を食している際、わたしはあることに気が付いた。
秋津はご飯を残しがちであり、それはわたしたちのような容姿を重視される職業の人間にはめずらしくないだろうと感じてとりわけ注目していなかったのだが、彼女、いわゆる肉を食べないのである。宮沢賢治みたい。そう感じたのだけれども、わたしのような『よだかの星』に共感しすぎる人間にとって、それはどちらかといえば好意を感じさせる。とはいえ、わたしは宮沢に、同族としての嫌悪をも感じるのである。
わたしは、この世から自殺がなくなるまで、幸せにはならないと、ある種自恃と、そんな自己への激しい嫌悪をもって、決意している。
これは、かれの「この世から不幸な人間がなくなるまで、自分には幸福にはなる資格はない」という独善的な言葉に酷似していることをのちに知った。そして、ほかならぬヴェイユがおなじことを云い、そして、水樹がこれをブログで引用していたことものちに知った。
──いいひとになりたいんだね。悪い自分がえがかれた自画像を見ることに、自意識が耐えられないんだね。
そんな冷たい厭味が生れるわたしの心は、醜い。
「澪さん、お肉嫌いなの?」
小河は性格上秋津にも気負いせず──しているかもしれない、いや、多分むしろかなり気を遣っている──話しかけるため、意図しているのかしていないのかは不明だが、彼女が完全に孤立しないような助け船を出している。秋津に対してだけ「さん」付けなのはすこし気になって了うが──しかしそれも試行錯誤の結果であるような気もする──、ほんとうに小河春子のこういう言動は、わたしたち全体にとって救われるのである。
橋本は、思い遣りはあるのだけれどもどこか他者に無関心といおうか、お節介じゃないといおうか。自他境界がきれいに引けている、そうもいえようか。
秋津に用事で話しかけられた際はこまやかに優しい態度をとり対処もきちんとしているし、独り困っていたら絶対に「どうしたの?」「こうするよ」とフォローするのだけれども、おそらくやふたりは会話の相性がすこぶる悪く(わたしと橋本も正直合わない)、彼女に負担を掛けないように意識していたら、おのずと会話も少なくなりがちという状況になっているような気がする。どことなく面倒くさがりやで打算的な一面がちらりと見えるときもあるような、そんな気もする為に、わたしは橋本を美化しているきらいもあるかもしれない。けれどもやはりわたしは希って了う、橋本のようになりたい、と。
そういう状況なので、秋津がもっと仲を深めたいのならば、今回も会話がつながるように愛想よく返すのがいいのだろうとわたしには判断されるのだが、彼女は、
「いえ、気にしないでください」
と、丁寧ではあるものの不愛想な口調で、いつもどおり会話を打ち切るのである。
その後は暫くだれも話さず、「わたしが云えたことじゃないけれど、秋津は女性社会で巧くいかないだろうな」とかんがえていた。
食べ終わり、事務所内にある別室で給料をいただく。
壁にはこれが貼ってある、「恋愛禁止」。
春子はこれを見る時、どんな気持ちになるのだろう。
わたしなんかは既に欲しいものがスマホのメモにリスト化されてあり、「冨原眞弓様が全訳されたシモーヌ・ヴェイユ著作集全巻とアナスイのコスメとアンナ・カヴァンの持っていないハードカバーの本全部と、後まだ見付けられていない三つめのお気に入りの香水と、きゃあフランシス・クルジャンはどうしようかなー!…」とあきらかにすべて買えば給料の数十倍が無くなる物欲的想像で頭がいっぱいになり浮き立っていたのだけれども、秋津は幾分暗さすら感じさせるうしろめたげな顔で礼儀正しく封筒を受けとり、それをすかさずアウターのポケットに入れていた。
プロデューサーは、多分、秋津のこういうところが嫌いだ。時々、秋津の悪口をわたしたちに話すから。
「なに買う?」と小河が橋本に話しかけ、
「えー、マッサージ機かなあ。あとゲームの課金。先ずはアイコスのタバコをストック」
「ファンにはいえないやつー」
「リアル女子なんてこんなものよ」
「わたし飲み代でカードの支払い残ってるからそれかなー、この前の男たち払ってくれなくてさあ。イケメンいなかったし」
「それこそファンにはいえないやつー」
と楽しそうに会話するのを尻目に、秋津は黙って帰る準備をする。
橋本はパフォーマンスとしては紙巻タバコを吸うが、ふだんはアイコスである。
春子が一度紙巻タバコを吸っているところを、目撃したことがある。そこで吸っちゃいけない、そんな場所だった。わたしがいるのに気付くと、ふっと悪戯っ子めいた笑みを浮かべて、──もうやめたつもりなんだけどね、たまに吸っちゃうの。中学の時、悪い子たちと仲がよくてね、と説明した。いまはいい子だよ、と咥えタバコのまま、手でハートをつくった。そこが喫煙所ではないことへの言及はなかった。話しながら、だんだん表情が乾いていくのを見て、はらはら何かが毀れるような笑みに変わって往くのをみて、わたしは、「そうなんですね」という相槌のほか何もしないでおこう、わたしはそれ以外の言葉・態度を差しだして、その相槌以上の効果を上げる能力をもたないだろうから、と判断した。
愛らしい愚かさ、なんだかんだ好かれる程度にしか不快を与えないマイペース、ほどよい不良感、そんな印象を当時受けていた。
事務所で、わたしははやくパルコと大型書店に行きたくてしょうがなかったので、小河に「何買うー?」などと話しかけられても素っ頓狂な声で返事しながら、内心では「あれも買いたい、これも買いたい」とうわの空。
事務所を出て、運動をしたので先ずは美容成分の入ったプロテインを買おうとおもい、コンビニに寄る。秋津がレジに並んでいた。仕事上の仲間であるし、べつに嫌いという感情もなかったために挨拶をしようとしたが、彼女が加熱式タバコだけを買ったあと(このグループ、喫煙者が多すぎるが、地下アイドルはもしや喫煙率が高いのだろうか)にレジの募金を箱ごと開け、釣りと封筒の残りをねじ込んだのを見て、わたしは話しかける権利を自身にみとめられず、黙ってドリンクのコーナーへ向った。ふと外をみれば、秋津が喫煙所で加熱式タバコを吸っている姿がみえた。かろやかな真顔、乾いているために一種爽やかにすらみえる、淋しい顔。
