ゆーえんみー 3話前編
銀の少年 前編
遠い遠い、またあの夢。どこに立っているかもわからない暗闇の中で、ぽつんと泣いているあの子の夢。
真っ暗で何もかもわからないのに、その子が泣いているのはわかる。すすり泣く声だけが聞こえる。
ねえ、あなた誰? どうして泣いているの?
あたしは、あたしは、今回は歩みを進めることができた。一歩一歩、歩いて、早歩きになって、走って。その子の肩に手を触れる。ああ、やっと触れられた。今までは触れられなかったのに。けれど、視界に靄がかかっていく。夢が終わってしまう。あたしもうすぐ目が覚めるんだ。待って、その前に、この子が誰なのかだけ───
「ねえ、」
声をかける。その子はゆっくりと振り返る。ようやく───『彼』の、顔がわかった。癖毛の銀の髪。目尻に何度も擦った痕がある碧い目。
あたしを見てぼろぼろと涙をこぼす彼は、ユウだった。
「……ユウ?」
朝の日差しに白んで曖昧になっていく暗闇の中、あたしは彼の名前を呼ぶ。すると、ユウはあたしをぎゅっと抱きしめた。強く強く、夢の中なのに、ユウの体温を感じる。どこか低い、けれど確かにそこにある、彼の体温。
「必ず、君を守ってみせるから」
ユウはあたしの耳元でそう囁いた。
何を、言っているのだろう。あたし、何かした? それともユウが、何かした?
───このおかしな世界が、何かした?
「なに、言ってるの」
「ミー、何度繰り返しても」
「ちょっと待ってよ、ユウ……!」
しゃくりあげながらあたしに語りかけるユウとは、会話にならない。夢だからだろうか。あたしの、夢。本当に、夢? 涙を拭ってあげたいとずっと思っていたのに、抱きしめられて、ユウがどんな表情をしているのかもわからない。でも、離してなんて言えない。
こんなはずでは、なかったのに。
……ユウ。
「……夢」
目が覚めた。好きな人に抱きしめられていたのに、未だかつてないほど、嫌な夢だった。
夏、夏。夏祭り。
ユウから、夏祭りの誘いが来た。
この前の図書館デート……デートではない! ……から、数日が過ぎ、夏休みも残り半分となった。その間、あたしたちはなんとなく駅前の喫茶店に行ったり、本屋に行ったり、どこにも行かずメッセージアプリだけで会話をしたり。そんな、なんでもない日々を過ごしていた。ら、これである。
完全にデートでしょ! もう!
あたしが既読をつけたまま返信をせずに足をじたじたとしていると、ぽんとユウからまたメッセージ。
『嫌だった?』
「いやなわけないでしょ!」
なんて、声に出したって画面の向こうのユウには届かない。あたしは慌てて返信をする。よ、ろ、こん。で、! ───居酒屋みたいな返事をしちゃった。居酒屋行ったことないけど。
そういえば、去年は友達と行った気がする。洋服で行ったっけ? それとも浴衣だったっけ。去年のことなのに、ぼんやりしていてあまり覚えていない。まるで今年から夏というものが始まったようだ。もしかして、これも世界がおかしいから? ただ単にあたしがボケてるだけかもしれない。
『去年の夏祭りのこと、あまり覚えてないんだよね。夏祭りなんて記憶に残りまくるのに。ユウはそういうのない?』
『僕も去年のことなんてもう覚えてないよ』
『そっか』
「やーっぱり?」
もう一度、ひとりごと。
あたしたちがド忘れしているのか、世界がおかしいからあたしたちの記憶もおかしくなっているのか、それはもうわからない。
それにしても、思い出すのはあの夢のこと。あたしは、このままでいいのだろうか。夢の中のユウは泣いていた。ユウはいつだってあたしのそばにいて、あたしを安心させてくれる。なら、あたしはユウに何ができるだろう。出会った時のユウのように、手を引いて、大丈夫だよと言ってあげられるだろうか。
……泣いている時に、涙を拭ってあげられるだろうか。
「……浴衣、お母さん捨ててないかな」
うん、浴衣で行こう。気合いを入れて。喜んでくれるかわからないけど。でも、これはあたしの自己満足。図書館での勉強会のBLTサンドと同じで、あたしがユウにしたいこと。───それくらいしか、ユウにあたしの特別な気持ちを見せてあげられない。
階段を駆け下りて、居間のタンスを漁る。引き出しの奥からビニール袋に包まれた白色の布が出てきた。朝顔柄の浴衣。小学生の頃に母と一緒に選んだやつだ。
「……あった」
ほっと胸を撫で下ろしていると、背中から声が飛んできた。
