女の都

            
          1 足止め

 急に雨足が強くなり、ワイパーが追いつかなくなった。制限速度の五十キロ以下までスピードを落とした。淡路サービスエリアを出て一時間。淡路南インターチェンジの手前六キロだった。電光掲示板に鳴門北―淡路島南、強風通行止めの表示が出た。もう少し早く来ていれば通れたかもしれなかった。南條は唇を噛み、淡路南パーキングエリアに車を入れた。
 八月の最後の土曜日だった。午後になってようやく仕事が片づき、新横浜から新幹線に乗り新神戸で降りた。新神戸でレンタカーに乗り継いだ時には午後四時半を過ぎていた。折悪しく台風が四国に接近していた。高松行の高速バスが運航中止となり、急きょレンタカーに代えたのだ。明石大橋を速度制限なしで通行できたので、少し油断していた。淡路SAでコーヒーを飲んだのがまずかったか……。
 午後七時を過ぎていた。スマートフォンで宿を検索し、インターチェンジから一番近い観光ホテルに電話した。四国へ帰る団体客が緊急で入って満室だという。ただし和室休憩室で良ければ、バストイレがなく相部屋になるが、料金はツインの半額以下になるという。南條は即座に予約した。すでに辺りは暗く、強風雨の中、他の宿を探して回る気はなかった。山道をカーナビに従って十分あまりで、鳴門海峡に面した高台のホテルに着いた。
  
 ホテルの駐車場は観光バスや乗用車、大小のトラックなどで満車に近く、玄関から遠い場所に車を置くしかなかった。SAで傘を買い忘れたことに気がついた。しかし仮に傘があったとしても、この強風雨で傘の役目が果たせるか疑問だった。雨が小降りになるタイミングを見計らって、南條は素早く車を降りた。ラグビー選手のようにボストンバッグを小脇に抱え、横殴りの雨の中を玄関に向かって走った。

 十二畳の和室には、すでに相客が居た。浴衣を着た五十歳代後半の男だった。南條は部屋の入り口で挨拶した。水を含んだTシャツが肌に貼りつき、ジーンズが濡れて黒ずんでいた。
「かなり濡れましたね」
 南條の哀れな姿を見て男の表情が緩んだ。
「駐車場から玄関まででこの有様です」
「お風呂に入って着替えた方がいいです」
「そうします」
「私はこれから二階のレストランで食事をします。部屋の鍵が一つしか有りませんので、申し訳ないですが、風呂から上がりましたらレストランまで来て頂けませんか」
「わかりました」
 南條はバッグを提げて地下の大浴場へ向かった。浴場は空いていた。南淡温泉というらしい。風呂から上がるとホテルの浴衣を着た。コインランドリーへ行き、濡れた衣類を洗濯乾燥機の中に放り込んで五百円硬貨を投入した。それからバッグを提げてレストランへ行った。窓際のテーブルで男が手を上げた。南條は向かいの席に座り、生ビールを注文した。
「お食事はどうされますか?」
 従業員の若い女が聞いた。ハモ定食を注文した。男が食べていたのだ。ハモの湯引きを肴に、彼は日本酒を飲んでいた。
「時任と言います」
 と自己紹介をした。
「南條です」
「ご旅行ですか」
 さっきより寛いだ様子で時任が聞いた。
「いえ、仕事で高松へ行くところです。あなたは?」
「旅行です。三日夏休みを取って、京都から但馬の方を回ってきました。台風が接近したので一日予定を早めたのですが通行止めになってしまって……本来なら、もうとっくに家にたどり着いているのですが」
「徳島の方ですか」
 時任がうなずいた。
「橋を渡って三十分のところに住んでいます。大鳴門橋はすぐ通行止めになるんですよ。地元ではよく知られてるんですがね」
 時任が苦笑した。窓の外は鳴門海峡である。天気が良ければ海峡を隔てた対岸の灯火や、大鳴門橋の明かりが見えるのだろうが、今は嵐の中で視界が悪く、その明かりもよく見えなかった。
「南條さんは、どちらから来られました?」
「神奈川の川崎です。新幹線で新神戸まで来て、そこからはレンタカーで」
「とんだ災難ですね。こんなところで足止めされたら、仕事に差し支えるでしょう」
「ええまあ。明日アポを取っていますので、それに間に合えばいいのですが」
 今回の取材に二泊三日の日程を組んでいた。明日の予定を消化できないと正直困る。
「こうなったら、台風が早く通り過ぎてくれたらと思いますね」
「台風情報では進行速度が速まっているようです」
「そうですか」
 明るい材料だった。南條は少し安堵した。
「ハモはいかがですか」
 時任が穏やかな笑みを浮かべながら聞いてきた。
「いやあ、おいしいですね、肉厚で脂がのっていて。東京じゃなかなか、こんな湯引きは食べられません」
「ハモはこの淡路や徳島の特産なんですよ」
「へー、そうなんですね」
 時任はハモソーメンが終わり、デザートを待っていた。
「南條さん、お仕事は、何をされているんですか」
「フリーライターです」
 高松へは讃岐うどんと四国八十八カ所の取材で行くこと、明日の十時に屋島のうどん店で取材することを南條は話した。ようやく時任のデザートが来た。
「ここから屋島のそのうどん屋なら、一時間少々で行けます。今夜中に台風は近畿へ抜けるでしょうし、明朝には通行止めが解除されているでしょうから、八時に出れば、十分間に合うと思います」
「そうですか。予定通りにいけばいいのですが」
 時任がコーヒーを頼んだ。南條はハモの天ぷらが終わったところだ。
「時任さんは、お仕事何されてますか?」
「市役所へ行ってます」
 言われてみれば、たしかに公務員という感じがした。実直で真面目そうで面白味にはやや欠けていそうな……。
「よく旅行されるんですか」
「一年に二、三回ですね」
 時任はゆったりとコーヒーを飲んでいた。
「意外にうまいコーヒーだ……」
「八月、京都は行事が何かありましたかね」
「お盆なのでいろいろありますが、五山の送り火とか……」
「ああ、そうですね」
「私は趣味で写真をやってまして、今回は花街の女たちを撮りました」
「花街というと、舞妓さんですか」
「舞妓や芸妓ですね。最近は、彼女らを撮影する人が多くなって、頻繁にマナー違反をやらかす思慮のない連中が増えています……もっとも私自身、気が付かない内に迷惑をかけているかもしれません」
 時任が自嘲して頭を掻いた。やはり生真面目な人だ。
「ちなみに、カメラは何をお持ちなんですか?」
 時任が言ったカメラは三十万近いものだった。
「私も仕事の関係で写真を撮りますが、カメラはこれのみです」
 足下のバッグの中から、量販店で買ったばかりのカメラを南條は取り出した。一代前のモデルで、二本のズームレンズ込みで六万円だった。
「ちょっと持たせてください」
「どうそ、どうそ」
「これは、軽くていい」
「電源入れてください」
「そうですか、では」
 時任は嬉しそうに掌の中で感触を確かめ、液晶ファインダーを覗いていた。
「動く被写体を追う場合は、軽いカメラがいい。重いカメラは疲れます」
 と言ってカメラを南條に返した。
「兵庫県へもいらしたんですね。やはり撮影ですか」
「いえ、調査といいますか……」
「調査ですか。お仕事で?」
 南條が聞き返した。
「いや、個人的にちょっと調べたいことがありましてね……」
「ほう」 
 南條はハモ寿司を食べ終わり、デザートの皿を前に寄せた。
 時任は少し考えていた。

「大鳴門橋建設の頃の話になりますが……」
「と言いますと?」
「三十年前のちょうど今頃でした」
 一九八一年は東京の大学に行く前の年だったと南條は思い出した。
「南條さん、女護が島というのをご存じですか」
 話題が急に変わった。
「え? にょごが島、ですか」
「女護の島、もしくは女人国とも言います」
「確か、女ばかりが住む島、あるいは場所のことでしたか」
「そうです。少し込み入った話なので、部屋で酒でも飲みながらお話しましょう」

 時任は、一見しておおよそ特徴のない人物だった。髪は七三に分け、体形は中肉中背。一度面談しても、時間がたつと印象が残っていないといった性質で、話し方にしても、何ら奇矯な要素も無く、人を面白がらせようとする意図を感じさせなかった。ごく普通の真面目そうな人間だが、何か伝えたい事がありそうだった。
 だが実のところ、南條はあまり期待していなかった。台風で通行止めになっていなかったら、そして、泊まったホテルで相部屋にならなかったら、そもそも時任の話を聞くこともなかった。だがその時は二つの偶然が重なり、朝までの長い時間を、南條が持ち合わせていたのだった――。

          2 八百姫の墓

 レストランを出た。ロビー階にあるショップへ行き、鳴門特産の焼き芋が原料の焼酎を時任が買った。南條は氷とつまみを買った。部屋に戻ると、南條はバッグと買い物を一旦置き、コインランドリーに洗濯物を取りに行った。ジーンズがまだ湿っぽかったので、乾燥時間十分にして百円を入れた。
改めて和室の卓に時任と差向いに座り、焼酎のオンザロックで乾杯した。焼き芋の甘い香りが喉から鼻孔を抜けていった。こんな焼酎があるのかと南條は感心した。
「それで、大鳴門橋と女護が島はどういう風に繋がるのですか」
 気乗りはしないものの、とりあえず儀礼上、南條から切り出した。袖触れ合うも多生の縁という。
「少し準備をします……」
 と言って、時任は裂きイカを口に入れた。目を瞑り、しばらく咀嚼して飲み込むと、焼酎を一口含んで飲み下した。もう一口飲むと、座椅子にゆったりと凭れた。そんな風にして三十年の時間を遡っているのだろう。
「南條さん今お年は?」
「四十七です」
「じゃ南條さんが十七の時だ。当時私は二十七でした。仮にA市としましょう、A市の土木課で、私は用地の仕事をしていました。そのころは、本州四国連絡橋の神戸鳴門ルートのうち、大鳴門橋を建設中で、神戸淡路鳴門自動車道と高松自動車道の用地買収が進んでいました。橋を含む高速道路の建設は本四公団が担当し、高速道路に関連する県道の新設や拡幅は県が、そして県道につながるA市の道路の整備はA市がと、それぞれが分担して事業を進めていました」
「時任さんは、市道部分の用地を担当されていたんですね」
「はい。私は技術屋でなく事務屋でしたから、道路が建設される予定地を買い上げる仕事でした。公共事業が盛んな時代で、橋に近いA市でも、あの時ほど道路整備に予算を割いた時期はなかった」
「そうなんですね」
「失われた二十年とか言われる時代のさらに前の時代で、本州と四国の間に連絡橋を三本も建設していました。現在では考えられないような大盤ふるまいですが、当時は、全国で競い合うように公共事業が行われていたのです」
「そうそう、そういう時代でした」
 南條はまだ十代の高校生だったが、日本がまだ元気だった時代を覚えている。依然として日本の方々で山を削り谷を埋め、山の中にトンネルを掘って新幹線や高速道路を作り続けていた。
「大鳴門橋の関連道路が、公団から県、県から市へと次々に波及していき、新しいルートが地図上に出来上がると、それにつながる道路を新設する必要が出てきます」
「なるほど」
 南條はグラスを傾けた。
「私が担当した新設道路の予定地に墓がありました」
 時任が用地買収に関わった道路は、B町との境界線にほど近い、住宅地のはずれの山際を一直線で通すものだった。予定地は、登記簿上の地目が山林。周囲に人家は無く、一面藪や雑木林が広がる荒蕪地で、土地所有者も買収を望んでいた。
 墓地は、道路予定地の真ん中にあった。盛り上がった地形の、椿の大木に囲まれた草むらに宝塔があった。長い年月で風化して、墓碑銘が薄れていたが、墓自体は比較的きれいに保たれていた。近所の人の話では、たまに訪れる女性がおり、掃除をしたり、しきみを祀るのを見掛けたことがあるという。一帯は、昔から耕作に向かない土地で、辺り一面藪だったが、最近になって住宅地として造成された。古老と称する人も含め、墓の由来について知る人はいなかった。
 専門家に墓碑銘の解読を依頼したところ、室町時代中期の享徳三年に亡くなった八百姫と呼ばれた尼僧を偲んで、当地で養女となった松子と言う女が、八百姫が居住した場所に建てたが、時代が下って元禄年間に、松子の子孫がこの地に建て直したものらしい。墓と言うより記念碑と言うべき内容で、八百姫がこの地に居住して神仏の信仰を勧め、善行を施したことを称える内容だという。
 松子の系図を郷土史家が探し出してきた。A市の隣村、今はB町の寺に松子の墓があり、過去帳に記載があるという。過去帳を辿っていき、明治以降は古い戸籍と突き合わせながら、ついに現在の子孫に行き着いた。
 墓の所有者は、祭祀承継人として一本の系譜を辿っていけばよい。その結果、子孫が兵庫県の北東部の生野町に住民票のある武田美弥という女性であることが分かった。 
「そこまで調査しなきゃいけないものなんですね」
「権利関係は根拠法に基づいて厳密に処理しなきゃいけません。墓の移転は土地所有権の移転を必ずしも伴いませんが、無縁墓でもないかぎり、勝手に動かすわけにはいかない。必ず所有者、管理者の同意が必要です」
「で、管理者であるその女性の同意が必要だったんですね」
「そう。そこら辺をいい加減に処理すると、後でどんなトラブルになるかもしれない」
「どうして勝手に墓を動かしたのとか」
「後になってゴネられたくないので、どんなに小さな物件でも、正式な手順で法的に処理しないといけません」
「道理で役所の仕事は手間がかかるし、時間もかかる訳だ……」
「民間が事業主体でも同じですよ。登記や移転補償などの事務手続きは、煩雑だからと言って省略したり、簡素化するわけにはいかない。人の財産ですから」
「そうでした」
 南條は頭を掻いた。
「武田美弥に連絡を取ると、移転の件については異存がないが、今は忙しいので、市役所にお任せしたいという返事でした」
「そんな風に言っておいて、後で文句を言うわけだ」
「ははは。そんな人もいますね」
 南條は中座してトイレに行き、帰りに自販機でミネラルウオーターを買った。焼酎に少し飽きてきたのだ。
「事情をお聞きすると、墓参りじたい隔年でやっと行ける状況で、墓の移転補償金を貰っても、徳島まで出向いて処理することは到底無理なので、全て市に委任したいということでした」
 時任は飽きもせず焼酎をストレートでちびちび飲んでいた。
「それで委任状を貰うために、結局時任さんが会いに行ったんですか? 女性が住んでいるという兵庫県の生野町でしたか」
「係長と二人で行きました。用地交渉は原則一人では行かないので。言った言わないのトラブルを避けるために」
「電話で話がついてたんでしょう。委任状に判を押して貰うだけなら、郵送でも良かったんじゃないですか。わざわざ現地まで行かなくても……」
「由緒ありそうなお墓でしたし、この件は本人に直接会う方が良いと上司が判断しました。
それに工期が迫っていましたので、確実に期日までに書類を揃えたかったんです。そのためには直接本人に会って判を貰うのが一番確実でした」

 時任がトイレに立った。すでに十時を過ぎていた。
「かなり荒れてきました」
 部屋に戻った時任が言った。
「台風がコースを変えたそうですよ」
 部屋のテレビをつけた。台風情報では、紀伊半島に向かうと思われた台風が、進路を北に向け、四国東部に上陸しそうだという。ということは、徳島市あたりをかすめて淡路島に真っ直ぐ向かう公算が強かった。
「これは、明日も昼頃まで通行止めになるかもしれない」
 そうなれば、明日の取材がパーになる。何としても今夜中に淡路島を通過して欲しいと南條は思った。
「少し腹が減りませんか」
 南條が時任に言った。
「そういえばそうですね。しかしレストランやショップはとうに閉まっているし、自販機で何か買ったらいかがですか」
「時任さんは?」
「私は大丈夫」
 時任はバッグの底から潰れたサンドイッチを取り出した。
 十分後、南條はカップ麺をすすっていた。
「さて、どこまで話しましたか」
「直接本人に会って判を貰うのが確実だと……」
「そうでした。係長と二人で出張したのです」

