262【ゴッドエンド】

 僕は思考実験をした。もし時の流れが十倍にっならと。お父さんの書斎に忍び込んで、鋏を手にする。僕の名前『りょうた』が書いてあった。

 なんでここにあるんだろう?

 紙を切って橋とお祖母ちゃんの紙工作をする。そして、時の流れを十倍にした。

【その時世界の流れが変わった】

「お父さん、時の流れが!」
「おい! りょうた! まさか!」

 お父さんが書斎に入ってきた。そして、僕を殴る。

「お前! やりやがったな。美奈子、時の修復を!」

 お母さんは大慌てで僕の工作をテープで止めた。

「僕、ただ――」
「おい、お前何したのか分かってるか?」
「ううん。だって、これ僕の鋏だし」
「後ろ。拳銃と食料と水が入ってる」

 僕の後ろにはレジ袋に言われたものが入っていた。なんで?

 その時、警察が家にやってきた。

「今、近隣住民から報告がありました。叫び声が聞こえたと」

 玄関先で警官の声がする。言葉が、ゆっくり、引き延ばされたみたいに聞こえた。僕の心臓の音だけが、やけに速い。

 お父さんは舌打ちして、僕の肩を強く掴んだ。

「もう限界だ。修復は七割しか戻ってない」

「七割……?」
 お母さんは泣きそうな顔で首を振る。
「完全には戻らない。もう“裂け目”ができてる」

 その瞬間、書斎の時計が——
 逆回転を始めた。

 秒針が戻り、分針が震え、壁に掛けられた家族写真の中で、笑っていたはずの祖母が、ふとこちらを見た。

「りょうた」

 写真の中の祖母が、口を動かした。

「はさみを、離しなさい」

 僕は反射的に鋏を握りしめる。
 だって、これは僕の名前が書いてある。
 僕のためのものだ。

「離すな!」
 お父さんが叫ぶ。
「それを離したら——」

 玄関のドアが開く。警官が一歩、家の中に入った瞬間、**その人だけが十倍速**で動き始めた。

 瞬きの間に、警官は老いた。
 肌がしわだらけになり、髪が白くなり、
 次の瞬間、床に崩れ落ちた。

「……うそ」

 僕の声だけが、正常な速さだった。

 お母さんが僕を抱きしめる。
「りょうた、聞いて。あなたは——」

 天井が軋み、空気が裂ける音がした。
 世界が、**切り取られようとしている**。

「あなたは、この世界の“修復点”なの」

「修復点?」

「あなたが切ったから、あなたが繋げるしかない」

 お父さんが、レジ袋を僕に押し付ける。
「だから準備してた。逃げるためじゃない。**渡るため**だ」

「どこに?」

 答えの代わりに、書斎の床が、紙みたいにめくれ上がった。
 その下には——
 昼でも夜でもない、
 時間が流れていない空間が広がっていた。

 祖母の声が、また聞こえる。
 今度は、頭の中で。

 ――りょうた。
 ――はさみは、切るためだけの道具じゃない。
 ――“戻る場所”を作るためのものでもある。

 僕は、震える手で鋏を開いた。

 世界と世界のあいだに、
 一本の切れ目を入れるために。

 ◇

 ―――

 鋏を入れた瞬間、**音が消えた。**

 風も、時計の逆回転も、泣き声も、全部が紙の裏に吸い込まれたみたいに、静止する。
 ただ僕だけが、そこに立っていた。

 切れ目は最初、細い光だった。
