誤読
──それはA4サイズ22枚の手記だった──
第1部 プロローグ
──その夜、僕は彼女を刺した。
包丁の柄は、不思議と温かかった。
冬の台所のはずだったが、手の中だけは別の季節にいるようだった。
湯気でも、火でもない。もっと根拠のない、体温のような熱があった。
その感触だけが、今でも記憶に張りついている。
音はしなかった。
包丁が肉に入る音は、案外静かだということを、その夜、はじめて知った。
彼女の身体がよろめいて、床に崩れ落ちた。
そのとき、僕は泣いていた。
鼻の奥がツンとし、喉が詰まり、目の奥がじんと痛かった。
たぶん、息がうまく吸えなかった。
胸のどこかがきしむみたいに苦しくて、それでも声は出なかった。
心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
すべての時間が遠くなっていく感じがした。
まるで、自分が映画の中にいるみたいだった。深夜に何度も見た、安いサスペンス映画のワンシーンのように。
この部屋も、彼女の姿も、何もかもがフィクションの中の風景みたいに思えた。
彼女が何かを取り出そうとしていたのを、覚えている。
小さな銀色の筒のようなもの。
けれど、それが何だったのか、はっきりとは思い出せない。
彼女の目を見るのが怖くて、それを確認することができなかった。
倒れた彼女の指が、まだ微かに動いていた。
何かを掴もうとしているような、手放そうとしているような──
どちらでもなく、ただ何かを訴えるような震えだった。
部屋には、換気扇の音が残っていた。
風が細く鳴っていた。
夜の街の隙間をすり抜けていくような音だった。
その音が、部屋の奥にゆっくりと広がっていた。
時間が、ほんの少しずつ、再生され始める。
思考が戻ってきたとき、最初に浮かんだのは、意外なほど現実的な感情だった。
──バレたら、まずい。
このタイミングで、他の誰かが来たらどうなる?
彼女が声を上げていたら、外に聞こえただろうか?
窓の外には街灯があった。誰かが、そこからこちらを見ていたかもしれない。
そんなふうに考える自分を、どこかで冷静に眺めていた。
「こんなことになったのは、事故だった」とでも思わせようとしていたのかもしれない。
僕は咄嗟に手を伸ばし、白い布巾を取った。
スーパーで買ったような三枚組の、ごく普通の皿拭き用の布巾。
それで、血を拭いた。まるでスープでもこぼしたかのように。
血の温度は、冬の空気よりも少しだけ高かった。
なぜか、隣の椅子の脚が少しだけ傾いているのに気づいた。
僕はそれをまっすぐに戻した。きっと、さっきまで彼女が座っていた椅子だ。
自分の動作が、やけに滑稽に思えた。
台所の窓の外では、街灯がひとつだけ消えていた。
その場所だけ、夜に選ばれたようだった。
もしあの灯りがついていたら、彼女の顔はもう少しだけはっきり見えたかもしれない。
でも、今となっては──
彼女の顔が、どんなだったかさえ、もうよく思い出せなかった。
第1章 声なき教室
僕が初めて言葉を失ったのは、小学校に入って間もない頃だった。
教室の黒板の前に立たされた僕は、教科書を持っていた。でも、声が出なかった。
口の中に見えない釘でも打ち込まれたみたいに、喉がかちんと固まっていた。
先生は、しばらく待ったけれど、やがてため息をついて僕を席に戻した。
席に戻ると、隣の女子がくすっと笑った。
僕は笑いの意味がわからなかった。ただ、それが僕に向けられたものだということだけは、妙に正確に理解していた。
黒板の文字はちゃんと読めたし、内容も分かっていた。テストの点数も悪くなかった。
けれど、口が開かない。開けようとすると、胸の奥に何か硬いものが詰まって、言葉が空気にならずに戻ってきてしまう。
家では、少しは喋れた。父はあまり話す人ではなく、母はいつも洗濯機の音にかき消されるような声で、何かを言っていた。
僕の声が小さくても、誰も特に気に留めなかった。
それでも、学校ではだんだん浮いていった。
朝の会で発言できない。国語の音読ができない。グループワークでは黙ったまま。
周囲の子どもたちは、最初はただ不思議そうにしていたが、やがて僕を「変なやつ」と分類し始めた。
変なやつは、輪から外れる。子どもたちはそれを、本能的に知っている。
それからの時間は、窓の外の空を見てやり過ごすようになった。
空はいつも僕のことを見下ろしていて、僕が黙っていても怒らなかった。
風が吹く日は、空の端っこが少し動いた。
僕は、言葉の代わりに風の音を覚えた。風は喋らないが、すべてを伝えていた。
担任の先生は、ある日、僕の親を呼んだ。
母は帰ってきてから、僕に「どうして喋らないの」と聞いたが、僕はうまく答えられなかった。
答えるには、まず声を出さなければいけない。でも、その声の出し方を、僕はとっくに忘れていた。
そうして数年が過ぎた。
相変わらず、教室ではほとんど話さなかった。でも、僕の中には、誰にも聞かせない言葉が溜まっていった。
鉛筆とノートがあれば、そこに流れ込んでいった。
ノートの中でなら、僕は自由だった。
好きなだけ喋れたし、どんな言葉も選べた。
誰にも遮られず、誰にも笑われなかった。
僕はいつしか、世界を「書くもの」として眺めるようになっていた。
言葉は、声にならなくても、そこにあった。
それはまだ、僕だけの言葉だった。
きっかけは、給食だったと思う。
ある日、僕はカレーに入っていた人参を残した。
無言で、それを端に寄せただけだった。でも、それを見ていた男子がいた。
彼は笑って言った。
「野菜も食べられないのかよ」
ただの一言だった。だけど、それが一種の合図になった。
それから、僕に向けられる声は少しずつ変わっていった。
ノートを机の中にしまい忘れると、中身が勝手に読まれていた。
体育の時間、僕のジャージだけが裏返しにされていた。
下駄箱の靴が移動していた。
誰かが「いじめ」と呼ぶには、少しだけ足りない。
でも、それが「遊び」ではないことも、僕は理解していた。
彼らはただ、僕の反応を試していた。何も言わない、何もしない人間が、どこまで沈黙を保てるのか。
僕は声を出さなかった。出せなかった。
代わりに、ノートの端に、出来事を書き留めた。
日にち、場所、誰が何をしたか。
数字の羅列のように、感情を消して記録する。
感情を書くと、そこからはみ出してしまう気がした。
冷静でいないと、何かが壊れてしまいそうだった。
担任の先生は気づいていなかった。
教室の空気は静かすぎた。
それはたぶん、僕が怒らなかったからだ。
抗議しない人間は、問題として認識されにくい。
僕は騒がなかった。泣きもせず、ただ静かに、存在していた。
ある日、僕の席にだけ配られなかったプリントがあった。
隣の子が「これ、あんたの分だって」と言って投げてよこした。
紙は机の端にぶつかって、床に落ちた。
僕は何も言わずに拾った。
手が少しだけ震えていたけれど、誰もそれを見ていなかった。
「やっぱり変なやつ」
誰かがそう言った。
僕はそれをノートに書いた。“変なやつ”という文字を、何度もなぞるようにして。
家でも同じだった。
父は相変わらず新聞を読んでいて、母は炊飯器の音に紛れて独り言を言っていた。
僕のノートの中でだけ、すべては記録されていった。
でも、ある日、僕は書くのをやめた。
書いても、何も変わらなかったからだ。
記録することと、世界が変わることは、別だった。
そのとき初めて、「言葉には、もっと違う力があるのではないか」と思った。
それはまだ、ぼんやりとした予感に過ぎなかったけれど、確かにどこかで、そう感じていた。
それは、図書室の一番奥の机だった。
誰も来ないような時間、僕はそこに座って、ノートを開いていた。
ノートには、今まで起こったことを簡潔に、冷静に書いていた。
でも、その日の文字は、少し違った。
“このままでは、誰も知らないまま終わってしまう。”
いつものように事実だけを書くことに飽きて、そう書き加えてみた。
ほんの一行。それが始まりだった。
翌日、僕は原稿用紙を買って帰った。
鉛筆を削って、最初の一枚にタイトルを書いた。
『記録と観察からの教室の今』
堅苦しい名前だった。でも、それがいちばんしっくりきた。
僕は、それまでのノートを読み返しながら、原稿用紙に文章を書き写していった。
名前は出さなかった。感情も抑えた。
事実を丁寧に並べ、そこに小さな“問い”を添えた。
なぜ、これが放置されているのか。
なぜ、誰も気づかないふりをするのか。
書いている間、僕は奇妙な感覚にとらわれていた。
まるで、自分の中にもう一人の自分がいて、その人が冷静な声で語っているような気がした。
僕はその声を、手でなぞるようにして文章にした。
それは初めて、言葉が僕の「内側」ではなく、「外側」に届いていく感覚だった。
原稿が完成したとき、僕はそれを封筒に入れた。
宛名は、校長先生だった。
あまり話したこともない人。でも、誰かが読む必要があると感じた。
放課後、職員室のポストに、そっと差し入れた。
何日かは、何も起こらなかった。
でも、ある日、空気が変わった。
担任の先生が、朝の会で急に真剣な顔をして話し始めた。
「最近、いくつかの報告があってね。教室での振る舞いについて、みんなに考えてもらいたいことがある」
それだけだった。でも、その声の調子と、クラスの沈黙がすべてを物語っていた。
数日後、何人かの生徒が呼び出された。
廊下で担任と話す彼らの背中を見ながら、僕は静かに思った。
「届いたんだ」
あの日から、少しずつ空気が変わった。
僕のノートは、前より静かになった。書くべきことが、少しだけ減った。
僕が喋れなくても、文字は喋る。
僕が黙っていても、言葉は前に進んでくれる。
そのとき、僕は思った。
文章なら、僕は世界に触れられるかもしれない──と。
*
高校を卒業して、僕は都内の私立大学に進学した。
文学部だった。理由は特になかったけれど、選ぶならここだと、ずっと前から決めていたような気がした。
電車を乗り継いで、二時間半の距離にある町だった。
地図で見ればそれほど遠くはないけれど、乗り換えの時間や、駅から大学までの緩やかな坂道のせいで、実際にはもっと遠く感じられた。
アパートに引っ越して最初のひと月は、必要最低限のことしかしなかった。
履修登録をして、図書館を探して、部屋にカーテンをつけて、安い電気ポットを買った。
夜になると、そのポットでお湯を沸かして、インスタントの紅茶を淹れた。
味はどこか曖昧だったが、カップから立ちのぼる湯気は、なぜか落ち着いた気持ちにさせてくれた。
大学の講義は、高校よりもずっと静かだった。
先生の声が一方的に教室を満たし、学生たちはノートに何かを書いていた。
話す人は少なかった。僕にとっては、それが救いだった。
黙っていることが“異常”ではなくなる場所。それが大学だった。
ある日のことだ。
講義の帰りに、生協の掲示板の前を通ったとき、ひときわ古びた紙が目にとまった。
「文芸サークル・新入生歓迎会
月曜17:00〜
学生会館203号室
純文学・詩・散文・何でも歓迎。
“読むことも、書くことも、居ることも自由”」
貼ってある紙は、角が少し焼けたみたいに色褪せていて、フォントもどこか古かった。
でも、その最後の一行が、僕の中に何かを残した。
“居ることも自由”
その言葉は、僕にとって一種の救済のように響いた。
僕は書くことが好きだったし、読むことも好きだった。
でも、“居る”ということに関しては、ずっと苦手だった。
それでも、そこにいてもいいのなら、一度くらい覗いてみてもいいかもしれない。そう思った。
月曜の午後、少し早めに学生会館に着いた。
エレベーターがなかったので、階段を上った。
廊下の蛍光灯は半分くらい切れていた。
ドアには「203 文芸サークル」とだけ書かれた紙がセロテープで貼ってあった。
ノックをするかどうか、少し迷った。
そのまま扉を開けると、中には五、六人の学生がいた。
全員が一斉にこちらを見たわけではなかった。
誰かが「あ、新入生?」と言って、簡単な自己紹介が始まった。
その部屋には、コーヒーの匂いが漂っていた。
八畳ほどの狭い空間に、使い古されたソファと、ちょっとぐらつく机、そして折りたたみ椅子がいくつか。
壁には誰かが描いた詩の一節が貼ってあった。
何も特別なものはなかった。
でも、僕にはその空間が、長い間どこかで待っていてくれたように思えた。
彼らは週に一度、作品を持ち寄って合評をしていると言った。
自由参加。義務なし。
僕は、少しだけ迷ってから、自分のノートを取り出した。
高校時代に書きためた短文をいくつか、手書きでまとめていたものだ。
それを読んだ先輩のひとりが、静かにうなずいて言った。
「……いいね。たぶん、誰にも届かないかもしれないけど、でも、ちゃんと誰かに書いてるって感じがする」
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ温かくなった。
僕は、その日から文芸サークルに通うようになった。
それが“帰属”なのかどうかは、よくわからなかった。
ただ、そこには言葉があった。
声ではなく、文字としての言葉。
誰かに届くかは分からないけれど、自分の中でだけ確かに鳴っているような、そういう言葉たちが。
季節は、ゆっくりと春から夏へと移っていった。
教室には冷房が入りはじめ、空の色も少しずつ変わっていった。
それでも、文芸サークルの部屋はあまり変わらなかった。
コーヒーの匂いと、少しだけ詰まったような静けさ。
そのなかで、僕は言葉を重ねていた。
三年の春。文芸サークルの新歓の季節だった。
例年通り、ポスターはあまり目立たない場所にひっそりと貼られ、歓迎会も告知と呼ぶにはあまりに静かな告知だった。
誰かが「今年も誰も来ないかもね」と言いながら、紙コップにコーヒーを注いでいた。
そこに、彼女が来た。
最初に見たときの印象は、「線の細い子だな」だった。
背は小さく、髪は肩より少しだけ長くて、春の光を吸い込むような綺麗な黒髪をしていた。
大きなバッグを両手で持っていて、少しだけ歩きづらそうに見えた。
でも、目は真っ直ぐだった。
部屋に入ってくるとき、誰かの顔を探すような目をしていた。
それは誰かを探していたというより、自分がこの部屋にいていいかどうかを、確かめようとするような目だった。
「一年です。柚木遥です」
そう言って軽く頭を下げた彼女の声は、思っていたよりも低かった。
でも、やわらかい声だった。
喉の奥で一度だけ震えてから、空気に溶けるような声。
何人かが自己紹介を返し、彼女はソファの端に腰を下ろした。
僕は、少し離れた椅子に座っていた。
言葉は交わさなかった。
でも、彼女の動き──カップを両手で包む仕草、前髪を耳にかけるときの指の曲がり方、周囲の会話に小さく頷くリズム──そういったものが、妙に記憶に残った。
その日、特に印象的だったのは、彼女が笑ったときのことだ。
先輩の一人が冗談を言ったとき、彼女は少しだけ肩を揺らして笑った。
声は出さなかったけれど、その笑顔は一瞬だけ、部屋の空気を変えた。
誰かが窓を開けたときの風のように、自然で、柔らかかった。
それを見たとき、僕はなぜか自分の指先を見た。
右手の人差し指の先に、ささくれができていた。
彼女の笑顔とは何の関係もない。
でも、その瞬間だけ、世界が小さく“繋がった”ような気がした。
いま思えば、あのときから、別の物語の細い線が静かに伸び始めていたのかもしれない。
次に言葉を交わしたのは、数日後のことだ。
彼女は、サークルの作品集を読みながら、ページの間にしおり代わりのレシートを挟んでいた。
「その作品、僕が書いたんです」
気づいたら、そう言っていた。自分でも驚いた。言葉が自然に出た。
彼女は少しだけ目を見開いて、それから表紙をもう一度見た。
「……あ、ほんとだ。名前、同じですね」
そう言って、すこしだけ笑った。
僕は何を話したのか、あまり覚えていない。
ただ、その短いやりとりのなかで、彼女が笑ってくれたことと、僕の言葉にちゃんと反応してくれたことが、印象に残った。
彼女の声は、やはりやわらかくて、耳に残る音をしていた。
その日から、僕は彼女の姿をよく目で追うようになった。
廊下で見かけても、すぐに声をかけることはなかった。
でも、何気ない瞬間──飲み物を買うとき、自転車の鍵を探すとき、ポケットから文庫本を取り出すとき──そういう細かな動きが、僕にはすべて詩の一節のように見えた。
彼女が特別なことをしたわけじゃない。
僕に優しくしたわけでもない。
でも、なぜか“そこにあるだけで意味がある”ような気がした。
世界に配置された、ひとつの比喩。
僕だけが解釈できる詩行。
その日から、彼女の存在が、僕の中で少しずつ大きくなっていった。
それが恋なのかどうかは、その時は分からなかった。
四年生になってから、サークルにはあまり顔を出さなくなった。
卒論と院試が重なって、物理的に時間がとれなかったのもあるけれど、それ以上に、何かが一段落したような気がしていた。
文芸サークルは、僕にとって“書くこと”を思い出させてくれた場所だったけれど、今はもう、それを一人でも続けられるようになっていた。
自分の言葉と、自分の部屋と、そして静かな時間があれば。
とはいえ、サークルをやめたわけではない。
Slackに投稿される合評のやりとりや、作品集の進行には目を通していたし、たまにコメントもつけていた。
彼女──柚木さんの作品も、そこにあった。
短い詩だった。
「雨粒が名前を呼ぶように落ちていた/私は傘の中で黙っていた」
たった二行。でも、妙に引っかかった。
名前、黙る、雨。どれも僕にとっては、なじみ深い言葉だった。
その詩にコメントをつけるかどうか、少し迷った。
気に入っていた。でも、なぜ気に入ったのかを言葉にすると、何かが壊れる気がした。
結局、「柔らかくて、届かないものの輪郭を感じました」という、どこか曖昧な一文を添えて投稿した。
彼女からの返信はなかった。
サークルのSlackでは、基本的に返信は義務ではなかったし、他の人の作品にも彼女は特に返事をしていなかった。
でも、僕はその詩を印刷して、部屋の壁に貼った。
小さな付箋で角を止めて、机の前に。
直接話した記憶は、春以降はほとんどない。
サークルの総会か、あるいは追い出しコンパのときにすれ違った程度だったと思う。
廊下ですれ違ったときに、軽く会釈を交わしたこともあったかもしれない。
それ以上のことは、ない。
でも、僕の中では、その“ない”の部分が少しずつ膨らんでいった。
僕は、その年、文体研究のゼミに入った。
近代作家の文章における主観と客観の交差について調べるというテーマだった。
とても抽象的なテーマだけれど、僕にはその“曖昧さ”が心地よかった。
文章とは、意味だけで成り立っているわけではない。
呼吸や余白、文と文のあいだにある沈黙。
そういうものが、時にいちばん雄弁だった。
卒論では、ある作家の初期作品における「地の文の照応性」について書いた。
ある人物が語っているようで、実は語られているのは語り手自身だった、という構造に惹かれた。
言葉は誰かに向けて放たれていても、結果的には自分の輪郭を写す鏡のようになることがある。
僕が文章に惹かれるのは、きっとそういう理由だった。
誰かに向けて書いたようで、実は自分自身のためだったのだ、と。
そう考えると、あの詩もそうだったのかもしれない。
雨粒、傘、黙る声。
彼女が何を思って書いたかは、分からない。
でも、そこに何かが“届いてしまった”僕の感覚は、確かだった。
四年の冬、卒論を書き終えてから、少しだけ時間に余裕ができた。
合評用の作品を久しぶりに書いた。
何気ない情景描写だった。
部屋の窓を打つ風の音、コンロでお湯を沸かす時間、湯気に揺れるマグカップ。
そういう些細なものを書き連ねた。
何かを伝えるためというより、ただ書きたかったから書いた。
提出したあと、彼女のコメントがついた。
「窓の描写が好きでした。風の音が、耳の奥で響きました」
それだけだった。でも、それだけで、胸の内がふわりと揺れた。
彼女はきっと、誰にでもそういう言葉をかける人なのだろう。
でも、そのときの僕には、自分だけに届いた返事のように思えた。
大学院に進んでから、少しだけ時間に余裕ができた。
授業の数は減り、研究のペースも自分で調整できた。
昼間に起きたり、平日の昼下がりに図書館の奥で本を読んだり、そういう“隙間”のような時間が戻ってきた。
その頃から、また文芸サークルに顔を出すようになった。
といっても、週に一度、合評のときに部屋へ行くだけだったけれど、それでも久しぶりに会うメンバーたちは、あまり変わっていなかった。
彼女も、そこにいた。
去年と同じ髪型、同じような服装。
でも、どこか雰囲気が少し変わったように見えた。
いや、正確には、“周囲との距離の取り方”が変わったのかもしれない。
彼女はいつも、誰に対しても柔らかく、でも一歩だけ踏み込まないような空気を纏っていた。
ある日、僕が書いた短編が合評に出された。
季節外れの雨の夜、ひとりの男が家の中の音を数えながら時間を過ごす、というだけの話だった。
音だけが登場人物だった。
彼女は、その作品について、「音の描写が、とても静かで、でも印象に残りました」と言った。
それだけだった。でも、その言い方が、どこか“丁寧すぎる”ように感じられて、逆に耳に残った。
その帰り道、たまたま彼女と同じ方向だった。
坂を下る道で、僕の方が先に歩いていた。
ふと足音が近づいてきて、横に並んだ。
「いつも、雨の話が多いですね」
彼女がそう言った。声は、前よりも少しだけ軽かった。
「雨の方が、音が多いんです」
僕はそう答えた。
彼女は少し笑って、うなずいた。
「じゃあ、晴れの日には、書かないんですか?」
「書かないわけじゃないですけど、あんまりうまく書けなくて」
会話はそれだけだった。
でも、僕の中では、その時間が妙に長く感じられた。
言葉を交わすということが、こんなにも特別なことになるなんて、思ってもいなかった。
そのあと、彼女から詩集を借りた。
イタリアの詩人の短詩集で、僕はその詩人のことを知らなかった。
「このあいだの“音の話”を読んで、なんか合いそうだなと思って」
そう言って、彼女は鞄から文庫本を取り出した。
中には、細い付箋がいくつか挟まれていた。
僕はそれを受け取り、まだ開かないままページをなぞった。
紙の手触りがやけに鮮明だった。
その日から、僕は彼女のことを考える時間が少しだけ増えた。
もともと頭のどこかにいたけれど、それはもっと抽象的で、詩のような存在だった。
でも、あの本の手触りと、付箋の貼られたページの重さが、彼女を現実に引き戻した。
彼女は、実在していた。そして、僕に本を貸してくれた。
そう思うと、それだけで何かが大きく動いた気がした。
次の週、僕はその本を返しに行った。
彼女は笑って、「どうでした?」と聞いた。
「雨粒の詩が、よかったです」
僕はそう言った。本当は、全部がよかった。
でも、何かを選んで言わなければいけない気がした。
彼女は、またふっと笑った。あの、肩を少しだけ揺らす笑い方だった。
そのまま何かを言いかけて、けれど、言葉にはしなかった。
代わりに、ほんの一瞬だけ、僕の目を見て、
──それから、すっと目を逸らした。
その仕草が、やけに自然だった。
まるで風がカーテンを揺らすみたいに、何の意図もないように見えた。
でも僕には、それが“意図された自然さ”に思えた。
そのとき、僕の中に、ひとつの確信のようなものが芽生えた。
これは、何かが始まっているのではないか。
──その春は、例年よりも少しだけ長く続いていた。
大学の構内では、八重桜の花びらが、舗道の端をすべるように舞っていた。
僕にとっては、その曖昧さが心地よかった。
彼女と会う機会が、ほんの少しだけ増えていた。
偶然と言えば偶然だけど、サークルの打ち合わせ、詩集の貸し借り、学内イベントのチラシ配りの手伝い。
どれもほんの数分のことだったが、その断片がゆっくりと、確かな輪郭を描いていった。
ある日、彼女が僕の好きな作家の本を読んでいた。
電車の中で、隣の座席に座っていた彼女の手元に、その表紙を見つけたとき、僕は小さく息を飲んだ。
「それ、いいですよね」
僕がそう言うと、彼女は驚いたように顔を上げ、それからすこしだけ笑った。
「最近、好きになりました。前はちょっと苦手だったけど」
「難しいですよね、あの文体」
「でも、なんか……ちょっと似てるなって思って」
「誰に?」
「……先輩に、です」
そう言って、彼女は目を逸らした。
視線の動きは控えめだったが、その一瞬だけ、時間が跳ねたように感じられた。
たぶん、あの瞬間が、僕の中では決定的だった。
そこから、いくつかの小さなことが積み重なった。
合評で、彼女が僕の作品にだけ、他の誰よりも丁寧にコメントをくれること。
サークルのLINEで、僕の発言にだけスタンプをつけてくる頻度。
初夏の合宿の夜明け、同じ部屋で話した文学談義──
彼女が話しながら、指先でマグカップの縁をなぞっていた仕草。
それらすべてが、ひとつの文のように繋がっていた。
もちろん、彼女は決して明確な言葉をくれなかった。
「好き」とか、「会いたい」とか、そういった言葉は、一度も聞いていない。
でも、言葉がなくても、人は伝え合える。
沈黙の中にこそ、確かなものが宿ることがある。
僕は、かつてそれを体験していた。
僕は、彼女もまた、同じように沈黙の中に意味を置く人なのだと思った。
だから、焦る必要はなかった。
言葉にしなくても、きっと伝わっている。
今はまだ、この静かな波の中に身を委ねていればいい。そう思っていた。
その日、彼女は少し早めに帰ろうとしていた。
サークルの部室に忘れたストールを取りに戻ってきた彼女と、偶然鉢合わせた。
「夕方になると、まだ少し涼しいですね」
彼女がそう言って、小さく笑った。
「うん。でも、風が心地いい」
僕はそう答えた。
「……今日の夕焼け、綺麗でしたね」
「うん、たしかに」
そして、彼女はストールを手に取ったあと、少しだけ立ち止まった。
僕はそのまま言おうか迷った。何かを。何でもいい。たとえば、
「今度、また話しませんか」
とか、
「今、何考えてるんですか」
とか。
でも、言葉は出なかった。