わたしは先刻の彼女の行動に、呆然としていた。
*
わたしの買い物は際限がなかった。
ところで──わたしは接続詞フェチであり、同時に人体への愛好という意味において(即ち、性的な欲望という意味ではない)関節フェチでもあるのだけれども、”ところで”という”話題の転換””比較対象をもちだす際の切り返し”をおおく意味する接続詞をかなり愛好しており、これが文章に発見されやすいのはわたしの基本となる思考の道筋をいやおうなしにわたしに突きつけるように想われる、というのも恣意的な”ところで”の多用はみずからの思考への絶えない注釈意識を露呈させ亦さまざまな価値尺度を知識としてだけ所有しそれ等に自縄自縛になっているわが身の状態を晒すからである、云う迄もなくこのようなダッシュを用いる注釈の多様も亦自意識の過剰によるものである(自制)──人間が現実を愛するには現実の醜さに跳躍して参入し、必然としてのいたみを享けながらそれを愛するために躰と思考をうごかさなければならないように想われ、亦、殆どおなじ意味において、女性が男性という属性で男性一般を愛するには”男性の現実”をその儘に余計な装飾をしないかたちで愛そうとわが身をうごかさなければならないのではないかと訝られる。
むろんすべての女性にはそれをしないという権利が与えられている筈であり──少なくとも、与えられるべきである──、従ってこの社会においてわたしたちは”男性をその儘には是認しない”という云わば権利にも似たものを所有している筈だという推測をえられうる。わたしたちはたとい男性優位社会に在ろうと、他者から如何なる非難を受けようと、認めたくないものを認めない、云うなれば肌のうちにうけいれず”皮膚の外側”という距離を保ち──水樹晶の言葉を想い起こす、然り、ファッションとは飽くまで皮膚の外側である。わたしの考えでは、DANDYISMとは衣服を血とともに肌へ食い入らせる必要があるため、わたしたちにとっての服装はけだしファッションではなく武装様式であり、自分自身を示す国旗であり精神への戒めなのだ──、「あなたはそうなんですね。然り。むろん、存在、肯定。そこにいて。わたしこれ以上あなたには接近しませんので、わたしの身振と表情からある種殺気として放つアトモスフィアによって、この拒絶心を察してくださいます?──これが怖ろしいほどに男性の多くに通じない──そうわたし、身体的な意味においても、精神的な意味においても、それをわたしの内には容れませんわ、絶対に。絶対に。つまりはわたし、あなたの考え方や欲や躰を吟味し考慮し正体を探ることすら拒絶する立場でありますのよ、それでよろしくて?(よろしいに決まっている)あ、たとえ身体へ比喩させた精神の意味であろうとも、あなたの御肌をわが身へくっつけたら、あなたの行為を否定しますわよ(よろしいに決まっている、どうかそうであれ)」という態度が肯定されるのである。
わたしはこの態度はけだし少女らしいそれであるとは想われるし、とりわけ美しくもないが醜いものだとも感じられないのである。たしかにわたしは過激で、攻撃的なところがある。だが、この立場に立つ権利を、ぜったいに奪われたくない。
前述の態度はきっと”男性”の部分にさまざまな属性を代入させえるし、それは現代の時代性と一見反しているようでもあり一見優等生らしく従属させているようにも考えられる。
男と女の愛情。それはもしあるとするならば、当人にとって特別なひと同士の、個人と個人による他と隔てられた特別性という概念の介入する関係性、くわえて永い信頼関係が必要であるのかもしれない。積み重なるものかもしれない。そうであるならわたし、それとっても素敵だと思います。
嗚。けれども、わたしは、もっと様々な属性に寛容になりたい。否。他者に優しくなりたい。
ここで、怖ろしい問題が立ち上がる。
わたしは、”人間”を愛するためにうごくことを、わたしの義務とし背に負わせている筈である。
亦わたしはアイドルとして、男性のファンをも包含して是認し大切にするために躰と精神を酷使させるという生き方を選択した筈である。
だが、わたしは「認めたくないものを認めない」という幼稚な倫理を、自己に課してうごいているのである。
この問題は、わたしにわたしの生き方の破綻の未来を既に予感させている。否。既に、わたしの詩的にして不合理な言葉が、それを”成立されえない”と、詩的理論に従い結論させている。
というわけで──わたしの買い物は際限がなかったのである。
*
家族の幸福を謳う看板。
ライト。白い光。裏返る眼球。無化。わたしの躰はパルコに在って、わたしの心は其処に無かった。
「一緒に死にましょう」
と、母は幼少期のわたしに言ったのだった。
わたしはそれを、全力でこばんだ。死に物狂いで包丁をもった母に抵抗し、一種凶暴な気持で突き飛ばし、「いやだ、いやだ」と泣き喚きつづけたのだった。
わたしは、そのとき、死にたくはなかった。母の夫、いわゆる、わたしと血のつながりのあるその男は、わたしたちにしばしば暴力をふるった。荒れた高校で数学教師をやり、気の弱い男は不良の生徒たちから舐められ暴行も受けたりしていて、傷ついたプライドを、身体的によわいわたしたちふたりへの征服で補っていたのかもしれなかった。かれは京都大学の数学科を卒業し、大学院でも研究をつづけていたのだけれど、わたしが生れたことで大学院を中退せざるをえなくなり、結婚というしたくもないものに縛られ、研究者の夢を絶たれたらしかった。わたしはその実情を深く知らないし、ほんとうに研究者になれなかったのがわたしのせいなのかどうかを、もはや知りたいとも思わない。ただ、かれはそう云いながらわたしを殴っていたのだから、かれはそうかんがえていたのだろうと、冷たくかんがえるのみである。
母は、元来精神におけるかなしい病をわずらっており、その事情が、男性に生活を頼る生活を、彼女じしんに一種ゆるさせていたのかもしれなかった。母はわが身を安定した生活に置くために、あたかもいそぐようにわたしを妊娠し、男と婚姻の関係を結んだのだと半狂乱で幾たびかわたしに説明した。