「なにやってんの、ミー」
母が買い物袋を片手に立っていた。氷の入った袋から水滴がぽたぽた落ちて、夏らしい音がする。
「あ、おかえりお母さん。……浴衣。捨ててなかったんだ」
「捨てるわけないでしょ。ミーが着たいって言ったやつじゃない」
母は袋を台所に置くと、振り返ってにやりと笑った。
「……彼氏でもできた?」
「っ……!」
思わず浴衣を抱きしめる。顔が熱い。
「ち、違うし! ただ夏祭りに行くだけ!」
「へえ〜?」
母はわざとらしく声を伸ばし、冷蔵庫に牛乳をしまいながら鼻歌まじりで言った。
「中学生にもなると、浴衣着たい理由ってだいたい決まってるのよねえ」
「だから違うってば!」
母のからかいは軽くて、悪意なんてない。ふつうの家庭の、ふつうの夏休みの風景。こんなに日常がちゃんとしてるのに、どうして夢の中ではユウがあんなに泣いてるんだろう。
浴衣を膝に広げながら、あたしは考える。
ユウは、あたしに「必ず守る」って言った。泣きながら。夢の中なのに、声は震えていて、すごく真剣だった。
───ユウ、泣かないで。
守るって言うなら、守られるだけじゃなくて、あたしも何か返したい。ユウが泣かないように。笑っていられるように。
そのために、あたしは浴衣を着たいんだと思う。
おしゃれとか見せつけとかじゃなくて、ユウに「大丈夫だよ」って伝えるために。
駅から神社へ続く参道は、もう人でいっぱいだった。浴衣の子も私服の子もいて、提灯が夕暮れの空に明かりを落とす。胸がどきどきして、あたしは下駄の鼻緒を足の指でぎゅっと握った。
鳥居の下に、ユウが待っていた。白いシャツに紺のパンツという、いつものシンプルな格好。でも、それだけで大人っぽく見えて、すぐに声をかける勇気が出なくて。
「……ミー?」
ユウがこちらを振り返った瞬間、目を見開いた。
その表情に、あたしの心臓が一気に跳ね上がる。
「浴衣……初めて見る」
ぽつりと呟いたその声は、どこか震えていた。あたしは慌てて裾を押さえる。
「へ、変じゃない? 久しぶりに着たから……」
「……変じゃない。すごく、似合ってる」
ユウはわずかに目を伏せて笑った。その笑顔に、胸の奥がじんと熱くなる。
「あ、りがと。……でも、あたしの浴衣見るのそりゃ初めてでしょ」
ついツンとした言葉をかけてしまった。照れ隠し……。ユウはあたしの言葉を聞いて、ゆるりと目を細めた。
「うん、初めて」
その顔がなんだか泣きそうな顔に見えて、あたしは慌てて言葉を紡ぐ。
「ち、ちょっと何その顔! ……ほら、行こ?」
「……うん。手、繋ごうか」
「手!?」
「いや?」
「いやじゃない、けど……そうだよね、はぐれたらアレだもんね」
「そう、アレ」
「真似しないの!」
「ふふ」
───よかった。ユウ、笑ってる。
悪い夢なんて、そうそう正夢になったりなんてしない。あたしは、ユウに笑っていてほしい。手と手が繋がり、一歩歩き出す。今日のユウの手は、少し温かかった。
「焼きそば食べよっか」
屋台を見回して言うと、ユウがすぐ頷いた。けれどあたしは一歩引く。
「……あ、でもやっぱりダメ。焼きそばって、歯に青のり付くし……」
口を尖らせて小声で言ったら、ユウがふふっと笑った。
「そんなの気にするの、ミーくらいだよ」
「だって恥ずかしいでしょ!」
「じゃあ僕もわざとつけるから」
「やめてよ!」
結局買って、笑いながら二人で焼きそばを分け合う。ソースの匂いが、夏の空気に混じった。
次は金魚掬い。あたしもユウも、ポイを水に入れた瞬間に紙が破けてしまった。
「え、もう破れた!?」
「僕も」
二人で顔を見合わせて、大笑いする。周りの子どもたちは上手にすくっているのに、なんで自分たちだけ……と思うと、それもまた可笑しくて。
結局、すくえなかったけど、店主のおじさんが小さな袋に一匹ずつ入れてくれた。
「おまけだよ」
「あ、ありがとうございます!」
並んで袋を揺らして歩く。金魚は赤く、ちいさく揺れて、提灯の灯りを映していた。
人混みを抜けながら、ユウがふと空を見上げる。黒い夜の空。ユウのメッセージアプリのアイコンの色。……多分、ひび割れていない空の色。
「……もうすぐ花火だね」
「うん」
その言葉に、あたしの胸がまた高鳴る。
二人で並んで、花火の見える場所を探して歩き出す。
あたしの知らないところで、世界は少しずつ変わっている。けれど今はただ、ユウの隣にいられるだけで嬉しかった。
ゆーえんみー 3話前編