私の自殺未遂前夜
1
2025年9月10日、ぼくは致死量の三倍の睡眠薬を飲んで遺書を書き、ベッドに横臥わって幸福な気持で睡りについた。
結果は死ぬことができずに閉鎖病棟に入院したのだけれども、その時のことを書く気はない。ぼくが書こうとするのはその自殺未遂に至る経緯であり、その直前までの状態を綴った観念的病状報告書である。
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昔からの習慣でもあるけれども、日に数十度は謝罪していた、呟き呻くように、「ごめんね、ごめんね」と実際に口に出していた。対象は主に両親、そして『蜘蛛の死に際して』で書いたように数人の元友人たちである。あるいは自分自身の存在というものに対しての謝罪であり、自分が生きてきたという現実で傷つけ損なわせてきたすべてのひと、そして自然環境に対するそれであり、すぐにひとのせいにしてしまう自分が赦されるための謝罪なのだった。
この状態を詳らかに書く気はない。往々にして精神を病んだひとにみられやすいそれだと、ぼくには判断されるだけだ。
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ぼくによって書くべきだと判断されることは、ある意味でいうとぼくの努力の成功体験である。
端的に書くと、ぼくは美と善への尊敬をある程度まで守りながら、自尊心を損傷させられた。
自分を大切にするという心をできるかぎり失わせられた。これは「自分がない、我がよわい、自他境界が引けていない」などと入院中にしばしば指摘されたことでもあり、されどそれはじつはぼくの自己本位性と独善性によって意識的にぼくが導いた心的状態であり、ぼくのエゴイズムのようなものを赦しえる評価でもない。ただ、自分を実験台にした。自分を大切にする気持が以前よりは減らせられた、いわばそれだけである。
その結果に自己本位な自殺をしようとしたのだから、ぼくには褒めるべきところはないと思う。
これはシモーヌ・ヴェイユの思想を読解する為、くわえて彼女が工場勤務でなした努力を模倣する為に、以前在籍した会社でむりをしたことをきっかけとするように判断される。
実際の行動は単純であったけれども、これは当時の解釈の誤りが激しかったために(いまでも彼女がなにを考えているのかほとんど解らない)、ヴェイユのそれとはかなり異なるものだったと想われる。
以下に、その努力を書く。
・どんなに理不尽なことをされてもこちらが謝り、無視をされれば「当然である」と自己にいいきかせ、ミスを押し付けられればそのままに受け入れ、ぼくの内的な領域であろうとすべて相手のせいではなく自分のせいにするよう注意し、それを宇宙の暗みにまでおし拡げ、その虚空にこころを漂わせるほかの寛ぎを、自己に赦さない。ひとを内心でも攻撃しないように気を付ける。
・他者から受ける愛情と理解を、一切期待しない。持たれても、表面では喜ぶふりをし、内面では拒絶する。
・みずからがおびき寄せたそれ、理不尽な現実にどんなに後頭部を押し付けられても、心の鎌首を挙げて美と善という双の月をみすえつづける。あるいは道徳、それへの尊敬感情をよなよなの読書によって磨き続ける。それの確認のための執筆をつづける。
ぼくにとり、美と善の落す翳のかさなる処の風景とはなにか?──それは純愛ともみまがわれる、”他者を大切にする”というぼくのような人間には不可能な状態、詩的言語でいうならば、まっしろな風景である。ぼくはこれがわが身には不可能だからこそ、人生の目的として置いた。其処に、”月硝子城”という少女趣味薫る名辞をつけた。なぜか? 自殺しないためだ。人生の完成を拒否するためだ。
このふしぎな努力の結果は精神病院の解放病棟入院、そして辞職前後の酒浸りの生活での友人たちへの侮辱と試し行為ともいえるのだった。ぼくの攻撃性は、抑圧されていたともいえるのだろう。失敗。そうだった。
ぼくは幼少期以来の他責性と傲慢さが背にあるので、これからはより一層、ここに注意を向けて努力しなければいけないだろう。
その後はべつの会社で半年、ここでは明らかに道徳観念と照合させるとするべきではない仕事をさせられ、抵抗をしても営業の方や教育係の方に直すよう強要される状況、半年のほとんどを再び精神病院の解放病棟で過ごした。
のちに障害者の働く作業所に通所、ぼくはよわよわしく乾いた目付を所有するようになり、街を歩いていると見知らぬ女性に二回、男性に一回わざとぶつかられた。
何かをいおうとしたがそのひとたちの人相には不幸の与えるそれと悪に変容する宿命に抵抗できなかったそれがみられ、なにかをいう気力を失った。ある種、そこにぼくをみいだした。それはあるいは可能性としてねむる人間の宿命だといえるのかもしれない。
この後くらいに、あるふしぎな行動をぼくはとったのである。