そしてその果ては、わたしとの心中未遂であったのだ。
わたしの激しい抵抗に耐えかねたのか、母はさみしげな顔をして、包丁を落し、まるでおのれじしんだけが被害者であるかのように、しっとりと湿度のたかい身振と声色で泣き臥していたのだった、その際も亦、わたしは「お母さんごめんね、ごめんね」と泣きながら機嫌をとろうとしていた。わたしは大人の情緒の変化が怖くてこわくてたまらなかったし、それは、いまでもわたしをくるしめる悪癖となっているように想う。この習性が、他者へわたしを恰も優しい人間であるかのようにみせかけていることが時々あるようにもおもえ、そのたびに、「騙してごめんなさい、ごめんなさい」、と頭で謝罪しつづける。
わたしにとり謝罪はもはや趣味であり、おそらくや赦されたいという自分への利益のためのみに為される、さみしい習性なのである。
お母さん。
あのとき、一緒に死んであげられなくてごめんね。
その、わたしじしんによっても如何にも奇妙なそれであるとみなされる想念は、わたしの脳裏からひき離されることはない、生存は、わたしにとり罪ぶかい。気持ち悪い。不気味だ。たくさんの条件を自己に掛けなければ、わたしは、わたしの存在を是認できない。わたしに一種勇猛な意欲でわたしに課せられた戒律は、けだしわがよわさと病的な習性との馴れ合いによるもの、唯、それであるのだ。
わたしはパルコの通路の端へ、わが身を身分に相応するようなかたちで追いやり、虚しきわが物欲と消費を、割れてさみしく飛沫を洩らす桃の身さながらに脹れる買物袋を床に置いて、唯、茫然としていた。茫然としていた。
わたしはいつの頃からか、自分のことで、泣くことができなくなった。
わたしはわたしによって苦しめられている自己をうえから俯瞰し、憐れみもせず、唯、冷然とみはなしているような気持で、時々嘲うような気持で、ふだんを生きている。
*
アイドルプロフィール。
名前:紗希なお
身長:153センチ
好きなアーティスト:水樹晶
尊敬する人物:人間をそのひと単位で尊敬しない主義
仲のいいメンバー:みんなと仲良しのこはるちゃん
好きなファッションスタイル:武装様式の話なら地雷系ですが?
将来の夢: つよくてやさしいひと
五年後のあなたはなにしてる?: 生きて歌ってお前を愛してる
座右の銘:きちんと生きて、きちんと傷つく
ファンへ一言:だから死にたい人間が貞節をもって生きてる姿はロマンチックなんだって、それだけでほかのすべての命のうごきと同様に俗悪な美しさがあるんだってずっとずっとオレはいっていますが、なに?
Ⅵ 真紅禁戒破門告白
春子と遊んだ日、わたしは、かれと出逢った。以来わたしはかれと幾たびか逢瀬をかさね、”恋愛禁止”というわが貞節をうけいれてくれたこの素敵な男性は、友人としてわたしに接してくれたのだった。わたしは、かれが、好きだった。かれもきっとそうなのだろう、そう、思っていた。はっきりとそうは云わなかったけれども、その気持は間接的に伝わった。
わたしはここでは、その人間関係の経緯・わが精神の推移を語りえない。
物語は二年とすこし、いったんはやばやと過ぎることを許していただこう。わたしはかれと指いっぽん触れない、愛情を告白しないという関係の裡にわが恋の衝動を置くことを赦して了い、仕事のストレスをその時の頬に炎ゆる火で癒す日々、グループは順調にメジャーデビュー、わたしはバラエティ番組に出て、ふだんはたどたどしいがこつぜんと攻撃的になるも言っていることはそれなりに善良で少女に愛され共感される病んだ少女──いわく、そう嫌われはしないという作為が介入するということ、嗚後ろめたい──という仮面を被り演じて、歌は巧いほうだったので「歌は巧いけどダンスはポンコツ、でも話すと面白くてかわいい」という評判をえた。やたらと能力に優れた春子は王道アイドルを徹底的に演じ、バラエティやパフォーマンスで高い評価、ステージやMVではいわゆるセンターポジション、最も華やかな立場にあった。橋本綾は根強い女性ファンからの支持をえる「露出はすくないがグループの人気を支えるリーダーポジション、ファンの数が多いし、ルックスも性格もかわいいので同性オタク受け抜群」というものに落ち着いた。
わたしはステージとバラエティ番組をのぞいて、社会的な場面においてすべて相手に従い、なにをされても謝ってただ相手の希むとおりのわたしを演じ、意識的に自尊心を損傷させていた。前述の手続書に従った。わたしは有名になったころには既に乾ききった眸をえていて、それがファンたちにはふしぎに魅力に映るらしかったけれども、男性たちからのそれには、やはり支配欲を連想していた。
秋津澪はこの間にアイドルを引退した。のちに春子は自殺した。橋本と二人グループで活動し始めて、すぐに新メンバーも入って、それから数か月が経っていた。
*
レストランの個室。
「付き合ってなんていわない、けれどいわせてほしい。ぼく、君のことがすきだよ」
「ありがとう。…うまれかわったら、きっと結ばれようね」
わたし、生れかわりなんて、信じたこといちどもない。むしろそんなのないほうがいい、死んだら終わり、だから死にたい人間は、倫理をもてるんだって、終われるから善くうごき、美をみすえられるんだって、そう想っていたのだけれども、ごめんなさい、わたし、生まれかわりがあったらいいなって、いま、希っちゃったよ。
愛されたい。愛されたい。なによりわたし、愛されたい。
愛されなくても愛したい、わたしのそれ、やっぱり偽善でしかないのです。生涯恋愛禁止、ほんとうは、毎日、毎日後悔してるの。だれにも理解されやしない。アイドルという職業を引退したら、だれも褒めてくれやしない。毎日破こうと迷っては、指さきは悲痛にむせび裂けんとする虚空を彷徨って、愛するひとと結ばれたい、とわに隣を歩きたいとも切願し、無を結おうとでもするようにそら揺れる指さき、されば、途切れた契りと憔悴したこころの千切り、それ等を結いなおす日々がわたしのそれである。
どうして?
