最後の部室

最後の部室

〝野球なんて、しょせん部活じゃん〟
 目覚めると、ボクの右肘はまったく伸びなくなっていた。直角に曲がり、それ以上伸ばそうとすると激痛が走る。そんなことあるだろうか、と寝起きのぼんやりした頭で思った。たしかに、前日の練習のときから違和感はあった。けれど、いつもどおり、ピッチング練習もできていたのに。
右肘を庇うように、ゆっくりと起き上がる。不思議と、からだは軽かった。
〝しょせん、部活じゃん〟
 もう一度、心のなかで呟いた。

 ボクの通う高校は、いちおう、県内有数の進学校だった。といっても、偏差値で比較すると、いわゆる男子校や女子校のほうが高く、ボクたちの高校はあくまで「共学校のなかで」進学校であるにすぎなかった。正直、学力でいえば、もっとうえの高校にも行くことができた。でもボクは、共学校以外に興味がなかった。野球が、したかったから。
 公立の進学校でも強いチームはある。けれど、そんなのはごくわずかで、ボクらのチームは、毎年一回戦敗退のようなチームだった。監督なんて野球未経験者で、だから自分たちで練習メニューを決め、ノックはキャプテンがやった。そんなチームであっても、最後の大会が近くなると「甲子園出場!」が合言葉になる。内心では誰もが無理だろうと思っていても、それは言わないルールになっていた。
 ボクは練習試合では主にサードを守っていて、たまにピッチャーもやっていた。球は速くないけれど、カーブには少し自信があった。決して主力選手ではなかったけれど、いちおうは、レギュラーだった。

 肘が伸びなくなったのは、高校二年生の春休みだった。その日は練習を休んで、近くの整形外科にお母さんと行った。
「これは……、最後の大会、間に合わないかも。大会って言っても……あれだけど」
 医者はそう言った。ボクは目を合わせることができず、白衣をぼんやりと眺めていた。その白衣の白が膨張して、やがてぱちんと弾けてしまうだろうと、そのときなぜか思った。
「完全に切れてはいないけど、だいぶ損傷はしてるね」
 医者は、エコーをぐりぐりとボクの右肘に当てながら、その画面を見ていた。一度も、ボクをみなかった。痛くて、もしいま、この医者を殴ったらどうなるのだろう、と思った。
「まあ、手術してもけっきょく間に合わないから、リハビリしてなんとか投げられる状態にしていきましょう」
 医者は言った。
 けっきょく、リハビリは二回くらいしか受けなかった。理学療法士の方はとても親身になってくれていたから、申し訳ないとは思う。けれど、しょうがなかった。だって、もうボクには、治したい気持ちがなかったのだから。
 そのあとも、一週間ほど練習には行っていたけれど、ランニングメニューにしか参加できなかった。最後の夏の大会に向けた熱気に、一人取り残された感じがして、つらかった。だから、「リハビリに専念したい」と嘘をついて、練習を休むようになった。そのまま自然消滅するつもりだった。

 新学期になり、監督が代わった。新卒で、さわやかな印象のある先生だった。大学でも野球をやっていたらしく、「強豪校にする」と息巻いているようだった。ボクは、ちょうどいいタイミングだと思った。自然消滅でもよかったけれど、監督にだけこっそり話して正式に退部したほうが、気持ちがすっきりする気がした。怪我が治らないのなら、受験勉強に専念したかった。
「いや、やめるべきじゃない」
 だから、監督にそう言われたときは驚いた。驚いたあと、当然のように怒りがせり上がってきた。放課後の職員室は、冷房が効きすぎていた。
「……え?」
「……話は聞いてる。誰よりも、声を出していたんだろう? たしかに、つらいよな。仮に痛みがよくなっても……。でも、ここまで続けてきたんだろう? やめるべきじゃない」
 意味が、わからなかった。なんで、辞めさせてくれないの?
「……もう一度、考えてみます」
 嘘の返事をして、職員室を出た。怪我をしてから、なんだか嘘ばかりついているような気がした。四月なのに廊下は蒸し暑く、熱から逃げるように駆け足で校舎を出た。

 部活を休み始めて、一か月が経とうとしていた。放課後になると隠れるように自習室に行き、そこで一時間ほど勉強して、一人で帰宅する。当然かもしれないけれど、勉強にはまったく集中できなかった。
 その日も、自習室に行くために席を立った。
「え……」
 三年の野球部員が、廊下に立っていた。全員で、ボクを見ている。わけがわからなかった。
「ミチ……、ちょっと話がある」
 キャプテンが言った。怒った顔ではなかった。むしろ、柔らかい表情だった。
「ちょっと待って」
 ボクは急いでトイレに行った。便座に腰掛け、呼吸を整える。このままずっとここにいれば、諦めてくれるのでは? いや、でもさすがにそれは申し訳ない。でも、どうしていまさら……。
 どれくらいトイレに籠っていたのだろう。ずっと待っていてくれたみたいだった。ボクが廊下に戻ってきても、キャプテンも、他の部員も、怒っている様子はなかった。ただひとこと、「ひとまず、部室に行こう」。
 部室は校舎と校庭のあいだにあり、古い木造の建物だった。二階建てで、野球部は一階の二部屋を使っていた。黙ったままみんなの後ろを歩き、部室が見えると、なにか温かなものが底から湧き上がる感じがした。部員の一人が扉を勢いよく開けた。その瞬間、埃っぽい空気と古い木のにおいが、ボクのからだを包んだ。それとともに、あまりにもくだらない記憶が、次々と蘇ってきた。
 部室は、いつも賑やかだった。ボクは、みんなのじゃれ合いを、その輪の外から見ていただけだった。でも、それが心地よかった。着替えの途中、部員の一人がお尻を出して、それをみんなで叩いていたこと。副キャプテンが、勝手にキャプテンのガムを噛んでいるのがバレて、取っ組み合いになっていたこと。夏休み、部室の後ろにあるプールに誰かが侵入し、全裸で飛び込んでいたこと。
 野球なんて……。でも、ボクには、野球が思うようにできなくたって、ここがあるじゃないか。
「しょせん部活だけどさ」
 キャプテンが言った。
「でもさ、ここまで頑張ったんだから……。監督には、おれたちから伝えておいたんだ。ミチのことだから、おれたちに相談しないだろうと思ったし」
「ごめん」
「いや、ぜんぜんいいよ。おれもミチの立場だったら、いや、うん。べつに、一番声出してるから、戻ってきてほしいわけじゃないよ。いずれにしたって、ミチは公式戦には出られないし、勉強してたほうがよっぽど有意義かもしれないけど」
 キャプテンが綺麗に刈られた頭をごしごしと掻く。ボクは目にかかった前髪を手で流す。
「ここで終わっちゃ、もったいないじゃん」

 ボクは今までと同じように、みんなが着替えたあと、一人でユニフォームに着替えた。一か月のあいだ放置されて、部室のにおいがたくさん詰まった、予備のユニフォーム。
〝しょせん、部活だけど〟
 そう心のなかで呟いて、ボクは部室の扉を勢いよく開けた。

最後の部室

最後の部室

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-01-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted