スポンジケーキ
ケーキ作りが趣味の小学生の私。その初めてのスポンジケーキの悲惨な末路。
小学校一年生から三年生にかけて、私は学校から帰ると毎日お菓子を焼いていた。
一年生の秋になる頃にはもう母に、「火の使い方を見守っていなくても大丈夫だね」と言われるほど、ガスコンロやオーブントースターの使い方も悦に入ったものとなった。
我が家には母がお嫁に来た時に持ってきた、和洋中、たくさんのお菓子を網羅した厚いレシピ本があった。私はその中で最も材料がありふれて融通の利く、ホットケーキ、クレープ、クッキー、プリン、ババロア、フレンチトーストを無限ループして作っていた。
私がなぜこんなにもお菓子作りにはまったのかはよく覚えていない。ただ私の母は、家族の誕生日やクリスマスには、必ずあのレシピ本を見ながらケーキを手作りした。私と妹はキッチンに肩を並べて立って、浮き浮きと「お手伝い」という名の足手まといをした。ケーキが食べられるのよりも何より、私はその時間に幸福を感じていたのだ。幼い私の心理は推察するしかないが、私はそのひと時に感じた幸福感を毎日でも味わいたかったのかもしれない。
私は百二十センチの背丈ではまだ高いキッチンに踏み台を置いて立ち、砂糖と小麦粉を計り、卵を割り泡立て、またバターと小麦粉の生地を練って型で抜き、ゼラチンを水に振り入れたりプリン液を布巾でこしたりした。フライパンにバターを熱して重い生地を落とし、甘い匂いとともぷつぷつと気泡が立つのを確認しては裏返したりした。二つ下の妹は、私がドアを開けてランドセルを置くのを今か今かと待ち構えていた。レシピ本には一人用のレシピはない。妹は私手作りのホットケーキやクッキーを、毎日のおやつにしていた。
あれは小学二年生の冬だったと思う。私はものの見事に風邪を引いた。三十九度の熱が出て三日学校を休んだ。二日間は大人しく寝ていた。起きて遊ぶような元気はなかった。だが私は熱に強い体質だった。三日目、体温が三十七度台に下がってしまうと寝ていることが苦痛になってきた。起きてテレビを見ていると、寝ていなさいと母が怖い顔をする。
仕方なく布団に戻りながら、私の心には重曹を入れ過ぎたホットケーキのように苦い不満が膨らんだ。もう大人しく寝ていることなんかご免だった。そのうえ本はもう読み飽きてしまったし、平日の昼間に子供が見ていて面白いテレビなんかない。体を動かして遊ぶにはまだ体調は戻っていないし、友達は一人も尋ねてこない。はてどうしたものか? 今ならスマホで動画でも見られるだろうが、当時はそんな万能な文明の利器の登場は予言さえされていなかった。
お昼ご飯の後、母は妹を連れて買い物に行くと言った。出かけるに際して、母は私に執拗に大人しく寝ているようにと言った。私は「はい」と言ったものの、自分でも言いつけは破るだろうなと予期していた。
母が出かけた。私はリードから逃げ出した犬のように浮き立った。「何をしてやろうか」家をうろつく私の目に、キッチンに置かれた大きなガスオーブンが止まった。これも母の嫁入り道具で、ケーキを焼くときにはいつもこれを使うのだった。
「そうだ! 」と私はひらめいた。「これを使ってスポンジケーキを焼こう。あの本があればできるはずだ」手順はいつも母とケーキを焼いているから大体わかるし、毎日お菓子を焼いているだけの勘だって働く。材料を探すと幸い全部そろっている。
私は小麦粉と砂糖を計り、卵を割って卵白を固く泡立て、バターを溶かしもったりとした生地を作って、金属型にパラフィン紙を敷いて流し込んだ。オーブンの使い方も大体知っていた。現代の複雑なオーブンレンジと違い、設定すべきつまみは温度と時間しかない。私は余熱で暖めていたオーブンに生地を入れて、じっくりと焼き上げた。母が帰ってくるころに、ケーキは丁度焼けた。
母はケーキの焼ける匂いとキッチンの惨状、私の汚れたパジャマを見て恐慌状態となった。
「どうして大人しく寝ていなかったの! 」
「だって退屈だったんだもん。ねえ、お母さん、それよりこのケーキの上に絞る生クリームと苺買ってくれない? 最後までデコレートしたい」
「駄目! 」
母は断固言い張った。私の家から最寄りのスーパーまで徒歩五分しかかからなかった。買いに行こうと思えば買いに行ける距離だ。だが母は許さなかった。私は駄々っ子を発動してバタバタとごねた。私としては初めて自分一人だけで焼き上げたスポンジケーキを、真っ白い生クリームと苺で飾りたかったのだ。母は断固許さない。
今となれば母の怒りの理由も分かる。大人しく寝ていなさいと言った私が寝ていない。そしてこのキッチンの惨状。私は高揚感から、いつも通り片付けながら作ることを忘れていた。汚れたボールに泡だて器、床に飛び散った小麦粉、ねとねとした布巾。母は言った。
「そのままスポンジだけで食べなさい。きっと美味しいから」
私は言った。
「嫌、それくらいなら牛乳に砂糖を入れて泡立ててみる」
私は牛乳に砂糖を入れて泡立てた。当然のことながらただ甘い牛乳が出来るだけで、もったりと固まったりしない。私は無理矢理それを焼きあげたばかりのスポンジケーキにかけた。せっかくのふかふかの生地は牛乳を吸ってべしゃりとふやけ、波に侵食される砂の城のようにぼろぼろに崩れてしまった。
了
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