ねえ、どうして?
どうして人間の心って、こんなにも揺れうごくんだろう。一途な光の徹るがような、意志の貫徹。何故そんなクソ面白くもない単調な諧調を、壮麗な配列であると人間は想うの? もしや、これも人性。要検討。
されどわたしだって整列したいのだ、外部の秩序で、内部の秩序で、その関係と、その関係のなかの関係ですらも。整列の秩序の果てに終点としてある硬い城へ、ビリヤードのように流麗な線を後方へ曳きながら、きんと硝子音を散らし光と辷り往くような人生。こころよい。そんな生き方、果してあるのかしら? しかしわたし、先ずもって教室ですら不整列でありました。現在のアイドルグループでだって、何処であっても、不整列で、色彩の異なり、ややうごくだけで歪な音を立てるのがわたしなのでありました。…
わたしたちはゆびさきすら触れずに、その場をはなれた。そのときかれがゆびいっぽん触れなかったこと、それが、わたしにとってかれがほんとうに素敵なひとであることの証拠であるように想った。それを踏みにじり、撥ねのけ、踵をかえせたということこそが、わたしがわたしであることを証明できたと想った。
魂を伝うきゃしゃなゆびさき、まるでそらなみだのようにうつろに翳曳き揺らめいて、真紅の恋は、漸く青みを翳りと映した眸硝子の、奥へ奥へと仕舞われて。
*
中庸な貞節。鉱石のそれのみならず、花の美をちらりと反映する貞節。
そんなものが、あってはならなかった。
*
うごかずに、唯美しくある、石の眸。
告白いたします。わたし、水晶に憧れているのです。それ、おそらくやひとびとのうちに睡っていると、想ってさえいるのです。骨を水晶と組みなおし、肌は銀製、澄む青い硝子の涙のみを血とかよわせ、完全無欠に美しく、善くて正しくありたいのです──不可能。はきちがえるな、わたしよ。わたしは射しちがうのだ、真善美を反映する天上の言葉と。懐疑主義めいたものに歪められた、この俗悪な火に操縦させるわたし固有の地上の言葉を、その観念的風景へ、弓を吹くことによって。
嗚。わたし、やっぱり愛されたい。愛し愛され、かのひとと、恋人の約束を結び愛し合いたい──禁戒。それを、しては、ならぬ。そうだ。従ってわたし、ファンなるひとたちを愛そうとするのだ。さすればいつや、愛し抜こうとするのだ。半端であってはならぬ、半端な親切なぞいらぬ。いらぬ。全我を賭け、思慮を重ねかさね、アイドル引退の最後まで愛し抜く──その後は? 途切れた予定。
何故それがわたしにできると信じているといい、わたしのこの愛は情念ではない、先ずもって理念だからだ。して、つぎに行為として愛し、それに伴い情念をさえも情愛と炎えあがらせ、それすべてを包含して、さながら現象へ還るがように、”愛”という光、一途にまっすぐ透したい──他者へ。そんな、わたしには不可能だと判断されることに、わたしじしんを掛ける。これに、一度きりの生を賭ける。清まれた死へと全力で駆ける。なぜといい、永久に完成されない目的に従う人生だけが、屹度、わたしを自殺からひきはなすであろうから。わたし、人生台無しですか? ええ、そうであります、なぜってわたし、なによりもわが人生を大切に想っているのですから、それができるのでありますわよ──されど死にぞこない、どうせ、わが身はそれなのだ。一度、棄てる気だったのだ。わたし、極論、命なんていらなかった。
閉ざされて独善的なのは、裏をかえせばわたしの武器。わたしが闘いたい闘いを、わたしが愛するうごきで闘う。
天空で照る美と善の落す翳の重なる処に、わが理念・情念を包み、その翳の陰翳に行為を操作させるのだ。感情の操作、それこそ全力で取り組まねばならない問いである、きわめて危うく、善と悪をはきちがえ転び、さすれば地獄へ落ちるかもしれぬ。それならばそれで構わないのだけれど、しかし、絶対に美と善は棄ててはならぬ。けっして、してはならぬ。されば、どうか注意ぶかく。注意ぶかく。かのシモーヌのように、注意ぶかく、そして、いつや優しくなってみたい。わたしはわたしの翳を、「ひとみな同じである」と信ずるわたしの”わたし”の翳を、わたしたちの底辺に睡る匿名の無個性の切なき水晶の領域、人性、いわく魂というものを──嗚、わたしはそれがあるかも信じられないのに、それがあると仮定して、人生を台無しにしようとしている──ファンのひとびとに愛してもらいたい。そうして、よわく生き辛さを抱えた本来愛されるべき社会不適合者たちに、あなたの”あなた”を愛してもらいたい。何故って、あなたたちの”あなた”は美しい筈だから。博愛主義?──お前が? 気持悪い。わたし、わたしが気持ち悪い。わたしが気持ち悪い。不気味だ、わたしは唯、わが身の空白を他者に満たしてほしいだけ、顔を覆って泣き崩れて了うくらいに、わたしは、わたしが気持ち悪い──。
生きてほしい。生きてください。たとい苦しくても生きてほしい。生きるうえでの苦しみの総量が喜びのそれをうわまわるのなら、苦しみを歓びに変えればいい。苦しみを、生きごたえにすることだってできる。
自覚している、わたしは、残酷非情なことを、独善で云っていたのだ。くるしんででも生きよ、生きてでもくるしめといっているのだ。
わたしはわたしのアイドル活動を、咽ぶような苦しみの幾夜をひとときだけ癒す催眠剤と使用してほしく、亦、この文章を、断末魔引きずって生きるひとびとの断末魔をひきのばし叩き連続するようなピアノソナタと激情させ、どうにか生き抜こうとする人間の為の劇薬として使ってほしいのだ。
何故、ここまでするかって?