あまりにも静かな時間の中で、声を出すのがためらわれた。
彼女は、僕の方を向いて、また笑った。
それから、もう一度だけ、目を合わせ、
──すっと目を逸らした。
今度は、明確な視線の切断だった。
まるで、ページを閉じるような仕草だった。
それでも、僕は思った。
これは、確かに“何か”だった。
言葉にならなくても、たしかな関係がここにあった。そう信じていた。
*
その日はひどく暑い日だった。
ある夏の日、彼女は少し疲れた顔をしていた。
蒸し暑さのせいかもしれないし、レポートの締切が重なっていたのかもしれない。
けれど、それはいつもと違う種類の疲れのように見えた。
「……今日、少し話せますか?」
彼女がそう言ったのは、サークルの合評が終わって、他のメンバーがぞろぞろと退出しはじめた頃だった。
僕はうなずいて、部室の扇風機を止めた。
音が消えて、急に静寂だけが残った。
「ずっと言うか迷ってたんですけど……」
彼女は、紙コップの水を両手で包みながら、ぽつりと話し始めた。
予備校時代の講師のこと。
教えるのが上手くて、頼れる大人に思えたこと。
大学に入ってからも、たまに連絡をとっていたこと。
気づけば、普通じゃない関係になっていたこと。
彼が既婚者であること。
でも、今さらどう断ち切っていいか分からないこと。
僕は、黙って聞いていた。
言葉にすれば、何かが壊れそうだった。
彼女の声はとても静かだった。
水面に落ちた葉のような声だった。
語尾がときどき震えていたが、泣いているわけではなかった。ただ、冷えていた。
彼女が話し終えたとき、部屋の中はすっかり暗くなっていた。
外の街灯が窓ガラスをぼんやり照らしていて、彼女の顔は半分影になっていた。
僕は、何かを言わなければならない気がした。
でも、何も思いつかなかった。
「ごめんなさい、変な話して。……でも、なんか、先輩なら聞いてくれるかなって」
そう言って、彼女は笑った。
いつものように、肩を少しだけ揺らして。
僕はその笑顔に、また確信のようなものを抱いてしまった。
彼女は僕に心を開いてくれた。
こんな話をするということは、“信頼”を越えた何かがあるのではないか。
僕は彼女の目を見た。彼女はすぐに視線を逸らした。
けれどそれは、拒絶ではないように思えた。
むしろ、照れのようにすら見えた。
その夜、僕は一人で歩きながら考えていた。
彼女は、何かに縛られている。
あの男に。彼女を長いあいだ、曖昧な境界の中に閉じ込めてきた存在に。
彼女が自分では切れない鎖を、誰かが断ち切らなければならない。
それが、僕なのではないかと──そう思った。
“惹かれている”と、僕は信じていた。
だから、その関係から彼女を引き離すことは、正しいことだと思った。
彼女のためでもあり、僕自身のためでもあった。
その考えは、翌朝になっても消えなかった。
むしろ、より静かに、よりはっきりと、心の中に沈んでいた。
何も変わっていないのに、何かが決定的に変わってしまった気がした。
第2章 届かぬ詩集
文芸サークルの部室は、いつも誰かの作品で満たされる。
四月の終わり。空気はまだ冷たく、窓の隙間から入り込む風がカーテンを揺らしていた。早く来たメンバーが、いつものように電気ポットを満たし、コンビニのビスケットを机の真ん中に置く。誰が仕切るでもなく、静かに準備だけが進んでいく。この、始まる前の時間が、僕は好きだった。
いつからか、その静けさを「彼女を待つ時間」と同じ意味で呼ぶようになっていた。
その日の合評作品は三本。そのうちの一本が、彼女の詩だった。
プリントアウトされた白い紙に、彼女は短い言葉を綴っていた。
『話し合いはいつも夕方の光の中で/誰も何も決めないまま帰る』
タイトルはない。ページの余白が広くとられている。彼女は詩を書くとき、いつも少しだけ行間を空ける。まるで、“そこにいない言葉”まで読ませようとするみたいに。
「……これ、ちょっと胸が痛くなりました」と後輩が呟いた。「決めないまま、ってのがいい。優しいんだか、残酷なんだか分からなくて」
彼女は苦笑して、紙コップを両手で包んだまま何も言わなかった。笑っているのか、笑いそこねているのか、判別のつかない表情だった。
僕は、彼女の詩にコメントをするタイミングを探していた。彼女の作品にはいつも、“届きそうで届かない距離”がある。言葉自体は静かで、削ぎ落とされていて、でもどこかに感情の欠片が潜んでいるようで、読み手がそれを探しに行くしかない。
だからこそ、僕は思っていた。
彼女は、本当は誰かに、ちゃんと届けたいと思っているのではないか、と。
「僕は、“決めないまま”っていうのが、“決めることを許されていない”って意味に見えました」
言ってしまってから、すぐに後悔した。穿ちすぎたかもしれない。合評の場で個人的な読みを差し出しすぎたかもしれない。
けれど、彼女は少しだけ目を見開いてから、かすかに笑った。
「……それ、わたしも、ちょっと思ってました」
そのとき、たしかに何かが通ったような気がした。
彼女の表情にはあまり変化がなかった。でも、声の温度が、ほんの少しだけ変わった気がした。小さな火を灯すみたいな変化だった。たぶん、他の誰も気づかなかった。けれど、僕は気づいてしまった。
その日から、彼女の詩を読むとき、僕は自分のための暗号を解くような気持ちになった。
火曜日の午後は、文体論ゼミだった。
学部の中でも人数が少ないこのゼミは、担当教員の性格もあって、どこか私語を許さない静けさがあった。机の並びは、教室の端に吸い込まれるように平坦で、誰かの声が響くときだけ、その空間がふっと歪む。
今日のテーマは、「視点の一貫性と自己投影」。
ある近代作家の短編をもとに、語り手がどのように感情を読ませ、また隠すのかについての議論が進んでいた。話が枝分かれして、文体と読者の想像力についての話題になったとき、僕はつい口を開いた。
「……読者って、“語られてないもの”を補おうとすると思うんです。だから逆に、語られすぎると、想像できなくなる」
ゼミの教員が軽く頷いた。
「つまり、空白こそが読者の居場所だと?」
「はい。ときどき、書かれてないことの方が、意味がある気がします」
自分で口にしてから、ふと彼女の詩のことを思い出した。
余白の多い詩。はっきりとは言わない詩。けれど、何かを待っているような詩。
あれはきっと、誰かに“届いてほしい”と思っている証拠なのだと僕は思っていた。直接語れないものを、作品にだけ託すみたいに。
授業のあと、研究棟の裏の自販機でアイスティーを買い、ベンチに腰掛けた。風が通り抜けて、髪が少しだけ乱れた。スマホを見ると、サークルのSlackに彼女の新しい詩が投稿されていた。
『寄せる波が届く前に/わたしは言葉を閉じる』
また、余白の多い詩だった。意味ははっきりしない。だが、その行間の揺れは、たしかに僕の胸のどこかに触れた。
──本当は、届かせたいはずだ。
僕は、既読をつけたあと、そっとコメントを打った。
「閉じた言葉の奥に、何かが残っている気がしました」
数分後、彼女が「いいね」を押した。それだけの反応だったけれど、僕には十分だった。読まれた。受け取られた。僕の言葉が、彼女の画面に一瞬だけでも灯った。
それだけで、その日一日の輪郭が少し柔らかくなった。
その夜、ノートを開いて、僕は短い散文を書いた。
彼女の詩の文体に似せて。語尾を曖昧にし、行間を広くとり、余韻を残すように。使う言葉も柔らかく、形容詞を控えめにして、彼女が好みそうな“沈黙の質感”を真似た。
これは、模倣ではない。
──彼女の言葉に“寄り添う”ことだ、と僕は思った。
夏学期の後半、僕はある文学賞に作品を投稿した。
タイトルはつけなかった。ただの「作品」とだけファイル名に記し、表紙には自分の名前だけを書いた。主人公は名前を持たない男で、彼はいつも、言葉を通じて誰かに何かを届けようとしていた。
けれど、その「誰か」が最後まで誰なのかは、書かれない。
僕にとって、それは“彼女に読まれること”を前提とした作品だった。
物語の細部に、彼女の好む語感、詩の余韻、沈黙のような比喩を散りばめた。
夜の冷蔵庫の音、湯気の立ちのぼる速度、歩道に積もる花の影。
そんな「彼女が好きそうな風景」だけを集めて、言葉にした。
投稿した数日後、その原稿を部室の机に置いたままにしていたとき、彼女がふらりと入ってきた。
「なに、それ?」
「……あ、いや、ちょっと応募したやつ」
彼女は僕の前にある紙の束をちらりと見てから、隣に腰を下ろした。ソファが少し沈んで、僕の肩に、彼女の髪の先がふれたような気がした。
「読んでいいですか?」
「……うん」
彼女は数ページめくってから、目を細めて一言つぶやいた。
「……好きです、こういうの」
その声が、やけに真っ直ぐだった。
それだけで、僕には十分だった。評価も、賞も、誰かの選考も、どうでもよかった。
彼女が「好き」と言った。それが、すべてだった。
「でも……ちょっと悲しい人ですね、この主人公」
「そうかな?」
「なんか……伝えることで、ますます孤独になっていく気がする」
「……」
彼女はそう言って、小さく笑った。
「でも、わたしは、そういう人のほうが好きですよ」
それが、どこまで本気だったかなんて分からない。でも、その言い方は優しくて、やわらかくて、どこか照れているようにも見えた。
僕は、それを「本気」だと受け取った。
その夜、僕はそのやりとりを何度も反芻しながら眠った。
肩にかかった髪の感触、ページをめくる音、彼女の視線が文字を追う時間。
それらの一つひとつが、まるで恋文の返事のように思えた。
数週間後、応募作は落選した。
短いメールが届いただけだった。選考に漏れた旨、形式的な文章、「ご応募ありがとうございました」の定型句。
不思議と悔しくはなかった。
それは、すでに“届くべき人には届いた”と感じていたからだ。
その翌週、彼女がふいに言った。
「……最近、先輩の文章、前より柔らかくなった気がします」
「そう?」
「なんか、言葉の向こうに、ちゃんと人がいる感じがして」
その言葉に、胸が少し高鳴った。
言いたかったことが伝わった。僕の書いたものが、彼女に届いた。彼女はそれを“感じて”くれている。
──これが、僕の方法だ。
言葉で。書くことで。届かせる。
かつて、沈黙の中でしか存在できなかった僕が、ようやく誰かに“触れた”のだ。
そして、それは彼女だった。
彼女は、僕の言葉に反応してくれる。
他の誰でもない。
彼女だけが──僕の物語を、理解してくれる。
彼女がまた、あの文庫本を返してくれた。
「付箋、たくさん貼っちゃってすみません」
そう言って微笑んだそのページの隅には、きちんとした字で、小さな感想が書き込まれていた。
「ここ、好きです」「風の音が残る感じがする」「沈黙がうつくしい」
どの言葉も、僕が大切にしている感覚に、まっすぐ触れていた。
彼女は、僕のことを理解してくれている。言葉の皮膚に触れただけでは分からない、もっと奥の体温に気づいてくれている。
それは、僕にとって“恋”と呼ぶしかないものだった。
ある日のこと。
「……向こう、最近は何も言ってこなくて、逆に、ちょっと怖いっていうか」
彼女は、まだ「あの人」と連絡を取っていた。
けれど、その話し方には、わずかな温度差があった。どこか、遠くから眺めているような冷静さが混じっていた。
僕は、そこに彼女の“決断の揺れ”を感じた。
その夜、僕はノートを開き、いくつかの詩を引用しては、彼女のための一文を書き足していった。
誰にも読まれない手紙のように。それは、いつの間にか自分自身へ向けたメモのようにもなっていた。
僕たちは、そのあとも何度か、“話し合った”。
たまに夜遅くまで話すこともあった。
文学のこと。作品の構造。沈黙の意味。
言葉が向かうべき場所と、それが逸れていくことの寂しさについて。
「言葉って、ほんとうに届くんでしょうか」
彼女はそんな問いを口にした。
僕は、「届くと思う」とだけ答えた。
それが、ずっと自分に言い聞かせてきたことだったからだ。
そして、僕は信じていた。
僕の言葉なら、彼女を“変えられる”と。
「わたし、なんであんなに拘ってるんだろうな、って思うんですけど……でも、なんか、切るっていうより、終わらせ方が分からないんです」
そう言ったときの彼女の声は、心のどこかがほどけかけているように聞こえた。
僕はまた、何も言わなかった。ただ頷いた。
言葉は慎重に、時には無力なほど静かに選ばれるべきだと思ったからだ。
そのあとも、僕たちは何度も“話し合った”。
日が落ちる頃の部室で、コンビニの袋を机に置きながら。
早朝の図書館の前で、彼女が本を抱えたまま立ち止まったとき。
Slackのダイレクトメッセージの中で、深夜にぽつりと送られたひとことに、僕が長文で返したとき。
彼女が苦しんでいることは分かっていた。
だからこそ、僕の言葉が、彼女の“選択”を少しでも変えるのではないかと思っていた。
だが、ある日、彼女がふと漏らした。
「……あの人は、“わたしのことを物語にしてる”って、言ったことがあるんです」
その瞬間、胸の内側に砂利を詰め込まれたみたいな感覚が走った。
物語にされること。
誰かのために、自分が素材になるということ。
彼女はそれを、憎しみでも、悲しみでもなく、ただ「そうなんですよ」といった調子で受け入れているように言った。
僕は、はじめて──ほんのわずかに──彼女に怒りに似た感情を覚えた。
どうして、まだ切れないのか。
どうして、そんなふうにされて、黙っていられるのか。
どうして、僕の言葉だけが、彼女を変えられないのか。
その夜、僕はまた書いた。
でも、それは誰にも見せるつもりのない文章だった。
まるで、自分自身に向けた告発のように。
ある日、彼女が言った。
「最近、連絡を断ってみたんです。……でも、やっぱり来ました」
スマートフォンの画面を伏せて、彼女はマグカップを指先で押した。
「“ごめん。会って話せない?”って、また」
その声には、怒りも迷いもなかった。ただ、冷たい空気のような、無音の温度だけがあった。
僕は、そのとき思った。
これは終わっている関係じゃない。
彼女は、まだ彼に囚われている。言葉ではなく、もっと深い場所で。
そして、僕には、それが耐え難かった。
彼女は、たしかに僕の言葉を受け取ってくれていた。
詩を交換した。作品について語った。
深夜に「この一行が、今のわたしに刺さりました」とメッセージをくれたこともあった。
それなのに、彼女はまだ、あの男に言葉を返している。
僕は、自分の中の何かが、静かに温度を持ち始めているのを感じた。
男の名前は知らない。顔も知らない。
でも、彼女が一度だけ口にした特徴──背が高くて、声が低い。年上。既婚者。
それだけで十分だった。
どこかで見たような人影に、それらしき人物を重ねてしまうことが増えた。
駅のホーム、図書館のロビー、サークルの広報誌の寄稿者欄。
もちろん、確かな証拠はどこにもない。
けれど、僕の心の中では、その男の輪郭は少しずつ明確になっていった。
ある種の“敵”という形を持って。
彼は、彼女を物語にした。
「君は、僕の小説みたいだ」
──彼女がそう言われたと話したとき、僕の中で何かが音を立てて崩れた。
それは、僕の言葉だったはずだ。
僕こそが、彼女の沈黙や、空白や、傷口のような感情を読み取り、それを詩にしてきた。
彼女はそれを、好きだとさえ言った。 なのに、彼女はその男の“物語”の中にいる。
“読まれること”を許している。 そのことが、僕には許せなかった。
「彼女は傷ついている」
「あの男が悪い」
「彼女を守れるのは、僕しかいない」
その考えは、何の抵抗もなく、僕の中に沈んでいった。
夜の風が吹き込むのを防ぎながら、僕は心の中の“構造”を整理していた。
部屋の明かりを消して、天井を見つめながら、何度も“あの夜の風景”を想像した。
彼が彼女にどんな声をかけていたのか。
どんな手の動きで、彼女の心を掴んでいたのか。
僕にはわからない。
けれど、それを“理解する必要はない”と、どこかで思っていた。
“話し合い”は、もう何度も重ねた。
“言葉”は、すでに尽くした。
彼女は、傷ついたまま戻ってくる。
僕の言葉を受け取ってくれる。
けれど、その先には、またあの男がいる。
──だったら、僕がその“先”を消すしかないのではないか。
その夜、彼女から一通のメッセージが届いた。
「ありがとう。先輩の言葉で、ちょっとだけ息ができます」
僕はその文面を何度も読んだ。
その一行が、まるで“許可”のように見えた。
「僕の言葉で、救われる人がいる」
それは、かつての成功体験の再来だった。
そして、それが終わることのないように、僕は“静かに、誰にも気づかれずに”、準備を始めた。
──書く、という行為は、どこかで“選別”に似ている。
現実のすべてを描くことはできない。
だから、人は削り、編み、組み替えて、“意味”を生み出す。
僕にとって、彼女との日々もそうだった。
一緒に歩いた帰り道。
文芸サークルの机を挟んだ議論。
折りたたんだ詩集に挟まれた付箋の色。
すべては、選ばれた断片として、僕の中に“物語”を形成していった。
そして、その物語の最後に、彼は不要だった。彼の存在が、物語の構造を歪めていた。彼は、あくまで「脇役」であるべきだった。
けれど現実は、彼を主語に据えて、彼女の行動を書き換えていた。
彼の一言で、彼女の予定が変わる。
彼の沈黙で、彼女が沈む。
それは、僕が望んだ物語ではなかった。
僕は、言葉で世界を変えたことがある。
小学生のとき、ノートに書き連ねた記録は、いじめという構造を告発し、周囲の視線を変えた。
言葉には、風向きを変える力がある。
黙っていた僕が、初めて外に出した“声”だった。
そして今、再びその力が問われている。
彼女は、まだ「読む人」だった。でも、彼女にはまだ気づいていなかった。誰が“語っているのか”。誰が“この物語を書いているのか”。
駅前の小さな公園のベンチで、僕は原稿用紙を一枚取り出した。
何も書かれていない表面に、鉛筆を滑らせる。
「夜の輪郭が、少しずつ静かに崩れていく」
そんな一文から始まる、短い散文だった。
実際の夜は、風が強く、寒かった。
でも、文体は違った。
文体は、どこまでも穏やかで、呼吸が深かった。
「言葉は、選ばれるべきだ」
僕はそう思っていた。
伝えるためではなく、“成立させるために”。
彼女の存在も、言葉のようなものだ。
誰に読まれるかによって、意味が変わる。
僕は、彼女を「読みたい」と思った。
そして、「書き直したい」と思った。
その夜の風景を、僕は正確に覚えている。
街灯の下、銀色の自転車のハンドルが冷えていたこと。
小さな噴水の水音が、時折、風に千切れて聞こえたこと。
誰もいないベンチの隣で、一匹の猫が尾を巻いて座っていたこと。
そのすべてが、“始まりの文体”を持っていた。
だから、僕は気づいていた。
この物語は、次の章を待っている。
ただの偶然ではない。
自然な流れだ。
“語られるべき構造”が、僕の中でひとつにまとまりつつあった。
彼女と話すべきことは、もうなかった。
話し合いは、何度も重ねた。
文学について、表現について、沈黙について。
そのすべてが、今の“静けさ”へと導いていた。
あとは、ページをめくるだけだった。
第3章 香りの輪郭
たとえば、誰かを殺すには、どうすればいいのだろう。
──そんなことを考えていた。
窓を開けていたせいで、風がカーテンを揺らしていた。外では鳥が鳴いていて、陽射しはやわらかく、空気の湿度はちょうどいい。静かで、何の変哲もない午後だった。
検索エンジンに、いくつかの語を並べてみる。
「刃物」「毒」「致死量」「家庭にあるもの」「効き目」
画面に現れるのは、防犯意識を高めましょうという記事や、医療監修つきの注意喚起の文章。けれど、その合間に、隠すように、あるいは誘うように、具体的な数字や方法が混じっていた。
画面に並ぶ物騒な文字列を見つめながら、ふと彼女が貸してくれた詩集の紙の手触りを思い出した。そこに書かれていた言葉たちと、いま僕がなぞっている語のあいだに、何のつながりもないことは気づいていた。
だけど、メモは取らなかった。指でなぞった情報を、頭の中でだけ整理しておく。紙に書きつけてしまうと、現実味が増してしまう気がした。それは、少しだけ面倒だった。
不思議と、そこに罪悪感のようなものは浮かばなかった。あくまでこれは思考の延長であり、ただの想像に過ぎないのだと、自分で自分に説明していた。
その“想像”の先には、うっすらとした輪郭があった。
誰かの生活。誰かの部屋。
あるいは、夜の中でぼんやりと浮かび上がる灯り。深夜に届く音、足音、残り香みたいな生活音。
何かを「調べている」という感覚ではなかった。もっと別の、たとえば「観察」とか、「書くための準備」みたいなものに近かった。
人の生活には、必ず規則性がある。
どんなに奔放に見えても、繰り返しの中に生きている。
そこを掬い取っていけば、その人の呼吸の仕方すら、見えるようになる。
気付けば、誰かの動線を辿るようになっていた。時間帯、明かり、ドアの開閉、飲み残された缶の銘柄、窓の位置。
それらはすべて、ひとつの“生活”を描く線だった。
その線が、いつしか小さな歪みを持ち始める。
妙に沈黙の多い夜、鍵の音が遅れる日、何かを引きずるような気配。
決定的なものは、何もなかった。
ただ、その生活の中に、自分の視線と、よく分からない感情のようなものが、じわじわと忍び込んでいく感覚があった。
毒を使うとしたら、どんな形が自然か──そんな思考が頭をよぎる。
食事。飲み物。あるいは台所で手にした金属の冷たさ。
それらは現実のものというより、むしろ物語の中にだけ存在する小道具のような感触だった。
“動機”という明確な言葉は浮かばなかった。
ただ、物語には整合性が必要だということだけは分かっていた。起こるべき悲劇には、何らかの意味がなければならない。だから、観察することが必要だった。
誰かを知るには、日常の隙間を見つけなければならない。
その隙間は、あまりにも静かで、あまりにも自然で、そのせいで簡単に見落とされる。
ある晩、通りがかりに、ある男性がベランダで一服する姿を目にした。
煙が空に溶けていく横顔は、どこか軽やかで、どこか空虚だった。その背中に、言葉では表せない何かが張りついているように見えた。
憂い、あるいは滑稽さ、もしくは──ただの無関心。
その時点では、まだ何も決めていなかった。
ただ、僕と彼女との関係は「こうあるべきだ」と思っていただけだった。
けれど、その「あるべき」を、誰かに対する言葉として持ち始めるのに、さほど時間はかからなかった。
秋の終わり、サークルの定例会が開かれた。
窓の外では風が、木の枝を細かく揺らしていた。冷え込み始めた空気が、部屋の中にこもる熱と交差する季節。コートの下にマフラーを忍ばせてくる者もいれば、半袖のまま平気な顔の者もいた。
その夜は、全体の人数は多くなかった。七人だったか、八人だったか。はっきりとは思い出せない。ただ、言葉の往復が、いつもより静かに、少しだけ丁寧に選ばれていたことだけは覚えている。季節のせいかもしれなかった。
飲み会の会場は、彼女の部屋だった。
小さなワンルームに、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた人間たち。文庫本の背表紙、マグカップのかけら、布団の端に積まれたクッション。どこにでもある女子学生の部屋に見えた。雑然としているのに、不思議と収まりのいい空間だった。
壁際に寄せられた机の上には、チーズとクラッカーが載った小皿。冷えたペットボトルと紙コップ。床には誰かのリュックが転がっていて、チャックが半分開いたまま赤い表紙の詩集が覗いていた。
誰かが自作の詩を朗読した。
言葉が言葉として空気に浮かび、その輪郭だけが耳に残る。意味のすべてを受け取る必要はなかった。そういう時間だった。
僕は少し遅れて出された料理を口に運びながら、彼女の動きに目をやっていた。
キッチンの方でグラスが割れる音がして、ひときわ大きな笑い声が起きた。彼女がそれに気づいて立ち上がる。「布巾、どこ?」という声に、彼女は迷いなく、台所の棚の脇に干してあった布巾を取る。
その一連の動きのなかで、ふと包丁立てが目に入った。
外国の映画で見るような、木製のブロック型のやつだ。
ああ、と、思った。
何かを確信したわけではない。ただ、そういう些細なズレを見つけたとき、人は無意識に“記録”を始める。誰かの部屋におけるモノの配置は、その人の思考そのものだ。
包丁を差し込むスリットは三つあったが、その夜は一本も入っていなかった。
きっとシンクにあるのだろう、と自然に理解した。
布巾は白く、端に色褪せた赤い染みがあった。トマトソースか、あるいは別の何かか。考える必要はなかった。だが、目には焼きついた。
キッチンから戻った彼女が、少し俯き加減に座り直したとき、ふわりと何かの香りが漂った。明らかに、彼女のものではなかった。
シャープで、甘さのない残り香。少しアルコールが立っていて、主張が強い。男物の香水だ、と直感で分かった。
何気なく視線を巡らせると、カラーボックスの端に、その香水のボトルが置かれていた。角ばったガラスと、黒いラベルのシンプルなデザイン。少し無骨で、彼女の柔らかい雰囲気にはそぐわなかった。
そんな僕の視線に気づいたのか、彼女が一瞬だけ表情を固くしたように見えた。
ほんの、かすかな揺れだった。誰に向けられたものでもなく、誰にも届かないまま沈んでいく種類の揺れ。目の奥が、何かの言葉を飲み込んだような光を宿していた。
そのとき、ふいに思った。
──これは、書けるかもしれない。
日常の裂け目にある不均衡。
無意識のうちに漏れる痕跡。
誰かの存在が、確実にこの部屋を通過している証拠たち。
ある種の物語が、すでに始まっていた。
それは恋でも友情でもなく、もっと違う、どうしようもなく冷静な形で。
飲み会が終わり、人が帰っていく。
僕もその一人として玄関に向かった。
外は、静かな雨だった。
街灯の光が濡れた路面に滲んでいて、車の音は遠く、空には雲が低く垂れ込めていた。
火を点けて、湯を沸かした。
水はしばらく静かにしていたが、やがて小さく、息をしはじめる。底の方で泡が揺れ、そのうち徐々に浮かび上がってくる。コンロの火が青い光を立てて揺れた。
