『ふるはたにゃんの、まふゆのさんぽみち』

みちなきみち。

ふるはたにゃんは、まふゆのまちへととびだした。
ふるはたにゃんはずっとふしぎにおもっていたことがあるのだ。
おさんぽのとちゅう、むかいからはしってくるらいとをつけているくるまが、つけていたらいとをふるはたにゃんがみることができるたいみんぐで、いちいちけすのだ。



ちかづいてきたたいみんぐでらいとをけしてからとおりすぎていく。
ふるはたにゃんがまいにちさんぽにでるといきかえりで、さいていごうけいさんかいはそういうことがある。
もっとおおいこともある。
もちろんらいとをちゅういをしらせるためにつけっぱなしではしるくるま、そもそもらいとをつけないくるまもこのまちにはおおい。
だからめだつ。
くるまのらいとをけすふしぎ。



そしてこのまちをあるくひとびとはほとんどいない。
くるまだけがはしってるまち。
ふるはたにゃんはおさんぽをかかさないので、ふるはたにゃんだけがまちのさんぽみちをてくてくとあるいていく。
あるくたびにらいとをけされる。
ふしぎだ。
ふしぎなことはまだある。
またもやくるまのおはなしでもうしわけないけれども、くるまのなんばーが222(にゃんにゃんにゃん)とか、115(いいこ)とか、2741(ふなっしー)とか、ごろあわせをしたなんばーがたいみんぐよくふるはたにゃんのさんぽみちをよくとおるのだ。
そのことがふるはたにゃんはずっとふしぎだったのだ。



だからふるはたにゃんはしんそうをつきとめるためにくるまだらけのふしぎなまちへ、きょうもとびだした。
ふるはたにゃんはまず、いつものさんぽみちをあきらめた。
おしょうがつ。
ひとびとがだまりこみひきこもるいえたちのあいだを、ふるはたにゃんはすいすいとあるいていく。
みちなきみちを。

ふしぎと、ぶらんこ。

ふるはたにゃんはこのまちにずっとすんでいる。
まちのみちのことはよくわかっている。
まちがふしぎになってしまったのはここ、に、さんねんのことだった。
ふるはたにゃんはあえて、くるまがとおることができないみちをきょうはおさんぽをしたのだ。



にゃんはつぶらなおめめをするどくひからせて、いえのまどをみたり(ひとかげはない)、いえのまわりになにか、ひんとがないかよくかんさつした。
そうするといえのまわりにしずかにとまっているくるまのなんばーがめにはいった。
なんと、いちぶのしゅうらくのいえなみに、ごろあわせのおおいくるまたちがとまっていた。



ふるはたにゃんはびっくりしてつぶらなおめめをまんまるにした。
くるまのなんばーをよくみると、かぞくやしんせきのきせいのたいみんぐなのか、このまちのきんりんからもひとびとがやってきている。
ここのしゅうらくのひとたちがふるはたにゃんがおさんぽをしているときによくもくげきする、くるまたちだったのかもしれない。



いちおう、ふるはたにゃんはむかしからある、だんちのまわりもとことことあるきまわってみた。
ほとんどくるまはとまっていなかった。
みんな、かぞくでどこかとおくのまちへいき、そこのじっかにかえっているのかもしれない。
ふるはたにゃんはおもった。
ごろあわせのなんばーのくるまたちはみんな、おかねをもっていそうなおおきなきれいないえにすんでいる、と。
ふるはたにゃんのおうちのちかく、おさんぽみちはごろあわせなんばーのとおりみち、つまりおしごとにいくためのみちかなとにゃんはすいりした。
ふるはたにゃんがおさんぽをするじかんはあさとばんだ。
つうきんのくるまならなっとくがいく。



ただふしぎがうまれる。
くるまのごろあわせなんばーはいつもおなじくるまじゃない。
いつも、おなじすうじがみちをとおるわけじゃない。
ごろあわせだけおなじで、あとはばらばら、らんだむなすうじなのだ。
つうきんであればおなじすうじにであうはず。



むむむ!
ふるはたにゃんはうなった。
あたまがぽっぽしてあつくなってきたのでいえのあいだをぬけて、あるこぢんまりとしたこうえんにたどりついた。
こうえんにはぶらんこしかない。
ふるはたにゃんはぶらんこにすわり、ふうと、いきをはく。
とりあえずぶらんこをこぐ。
まふゆのあおぞらはおおきくちかく、こぐたびさわやかなかぜがかおをなでる。
からすがなんわも、すいっとあおぞらをよこぎる。



にゃあん。
ふるはたにゃんはおもった。
こどもはそらをみる。
そんなちゃんすにあふれてる。
でも、おとなはきっと、ずっとしたをみている。
けんじつにまじめに。
すまほやぱそこんをみて、しょるいをみて、なにかをしてしまったてのひらをじっとみて、あしもとのまちがいのすくないみちをみて、たしかめていきている。
にゃんはそっとおもう。



