無題

 先に載せた文章は自分でもさすがにきついなと思い、消しました。自分が本当に抱えているもの、見たくても見たくないものにはなかなか踏み込めないと思いました。少しずつ言葉にしていくしかないと思っています。私はかんちがいとうぬぼれが強くて、社会になじめない痛々しいおっさんです。

 賢くて優しくて傷つきやすいことが美徳とされる時代のようです。結局、誰も責任を背負いたがらなくなって崩壊していくのだと思います。お前もその流れを促進しているその一人じゃないかと言われると、そうなのです。LGBTとかADHDとかASDとか、そういう類のものからは距離を置きたいなと思っているところがあります。自分自身、おそらくそういう性質をかなり持っているし、そういう輪の中に入っていった方が生きやすいのでしょうが、そっちには行きたくないと思っています。かといって、通常の社会になじめるかと言えば、難しいのです。とはいえ、社会に適応できないことを自慢げに言う側にまわりたくもありません。私の言っていることは暴論でしょうし、お前が育ちがいいからだとか、本当の苦しみを知らないからだとか、そういう反論は想像できますし、それは正しいのでしょう。

 自分なりに抗いたいと思っているところはあります。何に抗っているのか、自分でもよくわかっていないのですが。行きつく先は全体主義しかないのではないかと、やはり思っています。教育制度が崩壊していっているようですし、行くとこまで行くしかないのかなと思ったりしています。あと五年もすれば、社会の雰囲気はかなり変わっている気がします。経済的に貧しくなっていくのでしょう。自分は社会が暗くなっていくのを冷めた目で眺める側にもまわりたくないと思っています。自分の中で、仏教への不信感は強くなりました。

 我慢とか忍耐とか、そういう言葉は前時代的なものであり、自分の好きなことをやるのがすばらしい時代になったようです。多分続かないと思います。自分自身労働に耐えられなくなって逃げだして今は実家に帰ってぬくぬくしてるくせに偉そうに言うなと言われるとそうなのですが、それでもあの病んでる人たちの中に入っていきたくもないのです。どこもかしこも社会化していっている気がします。

 昔の作家は、自分が書いているものはくだらないという自覚があったのだと思います。結局、どれだけ必死に書いたところで、市井の人たちの方が目上だという意識がどこかにあったように思います(読み返してみてやっぱり違うかなと思いましたが、載せておきます)。文章など書いて生計を立てていることに対して後ろめたさや疚しさのようなものがあったと思います。今の作家は、そんなものは持っていなくて、自分の書いたものが世間にとどくことを願っており、毅然とした態度で書くことにのぞんでいるように見えます。近代文学の精神はリベラリズムとは相性が悪く、むしろナショナリズムの方がいいのではないかと自分は思っています。それはお前のかんちがいであり、文学が読めていないのだと言われれば、まあそうなのかもしれません。文学を読むほどに、人に優しくなれるというのも、どこか疑わしい。文学などに手をだすと、よけいに性格も底意地も悪くなっていくのかもしれません。

 結局、責任を背負うということは、呪いを背負うということなのかもしれません。私は責任から逃げまわっています。少しずつ社会の底が抜けていくのだと思います。徐々に水位が上がっていっているのでしょう。疲れたので、うまくたちまわって自分だけ難から逃れたいと思っているところもありますが、どこかでそう思っている自分に後ろめたさを持っていたりします。

無題

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-30

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