なんてことのない、ただの夜だった。
冷蔵庫から野菜と卵を取り出して、簡単な炒め物を作った。味つけは、いつもより少しだけ濃くした。料理をしていると、思考の芯のようなものが浮かび上がってくる。無意識の層に沈んでいたはずのものが、火や油の音に引き出されて、輪郭を持ち始める。
たとえば包丁。
まな板の上で音を立てるその刃の軌道が、妙に美しく思えた。トントンと規則的に響く音は、まるで言葉の下書きみたいだった。
切る、という動作には、どこか抽象的な快感がある。対象を分断し、かたちを与える。その行為は、構築と破壊の両方を含んでいた。
食材の硬さや繊維の方向を感じながら、ふと思い出す。
この“音”は、文章を書くときのキーボードの音にも似ている。いや、もっと言えば、断定にいたる瞬間のリズムそのものだ。
刃先が触れる。抵抗がある。貫く。沈む。
そこには一種の「肯定」があった。
それが一つの発想につながったのは、ごく自然な流れだった。
包丁は、彼女の部屋にあった。少なくとも一本、姿を見せていないものが、あの夜、確かに存在していた。
あのスペース。あの静けさ。あの動作。
もちろん、すぐに何かを決めたわけではなかった。
でも、かたちは現れはじめていた。たとえば、湯が沸騰するように。じわじわと、熱が水に染み込んでいくように。
包丁という選択肢には、ある種の現実味があった。
それは誰かが持ち込んだものではなく、“彼女の台所”にあったものだ。
つまり、“すでに生活の一部”であり、“そこにあるべきもの”だった。
それを“使う”ということは、日常を逸脱することではなく、むしろ“日常に従う”ことに近いのではないかとさえ思えた。
そう考えたとき、少しだけ気が楽になった。
複雑な数式が、シンプルな構造に還元されるような感覚だった。
それは決意ではなかった。ただの、整合性だった。
僕はフライパンを火から下ろし、皿に料理を盛りつけた。
箸を添えてテーブルに置く。テレビは点けなかった。音楽も流さなかった。ただ静かな部屋で、料理が湯気を上げていた。
窓の外から、風の音がした。細く、乾いた音だった。
それはまるで、何かが扉のすきまから抜け出していくような音だった。
風が、名前のない意思を運んでくることがある。
たとえば、昔の手紙の封を切るみたいに。あるいは、忘れかけていた約束をふと思い出すみたいに。
「犯行」という言葉は、この時点でもまだ頭にはなかった。
ただ、「筋」が通ってしまったという感覚だけがあった。
やるべきことの順番が、奇妙にきれいに並んでしまった、そんな感じだった。
自分でも、それを少し奇妙に思った。
だからこそ、記録に残す必要があると思った。
言葉にしておかなければ、形が崩れてしまいそうだった。
たとえば、夕食をつくる。
たとえば、机の上の紙を整える。
たとえば、引き出しの奥にあるものを取り出す。
そういった行為と同じ文脈で、準備を進める。
それは、ひどく静かなプロセスだった。
窓の外に、誰かの足音が聞こえた。階段を降りる音。遠ざかる影。
その音が消えるまで、僕はずっと包丁の持ち手の感触を思い浮かべていた。
あの冷たさ。あの重さ。
それが手に馴染むのかどうか、まだ分からなかった。
──ある日、僕は急に、やめようと思った。
それは突然でも、衝動でもなかった。
どこか既定の結論にたどり着いたような静けさだった。電車の終点でアナウンスが流れ、扉が開くような感覚。降りるべき場所に着いた、という納得。
彼を消す必要は、もうないのだと気づいた。
長く胸の奥にあった苛立ちや、根拠のよく分からない焦燥、手に負えないほどの観察と分析。
それらはすべて、僕自身が作り出した仮想の迷路だった。誰かのせいではない。ただ、自分がそこに入り込んでいただけだ。
考えてみれば、彼はもう関係ないのかもしれない。
少なくとも、彼女が変わるような影響は、もうそこには見えなかった。
残された香水の瓶や、言い淀むまなざし、曖昧な夜の痕跡──それらすらも、すでに過去形の話なのかもしれない。
彼を責める理由は、もはやほとんど幻想に近かった。
それは、妄想と現実の境界線上で、僕の中だけに育った独白だった。
そして、気づいたのだ。
本当に伝えるべきは、怒りでも裁きでもない。
彼女に対する、ずっと伝えられなかった何かだ。
言葉を失っていたあの頃から、僕の中にだけ積もってきたもの。書くことしかできなかった、伝達不能の感情。
それを、今こそ、行動にするべきなのではないか。
直接、伝える。
彼女の目を見て。
それは、僕にとって大きな挑戦だった。
“物語”ではなく“現実”に立ち向かうための、小さな実験のようでもあった。
夕暮れ時、空は灰色に沈みつつあり、遠くのビルのあいだに沈みかけた太陽が細く滲んでいた。
いつも通りの坂道を下りながら、僕はひとつずつ言葉を組み立てていた。
最初に何と言うべきか。どんな表情で話すべきか。どのタイミングで目を合わせるか。
不思議と、怖くはなかった。
どこかで、ようやく自分の中の長い物語が、別のかたちの終わりに近づいている気がした。
検索履歴も消した。それは、もう不要な情報だった。
必要だったのは、彼女に想いを伝えることだった。
そのための準備。
そのための夜。
僕はポケットの中を確認する。そこには、告白の草稿が折りたたまれていた。
でも、これは使わない。
伝えたいことは、もっとずっとシンプルなものだから。
もうすぐ、彼女の家に着く。
オートロックの玄関前で、数秒間だけ立ち止まる。
インターホンの位置は知っている。押す手順も、音の鳴り方も。
今日の僕には、それを押すことができる。
ようやく、言葉にできる気がした。
あの、長い沈黙の先で──
第4章 冷たい構文
彼女は、少し驚いた顔をしていた。
玄関ドアが開いたとき、その表情の中に、もうほとんどすべてが含まれていたのかもしれない。
ほんの一瞬の沈黙。そのあとに続いたのは、誰かに気を遣うときの、柔らかいけれどどこか慎重な声だった。
「……どうしたの? 急に」
僕は言葉を探していた。
いや、探しているふりをしていたのかもしれない。
言いたいことは、来る途中の電車の中で、何度も頭の中で並べ替えていたはずだった。
でも、いざ目の前に彼女が現れると、そのどれもがうまく口の形にならなかった。
「少し、話したくて……」
喉が乾いていた。声が細くなっていた。
彼女はドアを細めに開けたまま、そこから一歩も動かずに僕を見ていた。中へは入れなかった。
その立ち位置が、答えのほとんどを語っていた。
「ごめんなさい、今日はちょっと……」
彼女は言葉を濁した。目は笑っていなかった。
視線は、僕と、廊下の奥と、手元の鍵とを行き来していた。
室内の灯りが、彼女の肩にだけ斜めに落ちていた。
僕は、何かをつなぎとめようとして、話し続けた。
いくつかの過去を。サークルのことを。文学のことを。
言葉のことを。
けれど、彼女の表情には、戸惑いと、言いにくそうな何かと、それから少しだけ疲れが混ざっていった。
ドアの隙間が、ほんのわずかに狭くなる。
「……。わたし、先輩とは、そういう関係になるつもりじゃなかった」
その言葉が落ちたとき、僕の中で何かが空白になった。
冷たい水を、頭のてっぺんから落とされたみたいだった。
「先輩の作品、すごいなって思ってた。話すのも楽しかった。
でも、それだけ」
言葉が止まらなかったのは、彼女の方だった。どこか「きちんと」終わらせようとしている口調だった。
「わたし……彼とちゃんと向き合うつもりです。
うまく言えないけど……もう逃げないって」
“彼”という言葉が出た瞬間、なぜか、あらかじめ知っていた気がした。
その名前を、ここで聞くことになることを。
でも──それでも、聞きたくなかった。
きっと“彼”は、この部屋のどこかに痕跡を残しているのだろう。
香り。読みかけの本。マグカップの縁についた、知らない誰かの指の跡。
それらがまだ、彼女の生活の中に居座っている。
「ごめんなさい」
彼女が最後にそう言って、ドアを閉めるために、ほんの少しだけ身体を引いた。
その動きの中に、これから先の彼女の時間が、ふっと見えた気がした。
まだ洗っていないマグカップ。棚におかれた紅茶パック。机の上に出しっぱなしのプリント。読みかけの詩集。
そのどれにも、僕は触れてはいなかった。これからも触れることはなかった。
……彼女を好きになったのは、文章を書くのとよく似ていた。
最初は、ただ記録していただけだった。
言葉にしない仕草。声のトーン。瞬きの回数。
コンビニのレシートの畳み方。ストールを外すときの指先。
そういう些細なものを並べていくうちに、そこに意味のようなものが、自然に宿っていった。
詩のように。
物語のように。
僕は、彼女の中に“構造”を見出していた。
変化と伏線と、微細な展開。
物語を読むときと同じ配置図を、彼女という存在の中に見ていた。
そして、信じていた。
きっと彼女にも、それが届いていると。
声にしなくても、言葉は伝わる。
それが、僕の中の、唯一の真実だった。
小学校の頃、教室の隅で声が出せなかった僕は、ノートに書いた。
誰かを責めたわけではない。
ただ事実を綴った。
その言葉が、ある日、教室の空気を変えた。
朝の会で担任が声を読み上げ、何人かの生徒が呼び出され、いくつかの机の位置が変わった。
世界が、動いた。
それは、僕にとっての奇跡だった。
それからずっと、僕は信じていた。
言葉には、世界を変える力があると。
誰かの心に届きさえすれば、現実の軌道も変えられると。
でも──彼女の言葉は、その信仰を一瞬で崩した。
「あなたとは、そういう関係になるつもりじゃなかった」
それも“物語の外から”届いた声だった。
僕の紡いできた文脈を、まるごと否定する言葉だった。
僕は、彼女と世界を変えたかった。
“彼女のいる世界”を、僕の言葉で組み替えたかった。
彼女が苦しんでいるなら、助けたかった。
彼女が傷ついているなら、僕の手で直したかった。
でも、彼女は、それを望んでいなかった。
“物語”は、彼女にとって何の価値もなかった。
彼女の現実に、僕の文章は一行も届いていなかった。
それが、すべてだった。
だったら──
僕は、どうすればよかった?
この手の中にある空白を、どう埋めればよかった?
今も胸の奥で冷たく震えている、この言葉にならない感覚を、どこに置けばよかった?
どうすれば、続きを書けたのだろう?
彼女の背中が、部屋の奥へ向かっていく。
紐で適当に結んだ髪、少し擦り切れた部屋着の袖、スリッパのかかとを踏んだ足。
それらが、全部、これから続いていくはずの生活の断片のように見えた。
僕の身体は、その背中を見たとき、自然に動いていた。
まるで、言葉の続きを探すように。
未完の文の句点を打つように。
玄関の隙間をすり抜けるようにして、僕は彼女の背を追った。
包丁の場所は知っていた。
台所の右手前。シンクのわずか奥、布巾の下に隠れていた。
そこに手を伸ばした。
その瞬間だけ、時間が妙に伸びた。
彼女の足音、呼吸、冷蔵庫のモーター音、室内の灯りの色。
あらゆるものが静かに“許可”を与えているように思えた。
柄は、やはり少し温かかった。
冷たさがない、というより、指先に馴染む感触があった。
それはずっと前から、僕がこの動作を想像してきたことを証明するような、静かな同調だった。
彼女が声を出そうとしたのが分かった。
息を吸っただけで、まだ音にはなっていなかった。
僕は何も考えなかった。
というより、何も選ばなかった。
ただ、すべてが整っていた。
だから、ただ、そうしただけだった。
次の瞬間、音が消えた。
包丁が何かに触れた感触。
それは、文章の中では何度も繰り返した表現だった。
でも、その夜、それははじめて“現実”になった。
呼吸が詰まる音が聞こえた。
僕は、彼女の目を見なかった。
その目に、どんな言葉があったのか。
どんな問いが浮かんでいたのか。
それを知るのが、ただ、怖かった。
床に倒れこむ音がして、空気が一段沈んだ。
コンロの上の小さな鍋が、かすかに揺れた。
テーブルの上の、飲みかけのマグカップの水面が、小さく波打った。
あの瞬間、世界はもう、書き換えられていた。
エピローグ
──その夜、僕は彼女を刺した。
包丁の柄は、不思議と温かかった。
冬の台所のはずだったが、手の中だけは別の季節にいるようだった。
湯気でも、火でもない。もっと根拠のない、体温のような熱があった。
音はしなかった。
包丁が肉に入る音は、案外静かだということを、僕はその夜、はじめて知った。
彼女の身体がよろめいて、床に崩れ落ちた。
そのとき、僕は泣いていた。
でも、それが悲しみだったかどうかは、今でも分からない。
鼻の奥がツンとし、喉が詰まり、目の奥がじんと痛かった。
たぶん、息がうまく吸えなかった。
心臓の音がうるさくて、すべての時間が遠くなっていた。
まるで、自分が映画の中にいるみたいだった。
この部屋も、彼女の姿も、何もかもがフィクションの中の風景のように思えた。
彼女が何かを取り出そうとしていたのを、覚えている。
小さな銀色の筒のようなもの。
けれど、それが何だったのか、はっきりとは思い出せない。
彼女の目を見るのが怖くて、それを確認することができなかった。
倒れた彼女の指が、まだ微かに動いていた。
何かを掴もうとしているような、手放そうとしているような──
どちらでもなく、ただ何かを訴えるような震えだった。
……思い出していた。
さっきまでの、ほんの数分前の出来事を。
まるで遠い記憶のように、静かに再生していた。
そして、現実に戻ってきた。
換気扇の音が残っていた。
風が細く鳴っていた。
夜の街の隙間をすり抜けていくような音だった。
その音が、部屋の奥にゆっくりと広がっていた。
僕は息を吸った。
喉の奥に引っかかる何かがあった。
それでも吸った。肺が思い出したように動いた。
床には、血が広がっていた。
思っていたよりも、ゆっくりだった。
冬の空気の中に、赤い色だけが生々しく浮かんでいた。
布巾を取った。
シンク脇に干してあった三枚組のうちの一枚。
いつかスーパーで買ったことのあるような、ごく普通の皿拭き用の布巾。
それで、血を拭いた。
まるでスープでもこぼしたかのように。
ふと、椅子の脚が少しだけ傾いているのに気づいた。
彼女が座っていた椅子だ。
僕はそれをまっすぐに戻した。
なぜか、その動作がとても滑稽に思えた。
テーブルの下で、彼女の片方のスリッパが脱げていた。
もう片方は、まだきちんと足に残っている。
その非対称さが、妙に目についた。
僕は落とした包丁を見下ろしながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
吐き気はなかった。
恐怖もなかった。
ただ、すべての感覚が不規則に散らばっていて、拾い集められずにいた。
足音を出さないように、何も考えずに玄関に向かった。
通った床には、自分の足跡が残っていたかもしれない。
でも、それを確認する気力はなかった。
ドアノブに触れた指が冷たかった。
その冷たさで、ようやく自分が何をしたのかを思い出しそうになった。
でも、まだだった。
まだ、すべての言葉が遠かった。
ドアを開けると、外の空気が流れ込んできた。乾いていて、少しだけ煙草のにおいがした。誰かが階段を降りていく音が遠くに聞こえた。その人はこちらを振り返ることはなかった。
僕は、無言のまま階段を降りた。
肩をすくめるような風が背中を押していた。
物語は、もう終わっていた。
けれど、まだ誰もそれに気づいていなかった。
──気づいたら、朝になっていた。
それに気づいたのは、カーテンの隙間から差し込んだ光の色が、夜の光とは明らかに違っていたからだ。
時間を測っていたわけではない。時計も見ていなかった。
ただ、空気の密度が変わったのを、肌が知っていた。
ずっと自室の隅にうずくまっていた。
眠ったかどうかは分からない。
目を閉じていた時間があったのは確かだが、それを“眠り”と呼べるものかは、判断がつかなかった。
手は冷たくなっていた。
壁に背を預けていたはずが、気づけばフローリングにそのまま横たわっていた。
肩の片方がじんと痺れていた。うまく動かなかった。
カーテンを引いた。
窓の外には、人が歩いていた。
犬を連れた女性。自転車に乗った男子学生。
どこにでもある朝だった。
それが、やけに現実離れして見えた。
テレビのリモコンに手を伸ばす。
何も考えずにボタンを押した。
朝の情報番組が流れていた。
天気予報、芸能ニュース、交通情報。
画面の中の人たちは、いつも通りの声で喋っていた。
しばらくして、ローカルニュースに切り替わる。
《昨夜、◯◯区のマンションで女子大学生が刺され、死亡した事件で──》
その声が耳に届いた瞬間、身体がほんの少しだけ硬くなった。
別に驚いたわけではなかった。
むしろ、「ようやく来たか」という感覚に近かった。
映像が切り替わり、アパートの外観が映し出された。
雨に濡れた地面、黄色い規制線、警察官の姿。
どれも見慣れた風景なのに、どこか見知らぬもののようだった。
《遺体で発見されたのは、都内の大学に通う柚木遥さん(21)。知人の男性から通報があり──》
知人の男性、という言葉が宙に浮いた。
その“知人”が誰なのか、僕は知らなかった。
いや、知っていたのかもしれないが、もう関係のない話だった。
《現在のところ、交友関係のトラブルや交際相手との問題も含めて──》
《近隣住民の証言では「男の声を聞いた気がする」との話も──》
テレビの中では、何人かの“関係者”がインタビューされていた。
彼女のアパートの隣人。高校時代の同級生。
彼女を知っているという人々が、まるで役を演じるように彼女のことを語っていた。
「明るい人だった」
「誰にでも優しかった」
「ちょっと影のある感じが素敵で」
──そんな彼女を、僕は知らなかった。
僕が見ていたのは、もっと静かで、どこか宙を見ているような彼女だった。
小さな声で詩を読む彼女。
料理中にくしゃみをする彼女。
コンビニの袋を両手で持って階段を上がる彼女。
思い出そうとすると、その顔だけがぼやけた。
輪郭が、どうしてもはっきりしなかった。
テレビでは、彼女の顔写真が表示されていた。
笑顔の、明るい、誰か。
たぶん、成人式か何かのときに撮られたものだろう。
その顔を見ても、何も浮かばなかった。
報道は淡々と進み、警察の捜査方針や、近隣の防犯カメラの情報についても語られていた。
画面の中の司会者は、どこか申し訳なさそうな顔で言った。
「本当に、痛ましい事件ですね……」
その言葉が終わる頃には、もう次の話題に切り替わっていた。
高速道路の渋滞情報、スポーツ選手の引退、週末のイベント。
僕はテレビを消した。
画面が暗転し、部屋が静かになった。
そこには、何もなかった。
本当に、何も。
冷えた空気。
空になったマグカップ。
脱ぎっぱなしのセーター。
壁にぶつかったままのカバン。
昨日と同じ部屋。
だけど、何かが完全に違っていた。
音がしなかった。
時計の針の音さえも、妙に遠く感じた。
しばらくのあいだ、僕はそのまま椅子に座っていた。
何かを考えているようで、実際には何も考えていなかった。
あるいは、あまりにも多くのことが頭を流れすぎて、整理が追いつかなかった。
時間だけが、進んでいた。
──夜になっても、何も変わらなかった。
部屋の空気は重く、どこか湿っていた。
時計の針はいつのまにか深夜を越え、壁にかかるカレンダーが一日めくれていることに気づく。
けれど、それがどんな意味を持つのか、自分でもよく分からなかった。
テレビは消したままだった。
窓は閉めきられていた。
カップに注いだ水は、口をつけないままぬるくなっていた。
机に向かっても、何も書く気が起きなかった。
便箋に手を伸ばしかけて、引っ込めた。
キーボードのキーに触れたが、音を立てる前に手を止めた。
どう書くべきなのか。
誰に向けて書くべきなのか。
そもそも書く必要があるのか──
分からなかった。
ただ、それでも、書かなければならない気がした。
書くという行為は、僕にとって呼吸のようなものだった。
あるいは、沈黙に沈んでいく自分を、岸に引き戻すためのロープだった。
それを切らせてしまえば、もう二度と戻って来られない気がした。
僕はこれまで、いくつもの文章を書いてきた。
誰にも読まれなかったものもある。
選に漏れ、破棄された原稿もある。
それでも書き続けたのは、言葉には何かしらの力があると信じていたからだ。
小さな教室で、ノートに書いた告発が、世界を動かした。
それは偶然だったのかもしれない。
でも、僕にとっては奇跡だった。
言葉が、現実を変える。
そう信じるしかなかった。
でも、今は──
誰かを救うためではなく、誰かに届くためでもなく、「整える」ために書こうとしている。
ぐしゃぐしゃになった世界を、もう一度、形に戻すために。
自分が何をして、どう感じて、なぜそうなったのか。
それを、自分の言葉で再構築しなければならない。
でなければ、すべてがただの「犯罪」になってしまう。
罪は償わなければならない。
それが、どんな重さであれ。
法がどう裁こうと、社会がどう見るかとは別に。
この手で起こした出来事の輪郭を、自分の言葉でなぞりきらなければならない。
それが僕にとっての、唯一できることだと思う。
僕は今、この手記を書いている。
形として残すこと。
そうすることでしか、僕は世界に触れられなかった。
彼女に触れたときと、同じように。
きっと、これが僕にとって、最後の作品になるかもしれない……。
第2部 プロローグ
取調室の空気は、乾いていた。
壁の薄いグレーと、天井の蛍光灯。耳に残るのは、空調の低い唸りだけだ。
向かい合って座る男は、最初から最後まで、一言も発さなかった。
事件の翌朝、弁護士を伴って署に現れたその男は、受付にまっすぐ歩み寄り、淡々と「自分がやった」と書かれた文書を差し出した。
プリントアウトされたA4用紙、二十二枚。
──手記だった。
医師の診断によれば、場面緘黙の既往歴があるという。
「小学生の頃に発症し、現在も強いストレス下では発語困難になる可能性がある」と。
だが、俺にはそれだけではない“硬さ”が見えた。
目の前の男──遠野 湊。
やせ型の長身。少し伸びた髪。眼鏡の奥の目は、こちらを見ているようで、どこにも焦点を結んでいない。
身体には過剰なこわばりはないが、話しかけても、一切、口は開かない。
沈黙というより、「すでに話し終えている」人間の顔だった。
俺は、まず彼の“書いたもの”に向き合うしかなかった。
提出された手記には、タイトルも日付もなかった。
冒頭の一行だけが、いきなり本題に踏み込んでいた。
──その夜、僕は彼女を刺した。
そこから先は、彼の視点による回想が淡々と続いていた。
犯行当夜の情景、文芸サークルでのやり取り、被害者との距離の変遷──ときおり、自身の成長譚とも取れる挿話が挟まる。
文章は整っていた。
文体は統一され、比喩も過不足がない。段落の運びも滑らかで、構造も論理も破綻がない。
──妙に、整いすぎていた。
事件発生から手記提出まで、およそ二日。
そのわずかな時間で、原稿用紙にして五十枚近い分量を、ここまでの密度で書き上げられるものか。
「違和感」という言葉が、自然と浮かんだ。
彼の書いた“物語”には、どこか、作為の匂いがする。
事実の列挙というより、読まれることを前提に、意図的に組み上げられた文章──そんな気配。
彼は語らない。
だから、こちらが読むしかない。
彼の動機も、過去も、犯行の内側も。
いまのところ、それらはすべて、この紙束の中にしか存在しない。
ならば、やることはひとつだ。
俺は手記をもう一度開き、最初の一行を目でなぞった。
「文学的だ」と誰かが評したその文章の中に、
事実と演出の境界線を、一本ずつ拾い上げながら。
第1章 自供
午前六時。目覚ましが鳴る二秒前に目が覚めた。
こういう朝が増えたのは、四十過ぎ、警察に入って十年ほど過ぎてからだ。
若い頃にあった「寝過ごすかもしれない」という緊張も、「まだ眠りたい」という欲も、だんだん薄れていく。
眠りは浅くなり、夢は単調になり、かわりに時間だけが妙に正確に、体内時計に刻まれていく。
歳を取るというのは、そういうふうにして、「誤差」が減っていくことかもしれない。
洗面所で歯を磨き、髭を剃る。ステンレスの冷たさに、まだ冬が残っていた。
コーヒーメーカーのスイッチを入れ、昨日の新聞をめくる。スポーツ欄を流し見て、社会面の小さな記事に目が止まる。
郊外の公園で、猫の死骸が見つかったという短い記事。
誰かが何かを始めている。そんな気配を、俺はわりと信じる方だ。
出勤は地下鉄。七時台の車両は、思ったより静かだった。
イヤホンをした学生たちと、スマホを見つめる会社員たち。どちらの目にも、朝というより“中断”の色が浮かんでいる。
眠りと仕事のあいだに挟まれた、何者でもない時間。俺はこの曖昧さが、好きだった。
署に着くと、まず巡回の報告書に目を通す。
自転車の窃盗、近隣トラブル、塀の落書き、行方不明になったペット。
いずれも重大性はないが、積み重なれば、それは“気配”になる。
「また、痴話げんかがひとつ」
若いのが、半ばうんざりしたように言って書類を差し出してきた。
最近の若者が「痴話」なんて言い方をまだ使うのか、と少し意外に思う。
報告書をめくると、飲食店の駐車場で男が女に暴行したという通報。
だいたいが、別れ話のもつれだ。殴った、責めた、泣かせた──それでも翌週には、また同じ車で迎えに来たりする。
そういう事例を、これまでいくつも見てきた。
「被害者は病院行きか?」
「はい。軽傷ですけど、頭を打ってるんで念のためCTを。意識はあります」
「加害者は?」
「現場で確保。酒は入ってませんでした」
「いつも通りだな」
心の中でそう呟きながら、書類をトレイに戻す。
事件の九割は人間関係だ。金と性、それに名誉。
動機はどれも単純だが、背景は絡み合う。
だから俺たちは、動機そのものよりも「構造」を見る。どこから歪み始めたのか。どこで綻びが決定的になったのか。
俺の机の引き出しには、黒い手帳が一冊ある。
事件記録の抜粋と、個人的なメモを、できるだけ簡潔に書きつけたものだ。重要なのは「順序」だ。
