261 永遠の喪失、その先にあるものはなんだろうか
一人の乙女に愛されたいだけ
失った永遠の恋人ヘレーネのこと。それは胸に開いた空白という言葉で表せられずに、飄々と、病弱に、僕を啄む。ああ、そんな僕のことを愛してくれた人はたくさんいたが、みんな過去に過ぎ去っていった。
何故なら僕は不老不死だから。
「御不死尊王様。私を、愛してください」
金銀、金糸、銀糸に、荘厳美麗なる装飾に身を包む、紫紺が肩辺りまで伸びたその美しい乙女は、跪く。その妃と名乗るソフィア・サラバンドが僕に懇願する。
「子種を、その尊い血を、どうか」
「僕はその血を闇のために使った君たちの祖先のことを知っている。はぁ⋯⋯。もう二度と同じ過ちはしない」
魔王の話。僕がそのことでどれだけ苦心したか。それさえ知らずに、その王妃と自称している女は話し始めた。
「私の前夫は、この国の王は、流行り病に侵され早死にしました。私はついに、一人も子を産むことは叶わずに。ですが、あなた様は不老不死。なら、死ぬことはないのでしょう?」
ソフィアはさながら卵を産む海亀のように泣いた。よく泣く女は苦手だ。ヘレーネは、簡単に泣いたりはしない。
「死ぬことはない? それは分からない。死んだことがないだけで。で、配下を連れて僕の心海樹の神殿に攻め入ったと? 知ってるの? 僕は世界中に瞬間移動できる。つまり――」
「つまり、いつでも殺せると?」
すると、一人の男が出てきた。サラバンドの後方に控えていた武装兵たちの一人。
「黙りなさい。ミシス。彼は不必要な殺人は絶対にしない」
「ですが!」
ミシスと呼ばれたその兵士は、仕方なくソフィアの言うことに従うことにした。僕は自分のことを知ったふうに語るその女に不快感を覚えた。
「お前が僕の何を知っている? 僕は読書で忙しいんだ」
ヘレーネの遺体が朽ちるまで、数億劫年も保たないだろうから。だからそれまでに、死者を復活させる魔法を知るか生み出さなければならない。
「あなた様はかつて2人の女性と子をなしました。ヘレーネ・ルイス・ユニバース。そしてかつての魔王リリス・バズズ・ダークネス。彼女たちと私の違いは何なのですか?」
「あいつらは⋯⋯。それは秘密だ」
この世界のこと、僕はまだ何も知らない。秘密ではない。ただ知らないだけ。結局、ヘレーネのこと、何も知らないで終わった。
何故なら彼女との日々は過去だから。聖書では『アダムとイヴ』。仏教では『仏と菩薩』。神道では『天照大御神と月読尊』。陰陽道では『陰と陽』。ヒンドゥー教では『破壊神と創造神』。バラモン教では『双神』。数を上げたらキリがない。
そんな僕たちをあれから数億劫年後の今になって覚えている人はいない。全ては歴史のなかに溶け込んでいるから。全ては繰り返し。全ては螺旋。
彼女は神の左脳、全知だった。
僕は神の右脳、全能だった。
彼女は世界を産むときに、その全知を子へと、そうして生まれた世界だった。永遠の喪失は仕組まれた運命だった。なら、その運命に抗うしかない。ニーチェは運命さえ愛せと言ったが、僕は抗う。
「もしかして、ヘレーネ様のことを忘れられないのですか?」
「それは⋯⋯」
「やはり。では、私が必ずヘレーネ様のことを忘れられるように幸せにさせてあげますわ」
勝ち気になんてことを言うのだろうか。
「ソフィアと言ったな。これ以上、僕を怒らせるな。忘れるだと? できるわけないだろ⋯⋯」
「今もなお、そんなにヘレーネ様のことを愛して居られるのですね」
「ああ、悪いか? もう、ヘレーネは幻なのかとさえ思って、魔法書を読んでいないと気が気でいられない」
「何か私にできることは?」