        3 生野町へ

 一九八一年八月の最後の金曜日。午前八時半ぴったりに、三芳係長がフェリー乗り場にやって来た。ずんぐりした短躯が、せかせかとした足取りでターミナルに向かってきた。中学高校と陸上の短距離選手だったという片鱗が若干残ってはいるが、ダルマのような現在の体形では、到底信じがたい話だった。ゴルフ焼けした顔に朝日が当たり、汗で滲んだ額が赤黒く光った。太鼓腹を突き出して待合室のベンチに座り、五分刈りの頭から首、顔と、丹念にハンカチで汗を拭った。
「朝から暑いな。時やん」
 向かいのベンチに座る私に声を掛けた。時やんは私の職場での愛称である。(ときやん)あるいは(とっきゃん)とも発音された。その日は、朝からうんざりするような暑さだった。
「切符は買ったのか?」
「はい」
「おれも買ってくる」
 三芳は乗船券を購入してベンチに戻った。
「仕事が終わったら、湯村温泉に行こうか」
「この暑さですが」
「暑くてもいいんだ」
 と言ってにんまりした。ひょっとしてコンペでもあるのか。私はゴルフはやらない。が、温泉好きではある。当然その前に仕事があるが、それは早めに片づけて、後は慰安旅行といった思惑が、私にもあったことは間違いない。
 フェリーは九時に出港した。神戸の青木まで三時間十分かかる。カーペット敷きの大部屋で場所を確保すると、三芳は売店へ缶ビールを買いに行った。私たちはビールを飲み、他にすることがないので横になってテレビを見た。
 神戸に着くと三宮から特急に乗った。姫路から播但線に入り、列車はエンジン音を響かせながら山と川の間の渓谷を上っていった。生野に着くと、駅舎の外でタクシーが待っていた。個人タクシーで車体に「浅野」と書かれてあった。三芳が近づくと、運転手が車から下りてきた。
「三芳様御一行ですか?」
「ああ」
 三芳がうなずいた。運転手が手でドアを開けた。
「武田美弥様のお家までお送りするようにと伺っております」
「うむ、頼む」
 私たちが後部座席に乗ると、運転手が手でドアを閉めた。タクシーは街を抜けるとすぐ山道にかかった。
「あの、お客さんたち警察の方ですか」
 運転手がミラー越しに見ていた。
「そんな風に見えるかい」
「ええ……」
 三芳の容貌は、一言でいうとウイスキーのCMキャラクターのアンクルトリスに似ていた。目つきが鋭く、ダミ声でドスの利いたしゃべり方をするので、刑事に見えても不思議ではない。もっとも連れの私は、人の好さそうな人間にしか見えないはずだったが。
「警察ではないよ。おれたちゃ普通の公務員さ」
「そうですか。私はてっきり……」
 と言ったまま口ごもった。
「何か事件でもあったのかい」
「いえ、いえ、何もありませんよ。こんな山奥で」
「そりゃそうだな」
 それきり会話が途切れた。ラジオの電波も山中で入らなくなり、運転手は演歌のテープをかけていた。沈黙が続き、私はシートにもたれてうとうとしていた。 
 すでに一時間近く、タクシーは山中を分け入るように走っていた。いつの間にか道幅が対向できないくらいに狭くなっていた。左が山で右が谷の曲がりくねった道だった。谷間に川が見えた。水量の多い川は岩の間を縫うように流れていた
「えらく遠いな」
 三芳が言った。
「あのトンネルを抜けるとすぐです」
 浅野運転手が前方を指した。山腹にぽっかりと黒い口を空けたトンネルが見えた。相当に年数を経たような古びたトンネルだった。タクシーがトンネルに入った。ヘッドライトがレンガ造りの壁面を照らした。まだ出口は見えない。
「国道じゃないな、これは」
 三芳が呟いた。
「さっき道が枝分かれしたのですが、気がつきませんでしたか。普段はほとんど車も走りません」
 水がフロントガラスにしたたり落ち、運転手がワイパーを動かした。タイヤが水溜りを踏み飛沫が上がる音がした。長いトンネルを抜けると、遠く木立の間から、立ち並んだ建物がちらちらと見えた。
「あそこです」
 最後の曲がり角を曲がった。不思議な光景が眼前にあった。
「何だ、あれは!」
 三芳が叫んだ。驚くのも無理はなかった。そこは川幅が広がり、山と川に挟まれて平地が僅かにできた場所で、道の両側にぎっしりと建物が建っていた。そして、この集落の異様なところは、一つ一つの建物が、切妻造りや入母屋のような瓦屋根の日本家屋ではなく、鉄筋コンクリートか鉄骨造りのような、陸屋根の四角い形をしていて、それらが隙間なく建ち並ぶというより、各々の建物がレゴブロックのパーツのように連結され、一つの巨大な建築物を構成しているように見えることだった。谷川に沿って立つ個々の建物のコンクリートの擁壁が、一つながりの城壁のように見えた。
 そして今、タクシーのフロントガラスから見える集落の正面は、凹を逆さまにした形だった。そして左の山側の建物群と右側の谷に面した建物群は、正面から見ると、手前から奥まで壁が重なり合って見えた。そして左右の建物群の上には、橋のような構造物が差し渡してあるので、こんな山奥には場違いな、アーケードのある商店街の入り口のように見えるのだった。
 タクシーは、集落もしくは構造物の開口部に差し掛かるとがくんとスピードを落とし、人が歩く速度で集落内に入った。
 通路と言った方がぴったりする道の両側には、外観から明らかだったように建物が隙間なく並んでいる。両側の建物は六階の高さで揃えられ、さっき正面から見たように、両側の建物の最上階には、一定の間隔で、渡り廊下のような橋が渡されている。橋と橋の間は、商店街のアーケードのように、天蓋が半分ほど覆っていた。
「どうしてこんなものがあるんだ」
 三芳は呆れて言った。
「何でも昔、生野銀山を題材にした映画を作った時のセットが元だそうで」
 と、浅野運転手が説明した。
「映画のセットなんて張りぼてだろ?」
「それが、壊すのはもったいないってんで、地元の有志が買い取って、映画にちなんだテーマパークにしようと、ちゃんとした家にしたそうです」
「テーマパークって……こんなところに客なんて来ないだろ?」
「はい、直につぶれて」
「そりゃそうだろ。それで今は? 誰が住んでるんだい」
「今はある団体が買い取って、その関係者らが住んでいます」
「ほう。武田さんも関係者なのか」
「そうです」
 浅野がフロントガラス越しにちらと上を見て、
「冬の積雪期になると、六階部分にモノレールが走ります」
「モノレールって……あのモノレールのことですか?」
 今度は私が驚いた。
「十人ほどしか乗れない小さなものですが」
「はあ……こんな山奥に何で?」
「この辺は豪雪地帯なんですが、道路の除雪はやらずに、雪で埋まった建物の最上階をモノレールでつないで行き来するのです」
 さらに重ねて聞き返す前に、タクシーが通りの中心部で停車した。
「着きました」
 浅野が先に降りてドアを開けた。私と三芳係長は、タクシーから降りると、真っ先に周囲を見回した。辺りは薄暗かった。建ち並ぶ建物は出入り口が閉ざされ、私たちは閉鎖された空間にさ迷い込んだようだった。通りの幅が狭いために、両側に建つ建物の上辺がはるか高みに感じられた。アーケードの天蓋が空を狭めているために、午後三時過ぎにもかかわらず、まるで夕暮れ時のようだった。
「この家です。料金はすでに頂いておりますので」
 浅野運転手がタクシーに戻りかけた。
「ちょっと待った」
 三芳が呼び止めた。
「はあ、何か?」
「用事が済んだら迎えに来て欲しいんだが」
「わかりました。駅まで送り迎えをするように伺っておりますので、連絡いただければ、すぐ参ります」
「一時間もすれば用事が終わるはずだから、生野まで帰らなくてもいいんじゃないか」
 浅野が曖昧に微笑して目礼した。狭い通りを何度も切り返してUターンすると、タクシーは帰っていった。
 
 この街は、通りが途中で僅かに折れている上に薄暗く、全体の見通しが利かなかったが、長さが三百メートル位はあるように思われた。その通りの中心にいる私たちは、本当に商店街の中心にいると思った。
 というのも、ぐるりと見回した範囲に、旅館やホテル、土産物屋、射的場、食堂、写真屋、書店、メガネ屋、貴金属の店……古い温泉街によくあるような店舗が、ずらりと建ち並んでいたからだ。そしてそれらの店の外観は、大正時代のようなレトロな雰囲気を醸し出していた。銀山で繁盛した時代を再現しているのだろうか。現実にこんな街があったのかどうか私は知らなかった。しかし今はことごとく閉店していて、通りに明かりも点かず、しんと静まり返っていた。
 その家は「旅館琴音」と白い文字がすりガラスに書かれていた。引違のガラス戸が施錠され、内側に白いカーテンが引かれていた。ガラス戸の横のインターフォンのブザーを押した。
「どちら様ですかぁ」と語尾を伸ばした女の声が返ってきた――。

  
 淡路島の南西部が暴風圏に入ったとテロップが出た。
「トイレの窓から雨が降りこんで床が水浸しでした。窓を閉め忘れたんでしょう。しっかり施錠しておきました」
 時任がのんびりとした口調で話した。台風は徳島県の蒲生田岬にいた。真っ直ぐ北へ進んでおり、二、三時間で淡路島に上陸するらしい。
「家の方は大丈夫ですか」
「家内に電話したら笑われました。徳島の人間は台風に慣れていますから」
 
       4 美弥

「徳島の時任です。武田美弥さんですか」
「はい。今開けます」
 走ってくる足音がして、すぐカーテンが引かれた。すりガラス越しに私たちを確認すると、ネジ式の鍵を回す音がしてガラス戸が開いた。
「武田美弥です。ようこそ、お待ちしておりました」
 名刺を出そうとしたが、
「ご挨拶はのちほど」
 美弥は家の奥へ私たちを案内した。着物姿の美弥は、香の匂いを引きながら階段を上がると左に折れて右に折れ、真っ直ぐ廊下を進んだ。突き当りの部屋の格子戸を開けた。私たちは三和土で靴を脱いだ。
「こちらでお待ちになってて」
 美弥は部屋に入らず、廊下の先へ早足で去っていった。
「よっこらしょと……疲れたな、時やん」
 三芳が座布団に腰を下ろした。
「朝から船、バス、電車、列車、タクシーと合わせて六時間以上乗りづくめですから」
 私はいつもの癖ですぐには座らず、部屋の中をぐるりと回って造作を見た。建物の構造が鉄筋コンクリートであることは、部屋に来るまでで分かった。内部を和風に設えてあるが、要は仕上げの質である。先ず障子戸を開けた。サッシは鉄製だった。窓の外の眺めは……隣家の外壁が視界を半分遮っていた。サッシ窓ははめ殺しだった。
「何が見える?」
 三芳が問うた。
「隣の壁と下の通りが半分ずつ」
 次は拳で砂壁をこんこんと叩いた。
「やっぱり」
「何だ」
「砂壁はクロス。柱は付け柱。杉の薄板を貼ってある」
「習性ってやつだな……」 
 三芳が薄笑いを浮かべた。
「それより……鄙には稀な女じゃないか、彼女」
「まあ、そうですな」
 電話で何度かやりとりして美弥の玄人ぽい如才のなさを感じていた。が、今は部屋の造作の評価に集中していた。私は天井板を観察した。木目がみな同じだった。普及品のプリント合板である。この部屋に限って言えば、安普請であると私は結論した。
「何歳だった?」
「え?」
「彼女だよ」
「たしか、四十でした」
 私もようやく座った。うーむと三芳が腕を組んでいると、美弥が盆に茶と菓子を乗せて部屋に入ってきた。
「すみません、お待たせして」
 美弥は傍らに盆を置くと、あらたまって両手を突いた。私たちもあわてて座り直した。
「本日は、遠路はるばるこんな山奥までお越しいただきまして、有難うございます」
 三芳と私も挨拶し直して名刺を出した。 
「さぞ、お疲れでしょう。膝をお崩しになって」
 美弥は茶と菓子を座卓の上に置いた。
「夕食まで時間がありますので、お風呂にお入りになってください。ここは温泉なんですよ。すぐに浴衣を用意しますから」
 三芳が慌てた。判を貰ったら早々に引き揚げようと思っていたからだ。風呂など入るわけにはいかない。
「えへん、おほん」
 と三芳が大袈裟に咳払いした。
「早速ですが……」
 私は手早くカバンから書類を出した。茶と菓子を脇に寄せ、書類(道路計画図、路線図、道路設計図、平面図、断面図、墓の写真、墓の計測図など)の入ったファイルと、墓地移転の委任状を机の上に並べた。
「すでに時任からお聞きになっておられると思いますが――」
 せっかちな三芳は、私が書類を並べ終わらない内から話し始めた。普段はぶっきらぼうな物言いをする係長だが、このときは噛んで含めるように説明をした。一方、美弥は無表情で、機械的にこくんこくんと首を振っているように見えた。
「――というわけで、了解してくだされば、こちらに住所と氏名を記入して頂いて、判をお願いしたいのですが」
 私は委任状を美弥の前に広げてボールペンを添えた。美弥は文面も見ず、住所と氏名を記入しながら、
「すべてそちらでやって下さるんですね」
「そうです」
 私と係長が同時にうなずいた。
「市の方で責任を持ってお墓を移転します」
「でも、不思議ですわ」
「何がですか?」
「あのお墓はずいぶん古いものです」
「江戸時代の初期まで遡るとか」
「徳島には隔年で墓参りに行きますが、かの地には親戚も知人もおりません。なのに、松子さんのお墓の件で、はるばる徳島からお二人がいらっしゃって。やはりご先祖が引き寄せたご縁なんでしょうね」
「そういうことになりますですかね」
 私と三芳は頻りにうなずいた。早く用件をすませたかった。 
 美弥が念を押すように、
「ハンは実印ですね?」
「はい。役場で印鑑登録された印鑑です」
「持ってきます」
 美弥が立ち上がった。
「印鑑証明書もお願いします。それと、朱肉はこちらで用意していますので」
 美弥が印鑑と印鑑証書を持ってくる間、三芳は目を瞑って腕を組んでいた。
「お待たせ」
 美弥が戻った。
「私が押します」
 私は美弥から印鑑を受け取り、ティッシュペーパーでごみを拭き取った。メモ用紙に試し印を押す。印鑑証明書の印影と見比べる。印影が違った。
「このハンじゃないですね」
「え、違いますか?」
「違います」
 三芳が二枚の紙を手に取り、目を近づけて見比べた。
「同じじゃないのか?」
「この武田の武のハネになる部分が、こっちは枠にくっ付いてますが、こっちは僅かに離れています」
「そうだな」
「ほかにハンはないですか?」
 美弥は小首を傾げると
「見てきます」
 と、慌てる様子でもなく部屋を出て行った。

         5 きっかけ

 再び三芳は目を瞑って腕を組んでいた。と、思い出したように眼を見開くと、
「テレビをつけてくれ」
 と唐突に言った。電源を入れると昼のメロドラマをしていた。二枚目の主人公が女の肩に手を置いたところだ。
「チャンネルを変えて」
「何か見たいものがあるんですか」
「スポーツニュースをやってないかな」
「自分でしてくださいよ」
 三芳はしぶしぶテレビの前に行き、チャンネルのボタンを押し続けた。
「やってないな。中四国オープンの結果が出ているはずだが」
「誰か出てるんですか」
「広島の倉本。アマだが昨日はトップだった」 
「そうなんですか」
 私はゴルフはやらないし関心もない。
「優勝でもしたら大変なことなんだ」
「あ、そのテレビ、そこ外したらリモコンになるんじゃないかな」
「それを早く言えよ」
 ぶつぶつ三芳が文句を言っていると、美弥が戻ってきた。小さな文箱ごと持ってきた。箱から印鑑を一本取り出した。
「これじゃないかしら」
 一見して違う判だった。
「違いますね」
「じゃ、これは」
 と次々に取り出すが、ことごとく別の判だった。美弥はため息をついた。
「どこへいっちゃったのかしら」
 それはこっちが言いたいせりふだった。係長の顔が少し強張った。
「もう少し探してもらうしかないですな」
「もうこれだけなんです」
 美弥がうなだれた。が、次の瞬間、
「そうそう」と手を打った。
「娘名義の銀行口座を作らせるために、渡したのがあったわ。ひょっとしてそれかも……」と言ってまた部屋を出て行った。
 美弥が戻ってくるまでテレビを見ていた。ゴルフの結果は依然判明しなかった。美弥が悄然として部屋に入ってきた。
「見つからないの。あの子どこへやったのかしら。最近まで持っていたらしいんだけど」
 私と係長は顔を見合わせた。
「どうしても見つからなければ、別の印鑑で新たに登録すればいいのですが。その時に、新しく登録した印鑑の印鑑証明書を交付して貰って……」 
「しかし明日になるぞ。今日はもう役場が閉まっているからな」
「しかしそれ以外に方法はないでしょう」
「うむ、今日は一旦引き揚げるしかないな」
 三芳は美弥に向き直って、 
「奥さん、明日朝一番に町役場へ行ってもらって、新しい印鑑登録の手続きをして、同時に印鑑証明書を貰って……そうか、役場の近くの喫茶店にでも入って、そこでこの委任状にそのハンを押すということにすれば……」
「それはいい考えですね」
「でも」
 美弥が曇った表情を浮かべた。
「我々が帰った後、もう一度ゆっくり探してもらって見つかればそれでよし。見つからなければ、今係長が言った通りの手順でいかがでしょう」
 三芳が続けて、
「後で宿から電話します。一応は、明日の朝九時に生野町役場の玄関で待ち合わせるということで」
「でも……」
 美弥がうつむいた。
「……」
 私は座卓の上の書類を片づけ始めていた。
「私の不始末から、せっかく遠い所から来て下さったのに」
「あまり気になさらずに。誰にでも勘違いはありますから」
 私は慰めにもならない言葉を白々しく並べた。
「それより電話を貸してください。例のタクシー、浅野とかいう運転手に電話をしますので」 
 三芳はすでにカバンを提げ、三和土で靴を履いて立っていた。
「あの、よろしかったらうちへ泊ってくださいな」
 美弥が言った。三芳が振り返った。真意を測りかねていた。
「そういう訳にはいかないでしょう」
 私はカバンに書類を入れていた。
「どっちみち生野で泊まるのでしょう?」
「そういうことになりますね」
「じゃあ、ここで泊まるのも同じ。こんな山奥で大したおもてなしもできませんが、うちは旅館ですから」
「しかし……」
「こちらが一方的に迷惑をおかけして、その日のうちに用事が済むところを、お引き留めすることになったのですから、償いをさせて頂くのは当たり前のことじゃありません?」「と言いますと?」
「料金は頂きません」
「しかしそれは……」
 私と三芳は顔を見合わせた。どっちにしても湯村温泉はボツである。
「お泊りになって」
「じゃあ……そうさせて貰うか、時やん」
「はあ、そうしますか」
「そうと決まったら、早速食事の支度をしますね。元々泊まっていただく心づもりでしたから、準備はた易いこと。ささ、浴室にご案内しましょう」

        6 晩餐

 浴室は、先ほどの階段でいったん一階へ下り、さらに地下まで階段を下りた場所にあった。「湯」と染め抜かれた赤い暖簾が入り口にかかっていた。脱衣所で裸になり、ガラス戸を開けると、大きな石造りの湯船に湯が満ちていた。たらいで湯を汲んでザーザーと掛け湯をして湯に入った。熱めの湯だった。暑い時こそ熱めの湯に入る。浴後に大汗が出る。その後の清涼感が堪らないのだ。
「いい湯だ」
 三芳は首まで浸かり、タオルで顔を拭った。湯は透明で僅かにぬめりがあった。
「塩化物泉です。少ししょっぱい」
「そうか」
 湯村温泉まで行かなくても良かった。知られざる名湯があるものだと私は思った。
「結局は泊まることになってしまいましたな」
「ああ」
「ここは奇妙なところですな」
「そうだな……」
「住民はいるのかな」
「さあ……」

 風呂から上がると、脱衣所に浴衣が置かれていた。浴衣に着替えて浴室を出ると、着物に前掛けをした若い女が待っていた。お疲れ様ですとお辞儀をした。
「食事のお部屋にご案内します」
 女は階段を上がると一階の廊下の奥に案内した。とある部屋の襖を開いた。さっきまでいた部屋とは格段に調度が上等の、二十畳ほどもある座敷に二人は通された。床の間の前に大きな座卓と向い合せにした座椅子があり、私たちはそこに座った。床柱は杉の磨き丸太だった。可愛い花鳥画の掛け軸が掛けてあり、畳の上に小菊を生けてあった。
「こちらでしばらくお寛ぎ下さい。もうすぐお食事をお運びします」
 女はグラスに冷たい茶を入れた。
 茶を飲み終わる頃に先付と食前酒が運ばれてきた。
「こちらはナツメをはちみつに漬けたものでございます。こちらは薬用酒でございます」 女はそう言って下がった。ナツメは以前に食べたことがあるが、琥珀色の薬用酒は飲んだことのない味がした。三芳が匂いを嗅ぎ、口に含んだ。
「ウイスキーに似てるな」
「意外に飲みやすい味ですね」