感情はいくらでも脚色できるが、行動の順番だけは変えられない。
朝の静けさの中、着信音が鳴った。
内線ではない。個人携帯に署の代表番号が入ることは、めったにない。
「……はい、遠藤です」
『◯◯区△△町のアパートで、女性が倒れているとの通報。第一通報者は男性。現場、急行願います』
「了解」
俺はコートを羽織り、手帳を掴んで席を立った。
事件は、予告なしにやってくる。
それも、たいてい平凡な朝を選んで。
*
現場は、駅から少し離れた住宅地の一角だった。
細い路地に沿って並ぶ二階建てのアパート群。そのうちの一棟。築十年前後の、学生向けワンルーム。
通報から十五分ほどで到着すると、パトカーが一台すでに止まっていた。
アパートの前には青いビニールシートが張られ、制服警官が立ち入りを制限している。
階段を上ると、二階の突き当たりの部屋の前で、巡査がこちらを振り返った。
「遠藤さん、お疲れさまです」
「中の状況は?」
「女性、刺創あり。搬送しましたが……心肺停止です」
一瞬、時間が止まる感覚があった。
「心肺停止」は、現場の言葉でいえばほぼ「死亡」だ。
玄関前には、スリッパが転がっている。片方は扉の近く、もう片方は廊下側に半分飛び出していた。
その少し離れた壁際に、第一通報者の男が立っていた。三十代半ば。
ダウンジャケットにジーンズ。痩せてはいないが、どこか頼りない体つき。
目の周りは赤く、手に握ったスマホがわずかに震えている。
「名前は?」
「藤沢 賢一。予備校の講師だそうです。被害者の、予備校時代の担当だったとか」
巡査の説明を聞きながら、男に視線を向ける。
藤沢──その顔には、「元教え子を心配して駆けつけた」男の表情と、「何かを隠している」男の表情が、奇妙に同居していた。
呼吸は浅く、喉仏が忙しなく上下している。
それでも、こちらの目からは逃げない。
「藤沢さん。遠藤です。警察です。少し、お話を伺ってもいいですか」
俺が声をかけると、男はこくりと小さく頷いた。
「……柚木さんとは、予備校のときから、文系クラスの担当で。大学に入ってからも、たまに進路のことで相談を受けたりしてました」
「今日ここに来た理由を、教えてください」
「昨日の夜……LINEを送ったんです。“今日、会えないか”って。そしたら、“今日は無理。絶対来ないで”って返ってきて。いつもと違う感じで……」
「それで、今朝になっても既読にならなかった」
「ええ……。前にも精神的に不安定だった時期があって……。嫌な予感がして。来てみたら、玄関の鍵が開いていて……呼んでも返事がなくて……」
彼の声は途中で途切れ、指先の震えが一段と強くなった。
「中を覗いたら……倒れてて。血が、床に……。すぐに、通報しました」
言葉としては筋が通っている。
だが、その取り乱し方が「悲しみ」なのか「恐怖」なのか、まだ判別はつかなかった。
俺はビニール手袋をはめ、室内へ踏み込む。
──静かだった。
家具の少ないワンルーム。
ベッド脇の床に、血の跡。倒れ込んだ身体が運び出された痕跡が生々しく残っている。
キッチンの流しには、濡れた布巾が二枚、ぐしゃりと置かれていた。
スリッパの片方は、ベランダ側の窓の前に転がっている。
部屋全体に、乱闘の形跡はない。
物が大きく散らかっているわけでもない。
ただ、生活の輪郭の中に、唐突に「死」が置かれている。
そんな光景だった。
「死因は刺創で間違いないか?」
応急処置にあたった救急隊員に尋ねると、短くうなずきが返ってきた。
「左胸に、深い刺し傷が一箇所。凶器は、現場の包丁で見て間違いないと思います」
なるほど。
視線を巡らせると、カラーボックスの上には、男物と思しき香水の瓶が一本。
蓋は外れたまま、わずかに中身が減っていた。
冷蔵庫には、半分だけ使われた卵パック。
ガスコンロの上の小鍋には、乾いた汁の跡。
昨夜のどこかの時点までは、ここにはたしかに「明日」があった。
アパートのエントランスはオートロックだ。
インターホン越しに知った顔を迎え入れなければ、ここまで辿りつけない。
となれば、犯人は被害者の顔見知り。
そのうちの一人が、いま玄関の外で震えている男、というわけだ。
ただ、それだけではまだ、足りない。
俺は部屋を一巡りし、玄関に戻った。
「藤沢さん。あなたと彼女の関係は、どこまでだったんですか」
男は一瞬、目線をそらし、すぐに戻した。肩が小さく上下する。
「……恋人では、ありません。少なくとも、そういうつもりでは。
ただ……親密では、あったと思います。彼女のほうから相談をしてきて、僕は……元・教師として……」
言葉が濁る。
その「教師として」という言い方が、妙に耳に残った。
「彼女のほうは、あなたをどう見ていたと思います?」
「……たぶん……他に、好きな人がいたんじゃないかと。最近は、少し距離を感じていて……」
藤沢の右手の甲には、小さな擦り傷があった。
「その怪我は?」
「え……ああ……さっき……玄関で躓いたときに、多分……。よく覚えていません」
視線の揺れ方が、典型的な嘘のそれかどうかを、この場で断定することはしない。
現場での「決めつけ」は、あとで調書の足を引っ張る。
俺は淡々と手帳を開き、室内の状況と藤沢の証言を箇条書きにしていった。
第一報から、一時間あまり。
まだ事件は、「入口」に過ぎない。
だが──この部屋の空気には、どこか別の匂いが混ざっていた。
それが何なのかは、まだ言葉にできない。
ただ、「ひっかかり」として残るものが、確かにあった。
*
翌朝。いつもより少し早く署に入ると、ロビーの空気が妙にざわついていた。
受付のカウンターの前に、数名の署員が集まっている。その中央に、ひょろりとした影がひとつ。
痩せた長身。黒いコート。くたびれたショルダーバッグを、身体の前で抱えるように下げて立っている。
全体としては目立たない風貌だが、その立ち姿には、妙な「空白」があった。
音を吸い込むような沈黙が、身体ごと彼に染み込んでいる。
「遠藤さん……犯人です」
受付係が、困惑を隠しきれない顔で小声で言った。
「自首してきました。付き添いの弁護士もいます」
「名前は?」
「遠野 湊。都内の私立大学、文芸学科の修士一年。昨日の殺人事件について、“自分がやった”と書いた文書を持参しています」
「文書?」
差し出されたクリアファイルを受け取る。
中にはA4用紙が二十二枚。ページ番号が打たれ、余白も均一に揃っている。
一枚目の冒頭、たった一行。
──その夜、僕は彼女を刺した。
以降は、ほとんど地の文だけで綴られた、被害者との関係性と事件当夜の描写。
正直、読み進める前から、頭のどこかが重くなる。
「これが“供述”ってわけか」
「……はい。ただし、本人は“話せません”と」
受付係から手渡された封筒には、「場面緘黙症」の診断書が入っていた。
小児期からの既往歴。最近は症状が落ち着いていたが、強い精神的負荷がかかると発語が困難になる可能性──。
俺はファイルを閉じ、ベンチに視線を向ける。
遠野 湊。
彼は、微動だにせず、こちらを見ていた。
第一印象は、「感情の色がない」だった。
恐怖も後悔も、目に浮かんでいない。
かといって、完全な放心でもない。
ただ、静かに、まっすぐ、こちらの存在だけを確認している目。
「遠野 湊さん」
声をかけても、反応はない。視線を逸らしもせず、頷きもせず、沈黙だけが返ってくる。
傍らの弁護士が一歩前へ出た。
「申し訳ありません。彼は現在、発語が困難な状態です。
ただし、意志の表明として、先ほどの文書を提出させていただきました。内容はすべて本人の記述です」
「“刺した”こと自体は、認めている?」
「ええ。文書の通りです。本人も否認はしていません。
それ以上の口頭での説明については、医師の見解からも、現時点では控えさせていただきたいと」
俺は、もう一度、遠野の顔を見た。
やはり、何も動かない。
それでも、目の奥にある「静かな確信」のようなものは、最初に見たときと変わらなかった。
──やっかいなことになりそうだ。
この沈黙は、ただの症状だけではない。
「沈黙する」と決めた人間の強度が、そこにある。
たった一行の文と、黙り込んだ男。
そんなもので事件を読み解けるわけがない。
だが現場は存在し、物証もある。自首もしている。
動機も、供述も、この二十二枚の紙の中にすべて詰め込まれているというのか。
まるでこちらが、「読む側」にされているようだった。
俺はファイルを小脇に抱え、背を向ける。
「……とりあえず、読ませてもらおう」
背中に、何の音も返ってこない。
ただ、その静けさだけが、不自然なほど長く耳に残った。
*
取調室は、狭く、白く、無機質だった。
テーブルと椅子がひとつずつ。
時計の秒針が、やけに大きく響くほどの静けさ。
俺が入ったとき、遠野はすでに席に着いていた。背筋を伸ばし、視線はこちらを向いている。
だが、その目は「目を合わせている」というより、単に「正面を見ている」だけのようでもあった。
「……遠野 湊さん」
名を呼ぶ。やはり、反応はない。
まぶたも動かない。頷きも、首振りもない。ただ沈黙。
医師の説明によれば、場面緘黙の症状が強い場合、発語だけでなく、表情や身振りによる意思表示も難しくなるという。
だが俺には、それ以上の“壁”が感じられた。
「昨日、手記を預かった。全部読んだよ」
それでも反応はなかった。
ただ、その瞳の奥に、かすかな光が差したようにも見えた。
安心。あるいは、期待。
「俺も文学部出身でね。興味深くは、あったよ」
そう言って、書類ファイルから一枚目を取り出す。
──その夜、僕は彼女を刺した。
この一文。
誰に向けて書かれたのか。
なぜ、「小説の書き出し」のような呼吸で始まっているのか。
「遠野さん。これは、小説か?」
その問いに、彼の眉がほんのわずか、動いた。
だが、頷きも否定もない。
「君は……“語らないこと”で、何かを表現しているつもりか?」
返事はない。
俺は背もたれに身をあずけ、口元に手を当てた。
この沈黙は、「話せない」だけではなく、「話す必要がない」と判断した人間の沈黙だ。
あらゆる会話より先に、「すでに書いてしまった」と信じている人間の顔。
ならば、こちらもやり方を変えるしかない。
「書かれていないことを、訊く」
そう告げると、遠野のまぶたが、一度だけ静かに下りた。
それが頷きなのかどうかは分からない。
ただ、この場での彼なりの「了承」のサインなのだと、俺は勝手に解釈することにした。
「手記には、なぜ彼女を刺したのかという“理由”が、はっきり書かれていない。
『整合性』とか『構造』って言葉でぼかしている。けど、それじゃ警察も裁判所も納得しない」
遠野は無言のまま、こちらを見ている。
その無言は、“拒絶”というより、“観察”に近かった。
こちらの言葉の選び方、強弱、間合いを、ひとつずつ検分している視線。
俺はテーブルの上にメモ帳を開いた。
手記を読みながら書き出した“要点”の箇条書きだ。
・被害者との過去が、詩的で観察的に描かれ、肝心な感情が薄く書かれている
・犯行後の行動(血を布巾で拭く、椅子を元に戻す等)が、冷静すぎる
・事件当夜のディテールが、すでに「物語」として整いすぎている
このリストをゆっくりと彼の前に置くと、遠野はほんの一瞬だけ、喉仏を動かした。
そして、ごく微かに鼻から息を漏らした。
──笑ったのか?
いや。
ただ、「想定内」だと確認しただけかもしれない。
俺はメモを閉じて立ち上がる。
「話さなくてもいい。けど、俺は読む。全部読む。
お前が何を仕掛けたのか、どこまでが事実で、どこからが“演出”なのか。……それだけは覚えておけ」
それでも、遠野は何も返さなかった。
だが、俺の言葉のどこかを、ページの行をなぞるように胸の中で反芻しているのだろう、という感覚だけは残った。
取調室を出る直前、もう一度だけ振り返る。
遠野 湊の視線は、相変わらずまっすぐこちらを向いていた。
その奥には、静かな確信のようなものが宿っていた。
──こいつは、事件を“構築している”。
それが、この時点での率直な印象だった。
*
遠野の手記を印刷した紙束は、原稿用紙換算で五十枚を超えていた。
刑事課の片隅。窓のない捜査室で、俺と同僚の斎木は、その紙束に黙々と目を通していた。
「……ほんとに“手記”ですかね、これ」
斎木が苦笑混じりに言う。
「地の文ばっかりで、会話がほとんどない。事件の話だと思ったら、サークルの思い出とか本の話とか、自分語りがずっと続いてて……正直、どこからが“供述”なのか分かりにくいですよ」
「読ませるつもりで書いてるのは、間違いないな」
腕を組みながら答える。
「ただ、読むのは編集者でも大学のゼミ仲間でもない。俺たちだ」
手記を一段落ごとに区切り、そこから「事実」だけを抜き出していく。
こいつが何を見て、どこにいて、誰と何を交わしたか。
感情の流れは、一度脇に置く。
一見すると、手記は感情の独白として書かれているように見える。
だが注意深く読むと、細部に具体的な情報──日時、場所、行動──が埋め込まれている。
「じゃあ、今のところ拾えた“事実”、まとめますね」
斎木がノートを開き、その前にいつものようにハンカチで掌を拭う。
「……またか」
小声でつぶやくと、「紙が湿るとめくりにくいんですよ」と、真顔で返ってくる。
《手記から読み取れる“事実”の一覧(暫定)》
【被害者との関係】
・大学の文芸サークルで知り合った
・サークル活動の中で、互いの作品の批評を交わす関係だった
・被害者に詩集を貸し、返却された際には付箋が多数貼られていた
・Slackでメッセージのやりとり(深夜に長文で返信が来る)
・被害者が“まだ彼と連絡を取っている”と語る場面に同席している
【犯行当夜の行動】
・夜、被害者宅のアパートを訪問
・ドア越しに「話したい」と伝える
・被害者から一度は入室を拒まれている
・その後、玄関の隙間から中へ入ったと記述
・台所の包丁の位置を、事前に把握していた可能性
・犯行後、布巾で血を拭く/椅子の位置を戻すなどの行為
・アパートを出る際、住民と接触した描写はなし
【犯行後の行動】
・テレビニュースで事件を知る描写
・誰にも相談していない
・自首は翌日、弁護士とともに警察署へ
・提出した手記は、事件から二日以内に執筆
「……多いですね」
斎木が眉をひそめる。
「たった一人分の文章で、ここまで時系列が埋まるの、ちょっと気味が悪いです」
「逆に言えば、これだけ“整った物語”が、どこまで現実と一致するかが、これからの仕事だ」
俺は赤ペンでメモに線を引く。
「大学のサークル、被害者との関係性、Slackの履歴、詩集の付箋、サークル誌。
あと、包丁の位置を事前に知っていたかどうか。これは、彼が部屋に入ったことがあったかどうかと直結する」
「サークルの飲み会で“部屋に集まった”って書いてありましたね。本当にあったか、確認したいです」
「逃走時に“誰にも見られなかった”って記述も、防犯カメラで確かめる必要がある」
斎木はペンを走らせながら、ふと思い出したように言う。
「……遠藤さん。正直、この手記のまんま読むと、“本当は藤沢を殺すつもりだった”っていう筋に見えますよね。
第三章で『彼を殺すのはやめた』ってわざわざ書いてて」
「決めつけるな」
首を横に振る。
「俺たちの仕事は、“裏を取る”ことだ。
感情や“読みどおり”の筋書きはあと回し。まずは、事実かどうか。一つひとつ潰していくだけだ」
「了解です」
静かな沈黙が、短く部屋を満たす。
手記の最後のページをめくりながら、斎木がぽつりと言った。
「……それにしても、“自分の最後の作品になるかもしれない”なんて書き方、普通じゃないですよね」
「“普通”じゃない人間が、“普通の動機”で犯罪をするとは限らないさ」
俺は手帳を閉じる。
「けど、こっちがやることは同じだ。読む。確かめる。
書かれたことと、書かれていないこと。その両方を」
その日の夕方、俺たちは大学へ向かった。
──もし、この手記に書かれたことが、すべて現実にも揃っているのだとしたら。
それは本当に「供述」なのか。
それとも、もうひとつの「脚本」なのか。
答えは、証言の中にある。
第2章 証言 ─文芸サークル─
大学構内には、冬の冷たい空気が張り詰めていた。
北風がときどき落ち葉を巻き上げ、ガラス窓には白い息の跡が薄く残る。
午後の日差しは心許なく、行き交う学生たちの吐く息だけが、目に見えるかたちで存在を主張していた。
遠野と被害者・柚木が所属していた文芸サークルの部室は、古びた校舎の三階、いちばん端。
もとは空き教室だったらしい一室を、手作りの本棚とソファで無理やり「居場所」にしたような空間だ。
壁には過去の合評会のチラシやサークル誌の表紙。
低い本棚には詩集や同人誌が、倒れかけた塔のように積み上がっている。
奥のソファには座布団代わりのクッション。テーブルには、飲みかけのペットボトルと、冷え切ったコンビニコーヒー。
斎木がノックしてドアを開けると、室内の学生たちの視線が、一斉にこちらに集まった。
「警察です。文芸サークルの皆さんに、お話を伺いたくて」
人数は八名。ただし、一人は泊まりがけのバイトで不在とのこと。
四年が一人、三年が二人、二年が二人、一年が三人。男女はほぼ半々。
ざっと顔ぶれを眺める。
サークル長の四年・安藤。
ワックスで固めた短髪に、襟の出たシャツ。膝の上に置いたノートの端を、きっちり指先で揃えている。几帳面さと、「責任を取る側」の疲れがにじんでいた。
三年の江本は細身のメガネ。
視線は足元に落ちていて、手元の缶コーヒーのプルタブを、音が出ないギリギリの力加減でいじり続けている。何か言う前から、「言い過ぎたくない」というためらいが見えるタイプだ。
同じく三年の森下は、長い髪をひとつに束ね、脚を組んでソファに座っていた。
こちらをじっと観察するような目つき。
メモも取らず、ただ見る。その視線の鋭さは、普段から人の話を「素材」として見ている人間のものだった。
二年の高橋は、体格のいいスポーツ系。
椅子に座っていても、膝や足先が小刻みに揺れ、指がペンを転がしている。落ち着きがないのではなく、考えが先に身体に出るタイプだ。
二年の佐伯は、髪をきちんとまとめた落ち着いた服装。
膝の上で両手を組み、真っ直ぐにこちらを見る。声は柔らかそうだが、簡単には迎合しない芯の強さが、姿勢に出ていた。
一年の白石と川名は、並んで座り、互いの膝のあたりを落ち着かなげに触っている。
質問が飛んできたとき、どちらが答えるか、目線だけで押し付け合っているのがはっきり分かる。
もう一人の一年生、清水は唯一の男子新入生。
猫背気味で小柄だが、視線だけはまっすぐこちらを捉えていた。
緊張しているが、「見られる」ことからは逃げない目だ。
服装も仕草もバラバラだが、共通しているのは、「ここに警察が来ている」ことへの実感だった。
まずは、遠野と柚木の関係について聞く。
「二人は、付き合っていたんでしょうか」
サークル長の安藤が、いかにも「まとめ役」という口調で口を開いた。
「……それ、ずっと聞かれるだろうなとは思ってたんですけど……正直、僕らにも分からないです。ただ、仲は良かったですよ。
読んでる本の趣味も近かったし……気づくと、同じ机にいる、みたいな」
そこで一度言葉を切り、苦笑する。
「サークル長としては、“そういうの全部把握してました”って言えたほうがいいんでしょうけど……。
僕らの視界って、意外と狭いんです。物語には詳しくても、人間関係には疎いっていうか」
その「言い訳めいた正直さ」が、彼の人柄をそのまま映していた。
「でも、なんとなく……柚木さんのほうは、距離を取ってたようにも見えました」
缶コーヒーのタブをいじりながら、江本がそっと続ける。
「遠野さんのほうには、特別な感情があったのかもしれない。
ただ、柚木さんがそれに“同じ温度”で応えてたかどうかは……少なくとも、僕らには見えなかったです」
「“同じ温度”ではない」
メモに、その言い回しだけを書きとめる。
彼なりの精一杯の精度だ。
「サークルでは、朝まで飲むようなこともあったと聞きました」
「あります。年に何回かだけですけど。学祭のあととか、締切の打ち上げとか」
そう答えたのは、二年の佐伯だ。
言葉を選びながら、しかしはっきりと。
「いつも誰かが寝落ちして、誰かが原稿のグチ言って……みたいな。
その中に、二人も普通に混じってました」
「そのときも、ずっと二人きりで、という感じでは?」
「いえ。みんなでワァワァやってるほうが多かったと思います。
ただ……最後まで残ってるメンバーの中に、いつもその二人がいた、って印象はありますね。
“先に帰る”って言うほうじゃなかった」
斎木が、小声でつぶやく。
「交際とまでは言えないが、“同じ場所に長くいる二人”……か」
壁に貼られたサークル誌の表紙に目をやる。
一枚だけ、写真ではなくコラージュのような手作りの表紙がある。
端に、小さく「H.Y.」の署名。柚木のものだろう。
「柚木さんは、どんな人でしたか」
少し間があってから、一年の清水が、おずおずと口を開いた。
「……僕から見ると、“先輩”って感じでした。
優しいし、話しかけやすいけど、距離感はちゃんとあって。
なんていうか……“誰にでも同じ笑顔を配れる人”っていうか」
自分でも言ってから、「うまく言えなくてすみません」と付け足す。
「でも、あんまり自分のことは話さなかったですね」
佐伯が静かに補う。
「カフェとか映画とか、テストの愚痴とか……そういう“今どきっぽい”話は普通にしてくれるんです。
“あそこのラテがおいしい”とか、“このドラマ、脚本が意外とちゃんとしてる”とか。
でも、家のこととか将来のこととか、“一段深い話”になりそうになると、すぐ話題を変えちゃう」
そこで、苦い顔を浮かべる。
「『予備校の先生』のことも仲がいいってだけで……私たちには、そこから先、ぜんぜん話そうとしなかった。」
「“そこから先”を、話さないか……」
それもまた、彼女の輪郭の一部だった。
「では、遠野さんについて、もう少し詳しく」
二年の高橋が、腕を組みなおしながら答える。
「なんていうか……見た目だけなら、ほんと普通の人ですよ。
ちょっと静かだけど、暗いって感じでもないし。話しかけたらちゃんと返してくれるし。」
そこまで言ってから、少し言葉を探す。
「ただ……就活、うまくいかなかったんですよね。
『全部落ちました』って、変にあっさり言ってて。で、院に進むって決めて……。
文学やりたいっていうより、“ここしか残ってないから選んだ”って感じに見えた、っていうか……」
「逃げ場所みたいだった、ってこと?」
俺が問うと、高橋は「そう……ですね」と苦笑する。
「でも、文学そのものには真面目でしたよ」
そこに割り込むように、白石が慌てて付け足した。
「合評のときとか、ちゃんと全部読んでくれてるのが分かるコメントしてくれるし。
『ここ、もう一行削ったほうが生きるよ』とか、“褒めてるのかダメ出しなのか分かんない”こと言うんですけど……」
隣の川名が、くすっと笑って引き取る。
「でも、その一言だけずっと覚えてるんですよね。
“削ったほうが生きる”って、ちょっとカッコつけすぎだなって思ったけど」
「Slackで、真夜中に急に長文で返信してくることもあって」
白石が続ける。
「それが、すごく丁寧なんですけど、ちょっと怖いっていうか……。
“この人、夜になると別人格になるのかな”って、冗談で言ってました」
「夜の遠野さん、ってあだ名、勝手につけてました」
川名がそう言って、すぐにうつむく。
自分の言葉の軽さに、今さら気づいたような表情。
遠野の文章には、“親しみやすさ”と“異物感”が、奇妙なバランスで同居していた。
二人の一年生の証言から、そのニュアンスが滲み出ていた。
「一回、飲み会で文学論が白熱したときがあって……」
缶コーヒーのタブを回しながら、江本が言う。
「僕が、ある小説について『まあ、読んだ人が好きに受け取ればいいんじゃないですか』って言ったら、
遠野さん、急に『それは“読解”じゃない』って、はっきり言ったんです」
そのときの様子を思い出しているのか、彼は目を細める。
「酔ってたわけでもないのに、すごく真剣な顔で。
“ちゃんと読むっていうのは、自分の都合で勝手に好き嫌いすることじゃない”って。
あの一言だけ、妙に残ってます」
「“それは読解じゃない”か」
文学部出身として、苦笑いしたくなるフレーズだ。
「遠野さん、自分の中に“正しい読み方”を持ってたんだと思います」
江本は続ける。
「別の解釈が入ってくるのが、たぶん苦手だった。
でも、柚木さんに対してだけは、そこまで強く出ないんですよ。
……明らかに、彼女は特別扱いでしたね」
部室の空気が、少しだけ重く沈んだ。
証言のどれもが決定打ではない。
だが、“誰と、どう関わっていたか”を積み重ねていくうちに、遠野の輪郭が、じわじわと浮かび上がってくる。
──静かで、真面目。
だが、どこか浮いている。
文学を“武器”のように抱え、誰にも触らせないまま、ひとりで研ぎ続けていた。
「……柚木さんについて、もう少し」
俺が話題を戻すと、部屋の空気が一瞬だけ張り詰めた。
「彼女、サークルの中で、誰かに悩みを相談している様子はありましたか」
最初に応じたのは、森下だった。
脚を組み替え、少しだけ顎を上げる。
「……ありました。けっこう、相談するタイプだったので」
「それは遠野さんに、ですか?」
「いえ……最初は、そこの男子に話してたんですよ。藤沢さんのこと。予備校時代の先生だったって……」
そう言って、森下は、安藤と江本に目線を向けた。
「“昔から相談に乗ってくれてて、いまも連絡をとってる”って。最初はそんな感じで話してました。でも、ちょっとずつ……話の内容が変わってきて」
「どう変わった?」
森下は、少し遠くを見るような目になった。
「“既婚者だけど、断れない”とか、“なんか、曖昧な関係のままでいるのがしんどい”とか……」
高橋が途中で口を挟む。
「なんかさ……柚木先輩、“相談女”っぽかったんだよな」
「高橋」
森下が、軽く睨みをきかせる。
「……でも、まあ、そういうとこはあったかも」
高橋は肩をすくめる。
「年上の男にちょっとだけ悩み見せて、『そういうのズルいですよ』って言われるのを待ってる、みたいなとこ。
で、こっちが勝手に気を遣って、疲れる、みたいな」
「ただ、そのうち……」
森下が言葉を引き継ぐ。
「誰にも話さなくなっていきました。
飲み会の輪からも、少しずつフェードアウトして。
そのタイミングで、一番よく話す相手が、遠野さんに変わった感じですね」
「具体的には?」
「サークルの終わりに、ふたりだけ部室に残ってるのを何度か見ました。
Slackでも、夜中に二人の名前が並んでて。“あ、今もやり取りしてるんだな”って。
ただ……あくまで外側から見ただけです。中身は、分からない」
一年の川名が、小さな声で付け足す。
「……柚木先輩、遠野さんの詩、好きって言ってました。
付箋とか、すごく細かく貼ってて……。
“ここ、分かんない”って笑いながら言うんですけど、そのページだけ、本がすごく開き癖ついてて」
「誰かに見せるっていうより、自分だけの“やりとり”みたいな感じでした」
白石が続ける。
「“ここ、良かった”とか、付箋にちっちゃく書いてあって。
あれを見たとき、“ああ、この二人って私たちの知らないところで話してるんだな”って、はじめて思いました」
その一言が、妙に胸に残った。
自分だけの“やりとり”。
文学という媒介を通じて、二人の距離は、他人には見えないかたちで濃くなっていた。
「でも……」
安藤が、小さく息を吐きながら言う。
「結果的に言うと、僕らはそこに“任せちゃってた”んですよね。
彼女の悩みに、誰も正面から付き合いきれなくなってきて。
“遠野さんなら大丈夫だろう”って、勝手に思って。
……それが今になって、一番しんどいです」
「“任せた”んですね」
「はい。
藤沢って人がどんな人か分かりません。でも、“本人たちでどうにかするだろう”って……
僕、サークル長のくせに、そう思ってました」
その告白は、言い訳というより、自分への判決のようだった。
俺はメモ帳を閉じる。
「ありがとうございます。とても大事なお話でした」
部室の空気は重かった。
誰もが、自分たちの“そのときの選択”に、あとから意味が上書きされていく感覚に耐えかねている。
文学は、出来事に「意味」を与え直す。
だが、現実が“書き換え”られるとき、それは必ずしも救いにはならない。
そう思いながら、俺たちは部室を後にした。
*
大学関係者への聞き取りが一段落したあと、サークル外での二人の姿──アルバイト先や授業、日常の足跡──をたどっていった。
遠野のバイト先は、大学近くの古書店だった。
十畳ほどの小さな店で、詩集と文芸評論が棚の大半を占めている。
店主は六十代の女性で、エプロン姿のまま、段ボールの上に腰を下ろして話した。
「遠野くん? 礼儀正しい子だったよ。
“いらっしゃいませ”もきちんと言うし、本の扱いも丁寧でね。
ただ……人とは、あんまり喋らない子だったね」
「何か気になる様子はありましたか」
「強いて言えば……ここ数ヶ月かな。閉店後もよく残るようになって。
“在庫整理してから帰ります”って言うんだけど、やけに静かでね。
古本の山の中で、ひとりだけ時間が止まってるみたいで、ちょっと心配にはなってた」
柚木のバイト先は、駅前のカフェだった。
店長の若い女性は、こちらの名乗りを聞くと、一度カウンターの中で深呼吸してから顔を上げた。
「柚木さん……ほんと、いい子でした。
仕事覚えるのも早いし、常連さんの好みもちゃんと覚えてて。
でも、ここ最近は、ちょっと元気なかったかもです」
「なにか、誰かについて話していましたか」
「名前で覚えてるのは……藤沢さん、って人ですね。
“昔の先生なんです”って。
あと、“大学の文芸の先輩と徹夜で話しちゃって”って、笑いながら言ってたこともあります。
それが遠野さんって人かどうかまでは、分かりませんけど」
アパートの管理人は、高齢の男性で、腰をさすりながら応対した。
「柚木ちゃん? ちゃんとした子だったよ。
挨拶もいつもしてくれるし、ゴミも分別して出してくれてね。
あの夜は、わしはちょうど実家に戻っとってなあ……。音も何も聞いとらんのですよ」
コンビニ、書店、サークルとは関係のない友人たち。
聞き込みを重ねても、決定的な「ひと押し」になる証言は出てこない。
──ただ、少しずつ、線だけは見えてきた。
遠野は、礼儀正しく、真面目で、どこか疲れていて。
柚木は、きちんとしていて、誰にでも同じ笑顔を配りながら、肝心なことは語らずにいた。
署に戻る途中、斎木が手帳に線を引きながら、ぽつりと言った。
「……なんか、遠野って、“可哀想”なやつだったんじゃないですかね」
「どういう意味だ」
「手記を読むと、自分だけが柚木さんの“本当の相談相手”だった、って思い込んでたふうに書いてあるじゃないですか。
でも今日の話だと、柚木さんって、いろんな人に相談してた。
年上の男の人にも、サークルの誰かにも。
……でも、“特別だ”って信じ込んだのは、多分、遠野だけだったのかなって」
俺はうなずく。
「一方的な“読者”だったのかもしれないな」
斎木が、短く笑った。
「本人は、“物語を共有している二人”のつもりだった。
でも、周りから見ると、彼女はただ、いろんな人に同じ物語の別バージョンを話してただけで。
……それを、“自分だけのテキスト”だって思っちゃったら、きついっすよね」
遠野が見ていたのは、現実の彼女ではなく、
“自分の中に書き上げた彼女”だったのかもしれない。
署の建物が見えてきたところで、斎木のスマートフォンが震えた。
彼は歩く速度を少し落とし、画面をちらりと見て、苦笑する。
「……また家からです」
通知欄には、スタンプ付きのメッセージが覗いていた。
湯上がりの子どものイラストに、「きょうもおそい?」という吹き出し。
「出なくて大丈夫か」
俺が問うと、斎木は小さく肩をすくめた。
「“パパ、絵本読んで”ってモードですね。
こういう日は、だいたい寝かしつけ失敗するんですよ」
そう言いながらも、歩きながら素早く返信を打つ。
──ごめん、もう少しかかる。起きてたら電話つなげて。
一度「ごめん」の文言を消して、「できるだけ早く帰る」に書き換える。
画面の明かりが、夕方の薄闇の中で一瞬だけ彼の横顔を照らした。
「事件って、ほんと空気読まないですよね」
ハンカチで掌を拭きながら、斎木がぼそりと言う。
「こっちの生活のページ、勝手にめくってくるっていうか」
「すまんな。ページを閉じるのは、もう少し後だ」
俺は建物の中へ視線を戻した。
「明日は、遠野が所属していたゼミの教授だ。アポは取ってある。
“作家・遠野湊”を育てた側の話を、聞いておく必要がある」
斎木は「了解です」と頷き、スマホをポケットにしまった。
その仕草の奥に、仕事と生活のあいだで揺れる、ひとりの父親としての顔が、ほんのわずかだけ透けて見えた。
遠野が言葉に執着していた理由。
それが、ただの「文学少年の延長」なのか──それとも、もっと別の何かだったのか。
明日は、“作家・遠野湊”を育てた人間の話を、聞きにいく。
第2章 証言 ─教授─
大学構内の応接室は、築年数なりの古さと、研究機関としての抑制された品格が同居していた。
午後の光が窓枠に沿って伸び、積み重ねられた文献資料の背表紙に、斜めの影をつくっている。
応対に現れたのは、文学部・文芸学科の教授、平間直人。
五十代半ば、痩身に少し古びたジャケットを羽織り、薄いフレームの眼鏡をかけた人物だった。
「……柚木さんの件については、私も驚いています。うちの生徒が殺人事件の被害者になるなんて」
入口で名乗った時点で、こちらの用件は察していたのだろう。
刑事であることに過度な反応を見せるでもなく、落ち着いた調子で椅子を勧めてくれた。
「今日は、遠野 湊さんについても少し、お話を伺えればと思いまして。柚木さんとは文芸サークルで一緒だったもので」
そう切り出すと、平間教授は短くうなずき、腕を組んだ。
「ええ、構いませんよ。……彼のことは、研究室配属の時から、よく覚えています。文学への執着が非常に強い学生でした。良くも悪くも、“素直じゃない”子でしたね」
「素直じゃない、というと?」
「他者に対しても、自分に対しても、です。何かを“ストレートに表現する”ことを、どこか忌避していたように思います。自分の感情や思考を“書く”ときも、かならず何か別の仮面を被せてから提示する。逆に言えば、それだけ表現に慎重だったとも言えますが」
教授は少し考え込むように言葉を切り、窓の外へ目をやった。
「彼は、文学に救われてきた人間だと思いますよ。若い頃から自己表現の困難を抱えていたのでしょう。言葉に対して非常にセンシティブで、特に“どの言葉を使わないか”という部分に、彼の意志が表れていました」
その言い回しに、俺は手帳のページをめくる手を止める。
「“使わない言葉にこそ、意志がある”……ですか」
「ええ。書き手にとっては、“沈黙”も表現の一種ですから。……もちろん、それは文学の中での話ですが」
その最後の言い方には、微かな警戒が含まれていた。
こちらが何を探っているかを、おおよそ把握した上での“線引き”だろう。
「遠野さんは、他の学生と比べてどうでしたか? サークルでは少し浮いていた、という話も聞いています」
「学問的な意味では、むしろ他者に開かれた思考を志向していたと思います。ただ、人間関係のなかでどうだったかは……。少なくとも、ゼミでは周囲と円滑にやれていたとは言いがたいですね。議論の途中で、急に黙ることがありました。“違う”と思っても、それをうまく伝えられない……というより、“伝える気がない”ようにも見えました」
斎木が小さく首をかしげる。
「それは、緘黙の影響もあったんでしょうか」
「ああ、それも後から知りました。小学生の時に診断を受けたと、本人が卒論の面談のときに少し話してくれたんです。“話せなくなることがある”と。そのときは笑いながら言っていましたが、あれは半分、本音だったのでしょうね。自嘲にも見えました」
教授の語りには、遠野に対する一定の理解がにじんでいた。
「……ところで先生、彼の研究テーマについて、詳しく伺ってもよろしいですか?」
「ええ、もちろん。遠野くんは、独自の問題意識を持っていました。非常に興味深いテーマでしたよ」
平間教授の目に、わずかに光が宿る。
それは、学生の「問題行動」を咎める側の表情ではなく、ひとりの表現者に対する学術的な敬意を含んだ眼差しだった。
教授は机の上のファイルの束を崩し、その中からA4判のレポートを一枚取り出す。
「これが、彼の卒業論文です。“〈語らない主体〉における表現論的機能の変遷”──タイトルからして、少々手強いでしょう?」
資料のタイトルを目で追いながら、俺は斎木と顔を見合わせる。
「語らない主体、ですか」
「ええ。彼は“語らないこと”をテーマにしていました。小説や詩、エッセイなどの中で、“登場人物がなぜ沈黙するのか”“語られないことがどう受け手に作用するのか”という点に着目していたんです。とくに二十世紀以降の私小説やポストモダン文学に、強い関心を持っていましたね」
平間教授はレポートの一節を指で示した。
> “沈黙する登場人物は、しばしば読者に〈行間を読む〉ことを要求する。
> この沈黙は、語られることよりも多くを語り得るという逆説を内包している。”
「彼にとって、表現とは“伝える”ことではなく、“問いかける”ことだったんです。書き手が何かをはっきり伝えるのではなく、読み手に“どう読むか”を委ねる。その選択の幅を作ることこそが、彼の言う“文学の倫理”でした」
「文学の……倫理?」
「たとえば、ある人物が悲しんでいるとき、“彼は泣いた”と書くか、“彼はカップの縁を指でなぞった”と書くか。それによって、読者の解釈は変わります。遠野くんは、“後者のほうが倫理的だ”と考えていました。つまり、読み手に判断させる余地を残す。それが、彼の言う“倫理的な表現”なんです」
「……なるほど。明言しないことで、読者の解釈を誘導しすぎないようにする、と」
「そうです。ただし、同時に非常に危うい論理でもあります。なぜなら、その“余白”は、読者によって勝手に塗りつぶされてしまいますからね」
教授は言葉を止め、考え込むように天井を見上げた。
「彼の文章は、そこが極端だった。情景や心理を詩的な比喩で飾りながら、いちばん肝心な部分──感情の動機や倫理の判断は、かならず空白にする。……“書かない”ことに、強烈な意味を持たせていました」
沈黙が一瞬、部屋を満たす。
斎木が掌をハンカチでぬぐう。その仕草には、言葉では隠しきれない緊張がにじんでいた。
「それ、まさに……あの手記そのものですね」
「手記……?」
「いまのところ非公式の話ですが──。彼が、とある事件に関連して“書いたもの”がありまして。非常に技巧的で、情報が整っているのに、核心が語られない。まるで、すべての判断を読み手に委ねるような書き方でした」
教授は静かに頷いた。
「そうでしょうね。彼は“読ませる”という行為を、極限まで突き詰めていましたから。読者に感情を与えるのではなく、読者の中に“感情を発生させる”。……これは、彼がたびたびゼミで口にしていた言い方です」
「“発生させる”……?」
「ええ。つまり、“共感をコントロールしない”ということですね。書き手の意図を押しつけるのではなく、読者自身の倫理や経験で“補完させる”。同じ文章でも、“ある人には犯人が悲しんでいるように見え”、別の人には“冷徹に見える”──そういう“多義性”を、彼は強く求めていました」
教授は、そう締めくくると、いったん言葉を切った。
「……たぶん、いまお話ししたような“書かないこと”へのこだわりは、彼の書くもの全部に出ているはずです」
そう言ってから、しばらく黙る。
指先でカップの縁を一周なぞり、視線だけこちらと斎木の顔のあいだを往復させる。
何かを言い足すべきかどうか、測っているような間だった。
「……手記、とおっしゃいましたね」
「ええ。詳細はまだお見せできませんが、内容としては──感情をあまり説明せず、情景と行動だけで読ませるタイプでした」
そう告げると、教授は小さく息を吐いた。
「そうですか……」とだけ言い、ひと呼吸ぶん目を伏せる。
やがて顔を上げ、話題のラベルを貼り替えるように、少しだけ口調を和らげた。
「……少し、文体の話をしてもよろしいですか。これは捜査にはあまり関係のない──そうですね、半分は私の趣味みたいな、学術的な余談ですが」
「ぜひ聞かせてください。私は文学にはあまり馴染みがないので」
「それはむしろ強みかもしれませんよ」
教授は書棚から一冊の論文集を抜き取り、ページをめくりながら続けた。
「文体というのは、文章の“声”です。ただのリズムや語彙選択ではなく、“語りの倫理”そのものでもある。さきほどの“彼は泣いた”と“彼の頬を一筋の涙が滑った”の違いもそうですが──そこには“語り手がどこまで読者に寄り添うか”という距離感が必ず刻まれます」
「語り手と読者のあいだの“距離”が、文体の本質……ということですか」
「そのとおりです。そしてこの距離は可変的であると同時に、読者の想像力を呼び込む装置でもあります。現代文学──とくに日本の近代以降の私小説系譜では、“書かれないこと”がどんどん増えていきました。戦後文学では、これは“語りの抑制”として理論化され、“沈黙の詩学”とも言われます。感情の直接的な表出を避け、あくまで行動や物の描写だけで、読者に“読み取らせる”。いわば、行間に情報を沈める技法ですね」
「黙っていることで、かえって多くを語る、ということですか」
「ええ。ジャン=リュック・ナンシーという哲学者が、“共同体とは喪失を共有することだ”と書いています。文学もそれに少し似ていて、“語られなかったこと”を共有することで、読者とのあいだに奇妙な共犯関係を結ぶんです。書かれたことより、落とされた部分──欠けや喪失を、読む側が勝手に埋めようとする」
斎木が眉をひそめる。
「でも、それって……読み手によって、全然ちがう物語になるってことですよね?」
「そうです。文学とは、いつだって“揺らぎ”のメディアなのです。法的な言語が“明確であること”を求められるのに対し、文学の言語は“明確でないこと”、むしろ“不明確であり続けること”に価値を持ちます。だからこそ、人を慰めることもあれば──同じ力で、人を欺くこともある」
「欺く……?」
「比喩は、真実を語るための仮面であると同時に、“ごまかし”の道具にもなりえます。詩的な表現が感情を正確に伝えるとは限りません。むしろ、“真実らしさ”の衣装をまとわせることで、読み手に特定の読みを誘導することもできてしまう」
俺は静かに息を吐いた。
──あの手記の、異様なまでの沈黙。
──過剰に整った情景描写。
──言葉を拒む代わりに、“すべてを語ったふり”をする筆致。
「では教授、もし誰かが、自分の罪を詩的に語ったとしたら──その言葉は、真実と呼べるでしょうか?」
平間教授は一瞬だけ黙し、それから穏やかに微笑んだ。
「それは、文学にとって永遠の問いです。“真実”は常に、言葉の外側にありますから。だからこそ、われわれは読む。読み続けるのです。“どこまでが語られていて、どこからが語られていないか”──その境界線を見つけるために」
教授の言葉が、コンクリートの壁に静かに沁み込んでいった。
***
大学構内を出たとき、午後の光はすでに傾いていた。
濡れた地面には枝葉の影がうっすらと落ち、風の匂いにはまだ春の冷たさが残っていた。
斎木はしばらく何も言わず、俺の隣を歩いていた。
教授室での対話が、まだ頭のどこかを掴んだままなのだろう。
「……文学って、ずるいですね」
沈黙のあとで、彼がぽつりと言う。
その手にはハンカチが握りしめられていた。
「なんでも“意味がある”みたいに見せられる。明言しなければ、何通りにも取れる。しかも、読む側にそれを補わせて、“共感した気持ち”にさせちゃう。……なんていうか、うまく言えないですけど、納得させられてしまう感じが、気味悪いです」
「お前の言うとおりかもしれんな」
俺はそう答えながら、頭の中にあるページの並びを思い返していた。
──遠野 湊の手記。
──整った文体と端正な構造。
──語られすぎない感情。
──美しすぎる余白。
文学における“沈黙”とは、時に語りすぎることと同義である──平間教授の言葉が、じわじわと胸に残っていた。
遠野は、語らなかった。
けれど、“書いた”。
しかも、“書きすぎないように”書いた。
その選択に、どうしても引っかかっていた。
彼の文章には、確かに読ませる力がある。
言葉を削ぎ、説明を避け、行間に読者を招き入れる技術がある。
だが──なぜ、それが“供述”なのか。
言葉で語れない者が、文章で語ろうとすること自体に矛盾はない。
だが、あの文章は“詩的すぎる”。
まるで“文学の読者”である俺たちに向けて、あらかじめ書かれているような。
斎木が、少し間を置いて言った。
「たとえば、彼の手記がただの小説だったとしたら──読者は、“可哀想な青年の突発的な犯行”として読むんでしょうね」
「そうだな」
「でも、あれが“証言”だと思うと……そこまで作り込んでること自体が、不自然に見えてくる。どっちにしても、“共感させようとしている”ことに変わりはないですけど」
俺は小さく息を吐いた。
それこそが、“違和感”の正体かもしれない。
遠野は、読む者に“解釈の余地”を与えるかたちで、自分の感情や行動を描写している。
あたかも、“あなたならどう思いますか”と問うように。
けれど、それは供述ではない。
供述とは、“事実の明言”であるべきだ。
彼の手記には、確かに真実が混ざっている。
だが、“その選び方”に、明らかな意図がある。
選ばれた文体、配された比喩、削られた会話。
あらゆる要素が、“読むこと”を前提に設計されている。
──だから、危うい。
それは、“供述”に見せかけた、“演出”ではないか。
沈黙という名の演技。
文学という名の仮面。
読者との“共犯関係”が、真実をゆがめてしまう。
『事件には、物語が生まれる。だが、死者には物語を与えるな』
ふいに、昔の声が蘇る。
刑事になりたての頃、遺族の前で“背景”を語ろうとした俺に、先輩はそう言って叱った。
「遠藤さん」
隣を歩いていた斎木が、スマホをちらりと見てから言う。
「藤沢の面会、今日の午後で確定しました。予備校側から正式に許可が出たみたいです」
「そうか」
俺は足を止め、学内通路の先を見やった。
何も知らない学生たちが、レポートの話やサークルの予定をしながら笑い合っている。
「藤沢は、第一発見者としてはもう聞いている。
だがあのとき、“ただの昔の先生”だと言ったきりだった」
柚木との私的な関係──少なくとも“相談”以上のものについて、彼は一言も触れなかった。
斎木が顎に手をやる。
「もしそれが隠していた事実なら、遠野の手記にある“曖昧な関係”の実体が、ぐっと現実味を帯びますね」
「ああ。だから会う。今度は“第一発見者”じゃなく、“関係者”としてだ」
俺はスマホのスケジュールを確認し、画面を閉じた。
「行こう。次は──“物語の中の男”に会いに」
ページをめくるように、静かに、次の章が始まる気がしていた。
第2章 証言 ─講師─
面会室のガラス越しに座った藤沢 賢一は、落ち着きなく視線を泳がせていた。
椅子にはちゃんと腰掛けているのに、どこか“腰が浮いている”ような座り方だ。
三十代半ば。細身のスーツはそれなりに仕立てがよく、ネクタイも地味だが安物ではない。
ただ、ワイシャツの襟元だけが、ほんの少しだけよれている。
左手の薬指には、細い結婚指輪。話しているあいだじゅう、その輪を親指でさわり続けていた。
「……あの、僕、どこまで話せばいいのか……」
声はよく通る。教壇に立つ人間の喉をしている。
けれど、語尾だけが妙に頼りなく揺れていた。
「すべてです」
俺は正面から言った。
「現時点であなたは“第一発見者”ですが、それだけで終わるとは限らない。
正直に話してもらったほうが、結果的にあなた自身のためにもなります」
藤沢は、ガラスに映る自分の顔を一瞬だけ見てから、小さくうなずいた。
「……分かりました」
喉仏が、ごくりと上下する。
「まず、柚木遥さんとの関係から。最初から順番に聞かせてください」
「最初は、本当に“生徒と講師”でした」
視線が、テーブルの端に落ちる。
「彼女が浪人生としてうちの予備校に通ってきて……僕が現代文を担当していました。
授業後に質問に来たり、模試の答案を持ってきたり。
“熱心だけど、どこか疲れた顔をした子”というのが、最初の印象です」
そこまでは、よくある話だ。
「予備校時代から、相談は受けていたんですか」
「……はい。少しずつ、ですね。
最初は勉強のことだけでした。“点数が伸びない”“国公立にこだわるべきか”とか。
それがだんだん、“家のこと”“この先どうしたいか分からない”みたいな話に変わっていって」
藤沢は、胸ポケットに伸びかけた手を途中で止めた。
いつもならタバコを掴みにいく癖なのだろう。
「僕は、それに対して……軽い言い方をしてしまったんです。
“受験だけが人生じゃない”とか、“誰かの期待のためだけに生きなくていい”とか。
……今思えば、事情も知らないくせに、耳ざわりのいい言葉を並べただけです」
苦笑ともため息ともつかない息が漏れる。
「それが、彼女には“許された”みたいに聞こえてしまったのかもしれません。
“そういうふうに言ってくれる大人は、先生だけだ”と、ある日、言われました」
視線が、一瞬だけ宙をさまよう。
「そこから、境界が曖昧になっていきました」
「“相談以上”になったのは、その頃から?」
数秒の沈黙のあと、藤沢はうなずいた。
「浪人の冬でした。
模試のあと、“気分転換にコーヒーでもどうですか”と、僕のほうから誘いました。
最初で最後にしようと思っていた……と、当時は自分に言い訳していました」
テーブルの縁を、右手の指先がそっとなぞる。
「その日を境に、彼女を“ただの予備校生”として見ることができなくなった。
彼女のほうも……僕にだけは本音を見せていいと思い込んでいたんだと思います。
そこで一線を越えてしまいました。
それから先は、“やめどき”を失ったまま、ずるずると」
その言葉には、自分でも呆れているような色が混じっていた。
「大学に入ってからは?」
「関係自体は……続いていました。頻度は減りましたけど。
彼女のほうから“しばらく会えない”と言われることも増えて……
僕はそれを、“環境が変わったからだ”と、自分に言い聞かせていました」
「交際関係にあった、という認識でいいですか」
藤沢は顔を上げた。
「……はい。していました」
言葉自体は、意外なほどはっきりしていた。
ただ、その直後、深く息を吐く。
「でも、彼女のほうが“僕を好きだった”とは、いまでも言い切れません。
どちらかというと、僕のほうが勝手に踏み込んで、勝手に期待して……。
彼女にとって僕は、“話を聞いてくれる大人”くらいの距離でいてほしかったのに」
「あなたは既婚ですね」
「……はい。子どもも、ひとり」
薬指の指輪が、また親指の腹でなぞられる。
「それでも関係を持った?」
「……ええ。
“家庭とこれは別だ”って、自分に言い聞かせていました。
今思えば、それも全部、逃げ口上ですけど」
開き直りではない。
自分に向けて呟いているような声だ。
「あなたの側に、柚木さんへの“怒り”や“恨み”が芽生えたことは?」
「……ありません」
間髪入れずに出てきた否定に、作為らしいものはなかった。
少なくとも、“自分で自分にそう言い聞かせてきた時間の長さ”は伝わってくる。
今日の目的は、この男の感情を断罪することではない。
“立場”と“距離”を確認することだ。
俺はメモをめくり、話題を切り替えた。
「事件当日のことを聞かせてください。
あなたのその日の動きを、夕方から順に」
藤沢は一度、目を閉じた。
まぶたの上に、蛍光灯の光が薄くにじむ。
「その日は、夜まで授業でした。高三の自習監督が終わって……確か七時半頃です。
職員室のロッカーで着替えてから、彼女にLINEを送りました。
“今日、少し会えないか”と」
「返事は?」
「“ごめん、今日は無理。絶対来ないで”と……」
“絶対”。
その一語だけ、藤沢の声にまだ傷のように残っている。
「彼女が、そんな言い方をするのは珍しかったんです。
いつもは、言葉を濁すというか……“今度ね”とか、“また連絡する”とか。