勇気を、贈りたいから。いや、この感情の根は、おそらくや──わたしの隣にいてほしいと、甘えてみたいからである。わたしの愛するひとびとに、どうか、生きる勇気の有機のうごきをえてもらい、されば、隣で生きて欲しいからだ。自殺。それを、もう、わたしの好きなひとにしてほしくないのです。わたしは、わたしを好きでいてくれるひとに、くわえて、わたしが好きなひとに、自殺してほしくないのです。またと。嗚、エゴですね。はい。そうですけれども、何? エゴじゃない人間の感情とはなんだ。判らない。わたしには。けれどもわたしには、やはりわが生き方は誤りと悪と醜に満たされているようにしかおもえない。
されど推測。あらゆる観念的な思想──むろん高く深みのあるもの、そうでないもの含めて──それを獲得しようとする意欲自体にねむる心理は、すべてたかが人間のもので、高尚な意欲なぞない。感情に、聖域は、ない。ただ、それを抱き締め生きようとする、切なき俗悪なうごきがあるのみではないか。損ないを引き受け信念を背負い瑕を負っていくうごき、これだけが、人間に宿りえる高貴ではないといいきれぬものだ。
注意ぶかき、思慮を重ねかさね行使する、独善。わたしには、それをしかできないのではないか? そう、わたしは疑っている。まだ、なにも信じることができない。信じてはいけない。そう決意する。
しかしもうすこしで、信念へ落とし高められそうな考えも、わたしにはある。
「勇気」とは、権力・知性・美貌等の強いもの等を、まるで下僕とするのである。力の引き金でもある為に、おぞましい現象も起こしえるそれ、だからこそ、かならずや出発点、いわく情念の源は、何らかの優しさでなければならぬ。例えばそのうごきをうごかす原動力、外部からの悪の侵入のエネルギーを化学変化させたために蒸気と発生した、ある種の優しさであればいいだろう。優しさのゆびによって勇気の引き金に外部への光・音楽を出発させ、知性・力を理念的な愛によって操作し、勇気あるうごきで、現実に立ち向かうということ。ありとあるものへの軽蔑を極限まで減らすということ。不可解を不可解のまま複雑を複雑のまま其処に佇み、決定し突き放すことをしないということ。わが軽蔑心だけを、軽蔑し突き放すまでレッスンするということ。
わたしの考えでは、愛すると信じるはいつでも同意語だ。対象を大切にしない愛を、わたしは愛と呼ぶ気はない。信じていないものを愛する、愛するものを信じない、これは概念-少女倫理的言語としては、破綻しているのである。それはほとんど食欲か、あるいは支配欲、破壊衝動などの暴力にちかいものであるように、わたしには想われる──されどあらゆる愛のうごきは暴力であり、往き着く処は死ではないかしら?
「愛すると信じるは同意語である」、この前提の上に理念的に構築できる概念、それこそが「勇気」である。優しさがなければ勇気がえられず、勇気がなければ、優しさを行使すらできない。わたし、かよわいままで、頸く、頸しくならねばならぬ。
それをさせる条件。魂を、孤独の状態に保つこと。それをさらに孤独へ剥き、剥ぎ落しつづけるということ。
そうであるからして、わたしは、けっして恋愛してはならぬのだ。そうでなくてもいいけれど、誰よりも愛されたいという気持がつよいわたしだから、誰よりも死にたい気持の原因が淋しさであるわたしだから──恋愛を、禁じた。
おそらくや、わたしの現在の本性は、恋愛に依存する種の人間である。もし煙草を吸えば、一日に百本は吸うであろう──シモーヌ、貴女は、とっても頑張ったのよ──そして、その人間でありつづけ、その空白の穿たれた心の状態で、淋しさを神経とさらし、奇々怪々に、人間として、うごく。
わたしは淋しさに死にたい想いをするから、それを、生の意味にした。
恋愛は、孤独の感情を砕く、あたたかみの内奥の結びつきにより、それを霧とし刹那刹那だけ消す。さながら、溶けあうような錯覚を与える。わたしだけ、唯わたしだけが、幸福のふっくらとした豊かで暖かい厩へと逃げ込んでしまう。
世間はいう、「人間はこうであるべきだ」「こういう人間が正しい」「心の在り方はこうであるべきだ」、それは多くの場合、秩序の与える知性として正しく、それなりに優しい。幸福を撒く生き方、それへ促すことがやはり多い。されどその外部から与えられた社会的言語による生き方が、あるひとたちにとって、絶対的に不可能なことがある。どうしても、そうはなれない種族がいる。わたしのファンの多くが、おそらくやそれだ。
なにが、悪い?