 でも、僕が名前を呼ばれた気がして、少しだけ力を入れると――
 光は**道**になった。

「行け」

 お父さんの声は、もうほとんど聞こえない。
 お母さんの唇は動いているのに、音にならない。
 二人の姿は、まるで時間の水底に沈んでいくみたいだった。

「待って!」

 叫んだつもりだったけど、声は届かなかった。

 その代わり、誰かが僕の手を取った。

 振り向くと、そこにいたのは——
 **若い頃の祖母**だった。

「来たのね、りょうた」

「おばあちゃん……?」

「正確には、“切られる前の私”よ」

 祖母は微笑んで、僕の鋏をそっと包む。
 その手は、紙よりも軽かった。

「ここは《時のはさみ》が作った余白。
 切られた時間が、行き場を失って溜まる場所」

 周囲を見ると、壊れた瞬間たちが浮かんでいた。
 倒れた警官。
 逆回転する時計。
 僕が紙工作をしていた、あの午後。

「僕、取り返しのつかないことをしたんだよね」

「いいえ」

 祖母は首を振る。
「あなたは“触ってはいけない場所”に、正しく触っただけ」

「でも……世界が壊れた」

「世界はね、壊れる前に**必ず切れ目**を作るの。
 完全に壊れないために」

 祖母は僕の胸に、指を当てた。

「あなたは、その切れ目に選ばれた」

 鋏が、熱を持つ。
 名前の書かれた持ち手が、淡く光った。

「これからあなたは、
 時間が絡まりすぎた場所を切り、
 必要なところだけを繋ぐ」

「それって……戻れないってこと?」

 祖母は少しだけ、悲しそうに笑った。

「“同じ形”では、戻れない」

 その瞬間、余白の向こうで、世界が崩れ始めた。
 家が紙のように折れ、空が裂ける。

「急ぎなさい」

 祖母が言う。
「最初の修復を」

「どこを?」

 祖母は、僕の背後を指差した。

 そこには、
 鋏を持つ**もう一人の僕**が立っていた。

 怯えた目。
 紙工作を始める直前の、何も知らない僕。

「選びなさい、りょうた」

 祖母の声が、遠くなる。

「切るのは——
 世界か、あなた自身か」

 僕は、鋏を握り直した。

 そして、震える刃先を、
 **自分の影**に向けた。

 ◇

 ―――

 僕が僕に告げる。

 母の声『あなたを学校に通わせられないの』
 裕福な家庭ではなかった。
「なんで?」
 貧乏な家庭でもなかった。
「なんで?」

 ただ、僕は育児放棄をされている。
 本で読んで、あとから知ったことだ。

 何も知らない僕へ。
 世界の時の流れを裂いてしまう前の僕へ。
 僕が言えることは――

「君は、悪くない」

 その言葉を、僕は喉の奥で何度も反芻する。
 でも、目の前の“僕”は、きょとんとした顔をしている。
 まだ知らない。
 理由のない欠落が、どれほど人を削るかを。

「ねえ」

 幼い僕が言う。
「どうして、みんな普通に生きてるの?」

 胸が、痛んだ。

「それはね」
 僕は一歩近づく。
「普通に生きてる“ふり”が、上手だからだよ」

 その瞬間、背後から声がした。

「君」

 振り向く。

 そこにいたのは、僕に似た青年だった。
 年は二十代半ば。
 疲れた目をしているのに、立ち方だけは妙にまっすぐで、
 どこか“最後まで立っていた人”の気配があった。

