260『私情と刑事のパラドックス』

 若手刑事の相馬(そうま)廉は、捜査会議の席でいつも一番端に座っている。
 理由は単純だ。感情を顔に出さないためだった。

「刑事は事実だけを追えばいい。私情は判断を鈍らせる」

 警察学校で教わったその言葉を、彼は誰よりも忠実に守っていた。
 遺族の涙にも、容疑者の怒号にも、相馬は距離を取る。優しさも怒りも、すべて均等に切り離す。それが“正しい刑事”だと信じていた。

 一方、彼のバディである古賀(こが)刑事は真逆だった。

「最初だけは、私情を挟むんだよ」

 初めて組んだ日に、古賀はそう言って笑った。
 五十代半ば。くたびれたスーツ、少し曲がった背中。だが、現場に立つときの眼差しは鋭く、どこか哀しみを湛えていた。

「感情はな、入口に使うもんだ。途中からは捨てる」

「それは矛盾しています」

 相馬が即座に指摘すると、古賀は肩をすくめた。

「人生はだいたい矛盾だろ」

 今回の事件は、川沿いのアパートで起きた殺人だった。
 被害者は三十代女性。首を絞められた痕跡。争った形跡はほとんどない。

 相馬は淡々と現場を確認し、事実を積み上げていく。
 玄関に靴は一足。窓は内側から施錠。侵入の痕跡なし。

「顔見知りの犯行ですね」

「だろうな」

 古賀は被害者の写真立てを手に取り、しばらく見つめていた。そこには、小学生くらいの少女と並んで写る被害者の姿があった。

「娘か?」

「ええ。現在は施設にいるそうです」

 相馬は資料から目を離さず答えた。
 母子家庭。生活保護。近隣とのトラブルはなし。

「かわいそうに」

 古賀がぽつりと呟いた。
 相馬はその言葉を聞き流した。かわいそう、という感情は、捜査に不要だ。

 数日後、容疑者として浮上したのは元交際相手の男だった。
 暴力の前科あり。被害者と別れたあとも、しつこく連絡を取っていた。

「状況証拠は十分です」

 相馬は自信をもって言った。

「だが、決定打がない」

 古賀は首を振る。
 男は犯行時間のアリバイを主張していた。曖昧だが、完全には崩せない。

 その夜、古賀は一人で被害者の娘がいる施設を訪れた。
 相馬はそれを知り、強く反対した。

「関係ありません。無駄です」

「いや、ある」

 古賀は譲らなかった。

 翌日、古賀は一枚の紙を相馬に渡した。
 それは、少女が描いた絵だった。

 母と、知らない男。
 男の影は、ひどく歪んでいた。

「この子、事件の前夜に母親から電話を受けてる」

「……だから何ですか」

「母親は言ったそうだ。『大丈夫。今度こそ、ちゃんと話をつける』って」

 相馬は沈黙した。
 その言葉は、事実だ。だが感情に寄り添えば、判断を誤る。

「私情ですね」

「最初だけだ」

 古賀は静かに言った。

 その後、再捜査で明らかになったのは、アパートの隣人の存在だった。
 無口で目立たない男。事件当夜、物音を聞いていたが通報していなかった。

 再聴取で、男は崩れた。
 被害者に一方的な好意を抱き、拒絶された末の犯行だった。

 元交際相手は無実だった。

 事件が解決した夜、相馬は古賀に問いかけた。

「なぜ、あの子に会いに行ったんですか」

 古賀は少し考えてから答えた。

「昔、似た事件を担当した。
 俺は事実だけを追って、被害者の子どもを見なかった。
 あの子は、誰にも気づかれず、壊れた」

 古賀は笑った。
 後悔を隠すような、弱い笑みだった。

「だから最初だけ、私情を挟む。
 人が壊れた理由を、見失わないためにな」

 相馬は何も言えなかった。

 帰り際、相馬はふと足を止めた。

「……次の事件でも、あなたは私情を挟みますか」

「さあな」

 古賀は夜空を見上げた。

「だが途中からは、ちゃんと捨てるさ」

 相馬は初めて、その言葉に納得した気がした。
 事実だけでは、人は救えないこともある。

 刑事は、感情を持たない機械ではない。
 だが、感情に溺れる存在でもあってはならない。

 その狭間に立つこと。
 それが、刑事という仕事なのだと。

 相馬は、少しだけ端の席から中央へと椅子を引いた。

260『私情と刑事のパラドックス』

260『私情と刑事のパラドックス』

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-31

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