さればわたしたちは、わたしたち固有の生き方を追究するほかはないのだと想う。秩序から魂を墜落させ、下から網を眺め、その反動と照らし合わせで自我を注視し、たとい他者から堕落だと揶揄されようと──それ光栄だ、光栄──自分にもできる、みずからの悲願の実現と他者への献身というものの重なる領域を現実との擦り合わせのなかで模索し、労働としてうごいて行為し、切ない願望により行為を投げつける。もしや他者に喜んでもらえるかもしれない、悲しみを癒すことができるかもしれない、或いは苦しみを歓びへ化学変化させられるかもしれない、すれば淋しさは、ややであるが熔ける。劇薬。催眠剤。わたしのアイドル活動は、唯それ等でありたい。そして、わたしが、ほんとうに生きたい生き方を生きるのだ。くるしみたい苦しみをくるしみ、美しく善いと想うもののために、醜悪に、奇々怪々に、まるで人間らしくうごく──人性の可憐さの発露。
純文学、という、言葉がある。
いかにも文学の価値を信じすぎた、人間らしく青くさい人間がつけた滑稽な名辞だ。いとおしい。そう想う。
それとおなじ「純」の使い方で、こんな人間を、「純-人間」とも呼んでみたい。文学(人間)にしかできない純粋な領域を、落し純化させた言葉で書く(生きる)。わたしは、遥か頭上で照る月硝子城へ向かおう。腕を振れ。腕を振れ。なぜって、その城ははじめから無いのだから。
文学、人間。書く、生きる。わたしには、まったくもって、同じものだ。
そして、果てはその受難の道で剥ぎとれた水晶の青薔薇を、まるでこどもが、好きなひとへきがるにプレゼントするように素朴で素直な心情で、ふっと抛り贈る。して、消ゆる。
わたしの夢は、そんな、犬死にもちかいものである。
わたしの生き方、秩序が与える言語に、絶対に侵されはしない。染まらない。含まれない。ねえ。聴いて。わたし、純粋でありたいの。齢、はや二十。永遠に、「少女」でありたいのがわたし。
はき違えないで。
わたし、こころの意味では、自分はまったく優しさや愛なんかでうごいてないと解っている。優しさ。愛。わたしにはそれ、わたしに可能性として睡るかも判らない(優しくなりたい、ひとを愛したい)。善への欲望のような、耐えがたい個の痛みによる結びつきの欲望のような、そんなものでわが身はうごいているのだと想っている。
されど善は、絶対的なものだ。わたしの命とは、不連続なものだ。わたし、ひとつだってそれを知りやしない、あるかどうかすら判らない。おそらくや、ない。あるいは不在として、それすべてに満ちるのだろうか。有無すら生涯解らないのなら、生涯、不断にうごくだけである。それの落す翳、それを這いまわって捜すのが、わたしのアイドル活動なのである。純粋な奉仕。ない。ない。ない。されば、地を這いまわり、惨めきわまる奇怪なうごきで、捜す。さがすのだ。わたしの一途は、屹度ここで迸る──此処で、歌がおのずと喉を突き昇る。わたしは詩人、野原を彷徨うやつれた夢想家。根で俟つ浮世離れした、憧れを歌う人間。そう。わたしは、アイドル。ファンなるひとびとへの、奉仕の美であれ。
されど感情の意味において、果して奉仕はありえるのか。
わたし、恋人と愛し合ったりしないし、けっして、幸せにはならない。不幸面。それをして、生きる決意です。ずっと、はた迷惑にも、不幸な貌をしていたい。それをこそ幸福、不幸に佇めるというなによりの恩恵であります。わたしは幸福です。わたしは幸福です。だって不幸でありつづけられるから。衣食住。他者たち。応援。賃金。世間。ありがとう、ありがとう──わたしの握手会、さっと感謝し握手して、さっとわたしへもどるだけ。
ずっと、暗みの籠った眸をしていたい。伏し目がちで、いい。否定をされたら、鼻から煙草の煙を吐きだすくらいメンタリティで生きていたい。そうして、その奥の光、しずかに清ませていければそれで佳い。
俟っている。俟っているのです。空の重たい鋼の瞼、いつや割れて薔薇の吐息、わたしの頬へと、光と音楽として吹きこむことを。
どう? わたし、ぞっとするほどエゴイストでしょう。陶然(うっとり)する。頬の金属質な薔薇艶の如く、わたし陶然する。自分のこういうところ、わたし、じつはキライじゃないの。わたしの考えでは、人間の自己愛や、エゴイズムは、けっこう、可愛いのです。自撮りして、「いいね」を待って、数をみて、にやっとする。可愛いじゃん。
人間のエゴイズムは──淋しく澄めば澄むほどに、本来のかたちに還るほど、ひたむきであるほどに、切情的だ。
*
神さま。
わたし、どうか、かれと結ばれたい、けれどもわたし、そんなの赦せやしないのです、だから、はやく、自然死させて。このくるしみと戒律から、どうかのがれさせてください。
*
次の日、朝起きて、電話が鳴り喚いていて、習慣でスマホを使い天気とネットニュースを見るとわたしとかれとの密会が話題、さっと血の気が引き、縋るようにSNSへ行ってわたしを愛してくれたファンたちの書き込みを見に行った。信じてもらえていると思った。信じてもらえていると思った。が、それ等をスクロールしはじめた数秒後、目の前が真っ暗になった。
*
わたしはこのあとの心の変異をみて、やはり亦、わたしが月硝子城へ向かうための操縦の仕方をまちがっていたことを知り、亦、わが美と善をみまがっていたのはほかならぬわたし自身であるということを知った。
*
嗚、自恃──これをすら。
わたしの一自尊心は毀れて了った、いわく、これまで魂のレッスンとしてみずから瑕を負わせ不幸の裡でズタズタに砕かせていたわたしは、知らずのうちに魂のそれでなく、俗悪な、然し人間にはなくてはならぬ、生命の存在しえる条件のようなものを疵つけていて、遂に、それを破壊して了ったようだった。
