ツバメの子

「君、名前は?」
「……ロンディネ」
「そう。おいで、ロンディネ」
 
 あんたは化粧しないくらいが逆に良いのよ。と姐さんに言われたのを思い出す。私の爪に紅を塗りながらそう言った姐さんは、あんたは顔は良いんだから賢くなりなとも言った。そうすれば上手くいけば幸せになれるんだから、とも付け加えて。
 
 私は、姐さんの妹分としてある軍人さんのお世話になっていた。そこである程度の詩とか歌とか、表情とか頬の赤らめとか、姐さんの言う"賢くなる"方法を身につけながら、たまに彼に砂糖菓子や装飾品をもらったりしていた。
 でも、その人が最近戦場で亡くなって、美人で賢い姐さんは他の人の"お嫁さん"になるというとんでもない出世をしたけれど、一気に後ろ盾をなくした私は、姐さんの足手まといにならないために姐さんから離れて軍の『踊り子』になった。
 二日に一晩くらいの割合で私は軍人さんたちの夜の相手をする。その中の、さらにそこそこ偉い軍人さんの相手をするのは楽しい。彼らは私の知らないことを知っていて、自慢げにそれを話してくれるから、私は相槌をうつだけでもなかなかに良い時間を過ごせる。楽しい人と楽しくない人のどこが違うのだろう。性交も嫌いではないけど、会話の方が好き。
 こういうことをする女は勉強に勉強を重ねて、綺麗な娼館に身を置いて、ゆくゆくは軍人さんの奥さんになることがステータスになるのだろうけれど、私にはどこか遠いことのような気がして、気がつけば十五歳になっていた。数を数えられない女よりマシだけど、もう十分大人だ。姐さんのように、手早く身の振り方を決めないといけない気がする。
 
 そんな私の今晩の相手は、なんとも不思議な人だった。
「君、詩が謡えるんだってね」
「少しだけです」
「僕はできないよ。センスが無くて」
「あ、ええと……その、ごめんなさい」
「気にしないで」
 ふっと笑ったその人は、巻き毛の黒髪に鳶色の瞳を持っていた。色はどこにでもあるような色なのに、やわい灯りにゆらめいて不思議な感じに染まっていた。……上手く言えない。とにかく、美しい軍人さんだった。こんな人もいるんだ、と思いながら、私は軍人さんの隣に座った。
 
  彼は私の手を取らなかった。ただ、卓上の酒杯を指で弾いて、澄んだ音を立てただけだった。
「謡ってほしい。戦場に持っていけるものが、僕にはそれくらいしかないんだ」
 歌、と聞いて、胸の奥がひくりとした。夜のための声ではない歌を、私はどれくらい忘れていただろう。姐さんに仕込まれたのは、甘く震える息や、意味のない言葉を包む声色だった。けれど彼は、値踏みするような目をしなかった。
「……何の歌を」
「ツバメの歌がいい。君の名前、ロンディネだろ。飛ぶ鳥の名だ」
 私は驚いて瞬いた。そんな由来を知る人は少ない。母がつけた名前で、彼女はツバメは帰ってくる鳥だと言っていた。どんなに遠くへ行っても、巣に戻る。だから大丈夫、と。
 私は息を整え、短い古い詩を選んだ。春の終わり、瓦の軒に巣をかけるツバメの話。嵐にさらわれ、花畑に落ちる小さな羽の話。声は最初、少し震えたけれど、次第に灯りに溶けていった。

 歌い終えると、彼はしばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。

「……僕は、王国を持ちたい」
 唐突な告白だった。いったい何を言い出すのだろう。でも、笑っていいのか分からず、私は黙って続きを待った。
「生まれは貧民街だ。母は娼婦で、名前も知らない父の影だけがあった。だから、誰にも踏みにじられない場所が欲しい。剣で、秩序で、旗で……それが叶わなくても、夢を見ることだけは奪われたくない」
 彼の瞳が、灯りの中で深く揺れた。鳶色が、まるで土に根を張る花の色みたいに明るく。
「花は、アネモネが好きだ。風の子だろ。倒れても、また咲く」
 私はその名を反芻した。アネモネ。風。ツバメ。帰る場所。
 気づけば、私は彼に自分のことを話していた。姐さんのこと、踊り子になったこと、数えきれない夜のことではなく、砂糖菓子を初めてもらった日の甘さや、読み書きを覚えたときの誇らしさを。
「君は、賢いよ」
「……そう言われるの、久しぶりです」
「賢さは奪われない。翼みたいなものだ」
 その夜、彼は私に触れなかった。代わりに、乾いた花を一輪、外套の内から取り出して、卓に置いた。赤く、紙のように薄い花弁のアネモネだった。
「戻ってきたら、また歌ってほしい」
 約束は、戦場では簡単に折れる。それでも私は、花を胸にしまい、頷いた。
 ツバメは飛ぶ。嵐を越える。巣が壊れても、また作る。

 外へ出ると、夜明け前の空に、黒い影がひとつ切り取られていた。早い帰還の鳥。私はその影を目で追いながら、歌の続きを胸の中で繰り返した。いつか戻るための歌を。

ツバメの子

ツバメの子

合同創作『白愛の帝国』外伝 アモールと従軍娼婦の少女のある夜の話

  • 小説
  • 掌編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-29

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