せめてこどものうちは、そらをみるべきだと。
ぶらんこはおなかのちからをつかってこぐのだと、ふるはたにゃんはしっかりときがついた。
とまるときはからだのちからをぬくだけでいいとも。

ふるはたにんざぶろう。

ふるはたにゃんはこぢんまりとしたこうえんをあとにして、またいえのあいだをすいすいととおりぬける。
おさんぽをしながらふるはたにゃんは、あれ、にゃんはなにしにきたんだっけ? とくびをかしげた。
ああ、そうだ。
まちのふしぎ。くるまのふしぎをときあかそう。
ふるはたにゃんはつぶらなひとみをひからせた。



いえのあいだをぬけて、とことこ。
まっさらなゆきのはらっぱに、かいいぬのあしあとがてんてんと。
そのちいさなあしあとをたどるよう、にゃんはあるく。
にゃんはこのまちをじぶんは、だいたいしっているとおもいこんでいた。



でも、くるまがとおらずひとびともなかなかとおらないみちをにゃんがすいすいとあるいていると、いきなりせつげんにでたり、まさかとおいだろうとおもっていたふるはたにゃんがかよっていたがっこうがあるばしょにひょんなたいみんぐででたり、ふるびただれもつかっていないてにすこーとがあったり、しんがくこうのりょうがへんぴなばしょにあることにおどろいたり、おもしろいひょうさつのいえがあったり(たかはしとでっかく、なのるひょうさつがあったのだ。しゅちょうがつよい)、じどうはんばいきがだんちのちかくににょきっとせっちされていたり、ふくろこうじのむこうがわにかわがゆたかにながれていたりした。



ちいさなこうえんもいえといえのあいまにいくつかあった。
けれどもこのまちにはやっぱり、ふるはたにゃんのようにとことこあるいているものはだれもいなかった。
きょうはくるまもとおらないみちをあるいているから、らいとをつけていたくるまが、ふるはたにゃんをみつけてらいとをわざわざけすなんてこともおこらなかった。



むにゃあ。
ふるはたにゃんはすいりをしたかった。
あこがれの、ふるはたにんざぶろうのように。
ふるはたにんざぶろうはむかしのどらまのしゅじんこうだ。
だんでぃで、かっこいい。
いちじかんでさつじんじけんをかいけつする。
ふるはたにゃんはきょう、いちじかんいっしょうけんめいあるきまわったけれど、めぼしいひんとすらみつからない。

ぜろこかこーらと、ぼうけん。

まちのふしぎ。くるまのふしぎ。
おなかすいたにゃあ。
ふるはたにゃんはぐう、となる、まんまるおなかをなでて、じぶんのいえをめざしてあるく。
あるいたさき、しょうてんがいのなれのはて、いまはひっそりとなごりだけがたちつくしているおれんじのいえのまえに、じどうはんばいきがずらりとならんでいる。
おさいふをとりだしなけなしのおかねを、わんこいんいれて、ふるはたにゃんはじどうはんばいきからぜろこかこーらをいっぽんかった。



そのばでのどをぬらす。
ぐびっとな。
のんでいるときはみんなしせんがあがる。
まふゆのあおぞらにひこうきがほそいくもをながしている。
そらのきゃんばすにひとふでをおいているみたい。
ふるはたにゃんはぜろこかこーらをのみながら、ひこうきがどこまでいくのかみまもった。
このまちはふしぎだ。
けれどもひこうきは、このまちのふしぎさなんて、きにもとめないでもくてきちまでまっしぐら。
ふるはたにゃんはひこうきにてをふる。
とどかないことをしっていて、てをふる。



のみおわったぜろこかこーらを、ふるはたにゃんはごみばこにぽいっとすてた。
けっきょく、まちのふしぎもくるまのふしぎもなにもわからなかった。
だけれど、ふるはたにゃんはきょういちにち、まふゆのちいさなぼうけんをした。



きがついたことはささやかなことばかりだったけれど、ふるはたにゃんにとってあざやかなことばかり。
いえやくるまにひきこもるおとなたちや、おとなたちのいうことをしっかりときくこどもたちにとってはきっとふるはたにゃんのこころのたからものはがらくたばかり。
ふるはたにゃんはそう感じながらおうちにつく。
まちのふしぎもくるまのふしぎもつづくだろう。
だったらぼうけんもつづく。
ただいま。
ふるはたにゃんはゆきみずでぬれたあしを、すとーぶでかわかし、つぎのぼうけんにそなえる。
おとなたちのまなざしも、それがなにをしめすものかわかりかけているこどもたちのしせんをものともせず。
つぎはまちで、どんなたからものをみつけようか、と。

『ふるはたにゃんの、まふゆのさんぽみち』

『ふるはたにゃんの、まふゆのさんぽみち』

古畑任三郎に憧れた、にゃんこのとある一日。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-01-02

Copyrighted
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Copyrighted
  1. みちなきみち。
  2. ふしぎと、ぶらんこ。
  3. ふるはたにんざぶろう。
  4. ぜろこかこーらと、ぼうけん。