だから、正直、動揺しました」
「それでも、行かなかった?」
「……はい。行っていません。
そのメッセージを見て、しばらく駅の改札前でスマホを握ったまま立ってましたけど……
結局、そのまま電車に乗って帰りました」
「帰宅は?」
「八時半前後だと思います。
予備校を出たのが七時四十五分くらいで、〇〇線で△△駅まで……。
すみません、細かい時間は……」
そう言いながら、彼は慌ててポケットからスマホを取り出した。
「位置情報とか、履歴を見れば……確認できるかもしれません。
ほら、ここに通話記録と……」
アルバイを“作る”というより、“掴みにいこうとしている”焦りだった。
俺は手を挙げて制した。
「時間の確認はこちらでもします。
帰宅後は?」
「妻と子どもと夕食を食べて……ニュースを見て……。
その日は早めに寝ました。十時前には布団に入ってたと思います。
証明は……妻と子どもが、してくれるはずです」
そこで、藤沢の声がいきなり沈んだ。
「……ただ、その、もし聞き取りをされるなら……
できれば、“関係”のことには、あまり触れないでいただけると……」
「不倫が知られるのを恐れている?」
「……正直に言えば、はい」
観念したように、彼はうつむいた。
「もちろん、事件のことが一番大事なのは分かってます。
でも、僕のところは持ち家で、ローンもあって、子どももまだ小さくて……。
報道でも名前は出ていない。
……このまま“第一発見者”で済むなら、それが一番いいと、どこかで思ってしまっているのも事実です」
それは狡さでもあり、切実さでもあった。
“逃げたい”というより、“守りきれるものがどれだけ残っているか”を必死に数えている人間の顔だ。
「分かりました」
俺は短く言った。
「あなたの立場は第一発見者。
だが、必要な聞き取りや確認の範囲を決めるのは、こちらです。
そこは、理解しておいてください」
「……はい」
少しだけ、肩の力が抜ける。
その脱力の仕方が、逆にこの男の“線の細さ”を際立たせていた。
──藤沢 賢一。
この男は、何かを“強く欲して”ここにいるわけじゃない。
「失いたくないもの」から目を逸らし続けた結果、ここまで流されてきた。
そういう種類の大人だ。
……こういう“頼られる側の大人”を見ると、昔のことを、少しだけ思い出す。
俺は、わざとそこで思考を切って、メモの最後の項目に目を落とした。
「もう一点、確認しておきたいことがあります。
被害者宅の寝室で、男物の香水が見つかっています。“ブルー・サルト”という銘柄です。心当たりは?」
藤沢の視線が、ほんの一瞬だけ、俺の目をかすめた。
「ああ……それ、多分、僕のです」
「あなたの?」
「はい。あの部屋に、僕が置いていったものです。
彼女のほうから、“ここに置いておいて”と言われました」
喉の奥がひとつ鳴る。
「彼女に言われたんです。
“うちに来るときは、必ずシャワー浴びて。
……体の匂いとか、石鹸の香りとか、それだけならまだいいけど、……後に、残り香があると困るからって。
それで、“これつけたら、誤魔化せるから”って……」
「だから、部屋に置きっぱなしにしていた?」
「はい。いちいち持ち帰るほうが、かえって不自然だと思って……。
僕も……それを“合理的な判断”だなんて、自分に言い訳してました」
そこには、“彼女に言われたから”と“自分で選んだ”のあいだで揺れる、みっともない大人の意識が、そのまま滲んでいた。
俺は軽くうなずき、手帳に印をつける。
香水。
肉体関係の継続を裏付ける物証。
藤沢はそれを否定せず、驚きもせず、静かに引き受けた。
──この男は、いまのところ、嘘はついていない。
だが、「正直であること」と「すべてを語ること」は別物だ。
「……ありがとうございます。いったん、ここまでにしておきます」
そう告げると、藤沢は椅子の背にもたれかけ、深く頭を下げた。
額に浮かんだ汗が、一筋だけこめかみをつたっていた。
面会室を出た直後、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
鑑識主任・伊達からだ。
「はい、遠藤です」
『悪いな、立て込んでるとこ。現場処理ひと通り終わった。ざっと報告入れるぞ』
「頼む」
『まず凶器な。現場に残ってた包丁の柄から、遠野 湊の指紋を検出。
左手の親指と人差し指。かなり鮮明だ』
「……それだけで、だいぶ充分だな」
『まだある。防犯カメラ。アパートのエントランスと二階廊下。
21時02分、遠野がイン。帽子なし、マスクなし。顔、ばっちり。
で、21時17分にアウト。そのあいだ、他の住民の出入りはゼロ』
「十五分……」
『ああ。あと、被害者のベッド下から催涙スプレーを一本。
キャップ外れた状態で転がってた。ガス残量と付着状況から見て、事件前後に噴射されてる。
筒本体には被害者の指紋。──握って使ったのは、間違いないな』
俺は廊下の壁にもたれ、短く息を吐く。
「……分かった。正式な報告書と映像データは?」
『明日の朝、課長経由で回す。映像はもうクラウドに上げてある。暇見て確認しとけ』
通話が切れる。
手帳の端に、さらりと書き足す。
──指紋、防犯カメラ、催涙スプレー。
──すべて“手記通り”。
捜査としては、これ以上なく“きれいな”一致だ。
だが、あまりに整いすぎていること自体が、逆に俺の警戒心を刺激していた。
斎木の待つ捜査室に戻ると、彼はファイルの山を片付けながら顔を上げた。
「……どうでした?」
「凶器の柄から遠野の指紋。エントランスと廊下のカメラに、入室と退室。
時間も、手記の記述とほぼ合ってる。
それと、ベッド下から催涙スプレー。使用済みだ」
斎木が、ペンを持ったまま固まる。
「……じゃあ、“銀の筒”って、あれ、本当にあったんですね」
「少なくとも、物としてはな。
“泣いた──彼女は銀の筒を取り出そうとしていた”
手記の冒頭のあの一文。
あれは、誇張でも比喩でもなく、事実そのものだった」
斎木は資料をそっと机に置き、椅子の背にもたれた。
「……おかしいですよね」
「何がだ」
「いや、その……
言ってることは全部、本当なんですよ。指紋も、カメラも、道具も。
なのに、なんかこう……“読まされてる”感じが抜けないというか」
「教授も言ってただろ。
“事実と事実のあいだの空白で、読者に物語を組み立てさせる”ってやつだ」
俺は、遠野の手記の最初の数ページを頭の中でめくる。
──泣いた。
──銀の筒。
──喉が詰まり、息がうまく吸えなかった。
事実と事実のあいだ。 何も書かれていない“隙間”で、読者に物語を組み立てさせる技法。
遠野は、そこすら設計していた。すべてが「そのように受け取られる」ように。
ただ──
唐突に現れた銀の筒だけは、彼も想定していなかったのかもしれない。
だとすれば、彼女はなぜ── 催涙スプレーを持ちながら、彼を家に招き入れたのだろう。
“拒絶する意志”と、“受け入れてしまった過失”。
そのあいだで、彼女は──ひとり、揺れていたのかもしれない。
「次は、被害者のご家族に会う」
俺は言った。
「彼女が、誰に何を話して、何を話さなかったのか。
“物語の外側”にいた人間の証言を、聞いておく必要がある」
斎木は小さくうなずく。
「……はい」
捜査室を出ると、窓の外には、うっすらと雲がかかっていた。
雨はもう上がっている。だが、アスファルトにはまだ、ところどころに水たまりが残っていた。
第2章 証言 ─小学時代─
被害者家族のところへ行く前に、どうしても引っかかっていることがあった。
遠野 湊という人間が、なぜここまで「語らないこと」に執着するようになったのか。
場面緘黙、文学への偏愛、手記の“沈黙の技術”──。
それらの根っこに、例の「小学生時代の告発文」があるのだとしたら。
俺は教育委員会経由で当時の関係者にあたり、録音した聴取の書き起こしに目を通していた。
***
[元担任・電話聴取/書き起こし抜粋]
「……はい、遠野くん。覚えています。五年生と六年生、二年間担任しました。
“いじめがあったのか”というご質問ですよね。うーん……正直に言うと、今でも、はっきり“あった”とも、“なかった”とも言い切れないんです。
あの手紙──告発文ですね──が校長のところに届いたとき、私も初めて知ったんです。
『○年○組の○○くんに、ひどいいじめを受けています。先生は気づいているはずです』
そんな文面だったと思います。
校長からは、かなり強く叱責されました。“なぜ気づけなかった”“君のクラスで何が起きているんだ”と。
でも、私の見ていた教室は……そうですね、“深刻ないじめ”というほどには見えなかった。
もちろん、からかいや小さなトラブルはありましたよ。
体操服が別の机に移っていたとか、上履きが隅に置かれていたとか。
でも、呼べば誰かが『あ、すみません』って持ってきて、みんなで笑って終わる、みたいな。
当時の私は、それを“子ども同士のじゃれ合いの延長”ぐらいに受け止めてしまっていたんです。
遠野くん自身は、無口でしたが、休み時間には男子の輪に入ってましたし、体育もふつうに参加していました。
場面緘黙の診断については、お母さまから事前に聞いてました。
『人前で話せなくなることがあるので、指名は少し考慮してほしい』と。
だからこそ、“助けなきゃいけない子”という意識は、むしろ持っていたつもりなんです。
告発文が見つかったあと、学年全体でアンケートをとりました。
名指しされた子にも個別に話を聞いて、『いじめのつもりはなかった』『ふざけていただけ』『他の子にもしていた』と、みんな口をそろえた。
……今思えば、それ自体が“言い訳”だったのかもしれませんけれど。
校長からは、『被害者が“いじめだ”と言っている以上、それはもういじめだ』『君はSOSを取りこぼしたんだ』と。
あの言葉は、今でも胸に刺さっています。
でも一方で、教室で見えていた光景だけを思い出すと、“そこまでひどい状況だった”という実感がどうしても持てなくて……。
きっと私は、“何も語らない”ことが、どれほどのサインになり得るかを、ちゃんと理解できていなかったんだと思います。
保護者面談でお母さまが『あの子は引っ込み思案なので』とおっしゃって、
私は“手のかからない子”と受け止めてしまった。
本当は、手をかけるべきだったのかもしれないのに。
……すみません。結局、“私にはあのとき、そう見えていた”という話しかできませんね。
でも、少なくとも、彼の中では“いじめだった”のかもしれない。それは、今なら想像できます」
***
[元同級生・面談/書き起こし抜粋]
「え、遠野? ……ああ、湊か。久しぶりに名前聞きました。
いじめ、って……まだあの話、気にしてるんすか?
いや、マジで、“いじめ”って感じじゃなかったんですよ、当時のうちらの感覚だと。
あいつ、あんま喋らないし、おとなしかったけど……
ドッジボールとか普通に混じってたし、一緒にゲームの話もしたし。
机をちょっとずらしたり、上履きを裏返したり──それは、やりました。
でも、そのときも、みんなで『うわーやめろよ』って笑って、その場で戻してました。
他のやつにも同じことしてたし、“標的”みたいな意識は、ほんとになかったんすよ。
あの告発文のこと、めっちゃ覚えてます。
ある日いきなり親に学校呼ばれて、『お前が遠野くんをいじめてるって書かれてる』って。
職員室に呼ばれたら、先生と校長と親が揃ってて、『どういうつもりなんだ』みたいな空気で。
『はあ?』って感じで、正直、頭真っ白になりました。
……『そんなつもりじゃなかった』って、何回も言ったんすけどね。
でも、向こうは『“いじめられた”って書いてあるんだから、それが事実だ』って。
こっちの言い分は、全部“言い訳”。
そのあと、クラスで“いじめは許さない”みたいな話があって。
みんな、なんか俺を見る目が変わった気がした。
遠野とも……距離できましたね。
謝りに行ったんですよ、一応。『ごめん、嫌だった?』って。
そしたら、『……うん』って、それだけ。顔もあんまり見てくれなくて。
あそこから、クラスの空気がすごく重くなって。
『ふざけてただけなのに』って、ずっと思ってました。
今になって振り返ると、やりすぎてたとこもあったのかもしれないって、頭では分かってるんですけど……
全部“いじめ”ってラベル貼られて、俺だけが悪者みたいになったのは、正直、今でも納得いかないっす。
もし遠野が本当にしんどくて、“いじめだ”って感じてたなら……悪かったのかもしれない。あいつ、何考えてるか、最後までよく分かんなかったし。
でも……まぁ、なんていうか、全部いまさらなんですけどね」
***
[友人・神谷/電話聴取書き起こし抜粋]
「はい、神谷です。遠野くんの件ですよね。
僕ら、小学校のときはけっこう仲良かったんです。クラスは別でしたけど、図書室でよく会って。
彼、いつも同じ棚のところに座って本読んでて。僕も読書好きだったんで、自然と話すようになりました。
最初は、好きな作家の話とかですね。“この書き方がすごい”とか、“ここで何も書かないのがいい”とか。
ちょっと難しいこと言ってるなって思いながらも、楽しそうにしゃべるから、聴いてるのは好きでした。
ふだん教室ではほとんど喋らないのに、本の話になると、急に言葉数が増えるんです。
“いじめ”……ですか?いえ、僕は、直接その場を見たわけじゃないんで。
同じ学年だからいじめの噂は聞きましたけど、“○組でなんかあったらしい”くらいで。
ただ、放課後になると、彼、よくうちに来てました。ゲームしたり、漫画読んだり。
『家にいなくても変わらないから』って。冗談っぽく言ってましたけど、あんまり冗談には聞こえなかったですね。
今でも覚えてるのは……ある日、うちでゲームしてるときです。
ボス戦か何かで盛り上がってたときに、急に、画面から視線を外して、『嫌なやつをハメてやったんだ』って言ったんですよ。
“ハメて?”って聞き返したら、彼、ちょっとだけ笑って、
『うん。もう俺だけが悪いわけじゃないから』って。
それ以上は何も説明してくれなくて、『ゲーム続けよう』って、話を切られました。
そのときは、正直、意味が分からなくて。“なんか怖いな”って印象が残ってます。
そのあと、中学に上がって、僕は部活で忙しくなって、彼とは疎遠になっちゃったけど……
……遠野くん、あいつ、何かやったんですか──
***
録音を止めて、しばらく目を閉じた。
担任、同級生、友人。
三つの証言は、互いに少しずつ噛み合いながらも、決して一つの絵には収まらない。
深刻ないじめが「なかった」とは言い切れない。
しかし、「あった」と断言できるほどの材料も、彼らの目には映っていなかった。
ただ、一つだけ、三者の言葉の中で共通して浮かび上がるものがある。
──遠野 湊は、“言葉を使うことで状況を変えた”という手応えを、どこかで確かに得ていた、ということだ。
告発文が校長の手に届き、
大人たちが動き、
「加害者」とされた同級生の立場が一気にひっくり返る。
担任にとってそれは、「見逃していたSOS」を突きつけられた出来事。
同級生にとってそれは、「ふざけていただけなのに、いきなり加害者にされた」理不尽。
友人・神谷にとってそれは、「嫌な奴をハメてやった」と、彼がひそかに口にした“勝利宣言”の正体。
──手記の中で、遠野はその出来事を「いじめからの解放」として語っている。
だが、証言を重ねていくと、それは同時に、「文字による最初の“構造の書き換え”」でもあったように見えてくる。
言葉を書き、
誰かに読ませ、
世界の力学を変える。
それは、傷ついた子どもにとっては、たしかにひとつの救いだ。
だが同時に、「他人の人生を一行の文章で塗り替えてしまうこと」でもある。
その両義性に、彼は早い段階で触れてしまったのかもしれない。
*
俺がNPOに勤めていた頃、小学生の女の子から、震える文字で書かれた手紙が届いた。
『お父さんが怒ると怖いです。
お母さんは見て見ぬふりをします。
どうしたらいいですか』
窓口のスタッフと一緒に学校や児童相談所に繋いで、
最終的にその子はいったん親元を離れることになった。
後日、彼女からもう一通手紙が届いた。
『あの手紙を出してから、世界が変わりました。
おとなは話を聞いてくれないと思っていたけど、
聞いてくれる人もいるって分かりました』
あのとき、俺は正直、感動していた。
言葉が現実を動かした、と思った。
その感触に酔ったまま、俺は事件の背景を“構図”として語りたがるようになった。
遺族の前でさえ。
警察に入って、まだ三年目くらいの頃だ。夫の暴力の末に、若い女性が死んだ事件があった。
現場検証のあと、遺族への説明の場で、俺は余計なことを口にした。
「加害者もまた、昔から暴力の連鎖の中にいた可能性があって──」
「この家庭の中には、前からこういう力関係の歪みが……」
推理小説の“事件の背景”みたいに、きれいに整理してしまったのだ。
帰り際、廊下の端にある喫煙所で、当時の係長に呼び止められた。
「おい遠藤。さっき遺族の前で、何をやったか分かってるか?」
声のトーンは低いが、怒鳴り声ではない。
そのぶんだけ、余計にこたえた。
「……すみません。説明が、回りくどかったですよね」
なんとかそう答えると、係長は煙を吐きながら首を振った。
「違う。回りくどいだけなら、まだいい」
しばらく黙ってから、灰皿に煙草を押しつける。
「お前、自分の中で“きれいな話”にまとめようとしたろ。あの場で」
言葉が詰まる。
図星だった。
係長は窓の外を一度見やり、それから俺のほうに視線を戻した。
「事件のまわりにはな、勝手に物語がくっつく。新聞もテレビも、世間もだ。
……俺たちだって、油断するとすぐ“起承転結”で整理したくなる」
そこで、ほんの少しだけ声を落とした。
「でもな、死んだ人間にまで物語を与えるな。
あれは、お前が“分かった気になる”ための材料じゃない」
その一言だけで、足元がすっと冷える感じがした。
NPO時代から事件に“構図”を見つける癖が染み込んでいたのだろうか。
それからは、事件に“うまくまとまりそうな物語”を見つけるたび、自分を疑うようになった。
遺族の前でも、調書の中でも、その調子を二度と出さないと決めた。
その俺の前に、
“自分の物語で他人の死を構造化した”手記を書いてきた青年がいる。
文学としては、よく出来ている。
だからこそ、心底、警戒したくなる。
──もし、あの告発文が書かれる前の教室に、今の俺が立っていたら、どうするだろうか。
黙り込んでいる少年。
ふざけているつもりの同級生。
見えているようで、何も見ていない大人たち。
その真ん中で、俺は何を言えたのか。
「手紙を書いていい」と背中を押したのか。
「書かなくてもいい」と隣に座ったのか。
沈黙している子どもを。
言葉にならない痛みを──
掬い上げることができたのだろうか──
第2章 証言 ─家族─
宇都宮の駅を出ると、午前の光が斜めから街をなでていた。
東京よりわずかに湿った空気。街路樹の葉には、まだ昨夜の水滴が残っている。
斎木と並んでタクシーに乗り、住宅街へ入っていく。
今日の目的地は、被害者──柚木 遥の実家だ。
遠野の手記が描いた「柚木遥」と、家族が知る「柚木遥」。
その二つが、どこまで同じで、どこから違うのかを確かめる必要があった。
現場の証拠も、防犯カメラも、凶器の指紋も、遠野 湊を指している。
だが、遠野本人は語らない。だからこそ、こちらは“読むしかない”。
手記を。そして、彼女を知る人間たちの言葉を。
白い塀に囲まれた二階建ての家が見えてきた。
窓の大きなリビングにはレースのカーテン。塀越しに見える庭は手入れが行き届いている。
「……立派な家ですね」
斎木がぽつりと言った。
週末ごとに散らかったおもちゃと格闘している男の口から出ると、その一言には、少しだけ現実感のある羨望が混じって聞こえた。
門扉を開け、玄関に入る。
正面の棚には写真立てが並んでいた。ランドセル姿の少女。家族三人で海を背に笑っている写真。
その一角に、最近の遥と思しき写真──肩まで伸びた髪、控えめな笑み。その瞳の奥には、子どものころの写真にはなかった影が、うっすらと沈んでいた。
無邪気な笑顔と、影を帯びた横顔。
そのあいだにある空白を、これから埋めていかねばならない。
応接室に通されると、母親の柚木 佐代子と、父親の柚木 浩一が待っていた。
佐代子は五十代半ば。きちんとセットされた髪に、控えめだが上質なアクセサリー。
立ち居振る舞いには、お嬢様育ち特有の「型」のようなものが見えた。
ただ、その整った所作の端々に、緊張と苛立ちが混じっている。
浩一は、白いシャツにグレーのジャケット。
医者らしい落ち着いた身なりだが、腕を組んだまま、視線だけこちらと写真立てのあいだを行き来させていた。
「今日は、わざわざ……」
佐代子はそう前置きしつつ、すぐ本題に触れた。
「でも、まだ何も“決まって”いないんですよね? ニュースでは、“サークルの友人”が疑われているって……」
「ええ。今は、ある人物から提出された“手記”をもとに、事実関係の確認を進めている段階です」
できるだけ柔らかい調子で答える。
「その手記の中で、お嬢さんのことが詳しく書かれていまして。
そこに描かれた“遥さん”と、実際の遥さんが同じなのか──それを確かめたくて参りました」
「……そうですか。遥のこと、何か分かるのなら……」
佐代子は一度うなずき、膝の上で組んだ手をぎゅっと握りしめた。
浩一は黙ったまま、俺たちを観察している。
「まず、最近の遥さんのご様子について、お聞かせいただけますか」
問いかけると、佐代子が先に口を開いた。
「最近は……あまり連絡がなかったんです。LINEはくるけれど、電話はしたがらなくて。
こっちからかけても“あとで”って切られてしまうことが多くて。
顔を見たのは、お正月に一度帰ってきたときだけです」
「一か月ほど前ですね。その時の様子は?」
「少し、疲れているように見えました。……でも、“誰かと何かあった”という感じではなくて。
“サークル誌の編集で忙しい”“就活の準備もしなきゃ”って。あの子、昔から全部自分で背負う子でしたから」
そこで言葉を切り、佐代子は小さく息を吐いた。
「……もっとちゃんと聞いておけばよかった。
そうすれば、こんなことにならなかったのかもって、何度も思います」
自責の言葉に、しかし“自分は知らされてなかった”という色も混じっている。
「お嬢さんが一人暮らしを始めたのは、いつからですか」
「高校を卒業してすぐです。都内の予備校に通うために。
本当は、県内の医進コースに行かせるつもりだったんですけど……あの子がどうしてもって」
“どうしても”のところだけ、ほんの少し声のトーンが変わった。
「その頃から、あまりご家庭のことは話さなくなった?」
「そうですね。サークルに入ったとか、カフェでバイトしてるとか、その程度で。
誰と仲がいいのかとか、どんなふうに過ごしているのかとか……あまり詳しくは」
佐代子は、ソファの肘掛けに細い指を置いた。
淡い色のマニキュアが照明を反射して、場に似つかわしくない華やぎを帯びる。
一方の浩一は、腕を組んだり解いたりをくり返し、落ち着かない様子だった。
斎木がメモから顔を上げる。
「……もう少しだけ、遥さんの交友関係について伺ってもよろしいでしょうか」
「ええ、分かる範囲なら」
佐代子はすぐに答えた。
「娘、あまりそういう話を私にはしない子でした。
友達はいたと思いますけど……学校で何があったとか、詳しいことはほとんど話さなくて」
「特定の方と親しくしている様子は?」
「……男の人と電話で話しているところは、何度か見ました。
予備校でお世話になった先生とは、ちょくちょく会っていたみたいです」
「それは、お嬢さんから“相談している”と?」
「ええ。“勉強の相談”だって。……母親の勘ですけどね」
そう言いながら、佐代子の目がわずかに細くなる。
浩一は、それに対して何も言葉を挟まなかった。
「娘、昔から大人の男の人に懐きやすいところがあって。何度も注意したんですけど、聞かない子で」
責任を引き受けるように見せながら、「注意はした」というアリバイを積み上げる口調だった。
「……遠野 湊さんという、同じ大学の方のことは、ご存じでしたか」
佐代子は首をかしげる。
「名前は……どこかで聞いたような。でも、その人がどういう方かまでは」
そこで、ようやく浩一が口を開いた。
「“文芸の先輩”って、言っていたことがあった気がします。
スマホの画面を横目で見たときに……“ミナトさんがね”と。
ただ、それ以上は、こちらから訊かなかったので」
「恋人のような関係だとは?」
「……うちの娘、そういうことを話す性格ではありませんでした。
私たちが知らなかっただけかもしれませんが……“あったとしても、娘の問題だ”と、当時は思っていました」
佐代子がそう言って、会話を閉じようとする。
その言い方には、「私の責任ではない」と線を引きたい気配があった。
「お嬢さんが、何か悩んでいる様子は?」
斎木が質問を切り替えると、浩一が少し間を置いて答えた。
「……夜、部屋から泣き声が聞こえたことがあります。
誰かと電話していたのか、一人で泣いていたのか……そこまでは分かりませんが。
日中は、普通に振る舞っていました」
佐代子が言葉を継ぐ。
「“誰かとケンカしたの?”って聞いたら、“違うよ”って笑って。
あの子、妙に強情なところがあって……」
心配と、どこか「面倒なことは増やしたくない」という気配が、同じ声の中に同居していた。
この家には、たしかに愛情がある。
だがそれは、「この家の子ども」としての枠組みを守る方向で働いていて、
娘の本音に踏み込むことには、どこか躊躇があったように見えた。
「ありがとうございます。もう少しだけ、お付き合いください」
俺は姿勢を正し、少しだけ角度を変えて質問を投げる。
「大学に入ってから、遥さんに“交際相手がいる”と感じたことは?」
佐代子は目を泳がせ、それから肩をわずかにすくめた。
「……それが分かっていれば、こんなことには、って何度も思いました。
恋愛は自由ですし、大学生ですから。
でも、あの子、“絶対に”私たちには言わなかったんです。
テストの点も、進路も、いつの間にか全部自分で決めてしまって。……恋愛のことなんて、なおさらですよ」