 しばらくすると、「失礼いたします」という声で仕切りの襖が開いた。美弥を先頭に女たちが四人、それぞれ鍋や食材の入った大皿、食器を載せた盆などを持って部屋に入り、座卓の上に並べ始めた。
「但馬牛のしゃぶしゃぶをご用意しましたが、お肉は大丈夫ですよね」
 美弥が尋ねた。私も三芳もいけない訳がない。
「はい、もちろん、大丈夫です」
「お飲み物は何に致しましょう?」
 三芳はビール、私は日本酒の温燗を頼んだ。すぐに酒と付け合せが卓の上に並んだ。
「いえね、以前インドから来られたお客様をお迎えした時に、お肉は全てダメということで、急きょお豆腐をお出ししたことがあったんですよ」
 口元を手で覆いながら美弥が笑った。
「インドからお客さんが来るんですか」
「ここじゃないですよ。前に働いていたホテルです」
「どこのホテルなの」
「鳥取です」
「へえ」
「昔の話ですよ」
「ところで、こちらの旅館は、今は開業していないんですか?」
「休業中なんです。今、板前がいませんので、手間のかからない料理しかお出しできないんですよ」
「いやいや、但馬牛は初めてなので楽しみです」
 机の上に二つの鍋がセットされ、但馬牛の薄切り肉と野菜が盛られた大皿、灰汁を取るおたまや椀、薬味やタレなどの入った椀や食器,箸などが置かれていった。最後にカセットコンロが点火された。
 私たちに給仕する女が一人ずつ就いた。浴室から座敷まで案内してくれた、ふみという女が私に、三芳には、少し年かさの弥生という女がついて、鍋で調理をする案配だった。美弥は二人の話し相手をしながら酒を注いだ。
 鍋のだしが沸騰し始めると、ふみが長箸の先で肉をつまみ、だしに数秒くぐらせて薄桃色に変わると、タレの入ったとん水の中に入れてくれた。もみじおろしとポン酢が絡まった霜降り肉は、口の中でほろりと崩れ、するりと喉を通過した。次々にとん水に投入される肉を、私はひたすら食べ続け、思い出したように酒を飲んだ。頃合いでしいたけ、人参、白菜などの野菜が入ると、ようやく私は、付け合せのキンピラなどに箸を伸ばした。
「お肉いかがですか」
 美弥が聞いた。
「いやいや、美味いの一言です」
「実においしいです」
 私たちはただ一言ずつコメントしただけである。もちろん食べるのに夢中だったからだ。
「ありがとうございます。せっかく遠い所からいらしてくれたんですから、地元の名物をお出しするのが何よりと思いまして」
 野菜が煮えてくると、女が野菜をとん水に入れた。私はゴマだれで白菜やしいたけ、豆腐などを食べた。
「もう少しお酒飲まれますね」
 中年の女が厨房に行き、徳利を運んできた。美弥が私の盃に酒を注いだ。愛想のつもりなのか、
「お二人とも結婚はされてるんでしょう?」
「私はまだ……」
「独身なんですか」
「ええ」
「お幾つ?」
「二十七です」
「彼女がいるんでしょ」
「いや、いないですよ」
「選り好みしてるんですよ、時任は」
 三芳がダミ声で吠えた。顔がすでに赤黒かった。もう酔いが回ったらしい。
「それは誤解だ。女性の方がぼくを避けているのです」
「どうして避けるの?」
 給仕をしていたふみがくすりと笑った。
「どうしてですかね。住宅とか温泉とか乗り物が好きなんですが、そういう趣味をなかなか理解して貰えないような……よく分かりませんが」
「住宅が趣味なの?」
「時任の親父さんは大工なの。門前の小僧ってやつで、家の造作なんかを見るのが趣味なんですよ」
 三芳がだみ声で的確に解説した。
「ああ、それで」
 美弥は全然興味を示さなかった。その代りふみが小さな声で、
「温泉がお好きなんですか?」
「全国の温泉を回るのが夢なんです」
「わあ、いいですね」
 ふみが目を輝かせた。そんなことを話しているうちに、鍋に残った具が取り出され、餅ときしめんが入った。すでに充分満腹だったが、餅ときしめんの入ったとん水を渡されると、機械的に箸が動いて、難なく腹の中に納まった。
「ピオーネとマスカットのシャーベットでございます」
 ガラスの器でデザートが運ばれた。これで終わりの筈だった。
「さあ、これからショウタイムの始まりでーす」
 美弥が宣言して手を打った。
 
         7 座敷遊び

 仕切りの襖が開いた。続きの間の真ん中に、白塗りした女が二人、芸妓と舞妓の格好で金屏風の前に座り、両手を揃えてお辞儀をした。二人は顔を上げると順に、
「和美どす」
「朱音どす」
 和美が実妹で、朱音は娘であると美弥が説明した。酒を運んでいた中年のかすみという女が前掛けを取るや、たちまち三味線とバチを持って、二人の傍らに座った。
「月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に夢もいざよう紅桜 しのぶ思いを振袖に 祇園恋しや だらりの帯よ……」
 かすみの三味線と唄に合わせて、和美と朱音が祇園小唄を舞った。
 次は朱音が京の四季を舞い、和美が黒髪を舞い、最後にまた二人で宮川音頭を踊ったのだった――。

 時任は重ねた布団に凭れかかり、昨日のことのように思い出していた。
「京の四季は舞妓のあどけない可愛らしさを、黒髪は独り寝の女を色っぽく、宮川音頭は扇を使って京都の春をあでやかに踊りました。地方(じかた)の三味線と唄も本物だった。しかし当時、私は何の知識もなく、ただ見とれていただけでした」
「彼女らは本物の舞妓さんたちだったんですか」
「武田美弥と妹の和美は、実際に宮川町で舞妓をして芸妓になったそうです。朱音は美弥と和美が一から教え込んだそうで、かすみも祇園の芸妓を経て地方の腕を磨いたそうです」
「衣装とか大変でしょう」
「そうでもないです。化繊の安い着物とか、プラスティックの櫛やかんざしがありますから。観光客相手に舞妓体験させる商売が京都にあるでしょ。何百万もする高価な着物やアクセサリーがなくても、演出効果は出せるんです」
「なるほど……時に台風は?」
 南條はテレビの画面を見た。
「淡路島に上陸するそうです」
「嵐の只中ということになりますね。で、そのあとどうなりました?」
 いつの間にか南條が話を促していた。

 演技が終わると、和美と朱音が酒の酌をしにきた。座敷遊びのとらとらと金比羅船々が始まり、見かけほど酒が強くない三芳などは、とらとらの対戦中にふらついて屏風の前で派手に転倒した。
「あらあら」と美弥が駆け寄り、女が三人がかりで三芳の太った体を元の場所まで引きずった。下着のシャツがずり上がり、酔いで真っ赤に染まった腹が丸出しになった。
 私はとらとらで朱音といい勝負だったが、金比羅船々で負け続け、その都度、ぐい飲みの酒を飲み干すことになり、朱音に笑われ続けた。それでも三回に一回は朱音が負けたので、朱音も酒を飲み続けた。朱音はまだ十代にしか見えない童顔だったが……。
 お座敷遊びが一段落すると、食事の後片づけが終わった弥生とふみが登場した。豆しぼりの手ぬぐいを鉢巻にし、絣の着物、水色の帯、赤い蹴出に腰蓑のいでたちで足は素足。地方は、三味線がかすみ、太鼓は和美で、唄は美弥と和美が受け持った。
「弥生と娘のふみです。貝殻節を踊ります」 
 ふみも娘というが、美弥とは似ていなかった。朱音は美弥に似て、色白で小柄だったが、ふみは体格が良く、労働の唄である貝殻節の衣装がよく似合った。

「何の因果で貝殻取り習うた カワイヤノーカワイヤノー 色は黒うなる 身は痩せる
ヤサホーエーヤホーエヤエー ヨイヤサノサッサー ヤンサノエー ヨイヤサノサッサー……」
 美弥と和美が合いの手を入れながら歌うのに合わせて、櫓をこいだり網を引く仕草が入った独特の振りで二人が踊り、座が俄かに盛り上がったところで、再び美弥が宣言した。
 「さあ、いよいよお待ちかねのカラオケタイムですよ」
 私は酔いが醒める思いがした。カラオケは苦手なのだ。が、拍手と歓声が女たちから上がった。踊り衣装のまま嬉々として、屏風の陰からカラオケの機械を引っ張り出した。コードをつないで電源を入れた。モニターの画面に選曲映像が浮かんだ。
「トップッバッターは誰?」
 美弥の声がマイクを通して流れた。
「じゃ、私! 青い珊瑚礁いきます」
 美弥が曲をセットした。イントロが流れ、朱音が舞妓姿でリズムを取りながら歌いだした。一番を歌い終わると、 
「ふみちゃん、一緒に歌おう!」
 ふみは貝殻節の衣装で歌った。
「次は?」
「五輪真弓の恋人よ歌おうかな」
 和美がマイクを握った。ひどく上手かった。
「すごーい」声援が飛んだ。
 美弥が小林幸子の歌を二曲続けて歌った。歌いなれていた。それじゃ私はと言って、和美が「ふたり酒」を、弥生が高田みずえの「私はピアノ」を、しまいに三味線のかすみが矢代亜紀の歌を、我流のバーブレーションを利かせて歌った。女たちは皆歌いなれていて、私はますます憂鬱になった。
 案の定、
「男性陣、お願いします」
 美弥から声が上がった。手拍子が出た。私は脂汗が出た。
「おれが」
 弥生に支えられながら三芳が立ち上がった。足元がふらついている。
「大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫」
 三芳はマイクを持つと、画面に流れる歌詞を見ながら、石原裕次郎のブランデーグラスを歌い始めた。だみ声がハスキーボイスになり、なかなかのものだった。三芳は酔うと声が良くなるのだ。大喝采で唄い終わった三芳は、いきなり私にマイクを手渡した。
「あ、あ、」
 私は酸素不足のように喉が詰まり、唾をごくりと飲み干した。ここにいる連中は皆上手すぎる。
「えーと、デュエットなら……、どなたか一緒に歌って貰えませんか」
 声が上ずり、視線が情けなく泳いでいた。すると、ふみが立ち上がり私の横に来た。
「銀恋なら、歌えますか?」
 ふみが私を見た。
「ああ、はい」
 と、やり取りがあって、結果的に何とか私もフルコーラスで歌えた。
 そのあと誰にマイクを渡したのかも忘れ、自分は一体こんなところで何をしているのだろうかと我に返った。いつの間にか三芳が座布団を枕に高いびきをかいていた。最後に今年のヒット曲メドレーのように女たちが歌いまくると、ようやく宴は幕を閉じた。  
 
        8 朱音 

「三芳さん、お休み処へ行きましょうね」
 子供を寝かしつける時のように、美弥は三芳を立たせて、弥生と二人がかりで座敷を出て行った。
「時任さんもお休み処へご案内しましょう」
 ふみが声を掛けてきた。
「さっきの部屋とは違うの?」
「また別なんですよ」
 ふみが微笑した。座敷を出ると、三芳たちが出て行った反対方向へと廊下を進んだ。
「お休みの前に温泉に入られますか」
「ええ」
「じゃあ、浴室から遠くない方がいいですね」
「そうですね」
 ふみがとある客室の格子戸を開けた。ごく普通の十二畳の部屋だった。
「テレビがありませんの」
 ふみがすまなそうに言った。
「いや、寝るだけですから」
「この部屋の良い所は、月が見られることなんです」
「外が見られるんですか。この家に来てから今まで、外の景色は全く見えなかった」
「すみません。この部屋も、外の景色が見えるんじゃなくて、中庭に面しているだけなんです。でも縁側からお月様が見える時があります。今夜あたりどうかな」
 ふみが障子を開けた。そこにも廊下があり、さらにガラス戸がある。ガラス戸を引くと縁があった。昼は暑くても、さすがに夜は涼しい。山の空気はすでに秋だった。中庭に広葉樹や灌木樹が植わっており、木々の間に石組みの池や灯篭などがあった。
「ほら、月が」
 建物に挟まれた矩形の空に鎌のように細い月が出ていた。
「うん。これはいい」
 しばらく月を眺めると首が痛くなり、自然に視線が下った。縁からは中庭が見えるばかりだった。
「ここから見えるのは庭だけだね」
「ええ。中庭に面したお部屋が互いに見えないように樹木や小さな岩山を置いてありますから」
「部屋から縁に出て、誰にも邪魔されず、月を見ることができるってことか」
「そうですね……あの、少し寒くないですか」
「そういえば体が冷えてきた」
「ここは町より二、三度気温が低いです」
「そろそろ部屋に戻ろう」
 廊下に戻った。
「このすぐ先の階段を下りましたら浴室に行けます。お好きな温泉で、身体を温めた方が良いかも知れませんね」
「そのつもりだよ」
「では、ごゆっくりおやすみなさいませ」
 ふみが去った。酔いも醒め、外に出て夜気に触れたせいだろう、少し寒さを感じた。部屋のタオルを手に、ふみが教えてくれた通り、廊下の先の階段を下りて私は浴室に向かった。
 暖簾をくぐって脱衣所に入ると、脱いだ浴衣が籠にあった。旅館の浴衣である。先客がいるようだ。係長か? 湯に浸かるように美弥が勧めたのかもしれない。だが、泥酔した人間に風呂を薦めたりするだろうか。
 では誰だろう。私は浴衣を脱いで裸になり、浴室のガラス戸を開けた。広い湯船の中に先客がいた。女だった。驚いた顔が湯の上にあった。
「あ、男湯と間違えました」
 引き返しかけた私に女が声をかけた。
「お風呂場はここだけです。遠慮なくお入りください」
「そうですか」
 掛け湯をして湯に入った。熱い湯が冷えた身体に沁みた。思わず、ふーっと声が出た。女がくすくす笑った。
「朱音さん?」
「はい」
 こくりとうなずいた。
「誰だか分からなかった」
「さっきは白塗りしてたから」
「舞妓さんの格好してたよね」
「はい」
「金比羅船々で、さんざん君に負かされた」
 朱音が笑った。
「でも、とらとらは私が負けでした」
「そんなことはないだろう」
「ううん、私の負け」
 朱音が首を振り、湯にさざ波が立った。
「ああいう化粧とか着付けは自分でするの?」
「お母さんと和美さんがしてくれるんです」
「そうか」
「お母さんと和美さんは姉妹で、舞妓さんから芸妓になったって言ってたよね」
「ええ、京都の宮川町にいました」
「朱音さんは舞妓さんになろうとは思わなかった?」
「なりたかったんですけど、お母さんに反対されました。向いていないって」
「で、どういう道を選んだの」
「今年短大を卒業して、お母さんの旅館を手伝っています」
「ここで働いているんだ」
「いえ、普段は生野の旅館にいます」
「じゃ、ここは?」
「ここは別館。夏場に開ける時があります。ああ、熱う……」
 朱音は上気した顔を手で扇いだ。
「お湯から上がって体を冷やしたら?」
 はいと言って朱音は湯から出た。白い裸身から湯が流れ落ちた。恥ずかしがる素振りも見せず、朱音は洗い場の椅子に座り、カランから桶に水を入れた。タオルを水で濡らし、顔から順に身体を拭った。
「朱音さんは歌も踊りもすごく上手いね」
「そんなことないです」
「ぼくはカラオケが大の苦手」
「そんなこと全然ありません」
 朱音が左手を大きく振った。白い二の腕と乳房が揺れた。
「そろそろ出ます」
 行きかけた朱音が振り返った
「時任さん、下の名前は?」
「謙作」
「謙作さん、お先に失礼します」 
 一瞬艶めかしい眼で私を見たような気がした。つられて私も湯から上がりかけた。が、追いかけるようで気が引けた。仕方なく、湯船の縁に座り、そのまま身体を冷ますことにした。温泉の火照りだけではなくなった。
 浴室を出て階段を上がった。庭沿いに廊下が真っ直ぐ延びている。明かりを点けたままだった部屋の光が、ガラス戸を透して庭を照らしていた。
 部屋に入ると、布団が敷かれてあった。枕元に水入れとコップ。テレビもなく、他にすることもなかった。部屋の電気を消し、布団に横になった。障子がうっすら明るかった。庭の灯篭の明かりかそれとも廊下の明かりか。気になるほど眩しいわけでもなく、私はいつの間にか眠っていた。

 障子が開く気配で目が覚めた。白い長襦袢の姿。暗がりで顔が判らない。私は肘を立てて半身を起こした。腰紐が解けて足元に落ちた。襦袢を脱ぎ去ると、下に何も身につけていなかった。身体を屈め両膝をついた。結わえた髪を下ろし、膝立ちで私の方へにじり寄ってきた。朱音だった。薄化粧した頬が緊張で硬くこわばり、今にも泣き出しそうな顔だった。すべすべした腰を抱き寄せた途端、朱音は崩れるようにしがみついてきた……。 

 事の後、朱音は横になったまま、打ち解けた様子で身の上話をした。母が芸妓の時に生まれた子で父の顔を知らないこと。京都で生まれて、山陰の各地で育ったこと。五年前から母が始めた生野の料理旅館で手伝っていることなど。舞妓になることに母が反対した本当の理由は、一人っ子の箱入り娘を片時も手離したくなかったからだと――。

「ふみさんはお姉さんじゃなかった?」
「ふみさんは養女なんです。男に追われてここに逃げてきて、お母さんが自分の娘にして守っているんです」
「そういう事情があるのか」
「よく知らないけど、ここは駆け込み――」
「駆け込み寺?」
「駆け込み寺と言われています。本当はそれだけじゃなくて……」
「本当は?」
「これ以上は言えません、ごめんなさい。あ、それより、私がお湯に入っている時に、謙作さんが入ってきたでしょう。あのとき、私がどう思ったか分かります?」
「分からないね」
「この人を受け入れるんだって。とても大事な役目が私に回ってきたんだって」
 私は話を聞きながら、朱音の体の敏感な箇所に指を這わせた。
「くすぐったい」
 朱音は電気が流れたように身をよじり、声を出して笑った。
「これが、そんなに重要なことかい?」
「とてもとても重要な儀式です……」
 くすくす笑っていた朱音が、いつの間にか切なそうにため息を漏らしていた。
「謙作さんがお風呂に入るのがあと三十分遅かったら、その役目はふみさんだった……」
 朱音は身体をくねらせて喘ぎながら、
「とても重要な儀式なんだから……」。
 朱音は私の首に両腕を巻きつけ、唇を合わせてきた。そしてまた――。