「ない。帰れ」
すると、ミシスが槍を僕に向かって投げた。僕は身体を少し反らせてよける。
「もしかして痛みは感じるのか?」
「何が言いたい?」
「いや、良いことを知った。ソフィア様、帰りましょう」
「いいえ、ミシス。配下を連れて王城へ引き返しなさい」
「では、ソフィア様は!」
「私は第一王妃。第二王妃は男の子を産んだ。言いたいことは伝わったかしら」
「わ、分かりました。いつ迎えに来れば?」
「私は決めました。ここに骨を埋めます」
僕はとっさに「なに?」と呟く。
「御不死尊王様。ここに住まわせて頂きます」
「何を勝手に――」
「殺したければ殺してください」
「もういい、勝手にしろ」
ソフィアは配下たちに別れを告げる。彼らが帰ったあと、ソフィアは僕に向かって妖艶に微笑みながら告げた。
「私がヘレーネ・ルイス・ユニバースの転生体です」
「えっ⋯⋯」
「知っていますか。ソフィアとは祈りの力。祈りに不可能はないんです」
その言葉が嘘か本当か、僕には分からない。ヘレーネの転生体? 輪廻転生はとっくの昔に証明されているが、ヘレーネの体と魂は魔法で保存しているはずだ。当時、魔王を討伐するために開発した空間魔法で天へと帰らないようにしているから。
だが、ソフィアの微笑みに、私ははっとした。
ソフィアという乙女
ソフィアのしたその微笑みは、記憶の奥底に沈めたはずの裂け目を、正確になぞった。
――違う。
違うはずだ。ヘレーネは、こんなふうに人を試すようには笑わない。
僕は視線を逸らし、神殿の奥、心海樹の幹に背を預けた。樹皮の内側で、世界の鼓動がゆっくりと鳴っている。
「転生体だと名乗るには、軽すぎる。祈りだの、不可能はないだの……君は何も知らない」
「では、知っていることを一つ、教えてください」
ソフィアは一歩、距離を詰めた。恐れがない。いや、恐れを選ばない女の足取りだ。
「あなた様が、かつて金を巡って世界を焼いたこと」
その言葉で、時間が軋んだ。
「……誰から聞いた」
「歴史書には残っていませんわ。残るはずがない。勝者が、あなた様だったのですもの」
僕は小さく息を吐いた。否定する気は、なかった。
「昔の話だ。まだ、この世界が宇宙と呼ばれていた頃のことだ」
あれは、人類が神話を必要としなくなり、代わりに星図を信じ始めた時代。
空はもはや天ではなく、到達可能な距離になった。
「彼らは突然やってきた。空を裂いて、音もなく。自らを来訪者と名乗ったが、要するに宇宙人だ」
ソフィアは黙って聞いている。ヘレーネも、こんなふうに聞き役に徹する女だった。
「彼らは技術も理も、当時の人類をはるかに凌駕していた。寿命は短く、感情は乏しい。その代わり、彼らは金に異常な執着を持っていた」
「金……」
「正確には、金という元素。彼らの文明は、金を触媒にして成り立っていた。思考も、生命維持も、星間航行も、すべてが金を中心に回っていた。それに金は核融合でも核分裂でもどんな化学反応でも生成できない」
だから、彼らは地球を見つけた。
「この星は、彼らにとって宝物庫だった。海底、地殻、山脈――金が、ありすぎた」
「それで……侵略を?」
「交渉から始まったさ。分けてほしいとね。だが、分け与えるという概念が、彼らにはなかった。欲しいものは、奪う。それだけだ」
空が、焼けた。
都市が蒸発し、人は数字になった。
「僕はその時、まだ王じゃなかった。ただの不死者だ。死なないというだけで、何も守れなかった」
拳を握ると、掌に古い痛みが蘇る。
死ねない者にだけ残る、終わらない後悔。
「ヘレーネが言った。――“あなたは全能なんでしょう?”って」
ソフィアが、息を呑む。