「……誰?」

「君の続きだよ」
 青年は静かに言う。
「正確には、切られなかった時間の先にいた君」

 彼は、幼い僕を見て、少しだけ表情を和らげた。

「まだ鋏を持つ前だね」

「じゃあ、君は……」

「生き延びた君。
 世界を裂かず、
 でも、何度も心を裂かれた君だ」

 幼い僕が、不安そうに僕たちを交互に見る。

「ねえ、僕……大人になれるの?」

 その問いに、僕も、青年も、すぐには答えられなかった。

 沈黙のあと、青年が言った。

「大人には、なれる」
「ただし、優しいままではいられない」

 幼い僕の目が、少しだけ曇る。

 だから、僕は言った。

「でもね」
「優しさを失わなかった時間も、確かにある」

 僕は胸に手を当てる。
 ここに残っている、かすかな温度を示すように。

「誰にも抱きしめられなかった夜も」
「理由を教えてもらえなかった朝も」
「全部、君の価値を決めるものじゃない」

 幼い僕は、唇を噛みしめて、泣くのをこらえていた。

 青年が、そっと付け足す。

「君はね、
 “選ばれなかった”んじゃない。
 “扱えなかった”だけだ」

 その言葉は、刃物みたいに正確で、
 同時に、救いでもあった。

 世界の余白が、ざわめき始める。
 時間が、戻ろうとしている。

「もう行かないと」

 僕は、幼い僕の前に膝をつく。

「これだけは、覚えておいて」

 幼い僕の目を、まっすぐ見る。

「君が感じた孤独は、本物だ」
「でも、君自身は、間違いじゃない」

 幼い僕は、小さく頷いた。

 次の瞬間、彼の姿が、紙の裏に滲むように薄れていく。

 青年が、最後に僕へ言った。

「切るな」
「繋げ。
 君は、そのためにここにいる」

 鋏が、手の中で静かに閉じた。

 世界は、まだ壊れていない。
 そして僕は、初めて知った。

 ――時間を修復する最初の一手は、
 過去を変えることじゃない。
 **過去に、言葉を渡すこと**なのだと。

 ◇

 ―――

 余白が、軋んだ。

「時間が追いついてくる」

 青年の声が低く響く。
 その瞬間、空間の端が黒く焦げたように歪み、**“敵”**が現れた。

 それは人の形をしていた。
 だが、顔がない。
 代わりに、無数の時計の針が皮膚から突き出て、ばらばらの速さで回っている。

「修復者を排除する」

 声は、複数の時刻が重なった不協和音だった。

 お父さんの言葉が、急に思い出される。
 ――後ろ。拳銃と食料と水が入ってる。

 僕は、レジ袋を掴んだ。
 中から出てきた拳銃は、軽く、冷たく、
 **おもちゃみたいに現実的**だった。

「撃つな」

 青年が言う。
「そいつは“結果”じゃない。“反映”だ」

「でも、来る」

 敵は一歩進むたびに、床の模様を変えた。
 木目が砂になり、砂が血管のように脈打つ。

 その時、気づいた。

 僕の足元に、紙と色鉛筆が落ちている。

 ――工作。

「……そうか」

 胸の奥で、何かが噛み合った。

「僕は、神なんだ」

 青年が、苦笑する。
「やっと自覚したか」

「工作すると、現実になる」
「世界に、反映される」

 だから――
 親は、僕を自由にさせなかった。
 放置じゃない。
 **管理**だ。

 ハサミ。
 テープ。
 紙。

 全部、日常に紛れさせて、
 でも、決して一人で触らせない。

「育児放棄じゃない」
「世界管理だったんだ……」

 敵が、腕を振り上げる。
 時間の針が、刃物のように伸びる。

「来るぞ!」

 僕は、紙を折った。

 雑だった。
 橋でも、星でもない。
 ただの、**箱**。

 そして、箱の中に、丸を描く。
 銃弾の形。

 現実が、震えた。

 拳銃が、手の中で**変質**する。
 弾倉に入っていた弾が、
「僕が作った“意味”」に置き換わる。

「これは殺すためじゃない」

 敵が撃ちかかってきた瞬間、僕は引き金を引いた。

 ――音はしなかった。

 弾は、敵を貫通しなかった。
 代わりに、**時間の針だけを切り落とした**。

 敵は崩れ、砂のように散る。
 残ったのは、止まった時計だけだった。

「排除、完了……できず……」

 声が消える。

 余白が、静まった。

 青年が、深く息を吐く。
「君は、神だ。でも」

「万能じゃない」

「そう。だから管理された」
「自由にしたら、世界が壊れるから」

 僕は、幼い僕の方を見る。
 もう、そこには誰もいない。