       9 翌朝

 海から来る風が窓に当たった。雨が降りかかる。風向きが変わったのだ。台風は洲本に向かうらしい。
「上陸しましたね」
 南條が言った。
「ええ。しかしもう峠を越したでしょう」
「そうですか」
「――と、まあ、朱音は来た時と同じように、長襦袢を着て腰紐を結び、静かに部屋を出ていきました」
「重要な儀式とはどういう意味なんでしょうか?」
「この後おいおいとお話ししますので」

 ふみに起こされた時にはすでに午前九時を過ぎていた。障子が引かれ、つづいてガラス戸が開け放たれると、朝の冷たい空気が部屋に入ってきた。
「よくお休みになれました?」
 ふみが熱い茶を入れた。
「はあ。体がだるいですが」
「遅くまで起きてらしたんですか」
「いつも寝つきが悪いたちなんです」
 と言いながら首を回すとぽきぽきと音がした。
「そうですか」
 ふみは淡々と受け応えした。
「温泉は入られました?」
「ああ、寝る前に。いい湯だった」
「それはよかったです」
 ふみが微笑した。
「お食事にしましょう。昨日のお部屋にご案内します」
 ふみが昨夜の食事処に案内した。三芳が同じ場所に座っていた。
「お早う、時やん」
 目が赤いことを除けば、いつもと変わらなかった。私は何食わぬ顔で、昨日と同じく三好の向かいに座った。三芳はすでに朝食を食べ終わって、茶を飲みながら楊枝を使っていた。と、三芳が顔を寄せて小声で聞いてきた。
「ゆうべの事だが……」
 ふみが私の朝食を運んできた。三好は口を閉じ、そそくさと立ち上がった。そして、
「部屋で休んでくる」
 と言って出て行った。
「昨日あんなに酔っていたのに、部屋の位置が分かるのかな」
「そこの廊下を曲がってすぐですから」
 ふみが笑いながら言った。
「美弥さんは?」
「明日から大事な行事がありまして、今日は早朝から準備に行っています」
「えーっ」
 私は驚愕した。朝のけだるい気分が吹き飛んだ。
「役場に行ったんじゃなかった?」
「役場ですか」
「そうだよ、生野の町役場。朝一番に役場に行くと昨夜……」
 と言いながら私は、今日の手順をきちんと詰めていなかったことに気がついた。昨夜のうちに実印を探して、無ければ役場で改印し、新しい実印で書類に判を押し、新しい印鑑証明書を取って……。それとも実印が見つかったのだろうか。
「朱音さんは?」
 昨夜関係した妹の名を、ふみに言うのは気が引けたが、美弥がハンを渡した相手だから仕方がない。
「美弥さんと一緒に出ています」
「弥生さんや和美さんは?」
「弥生さんはお風呂場の掃除をしてるかな。和美さんも女将さんに同行しています」
 と言ってふみは厨房へ去った。入れ違いに、三芳が服に着替えて部屋に入ってきた。ボストンバッグを提げている。
「まだメシ食ってるのか。早く済ませて着替えろよ。すぐ出かけるぞ」
「どこへ」
「役場に決まってるだろ。早くタクシーを呼ばないと」
「係長、美弥さんだったら居ませんよ」
「だから、朝から役場に行ってるんだろ。彼女を待たせるわけにはいかんじゃないか」
「それは改印してもらうという前提の話で、その前にもう一度実印を探してくださいと、夕べ美弥さんに話したじゃないですか。だから美弥さんを見つけて確認しないと」
「そうだったかな……」
 三芳は首を捻った
「そうですよ。忘れたんですか」
「うむ。いろいろあったからな、夕べは」
「いろいろですか」
「オレとしては酒が過ぎた。それと夜中に……」
 三芳が途中から口をつぐんだ。
「夜中に何かあったんですか」
 私も小声になった。
「まあな」
「誰かが忍び込んで来たとか」
 私は耳打ちした。三芳は驚いて、
「どうして、それを……ひょっとして、お前も?」
 ふみがお膳を下げに来た。
「女将さんが帰ってきました。あら、三芳さん、お出かけの支度なんですね」
「ああ、早とちりしたようだが」
 言い終わらないうちに、慌ただしく美弥が部屋に入ってきた。表情が明るい。
「お早うございます。係長さん、時任さん、お待たせいたしました。印鑑の件、今朝娘に聞きましたら机の中にあると言って、これです」
 美弥がティッシュに包んだ印鑑を私によこした。私はそのハンに朱肉のインクを付けて、メモ用紙に押した。昨日の書類をカバンから取り出し、美弥から渡された印鑑証明書と見比べた。
「間違いないでしょ?」
 美弥の顔が近づいてきた。いい香の匂いが漂った。三芳も横から覗き込んだ。接近し過ぎて二人の頬がくっついた。
 三芳は赤面し、しきりに頭を掻きながら美弥から離れた。美弥は素知らぬ顔だが、間違いなく三芳の昨夜の相手は美弥だろう。
「間違いないです」
 美弥が私を見た。
「百パーセント、この印鑑です」
「良かった」
 美弥は喜んで手をたたいた。私は改めて委任状に押印した。念のために捨印も押し、バッグに仕舞った。ようやく仕事が終わった。これで帰れる――。
「さてと、着替えをして」
 私はまだ浴衣のままだった。ふみがきれいに畳んだ服を持ってきた。襖の陰で手早く着替えた。
「係長、タクシーを呼びましょうか」
「ああ、そうだったな」
「何をぼんやりしてるんですか」
「いや、何でもない。……浅野とか言ったな」
「美弥さん、浅野さんの電話番号を教えてください」
 その時、奥から和美が走ってきた。美弥を廊下に呼び、何事かを小声で話した。美弥の表情が変わった。次にふみを呼び、小声で何かを指示した。ふみが走り去った。そして私たちに向かって、
「急なお話ですが、お二人とも、もうしばらくこちらに滞在して頂かなければならなくなりました」
 美弥の言う意味がよく分からなかった。上司である三芳をうかがった。反応がない。
「もうしばらくと言うと?」
「もう一日ほど……」
「ええ? どうしてですか?」
「どうかしたのか?」
 と、三芳がようやく異状に気付いたようだ。
「どうやら、ここを出られなくなったと――つまり、われわれは今日帰れなくなったということらしいのです」
 三芳も呑み込めたようだ。
「美弥さん、一体どういうことなんですか?」
 美弥は困った表情を浮かべ、
「大事なお方と、その一行がもうすぐいらっしゃいます」
「それで?」
「本当は明日の予定だったんですが、一日早まって……。そのお方をお迎えしたら、この館は二つの門を閉鎖します。そうしたら、もう外との行き来が出来なくなりますので」
「そんな馬鹿な!」
 三芳がうめいた。
「で、そのお方というのは、いったいどなたなんですか?」
 美弥は和美と顔を見合わせた。和美が美弥に耳打ちした。
「大変に尊い方です。私たちにとって」
 抽象的な言い回しで、さっぱり解らない。
「尊い方?」
「はい」
美弥と和美がうなずいた。
 何者かはよく分からないが、想像すれば、この集落と言うか街――今、美弥が「館」と言ったが――の人たちを統率するリーダーか、あるいは宗教上の聖人、それとも両方の要素を兼ね備えたような存在。いずれにしても、ここの住人たちのトップとも言うべき人物なのか。
「教祖のような人?」
 美弥と和美は同時に首を振った。
「違います」
「じゃあ……卑弥呼のような女性?」
 二人はまた顔を見合わせ、
「ちょっと近いかも知れないです」
 和美が言った。
「巫女さん?」
 謎当てクイズのようになった。
「いいえ。巫女と言うより尼僧です。神仏の信仰を説かれます。人々に接して癒しをもたらすお方。今まで多くの女を救ってきました」
 神仏を説く尼僧――剃髪して頭巾をかぶった老女を私は想像した。
「要するにわれわれは、その人が来たら、この集落内に閉じ込められるということだな」
 三芳が係長として本来の姿に戻っていた。
「そういうことです」
「じゃあ今のうちにタクシーを呼べよ。偉い人はまだ来ていないんだし」
「タクシーが来るまで一時間はかかりますよ」
「大丈夫。何とか出られるさ」
「しかし……」
 そこへ朱音が飛び込んで来た。一枚の紙片を母親の美弥に渡した。美弥がそれに目を通している間、朱音と目が合った。恥ずかしそうな笑みが浮かんだ。私もにやけた顔になった。

        10 御寮人様
 
(館長通達)
 本日午前十一時に御寮人様と御同行が館に入られる。明朝九時まで滞在される予定なので、前後一時間を含めて、ここ但馬の館は、本日午前十時半から明朝九時半まで閉鎖される。外部との出入りは、一の門脇の通用口のみとし、郵便物、宅配物、業者の配達物等の受け渡しのみ許可される。また、館の天蓋開口部は、バスの発着後にすべて塞がれる。各自に於いては仕様書に従い、各々の分掌任務を果たすこと。居合わせた部外者は、只今より各家の内部に留まり、上記の時間帯は外出禁止とする。
 なお、日程が一日繰り上げになったことにより、多少の不調法は大目に見るとの秘書長からのお言葉だが、くれぐれも粗相のないように。また行幸に伴って開催される、臨時大会及び各部会の参加者は、午前十時半までに入館を終わるよう努める。
 以上の規定にかかわらず、後から参集する者たちのために、一の門において午前零時まで入館を受け付けること――。美弥が見せてくれた文面はこのようなものであった。

 俄かに往来が賑わしくなってきた。大型バスが次々と到着し始めて、乗客を降ろしているようだった。但馬館の通路はたちまち、都会のラッシュ時のバスターミナルのように慌しくなったようだ。各地から来たバスは乗客を降ろすと、いったん二ノ門から出てUターンしてきて、再び通路を通って一ノ門から出ていくのだろう。通路内では、上りと下りのバスがすれ違って、バスと建物の間の狭い隙間に、大勢の人々がひしめいているらしく、拡声器で案内する女の声が、私たちのいる所まで聞こえてきた。
 そうした喧騒が一時間つづいて、不意に静かになった。しばらくして一ノ門の方から歓声が沸き起こった。
 御寮人様と御同行の入館に違いなかった。群衆のざわめきが琴音の軒先まで伝わってきた。美弥たちが浮足立った。
「パレードだわ!」
 朱音や和美が表に向かって走って行った。美弥も後を追いそうだったが、何とか踏みとどまった。私たちを監視するためだろう。
 通達では、部外者は外出以外禁じていなかったが、部外者が一行を覗き見ることは、多分ご法度なのだろう。万一私と三芳が御寮人様を見ていることがばれたら、どんな騒動になるか分からなかった。美弥にとっては、委任状のハンどころではなかったのだ。
 拍手が次第に高まった。美弥も辛抱できなくなったのだろう、
「絶対に外に出ないでくださいね」
 と言い置いて、玄関に向かって走っていった。
「外に出なきゃいいんだよな」
 昨日、最初に通された客間に、半分だけ通りを見下ろせる窓があったのを、私は思い出した。
「おい、どこへ行く?」
 三芳が私の背中に声をかけた。
「二階です。ひょっとしたらパレードが見られるかもしれない」
「待てよ。おれも行く」 
 階段を走り上がった。この廊下を真っ直ぐ行ってここで曲がる。と、いきなり誰かとぶつかった。きゃっと言って尻もちをついた。ふみだった。と同時に、わっと言う声とともに背後から激しい衝撃を受けて、私はふみの上に重なった。ぎゃと私の下で悲鳴が漏れた。
「大丈夫か?」
 ふみが私の下に、三芳が私の上にいた……。
 重なった男二人の下から自力で這い出し、
「大丈夫です」
 ふみは髪を直し着物の裾を素早く揃えた。清楚な顔に赤味がさしていた。息を弾ませながら、
「パレードを見に?」
「そう」
「私もです。こっちへ」
 ふみは、私が目指していた部屋とは違う方向へ導いた。納戸の戸をふみが開けた。通りに面して板戸があった。一か所板が外れ大きな隙間が空いている。
「その隙間から見て」
 三人が並んで板の隙間から通りを見下ろした。昨日とは様相が一変していた。煌々とライトが灯っていた。群集が道を空けるところだった。歓声がぴたりと止まり、拍手だけがひときわ高まった。屈強そうな女たちの集団の真ん中に、純白のドレスに身を包んだ少女がいた。沿道の群集に笑顔を振りまきながら両手を振っている。沿道から手製の紙吹雪が舞った。
 少女は強烈なオーラを放っていた。彼女が通り過ぎると真珠色の後光が見えた。と、顔に風圧を感じた。何かが私の中を通り抜けていった。集団が通り過ぎると、通りの両側を埋めていた群衆が後をついていった。全て女だった。若い女、中年の女、様々な年齢の女たちがいた。子供や老人ではなく全て壮年の女たちだった。私は少女の後姿をずっと見続けた。通りの曲がりを過ぎて見えなくなると、私は板戸からようやく離れた。
 芳しい気体が体中を巡っていた。懐かしいような切ないような、言葉にならない感情が溢れ出して、胸が一杯になった、そして靄のように浮かんでは消える無数の幻影が見えた。膝の辺りが妙に温かくなった。どれぐらいの時間だったろう? いつの間にか私はしゃがみこんでいた。三芳が腰を、ふみが下腹を押さえて同じようにしゃがんでいた。
「あの少女が……」
 やっとふみに問いかけた。
 ふみは涙で顔を濡らしていた。
「真珠色の光が見えた……」
「おれは金色だった」
 三芳がぼそぼそとつぶやいた。
「ふみさんは何色が見えたの?」
 ふみは前掛けで涙を拭った。
「青むらさき色でした」
「人によって違うんだね」
 ふみがうなずいた。
「ふみさんだったら、堂々と家の前に行けば良かったのに」
「私は新参者ですから」
 とだけ言うと、ふみはまた奥へ走り去った。
  
 美弥たちが帰ってきた。興奮冷めやらぬ面持ちで、ひたすら御寮人を称え続けていた。
「さあ、これから忙しくなるよ」
 美弥が朱音や和美にはっぱを掛けた。
「あなたは何回目?」とか「私は今までに五回経験したわ。ここでは初めて」と言いながら、私と三芳がいる部屋の前を一旦通り過ぎ、美弥だけが慌てて引き返してきた。
「申し訳ありませんが、先ほどの通達にもありましたように、私たちは全員それぞれの部署で、お接待の任に就かねばなりません」
 と、まるで非常事態宣言のようだった。さすがに途中から口調が軟化して、
「そういうわけで、今夜はお二人の接待ができませんが、夕食やお風呂の準備は、ふみと弥生が手抜かり無くして差し上げますので、ご心配なく。ただし、午後七時からふみたちも会場へ行きますので、夕食は五時半からとなります。お布団の方もセルフでお願いします。何かご質問はありませんか?」
「テレビだけど、何チャンネル見られるの?」
 三芳が尋ねた。
「八局見られます。山の上にアンテナを立ててケーブルを引いているんですよ」
 美弥が自慢げに言った。
「ほう。それなら退屈しのぎになるね」
 三芳は少し安心したようだ。
「えーと」
 ここに来た時から疑問に思っていたことがあった。今それを言うか、言うまいか……。
「何か仰りたいことがあるんじゃないですか、時任さん」
「館と言うのですね。この館には、女性しか住んでいないんでしょ?」
「その通りです。男性は現在、時任さんと三芳さんだけです」
 あっさりと答えが返ってきた。
「いつも、そうなんですか」
「短期滞在で少数の男性がいることがありますね、今みたいに」
「何人ぐらいの女性がいるんですか」
「通年少数の者が定住しているだけですが、今回のように大きなイベントがありますと、一時的に人が増加します。他の館から参加したり、私たちみたいに、普段は館の外で様々な仕事に就いている者たちが、全国各地から大勢やって来ます」
「あの、皆さん独身なんですか?」
 口元を抑えてくっくと美弥が笑った。
「主婦もいますよ。亭主には何か他の理由をつけて来てるんでしょうね。中にはきちんと主人を説得して来る人も、若干ですがいるみたいです」
「今夜ここに何人ぐらい滞在するんですか」
「さあ、千人位かしら。ではごゆっくり、二夜目をお過ごしください」
 美弥は襖を閉めかけて、
「七時以降、この家に女はいません」
 意味ありげに笑みを浮かべた。
「くれぐれも、上の階へは上がりませんように。御身のために自重なさってね」
と美弥が付け加えた。

「予想もしなかった展開だよな……」
 三芳がため息をついた。
「そうですな……」
 元々一泊二日の予定だった。だから宿泊をどこにしようが日程の変更はない。まして、宿泊と飲食の費用がただの上に、結構な接待まで受けたのだから、今日帰途についていれば、ああ、いい思いをした旅でした――で終わっただろう。だが、さらに一日閉じこめられるとなれば、話は別である。
「奥さんに連絡しなくてもいいんですか」
「そうだな……」
 三芳が時計を見た。
「まだ、お昼の十二時だぜ。女房には夕方にでも電話するさ。それにしても、どうやって時間を過ごそうか? なあ時やん」
「私は文庫本を持ってきてますから」
「お前はいつも用意がいいな。おれはテレビでも見ていようか……」
 三芳がリモコンスイッチを入れた。お昼のニュースだった。あれこれチャンネルを変えていると、ふみがやってきた。
「すでに女将さんからお聞きになったと思いますが、本日、夕食は五時半からとなります。早い時間ですが、よろしくお願いします。それと、お風呂はいつでも入れます。お好きな時間に何回でもお入りください。タオルをお部屋にたくさん用意しておきました。それでは、夕食までごゆっくりお過ごしください」
 まだ昼過ぎだったが、早々と私は浴衣に着替え、新しいタオルを手に浴室に向かった――。
         11 女の都

 風の唸る音が少し和らいだ。
「ピークを過ぎたようです」
 南條が言った。
「明日は橋を渡れますね」
「あとは、いつ通行止めが解除されるかです」 
「今、日が変わりました」
 南條が時計を見て言った。
「そろそろ話を終わらせないと、明日の仕事に差支えますね」
「いやいや、大丈夫」
 南條が笑った。

「湯疲れしたためか、風呂から上がると眠気を感じ、私は部屋でうたたねをしました。目が覚めてからは、寝転がって文庫本を読んだり、食事処で三芳とテレビを見たりして、午後の大半を過ごしました。
 何時頃だったか、ずっと上の階からごろごろと響くような振動と物音が伝わってきました。気になって庭に出て様子を見てみようと思いました。縁から庭に降りる踏み台に下駄があったので、それに足をつっかけ、建物の上の方がよく見えるように、縁から少し離れました。
 首を反らすと、六階の窓の内側を何かが動いていました。モノレールでした。浅野運転手が言った例のモノレールだなと思いました。三両連結の小さな車両にぎっしり人を乗せて、歩く速度ぐらいで動いていました。車両の窓から下を見ている者がいて、私と眼が合うと、指差して連れに知らせたりしました。
 見つかったらまずいかと一瞬思ったのですが、私は『戸外』ではなく『戸内』にいるのだから、通達に反している訳ではないと、勝手に解釈しました。さらに一つ下の五階の窓を見ると、大勢の女がぞろぞろと廊下を歩いていました。大学の講義と講義の間に教室を移動する学生の群れのようでした。やはり私に気付く者がいて手を振ったりしました」

 五時半の夕食までに、もう一風呂浴びる気にもなれず、本を開いたままうつらうつらしていると、ふみが夕食を告げにきた。すき焼きだという。昨日しゃぶしゃぶで今日すき焼き……但馬牛とは言え、似たメニューが続くのは芸がないと思った。が、美弥にしてみれば、二夜客に食事を振る舞うことは予想外だったろう。昨夜余った肉で、手っ取り早く客に出せる料理にしたかったに違いない。御寮人の到着が一日繰り上がり、人手が足りなくなった事情もあっただろう。
 昨夜と同じように、ふみが私の給仕をした。三芳には同じく弥生だった。静かな夕食だった。してみれば、美弥の存在がいかに大きいものか思い知らされた。
 であれば、今夜のイベントの接待役の一人として、美弥はやはり不可欠に違いなかった。ふみは黙々と鍋の中を観察し、絶妙のタイミングで肉と野菜を鍋に投入し、食べ頃の具を私のとん水に入れた。酒の酌も良い案配だった。
 係長はもっぱら相撲中継に集中していた。取組みまでに急いで食べ、ビールを飲む。取組み中は箸もコップも置くという動作を繰り返していた。取り組み中にビールを飲みかけて足の上に派手にこぼしたからだ。
 テレビ中継の音声と、鍋がぐつぐつ煮える音がやたら大きく聞こえた。昨日とは大違いだった。私が沈黙を破った。
「七時になったら、ふみさんたちも行くんだよね」
「ええ」
 二人が同時にうなずいた。
「どんなことをするの。お運びさんとか?」
「仲居の仕事はあまりしなくてもいいんです。原則、みんなが協力し合うことになっていますので……それより、私たちも分科会に参加しないといけないんです」
 と、ふみが答えた。
「分科会?」
「はい」
「どんな分科会があるの」
「いろいろ、です」
 ふみが困った顔をした。
「よく知らないんです、すみません。私、初めてなんで」
 即座に弥生が答えた。
「女を守る法律学基礎、同演習編、実習編。女性の自立支援法、若年女子への啓蒙、性暴力対抗法、DV対処法などです」
 楚々とした感じの弥生が静かな口調で羅列してみせた。
「まるで学校のようだ」
 三芳が珍しく口を挟んだ。
「そうですね、女たちの学校ともいえます」
 弥生が微笑しながらうなずいた。正座した膝の上にきちんと両こぶしを置き、笑みを絶やさず話す様は、寺子屋の先生のようだった。
「分科会は七時から始まるんでしょ?」
「はい」
「じゃあ、今はみなさん何やってるんですか。午後もずっと人が移動してたけど」
「たぶん評議会」と弥生がつぶやいた。
「え! 議会があるんですか?」
「いえ、代議制は取ってなくて、評議会なんです。各地から評議員が集まっていますので、午後はずっと審議を行い、今は最終の評決を行っていると思います」
「………」
 私は三芳と顔を見合わせた。不思議な話ばかりだった。
「ちなみに、議案はどんな内容なんでしょうか」
「私もその辺は……」
 と、弥生も首を傾げた。
「そうそう、国際化とか後継者の件とか、女将さんが言ってました……」
「はあ……」
 想像を超えた話だった。
「一つの国のようだな」
 三芳がぽつりとコメントした。
「確かに、似たところはあるかもしれません」
 弥生が感心しながらうなずいた。
「御寮人様は、元首ということかな」
 三芳は、国とのアナロジーが気に入ったようだ。
「ある意味、そうかもしれません」
「それじゃ、今ここが首都ってことだ」
「はい、臨時の都」
 弥生が可笑しそうに応えた。
「さしずめおれたちは外交使節ということになるかな?」
「はい?」
 弥生が吹き出した。
「外交じゃなくて。単に民法上の案件でしょうが……」
 三芳の軽口に一々反応するのをやめて、私は弥生に向かって質問を再開した。
「御寮人様って何者なんですか?」
「神仏への帰依を説かれるお方です」
「しかし少女にしか見えなかった……あ、これを言っちゃまずいかな」
 弥生が微笑んだ。
「パレードを見られたんですね」
「確かに遠くからでも、御寮人様のパワーの凄さを体感しましたが、しかし、あんなと言えば失礼ですが、うら若い少女が単に神仏の信仰を説くだけで、これだけの、国のような団体を統率できるものでしょうか」
 弥生が考えていると、
「ジャンヌ・ダルクも少女だな」
 ぽつりと三芳が言った。単なるトリスおじさんではない片鱗を見せた。だが、ちょうどその時、テレビから歓声が上がった。
「係長! 若乃花と千代の富士の取組みですよ」
 三芳は画面にくぎ付けになった。
「ふみさん、言っちゃって良いのかしらね?」
 ふみが困ったように小首を傾げた。
「やっぱりやめときます」
「御寮人様のことは秘密なんですね」
「パレードでご覧になったのは、御寮人様のお姿のほんの一部です。そのうち何かの拍子に、別のお顔を知ることになるかもしれません」
 弥生が穏やかに微笑んだ。
「分かりました。御寮人様については口外無用なんだ」
「そうです」 
 その時私は、角度を変えて色々聞き出すべきだったのかもしれない。御寮人のことを知りたかったのだから。しかし今にして思えば、それは好奇心からではなく、御寮人への憧れではなかったか? 私は恋する人のように、ただ、御寮人なる少女に近づきたかっただけではなかったか――?
 話題が途切れると、相撲中継の音ばかり聞こえた。取組みは千代の富士が勝った。座布団が乱れ飛び、髷を崩した千代の富士が意気揚々と土俵を引き上げていくところだった。
「いよいよ千代の富士の時代になるな」
 三芳が呟いた。私は無言で酒を飲んだ。食事が終わると弥生とふみが後片づけを手際よく終えた。
「お酒とおビールと、夕食が早かったのでお腹が空くといけませんので、おにぎりを作っておきました」
 ふみが机の上を布巾で拭いて、酒とビールを置き直した。弥生がお握りと沢庵の入った皿を二つ盆に載せて運んできた。
「では、申し訳ありませんが、私たちはこれにて失礼いたします」
 二人の女はお辞儀をして食事処から退いた。
「おれはここでずっと、テレビを見てるよ」
 三芳は座布団を二つ折りにして枕にし、ごろりと横になった。
「私は、読みかけの本の続きでも読むことにします」
「そうかい」
「家に電話は?」
「さっきしたよ。うちの奴には、交渉が長引いて帰れなくなったと言っておいた」
「長引いているのは交渉のあとですがね」
「そんなややこしいことを、言うわけないだろ」

        12 探索

 部屋に戻ると布団が敷かれていた。
 就寝するには早すぎる時刻だが、酒のためか眠気を感じた。昨日ほど飲んでいなかったが、布団の上に寝転がると、シーツの程よい冷たさが心地よく、いつの間にか眠り込んでしまった。
 眼が覚めて時計を見ると、七時半だった。まだ宵の口である。さあ、どうしたものか……。本の続きを読む気も失せた。三冊持ってきていたが、いつものことだが、旅先ではほとんど読まない。結果的に本を読まないのに、いつもカバンの中に数冊放り込んでしまうのだった。その文庫本が、床の間に揃えてあった。布団を敷く時にふみが整理したのだろう。
 カバンも一緒に並べてくれていた。美弥の委任状と印鑑証明書が入っている。こんな手持無沙汰な時こそ、もう一度書類に不備が無いものか、チェックなどすれば良いのだが、全く意欲が湧かなかった。
 また庭に出た。とっくに日が暮れていた。灯篭に明かりが灯り、足元に不安はなかった。例によって五、六階が見えるところまで行き、上を仰いだ。五階の廊下に人影は無く、非常灯のような小さな明かりが一定の間隔で点っていた。部屋の中では分科会が行われているのだろうと私は思った。
 六階は仄かに明るかった。一両だけのモノレールが無人で動いていた。何もすることがなかった。ウイスキーがあったことを思い出して部屋に戻った。ふみに用意してもらっていたのだ。魔法瓶の中に砕かれた氷が一杯詰まっていた。グラスを氷で満たし、その上からウイスキーを垂らした。水っぽくなったが仕方がない。たてつづけに三杯飲んだ。四杯目は氷が無くなり、氷が解けた水で割った。グラスを持って縁に移動した。グラスを傾けながら月を眺めていた。
 ほとほと無聊を持て余していた。ウイスキーの酔いもあり、少し気が大きくなった。建物の中を探索してみようと思った。美弥の忠告を思い出したが、上の階に行かなければ良いのだ。
 中庭に面した廊下は、中庭の回りを一周しているだけだろう。そこで私は、中庭とは反対側の廊下、つまりこの家の母屋の内側を一周してみることにした。食事処と反対方向に廊下を進んだ。両側に部屋が並んでいた。ランダムに幾つか開けてみた。ことごとく鍵が掛っていない客室だった。私が進む廊下と直交して短い廊下があった。便所や手洗い、収納室に行くためのものだろう。母屋の立面図を想像したら、たぶん回の形になる。大きなロと小さなロの間が廊下とすれば、一周して元の場所に戻ってくるはずだ。
 廊下を進み、左に方向転換を三回すると、見たことのある一角が見えてきた。そこを右に曲がれば、表の通りに面した玄関に行くはずだ。だが、私は直進した。真っ直ぐ行って左に折れた先に食事処があるはず。果たしてテレビの音声が聞こえてきた。障子を開けた。三芳が珍しくドラマを見ていた。
「まだ起きていたのか」
「まだ八時半ですよ。それより野球見ないんですか?」
「今夜のゲームは負けだな」
 三芳は巨人ファンである。贔屓のチームの敗色が濃くなったらすぐにチャンネルを変える口らしい。
「風呂行かないんですか」
「後で行くさ。寝る前にな」 
「時やん」
「はあ」
「夕べだが……おれの寝床に女が来た」
 朝と違って普通の話し方である。女たちが出払って、この階には二人しかいない。他に聞く者がいないから、こんな話も普通にできた。
「美弥さんでしょ」
「どうして分かった」
「そんなこと分かりますよ。美弥さんのお香の匂いが移っていましたから」
「え? そうなのか」
 三芳はあわてて自分の左右の二の腕を嗅いだ。
「朝食の時着ていた浴衣から匂ったんですよ。今着ているのは新しい浴衣でしょ?」
「そうか。で、お前はどうなんだ」
「私ですか」
「ああ。誰が来た」
「朱音」
「娘じゃないか。何のために俺たち二人に、親子で夜這いなんかするんだよ?」
「そんなこと知りませんよ」
「何か裏があるのかな」
「どんな裏ですか」
「だから、今それを考えているんだよ」
「我々に色仕掛けをする意味がありますかね。昨夜の内に方針は決まった。それで目途はついたようなものだ。夜這いをかけてまで、我々を籠絡する意味も目的も無いでしょ」
「単に、おれたちに惚れたとか……それは無いか」
「無いですね」
「たんに子種を欲しかった、なんて」
「あ、そうか」
「えっ?」 
「朱音は、とても重要な、ある種の任務だと言ってました」
「時やんと寝ることがか?」
「ええ。美弥さんも言ってました?」
「言わねえよ。男女が同衾して、そんな大層なこと言うはずがないだろ」
「まあ、普通はそうでしょうな」
「飯食って風呂へ入って、その延長だぜ、普通はな」
「………」
 朱音は儀式と言った。ひょっとして本当に子種を得るのが目的だったのか。しかし何のために。たしかに女ばかりの集団を維持するためには女児の後継者が必要だ。女児を生むために男から子種を得て妊娠させる。それは分かる。だが、いつも女の赤ちゃんが生まれてくるとは限らない。生まれてきた子が男だったらどうするのか?
 三芳がまたチャンネルを変えた。巨人戦の結果だけ確認するらしい。
「ま、そのうち風呂に入って寝るさ」
「私も適当に時間をつぶして寝ます。では、お休みなさい」
「お休み」
 三芳のいる部屋を後にした。次は二階の探索である。階段を上がった。昨日パレードを見るために駆け上がった階段である。
 常識的には、一階と同様の構造だろうと思った。思いついた場所の襖や障子などを開けたが、客室か寝具類の収納室、手洗いやトイレなどであった。
 二階は長いこと使っていないようで、畳や建具に傷みが見られた。一階と同じ構造のように見えたが、少し差異があった。クランク状に廊下が折れ曲がる一角に、部材が新しい個所があった。板戸を引いた。真新しいエレベーターがあった。ランプが五階で停まっていた。ランプは1から6まであった。ということは、一階にも乗り場があるはずだった。私は板戸を閉め、階段を下りた。階段が離れていたので、エレベーターの直下の場所を探すのに手間取った。あちこち廊下を探っている内に、三芳とばったり出会った。風呂に行くところらしい。
「何してるんだ。こんなところで」
「だから、この建物の造作を見て回ってるんですよ」
「あんまりうろうろするなよ」
「大丈夫、誰もいないんだから」
 三芳が曲がり角で見えなくなると、私は廊下を進んだ。それらしい場所に行き着いたが、壁で塞がっていた。仕方なく横の客室の障子を開いてみると、暗がりの中に黄色いランプの明かりが浮かんでいた。何と床の間をぶち抜いて、エレベーターの乗り口を嵌め込んでいた。周りの造作が間に合わなかったのか。ひどく奇異な眺めだった。この部屋で客は泊まれないだろう。床の間から人が出てきたりすれば、うかうか夜も寝られまい。
 相変わらず箱は五階で停まっていた。昇りのボタンに人差し指を置いた。しばらく逡巡したが、私は思い切って指先に力をこめてボタンを押した――。

13 分科会

「雨がずいぶん小やみになりましたね」
 南條が窓を開けて外の闇を見ていた。生暖かい湿った風が吹き込んだ。
「風がまだあるようですね」
「まだ淡路島を通過中ですから」
「話はいよいよラストへ向かいますか」
 南條が窓を閉めた。
「いえ、もう少し」
 
 五階のランプが点った。エレベーターの扉が開いた。そこは納戸の中だった。掛け軸などが棚に並べられ、大小の衝立や屏風、スクリーンや暗幕などが壁に立てかけられていた。
 納戸の襖をそっと開けて廊下に出た。廊下を挟んで両側に、花柄の襖が長大な壁画のように延々と続いていた。前後とも百メートルはあるだろうか。まるで江戸城大奥のようだと私は思った。そして部屋ごとに、出入りのための襖戸が細目に開かれていた。目の前の隙間をそっと覗いてみると、十人ぐらいの女が和やかに談笑していた。そして襖に「B―5」と記された紙が貼られてあった。
 次の部屋には「B―6」とある。こちらは数人の女たちが飲食しながら、何やら真剣に議論していた。
「B―7」では、電卓で盛んに計算しながら、机の上に広げた書類に、脇目も振らずに何かを書き込んでいた。
「B―8」では、一台のパーソナルコンピューターが部屋の真ん中に鎮座しており、何人もの女たちが、身を乗り出すようにして、ブラウン管式ディスプレイを覗き込んでいた。メガネを掛けた女が、キーボードを押しながら早口で説明するのに合わせて、みな懸命にメモを取っていた。
 私は、廊下を挟んだ反対側、つまりエレベーターがあった側の襖がすべて閉じられていることに気付いた。そこで「B―8」の向かいの襖を開けた。二十畳ほどの座敷に布団が整然と敷かれていた。次の部屋も同様だった。つまりこちら側は宿泊用の部屋らしかった。
「B―9」では、リアルな人体解剖模型を前に、医学用語を交えながら静かに情報交換していた。
「B―10」では「無断入室禁止」の張り紙が貼られていた。襖はぴたりと閉ざされており、聞き耳を立てると、様々な電子機器や得たいの知れない不思議な機械音が中から聞こえてきた。
「B―11」は僅かな隙間から、刺激臭のする気体が漏れ出ており、それを吸い込んだ私は咳を抑えるのに苦労した。しかし折悪しく、足音が近づいてきた。人が通るための廊下にいれば、誰かに見つかるのは当然で、私は開き直って足音の主をさりげなく見た。女は白衣を着ており、うつむきながら「B―11」に向かってきた。私はそっと入り口から離れた。そして廊下の先へゆっくりと、能役者のような足取りで離れて行った。彼女は依然俯いたまま「B―11」へ入った。
 その次は「C―1」とあり、「臨時診療所」と札が掛っていた。文字通り、急病患者らを診療するために設置されたのだろう。中から物音は一切聞こえてこなかった。
 その次は「C―2」で、「病棟」と表示されていた。千人もここに集まっていれば、体調不良の者も出ることだろう。だからベッドを用意して一時的に病人を収容しているらしい。
 二つ部屋が続いて、その次は「C―X」と赤い文字で印字された張り紙が貼られた部屋だった。その部屋だけ出入り口は襖などではなく、鋼鉄製の頑丈そうな扉だった。灰色の扉の上に「X線装置あり。入室時に許可証を提示のこと」と赤い色で書かれてあった。
 出入り口のみならず、その部屋だけ、廊下に沿った壁が一面、灰色の金属で覆われていた。
 私の進む方向にしたがって、つまり張り紙の記号と番号の組み合わせが上がっていくにつれて、内容がシリアスになっているのではないか。ということは、私はエレベーターから降りて左にきたが、右の方向に行けば、「B―4」、「B―3」、「B―2」、「B―1」、「A―N」……と、逆に難易度が下がっていくのだろうかと思った。何の難易度かはよく分からなかったが……。
 廊下は「C―X」で行き止まりとなり、防火扉で仕切られた。そこから先は別の棟になるらしい。棟の端に階段があった。
 私は今来た道を振り返った。廊下がまっすぐ伸びていた。向こうの端は暗くてよく見えなかった。低層階では個々の建物が独立しているが、上層階では各建物は、廊下によって連結されているのだった。
 私は階段を上がって六階へ行ってみることにした。六階に上がった途端、給食センターのような匂いが漂ってきた。色んな食品が調理されて混ざった独特の匂いだった。
 灰色のリノリウムの廊下に沿って、ベージュ色の壁が続いていた。所々に小窓があった。明るい光が漏れ出ていた。白い調理衣姿の女が小窓の前を何度も横切った。すでに繁忙時は過ぎていると思われたが、それでも忙しそうに立ち働いていた。宴会は続いていたから、酒肴や、デザート、夜食の麺類やご飯類を準備しているのかも知れなかった。
 この階も、廊下に人影は無かった。どうやって料理などを下の階へ送るのだろうか。モノレールを使うにしても横の移動に限られる。ということは、小型の昇降装置を使っているのではないか。こちら側からは見えないが、この調理センターで調理した料理や飲み物は、先ず水平方向にモノレールで運搬し、次に小型昇降機で五階に降ろす。五階で料理を取り出して、ワゴンか何かで各部屋に運んでいるのだろう。
 それでこの階も、調理室の向かいは調理員の寝室、もしくは私的に使用する部屋と思われた。ある部屋のドアを開けると、二段ベッドが整然と並んでいた。