浩一は、眉間に指を当てたまま、慎重に言葉を選んでいる。
「ただ……誰かに心を許している感じは、ありました」
「といいますと?」
「年末、リビングで話しているとき、娘がスマホでメッセージを送っていて。
ふと、名前が目に入ったんです。“ミナトさん”と。
……それだけで、恋愛かどうかまでは分かりません。
でも、表情から、“誰かを大切にしているんだな”とは感じました」
「そのことを、直接尋ねたりは?」
佐代子が鼻で笑うように、短く息を吐いた。
「“親に恋愛の話なんて、するわけないでしょ”って言われました。“彼氏でもできたの?”って冗談で聞いただけなのに」
その「冗談」が、どれだけ刺さる言い方だったのか──当人は、自覚していないようだった。
「……でもまあ、少しは楽しそうでしたよ。何かに夢中になっているというか。
頭の中でずっと何か考えてるみたいで。……私は、正直、あまり深入りしたくありませんでしたけど」
俺は斎木と目を合わせる。彼も小さくうなずいた。
遠野と柚木。
ふたりの関係は、少なくとも“家族から見て明白な恋人関係”ではなかった。
だが、“誰か”として、どこかに存在していたのは間違いない。
問題は、彼女自身がその関係をどう認識していたかだ。
「……少し聞きにくいことですが。遥さんが“恋愛”で悩んでいた形跡は、何か覚えがありますか」
斎木が問うと、佐代子はしばらく口をつぐみ、それから観念したように息を吐いた。
「……机の引き出しに、手紙みたいなものがあったんです。
覗くつもりはなかったんですけど……目に入ってしまって。
内容を全部読んだわけじゃありません。ただ、“彼と話せなくなるのが一番怖い”って、そう書いてありました」
「“彼”が誰か、名前は?」
「ありませんでした。でも、私は予備校の先生だと思いました。
ずっと連絡を取り合っていたって聞いていましたし」
藤沢──予備校講師の名が、ここでも浮かび上がる。
「その先生について、ご両親としては?」
浩一が、腕を解きながら、低い声で答えた。
「……教師という立場で、そういう関係になるのは、倫理的に問題だと考えています。
実際にどこまであったのかは、分かりませんが」
佐代子も、すぐに頷いた。
「わたしも、いい気はしませんでした。でも娘は、“ただの相談相手”だって言い張って。
問い詰めれば問い詰めるほど、余計に口を閉ざす子で……」
俺は、そっと手帳を閉じる。
ここまでで分かったのは、「彼女が何を語ったか」以上に、
「何を語らなかったか」だ。
感情を言葉に乗せるのが得意ではない。
それでも、誰かに感情を預ける瞬間はあった。
だが、その託し方は、“第三者には見えない形”で行われていた。
そして、おそらくは家族の前でも──。
「──お嬢さんが、年上の男性と“特別な関係”にあったと、ご家族として実感されたことはありますか」
なるべく刺を立てない言い方を選ぶ。
だが、この問いが投げられた時点で、応接室の空気にひとつ“線”が引かれたことを、全員が察していた。
佐代子の唇がすぼまり、いったん言葉を拒むように揺れた。
それでも数秒後、小さく息を吐き出してから、答える。
「……ええ、たぶん、あったんだと思います。“そういう関係”が」
「その“相手”は」
「……予備校の先生。藤沢さん、ですよね?」
問いに対して、“名指し”で返ってきた。
それは、彼女の中で疑いがとっくに確信に変わっていた証拠だった。
「どうして、そう思われましたか」
「去年の夏、少しだけ帰省したときでした。
娘がソファでスマホをいじっていて……たまたま、“藤沢”って名前と、“会えないか”って短い文が見えたんです。
“誰? 藤沢さんって”って聞いたら、“ただの昔の先生”だって。
すごく軽い調子で」
佐代子の目が細くなる。
その視線には、“娘を奪った相手”への憎しみと同時に、
“自分の家の名を汚した存在”への怒りが混ざっていた。
「でも、嘘ついてるときの顔って、分かるんですよ、母親には。
目が、全然笑ってませんでしたから」
グラスの水をひと口飲み、口紅の跡をナプキンで丁寧に拭う。
「そのときから、“そういう関係があるんだろうな”って、思い始めました」
「反対は?」
「……もちろん。絶対に許せなかった。
そんな“大人の男性”と、“学生の女の子”が、“ただの相談”で繋がるわけないじゃないですか」
言葉に込められる圧が、わずかに増す。
「しかも、あの人──既婚者なんでしょ?」
「報道はしていませんが、確認は取れています」
「最低ですよ、そういう人。自分の家庭がありながら、うちの娘に手を出すなんて」
怒りは、藤沢だけでなく、娘自身にも向かっていた。
「……それに、娘も娘です。なんで、そんな相手に──」
言葉は途中で途切れた。
浩一のほうへ一瞬、鋭い視線が投げられる。
浩一は、それを受け止めるように目を伏せ、しばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……遥は、優しい子でした。
優しすぎて、誰かの期待に応えようとしてしまう。
“弱っている”と感じると、寄り添ってしまう」
その言葉の途中で、彼は一度だけ、佐代子を見る。
「予備校に行ったのも、そうです。それが結果として、よくない形になってしまったのかもしれません」
斎木が静かにメモを取りながら、質問を引き継いだ。
「……それは、藤沢氏が、精神的に遥さんに依存していた、ということでしょうか」
「……ええ。娘は“頼られている”と感じたんでしょ。でも、あの人にとっては、“都合のいい逃げ場所”だったと、私は思っています」
佐代子の口調が、わずかに震えていた。
「でなきゃ、どうして、娘を……」
言葉の先は濁された。
母親としての怒りと恥、そのどちらともつかない感情が、彼女の発言には絡みついていた。
だが、はっきりしていたのは──
柚木遥は、“既婚男性との関係”を、家族には明かさなかった。 けれど、それは“知られたくなかった”というより、“語れなかった”のではないか。
なぜか。 それは、相手が“倫理的に問題のある立場”だったからというだけではない。 彼女自身も、“語るに足る関係”として自信を持てなかったのではないか。
そう考えると──
遠野に対しても、“語らなかった”ことには、同じ背景があった可能性がある。
恋愛ではない。けれど、“特別”な相手。 期待に応えるように、彼の言葉に反応し、詩に感想を返し、やがて何かを共有しているような“錯覚”が生まれた。
手記には、それが“想いの積み重ね”として描かれている。 けれど、その“積み重ね”は、一方通行だったのかもしれない。
佐代子は、話しながら時折、“自分の娘がそんなふうに見られていたこと”そのものに、恥のような感情を混ぜていた。
「……正直に言います。わたし、“不倫”なんて、信じたくなかった。でも……でも、もし本当だったとしても、なんで娘ばかりが……」
その言葉は、被害者の母としてというより、自分の“家の名前”が汚されたことへの怒りに近かった。
そして──
その怒りの矛先は、必ずしも“加害者”だけに向いていない。
夫に対しても。
「……あなたが、"どこにも行かなかったら"、こんなことにはならなかったんじゃないの?」
佐代子の言葉が、鋭く部屋を貫いた。
浩一は答えなかった。 ただ、少しだけ視線を床に落とし、受け止めるように口元を結んだ。
家庭の中にも、“語られなかったこと”が、いくつも残っていた。
俺はメモ帳にひとこと書き足した。
「“語らなかった”のではなく、“語れなかった”」 「選ばなかったのではなく、“選べなかった”」
その不自由さが、手記の中では“美しい沈黙”として描かれている。 だが、それは実際には、もっと現実的で、もっと無力な“抑圧”だったのではないか。
*
宇都宮駅前の喫茶店で、斎木と遅めの昼食をとっていた。
窓の外では、駅前ロータリーをぐるぐると同じタクシーが回っている。室内は暖房が効きすぎていて、コートの襟が少し邪魔だった。
サンドイッチを半分ほど残したまま、斎木はカップのコーヒーを指先で静かに回している。
「……なんか、疲れましたね」
「家族聴取なんて、だいたいこんなもんだ」
そう答えたものの、さっきまでの応接室の空気が、まだ指先に残っていた。
“語らなかった”のではなく、“語れなかった”。
“選ばなかった”のではなく、“選べなかった”。
メモ帳の端に書いた言葉が、頭の中で何度も反芻される。
「この間も話しましたけど……」
カップの縁を見つめたまま、斎木が口を開いた。
「遠野の手記を読んだ人は、きっと、可哀想な青年が起こした“突発的な犯行”だって思いますよね」
「そうだな」
「……でも、それって、“誤読”なんじゃないですかね」
そのひと言に、スプーンを持つ手が止まった。
窓ガラスに、自分たちの姿がうっすらと映っている。
手記を読み進めるほど、遠野 湊という人物の“輪郭”は濃くなっていく。
だがそれは、“彼が描こうとした輪郭”であり、さっきの家族が語った彼女の姿とは、どこか噛み合わない。
スマートフォンが震えた。
鑑識の伊達から、「被害者スマホ解析完了」とだけ通知が出ている。
内容は簡潔だった。
──被害者のLINE履歴の復元完了。
──遠野とのやり取り:ほぼ文学・サークル関連のみ。
──藤沢とのやり取り:感情むき出しのメッセージ多数。
──友人とのチャットに、遠野の名は一度も出てこない。
画面を閉じながら、俺はまとめる。
──つまり、遠野 湊は“心の中”にはいたかもしれないが、“現実”には、彼女のそばにいなかった。
「何かありました?」
斎木が顔を上げる。
「スマホの解析だ。……ほとんど藤沢の話ばかりだった。遠野の名前は、出てこない」
「……そうですか」
斎木は、しばらく黙ってコーヒーを見つめていた。
カップの縁に映る照明が、ゆっくり輪を描いて揺れる。
少し間を置いて、俺は口を開いた。
「たとえば」
俺はカップを指で押し、止まった輪をもう一度回す。
「彼女──柚木遥の感情について」
手記の中では、彼女はたびたび「微笑み」、「瞳を潤ませ」、「言葉を選びながら自分の詩に耳を傾けた」ことになっている。
そのすべてが、“自分に惹かれていた証”として、丁寧に書き込まれていた。
けれど──
「……なぜ、そこまで詳しく書く必要があったのか」
自分でも驚くくらい、声が素直に出ていた。
斎木が少し眉を上げる。
「え?」
「いや。手記にある、“泣いた”って描写があっただろ。『僕は泣いていた──彼女は銀の筒を取り出そうとしていた』」
「ああ、催涙スプレーの場面ですね」
「そうだ。あれは生理的な反応だ。目に入れば誰でも涙が出る。防御の反射であって、感情じゃない」
コーヒーの表面に、店内の照明がふたつ歪んで揺れている。
「なのに、彼は“泣いた”と書いた。まるで、自分が感情的に涙したかのように」
斎木の目が細くなる。
「……読ませるために、ってことですか」
「おそらくな。読者──この手記を読む誰かに、“感情の涙”として受け取らせたい。だから、あえてそう書いた」
スプーンでカップを一度だけ鳴らし、口元に指を当てる。
「自分が泣いたのも、彼女が自分に惹かれていたのも、ぜんぶ“感情の物語”として読ませるための仕掛け。悲しみ、孤独、断絶、そして衝動。……でも、それがもし、“設計された情緒”だとしたら?」
斎木が、ゆっくりと頷いた。
「確かに……『文学的な手記』って最初は思いましたけど、これ“文学”というより、“演出”なのかもしれませんね」
「遠野は、手記の中で柚木遥の“心情”を書き続けている。だが、さっきの家族の話やスマホの履歴を見る限り、彼が見ていたのは現実の彼女じゃない。“彼の中の彼女”だ」
俺は思い返す。手記のあらゆる場面で、彼女はまるで“言葉の中にだけ存在する人形”のように動く。
拒絶も怒りも、はっきりとは描かれない。
ただ、彼に寄り添うように、静かに、そして少しだけ哀しげに微笑む。
「……全部、“揺らぎ”に置き換えてるんだ」
「“揺らぎ”……ああ、教授の言ってたやつですか」
斎木は、メモ帳の隅に走り書きしていた一文を指でなぞる。
〈文学は、揺らぎのメディアだ〉
平間教授の声が、薄くよみがえる。
「……遠野の手記は、真実かもしれない。催涙スプレー、防犯映像、凶器の指紋──語られている多くは、物証と一致している」
「でも、それが、“誤読させるための設計”だったとしたら?」
斎木の声が、ふっと低くなる。
「悲劇の青年と、彼に淡い感情を抱いていた女性。想いがすれ違って、取り返しのつかない夜が来る──」
「それが、“物語”として読み解かれるように、書かれていたとしたら?」
「読む人が、勝手に“同情”して、“理解したつもり”になる」
コーヒーの残りを口に含み、舌の奥で苦味を転がす。
「これは、文学という名を借りた操作だ。誘導だよ。事実の並べ方、言葉の選び方、余白の置き方まで……すべてが、誰かの感情をある方向に“向ける”ためにある」
斎木が背筋を伸ばし、ボールペンのキャップを押し込んだ。
「……署に戻って、もう一度読みましょう。手記を“物語”としてじゃなくて、“誘導装置”として。どこで感情が動かされるようにできてるのか、どこがわざと“曖昧にされている”のか」
「文体を、捜査するんだ」
そう言ったとき、テーブルのサンドイッチのパンは、すっかり乾いていた。
店を出ると、空気がひやりと頬に当たった。
暖房の匂いがコートに残っていて、外の冷たさが余計に際立つ。
宇都宮駅へ向かう歩道は、人の流れが途切れない。
改札前で、母親らしき女が小さな子どもの手を引いていた。
子どもは眠いのか、何度も指を握り直して、離れないことを確かめている。
──さっきまで俺たちが見ていたのは、「離れた」家族の空気だった。
近すぎて、言葉が足りなくなる家。守りたくて、守り方が分からない家。
斎木は、改札の上の発車案内を見上げてから、こちらを振り返った。
「……遠藤さん。今日、先に上がらせてもらってもいいですか。今夜は、家族でちゃんと飯を食いたいんで」
俺は頷いた。
「あぁ。一本早いのに乗れ」
斎木は短く「すみません」と言って、家族連れの波に紛れるように改札へ向かった。
背中が、人混みに吸い込まれていく。
帰れるやつが、帰っていく。
帰れなかった人間の分まで──とは、思わない。そんな資格はない。
ただ、胸の底に残ったものだけが、しつこく形を変え続ける
──悲劇は、語られた通りに起きたのか。それとも、語られた通りに“読む”ように、仕向けられただけなのか。
遠野 湊は、沈黙した。
だが、その沈黙の代わりに、言葉を用意した。
その言葉は、“告白”ではなく、“構築”かもしれない。
その“構築”が、何を求めていたのか──。
それを確かめるために、俺たちはふたたび、手記へと向かっていた。
第3章 読解 ─手記─
「──よくできた文章だと思いますよ。抑制が効いているし、情景描写も細かい」
斎木が、机の上に広げた手記のページを指先でなぞりながら言った。
宇都宮から戻った翌朝。
署の窓は白っぽく曇り、換気口の隙間から冷えた空気が細く入り込んでいた。
斎木の目は、内容そのものというより、“文体”に焦点が合っていた。
俺は軽く頷き、メモ帳を開きながら口を開く。
「そうだな。……ただ、そこが厄介だ。“描かれている感情”が、本当に遠野の内側なのかどうか」
斎木が、顔を上げる。
「演技ってことですか?」
「正確には、“演出”だ」
俺は手記の冒頭に指を置いた。
『その夜、僕は彼女を刺した』
「事実を率直に述べる一文から始まっている。けど、すぐにこう続く」
『包丁の柄は、不思議と温かかった』
『湯気でも、火でもない。もっと根拠のない、体温のような熱があった』
斎木は眉を寄せる。
「これって単に……刺した直後で手が熱かったとか、握りしめてたとか。感覚の記録なんじゃないですか?」
「いや、この感覚描写で、“衝動的だった”って印象を読者に先回りして与えてる。
“計画していた”というより、“気がついたら刺していた”って読ませにきてる」
「……感情を引き出す“作り”があるってことですか」
「ああ。もっと分かりやすいのは、ここだ」
俺は中盤の一節に指を滑らせる。
『そのとき、僕は泣いていた。鼻の奥がツンとし、喉が詰まり、目の奥がじんと痛かった。たぶん、息がうまく吸えなかった』
「“泣いていた”と書いている。だが、これは本当に“悲しみ”の涙か?」
斎木の表情が、かすかに曇る。
「……これが、あれですか」
「そうだ。現場に残っていた催涙スプレー。彼女が倒れる直前、手記にも“銀色の筒を取り出しかけた”って書いてある」
「ということは……」
「催涙剤を浴びれば、誰でも涙が出る。鼻がツンとするし、呼吸も乱れる。
これは“防御反応”だ。“悲しみ”とは限らない」
斎木はしばらく黙り、掌をハンカチでぬぐった。
湿った布が、ぺたりと指に張り付く。
「……でも、“泣いた”って書かれると、つい感情として読んじゃいますね」
「そう。“泣いた”とあえて書くことで、“悲しんでいた”って読みを誘ってる。
何に対して泣いていたのか、その理由は伏せたままな」
「もちろん、悲しみがまったくなかったとは言えない。ただ、“悲しみだけ”だったとも言えない」
「なんか怖いですね、その一語」
「何がだ?」
「“泣いた”って言葉がですよ。読んだ瞬間に、意味をこっちが補っちゃう。悲しいのか、悔しいのか、勝手に色をつけてしまう。……教授が言ってましたよね、“余白ひとつで事実がひっくり返る”って」
斎木は、まだ言葉を探しているようだった。
窓の外では、冷たい風がガラスを叩いている。
音のない衝撃だけが、室内に微かな揺れを伝えていた。
俺は視線を手記に戻し、次の部分を読む。
『心臓の音だけが響いて、すべての時間が遠くなっていく感じがした。』
『まるで、自分が映画の中にいるみたいだった』
「心拍数の上昇、現実感の希薄化。……これも、“動揺していた証拠”として読ませやすい」
「でも、こういう反応って──」
斎木が、こちらの言葉をなぞるように続ける。
「突発的でも、計画的でも、初めて人を刺したら誰でも起こりますよね」
「ああ。だから“計画性を否定する根拠”にはならない。
むしろ、“計画的でもこうなる”って前提で書いてると読める」
斎木が、息を少し呑む。
「……“動揺”と“突発性”はイコールじゃない……」
「そういうことだ」
捜査室の奥では、誰かがコピー機のふたを乱暴に閉める音がした。
書類の紙をめくる音と、キーボードを叩く音が重なる。
日常の雑音の中で、俺たちの前には、白い紙束だけが静かに広がっていた。
俺は、プロローグの終盤に目を滑らせる。
『部屋には、換気扇の音が残っていた。風が細く鳴っていた。夜の街の隙間をすり抜けていくような音だった』
「静かな描写だ。“時間が止まっている”ようにも読める。だが、この直後に──」
俺はページのさらに先を指さす。
『バレたら、まずい』
「ここで思考は“逃走”に切り替わってる。“混乱している”ように見せかけて、やっていることは現実的だ」
「血を拭いたり、家具を元の位置に戻したり、外の様子を確認したり……」
「ああ。泣きながら、そこまで段取りよく“片づけ”ができる状態って何だと思う?」
斎木は、口をつぐんだ。
「感情に呑まれているってより、“舞台の後片付け”をしている演者だ。
突発的な“感情の物語”として読ませながら、裏側では淡々と準備している」
「つまり、“文学的な手記”じゃなくて、“情状酌量を狙った脚本”……って感じですか」
「そこまで断言したくはないが──少なくとも、“読む側の感情の動き”まで計算している文章だ」
手記の活字が、静かに“装置”へと変わっていく感覚があった。
会議室の奥でコピー機がガタガタと鳴った。日常の雑音が一瞬だけ割り込み、また遠のく。
俺は、手帳の余白にペン先を滑らせる。
〈悲しんでいた〉ではなく〈悲しんでいたように書いた〉。
〈泣いた〉のではなく〈“泣いた”と書けば伝わると知っていた〉。
もしそれが“本音の記録”ではなく、“計算された言い回し”だったとしたら──
俺たちは、読み方そのものを変えなければならないのかもしれない。
斎木がページをめくる。
「……第3章、“藤沢を殺すのをやめた”ってところ、ありますよね」
「ああ」
「でも、“彼女を殺すのをやめた”とは、一度も書いてない」
「そこが、気持ち悪い」
手記第3章、『香りの輪郭』。
文章だけ見れば、日常の描写も感情の機微もよく書けている。
問題は、その“裏側”だ。
「この章全体、“想像の中の犯罪計画”みたいに見せながら、要所要所で“実行の準備”が混ざってる」
「準備……?」
斎木が聞き返す。俺はメモから一文を拾い上げる。
「検索履歴。“刃物”“致死量”“家庭にあるもの”。──全部、実際の凶器や状況と噛み合ってる。“空想”だけで済ませるには現実との距離が近すぎる」
斎木は黙って頷く。
「しかも、“誰を”殺すつもりだったのかが、意図的にボカされている。
途中で『彼を消す必要はない』とは書いているが、『彼女を殺す必要がなくなった』とはどこにも書かれていない」
「……“彼”の裏に“彼女”がそのまま残ってるってことですか」
「そう。そして最後に、こう結ぶ」
『必要だったのは、彼女に想いを伝えることだった』
「“想い”って言葉は便利だ。告白にも、殺意にも使える。
“想いを伝える”という構文だけ見ると、“恋愛のクライマックス”にも、“犯行の自己正当化”にもなる」
「でも、手記の中では“告白の草稿”を持っていたって書いてますよね」
「それも逆手に取れる。
“前から書いて手元にあった文章”を、“今ここで決意したように見せている”可能性もある」
斎木が、コピーした資料に目を落とし、ぽつりと呟く。
「……“殺す決意”も“想いを伝える決意”も、文章上は同じ構文で書けるわけですね」
「そうだ。言葉の構造に、あとから感情を流し込んでいる。
“何をしたか”じゃなく、“どう読まれるか”を先に設計している感じがある」
それは、文学部の講義で教授が言っていた、“語りの倫理”の話を、妙に思い出させた。
斎木が、険しい顔で手記に視線を戻す。
「第1部の最初、遠野は“場面緘黙”の過去を語ってたじゃないですか。
『話したくても話せなかった』って」
「ああ」
「第2章では、“彼女とだけは心の言葉で話せた”みたいに描いてる。読んでると、こっちもそこに救いを見たくなる。……でも第3章まで読むと──」
「“話さずに殺す”ことが、彼にとって“いちばん正確な伝達”だった可能性が出てくる」
室内の空気が、ぐっと重くなった。
「言葉を失っていた頃から溜め込んできたものを、“行動”で表現する。
普通なら、それを“恋”として読みたくなる。……けど、“怒り”や“支配欲”として読み替えても、文章の整合性は崩れない」
「……“表現の幅”が、逆にあいつを守ってる、ってことですか」
「そうだ。“恋愛の文章”としても読めるが、“殺意の文章”としても読める。」
『誰かの生活を観察する。それは物語を書く準備に近かった』
手記の一節が、記憶の底から浮かび上がる。
彼にとって“観察”とは、“支配”の一形態だったのかもしれない。
彼女の生活を細部まで把握し、その上で物語の切り取り方を決める。
それを、彼は“告白”と呼んでいるのかもしれない。
俺は終盤のページをめくる。
「……このエピローグ、ぱっと読むと、悔やんでるように見える。
でも、“悲しい”とも“悔いている”とも書いてない」
斎木が、手記の第4章とエピローグを行き来しながら言う。
「確かに“罪を償わなければならない”とは言ってますけど……それって“法的な責任を取らなきゃいけない”って意味にも読めるし」
「“自分の感情としての罪悪感”とは、限らないと」
「そうなんです。“文体”だけが後悔を匂わせていて、“言葉”はそこまで踏み込んでない。まるで……」
斎木が、一行を指で押さえた。
『でも、それが悲しみだったかどうかは、今でも分からない』
「……“読者が勝手に補うのを待ってる”みたいに見えるんですよ」
その一文を声に出して読んだとき、背筋を冷たいものが走った。
これまで俺たちは、手記に“後悔”や“悲しみ”を感じていた。
けれど、本人は最初から、“それが悲しみかどうか分からない”と言っていた。
「……俺たちは、文章の設計通りに“悲しい話”として読んできただけなのかもしれんな」
乾いた紙をめくる音が、妙に大きく聞こえた。
「それとも──」
俺は、少しだけ言葉を選ぶ。
「単純に、嘘がつけないだけなのかもしれない」
「嘘が……?」
「彼は、“正直すぎる”。悲しんでいるように“書けない”。文体で操作はできるが、“嘘そのもの”は破綻してしまう。……だから感情を断定する言葉を使えなかったのかもしれない。」
その“言えなさ”自体が、読む側の心に逆に強い「悲しみ」を浮かび上がらせてしまう。
実際には何も語っていないのに、読者だけが勝手に語らせてしまう。
ただ読み進めていただけなのに、いつの間にか“誘導”され、“同情”し、“共犯”にされていた、という実感だけが残る。
文章が“正確すぎる”ことで、かえって感情の輪郭が消え、
最後に残るのは、「信じ込まされた自分」の感覚だけ。
「……斎木。ひとつ、気にならないか」
「何がです?」
俺は、手記第4章のある一節を指さした。
『“あなたとは、そういう関係になるつもりじゃなかった” それも“物語の外から”届いた声だった。』
「“それも”って、書いてある」
「ええ。“それも”?」
「文法的に見れば、“前に何か言われている”ことを示してる。“それも物語の外から”──つまり、その前に、もっと決定的な言葉があった可能性が高い」
斎木の目が、わずかに見開かれる。
「もしそれが抜かれているなら……“彼女の言葉”がトリガーだったことになる」
「そう。“あなたとはそういう関係になるつもりじゃなかった”は、あくまで“それも”だ。
本当に彼の物語を壊したのは、“その前のひと言”だったかもしれない」
「……これ、最初は誤字かと思ってましたけど。意図的に“抜いてる”のかも」
「“彼女の言葉”が、彼の物語を否定した。
でも、それをそのまま書くと、手記全体の信憑性が崩れる。
だから、“決定的なひと言”だけを、書けなかったのかもしれない」
ページの端が、指先の汗で微かに波打っていた。
──俺たちは、ここまで“悲しみ”と“後悔”を読んできた。