 でも、言葉だけが残っている。

 ――君は、悪くない。

「ねえ」

 僕は、誰にともなく言う。

「これからも、敵は来る?」

 青年は、頷いた。

「君が何かを作るたびに」
「君が何かを願うたびに」

 僕は、拳銃を下ろす。
 ハサミを、ポケットにしまう。

「じゃあさ」

 紙を一枚、取り出す。

「次は、**守るもの**を作る」

 青年は、初めて笑った。

「それができるなら」
「君はもう、
 管理される神じゃない」

 余白の向こうで、世界が再起動を始める。
 時計は正しい速さで動き出し、
 家は、元の形に戻っていく。

 でも、僕は知っている。

 ――世界は、もう一度、
 僕の工作机の上にある。

 そして、僕は選ぶ。

 切るか。
 撃つか。
 それとも――
 **繋ぐか。**

 ◇

 ―――

 僕は工作をやめた。
 創作も、読書も。
 ただ、どうしたらいいのか分からなかった。
 それは生きるなってことなのではないだろうか。

 何も作らなければ、世界は歪まない。
 何も考えなければ、反映も起きない。
 それが一番、安全な選択に思えた。

 だから僕は、
 白い机の前で、手を膝に置いて、
 **何もしない神**になった。

 時間は、静かだった。
 敵も現れない。
 銃も、鋏も、ただの物になった。

 でも――
 静かすぎた。

 胸の奥で、何かが干からびていく。
 作りたい、という衝動。
 知りたい、という欲望。
 誰かに伝えたい、という祈り。

 それらを全部、
「世界のため」という理由で、
 僕は殺した。

 その時、足音がした。

「……りょうた」

 顔を上げると、
 そこにお父さんとお母さんがいた。

 二人とも、老けて見えた。
 時間の裂け目を何度も縫い直した人の顔だった。

 お母さんが、ゆっくり近づく。
 昔みたいに、急がない。

「もう、大丈夫」

 その言葉に、胸がざわつく。

「嘘だ」
 僕は言った。
「僕が何か作ったら、また壊れる」
「だから、何もしないほうがいい」

 お父さんは、首を振った。

「それは違う」

「お前が怖かったんだ」
「世界じゃない。お前自身を」

 お父さんは、初めて弱い声を出した。

「お前は、作るたびに、
 自分の一部を持っていかれる」
「それを、俺たちは見てきた」

 お母さんが続ける。

「だから管理した」
「閉じ込めた」
「……愛していたから」

 僕は笑いそうになった。
 ひどく、歪んだ笑いだ。

「それで、僕は空っぽになった」

「違うよ」

 お母さんは、僕の前に膝をついた。

「空っぽになった“ふり”をしただけ」
「本当は、まだ溢れてる」

 お父さんが、机の上に何かを置いた。

 白い紙。
 鉛筆。
 ハサミでも、銃でもない。

「もう、工作じゃなくていい」
「世界を変えなくていい」

「じゃあ、何をすればいい?」

 沈黙のあと、
 お父さんは、はっきり言った。

「生きろ」

「作らなくてもいい」
「読まなくてもいい」
「ただ、息をして、腹が減ったら飯を食え」

 お母さんが、微笑む。

「それだけで、十分すぎるほど、世界は保たれる」

 僕の手が、震えた。

「でも……それって」
「神として、無能じゃない?」

 お父さんは、少し笑った。

「最高だろ」

「世界を壊さない神なんて、
 それだけで奇跡だ」

 その時、
 胸の奥で、ずっと止めていた何かが、
 **小さく、音を立てて動いた**。

 作らなくてもいい。
 でも、
 生きていい。

 それは、
 僕がずっと欲しかった許可だった。

 お母さんが、僕を抱きしめる。

「迎えに来たの」
「帰ろう」

 余白が、ゆっくり閉じていく。
 敵も、銃も、鋏も、遠ざかる。

 最後に、机の上の白い紙が、
 風で一枚、めくれた。

 そこには、
 何も描かれていなかった。

 ――それでも、
 世界は、ちゃんと続いていた。

 End

262【ゴッドエンド】

262【ゴッドエンド】

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  • ファンタジー
  • サスペンス
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-01-02

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