 私は階段を下りて五階に戻った。分厚い防火扉を開けると、「Eグループへようこそ」と書かれた小さな立て看板があった。扉一枚で雰囲気が急変した。今までが、いわば学校ゾーンとすれば、ここは「娯楽ゾーン」ではあるまいか。ざわめきが聞え、酒肴のにおいや人いきれが廊下にまで漂っていた。就寝しようとする者もいるのか、歯ブラシを咥えた寝間着姿の女が廊下を行き来していた。私の姿を認めても、とりたてた反応もなく、すれ違う時に一瞬ぽかんとした表情を浮かべたが、騒ぐこともなくやり過ごした。
 こちらもさっきと同様に、出入り口用の襖戸が少し開けられて、「E―1」と表示した紙が貼ってあった。やはり廊下に沿って「E―2」、「E―3」……と続いているのだろう。早速、こちらの廊下の端に位置する「E―1」を少し覗いてみた。
 すぐ目の前で四十代位の女が四人、飲物と料理を載せたトレイを、畳の上に置いて賑やかに談笑していた。
「あら、男だ」
 丸顔の女が私を見つけて目を丸くした。たっぷりとした背中を向けて座っていた女がくるりと振り返った。メガネをかけた色白の女だった。
「どうしてこんな所へ紛れ込んでいるの」
 三人目のちょっと色っぽい女が私の来ている浴衣を見て、
「旅館の浴衣よね。ここに泊まってる人なの? 仕事で来てるんだ」
「ええ。帰れなくなって」
「あ、そうか。今、館は閉門してるから」
 丸顔の女がうなずいた。
「そうなんです」
 四人目の化粧の濃い女が、
「そんなところで立ってないで、お坐りなさいよ」
「一杯いかが?」
 女が自分のグラスを空にして、酒を注いだ。
「ありがとうございます」
 私は注がれた冷酒を頂いた。酒を飲みながら、ぐるりと周囲を見回した。
 廊下に沿って細長い二百畳はあろうかと思われる座敷には仕切りが無かった。大勢の女たちが立ったり座ったりしながら、この長大な空間を埋めていた。
「この部屋には仕切りがありませんね」
 最初に私を見つけた丸顔の女が、
「ここは懇親会ゾーンなの。だから一つの大きな座敷にして、各自が雰囲気を見ながら、自由にグループを行き来できるようにしてるのよ。だから自然発生的に座が出来るし、気儘にあちこち飲み歩いてもいいの。各自がトレイを持っているでしょ。これに飲物と料理を載せて、あっちへいったりこっちへ行ったりしてるわけ」
 メガネの女が後を継いだ。
「カラオケをしたい人は、隣のE―2へ行くの。しっかり防音してあるから、全然音が響いてこないでしょ。E―1のここら辺は、上品にお酒を飲む人たちばかりなのよ」と言いながら、あまり上品でなく笑った。
 色っぽい女が、
「ここはね、生まれ年が同じってことで、つい一時間前に出来たグループなの。あんたも、回ってみたら? 仕事で来てるって言えば、大目に見てくれるかもね」
「止めといたほうがいいんじゃないかな」
 化粧の濃い女が、首を伸ばして座敷の遠くを見渡した。
「奥へ行くほどシビアだから」
「シビア、ですか」
「男への敵愾心がね」
 丸顔の女がバッグからオペラグラスを取り出した。膝立ちして奥を観察した。
「うーん、かなり荒れてきてるみたい」
「そうですか。奥へは行きません」
「連中につかまったら、つるし上げられるかもしれないね」
「一旦、ここを出ます」
「そうね、ここは宴席を回らず、E―1を出た方が良いわ」
 最初の丸顔の女が言った。しかし私には、どうしても気になる事が一つあった。思い切って丸顔の女に尋ねた。
「御寮人様は、どちらにおいでになりますか?」
「どこにおられるのかな?」
 女が他の三人に尋ねた。
「さあ?」
 三人は首をひねった。
「でも、御寮人様の居場所を知ってどうするの?」
「遠くからでいいので、お姿を見てみたいのです」
「無理よ、無理無理」
「無理ですか」
「私たちだって、いつでも気軽にお会いすることなんてできないのよ」
 他の三人がうなずき合った。
「でもパレードのときにお姿を見ましたが」
「あれは、あくまで例外よ。普段は決して大勢の人がいる場所にはお出でになりません」
「だから、普段は面会を願い出て、許された時だけお会いできるのです」
と、メガネの女が言った。
「お姿を見たいということは、面会を願い出るということさ。でも、男とはお会いにならないよ」
 化粧の濃い女が言った。
「…………」
「御寮人様がどんなお方なのか、全然ご存じないでしょ」とメガネの女。
 私はうなずいた。
「諦めなさい。だいたい部外者が、パレードでお姿を見られただけでも、あり得ないことなのさ」
「カラオケは好き?」
 丸顔の女が尋ねた。
「大の苦手です」
「E―3へ行けばいいわ。あそこはエロくて能天気な連中ばかりだから」
「………」
 私は四人組に礼を言い、E―1を出た。E―1沿いの廊下をE―2へ向かっていると、いきなり襖が開き、女が二人意味不明なことを喚きながらE―1から飛び出してきた。足元が相当ふらついている。私は危険を感じ、彼らに背を向け、持っていたタオルを頭からかぶり二人から遠ざかった。彼らは私に気付かず、もつれ合うようにして、向かいの部屋に入って行った――。

         14 野球拳

「E―2では、カラオケ大会が最高潮でした。決勝が始まっており、襖の隙間から歌声が流れてきました。その技量の高さに私は仰天しました」
「その前夜、琴音でもカラオケをしたんですよね」
「彼らもうまかったが、決勝に出た連中は数段上で、まるでプロのようでした」
「元プロの歌手もいたかもしれませんな」
「確かに……でも私はE―2を早々に立ち去って、E―3へ向かいました」
 
 
 テンポの速い三味線の音が襖の隙間から聞こえてきた。一瞬、阿波踊りかと私は思った。が、少し違った。笛や太鼓、カネが無く、三味線一本の乾いたシンプルな音だった。お囃子に合わせて会場全体の女たちが唱和していた。
「野球するなら こういう具合にしやしゃんせ ソラ しやしゃんせ 投げたらこう打って ソレ 打ったならこう受けて ハイ ランナーになったら エッサッサ」
 私は思わず襖を半分開けた。百畳ぐらいの座敷だ。中央に舞台があり、女六人が二手に分かれて踊っている。舞台の脇に賞品が山と積まれていた。
「アウト セーフ ヨヨイノヨイ」
 観客が囃し立てた。舞台の上の女が一対一でじゃんけんした。あいこだ。
「ヨヨイノヨイ」
 勝った女が拳を突き上げた。他の二人がハイタッチした。
 負けた女はすでに肌襦袢だ。司会の女が負けた女に脱ぐよう促した。女はしぶしぶ紐をほどいて肌襦袢を脱いだ。上半身が露わになった。ギャラリーの女たちが歓声を上げた。下は裾除けと足袋のみ。負けた側の一人はスリップを勢いよく下へ落として脱ぎ、ストッキングも脱いで、ブラジャーとショーツのみになった。もう一人もTシャツを頭から抜いてブラジャーとショーツである。
 見渡すと、舞台の進行に合わせ、全員がグループに分かれて金屏風の前で一対一の試合をしているのだった。負けた女たちが一斉に衣類を脱いだ。見物人でバスタオルを巻いている者たちは、先の試合に負けてすでに裸なのだろう。次の勝負が始まった。
「お酒のむなら こういう具合に呑ましゃんせ ソラ呑ましゃんせ さしたらこううけて ソレ うけたならこう呑んで ハイ 歌えや踊れや エッサッサ タイム プレー ヨヨイノヨイ」
 舞台上では、じゃんけん役が交替して勝負が逆転した。勝った側はハイタッチし合い、負けた方はしぶしぶ脱いだ。両者とも同じ格好になった。三番が始まった。
「お酒酔うなら こういう具合に酔わしゃんせ ソラ 酔わしゃんせ にいさんにこうタッチ ソレ タッチならこう逃げて ハイ ホームを目指して エッサッサ アウト セーフ ヨヨイノヨイ」
 じゃんけん役が交代して、また勝負が逆転した。負けた側は和装の女が裾除けと足袋を脱いで湯文字のみとなり、洋装の二人はブラジャーを取ってショーツのみとなった。次の勝負が始まった。
「ハンサムにラブしたら こういうサインを送りゃんせ ソラ 送りゃんせ 十六ささげ豆 ソレ 摘む気ならハゼぬうち ハイ 裏から小松菜 エッサッサ ノー イエス ヨヨイノヨイ」
 和装の女が負けた。司会者にせっつかれながら湯文字をはらりと解いた。続いて二人が順にショーツを脱いで、三人とも全裸となった。舞台の周囲で歓声が上がった。会場のあちらこちらでも歓声が上がった。舞台上の試合が終わると、決着がつかない組の試合を見るために、ギャラリーが移動した。負けた者たちもバスタオルをまとって見る側に回った。ほどなく試合が終わったようだ。
 休憩となり、女たちが一斉に飲物や軽食の屋台に走った。トイレにいく者が方々の出口を目指して走った。私は素早く襖の陰に隠れ、たまたま廊下に落ちていた手拭を拾い、頬被りをして廊下の暗がりで佇んだ。
 休憩が終わると野球拳大会が再開した。司会者が決勝進出者の名前を挙げた。六人ではトーナメントにならないので、恒例により、ゲストから飛び入りを募ると言った。講師の女史が引っ張り出された。対戦者は……会場がしんとした。それからざわざわし始めた。 その時、いきなり私の手首をつかんだ者がいた。バスタオルをまとった女だった。色っぽく私にウインクした。そして意外に強い力で、私は廊下から座敷へ引っ張り出された。
「ここに男性が一人紛れ込んでいます」
 女は、私を舞台の方へ連れて行った。会場がどよめいた。けしからぬ闖入者というより、余興の一つと受け止めたのかもしれない。司会者は単純に喜び、私は舞台に上げられた。女史が横に立った。ボブカットの上品な婦人である。舞台上の八人が自己紹介をした。私の時に司会者は、大会通じて唯一の、前代未聞の黒一点と昂奮した口振りで観衆を煽った。しばらく拍手が鳴りやまなかった。
 決勝トーナメント一回戦が始まった。先に三組が試合を行い、私たちは一回戦最後の対戦となる。私がいるためか、先ほどの試合よりだいぶ盛り上がっていた。部外者でしかも男が観戦していることが、試合中の女を高ぶらせるのか、みな妙に上気した表情で対戦していた。だが、決勝まで進むのは猛者なのか、着衣を取るのにためらう者はなく、敗者はするりと最後の下着を脱いでいった。
 私たちの番となり、名前が呼ばれた。私と女史は前に出た。歓声と拍手が起こった。公平を期すために司会者が着衣の点数を合わせた。私が丹前、浴衣、ブリーフの三点なので、女史はスーツの上下を取り、ブラウス、ブラジャー、ショーツの三点を残して試合開始となった。着衣は三つだから三回負けたら敗者となる。二回続けて私が負け、ブリーフのみとなり、司会者も観衆も昂奮していた。何せ今大会唯一の男だから仕様がない。
 土壇場で私が二連勝し、ついに白ブリーフと白ショーツの対決となった。三味線が鳴り響き、皆が唱和した。野球の振りを入れる女史と眼が合った。茶目っ気と恥じらいが入り混じった目つきが、私の心臓に突き刺さった。彼女を脱がせたいと心から願った。
「アウト セーフ ヨヨイノヨイ」
 私が勝った。その瞬間ブーイングが起こった。観衆たちは、私の股間のものを見たかったのか。女史は私の眼を見ながら、艶然とショーツを脱ぎ去った。凄い歓声が上がった。女史は観衆に両手を振った。それから私にキスをした。また歓声が上がった。舞台を降りていくボブカットの背中と尻を私は見送った。気がかりな表情の助手が、衣服を持って女史を迎えた。

         15 勝敗

 舞台の上に残ったのは四人。準決勝である。私の対戦相手は祭り衣装のうら若い女。私の横に来た。決勝ともなると、コスプレを兼ねているようで、男勝りを演出してきつめのアイラインを引いているが、素顔の可憐さは隠せない。相手が飛び入りの男であるし、芸のない丹前と浴衣の姿に戸惑っている。気の毒とは思うが、他に衣装の用意が無いのだから仕方がない。
 決勝トーナメント二回戦第一試合が始まった。三味線が曲を弾き皆が唱和する。この試合は巫女対くノ一の試合となった。例によって双方の衣装の数合わせが行われ、巫女は緋袴を取り、くノ一はそのままだが、手甲と脚絆を予め取った。巫女は長い髪を水引きで束ね、くノ一は大きいかんざしを付けたままである。互いに四点ずつの衣装であることが、最終のじゃんけんまで行って分かった。
 巫女は赤い湯文字のみ、くノ一は白の褌となった。ヨヨイノヨイでくノ一が負け、司会者に褌をほどかれて全裸となった。
 その頃になると、私は自分が早く負けた方がいいのではないかと思った。これは本来、男子禁制のイベントなのだ。試合はせいぜい二番ぐらいで終わらせて、自分はこの場を速やかに去った方がよいと考えた。だが、意図して負けようと思うと、意に反して勝ってしまうかもしれない。私はそれを危惧した。
 第一試合が終わって、かんざしだけ身に付けた敗者が舞台を去ると、試合前に衣装合わせをした。私の身に着けた衣類三点に合わせて、祭り女は半纏、さらし、半股引の三点でそのままである。足袋を脱いだが鉢巻はそのまま。
 第二試合が始まった。うまい具合に連敗して私はブリーフのみとなった。相手が勝てば私は股間を出して終わりだが、それからがいけない。私が連勝してしまったのだ。先と同じ展開になりそうだった。あどけなさの残った祭り女が半纏を脱ぎ、さらしをほどいた。身に着けるものは半股引のみ。
 これを崖っぷちと言うのも変だが、次は私が負けなければいけない。相手は、順番にグー、チョキ、パーを出しているようだ。つまり最初グーで次チョキ。その次パー、グーときて、次はチョキのはず。私はパーを出せばいい。で、予想した通り、相手はチョキを出して私はパーで負けた。
 女が飛び上がって喜び、拍手と歓声が上がった。私は心から安堵し、ブリーフを脱いだ。幸い男根は良好な状態だった。勃ってもおらず縮こまってもなく、良い按配の形状と大きさは、石膏デッサンの裸像の逸物に近かった。司会者が逸物を直視しながら、それを大袈裟に褒めた。妙な気分だが、褒められて嫌なことはない。決勝に残っている巫女がうれしそうに腰巻のまま手を叩いた。祭り女と握手をし、私は裸で舞台を降りた。バスタオルを渡された。ブリーフは記念として保存されるという。つまり没収である。そのまま会場を去りかけた時、司会者が叫んだ。
「ちょっとちょっと。皆さーん!」
 会場が水を打ったように静まった。
「彼は禁制を破って女の集会に侵入して来たのよ。本当は招かざる客です。それなのに、私たち随分いい思いをさせたんじゃないかしら。そのまま彼を帰しちゃっていいのかな?」
「だーめー」
 散発的だが、会場から黄色い声が上がった。
「そうだよね。禁を破った罪を償うための罰を彼に課します。只今より、バスタオルを取って、Eー4へ移動することを命じます!」 
 バスタオルを取り去られ、私は股間を両手で隠した。女二人に左右から腕をつかまれた格好で退場することとなった。拍手と笑い声が沸き起こったが、これは引き回しのようだと、私は少し情けない思いだった。拍手が鳴りやまない内に私はE―3会場から廊下に出された。私を引く女は、続いてEー4の襖を開けた。
「罰ゲームが課せられた者を連れてきました。宜しくお願いしまーす」
 私はEー4の座敷に押し出された。背後で襖が閉じた。