ぼくは少年期から犬が好きで好きでたまらないのだけれども、首輪がついている為に飼い犬だと判断される犬がぼくへ走り寄ってきて甘え、ぼくは夢中でかわいがったのだが、その後道路へ走り出して車に轢かれそうだったために無心で躰をうごかしたのだ。自分を守るという気持の欠けた状態で、犬を助けようとしたのである。
車が過ぎ、犬は轢かれることを避けられた。ぼくはほっとした直後、ぼくはなにをやっていたのだろうと唖然とした。
されどこの頃のぼくの行動はといえば社会的にいえば怠慢と自己本位そのもの、自分のためだけに生きているとしか見なされないようなそれである。
ぼくは自己の善を一切信じられなかったし、それはいまでもそうである。善はぼくとは不連続であるからこそ、尊敬に値するとかんがえる。
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即ち、ぼくの夢みてきたこんな自己犠牲的行為は、批判点ばかりのたかの知れた心的状況によるものなのだと、この行動がぼくに解らせたわけなのだった。
2
これ迄どんなに苦しい心的状態、たとえば「いまのこの苦痛から逃れるためなら、いますぐに飛び降りたい」という気持でも自殺企図をとらず、親への配慮と納税したい気持というある種平凡な義務の観念を優先させ、せいぜい自傷行為かODで実際の行動を延期させていたぼくであるけれども、今回の自殺未遂を行った際の心的状態は、けだし平常心であった。
先ず、ぼくは強い希死念慮に覆われている状態である安定薬を大量に飲んだ。これは数か月ぶりの行動であったけれども、たいした抑うつ状態ではなかった。暗い躁状態といわれる破滅的なハイテンションでもなかった。ただ、乾いていた。他者へまき散らした悲惨が、かなしかった。
どうしてそれをしたのかよくは覚えていないけれども、このODは、一種の気分転換だったのかもしれない。
そこでの行動は自己の欲心に忠実に、ふわりと浮世離れした心的状態でなされたように思う。
ぼくはその薬に致死量があるのかをネットで検索し、それがないのをみてとると次はぼくの常用している睡眠薬にそれがあるのかを確認、朧気ながら計算してみると三倍以上は所有、それを一気に飲んだ。死にたかった。生きていたくなかった。そういう単純な気持である。そこには後天的な複雑な思考やもしや思想も介入していたが、その気持自体は、幼稚園の頃より所有しているものである。ぼくの親戚には、自殺者と重い精神病者がいた。
幸福な気持だった。達成感、それがあった。32まで生き抜いた。それだけで生まれうる、誤りの達成感が。
ぼくは両親の苦しみへの配慮を想ったが、それもこれまでと比較すると重みはない。恨みすらない。憎しみもない。もっと愛してほしかった、そんな淡い希いがかるく胸を圧しただけである。
家族に向けた遺書には、あなたたちは悪くないという内容の文章が二階堂奥歯のそれを模した文章で書かれており、「ぼくはぼくに抱え込むべきものを抱え込めなかった」という彼女の遺書とまったく同じようなことが書かれており、感謝を伝え、謝罪し、「ぼくにこれから降り注ぐ予定の幸福が、甥っ子にすべて与えられますように」というような文章でしめられていた。これは意図的に綺麗に書きすぎているけれども、素直には書いたと想う、おそらく。
ぼくは”フランダースの犬”のネロのように、善良な心で死にたいという気持をもっていた。人間の心はいくらでも条件で変容し、だれしもが様々な悪に陥る可能性を秘めるとぼくは考えていて、だからこそ自分自身でどうにかなる部分を自分自身で制御しうごかさねばいけないと考えていたけれども、その時のぼくにそんな思考はなかった。
ただ、遺書に恨みつらみがないことはなんとなく伝わった、泣き崩れながらほほ笑んだ。
ぼくには泣き笑いが一つの主題だった。
ごめんね、ごめんね、と口ではいいながらも自殺のための行動はやめず、母が喜ぶだろうと机を少女趣味的にかわゆらしく飾り、母と赤子のぼくとのツーショットを印刷した缶バッチを置き、妹との写真を飾り、ニュースタアという大好きな雑貨屋で購入したものをいろいろ置いて、そこで購入したぼくが身に着けるには可愛すぎるから見てにやにやするだけの銀と群青のミニバッグを首に掛け、ボロボロの『中原中也詩集』、シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』、笹井宏之の『えーえんとくちからから』から「廃品になってはじめて本当の空を映せるのだね、テレビは」というぼくにはヴェイユ思想の果ての風景としか想えないページを破って『重力と恩寵』に挟み、ほんとうはここまで頑張らなければいけなかった、そう胸を締める想いをし、家族との想い出の写真をたくさんいれ、こんなにも幸福な気持はこれまで果してあっただろうかというくらい寛いだ気持でベッドに横たわった。
3
そのときにも亦ふしぎな行動をした。ぼくは一度起きだして、ヴェイユの書物をそこから抜きとったのだ。写真もすべて、抜きとった。中原中也の詩集、それだけ残した。
そして、ぼくは深い睡りについた。たった二十時間後、ぼくは死ねなかったわが身をみいだした。
私の自殺未遂前夜