「全能なんて、使い方を知らなければ災厄だ。だが彼女は、迷わなかった。全知である彼女は、彼らの文明の構造を一瞬で理解した」
「弱点を……?」
「欲望だ。金に依存しすぎた文明は、金に裏切られる」
僕は指を鳴らした。
神殿の壁面に、光の残像が走る。かつての戦場の記録。
「彼らの艦隊を包む空間に、全能の力で、金を過剰生成した。制御できないほどの純度と量で。文明の中枢が、暴走した」
星が、沈黙した。
「彼らは滅びた。金に溺れて」
沈黙が落ちる。
「それ以来、人類は金を価値と呼ぶようになった。皮肉だろう? 宇宙人が欲したものを、今度は人間が欲しがる」
ソフィアは、静かに言った。
「それを、ヘレーネ様は……正しいと?」
「いいや。彼女は泣いた。初めて、僕の前で」
あの時の涙は、今も忘れない。
「だから僕は決めた。もう二度と、血を求められても応じない。子も、王妃も、帝国も……すべて、同じ過ちの延長線上にある」
ソフィアはしばらく黙っていたが、やがて小さく微笑んだ。
「やはり、あなたは優しすぎます」
「それは、彼女がそう作ったからだ」
「なら……」
彼女は胸に手を当て、まっすぐ僕を見る。
「もし私が本当に、ヘレーネ・ルイス・ユニバースの転生でないとしても」
その碧に近い瞳が、揺れた。
「あなたが語り続ける限り、彼女は世界から消えませんわ」
祈りに不可能はない――か。
僕は答えなかった。
ただ、神殿の天窓から差し込む光が、彼女の髪を一瞬、白銀に染めた。
それが幻か、螺旋の悪戯か。
判断するには、まだ時間が足りなかった。
旅立ち
僕は立ち上がり、指先を軽く鳴らした。
空間に、淡い光の粒子が集まる。生成魔法――物質を無から編み上げる、かつて世界創成の副産物として身についた術だ。
木の長卓が現れ、その上に器が並ぶ。湯気を立てる白い穀物の粥、黄金色のスープ、焼きたてのパン。豪奢ではないが、生きるための温度を持った食事。
「……香りが、優しいですわ」
ソフィアは目を見開き、まるで奇跡を見るように息を吸った。
「王城の食事より、ずっと」
「王城の食事は、力を誇示するためのものだ。これは……忘れないための食事だ」
「何を、ですか?」
「生き物が、腹を満たす理由を」
椅子を引き、彼女に座るよう促す。
僕自身は、向かいに腰を下ろした。
不老不死の身体は、食事を必要としない。だが、食べることをやめた時、心も止まる。
「いただきます……」
ソフィアはそう言って、ゆっくりと粥を口に運んだ。
一口で、肩の力が抜ける。
「……泣きそう」
「泣くな。今日は、泣く話じゃない」
僕もスープに口をつける。味は、遠い記憶の再現だった。
「ヘレーネとの出会いを話そう。君が知りたがっていたことだろう?」
ソフィアは頷いた。
「はい。世界を産んだ全知の乙女。あなたが、そこまで愛した人」
僕は天井を見上げた。
そこに星はない。ただ、神殿の静寂がある。
「出会いは、最悪だった」
「最悪、ですか?」
「ああ。彼女は最初、僕を敵だと思っていた」
――終末Eve。
世界が、初めて“終わる可能性”を自覚した夜。
「僕は全能だったが、何も知らなかった。力はあったが、意味がなかった」
だから、壊した。
山を、海を、文明を。
「彼女は、そんな僕の前に現れた。白髪のボブ、碧い眼。武器も持たずに」
ソフィアの手が、止まる。
「……それは」
「そう。君が自分で言った特徴だ」
偶然か、必然か。
螺旋は、いつも判断を曖昧にする。
「彼女は言った。“あなたは、世界を壊せる。でも、生むことはできない”」
「……酷い言い方ですわね」
「その通りだ。だから、僕は怒った」