         16 女相撲

 視線が私に集中した。五十人位はいるだろうか。汗と体臭が入り混じった匂いが充満していた。全員が裸にマワシを締めて胡坐を組んでいる。呆気に取られた表情で私を見ていた。二百畳ぐらいの板間の真ん中に土俵があった。これから取組みするらしい女が二人、蹲踞の姿勢でこちらを見ている。皆が私の顔を見、両手で隠した股間を見た。あるいは、交互に見ていた。どれぐらいの時間だったろう、五秒か十秒……。
「相撲の経験は?」
 リーダーらしい女から声が飛んだ。私は頭を振った。
「その者にマワシを付けてやりなさい。試合は一旦中断。十分休憩を取って再開する」
 が、私の方が気になるのか皆目立った動きがない。一人の女が折り畳んだ布を持ってきた。
「私のマワシだけど、長さ足りるかな」
 私の胴回りを見て、
「大丈夫そうね」
 女は手慣れた感じで畳まれた布を伸ばし、布の端を二つに開いた。あごの下から垂らし、あごで端をはさんで、右手で押さえるように指示した。股の下に来る部分を二つに折って細くし、股下から後ろへ回した。ここでもう一人女が補助して、後ろへ回ったまわしを腰の位置で押さえた。まわしの残りの部分が横に引っ張られて、二人目の女が押さえた部分を自分の左手で押さえるよう指示された。そのままぐるぐると右回りに二回転した。それからは二人の女が前に垂れた布を折り込んだり、また右へ二回転して、締め具合を調整しながら最後に後ろで強く締めて結んだ。
「ちょっと動いてみて」
「しゃがんで」
「よし」
 マワシの上からぽんぽんと叩き、女が初めて笑みを浮かべた。笑うとかわいい顔だった。小振りの乳房がつんと上向いていた。
 女は私を土俵の正面に連れて行き、座って待つよう指示した。目の前に土俵がある。正方形に突き固めた土盛りの上に、円形に俵が埋め込まれていた。私は心細い気持ちで板間に座っていた。ここで相撲を取らされるのだ。女と相撲を取ったことはない。高校で柔道部にいたが、ケガが多くてしょっちゅう休んでいた。右手に何かが触った。ヘアピンだった。激しい取り組みで落ちたものか。いよいよ気分が落ち込んだ。
 
 休憩が終わり、席を立っていた女たちが元の位置に着くと、リーダーが立ち上がった。「未経験者相手に試合はできないので、新入りと一緒に稽古をつけることにします。身体が冷えたので、皆も、もう一度柔軟をやるように」
 マワシをつけた女が来て、柔軟体操を指導した。他の女たちも一緒に柔軟をした。
「体が温まったら、各自股割」
 股割は苦手だった。身体が固いのだ。それでケガが多かった。女が来て私の背中を押した。
「痛たたた」
 私は悲鳴を上げた。
「硬いね、あんた。あっちを見てごらん」
 見るからに体つきが違う女たちで、両足が百八十度開いたまま上体が床にぺたりとくっ付いていた。しかし出来ない者も多く、交代で背中を押していた。
「股割はこれくらいにして、一人ずつ稽古をつけるよ」
 師匠役の女が土俵に上がった。一人ずつ土俵に上がって、師匠役の女にぶつかっていく。師匠役は右に左に投げ、弟子たちが転がされた。私も見よう見まねでぶつかった。柔道で言えば受け身である。転がされると体に土がついた。払う余裕はない。三回転がされると眼が回ってきた。次はすり足の稽古だった。これは短時間で終わった。
「練習試合の前に、模範演技を行います」
 鍛え上げた身体つきの女が二人、土俵に上がった。仕切り線の手前で蹲踞し、両手を打って両腕を伸ばし、両手の平を上に向けてから下に返す。立ち上がって四股を踏んだ。腰を低く落とした位置から片足を高々と上げる見事な四股だった。 両拳を仕切り線に付け、尻を突き出して向かい合い、立ち会った。バシッと肌がぶつかる音がした。すぐ左四つになって寄り合った。互いに俵まで寄るが寄り切れず、体勢を立て直して、今度は投げを打ちあうが決まらない。荒い息になる。たちまち二人の肌がピンクに色づいてきた。両者とも体格は同等、技量も拮抗していた。しかし最後に根負けした方が俵まで寄られて押し出された。次は上手投げの実演、続いて下手投げ、内掛け、外掛けを実演した。二人とも紅潮し汗が全身から吹き出していた。最後に禁じ手を説明した。
 
 稽古ながら取組みを三本することになった。最初の相手は経験年数一年。小柄なあんこ型の力士だった。立ち会い、彼女は頭を私の右胸にぶつけて私の体勢を起こすと、両脇を差された。彼女は頭を私の右胸に押しつけ、ゴムまりのような乳房を密着させてウンウンと押しまくり、私は一気に土俵際まで押されていった。私は思い切って、両上手から相手のマワシを引きつけ、思い切り抱え上げた。相手の足が宙に浮いた。足をバタバタさせたが、そのまま百八十度回転して、吊り出しに成功した。
 二番目は、経験年数二年の中肉中背の美しい力士だった。立ち会ってがっぷり左四つになった。しばらく互いに腰を低くして相手の出方を伺った。投げが得意なのだろう。力の強い力士で、しびれを切らしたのか、相手が下手投げを打ちにきたところを左の小外刈り、いや外掛けで倒した。
 三番目は経験年数三年の屈強な力士だった。後輩が立て続けに負け、見るからに闘志を燃やしていた。立合い後、彼女は低くダッシュしてきた。私はとっさに体を左に開いた。目の前に来た背中を右手で叩くと、あっさりと両手をついた。場内がざわめいた。三本全部勝ってしまったのだ。予想外だった。土俵を下り、肩で息をしながら、勝って良かったのだろうかと自問自答した。

「今度は私が相手をしましょう」
 凛とした声が飛んだ。ざわざわした場内が一瞬に静まり返った。声の主は、上げ畳の上で胡坐を組んでいた。マワシだけの裸体の上に半纏を羽織っている。長い髪を後ろで束ねた美少女が、涼しげな眼で私を見ていた。私ははっとした。この少女は――。
「私が相手になりましょう」
 静かに笑みを浮かべた。
「は?」
 全員が固唾をのんでやりとりを見守っている。
「こちらへ」
 と少女がうなずいた。
 私は立ち上がって少女の前に行った。
「御前である。頭が高い!」
 鋭い声が、傍らに控えている大女から飛んだ。私は慌てて正座した。
「相撲場内では胡坐を組む」
 また慌てて胡坐を組んだ。
「御前に頭を下げよ」
 私は低頭した。――御寮人様だ。何と、今眼の前に――。
「頭を上げよ」
 湖のように深い色を湛えた眼が私を捉えた。この眼に抗うことはできない。
「私と立ち合うてくれませぬか」
「は……」
「御寮人様が立ち合いを望んでおられる」
 少女がにっこりとうなずいた。
「しばらく男衆と揉みあっておらんでの、久しぶりに稽古がしたいのです」
 古い言い回しが奇異な感じで混じっていた。
「よろしいですか?」
「はい」
「三番ほど立合いましょう」
「はい」 
 御寮人様であられる美しい少女と私が揉みあう――そんなことが許されるのか。夢ではないのか? 天にも昇る思いだった。しかし私は完全に勘違いしていた。そんな甘いものではなかった――。
 御寮人は半纏を脱ぎ去った。半球形の二つの乳房が露わになった。スキップでもしそうな足取りで土俵に駆け上がった。身長は百六十センチぐらい。肉付きの良い体つきだった。鍛え上げた筋肉を脂肪の奥に感じさせた。土俵の東に立つと、両足を開き屈身運動のように、一度腰を深く沈めた。次に膝に手を添え、片足ずつ、高々と上げて踏み降ろした。右左と二回ずつ四股を踏んだ。私は三試合の後だったので、四股は踏まなかった。御寮人の四股が終わる頃に合図が合って土俵に上がった。両者向かい合って蹲踞し、柏手を打った。両手を左右に広げ、手の平を上から下に返す。そして四股を一回ずつ踏んだ。仕切り線の位置で両拳を置いて向かい合った。御寮人の眼が笑っていた。一呼吸置いて立ち合った。
 御寮人の右手の平が目の前に飛んで来た。ストレートに左胸に当たった。どすんという衝撃を受けて体が浮いた。次は左、右と、もの凄いスピードで繰り出された。堪らず、かわそうと横になったところを、押し倒された。呆気なかった。場内に感嘆のため息が一斉にもれた。
 すぐ二番目の立ち合いとなった。すんなりと御寮人の両脇に両腕を差し込んだ。身体が密着した。御寮人の圧着された堅い乳房を意識した。一瞬スキが出来た。御寮人が左ヒジで私の右手をマワシから外した。体を開いて右から上手投げを仕掛けた。御寮人の投げの軸となる左足に、私は外掛けを仕掛けた。が、簡単に外されて、逆にバランスを失った私は、再度上手投げを掛けられて土俵で横倒しとなった。 
 三番目は立合い後、組まずに突き合いとなった。その後乱戦となり互いに横や後ろから攻めたりかわしたりして、御寮人を土俵際へ追いつめた……つもりだった。互いに相手をつかもうと腕を取り合う内に、右腕をつかまれてしまった。一瞬のことだった。御寮人は両腕で私の右腕を取ると、くるりと体の向きを入れ替えて背中に私を乗せ、そのまま私は一回転して土俵の下へ飛んで行った……。私の記憶はここまでである。

        17 ふみ

 束ねた髪が目の前にあった。誰かの背に負われていた。汗ばんだ肩と背が歩く度に揺れ、私の両足を支える腕が、私の身体を何度も引き上げた。鼻先の湿った頭髪の匂いが不意に母を思い出させた。母に負われて眠り、目が覚めた時の記憶だった。
「気がつきました?」
 声の一部が背中を伝って聞こえた。
「ああ……」
「もう少し安静にしていてくださいね」
「ふみさん?」
「はい」
 やはりふみだった。
「ふみさん相撲部会だったのか」
「今日初めて女将さんに言われて」
「場内にいたの……」
「隅っこにいました」
「気がつかなかった」
 ふみが立ち止まった。襖を開けて納戸に入る。エレベーターの前で立ち止まった。扉が開き、私は負われたままエレベーターに乗った。
「頭痛くないですか?」
 おんぶした子供をあやす時のように、ふみの顔が横向きになった。
「大丈夫。歩けるから降ろして」 
「駄目です。土俵の下で頭を打ったんですよ。覚えてますか」
「宙を飛んだ。相撲にも一本背負いがあるんだ……」
 エレベーターが一階に着き、例の奇妙な客間を通って、ふみは私を背負ったまま階段を降り、浴室に向かった。
「お風呂場で体を洗います」
 暖簾をくぐって脱衣所に入った。
「もう歩けるから」
「はい、じゃ降りてください」
 脱衣所の床に立った。
「気分は? ふらふらしないですか」
「大丈夫」
「マワシを取ります」
 ふみが私のマワシの結び目を解いた。何重にも巻かれた長い布をふみが手繰り寄せた。私はその場でくるくる回転した。最後に布の端が股間をすり抜けていった。目が回り、思わず膝に手をついた。
「大丈夫ですか」
 ふみが心配そうに覗き込んだ。眼が合った。私は笑って起き直り、ふみを後ろ向きにした。マワシの結び目を解き、網を引くようにふみの腰に巻きついたマワシを解いていった。ふみが笑いながら回転していた。股の間から布を引き抜いた。
「ああ目が回る……」
 笑いながらふらふらしているふみを、私は両手で止めた。全身に土がついていた。
「土が」
 ふみの背中や尻を手の平で払った。が、土は汗で肌にくっ付いて取れない。
「時任さんだって」
 お返しとばかりに、ふみも手の平で私の背中と尻を叩いた。
「あ、手形がここに。ここも、ここも」
 ふみが指先で触れていった。御寮人に突っ張りで張られた個所だった。ふみは前に回って私の左胸を指先で触れた。
「すごい。うっ血してます」
「頭見て。こぶが出来てない?」
 ふみが後頭部を触った。ひりひりする所に触れた。
「そこ」
「痛い?」
「うん」
「後で冷やしましょうね」
 ふみの乳房と腹が私の腕に触れていた。私はふみを抱き寄せた。唇が触れた。ふみが驚いた眼で私を見た。が、ふみは両腕を私の背中に巻きつけてきた。私たちは固く抱き合って荒々しくキスをした。
 シャワーを掛け合って身体についた土と汗を流した。
 ボディシャンプーを手につけて、互いの身体に擦り付け合った。ふみが笑いながら身体をくねらせた。敏感な場所に手が触れると悲鳴を上げた……私はもう限界だった。ペニスが固く勃起していた。ふみはよく理解していた。私の気配を察すると小さな声で、
「ここじゃいやです。お布団の上で……」
 私は黙ってうなずいた。湯には入らず、湯船から桶で汲んだ湯を身体に掛けて、浴室を出た。が、たちまち私たちは途方に暮れた。身体を拭くタオルが脱衣所に無かった。衣類は元々無い。唯一身に着けていたのはマワシだけだ。だから、二人とも裸で部屋まで行くしかなかった。
「誰も見ていないから」
 ふみが笑った。
「そうだね」
 と、脱衣所を出かかると、
「今度は私をおぶって下さい」
 私が屈むとふみが背中に乗ってきた。両腕が私の首の前で交叉し、二つの乳房が背中に押しつけられた。太腿を腕で引き上げた。濡れた身体が滑りやすかった。脱衣所を出ると階段がある。登山のように一段一段踏みしめて上がった。ふみの下腹部の堅い毛がタワシのように、私の腰の辺りを擦りつけた。ふみが耳元でくすくす笑っていた。裸の男が裸の女をおんぶしていた。二人の身体から滴が落ちている。こんな光景を目撃した者は、状況をどんな風に解釈するだろうか? 階段を上がると廊下である。昨日ふみが案内した廊下だ。滑ってずり落ちそうになるふみを、何度も引き上げた。自分たち以外には誰もいない。ふみは気持ちよさそうに凭れかかっている。私の部屋が見えてきた。
 障子を開けて部屋に入り、ふみを畳の上に下ろした。濡れた体を拭いた。布団を敷いて枕を並べた。暗がりの中で二人並んで横になった。
「重かったでしょう」
 ふみが耳元でささやいた。
「そんなことは……」
 唇が塞がれた。ふみの手がペニスを探る。いつの間にか萎んでいた。ふみは体の向きを替えてペニスを口に含んだ……。
 私はふみの中で何回射精しただろう。ふみは何回達しただろう。私たちはぐったりとしてまどろんだ。汗が冷えて寒かった。私は足元の掛布団を引っ張り上げて体の上に掛けた。「すみません」
「ふみさん」
「はい」
「徳島に来ないか」
「……」
「ぼくと一緒にならないか」
 ふみは頭を強く振った。
「ここを出られません」
「どうして?」
「私、追われています。ここにいれば安全なんです。だから……」
「だから?」
「私の事は忘れて」
「そんな馬鹿な……」
「一夜限りの遊びと思って。それで私の事はきれいに忘れて」
「待ってる」
 ふみが私を見た。
「いずれ事情が変化するかも知れない。それまで待っている」
 私はふみの手を握った。ふみが握り返した。
 
 翌朝、御寮人様と御同行が出立した。僅か二十二時間の滞在だったことになる。私と三芳はお見送りを正式に許可された。私たちが泊っている旅館琴音の前でという条件だった。だが、帰りはパレードは無く、バスに乗った御寮人を見送るだけらしい。
 定刻になると館の通路は一の門から二の門までバスが一列に並んだ。御寮人と御同行のみならず、今回の行幸にあわせて開催された、大会の参加者たちも一緒に帰途に就くようだ。宿泊所となった建物からは、身支度を済ませた女たちがバッグなどを提げて、次々とバスに乗り込んだ。定員一杯になると、バスは前から順に出た。排ガスが籠らないようにアーケードの天蓋が全て開けられ、そこから青空が見えた。
 
 間近で歓声が上がった。御寮人と御同行が近づいてきた。どうやら私たちがいる琴音の前でバスに乗るらしい。先に御同行が乗り込んだ。ボディガードに囲まれながら、グレーのスーツを着た御寮人が手を振りながらやってきた。大女のボディガードが私を指差して御寮人に耳打ちした。御寮人が笑みを浮かべながら私の方にやってきた。手を伸ばして私の後頭部を撫でた。
「これで大丈夫」
 とだけ言うと、くるりと背を向けて、バスに乗った。最前列の席に座り、見送り人に手を振った。バスが発車した。前方の一の門を走り抜けるとすぐ左のカーブを曲がってバスは見えなくなった。
 美弥が目を丸くしていた。
「時任さん、いったいどういうことなの?」
 三芳が吠えた。
「お前! 何かしでかしたのか?」
 傍から見れば、私が御寮人様に頭を撫でられる理由など知る由も無かった。だから訳を知りたくてうずうずするのは当然の成り行きだった。
「ゆうべ、何かあったの?」
 美弥が重ねて問うた。私は知らぬ存ぜぬの一点張りだ。
「だから、何遍も言うように何も――」
 私は御寮人が撫でた個所を触ってみた。こぶがきれいに消えていた。
「――ないですよ」
「そうよ、ねえ。あれからお部屋で休まれた筈だから……え? それともひょっとして時任さん……」 
 ふみが下を向いて笑っていた。そんなふみを朱音が不思議そうに見た。朱音がふみの袖を引っ張った。ふみが朱音に耳打ちした。朱音は目を丸くして私を見た。それから彼女たちは、互いに耳元で内緒話をすると、小突き合いながら琴音に戻っていった。
「美弥さん、時任にあれこれ詮索するのはやめときましょう」
 三芳は、そろそろ話の幕引きをしたかったに違いない。用務に関係のないことだった。ここに来てから、三芳の世界観から逸脱しそうな出来事が続いた。一刻も早く退散したかったのだろう。
「そうね、御寮人様も帰られたことだし」
 美弥もあっさりと同意した。元よりさばさばした女だ。 
「さて、おれたちも帰るか、時やん」
「そうですね。でも、浅野タクシーに電話しないと」
「もう来てるわよ。二の門の外で待っているはず。バスが全部出たら、ここに来るわよ」と美弥が言った。
 遅れて出てくる者たちを乗せるために、まだ何台かのバスが待機していた。
 私たちは家に入った。私は荷物を取りに部屋に戻った。盆を持ったふみと、私のカバンを提げた朱音が部屋で待っていた。盆の上に水の入ったコップと白い錠剤。
「これを飲んで下さい」
「クスリ?」
「はい。忘れ薬です」
 朱音が答えた。
「え?」
「私たちに取って都合の悪いことを忘れる薬です」
「ここで見聞きしたこととか?」
「全部じゃないです。ほんの一部だけ」
「君たちとのことは?」
「忘れません。でないと、困ります」
 ふみが大きくうなずいた。
 私はその錠剤を口に入れ、コップの水で飲み下した。
「催眠作用があります。二、三時間眠ります」
「分かった」私はうなずいた。
 と、ふみが後ろへ下った。朱音が抱擁を求めてきた。小柄な朱音を抱きしめて唇を軽く合わせた。次に入れ替わったふみと抱擁して同じように口づけをした。その時何か小さな包みを私の掌に握らせた。ふみと朱音が顔を見合わせてふふと笑った。