だが、本当は、何も語られていなかったのかもしれない。
「……もう一度、文芸サークルで聞きましょう」
斎木が顔を上げた。
あの夜の前に、遠野が何を“聞いてしまった”のか。 “それも”の前に、彼女は何を言ったのか。
その「語られていないひとこと」が、すべてを変えたのかもしれない。
俺は頷き、手帳を閉じた。
第3章 読解 ─小説─
午後三時。大学の文芸サークル部室。
ドアを開けると、埃と紙とインクの匂いが鼻を打つ。
窓から午後の光が差し込み、棚の上の古いコピー本を照らしていた。
空調は切れているが、開け放たれた換気窓から入る風が、カーテンを微かに揺らしている。
テーブルを囲むように、六人の学生が座っていた。全員、上級生だ。
安藤(四年)、江本・森下(三年)、高橋・佐伯(二年)、そして前回欠席していた沢口。
斎木は俺の隣で椅子に腰かけ、学生たちを一人ひとり観察していた。
目つきは柔らかいが、その奥に警察官としての鋭さが覗く。
最初に口を開いたのは、斎木だった。
「じゃあ、始めさせてもらいます」
そのひと言で、部室の空気がわずかに引き締まる。
紙袋の中の紙コップが擦れる音が、やけに大きく響いた。
「今日は、遠野さんと柚木さんの間に、何かトラブルがなかったかという確認です」
短い沈黙。
口火を切ったのは、サークル長の安藤だった。
「……いや、特に思い当たらないですね。ふたりとも、言い合いしてるとか見たことないですし」
森下が続く。
「私もです。少なくとも、サークルの中では、そういう空気は感じませんでした」
江本も、無言で頷いた。
やや間をおいて、高橋が口を開く。
「……まあ、俺も同じです」
その瞬間、空気にごく小さな歪みが走った気がした。
「高橋。あれじゃないのか? 遠野さんの応募作品のやつ」
沢口の声が静かに割って入る。抑揚の少ない口調だが、部屋の温度が一度下がったように感じた。
高橋は、慌てて首を振る。
「いや、そんな、大したことじゃないですよ」
俺は斎木と目を合わせる。
うなずき返すと、斎木が少し身を乗り出した。
「応募作品って……詩が入った恋愛小説のことですか?」
「違います。ミステリー小説です」
俺の眉がわずかに動く。──手記には出てこなかった単語だ。
「それについて、何があったんですか?」
高橋は、溜息まじりに口を開いた。
「……ちょっと前のことです。学食で、柚木先輩と俺が遠野さんの応募作品について話してたんです。ジャンル自由の学生賞で、遠野さんが出したのがミステリーでした」
「どんな内容だ?」
「……犯人が手記を残して、情状酌量を狙う話でした。
俺が冗談で“そんなトリック、通らないですよね”って言ったら、柚木先輩が笑って、
“ほんとそれ。それにあんな男、好きにならないでしょ”って」
そこで一度、言葉が途切れる。
指先が机の角をなぞる動きだけが続いた。
「……そのあとで、“ヒロインは絶対殺さないんだね、あの書き方だと”って、
ちょっと安心したみたいな言い方もしてて。
“読んでて分かるでしょ、ああいうの。守られる側の子だよね”って」
自分で言いながら、その記憶が刺さるように戻ってきたのだろう。
高橋の声が、少しだけかすれる。
「ちょっと語気が強くて、あれ?って思ったんですけど……笑ってたから、冗談かなって」
高橋はうつむき、机の端を指先でなぞる。
「……で、遠野さん、そのとき近くにいたみたいで。俺たちの会話、聞かれてたんです。
気づかなかったけど……柚木先輩の顔が急に固まって、“あ”って。
今思えば、遠野さん、無言でその場から立ち去ったんです」
メモ帳に走り書きしながら、ふと考える。
──自分の小説が“笑いのネタ”にされた瞬間。
しかも、好意を寄せていたかもしれない相手に、その笑いに乗られたとしたら。
それは、“物語の否定”というより、“自分ごと拒絶された”感覚に近いのかもしれない。
しかも彼女は、小説の中の“ヒロイン”が最後まで生き残ることを、
どこかで“自分は殺されない”という保証のように受け取っていた可能性がある。
斎木が、小さく頷く。
「なるほど……遠野にとっては、かなりきつい出来事だったかもしれないですね」
佐伯の細い声が、机の向こうから聞こえた。
「……でも、それで怒るとか、そういう人には見えなかったです」
「怒らなかったからこそ、かもしれない」
口に出してから、少しだけ言葉を選ぶ。
「……外に出せない感情ほど、内側で発酵することがある。
彼が“何も言わなかった”っていうのは、イコール“気にしてなかった”って意味じゃない。
沈黙というより、抑圧だったのかもしれない」
部室の時計が、ひとつだけ遅れて“コトリ”と音を立てた。
誰も反応しない。
けれど、それが──心のどこかで“時間が止まっていた”誰かの時計が、ようやく動き出した音にも思えた。
「その小説、ここに残っていますか?」
斎木が問うと、空気がまたわずかに揺れた。
誰かが息を呑んだ気配。
安藤が椅子を引き、棚のほうへ向かう。
「たしか……コピーをあのファイルに入れてなかったか?」
足取りは迷いがないのに、その動きには“ためらい”が混ざっているように見えた。
他のメンバーも、ばらばらに立ち上がる。
“探す手”は動いているのに、“見つけたい意思”があるようには見えない。
机の上の紙の山、文芸誌の束。
森下が静かに書類をめくる音だけが、やけに耳に残った。
「ないな……」
「こっちにも、ないです」
「PDFだったとか……いや、印刷して読んだ記憶があるんだけど」
言葉は重ならない。不自然なほど“揃わない”同意。
その時、バサリと音がした。
棚の一番上をあさっていた安藤の肘が、積んであった文芸誌の端をかすめたのだろう。
バランスを失った一冊が、ゆっくりと前に滑り出て、床に落ちた。
「……『Re:Verse Vol.13』?」
手製装丁。少し色褪せた表紙。
触れてはいけない記憶の匂いがした。
「これ……柚木先輩が編集に入った号ですよね?」
佐伯がしゃがみこむ。
その瞬間、文芸誌の間にはさまっていた一枚の紙が、ひらりと滑り落ちた。
手帳サイズのグレーの用紙。パソコン印字のフォント。
斎木が拾いあげる。彼が声に出す前に──俺はすでに、寒気を感じていた。
《俺のトリックは成立する。絶対に許さない》
空気が止まる。
その短い一文が、部屋の空間を鋭く切り裂いた。
部室全体が、時間ごと固まったように静まり返る。
言葉を探そうとする気配だけが、空気の中で空回りしていた。
「……これって」江本がかろうじて声を出す。「遠野さんの……?」
「……っ」
高橋の身体が固まり、やがて前屈みになる。
浅い呼吸、額に当てた手、微かな震え。
その場にしゃがみ込む高橋。
衣擦れの音が、静寂の中でやけに大きく聞こえた。
「……俺、そんなつもりじゃ……ほんと、違うんです……」
沢口が眉をひそめる。
「おい、高橋。落ち着けって」
俺は、高橋の震える手を見つめていた。
そこにあるのは“罪悪感”というより、“後から襲ってきた恐怖”だった。
自分が知らないうちに、誰かの地雷を踏み抜いていたと気づいた人間の震えだ。
安藤が近づき、声をかける。
「高橋、医務室行こう。付き添うよ」
「すみません……すみません……」
その声を背に、ふたりは静かに部室を出ていった。
再び静かになった空間。
斎木は、手にしたメモとノートを交互に見つめている。
ふと、その紙の端が、指先の汗でわずかに湿っているのに気づいた。
「……この小説、本当にここにないんですか?」
斎木の呟きが、宙に浮かぶ。
佐伯が、苦しそうに首を横に振った。
「少なくとも、私たちの誰も持ってないと思います。
あの原稿は……一回限りの読み切りで、“どこかに出す”って本人が言ってました」
──出した。どこかに。
「どこに出したか、分かるか?」
森下が、記憶を手繰るように口を開く。
「えっと……“文芸日朝社”です。学生向けの短編賞があって、それに出したって」
斎木に目をやる。
彼は、すぐに頷いた。
「斎木。そこを当たろう。“原本”を見たい」
メモ帳に一行書き足す。
『俺のトリックは成立する。絶対に許さない』
その“トリック”は、小説の中の仕掛けなのか。
それとも、現実に仕掛けられた、報復の構造なのか。
文章という“構築物”の中で、彼はどこまで冷静でいられたのか。
そして、その一文は、“誰に”向けられていたのか。
部室にはまだ夕陽の余韻が残っていた。
だが、部屋にいる誰一人として、その光の中に希望を見ていなかった。
すべてが夜の輪郭を帯び始めていた。
*
──翌日、午前十時。
俺は新宿の雑居ビルの九階、「文芸日朝社」の受付カウンターにいた。
エレベーターの扉が開いた瞬間から、紙とインクと、ほんの少しだけコーヒーの匂いが漂っている。
受付の女性に名刺を渡すと、奥から編集部の人間が現れた。
ベージュのジャケットに濃紺のハイネック、細い縁の眼鏡をかけた男。
名刺には「第三編集部 松岡」とある。
「……いやあ、正直驚きましたよ。学生賞の問い合わせなんて、普通ないもんで」
応接室に通され、缶コーヒーがふたつ置かれる。
彼は自分の缶には手をつけず、話を続けた。
「うち、年間で学生からの応募がざっと三百本以上あって、その大半は一次選考止まり。
だから、落選原稿をあとから掘り返すとなると……まあ、ちょっと骨が折れるんですよ」
机の上に、A4用紙をまとめたクリップ留めの束が置かれる。
「この“遠野 湊”って人……何か、トラブルでも?」
そう訊かれたとき、俺はほんの一瞬だけ、言葉を選んだ。
「……いえ。別件の参考資料として、確認させていただきたいだけです」
「ふうん……」
松岡は納得したふりで頷いたが、その目には編集者特有の、“言わない情報を読む視線”が宿っていた。
俺の肩書きと、話さない部分の空白のあいだに、何かを察したのかもしれない。
「この人、なかなか書ける人でしたよ。筆が整ってて、文体にちょっとクセがある。
でも、それが逆に選考では仇になった」
「仇、ですか」
「ええ。“うますぎて、警戒される”ってあるんですよ、こういう賞では。
技巧的すぎて、“心が見えにくい”って。
評価する側は、“ほんとにこれ、本人の言葉なの?”って、ちょっと身構えちゃう」
──教授も似たようなことを言っていた。“文体は、倫理だ”と。
「最終候補までも行かずに落ちました。僕は、惜しいと思ったんですけどね」
それ以上、俺は何も尋ねなかった。
ただ、原稿のコピーを受け取り、頭を下げて部屋を後にした。
*
署に戻ったのは、正午をいくらか回った頃だった。
俺たちは会議室の端のテーブルに資料を置き、コートを脱ぐ間も惜しんで席に着いた。
「……やっぱり、これは、ただの小説じゃないですね」
斎木が、読み終えた原稿のコピーを静かに閉じる。
主人公は、場面緘黙の過去を持つ青年。
殺されるのは、彼女の“元カレ”──高校時代の塾講師。しつこくつきまとう大人。
彼女は主人公の味方で、事件のあとも彼のそばに残る。
「……遠野の“願望の投影”に見えます。現実とは逆なんですよね。
彼女が生きていて、味方で、過去の加害者を排除できている」
俺は頷く。
「少なくとも、そう読める。
そして、その“加害者”が、どう見ても藤沢だ。設定上は元カレだけど、言葉遣いも、距離感も、描き方がそっくりだ」
「藤沢を、物語の中で“処罰”したんですね。遠野にとって、“そうなってほしい世界”を一度、小説の中で作った」
斎木が目を細める。
「でも……現実は、逆だった」
彼女は、藤沢を完全には否定しなかった。
その関係を終わらせようともしなかった。
──そんなトリック通じるわけない
──あんな男、好きになるわけない
学食でそう言って笑ったとき、柚木は自分を“物語の外側”に置いていた。
小説の中で殺されるのは“藤沢みたいな男”であって、自分ではない。
自分は、最後まで生き残る側だと──無意識のうちに、そう誤読していたのかもしれない。
「……遠野への共感なんてなかった。“物語は通じなかった”」
斎木が、ぽつりとまとめるように言う。
「彼にとっての“文学”は、小学生の頃からの武器だった。“話せない代わりに書く”。それで、なんとか世界と折り合いをつけてきた」
「なのに、“書いても何も変わらない”って現実を突きつけられた。
自分の人生が根っこから否定されたわけだ」
「遠野にとって、“書くこと”は世界に影響を与える唯一の手段だった。それが……“笑い飛ばされた”」
机の端に置かれたメモの文言が、頭に浮かぶ。
『俺のトリックは成立する。絶対に許さない』
「……この一文、サークル誌に挟まれてたメモですよね。小説の中での“トリック”を、現実に“成立させる”こと。それが、彼の目的だった……」
小説の主人公は、警察に手記を差し出すことで事件を“構造化”し、情状酌量を勝ち取る。
「なあ、斎木……あの手記は、この応募作の“真似”じゃなくて、“続き”なんじゃないか」
「第2部?」
「そうだ。自分で書いた物語を、現実で完結させたかった。“理解されなかった物語”を、現実で実証する。それが、彼にとっての“証明”だった」
沈黙が落ちる。
斎木の指が、無意識にハンカチを握り直していた。
「……つまり、これは“感情”の犯行じゃない。“構造の証明”だ」
コピー原稿の一行を指先でなぞる。
『誰かに分かってもらえれば、それでいい。でも、分からなければ、僕がやった意味は、全部消える』
「作中で主人公が彼女に向けた台詞だが──、遠野自身の本音でもあるんだろう。“誰かひとりにでも理解されればいい”。逆に言えば、“理解されないままでは終われない”」
斎木が、かすかに息を吐く。
「……小説を笑われたから、じゃないんですね。笑われた“構造”を、現実で成立させて、“笑えないもの”に変える。それが、遠野の目的だった」
「そして今、俺たちは“手記”を読み込み、証拠と照らし合わせて辻褄を確認している。……それが、遠野にとっての“トリック成立”の証拠になっている」
斎木は目を閉じる。
「……俺たちが、“手記どおりかどうか”検証している時点で、物語の中に引きずり込まれてるわけですか」
「そうだ。俺たちは今、彼の小説の中にいる」
俺は原稿の束を閉じた。
『僕はこれまで、いくつもの文章を書いてきた。誰にも読まれなかったものもある。 選に漏れ、破棄された原稿もある。それでも書き続けたのは、言葉には何かしらの力があると信じていたからだ。
小さな教室で、ノートに書いた告発が、世界を動かした。それは偶然だったのかもしれない。でも、僕にとっては奇跡だった。 言葉が、現実を変える。 そう信じるしかなかった。』
手記のこの一節──
その“力”の証明が、ひとつの命を犠牲にして行われたのだという事実が、余白から滲んでいた。
俺は椅子を引いた。
「……斎木、調書に移るぞ。“読み終えた”以上、今度はこちらが“書く”番だ」
「はい」
読み終えたのは小説ではない。
──現実の“構造”だった。
だからこそ、次に綴るのは、“物語”ではなく“真実”でなければならない。
第4章 調書
──キーボードの音だけが、部屋に残っていた。
形式的な調書──供述要旨と証拠関係の整理までは、さっき俺が打ち終えている。
今、画面に映っているのは別ファイルだ。タイトルには仮に《参考意見(案)》とだけ入っている。
斎木が、その文書の続きを打っている。
掌をハンカチで拭いながら、次の一文をどう書き出すか迷っているらしい。
外の雨音が、二重窓越しにぼんやりと響いている。
その静寂のなかで、俺たちは事件の“輪郭”を──今度は公式記録ではなく、“読み方”として記述しようとしていた。
斎木が短く息を吐き、再びキーボードを叩く。
【1】犯行の準備と動機
被疑者には過去に場面緘黙の既往があり、対人コミュニケーションにおいて、一貫して「話すこと」より「書くこと」を選択してきた経歴がある。
大学文芸サークルにおける活動では、発話は少なかったが、提出作品には一定の水準を保つ筆力が見られた。
本件の直接的動機は、サークル内における自身の応募作品に対する“嘲笑”および、“好意対象である柚木による否定的な同調”に起因するものと推測される。
もっとも、これは感情的衝動による突発的な犯行ではなく、犯行前の検索履歴(刃物、催涙スプレー、致死量など)から、一定程度の計画的準備がうかがえる。
【2】“手記”の性質と目的
被疑者は犯行後48時間以内に、A4用紙22枚に及ぶ「手記」を作成し、警察に提出している。
本手記は、自己の行動を“感情的衝動による非計画的なもの”と見せかけるよう、文学的構造によって“演出”されている可能性が高い。
以下の特徴が認められる。
* 催涙スプレーによる生理的涙を、“悲しみ”として表現している点
* 犯行中の動揺を、“突発性”と誤認させる心理描写として配置している点
* 犯行後の冷静な現場整頓行動を、“感情の延長”として包摂している点
これらの描写は、読み手の“情状酌量的読解”を誘導するために整えられており、文学的文脈と司法的文脈が意図的に交差させられている。
【3】過去の作品との関係
サークル誌『Re:Verse Vol.13』より発見されたメモ、および出版社「文芸日朝社」に応募された作品を照合した結果、本件以前に被疑者が執筆した短編小説において、「警察に手記を提出する青年」が主人公として描かれていることが判明した。
当該小説における事件内容および人物像には、本件とのあいだに多数の一致が認められる。
このことから、本手記は当該小説の「模倣」ではなく、その事後的続編として構成されていると判断される。
被疑者は、物語を現実化させることで、“小説の成立”を図った可能性が高い。
【4】犯行の性質と“証明欲求”
被疑者の動機は、単なる私怨や激情によるものというより、「自身の構築した物語構造が現実でも成立するかどうか」という“検証行為”に近い。
サークル内で自身の作品が“笑われた”経験、ならびに好意対象である柚木による同調的な否定を契機として、「言葉では世界は変えられない」という認識への転換が見られる。
被疑者にとって問題だったのは、「小説を読まれなかったこと」や「理解されなかったこと」そのものより、理解されなかった結果として「自分が世界に何も作用できなかった」という実感のほうであったと考えられる。
よって本件は、感情の噴出ではなく、「自己存在証明」の最終手段として“物語を現実化”させる過程で発生した殺人であると位置づけられる。
【5】“文学”を通じた構造的トリック
被疑者は「手記」の中で“後悔”や“動揺”を匂わせているが、その文体の背後には、一貫した冷静さと構造設計が見られる。
手記中における印象的な一文は、以下の通りである。
『それが悲しみだったかどうかは、今でも分からない』
この記述は、感情の記録であると同時に、読み手に感情の錯覚を促す“罠”としても機能している。
被疑者は、“文学”が持つ二重性──言葉が人を癒しもすれば、欺きもするという特性を、意識的に利用していたと見られる。
彼にとっての“文学”とは、もはや自己表現ではなく、
“認識を操作する構造物”としての文学を、自身の裁判戦略および自己証明の道具として選択したものと推察される。
【6】結論と法的見解
以上の記録・証拠・手記および応募原稿の内容から、被疑者・遠野 湊は、
* 「恋愛感情の破綻」や「サークル内での人間関係」から感情的動機を発生させたというより、
* 計画的かつ構造的に犯行を設計・実行した
ものと判断される。
手記は文学的な体裁を持ちながらも、明確な構成目的を持った操作的文章であり、情状酌量を目的とした“準備行為の一部”とみなされるべきである。
被疑者が作中で用いた「誰かに分かってもらえれば、それでいい」という記述は、一般的な“理解されたい”という願望を装っているが、実態としては「理解されることが犯行の前提条件である」という、冷静な“設計者の条件”であった可能性が高い。
「言葉が現実を変える」
そう信じるしかなかった──彼の信仰は、ある意味では叶った。
だが、それは“命”を担保とした代償によってしか、成立しなかった。
*
「……こんなとこですかね」
最後の一文を打ち込み、斎木がぽつりとつぶやいた。
「あぁ、お疲れさん。あとは形式だけこっちで整える」
自分の声に、思った以上の疲労がにじんでいるのが分かる。
どこか、言い足りないものも混じっていた。
記録としては、もう充分だった。
構造も、動機も、形式も、すべては明確に“書けて”いる。──それでも。
──まだ、どこか穴が空いている気がする。
机の端に置かれた手記の一文が、ふいに視界の端で滲んだ。
『でも、それが悲しみだったかどうかは、今でも分からない』
あの文章の向こう側にいたのは、どんな人間だったのか。
怒りを見せず、恨みも言葉にせず、ただ“書いた”だけの青年。
それが“表現”だったのか、“武器”だったのか、今でもはっきりしない。
それでも──ひとつだけ、確かなことがある。
彼は、誰にも届かないまま死んでいった感情を、言葉にして残そうとした。
彼なりのやり方で、誰かに伝わることを、どこかでまだ信じていた。
……だから、怖いのだ。
あの手記は、正確すぎる。
悲しみを語らず、怒りも説明しない。ただ、“読ませること”に徹している。
それは、誰かに自分を理解してもらうための「手紙」ではない。
“理解されたときに初めて成立する構造物”──設計図に近い。
──だとすれば、その図面の上に「感情」を勝手に描き足していた俺たちは、
最初から、彼のトリックにはめられていた読者なのかもしれない。
モニターの片隅で点滅する保存マークを眺めながら、俺は画面から目を離し、紙のほうの調書の末尾に視線を落とした。
すべての論理が整っている。
証拠も、心理描写も、言葉の伏線も、分析はおそらく間違っていない。
──それでも、この“意見書”は、きっと裁判では採用されない。
証拠としては脆い。
動機の確定も、状況証拠の積み上げにとどまる。“文学的解釈”という曖昧さが、いつでも足をすくう。
冷静に考えれば、この手記はただの自己申告であり、殺意の有無を決定づけるには弱すぎる。
だから、これは“証明”にはならない。
──けれど、それでも、書かねばならないと思った。
なぜか。
なぜ俺たちは、ここまで読んで、分析して、書き続けたのか。
その答えは、もしかしたら──
“彼の物語”ではなく、“彼女の人生”を物語にしないためだったのかもしれない。
俺たちが辿ってきたのは、「被害者」としての柚木遥の輪郭に過ぎない。
実家の家族旅行の写真。
宇都宮駅から少し離れた住宅街。
カフェの制服。
彼女自身の人生には、本当はもっと、いろんな色や匂いがあったのだろう。
大学に通うためだけに借りた、都内の狭いキッチン。
ガスコンロの小鍋や、冷蔵庫の卵パック。
そんな、ごくささいな「明日」の気配──。
俺たちも、彼女の本当の姿は分からない。
だが、それを理解という名の物語に変換し、“納得”の構造にきれいに組み込んではいけない。
「事件には、物語が生まれる。だが、死者には物語を与えるな」
昔、先輩に教わった言葉を思い出す。
これは“彼の物語”ではない。
彼女の人生の輪郭を、犯人の手から取り戻すための調書だ。
たとえ裁判で使えなくてもいい。
この記録が残ることが、彼女の“生”が、誰かの物語に塗り潰されなかった証になる──。
俺は、そう信じていた。
エピローグ
判決は、懲役十年。
求刑十五年に対しては、異例の軽さだった。
自首、場面緘黙の既往、感情の錯綜、突発的な衝動──
裁判は、それらを「酌量すべき事情」として認めた。
地方裁判所を出ると、空は薄く曇っていた。
敷地のコンクリートには、さっきまでの雨がまだところどころ残っている。
出入り口の自動ドアが背後で開閉するたび、冷たい風がコートの裾をかすめた。
斎木が、ファイルを小脇に抱えたまま、隣に並ぶ。
「……これで、一応は終わりですね」
「……ああ」
数段、階段を下りたところで、彼がぽつりと続けた。
「家帰って、子どもに“おかえり”って言われるんでしょうけど……うまく返せる気がしないっすよ、俺」
どう返せばいいか分からず、俺はただ前を見た。
脇を、傘をたたんだスーツ姿の男が二人、早足で通り過ぎていく。
「昼どうする?」
「向かいの定食屋でいいんじゃないですか? あそこ、サバの味噌煮がうまいらしいっすよ」
笑い声と、日常の話題だけが、雨上がりのコンクリートの上を軽く転がっていった。
それから数日たっても、俺は、何かを見過ごしているような気がしていた。
なぜ文芸誌にメモ書きが挟まっていたのか。
応募作品はなぜ、手記の中で一度も触れられなかったのか──。
《俺のトリックは成立する。絶対に許さない》
デスクの奥にしまっていた手記を、もう一度取り出す。コピー用紙の白が、初めて読んだときよりもくすんで見えた。
廊下の向こうで、誰かの足音が二、三度響き、すぐに遠ざかっていく。隣の席では、マウスが一度だけカチリと鳴って、また静かになった。
日常のノイズの中で、この紙束だけが、別の温度を持って机の上にあった。
ページをめくる。
目を滑らせながら、ふと思う。
……やはり、どこかがおかしい。
すべての証言が、整いすぎている。
感情の波形が、あまりにも美しすぎる。
まるで、“読まれること”を前提に、最初から設計された物語のように。
──これは、本当に小説なのではないか?
彼は、自らの“トリック”が成立することを証明するために事件を起こした。
俺たちは、そう推理した。
だが、暴かれないままのトリックは、ただの犯罪だ。
物語になるには、謎と解き手が必要だった。
ふと、彼の書いた短編の一場面が頭をよぎる。
被害者の苦悩、加害者の沈黙、刑事の奮闘……
俺は、刑事として事件を追っていた“つもり”だった。
だが、気づけば俺自身が、物語の中に書き込まれていた。
取調室での、あの目線。
──この手記は、最終的に誰に読ませるつもりだった?
彼が“読ませたかった”相手は……
本当に、俺だったのか?
……俺は、──やつの「証明」に加担したのか?
そのとき、背後で、ぺらり、と紙がめくられるような音がした。
見回したが、空調がただ低い唸りを立てているだけだった。棚の資料は、いつものようにそこに積まれているだけだった。
……誰もいない。
それは分かっている。
それでも、俺は──
振り返らずにはいられなかった。
誤読