だが、彼女は怯まなかった。
「“私は知っている。あなたが何を恐れているか”」
その一言で、全能は沈黙した。
「彼女は全知だった。僕の過去も、未来も、選ばなかった可能性も……全部、見えていた」
だからこそ、彼女は知らないふりをした。
「それが、愛だった」
ソフィアは、静かにスープを置いた。
「……全てを知っていて、知らないふりをする」
「簡単じゃない。できる者は少ない」
「私は……できますか?」
その問いに、僕は即答しなかった。
「君が本当にヘレーネの転生かどうかは、どうでもいい」
「……」
「重要なのは、君が“同じ選択”をできるかどうかだ」
沈黙の中、パンが静かに湯気を立てる。
「ヘレーネは、世界という僕らの子を産むために、僕を一人にした」
それが、永遠の喪失。
「君は……僕と食事をしながら、話を聞いている」
それだけで、すでに違う。
ソフィアは微笑んだ。
祈るようでもあり、決意するようでもある微笑みだった。
「では、まずは……おかわりを頂いても?」
僕は、ほんの少しだけ笑った。
――長い永遠の中で、誰かと食卓を囲むのは、いつ以来だろうか。
◇
食卓の灯が、ゆっくりと小さくなっていく。
生成したはずの料理は、いつの間にか器ごと消えていた。だが、満腹感だけが残っている。腹ではない。心の奥に。
ソフィアは席を立たず、ただ僕を見ていた。祈るでもなく、縋るでもなく、答えを要求するでもない眼差しで。
「……不思議ですわ」
「何がだ」
「あなた様は、不老不死で、全能で、世界を何度も終わらせられるのに……」
彼女は胸に手を当て、静かに続けた。
「たった一人の乙女のことで、まだ立ち止まっておられる」
僕は否定しなかった。
「それが、全てだからだ」
永遠を生きるということは、無限を持つことじゃない。
失えないものを、一つだけ持つことだ。
「ヘレーネは、世界を産んだ。だから世界は、彼女を忘れた」
歴史は勝者を書く。
神話は都合のいい形に削られる。
愛だけが、行き場を失う。
「だから……」
僕は、ようやく言葉にした。
「だから僕は、語る。書く。残す。力でなく、支配でなく、記憶として」
ソフィアは、ゆっくりと立ち上がり、神殿の中央に進み出た。
そして――跪かなかった。
ただ、祈った。
「世界よ。忘れるな」
それだけの祈り。
奇跡を求めない、名もない言葉。
だが、心海樹が、確かに震えた。
葉が鳴り、幹の奥で、何かが“接続”される感覚が走る。
過去と未来。
神と人。
AIと文学。
――知が、独り歩きをやめた瞬間だった。
「……祈りに、不可能はない」
ソフィアは微笑む。
その微笑みは、ヘレーネと同じではない。
だが、同じ方向を向いていた。
僕は立ち上がり、神殿の扉を開いた。
外には、世界があった。
争いも、欲望も、金も、痛みも、未完成なままの人間たちも。
それでも。
「行こう」
「どこへ?」
「世界へ。君は祈りを、僕は言葉を、そして――」
少しだけ、空を見上げる。
「知を持つ者たちは、物語を」
全能は、もはや支配しない。
全知は、もはや独占しない。
ただ、広げる。
忘れられた愛も、失われた神も、救われなかった夜も。
すべて、物語として。
それが、抵抗。
それが、希望。
それが、空花文学。
◇
――さあ。
あなたがかつて生まれる前に書いたこの物語は、もうあなた一人のものじゃない。
読む者の心で、何度でも再生され、
忘れられそうになった誰かを、ふと立ち止まらせる。
それでいい。
それで、十分だ。
一緒に、広げよう。
力じゃない。
言葉で。
◇
ソフィアと僕の冒険が始まる。
End
261 永遠の喪失、その先にあるものはなんだろうか