「時やん、タクシーが来たぞ」
 三芳が呼んだ。三芳も美弥と別れのあいさつを交わしたのだろうか。浅野タクシーが琴音の店先に停まっていた。美弥と朱音とふみの三人が見送った。
「いろいろとお世話になりました」
 三芳、私と順に礼を言い頭を下げた。たしかにいろいろあった。美弥の後ろで、ふみと朱音が、相変わらず耳打ちしてくすくす笑ったり、殴り合うような仕草をしていた。
「何してるの、あなたたち。お客さんの前よ」
 後ろを向いて美弥が叱った。私たちに向き直って、
「何を仰いますやら。元はと言えば、私の不手際から二日もお引き留めしてしまって。重ね重ねご迷惑をお掛けしました」
 
 タクシーが走り出すと三人が手を振った。ふみと朱音が笑いながら手を振っている姿を後部ガラスから私は見ていた。道が左へ大きく曲がりトンネルが前方に迫ってきた。トンネルに入る頃に私は眠りに落ちた……。
 
 車は山間部の有料道路を下っていた。隣の三芳はまだ眠っていた。
「目が覚めましたか」
 浅野運転手がミラーで私を見た。
「よく眠ってましたね」
「今どこですか」
「六甲有料道路です。もうじき一般道に入ります。フェリー乗り場まであと三十分で着きますよ」 
 二時間以上寝ていたことになる。薬を飲んだことは覚えていた。美弥たちが見送ってくれたことも。その前にふみが手の平に何かを……。無い。あわてて足元を見た。マットの上に小さな丸まった紙きれが落ちていた。拾って広げた。皺くちゃになったメモ用紙だった。ボールペンで走り書きしてあった。
「一年待ってください ふみ あかね」
 と書かれてあった。連名だが筆跡は同一人のものだ。意味がよく分からなかった。二人とも待っているというのは、どういうことなのか。
 タクシーは一般道に入って、真っ直ぐ臨海部に向かって走っていた。三芳はまだ眠っている。交差点を左折した。国道四十三号線らしい。
「もうすぐですよ」
 浅野が言った。
「東神戸フェリーターミナル」の標識が見えた。タクシーは港に向かって右折した。
「あーよく寝た」
 三芳が伸びをした。目を擦りながら周囲を見回している。
「もう着きますよ、係長」
「え? 早着いたのか」
「いやいや、琴音を出て三時間は経ってますから」
 三芳が時計を見た。
「一時……そういえば十時に琴音を出たんだったな」 
 フェリー乗り場に着いた。徳島行の船が横付けしていた。舳先の開口部から乗用車が次々と車両甲板に乗りこんでいた。
「お疲れさまでした。タクシー代金は琴音持ちですからご心配なく。お二人ともよい船旅を」
「ああ、お世話になりました」
 乗船券を買って船に乗った。昼の便で空いていた。缶ビールとつまみを買い、カーペット席で座った。今まで寝ていたので、ビールを飲んで横になる気は毛頭なかった。天気が良く、私は缶ビールを持って甲板に出た。海を渡って甲板に入ってくる風が心地よかった。突堤を通過すると船のエンジン音が高まった。後方の海上に航跡が長く延び、左右に神戸の街並みが広がっていった。遠ざかっていく神戸の街を眺めてから、船の進行方向へ移動した。前方、右手に淡路島。その左に重なってうっすらと見えるのが徳島だった。船室に戻るとテレビで漫才をやっていた。身長が大小のコンビがしゃべくりの応酬をしていた。私と三芳は黙ってビールを飲みながら漫才を見ていた。

         18 一年後

 武田美弥の委任状を持ち帰り、必要な書類が全て揃うと、墓の移転工事が行われた。移転が終わると簡単だが慰霊祭を行った。平行して道路の建設も無事完了し、その年の十月に開通式が行われた。

 そして翌年の八月末、職場に一本の電話がかかった。
「時やん、電話」
「もしもし時任です」
「生野の個人タクシーの浅野です。覚えておられますか」
「もちろん、覚えています」
「早速ですが、今、ある人を乗せて徳島に来ています。お仕事中で申し訳ないですが、会ってもらえませんか」 
「ある人って誰ですか?」
「武田美弥さんとふみさんと――」 
 私は職場を早退した。急いで自宅に帰り、家にいた母に手短に説明した。母にとっては青天の霹靂というやつで、始め表情が赤くなり次に青くなった。そして猛然と茶の間の片づけを始めた。新しい座布団を押し入れから引っ張り出した時、家の前に車が止まり、玄関のチャイムが鳴った。
 私は玄関へすっ飛んだ。戸を開けると赤ちゃんを抱いたふみが屈託なく笑っていた。そして美弥が、もう一人赤ちゃんを抱いて車から降りてくるところだった。浅野が帽子を脱いで会釈した。
「初めまして、お父さん!」
 ふみが赤ん坊を私に見せた。
「お父さん。ぼくたち双子だよって」
 美弥が自分の腕の中の赤ん坊を見せた。
 ――そうか。そういうことだったのか。
 これで、未解決だった課題の一つが解けたのだった。

19 八尾比丘尼

 風が収まった。すでに午前二時。窓を開けると、鈴虫の鳴き声が聞こえてきた。
「というと、ふみさんは……」
「私の家内です。もう一人男の子が生まれて息子が三人。今は皆結婚して孫が四人います」
「そうでしたか……」
 南條が微笑んだ。 
「ふみさんは、何か事情があったのではないですか?」
「別れた男から追われていました。今で言うストーカーです。性質の悪い奴だったようで、ふみの生命を案じた女性が団体に知らせて、ふみを救出した。そして但馬の館で匿っていた。武田美弥の養女になりましたが、その時は戸籍の届出はしなかった。追及の手が及ばないようにするためで、当然住民票も変えていなかった。ふみは偽名でした。私のところへ来るちょっと前に、国から特例が認められた。その時に正式に武田ふみとして美弥の養女となり、その後私と結婚して、時任ふみになったいう訳です」
「法務省などに掛け合ったんですか?」
「団体のメンバーは各方面にいますから」
「ほう」
「各方面に、薄く広く団体のネットワークが広がっています」
「当時ふみが但馬にいた時も、生野の商店街の従業員や町の職員の見張り役がいた。浅野さんもそういう役割を担っていた。好ましからぬ輩の侵入を未然に防ぐ、いわば情報員です」
「ときに、朱音さんは……?」
「何年も経ってから、ふみから聞き出せたのですが、女の子が生まれていたのです。母の美弥と一緒に育てている。その後の詳細は知らないと……美弥から年賀状は毎年届いているんですが、皆元気にしているという文面だけで、住所を詳しく書いてないものだから、こちらから連絡することが出来ない」
「男の子を産んだふみさんは時任さんの所に来た。女の子を生んだ朱音さんは母の元に留まった。どうして二人の運命が分かれたんでしょう?」
「もうお分かりじゃないですか?」
「ふむ。御寮人様の団体、つまり女御島を維持するためでしょうか」
「その通りです。昔から御寮人を護持する女だけの集団があった。彼らは御寮人と共に全国を周遊しながら相撲の興行をしたり、歌舞音曲などの遊芸を供して生計を立てつつ、御寮人をサポートしてきた。時代が下り、近代的な団体に変貌しても、昔からの伝統を守っている家系があるのです。武田美弥もそうした一族の末裔で、代々女子のみを跡継ぎにして御寮人を護持する家系を維持してきたのです」
「もし、もしもですよ、朱音が男の子を産んでいれば……」
「ふみが女子を生んで朱音が男子を生んでいたら、その時は朱音が私の嫁になっていたかもしれない。本人が私を選べばの話ですが。その時はふみが後を継いだかも……。ふみも女子を生んでいたら、二人とも留まったかもしれない。朱音も男子を生んでいたら……その時は里子に出したかもしれない」
「里子……」
「現に、運転手の浅野は美弥の弟なんです。彼は美弥とは父が異なる。つまり美弥の母は 男子を生んだ時に浅野家の養子に出したのです」
「ふーん、ある意味過酷な話ですね」
「そう。男子を里子に出して、再び女子を生む機会を待つ……」
 時任は少し考えてから、
「今年になって秘密が一部解禁されました」
「というと?」
「四月以降、ふみが堰を切ったように団体のことを話し始めた。と言っても、家内は一年と三か月但馬の館にいただけなので、詳しいことは知らないのですが、今私が話したようなことです。そうそう、肝心なことを抜かしていました」
「御寮人様のことでしょう?」
「そう……」
 突然、時任が笑い出した。なかなか笑い止まなかった。南條は待った。
「私は御寮人の顔も声も思い出せない。全て私の記憶から消え去っています」
「でも、話したことや相撲を取ったこと、頭を撫でられたことなど覚えておられる」
「顔や声音は、十七歳の女性の平均的な顔立ちや声に置き換えられました。身体的な特徴も同様に、十七歳の女性でスポーツで鍛えられた体型、と言った記憶でしかなく、決して御寮人とは特定できない。街ですれ違っても、気がつかないでしょう。会話はテキストとしてのみ残っている。いくつかの行為は、一般化されたアクションとして、つまり相撲なら、一般化された技の連続として、頭をなでるのも、正にそういう行為として……」
「味気ないですな」
「そうです。しかし……」
 時任は何とも言えない表情を浮かべた。
「御寮人から発するオーラ、得も言われぬ香気は決して忘れません。たぶん、五感よりもっと深い所で受け止めたのでしょう。感覚器官が受け止めた記憶が消し去られても、深い感動のような余韻が私の心の中にあり、それが消え去ることはないのです」
「そうなんですね」
 南條は深くうなずいた。
「そもそも御寮人は、どうして十代の少女なのか。そして、どうして多くの女性に崇められているのか、不思議だとは思いませんか?」
「少女が特殊な能力を備えているからではないですか。今あなたが言われたような、強力なオーラで人に感動を与えたり、触るだけで病気やケガを治すのだから……」
 時任はうなずきながら別の事を考えているようだった。
「彼女は普通の家に生まれて育った、ごく普通の女の子でした」
 時任は見てきたように言った。
「ここからは、私の仮説なんですが……」
「はい」
「御寮人は五百年以上前に生まれたのではないかと、私は考えています」
「………」
 南條は黙って聞いていた。
「例の移転した墓ですが、墓碑には享徳三年に亡くなったと刻まれています」
「ええ」
「御寮人はその十七年ぐらい前、つまり一四三七年に生まれたのではないかと、私は想像します」
「十五世紀というと、室町時代ですね。そう考える根拠は何でしょう?」
「根拠なんてありません。御寮人本人に聞けば良いのでしょうが、それは不可能。ただ、私がそう考える有力な根拠を一つ――。
 墓標にある享徳三年に亡くなった八百姫なる人物は、八百比丘尼ではないかと私は考えています。同じような墓や碑が全国に二十ぐらいあります。氏名も生年も少し違っていたりします。没年も異なるものがあります。ただ、その二十の墓の碑には、八百比丘尼あるいは八百姫、もしくは白比丘尼のいずれかの文字がある。同一人物が比丘尼として、転々と国中を回っていたと想像できます。墓や記念碑が残っているところでは、おそらく居を構えたか、その地に深い縁があったのでしょう。八百比丘尼が亡くなった時に、残された縁のある女たちが、それぞれ墓や石碑を建てたに違いない。そして次に御寮人と呼ばれることになる人物が生まれたが、八百比丘尼とは十七年ほど重なる時期があります。先代が亡くなった時に初めて、後継者となるべき人物のスイッチが入った。そして御寮人様と呼ばれる何者かに変貌した」
「その時、不老不死になったということですね」
「そう。彼女らは、変異した時点での肉体的状態を保ったまま生き続ける。日本の各地に伝説を残しているのは、享徳三年、一四五四年に亡くなった八百比丘尼なんですね」
「誤って人魚の肉を食べて、十七歳のまま不老不死になったという八百比丘尼伝説が福井にあります」
「その八百比丘尼です。南条さん、よくご存じですね」
 時任が驚いた。
「一往、物書きの端くれですから」
 と南條は笑って言った。
「八百比丘尼という伝説が残ったのは死後のことですよね。つまり、八百年生きて亡くなった後に八百比丘尼と呼ばれるようになった。しかし考えてみると、不老不死なら死ぬことはないはず。永遠に生きられるはずなんです。つまり福井で生まれたという八百比丘尼は、本来永久に生きられる筈だったが、不死のスイッチを切る方法を知ったのではないか……」
「ということは、現在の御寮人も?」
「八百年どころか未来永劫まで生きられるはず……」
「うーん。そういうことになりますね……」
「団体の選りすぐりの医療スタッフが、不老不死の謎を解明すべくDNAレベルで研究していると思います」
「そのメカニズムが解ったら大変なことになりますね」
「そう、だから御寮人を守るガードが固いのです。外部に知れると、御寮人本人に危害が及ぶ恐れがある」
「そうでしょうね」
「ただ、世界の各地でも不老不死の例があり、団体のメンバーは海外と連携して情報交換をしているそうです」
「御寮人の団体はある意味、女性版のフリーメーソンみたいですね」
「色々とよく知ってらっしゃる」
「時任説に従えば……最低でも一千年近く生きることになる。日本では有史以来、八百比丘尼と御寮人の二人しか存在しないということになりますね」
「だからこそ、類まれな存在なんですよ。今の御寮人も八百比丘尼と同様、何十回も結婚したでしょう。絶世の美女ですから、男が放っておかない。しかし、夫も含め周囲の人間が年老いて次々と死んでいくのを見送りながら、自分は十七歳の少女のままで決して死なない。気味悪がられて同じ場所にも居られない。いたたまれなくなり、終いに不老不死のわが身を嘆くがやはり死ねない。そして先代と同じく仏門に入って尼となった。その後は、三百年以上も修業をしたり、全国各地を遊行している内に、自ずと法力が備わったか、あるいは身体に変異が起きた時に力が備わったか、いずれにしても、強力な気のエネルギーを持ち、私の頭のケガなど一瞬で治せるような能力を持つようになった。そして中世以降の日本史の激動を生きながら、数多の女を救済してきたのでしょう」
「なるほど……」
「実際、パレードを見た時ですが、私の膝や係長の腰、ふみの子宮など身体の悪いところが、その時治ってしまった」
「凄いですね……」
「もうそろそろ寝ませんか。私は今日は日曜日だし、家で休むこともできますが。南條さんは香川で取材だ。少しでも寝ておかないと仕事に差支えるでしょう」
「いやいや、興味深いお話で時間を忘れました。私は締切に追われる仕事柄、一晩ぐらい徹夜してもほんとうは大丈夫です。でも折角のお気遣いですから、少し仮眠しましょうか」
 と言って、南條も布団に横になった。
「最後に一つだけお聞きしたいことがあります」
「何なりと」
 時任も肘をついて横になっていた。
「この度の旅行で兵庫へ行かれたと、言われましたね」
「ええ」
「朱音さんとお子さんに会いに行かれたんでしょう?」
「そうです。でも二人には会えなかった。半ば予想をしていましたが、やはり生野には住んでいなかった。母の美弥も……」
「そうですか」
「旅館そのものが無くなっていました。但馬の館も行きたかったのですが、場所が分かない。考えてみれば、タクシーの中で、私たちは往復とも眠っていたものですから。朱音が生んだ娘に一目会いたかったのですが……」
「浅野運転手は?」
「不在でした。彼の息子に会えたのですが、何でも四月に用事で東京に行ってまだ帰っていないと聞きました」
「ふーむ、三十年の間に大分変化があったのかも知れませんね。先ほど、禁止事項が一部解除されたとか……」
「どうしてそうなったのか、私には分かりません。南條さんはどう思われますか?」
「今年の四月以降ですよね……震災と関係があるのではないでしょうか」
「そうか……」
 時任は深くうなずいた。
「御寮人は危機感を持ったのではないですか。室町時代に生まれたとしたら、日本史の大半を生きてきた。大変な激動を何回も体験してきた人が、この美し国と昔から称えられてきた貴い国土の一部を失うような震災を機に、今までの生き方を方向転換したと考えられませんか……不老不死の原因を現代医学で解明できれば、放射線被曝に直面している人々を救えるかもしれないと考えたのではないでしょうか……」
「御寮人自身が現地に行ったのかも知れない。そこで災害を目の当たりにした」
「たぶん、そうだと思います」
「しかし世間が御寮人の存在を知ったら、大変な騒ぎになりますね」
「だから慎重に、少しずつ情報をリークしているのかもしれない……」
「なるほど……」ついあくびが出た。
「やはり南條さんにお話ししたのは正解でした……」
 南條はいつの間にか眠っていた。

        20 意図

 七時にスマートフォンのアラームが鳴った。時任も同時に起きた。
「八時に出れば十分間に合います」
 先に清算を済ませ、コーヒーショップで朝食を取った。台風一過の晴天だった。ガラス張りのテラスから鳴門大橋と海峡が見渡せた。波頭に朝日が反射してきらきら光った。
 食事の後、時任がショップに入った。買う気は無かったが南條も付き合った。
「この玉ねぎラーメンというのは、淡路島でしか売ってなくて」
 時任が一箱買った。
「昨日電話した時に頼まれました」
「ふみさんですね」
「そう、ふみさん」
 時任が相好を崩した。
「夫婦仲良さそうですね」
「まあね。今は孫が四人もいるお祖母ちゃんですがね」
「一度お会いしたいなあ」
「帰りに徳島へ寄ってください。うまい魚料理の店に夫婦でお連れしますよ」
「時間があれば是非……」
「そろそろ行きますか?」
「そうですね」
 時任がホテルをバックに写真を撮ってくれた。日差しが眩しかった。南條はカメラを仕舞いながら言った。
「物書きの私に、一夜お話し頂いたのは理由がありますね」
 時任が微笑を浮かべた。
「私には文才がありません。出張の復命書一枚書くのに苦労します。あなたのようなプロの方に文章にして頂いたら、まだ見ぬ娘に会えるかも知れないと……」
 時任に一礼して、南條はシルバーのレンタカーに乗った。クラクションを軽く響かせた。時任が手を振った。車は駐車場から出ると、すぐ山道に差し掛かった――。(終わり) 
   
 小説集「女の都」(文芸社刊)より

女の都

女の都

〈一つの国のようだ〉と三芳係長はつぶやいた。 そこでは女性たちが集い、一定の規律のもとで一昼夜を過ごす。来訪者は、丁重なもてなしを受けながら、言葉にできない違和感を覚える。 必要なものは満たされ、争いは表に現れない。 だが、その安定は、ある欠落を抱えたまま保たれていた。 女の都は、理想の拠点なのか、それとも閉じた仕組みなのか。 訪問者の視線が、その呼び名の奥にある実態を映し出す。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2026-01-08

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著作権法内での利用のみを許可します。

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