どこかではきちがえていた、はきちがえていたのだ。わたしは、恰もわが身が救世主であるかのように、自己の心をみまがっていたのだ。
わたしは理想、そして美と善のかさなる領域への路を往こうとしていた、自己をくるしみといたみの盤に置き、美をみすえ善くうごいた人間だけが辿りつけずとも往き向うことのできる、月硝子城の反映としての月影城のなかでうごき、然し、その湖に映る城は月硝子城を照らしてなどいなかったのだった。それは暗みに蔽われているために見紛っていたべつのそれ、さかしまに穿たれ沈んだ、醜と悪を司る淪落の漆黒舘であったのだ。それは月硝子城のように、けっしてひととは不連続で遥か彼方の天に赫々とめざめるものではない。人性に睡り、“わたし”を食い荒らさんと腕をのばし轟々と唸る濁流で暴力的に沈ませようと、邪悪なものへ淪落させんとする、わたしたちの“我”の内奥で虎視眈々と瞳を光らせる、わたしと連続しているどころかわたしの内部に宿るわたしである。それはけだし肉体の悪魔の棲みつく領域である。
青空の美しさに、爪を立てるが如くの憎悪をおぼえる。
道行くひとびとに、荒みきった眼差しで反転してしまった暗みの嫌悪を投げかける。
道行くひとに気付かれ話しかけられたら、顔を覆って逃げる日々。
わたしの在るのはたしかに地獄であった。地獄とは外界になく、わたしたちの魂の状態がみせた、見せかけではあるものの虚空と無惨と悲痛と破壊を重力に伴れ欲望させ、底の底に佇ませる人間共通の領域であるような気がする、その地獄は眸にうすらいの氷さながらに張るものなのだった。それが本来の視力を翳らせ失わせるのであり、その眸が外界をすら地獄に視せるのではないだろうか。
この文章にあたってのせめてもの誠実さ、責任のために告白しておかなければならぬ。わたしは、”わたし”への信頼を、みうしなった。愛なんていずこにあるのか、ある種純粋であった年齢-少女期よりも解らなくなり、しかも脳裏に過りいまにも蔽われそれに”我”を従えそうになる情念は、憎しみのそれであった。怒りのそれであった。破壊欲という悪魔のそれであった。わたしをくるしめた現実への。それの理不尽への。そしてなにより、それと闘えぬ、しかもそれを憎みえるわたしじしんへの。失望。わたしの、わたしへの、失望。わたしじしんとは、睡る水晶、いわく魂というわたしには本質的に信じることができぬ仮定的な領域すらをも包含した存在への否定であり、悲痛に沈む自己への破壊衝動は脹れ制御不能となり、やはりというべきか、わたしはかの男との恋愛への欲心に、恰もぬらぬらと粘る体液と垂れ生々しく獲物の血と肉の臭いを放つ、巨きな毛だらけの脚に張り詰められた心地、気付くと、こんな病的な文体のメッセージをかれに送っていたのだった。
「結ばれましょう、結われましょう
わたしたち 手を繋ぎ、いっしょに不幸になりましょう
堕ちましょうよ おいやですか?
よかったら いっしょに死んで、いただけますか」
わたし、はや、これ以上生きることができない。
*
かれからの返信は早かった。或る高級ホテルで待ち合わせ。アプリでタクシーを呼ぶ。タクシーに乗れるようになったわが経済力の変化を嗤いながら、来るとそれに乗って其処へ向った。
わたしたちはおそらく恋人の契りを結び、身売のそれでなく初めての求め合うセックスをし、そして、何らかの方法でともに死ぬのであろう。わたしの恋愛禁止を知っていながらこの提案に頷いたかれは、悪人である。何処までも、どこまでも卑しい悪人で、わたしはかれを心から嫌悪し軽蔑した、もはや以前の人性への信頼への意欲は死んでいる。そんな嫌悪は自己否定の投影でしかなく、然し、それでも尚わたしは、あの男が欲しかったのだ。あの男に選ばれたいと想っていたのだ。否、わたしはあの男を既にして撰び、してかれがわたしを撰びとったのだという事実を刻んでいただき、かれから求めされ縛られ打たれることによって、ズタズタに毀れ破壊された魂を蹴っ飛ばしかれという仮の主人を聳えさせていただきたかったのだった。わたしは、好きな男に選ばれたわたしが、欲しかったのだ。
わたしは『O嬢の物語』に悦楽を読む、肉体ですら、わたしのそれは悦ぶかもしれないと訝られる。低められた自尊心の求める状況に、おそらくや男女の差異はそれほどにあるまい。わたしはわたしを縛りつづけたが、それすらも低められ損傷した肉体的自尊心によって為しえたものであり、その緊縛が緩まれたいま、唯、外界に従属し暴行されることを希む。その暴力が、魂にまで侵犯されることを希む。
下らない、下らない。実に。実に。俗悪なわたしが憎みつづけ、生を掛けて批判しつづけ、然しなによりも焦がれていて、喉から手が出るほどに欲しかった、幼少期・少女期を補うように貪りたかった、両に想う愛欲の満たされた悦び、情欲と情欲の絡み綾織りともども果てへ投げ棄てられるような快楽、愛し愛され愛し合い破壊し合い死に結ばれるという幻想を張られた性愛のうごきの予感に、わたしは自己への軽蔑に歪んだ愉悦の笑みを漏らしていた。
ビルに着き、屋上で待つ。冷然な風が吹きつけ、石張の床は硬質。わたしは乾ききりいまにも項垂れてもおかしくはない肉体であったが、口許だけは奇妙ににまにまとさせていたのだった。恰も頬が、薔薇色であった。いま、わたしはまるで唇と頬だけが生きているよう。それは、唯の花であるようだった。
花。
花は美しいという観念の象徴を託され、わたしじしんもそのメタファーを使いつづけたが、そんな他への期待に従われ前のめりに頭を突き出すように示されたコケトリーなぞ、美しくもなんともあるまい。花にたとえられることほど、女性を貶める言い方なぞあるまい。
しかし人間が現実の裡で他者と関係しながら生きるというのは、けだし花を示しつづけることともいえはしまいか。或いは倫理の美しさとは、花にも似てはしまいか。花の美を、わたしには突き放すことはできない。
わたしは花よりも、鉱石にたとえられたかった。石のように美しい。そういわれたかった。わたしはわたしじしんを苦しめるから、削ぐから、剥いで往くから、いずれ透明になったとき、わたしの”わたし”を天へ投げてもらいたい。それがわたしの、アイドル活動のうごきであった筈だ。
美しいのはめざめた水晶で、光が音楽に徹る現象で、ダイヤモンドの硬い反映で、空の怖ろしさであり、海の非情であり、燦爛と照る蒼銀の月であった。嗚。月硝子城。わが、嘗ての憧れ。
ファンのみんな、裏切って、ごめんなさい。されどわたし、ただわたしだけのために恋愛禁止を守り、そして、わたしのためにそれを破棄するのです。わたしは、低劣であります。俗悪で、轢き殺されるに相応しい、神経ですらない屑のような物質です。愛欲のケダモノ、肉体質な悪魔、それでしかありません。
最初にして最後の、愛する男に求められ為される抱擁を想った。その儘に死へ墜落するというロマンチシズムの極を夢想した。そこにエロスの炎ゆる生の墜落点の極地をみた。人間の心の核とは、ここに在る。わたしは、これでいい。“わたし”と我の中間地点より射し昇る、本性の一つの呻き。みずからを破れかぶれに肯定するような心のうごき、嗚、わたしはこれを、絶対にしてはならなかったのに、わたしは頭を抱えて、いまだに帰ろうかと逡巡しており、わなわなと泣きじゃくり、これまでの苦痛・努力・孤独を想起して、追懐として逆算し辿った。辛くて辛くて仕方がなかった幼少期から年齢-少女期の記憶に迫られて慄然として、わたしは死へかたむきかねぬ淋しさを満たしてもらったことがないと自己を憐み、哀れみ、それでもわたしは、最期のさいごに漸く愛されると、満たしてもらえるのだと…。
ホテルのBGMが、変わった。
バッハ。
小フーガ、ト短調。
わたしのすべては圧し揺るがされた、霊肉の悉くがどっと動揺し、肉が罅割れ乖離し、ありとある調和をかき乱され、心身の統合をまるで喪った。して、わたしのあらゆる心の推移はひきとめられ、その欲望の濁流は忽然と音楽という美にまっさらにせきとめられ、眼前には──幼少期からわたしをなによりも畏れさせ、なによりも美を感受させた、”青”のそれすらをも凌駕する絶世の神秘の美、恐怖の情念と美の観念の重装した終末に剥ぎとられた絶景の風景──”ましろ”が立ち現れた。
ましろ。ひらがなで、書く。美しさに、ゆびがぞっとふるえる。さながらに殉教ののちの、唯聖性の不在という非情の聖性が射される、風すら吹かぬ空無のそれ。
わたしはわが恋の海から完全無欠に放逐された、「我」からがらんどうへ、剛隆に投げ棄てられたよう。して、薙ぐように現実から刈り取られ、幻想と虚空にわが剥き出しの神経がひりついて凪いでいた。わたしはバッハのオルガンと、”わたし”を結ぶほかの悉くを喪失した。
美。
それは時に、ひとを畏敬と慄然と呆然に吹き飛ばし、それ等すら奔っと霧消させる。それは魂のみを真空めいた空無に浮ばせ、ありとある「我」に属すものが薙げられる。それのみと漂う魂こそ危いものはない。たとい悪であろうと、たとい善であろうと、或いは善と悪の重奏な巨大な城であろうと、その刹那魂が惹かれた領域へおのずと跪かせ、そが光と音楽に導かれることがある、まるで魂が従属された肉体がそうするように。
わたしは、なによりも美しいものを怖れ、そして、愛していたのではなかったか?
真紅の、禁戒。
真紅の、禁戒。
シンクノ、キンカイ。す、と優美にすべりこむようにはじまり、きんと硬き響きを立てて撥ねとばして”わたし”へと一途に徹る、けだし硬質な音楽。Kの子音がリフレインする、鋭く裂き叩きこむ如き音韻。Iの結末へたたみこむ、硬き反映をあげる燦爛な光。我に謳われし、我のみに抱かれし詩歌。そが美たりえるましろへ血飛沫と抛り、ぞっと燦爛たる緋色を照り燦らす其れ──真紅の、禁戒。
瑕負い、剥ぎとり、恰も全我より吐血せんが如くわれによって緊縛された、死に弧をえがかれし円の線描を決定させる、肉と魂との不可視の契り。
わたしの抱く、わたしだけの、”わたし”と結んだ、真紅の禁戒。
この貞節をだけは、守護せねばならぬ。
揺らめくように委せるほかなき音楽。光の一切を喪失したために不在と閃いた暗闇というすべて。久遠という刹那。死でしかない生。暗闇。無。美。刹那と久遠。不在としてすべてを綾織り張る、まっさらな無にして唯一無二の観念。闇とは空無。黒はましろ。それは美。
かれと逢うくらいなら、いま、此処で終わらせたほうがいい。
約束よ。星空と交わした契りよ。わたしは清ませた魂の毀す光を、こどもが綺麗な石をにっこりとてわたすという月へ、往かうことができませんでした。唯、わたしはこの禁戒をのみ、守護いたします。すべてよ、不在よ。わたしのことを、実在として絶対に赦さないでください。
わたしはバッハのこの音楽に、恰も銃に撃たれ頽れるがように、せつなで跪いた。久遠へ。無へ。美へ。
ふっと、わたしの躰が、翳曳き揺らめく。
晶ちゃん。
貴女は、わたしの永遠のアイドルです。その永遠を、この、どんな名文家・美文家よりも貴女の遺書の文体をひっしで模した拙き物語に、磔にいたしましょう。わたしも亦、月へ往かうことあたいませんでした。
敗北。
失墜。
墜落。
それだけが、月硝子城へうでをふる、憧れに生きるシオマネキのわたしたちの宿命でありましょうか?
二十歳。希わくば、シモーヌ・ヴェイユの其れのような死を、迎えたかった。
*
数週間後、わたしは、死ぬことができなかったわが身を、絶対的な禁戒を破って地上に取り残された罪ぶかきわが身を、まっしろな病室でみいだした。
真紅の禁戒 第1部